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カテゴリー「教育」の3939件の記事

SDGs(持続可能な開発目標)の時代の2年目に当たり

 ESD(持続可能な開発のための教育)=イーエスディーはまだ言いやすかったのですが,
 
 SDGsはちょっと日本語でイメージが持ちにくい略語になってしまいました。

 昨日の予算委員会の中でもふれられていたので,あれっ?何のことだろう?思った人が多かったかもしれません。

 SDGsは,2000年に採択された国連のMDGs(ミレニアム開発目標)が2015年に終了するのに伴い,昨年=2016年からの開発目標を定めたもので,以下の17の目標が示されています。

 17という数字も覚えるにしてはちょっと多すぎる感じですね。

 日本の立場で言えば,途上国への支援と同時に,国内でも解決・対応すべき問題に取り組むことが求められます。グローバルな視点から,どのような行動・社会貢献ができるのか,教育現場でも教えていく(考えさせていく)ことを安倍総理が名言しました。

 ちょっと重荷になりかねない雰囲気もありますが,実はすでに教育内容に含まれているものもありますし,時流に乗っているものもあり,「心に訴える」ことも容易にできるものばかりなので,通年目標・月間目標などを定めて,「行動の記録」をつくらせていくことも不可能ではありません。

目標1 貧困をなくそう
あらゆる場所のあらゆるかたちの貧困を終わらせる

目標2 飢餓をゼロに
飢餓を終わらせ、栄養を改善し、持続可能な農業をすすめる

目標3 すべての人に健康と福祉を
あらゆる年齢の全ての人の健康な生活を確保し、福祉を推進する

目標4 質の高い教育をみんなに
全ての人への衡平な質の高い教育と生涯学習の機会を提供する

目標5 ジェンダー平等を実現しよう
世界中で女性と少女が力をつけ、ジェンダー平等を実現する

目標6 安全な水とトイレを世界中に
全ての人に持続可能な水の使用と衛生設備(トイレ、下水道など)を保障する

目標7 エネルギーをみんなに そしてクリーンに
全ての人が、安くて安定的に発電してくれる、持続可能なエネルギー(太陽光、風力などの再生可能エネルギー)が使えるようにする

目標8 働きがいも 経済成長も
みんなが参加できる持続可能な経済成長を促進し、全ての人が職をもち、働きがいのある人間らしい仕事ができるようにする
           
目標9 産業と技術革新の基盤をつくろう
災害に強いインフラをつくり、みんなが参加できる持続可能な産業化を進め、新しい技術を生み出しやすくする

目標10 人や国の不平等をなくそう
国内及び国家間の格差と不平等を減少させる

目標11 住み続けられるまちづくりを
まちや人びとが住んでいるところを、だれもが受け入れられ、安全で、災害に強く、持続可能な場所にする

目標12 つくる責任 使う責任
生産と消費のパターンを持続可能なものにすることを促進する

目標13 気候変動に具体的な対策を
気候変動とその影響を軽減するための緊急対策を講じる

目標14 海の豊かさを守ろう
海と海洋資源を守り、持続可能な利用を促進する

目標15 陸の豊かさも守ろう
陸の生態系を保護し、持続可能な利用を促進し、森林の持続可能な管理、砂漠化への対処、土地の劣化、生物多様性の喪失を止める

目標16 平和と公正をすべての人に
平和的で、誰一人のけ者にされない社会と、すべての人が法律に基づいた手続きをとれるようにする。あらゆるレベルで効率的で説明責任ある能力の高い行政を実現する

