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カテゴリー「教育」の3913件の記事

人よりも言葉を愛する人にしないために

 心を育てる教育というのは,重要なのだが,「教える」のは難しい。
 
 うまい具合に「育ってくる」ことを望みたいところである。

 「私は,忘れられた人たちのことを忘れない」

 とてもいい言葉である。今,放映中の池上彰さんの番組で紹介されている。

 だれが語った言葉だろう。

 「忘れられた人々」とは,

 鉄鋼業や自動車産業の不振で工業が「錆びついた地域」=ラストベルトの労働者のことである。

 この言葉によって,「忘れられた」と表現した人々から指示を集めることができたのが新大統領である。

 人は,当然のことだが,人から大切に扱われることを望んでいる。

 たった一つの言葉でも,感動したり満足したりできるのが人間だから,

 人を大切にしていることを示したければ,そういう「言葉」を使うようにする,というのが一つの方法である。

 グローバル化が進む社会では,やはりこういう「言葉」が使えるようになることは大切である。

 ただ・・・。

 日本には,「軽々しい言葉」を「軽率」に語ることを慎む文化がある。

 目の前にいない人への優しい言葉を語ることより,

 目の前にいる人に対する優しい行動をとれることを重視したい。

 教員になろうとする人が,教員に向いているかどうかを判断できるのはだれだろう。

 目の前にいない子どものことをどんな言葉で語ろうとも,

 目の前に子どもがいる場で何もできない人を現場においていても意味はない。

 「人よりも言葉を大事にしようとしている」教育をめざしている人はいないだろうか。


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新学習指導要領でいわゆる「学力」の格差はさらに拡大する

 すでにこんなことはわかりきったことかもしれませんが,新学習指導要領が実施されてしばらくたつと,学力の格差はどんどん広がっていきます。

 好き勝手に席を移動して穴埋めプリントを完成するというレベルの「知識」や「理解」すら生まれる見込みのない授業が増える危惧も一方ではありながら,できる子どもはよりできるようになり,できない子どもはなぜできないのかを自分なりに納得させられるようになるのが,新しい学習指導要領の趣旨です。

 キーワードは「自己責任」。

 学力が低いのは,センセイのせいではありません。

 あなたのせいです。

 なぜなら,あなたには,主体的に学ぼうとする意欲がない。

 対話を重視しながら,問題を解決する努力をしていない。

 活用できる知識をもっていない。

 ・・・センセイ,どうしたらいいの?

 主体的に学びなさい。

 対話を重視して,何人かの友達と一緒に問題の解決をはかりなさい。

 活用できる知識を身につけなさい。

 ・・・どうやって?

 本当に主体性のない子どもだな・・・。

 センセイって,何のためにいるの?

 小学校のセンセイって,英語を教えるようになるんだよね。

 センセイの発音を真似していいんだよね。

 帰国子女だった隣のクラスの担任の先生の授業とかなり違うんだけど・・・。

 「学力」の格差が広がる理由は,子どものせいだけとは限らない。


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教員になれない人のための教員養成課程

 教員採用試験の合格者がそれなりに多い教員養成系大学がある一方で,合格者がほとんどいない大学がある。

 合格する見込みのない大学生に,教員養成のための時間を設けることに意味はあるのか?

 こういう疑問をもつ人も,いるにはいるでしょう。

 私の答えは,「意味はある」です。

 一生の思い出に残る教育実習を体験できるかどうかが,教員養成課程の最大のポイントだと思っています。

 そして,充実した教育実習を体験できるかどうかは,現場の指導教諭と生徒たちにすべてかかっていると考えてよいでしょう。

 指導教諭(の勤務する学校)が,教育実習の指導のための綿密なプログラムをもっているかどうかが成功の鍵です。

 「何も起こらない」学校や学級では,実習になりません。

 「いつでも何かを起こせる」学校や学級は魅力的です。

 教育実習は,指導教諭から学ぶための場ではなく,子どもから何かを学ぶ場です。

 「最高の指導者」としての子どもがいる学校とは,どういうところでしょうか。

 「教員養成の専門家」が,そういうところに関心を持てるようになるのはまだまだ先のことかもしれませんが・・・。
 
 教育実習の再チャレンジができる仕組みを整えようとしてくれる事務方が出てきてくれることを望みます。

 
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中学校社会科の新学習指導要領案を考える―その1 地理的分野の目標(2)

