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カテゴリー「部活動」の7件の記事

不道徳の見本としての日本サッカー

 こんなタイトルで記事を書くと,サポーターから何をされるかわからない怖さもありますが,ゲームでは必死にブーイングされていた方もいらっしゃいますし,朝日新聞デジタルでも紹介されていましたから,「決勝トーナメント進出」という目的のために「規範破り」を実行した日本代表とそれを指示した代表監督への批判があることについて,ふれておきたいと思います。

 「道徳」的に言えば,アウトでしょう。

 フェアプレー・ポイントで上回っていたから勝てた日本ですが,やっていたのはフェアプレイとは言えない「ボール回し」でした。

 目的(決勝トーナメント進出)のためなら,手段を選ばない(勝利ではなく,0-1で負けること,反則を犯さないことを優先し,パスを回す)という行為です。

 JFAサッカー行動規範やFIFA(国際サッカー連盟)のフットボール行動規範に立派に?背いています。

 ・・・が,サッカーには,柔道やレスリングにあるような,「消極的なプレー」に対する罰則がありません。

 ですから,「ボール回しはルールに違反しているわけではない」という反論が予想されます。

 しかし,負けているチームが相手チームにボールを奪われないように,チンタラとディフェンスがパス回しをしている姿ほど,見苦しいものはありません。

 「パス回しだって,簡単じゃないんだぞ」という反論も予想できます。

 「お客さんを退屈させるプレーが,どうしてサッカーでは通用するのでしょうか?」と聞きたくなります。

 蹴られてもいないのに倒れて痛がるインチキプレーなど,「サッカー嫌い」になる理由にはいろいろなタイプがあるのでしょうが,私は,相手にボールを渡さないという「卑怯なプレー」を日本人は最も嫌う民族の1つだと思っていました。

 野球にも,首位打者が取れそうな仲間のために,敵チームの競争相手を全打席敬遠してしまうとか,許しがたいプレーがあります。しかし,敬遠という作戦は,相手に得点のチャンスを与えるプレーでもあり,サッカーの「ボール廻し」とは違います。

 私はサッカーのことはあまり好きではなくても,日本のチームが負けて「ざまあみろ」と言われるのは嫌です。

 プレーを見ていて,ベンチの指示への「抵抗感」をパスで示していた選手がいたことは救いです。

 でも,こういう人というのは,二度と「使われなくなる」運命にあることも知っています。
 
 私の次の試合への興味には,その選手が使われるかどうか,という点があります。

 「監督の指示に反発する」姿の方が,私にとってかなり「道徳的」なのですが。

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部活動で人間性を高めた人が,教員になっていないということですか?

 そういうことかもしれませんね。

 残念ながら。

 昔は,大学で部活動に精を出していた人でも合格できたのが教員採用試験でした。

 授業に出てなくても,単位がとれたんですから。

 今は,大学で教職に必要な単位をとるのがやっとの,バイト経験もない人しか,教員になれないのでしょうか。

 いいえ,大学で真面目に授業に出て,知識や技能も指導力も高い人しか,教員になれないのです。

 ただ,部活動は,やる気がないんです。経験がないんだから,教えようもないし。

 競技経験もない顧問にしごかれて育った人たちは,不幸だった,ということでしょうか。

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チェック段階でも間違える場合,どうしたら「正しい」結果が出せるのか

 サッカーでは「シミュレーション」という用語を使っているようだが,要するに「インチキ行為」に当たる動作で自分のチームを有利に導く「技」が認知されてしまっているスポーツでは,「ビデオ判定」を望むこともないだろう。

 広いフィールドなのに,わずかな数の審判で判定しなければならないのはつらい。

 サッカーの「シミュレーション」は,私から見れば,書店やスーパーでの万引きと同じようなものである。

 判定は判定として,試合後に「シミュレーション」や「陰でのファール」が見つかった場合は,容赦なく処分してもよいと思う。

 プロ野球では,「ビデオ判定」での「誤審」というまた変わった出来事が発生した。

 どういう対策がとれるだろう。

 ビデオの台数を増やし,たくさんの角度から検証するのか。

 フィールドの審判はすべてカメラマンにして,映像をコンピュータが判定し,その結果をフィールドのカメラマンが伝える,という仕組みができるのか。

 プロにとっては,「誤審」が明日のご飯代にかかわる重大案件になる可能性がある。

 教育の世界でも,入試における「誤り」は避けなければならない大きな課題になっているが,どんなにチェックしても,間違いは生まれてしまう。

 チェックを増やせば増やすほど,確実になる,という保証はない。

 時間や労力が余計にかかっているうちに,人気がなくなる,という危険性もある。

 「チャンスは1回しかない」という緊張感と実力は,選手だけではなく,専門家としての審判や教師たちにも求められるのは当然である。選手と同様,ご飯代をかけて守り抜くものが必要である。