目標17 パートナーシップで目標を達成しよう
目標達成のために必要な行動を強化し、持続可能な開発に向けて世界の国々が協力する


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すぐに嘘がつける子どもの言い逃れの仕方

 嘘をつくことが習慣になっている子どもに1年か2年おきくらいに必ず出会う。

 空気を吸ったりはいたりするのと同じくらい自然に嘘がつける。

 嘘というのは,自分がやったことを「やっていない」と言うだけではなく,

 ほぼ同時に「やっていない」ことをやったと言うことが多い。

 教師である私が直接見ていたその場のことであるにもかかわらず,

 すぐに見破られる嘘がつける子どもとは,どのように育ってきたのか。

 これから,どのような大人になっていくのか。

 大人になった見本が,その子どもの親だった,という経験もある。

 一体全体,家族でどんな「だましあい」をしてきたのだろう。

 こういう人たちの「言い逃れ」の方法は,他者への攻撃に尽きる。

 それも,相当の激しさをもって攻撃してくるので,気の弱いセンセイだと問題の本質を見誤ってしまう。

 そこが狙い目だということを知っておくべきだろう。
 

 時の人となった「K氏」は,すぐにばれる自己の経歴を偽った報告をしていたことがわかっている。

 大学にしろ,就職先にしろ,小学校経験34年(?)にしろ,バレたあとのことを考えずにその場の思いつきで書いてしまう人はいるものだ。

 職員になることを断った人物の名前を名簿に載せていたこともわかっている。

 野党の代表質問に立った人が,「証人喚問での発言は重い」と語っていたが,

 私は偽証罪以上の重い罪を背負う可能性のある人には該当しない指摘だと感じた。

 私の目は別に精密な嘘発見器ではないのだが,

 嘘を平気でつく人の態度は,肌感覚でわかってしまう。

 幼稚園児を本気で「犬臭い」「おぞましい」と罵ることができる神経が,「教育者」にふさわしいものかどうかなど,「街の声」を聞くまでもないだろう。「おぞましい」のはどちらなのか・・・・。

 このK氏そっくりのD氏というのがこのブログ村に生息している。

 「しょうさん」という良識あるブロガーがあまりにひどい記事をたしなめてくださっているが,

 D氏の返答は,「あいつの方がひどい」というのだから,まさにK氏と瓜二つである。

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「入試問題が変わる」という安直な発想

 「入試が変わるから学校での学習が変わる」などと安易に語っているのは,おそらく「学習の質を変える」ほどのインパクトのある試験問題をつくったことのない人たちだろう。

 採点基準を厳格に定めなければならない入学者選抜試験では,想定外の正解が出てこないような出題に限られてしまう。

 私が学校の定期考査で行っているように,生徒の答案を集めて全部読んでから,採点基準を決めるようなテストは入試では実施できない。

 私の場合は,解説の時間に生徒の意見を聞き,採点基準を改める場合すらある。そのために,返却する答案はすべてコピーをとっておき,得点が変わった場合は,該当するすべての生徒に説明するとともに,なぜどのような答えの得点が変わったか,具体例を示すプリントを配布している。
 
 制限時間が決まっているテストでは,自分の言いたいこと,考えていたことをすべて答案に書き尽くすことができない生徒もいる。そういう生徒から,レポートを提出させて,評価に加味する場合もある。

 「テストの点数絶対主義」を排除できるこうした学校現場での定期考査と,入学試験とは全く質が異なるものである。

 「知識がいらない」ような問題では,そもそも学校の授業を真面目に受ける意味もないと考えてしまう生徒が出てきてしまうから,当然,良質な知識を活用して,与えられた資料から必要な情報を取り出しながら思考し,表現させるような問題をつくることになる。

 しかし,「良質な知識」とはあくまでも教科書に取り上げられているような内容に限られてくるから,やはり教科書の内容はしっかりと理解しなければならない。

 だから,どんな対話的な授業をしようが,理解していなければ意味がないことに変わりはなく,多くの教師は教科書が網羅できるような授業を行い続けることになるだろう。

 では,「主体的・対話的で深い学び」を行うことは,不可能なのか?

 そんなことはない。全国各地から,「工夫された定期考査問題例」を集めてみて,精選した問題を公開してみたらどうか。

 「良質な問題」とはどういうものか,その定義を対話的に考えてみたらどうか。

 「この問題は,教科書を読まずに,授業も受けずに答えられてしまうからまずい」とか,

 「この問題は,結局この知識だけがあれば解けてしまうので,まずい」など,ありとあらゆる批判を集めて,「良問」をつくるコツを磨いていける場をつくってみたらどうか。

 すでに初めている自治体があれば,素晴しい。

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嘘がつけない人の言い逃れの仕方

 今まで何百人の子どもの生活指導をしてきただろう。
 
 重たい問題でも100人を超えている。

 こういう子どもを相手にし続けていると,嘘をついているかどうか,たいていは見破れるようになってくる。

 中には嘘なのだが真実っぽい話をする子どももいて,逆にバレやすかったりもする。

 問題行動を繰り返す子どもの中には,親の教育のおかげか,本人の性格かはわからないが,嘘がつけない子どももいる。

 こういう子どもの共通点は,「僕はやっていません」とは絶対に言わないことである。

 「やったのはあなたですか」という質問に,「はい」「いいえ」では答えない。

 「だれかの妄想だ」

 「証拠はないはずだ」

 「ぼくがやったと言っているやつは嘘つきだ」

 これですでにバレている。


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「聖徳太子」を「厩戸王」と呼ばせない圧力の正体

 社会科教育というジャンルがあるが,ここでご活躍のセンセイ方の中には,政治学や経済学,地理学や歴史学といった「学問」へのアンテナが高くはない方もいらっしゃるが,さすがに「聖徳太子」という呼称を続けていくのはまずいだろうと思っているはずである。