 では,2月14日に公開された甘くない贈り物の分析を真面目にしていきたい。

 まずは社会の地理的分野の目標(2)の内容から。

 ポイントは太字の部分。

>地理に関わる事象の意味や意義,特色や相互の関連を,位置や分布場所人間と自然環境との相互依存関係空間的相互依存作用地域などに着目して,多面的・多角的に考察したり,地理的な課題の解決に向けて公正に選択・判断したりする力,思考・判断したことを説明したり,それらを基に議論したりする力を養う。

 地理の専門家でなければ,「空間」と「場所」と「地域」の違いを説明できない。

 文部科学省は,13歳と14歳の子どもたちに,地理学の中心的概念を習得させる教育をさせたいようだ。

 1 位置や分布(「位置と分布」にしなかったのは,何か意味があるのだろうか)

 2 場所

 3 人間と自然環境との相互依存関係

 4 空間的相互依存作用

 5 地域

 この5つは,国際地理学連合の地理教育委員会が1992年に出した「地理教育国際憲章」から引用されたものである。

 英文の「地理教育国際憲章」をIGUのホームページからダウンロードして読んだところ,いくつか気になった点があった。

 Some of the central concepts of geographical studies として挙げられているのが上の5つだが,英語では,次のように表現される。

 1 Location and distribution

 2 Place

 3 People-Environment Relationships

 4 Spatial Interaction

 5 Region

 お気づきになると思うが,日本語訳が気になるのは,

 「Relationship」が「相互依存関係」,「Spatial Interaction」が「空間的相互依存作用」になっていることである。

 中山修一さんという地理教育委員会委員の翻訳が,公式文書として扱われているので仕方がないかもしれないが,「相互依存関係」は「相互の関係のうちの主なもの」とは言えるだろうが,依存関係以外の関係もある。「影響を及ぼし合う」ことを「依存」と呼ぶのが地理の世界なのだろうか。

 「インタラクティブ」という言葉が「双方向の」とか「対話的な」いう意味で少しずつ日本語化していることもあって,「インタラクション」を相互依存作用と訳するのは適切ではないと思われる。

 学習指導要領で示す用語にするためには,地理学者に今一度,再考をしてもらった方がよいのではないか。

 公式文書では,たとえば「地域」の部分で,

>Regions are dynamic in both space and time.

 の1文が「地域は,空間的にも時間的にも躍動的なものである」と訳されているが,

 dynamicという単語は,日本語の「ダイナミック」ほど大げさなものではなく,

 日本語で「動態的」という表現が用いられていることを念頭に置いた方がよい。

 現行の学習指導要領の解説では,日本の諸地域学習について,

>それぞれの地域の特色ある事象を中核として,それを他の事象と有機的に関連付けて,地域的特色を動態的にとらえさせることとした

 と示している。

  単なる地誌的知識の習得に陥らないように,たとえば産業を中核とした考察では,

>地域に果たす産業の役割やその動向は他の事象との関連で変化するものであることなどについて考える

 学習ですでに行われている(はずである)。

 「相互依存関係」とか「相互依存作用」という言い方を使うと,誤解を招くというよりは,多面的・多角的な考察ができないおそれがあると考えられる・・・というのが,第1点目の指摘である。
 
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中学校社会科の新学習指導要領案を考える―その0 教科目標と「天下り」先の確保

 冒頭から蛇足になってしまうが,以下に示した社会科の新しい教科目標で,「グローバル化する」という言葉が「国際社会」を修飾していることと,そこで「主体的に生きる」人間を育成する,という文脈になっていることが気になる。