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部活動の扱いの迷走~学習指導要領総則編から~

 まず,現行の学習指導要領総則編から,「部活動の意義と留意点等」を確認しておく。

第5節 教育課程実施上の配慮事項 13 部活動の意義と留意点等

 (13) 生徒の自主的,自発的な参加により行われる部活動については,スポーツや文化及び科学等に親しませ,学習意欲の向上や責任感,連帯感の涵養等に資するものであり,学校教育の一環として,教育課程との関連が図られるよう留意すること。その際,地域や学校の実態に応じ,地域の人々の協力,社会教育施設や社会教育関係団体等の各種団体との連携などの運営上の工夫を行うようにすること。

 実は,平成10年版では,クラブ活動との関連で言及がなされていた記述がなくなっていた「部活動」である。

 平成20年版では,上記にように示された。

 しかし,平成29年版=次期学習指導要領では,

 「教育課程外の学校教育活動と教育課程との関連」という項目の中でふれられることになった。

教育課程外の学校教育活動と教育課程の関連が図られるように留意するものとする。特に,生徒の自主的,自発的な参加により行われる部活動については,スポーツや文化,科学等に親しませ,学習意欲の向上や責任感,連帯感の涵養等,学校教育が目指す資質・能力の育成に資するものであり,学校教育の一環として,教育課程との関連が図られるよう留意すること。その際,学校や地域の実態に応じ,地域の人々の協力,社会教育施設や社会教育関係団体等の各種団体との連携などの運営上の工夫を行い,持続可能な運営体制が整えられるようにするものとする。

 現行でも次期学習指導要領でも,部活動の「完全外部委託」があり得ないことは明らかである。

 実際に,地域のテニススクールに通っている小中学生は多いと思われるが,学習塾と同じで,子どもが勝手に通っているだけで,「学校との連携」があるわけではない。下手に商業スクールが学校に入ってくれば,「勧誘」が進められることが容易に予想できる。

 さて,解説の文章に目を向けると,部活動の意義(このタイトルは消えたが)が現行よりも詳しく示されている。

中学生の時期は,生徒自身の興味・関心に応じて,教育課程外の学校教育活動や地域の教育活動など,生徒による自主的・自発的な活動が多様化していく段階にある。少子化や核家族化が進む中にあって,中学生が学校外の様々な活動に参加することは,ともすれば学校生活にとどまりがちな生徒の生活の場を地域社会に広げ,幅広い視野に立って自らのキャリア形成を考える機会となることも期待される。このような教育課程外の様々な教育活動を教育課程と関連付けることは,生徒が多様な学びや経験をする場や自らの興味・関心を深く追究する機会などの充実につながる

 特に,学校教育の一環として行われる部活動は,異年齢との交流の中で,生徒同士や教員と生徒等の人間関係の構築を図ったり,生徒自身が活動を通して自己肯定感を高めたりするなど,その教育的意義が高いことも指摘されている。

 そうした教育的意義が部活動の充実の中のみで図られるのではなく,例えば,運動部の活動において保健体育科の指導との関連を図り,競技を「すること」のみならず,「みる,支える,知る」といった視点からスポーツに関する科学的知見やスポーツとの多様な関わり方及びスポーツがもつ様々な良さを実感しながら,自己の適性等に応じて,生涯にわたるスポーツとの豊かな関わり方を学ぶなど,教育課程外で行われる部活動と教育課程内の活動との関連を図る中で,その教育効果が発揮されることが重要である。

 下線部に注目しながら,教育課程全体との関連で「部活動」の意義を簡単に述べるとすると,「主体的・対話的・多様な人間関係の中で・深い学びができる」場である。

 「部活動の指導ができない」と言っている教員がいたとしたら,人事考課に直接影響することになる。

 なお,次期学習指導要領解説編では,「部活動」の課題を棚上げしているわけではない。

③ 一定規模の地域単位で運営を支える体制を構築していくことが長期的には不可欠であることから,設置者等と連携しながら,学校や地域の実態に応じ,教員の勤務負担軽減の観点も考慮しつつ,部活動指導員等のスポーツや文化及び科学等にわたる指導者や地域の人々の協力,体育館や公民館などの社会教育施設や地域のスポーツクラブといった社会教育関係団体等の各種団体との連携などの運営上の工夫を行うこと,をそれぞれ規定している。