 「指導の継続性」という観点から言えば,大学や高校で「聖徳太子」と表現すればバカにされてしまうので,中学生だけではなく小学生にも「本来の呼称」を教えていくのが妥当だと考えられる。

 だから,次期指導要領の改訂案でもそうなっていた。

 しかし,「指導の継続性」という言葉を,「低いレベルをそのまま維持する」という発想でとらえる人たちの考えがパブリックコメントに寄せられ,文科省はそうした「わがまま」に従う意向であることが報じられている。

 私ははじめ,次期学習指導要領案に反対したのは,「厩戸王」ではなく,「厩戸皇子」と紹介していた教科書会社の人ではないかと思っていた。

 教科書会社としては,他社でしかも1社しか使われていなかった用語に統一されることは不本意であり,次の教科書採択への影響もあると感じたのではないかと。

 だが,文科省が,教科書会社の意見を聞いて,方針を変えるとは考えられない。

 さすがに教科書会社に天下りしている人はいないのではないかと思う。

 変更の理由が,「指導の継続性に問題」「子どもが混乱する」だけで通るわけがない。

 「指導の継続性」と言えば,今回の改訂の目玉は,高校段階へと発展的に成長していく資質能力像を描き出しているという特徴にある。

 だから,「小学校でこういう名前で呼んでいたから,中学校でもそのままでいく」という発想は次期指導要領にはないのである。

 最初に述べたように,「高校ではこう呼ぶのだから,小中学校でもそうする」というのが「指導の継続性」というより「指導の一貫性」が通っている姿である。

 ということは,「厩戸王という歴史学で一般的な呼称を教科書レベルでは使うことをやめる」という方向転換の理由は,「跳ね返すことができない圧力が加わったから」であると考えざるを得ない。

 ただ,こういういざこざがあったおかげで,「なぜ聖徳太子と呼ばれるようになったか」「なぜ厩戸王と呼ばせたくない人たちがいるのか」を考えさせるきっかけになる。

 これは「歴史との対話」はもちろん,「現代社会において,様々な主張をする団体がいること」を理解させることにもつながっていく。

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某芸能事務所と教育現場の共通点

 超人気グループの解散にともない,某芸能事務所では,若手人気メンバーやマネージャーの退所が相次いでいるらしい。

 このままだと,事務所には大ベテランと新人しかいなくなってしまう。

 ・・・という記事を読んで,これは今の教育現場と似ているなと思った。

 大ベテランがいるうちは,まだ「崩壊」はしないだろうが・・・。

 教育現場において,団塊の世代の大量退職のあとにひかえているのは,若手の大量採用である。

 ある自治体では,教職経験がごくわずかなセンセイがすでに職員の半分以上を占めているということである。

 今後,このような学校が増えていくのと同時に,

 「マネージャー」=教育管理職のなり手がいなくなっていく。

 私は30代半ばで指導主事に任用されてしまったが,30代半ばの管理職も今後,登場しかねない。

 日本では,指示をして部下=平教員に仕事をどんどんやらせるタイプの副校長・教頭ではなく,自分ですべて抱え込んですませてしまう人が多い。やる気はあっても,事務仕事ができない人はさすがに管理職には任用されない。事務仕事ばかりしている管理職の姿を見て,ますます多くの平教員は平教員のままで終わりたくなってしまう。

 私は別に,30代半ばの管理職がいけないと言っているわけではない。

 ただ,私が最も大切だと考えている「教員の育成」ができる管理職がどんどん減っていってしまうことを危惧している。

 能力がある人は,縛りがきつい公教育の現場から去って行ってしまうかもしれない。

 タレントを育ててきたマネージャーと同じように酷使されている教師たちにとっての生きがいとは何だろう。

 自分の仕事のあとを継げる人を育てる力が失われた組織の先行きはどうなるのだろうか。


 芸能事務所に所属しているタレントが「人気」を保つ上で,「悪いイメージ」「黒いイメージ」は致命的な問題になるのだろうが,

 公立学校というところは,今日も多摩地域の小学校教諭が女子児童に対する強制わいせつの容疑で逮捕されていたことが報道されたように,とにかくイメージはもともと最悪の場所である。