>社会的な見方・考え方を働かせ,課題を追究したり解決したりする活動を通して,広い視野に立ち,グローバル化する国際社会に主体的に生きる平和で民主的な国家及び社会の形成者に必要な公民としての資質・能力の基礎を次のとおり育成することを目指す。

 グローバル化する国際社会を「アメリカ帝国主義におおわれた世界」と解釈すると,そこで「主体的に生きる日本人」というのは,ジョーク以外の何物でもない。

 グローバル化に抵抗する勢力が増えつつある国際社会で,「グローバル化する国際社会」という言い回しは,いかにも時代遅れというか,「まだそこなの?」という印象が強い。

 グローバル化という言葉がないことによって,「国際社会に主体的に生きる」ことの意義の重要性が認識できる目標であったのに・・・・。

 補助金というエサをちらつかせながらグローバル化対応を大学に迫り,天下り先を巧妙に確保するどこかの省庁の「主体性」のことが,嫌に頭にちらつく。 


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「主幹教諭」の使い捨てが始まっている

 管理職と一般の教諭の間に,「主幹教諭」という立場がある。

 管理職のなり手がいないように,

 将来の管理職に近い立場としての「主幹教諭」のなり手もいなくなっていくだろう。

 本人の強い意思というより,管理職への「主幹教諭のなり手を増やせ」という強い要請がもとになり,管理職によって「主幹教諭」に勧められたからなった人が多いのではないか。

 なったきっかけはどうであるにせよ,「主幹教諭」に課せられる任務は決して軽いものではない。

 当然,「主幹教諭」としてのつとめを果たしていない,と断罪される人が増えていく。

 「お前は役に立たない」とまでは言われないだろうが,

 「他の学校でスキルを磨いたらどうか」などと言われて,異動させられる人が増えていくだろう。

 そして,異動先で能力が認められなければ,またすぐに次の学校に移らされる。

 単純に「行政職」としてとらえたら,「主幹教諭転がし」が,本人のためになる場合ももちろんある。

 ただ,管理職の養成方法としての「主幹教諭」育成にも,私は限界があると思っている。

 私は3年間の教育委員会での勤務を通して,現場の教師の大変さに改めて気づかされた。

 現場では,子どもだけではなく(子どもだけでも恐ろしく大変だが,以前に増して子どもとセットで大変な親も増えている),教員たちという,子どもの以上に大変な「指導」対象を抱えているのである。

 「指導」とは,問題行動を起こした教員への注意,という意味ではない。

 十分に高い能力をもった教員の能力をさらに伸ばすための働きかけも重要な「指導」である。

 まだまだ自分を磨くのに時間がかかる,そういう学校現場で,
 
 教師として不完全な自分が,他の教師の(もちろん自分よりキャリアが長い教師も含めて)「指導」を担うのは,大きな負担になるだろう。

 学校内で閉塞状況に陥った主幹教諭が異動させられることは,心理的重圧から逃れる手段として一時的な効果があるかもしれないが,それを繰り返すことで,教師として最も重要なものが得られないまま終わってしまうのではないか,と私は危惧している。

 その気持ちの表れが,標題の「使い捨て」という言葉になった。


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教育や研修の費用対効果

 企業で役に立たなかった人が,学校現場に入ってやたらに気にかけるようになるのが,教育の「費用対効果」の問題である。

 今後,段階の世代がいなくなって,学校現場が若い人たちであふれるようになると,費用対効果が一気に上昇する見込みがある。

 それは,学校ではベテランの方が若手よりもより多くの成果や教育効果が出せるとは限らないからである。

 逆に,部活動などでは若い教師が増えた方が,子どもたちに高いモチベーションを与え,成果が出しやすくなるかもしれない。
 
 人件費が大幅に減るだけで,費用対効果は向上するのである。

 若い人を短いサイクルで辞めさせてコストを削れるだけ削るレベルまで厳しい企業から,学校現場に入った人には,「コスト感覚のなさ」に唖然としてしまうだろう。

 税金は,決められた額の範囲内なら,いくらでも使えるのである。

 予算をとったら,無駄とわかっていても使うのが,この無駄な世界の常識である。

 企業で本当の意味で存在意義を発揮して人間なら,たとえ損を出していても,効果だけを追求していただろう。

 