 各学校が部活動を実施するに当たっては,本項を踏まえ,生徒が参加しやすいように実施形態などを工夫するとともに,生徒の生活全体を見渡して休養日や活動時間を適切に設定するなど生徒のバランスのとれた生活や成長に配慮することが必要である。また,文部科学省が実施した教員の勤務実態調査の結果では,中学校教諭の部活動に係る土日の活動時間が長時間勤務の要因の一つとなっており,その適切な実施の在り方を検討していく必要がある。なお,先述の教員勤務実態調査の結果を踏まえ,平成 29 年6月 22 日に文部科学大臣が中央審議会に教員の働き方改革に向けた総合的な方策の検討について諮問した。

 さらに,スポーツ庁では運動部活動の在り方に関する総合的なガイドライン作成の検討を行っているところであり,こうした議論についても注視する必要がある。

 ガイドライン作成が困難を極めることが想像できるのは,「部活動」と一言で表現しても,スポーツの種類によって全く内実が異なるからである。それでも,「これ以上はやり過ぎ」というラインは引くべきだろう。

 先に述べたように,私は土日の練習試合をほとんど実施しなかった。自分が草野球をやっていたからである。

 子どもたちは,自主的に地域の体育館に集まって活動をしていたらしい。

 ただ,体育館で怪我をした場合,学校が責任をとれなかったのは気の毒のような気もする。

 まずは「実態把握」が欠かせない,ということだろうか。

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部活動の思い出語り

 部活動と一言で表現しても,その内実は千差万別。

 運動部で言えば,強いか弱いか(強くしようとしているか),

 吹奏楽部などのコンクールがある部活動なら,賞をねらっているかどうかでも,中身は全く異なったものかもしれない。

 指導者が名を知られている人がどうか,生徒のリーダーシップが発揮できる学校かどうか,

 保護者がどれくらい熱心か,などなど,同じ自治体にある学校を見渡しても,全く様相が異なっていたりする。

 私の初任校は,月曜日の1時間目の道徳の時間が,全校の朝礼が長引き,部活動の表彰で終わってしまうことがあるほどの「部活学校」だった。表彰状やカップの置き場に苦労するという有様で,区の優勝程度だと,教科の準備室に無造作に放置されていたりする。この学校のすごいところは,たとえばバスケットボール部は週に2回しか体育館が使えない(うち1回は半面のみ)のに,ブロック大会でも優勝ができるチームがつくれるところにあった。しかも,私は休日に練習試合を入れないため,もし強豪校並みに強いチームと練習試合を重ねていたら,東京都や関東の大会も狙えたかもしれない。・・・が,顧問の私が気むずかしかったために,ミニバスで技術だけあるような選手はレギュラーにはなれなかった。

 狭いグラウンドをシェアしてノック練習をしている野球部を横目で見ながら,バスケット部はひたすら走らされていた。「スタミナだけは,どんなチームにも負けない」というのがスローガンだったが,よく選手たちはやめずについてきたものである。数年おきに学年同窓会で集まるたびに,感謝される言葉は「あのときに鍛えられた精神力があるおかげで今がある」という,漫画のような世界にいるのである。

 私は大学で野球部に所属していたから,野球部を任されるのが当然,と思い上がっていたが,結局,1校目では野球部の顧問にはなれなかった。絶対に顧問を譲らない,頑固な先生がいたのである。

 私のような人間が語る「部活動」など,何の参考にもならないだろう。

 どこにでもあるような話でもあるし,どこにもない話でもある。

 「絶対に恨んでいる子どもたちがたくさんいる」という後悔しかないような指導をしてしまったが,それはもう取り返しがつかない。私に謝らせるために,毎回呼んでいるようなものだろう,と思っている。