 それでも,「そこに通うしかない」「そこに通わせることを行政に指示される」子どもや親にとっては,頼りにせざるを得ないのがセンセイである。

 自分の子どもが「頭が悪い」とレッテルを貼られ,地域の関係者に顔写真と住所が配られようとも,生活基盤のある場所で生きていくしかない人もいる。

 学校で夢を失いかけている子どもたちの救済者として,芸能人に期待したい気持ちは強い。

 学校以外の場所で夢を追い求める子どもの姿の方が,むしろ正常のように思えてくるが,自分たちを育ててくれた教育のシステムを支える人材を絶やしてもいけない。
 
 小さな子どもたち,思春期の子どもたちに夢や感動を与えるタレントたちも,働く環境は実のところ学校現場と変わるかもしれないが,「会社が潰れる」想定がある組織の方が,まだ正常化の可能性も残されていると思われる。

 良いマネージャーが次の良いマネージャーを育てる環境のある職場になることが,タレントにとっても望ましいことだろう。

 学校にとって「正常」であることが「異常」だなんていうことにならないうちに,教師が教師を育てられる環境を整えることは非常に重要ではないかと思われる。 
 
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アクティブ・ラーニングを導入していない国の方が,問題解決能力調査の結果に優れている理由

 「詰め込み型の学習」とは何か。

 たとえば,百人一首をすべて暗記すること。

 これは「詰め込み型の学習」だろうか。

 授業で先生が50分しゃべり続けている。

 生徒がノートにひたすら内容をメモしている。

 これも「詰め込み型の学習」だろうか。

 私の考えはこうである。

 「学習」とは,そもそも「主体的なもの」である。

 実は,「教師が話をしている内容に耳を傾ける」こと自体が,かなり「主体的な態度」なのである。

 なぜなら,「寝ている」「話を聞かない」「自分で好きな本を読む」ことも可能だからである。

 もちろん,「自分で好きな本を読む」という行為も主体的な態度である。


 筑駒出身の企業人がどこかに書いていたが,授業を聞いている生徒は2~3割だったらしい(もちろん,聞いていないようで大事な部分は聞き分けている人はもっと多かったものと想像できるが)。

 他の生徒は,自分で別の教科の問題集を解いていたり,将棋の研究をしていたりと,「積極的に(授業とは別の)学習に取り組んでいた」のだ。

 では,授業を熱心に聞いて,メモをとる態度は,「主体的」とは言えないのか?

 もう一つ念のために付け加えておきたいことは,「主体的」に学んだところで,必ずしも知識や理解が定着したり,思考力や表現力がつくとは限らない,ということである。

 
 「学習」で大事なのは,「教材」「学習内容」の量と質である。

 豊富な教材や学習内容にふれた子どもの方が,そうではない子どもよりも優れた問題解決能力を発揮できるのは,なぜだろうか。

 日本の公立小学校では,昔から問題解決型の学習が行われてきており,

 こういう学習(アクティブ・ラーニング)を行ってきた子どもとは,中学校に進学しても,

 問題解決的学習への意欲や態度は一定の水準を保てている。

 しかし,その成果が出ているかと言われたら,疑問が残る。

 中学校で問題解決能力を発揮している子どもたちの多くは,中学受験を経験するなどして,より多くの教材にふれる機会があった子どもたちである。
 
 そもそも,問題解決能力を発揮している子どもは,「詰め込み学習」をしてきたという自覚があまりない。

 「詰め込み」されたものは,「取り出し」がしにくい。
 
 奥の方に入って出てこなくなるものがあるイメージだが,「主体的」に学ぶ子どもの中には,
 
 多くの引き出しにきちんと整理したり,大きな引き出しの中に小分けの仕切りをつくったりして,

 「取り出し」が容易になる仕組みができている子どももいる。

 
 多くの教材・学習内容を与えるだけでなく,その有機的なつながりを意識させるという「指導の工夫」がなされた「一斉学習」があるからこそ,日本の中等教育の一定水準は確保されてきたのである。

 中等教育の「初等教育化」を防ぐ意味でも,タイトルの言葉を書いたメモを職員室の掲示板にでも貼っておいていただきたい。


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道具化される「天皇の権威」

 日本のはじまりとはいつのことか?