 教師個人個人の能力について言えば,研修にかける時間と能力の向上は,個人によって大きく異なる。

 たとえば,小中連携がなぜ必要なのか,その意味や意義がわかっていない人が研修の場にいても,それはただの時間の無駄になりかねない。

 普段接することのない人が近くにいるだけで,さまざまな刺激が得られる人にとっては,機会を与えられただけで効果がある。

 行政の側からすると,その場で何が話されようが,みんな寝ていようが,「小中連携の会を何回開いたこと」という事実に意味がある。

 なぜなら,「小中連携の会を開いても意味がない」という声がもし聞こえてきたら,責任を小中の管理職により重くのしかけることができるからで,失敗しても成功しても,監督者の立場からは成功になるというからくりがあるからである。

 研修というのは,やはり主体的な態度で参加することで初めて意義があると言えるものである。

 本来の研修の趣旨とは別の目的をそこで探してもよいということ。

 時間を無駄にしない態度というのは,その本人自身にかかわっているのである。

 「今回の研修は,本当に意味がなかった」と感じている教師は,

 きっと,「今日の授業は,本当に意味がなかった」と子どもに実感させる教師であるに違いない。

 「自ら意味や意義を見いだす」ことを教育の指針に掲げていない教師は,自らもそういう態度を持ち合わせていないのだろう。

 教員採用試験の演習問題。

 ある教員が,「今日行われた小中連携の研修は,本当に意味がなかった」と愚痴を言っているのを耳にしたあなたは,どのような言葉をその教員にかけたいですか?


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議員の資質能力が試される東京都

 小池都知事が,都庁の役人と都議のなれ合いにメスを入れたらしい。

 役人が自分への質問を自作し,都議に渡す。

 都議と役人との間で,さも「政治らしい仕事」が行われているように見せかけるわけだが,

 「権力分立」の原則を放棄し,「民主主義国家」であることをやめるような行為を,子どもたちに見せてほしくはない。

 質問ができる力とは,かなり高度な能力だということを,読書編でも紹介した。

 自分で考えた質問ができない議員はそもそも議員になる資格がないのだが,今まで,それを見極めることが都民にはできなかった。

 都民の方を見ずに,お互いの既得権益を守り合う関係が白日の下にさらされることが重要である。

 都議会議員が話すための原稿を,都庁の役人が書くことを禁止する。

 これで都議会が機能しなくなることで,「試験を通過し能力がある人」のお墨付きを得た「小池新党」の議員が増えることは,容易に想像がつく。


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「棚上げ人間」の増加問題と対策

 自分のことを棚上げして,平気で他人を批判したり,自分の考えを他人に押しつけようとしたりする人間が増えている。

 ニュースによく登場する指導者もそうだし,今一番気になっているのは,道徳の内容をすべて扱えとしている指導要領案を出してパブリック・コメントを募集している文部科学省である。

 研修を命じている文部科学省が,不正を誤魔化す原稿まで相手に渡して口裏合わせをするような状態なのだから,イヤイヤやらされている側の意欲など,なくなって当然だろう。

 道徳の授業があるから,いじめが起き,自殺者も出てしまうという,とてもわかりやすい問題が中学校で起こっていることを信じようとしない人ばかりなのだろう。

 何でも教師の言いなりになりやすい小学生に対する道徳の授業がかろうじて成立したとしても,中学生になった子どもがどういう感想を述べているか,知らない教師が多いのではないか。