 教え子たちには,卒業してからも教えられることが多い。

 私は,期待をかける生徒と,そうではない生徒がいた。

 しかしなぜか,期待をかけていなかった(と思われる)生徒たちが,よく私に感謝の言葉を述べてくれる。

 その後の意外な成長や活躍に,本当に意外だから驚かされる。

 教育というのは,狙い通りにはいかないものである。自分が決めゼリフを吐いた後に,しっかりとその言葉を受け止めてほしい生徒はすぐに忘れてしまい,あまり気にかけていなかった生徒が聞いていて覚えてくれるものだと思い知らされる。そのとき「本気を出している」ように見えなかった生徒の方が,実は成長しやすかった,なんていう「教訓」は,普通の教師生活にも役に立っている。

 教員7年目の2校目で初めて野球部を持ったときは,嬉しかったが,部活動に熱を入れる余裕がない荒れた中学校だった。幸いにも,2年目に部活動ができる学校に変えることができたが,そのために小学校6年生たちをグラウンドに呼んで一緒に野球をしたりした。ほぼ全員背が低くて,明らかに他校より体格が劣っているチームだったが,強豪校を苦しませることがあった。それでも,高校や大学の野球の世界と,中学校の部活動という教育の場には天と地ほどの違いがあることで,自分の方が苦しまされた。休日に練習試合を入れないという方針は同じだったが,ゲームで養うべき勘が野球には多すぎた(おそらくバスケットボールでも同じだったろうが,強いチームだと,大会の試合を消化している過程でその勘は磨かれていった)。練習ではしないミスが,試合で出てしまう。

 練習試合を休日に入れるべきかどうか。自分は入れなかったが,そのために「勝つ」という経験ができずにもったいない思いをする子どもたちがいたことは,ほぼ確かなことである。

 では,練習試合だけ,だれかに引率と指導を頼めたら,どうか。気になってしまって,結局,試合に行ってしまっただろう(休日は,自分が草野球をするために練習試合を入れなかった)。

 私からすれば,部活動の外部委託は論外であるのだが,たとえばいいチームを育てた顧問が異動し,次の持ち手がいないために廃部になったりする場合は,外部委託の制度があるのなら,利用させてあげたいと思う。

 ただ,顧問が交代したとたんに「チーム」が実質的に死滅してしまう事態も起こりうる。
 
 部活動というのは,それだけ「繊細」なものである。

 教育はもともと「繊細」なものなのだが,「お前たちが大変なら,金を使って助けてやるよ」と言ってくるような無神経さと同居できる教師とできない教師がいることは理解しておいてもらいたい。

*********************

 あるブログで,「毎年必ず3年生をレギュラーから外す」という指導法への疑念が語られていた。

 私は,これを読んで,「毎年必ず2年生をレギュラーに入れておく」という方針のことかと予想した。

 特に大きな大会への出場経験は,次のチームの柱となる資質を育ててくれる可能性がある。

 もちろん,3年生の代わりにレギュラーになる2年生の実力が確かなものである必要はある。

 下手な下級生を出して試合に負けては元も子もないのである。

 どうでもいい話だが,私も都大会の最終回で,3年生の代わりに2年生を代打に送った。

 センター前にヒットを打って,3年生のためにチャンスを作ってくれた。

 都大会での経験や活躍ができたことで,この2年生は次の代の中心選手となった。

 部活動の大会には,「次の代につなぐための采配」というものがあり得ることを記しておいた。

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部活動の夢と現実

 部活動についての記事で,多くの方が興味をもって読んでいただいたようで,続編を書かなければならないと思い,キーボードを叩いている。

 スポーツの世界では,トップの選手たちの多くは所属する中学校や高等学校の部活動で練習しているわけではないが,中学校や高等学校の部活動で汗を流している生徒の中にも,都道府県大会や全国大会出場など,トップの世界を夢見ている人たちがたくさんいる。

 部活動に親しむ生徒たちの動機,力量,やる気は多様である。

 その多様な希望なり力量なりに応えているのが,学校の教師たちであるが,そこで悲鳴が上がっている,という話。「働き方改革」の流れに乗って,文科大臣もモーションを示してるようだが,今までの「あり方」を放置していた張本人,親玉だから,そう簡単に動くことはできないだろう。

 「部活動でもっている中学校」の実態を説明できないのも無理はない。調査をしていないのだから。

 しかし,中学校の教師ならだれでもわかっている,という「鎖国」時代みたいな情報格差があるのが面白い。

 スポーツクラブの場合は,商売でやっている。力量ごとにクラスが替ったり,大会などに参加したりすることもできる。経営規模によって受け入れ可能数が異なるが,そもそも有料のスポーツクラブの場合は経済的な余裕がない家庭の子どもは入れない。

 今,スポーツクラブの経営が非常に困難になっており,その原因は,学校でただでできる仕組みになっているからだ,という主張をしている人がいるのだろうか?