 日本独自の紀年法に,神武天皇=初代天皇が即位したとされる年(西暦で言えば紀元前660年)を元年とする「皇紀」というものがある。「皇紀」の正式名称は「神武天皇即位紀元」といい,「神武暦」「皇暦(すめらこよみ)」などともいう。「皇紀」が公的な暦として制定されたのは明治5年(1872)で,太陽暦が採用された年でもあった。

 今年は皇紀2677年に当たるが,社会での一般的な生活では,この数え方を目にすることはない。

 政治権力を持とうとする者にとって,その「権威」をどのように確保するかは切実な課題である。

 中国にならって,日本で「元号」が使われ始めたのは,西暦645年(皇紀1305年)のことであった。

 (まだ「日本」という「国号」もなかったことに注意しなければならないが)

 「大化の改新」とよばれる一連の政治改革で重要だったことの一つは,蘇我氏を滅ぼすことであった。

 「明治維新」では言うまでもなく,江戸幕府の滅亡から始まっている。

 「皇紀」の制定のタイミングを見ても,政治的権威をもつための手段として,「時間」の支配が重要だったことが想像できる。

 日本以外の国で,「独立宣言文」に日本の「皇紀」が使われていた国があった。

 植民地支配を受けていた国が抱える様々な課題を考えるきっかけになる「教材」である。

 「元号」の使用開始と比べると,「皇紀」の制定の理由については,政治権力をもとうする人の立場が異なり,「天皇自身が権威を高める」ことでなく,「天皇の権威を利用する」ことが目的だったと考えられる。

 日本では永く天皇の権威がそのときどきの政治権力によって守られてきたが,それは自分の権力を高める道具として利用した結果であったこともある。

 アジア太平洋戦争での「天皇の権威の道具化」は,日本の国民だけでなく,多くの人々に多大な犠牲を強いる結果となった。

 「天皇の権威」自体に敵意を向ける人もいるが,私としては「道具化」した政治権力に敵意を抱いている。

 戦後,GHQが占領政策の基盤として「天皇の権威」を利用したことで,新たな犠牲を生まずにすんだ,という面もあるので,「権威の道具化」がすべて悪いというわけでもない。

 現代では,「天皇の権威の道具化」が,今までのように「天皇の権威」自体を傷つけずにすむという保障はないという危惧を私は抱いている。

 新たな「元号」の制定をめぐる経緯を注視していたい動機がそこにある。


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ヘンな人とヘンではない人の差

 ぶろぐ村のブログを読んでいると,きっと「この人はとてもヘンな人だなあ」と思える記事に出会える。

 他人に対して「異常」だとか「頭がおかしい」とか言えてしまうのは,小学生のようにまだ人間や社会のことがわかっていない子どもだけではないのである。

 ただ,だからといって「ヘンな人」を排除するのもよくないのだと言える「大人」でありたい。

 コミュニケーションとは,「自分が変わるための手段だ」と表現する人がいる。

 「ヘンな人」でも,人から学び,「変わる」ことができる存在なのだと信じていたい。

 ひどい表現を使うのは,自分が変わることができずに苦しんでいる姿なのだと考えてあげればよい。

 不本意なかたちで職を追われ,日々満たされない思いで過ごしている不幸な人もいる。

 こういう人が,SNSなどを使っていても,「自分を変えることができる」のだと確信がもてる経験をこれからの人にもわかってほしい。

 「自分を変えることができない人」は,一般的には「ヘンではない人」に見えるのかもしれないが,決してそうとは限らないと自分に言い聞かせておきたい。

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「教育」が国の足を引っ張る時代

 これも歴代政権が,「教育」を軽視し続けてきたツケだろうか。

 よりによって,現政権を利用してのし上がろうとした教育関係者が,現政権を潰す爆弾を背負って野党に接近しようとしている。

 野党といっても,今の日本に長期政権が維持できる党は存在しないから,またしばらく前の「年ごとに首相がかわる」時期に戻っていくのだろうか。

 しばらくぶりに,政治が安定するかと思われていた日本だが,他人の足の引っ張る仕事を延々と続けている国会の様子を見ていると,「教育」の失敗はこうやって形になっていくものなのだとつくづく思い知らされる。

 むしろ政権側が,「教育勅語」への関心を高めるための演出として取り組んでいるプロセスの話だとしたら,したたかさも感じるが,現在の歴史教育のレベルでは,「教育勅語」への肯定的な評価を定着させるのは不可能だろう。

 「教育」で足を引っ張られ,「教育」で息の根を止められる国では,「教育」による国の未来像は描きようもない。


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