 「やらないといけないからやる」という道徳が,いかに時間の無駄になっているかという「見方・考え方」を持ち合わせていないのが問題なのである。

 ルールを守らない大人,人権を侵害する大人,組織に貢献できない大人を目の当たりにさせられた子どもたちは,本当に気の毒である。

 さて,教育ブログには,昔から,同じようなことばかり繰り返し書き,「頭がおかしい」とか「狂っている」とかいう品のない言葉で,他人を罵倒することに生きがいを感じている御仁がおられる。

 自分に対する批判への耐性が低く,論理で勝てないとなると必ず登場するのが「頭」の話である。

 明らかにぶろぐ村の利用規約には反しているのだが,こういう記事を喜んで見る方が多いのも,ネットならではの特殊な世界である。

 ブログのタイトルを変更し,せっかくお行儀のよい人間を装っていたのに,本性丸出しで例の調子が復活し,本人が何も変わっていないことを証明する様子を,喜々として傍観している人たちがいることが気の毒でならない。
 
 「教育論・教育問題」のカテゴリーは,何のために存在するのか。

 個人攻撃をすることではなく,勘違いしている個人の発言の悪影響を最小限に食い止めたり,より適切な方向性を探求できるヒントを提示したりすることで,注目を集めるべきカテゴリーなのではないか。

 生物多様性はとても大切にしなければならないものである。

 多様性の価値をお互いに認め合えるような発言こそが重要であり,

 「同志」だのなんだといって「敵」を意識させ,一元化を目指すような発言は批判されるべき場である。

 「一人も見捨てない」という極端な要求を子どもに強いることが,どれだけの負担になるか。

 その最も重要な理由には,飛び込み授業などを何千回やっても気づけない。

 こういう私のコメントに対して,

 「おいおい,お前の教育はどうなっているんだ」というのが,正しいツッコミ方だろう。

 ずるい答え方をすると,過去の4261件の記事を読んでいただければ,少しはわかっていただけるのではないでしょうか?となる。


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小中学校・新学習指導要領に示された,吐き気を催す教科目標の冒頭部分・・・「~な見方・考え方を働かせ」

 新学習指導要領の改正案が公開され,3月15日まで,パブリック・コメントが募集されている。

 ほとんどの人が首をかしげるであろう問題は,すべての教科の目標の冒頭部分に登場する,

 「~な(~の)見方・考え方を働かせ」という文言である。

 私の場合は,これを読んで,吐き気を覚えた。

 「バカの一つ覚え」という言葉がぴったりである。

 言語にしろ,数学にしろ,音楽にしろ,まず,何をしないと始まらないかを考えてみてほしい。

 本当に「見方・考え方」を働かせることができるようになるためには,

 何が必要とされるのかを,言葉が通じない外国人に説明するところから始めて見てほしい。

 ずーっと「見方・考え方」の整理をしながら検討を続けていた人たちには,よく理解できないことかもしれない。

 「~な(~の)」の部分にあてはまるものには,実は無限に近いものがあり,適切な見方・考え方を適切な場面で働かせることができるようになるには,ある見方・考え方しか働かせられないような場面を繰り返していても絶対に無理なのである。

 新しい学習指導要領が想定している「はっきりと身につけさせたい能力」があって,「それを身につけさせた気になる」ような指導をしてみたところで,「その場限りの意味」しかないことに気づけなかったのだろうか。

 マニュアルでアルバイトの従業員を縛る場合,従業員に課せたれた任務というのは極めて単純なものであり,「想定外」の問題はきっと正社員が対応することになる。

 ちょっと複雑な問題に直面して,その正社員ですら,「こんなことを解決する能力は身につけさせられていない」といって職場放棄するような事態を招かないようにするための教育だとは思えない。

 単純化が好きな人たちが寄せ集められたことで,「教科」が持っていた意義が解体されてしまった印象が強い。

 目標がおかしなものになって,教科指導が機能するわけがない。

 学習指導要領よりも先に,その解説を公開すべきである。

 解説を読むことで,もともとの学習指導要領の問題が明確になるはずである。

 こんな話をしても,通じそうにないのが歯がゆくて仕方がない。

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