 逆に,学校の部活動がなくなって,その受け皿をスポーツクラブが請け負わされることになったとしたら,どうなるのだろう?子どもはスポーツクラブに行くだろうか?

 「外部委託」の「外部」が何を示しているかわからないが,学校は「校庭」や「体育館」という場所を「外部」の人たちに貸し出すのだろうか?

 完全な委託があり得ないのは,「場所」の問題だけ考えてもわかる。

 では「部分委託」になるわけだが,どの「部分」が委託になるのだろうか?

 別に,「外部の人材」は「教育者」ではないから,教師ではないとできないことがある,と言いたいわけではない。

 しかし,その「資格」はどういう方法で認めるのだろう? 「報酬」はどうするのか?

 もし教育公務員の兼業禁止規定をなくすか,「報酬」のある部活動の兼業許可を出すようにしたら,どのくらいの教師が兼業の申し出をするのだろうか?

 学校の教師たちが部活動の指導に携わるとき,多くの場合は,「教育的意義」がわかっており,「教育的効果」が見て取れるから,生徒同様に「やる気」も「充実感」も感じることができる。しかし,「効果」は1日,2日で出るものではない。もちろん,毎日充実感を覚える子どももいるだろうが,部活動の教育的意義は,長期のスパンで見てあげる必要がある。

 だが,「短期の成果」を求められる風潮が,学校の教員という職業の人間にも,おかしな「変化」をもたらしてきている気がする。

 「授業中に寝ているこんなやつらに,部活動に参加する権利はない」 「こんなレベルの練習で,全く試合にも勝てない部活動には存在する意味はない」と真面目に考えている人はいないだろうか?

 「授業中に寝ているこんなやつら」は,学校に来る資格はない,とは言えないことはわかっているはずだが,本心ではどうなのか?

 子どもの立場から反論すれば,「そんなレベルの授業で,全く私たちの興味や関心が高められない教師など,存在する意味はない」ということになる。

 部活動を引きはがされ,丸裸にされた教員たちに何が残るのか。わざわざ教員養成系の大学に進んでまで,教育のあり方を学んでいる学生たちにとって,「何が待っているかわからない」現場というのは,魅力的に見るのか,どうなのか。
 
 子どもから「先生」として慕われる,ということの意味とは何だろう。

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部活動のことを何もご存じないド素人さんはどなた?

 教育の世界にどんなに長くいても,他校種のことはほとんど何もわからないものです。

 肌感覚から何からが,全く違うので。日本人ていうのは,同質性が高いとか言いますが,

 小学校と中学校なんて,異質すぎて,小中一貫校などは破綻状態のところばかりでしょう。

 というより,破綻しているから小中一貫校になってしまうのですが。

 同じ自治体の同じ校種でも,他校に移れば何もかもが「違っている」ことに気づくほどの場所が,

 「学校」というところなのです。

 小学校の場合は,隣のクラスに入るだけで,「違う学校」に来たのかと驚くこともできるでしょう。

 そういう教育に関する話題で,部活動ほど,「何も知らない人たちが本当に多い」と思わざるを得ないものはありません。

 ときどき,「部活動の外部委託」みたいな話が出ますね。

 「そうなるといいなあ」と思っている先生たちがいることは,理解できます。

 今は,中学校,高校,大学のころに熱心に運動部や体育会活動をしていた人は,教員採用試験に合格できないのでしょう。放課後は塾で真面目に勉強していた人たちにとっては,学校の教師になったら,びっくり仰天でしょうね。授業中はほとんど寝ている子どもたちが,生き生きと部活動に取り組んでいる。「こんなのおかしいっ!」ていうことになる。

 学校現場としては,今までは若いのが頼りだったのに,こんなのばっかりになれば,いよいよ部をつぶし,新入生に逃げられて,規模を小さくして,どうにか「部活が命」でいる教師を異動させることができる,でもいずれ廃校になる,なんていう悪循環から抜け出せないでいます。

 もちろん,部活動を熱心に指導している若い先生たちも多いのでしょうが,こういう人たちが学校で孤立しているんじゃないかと心配になっています。・・・どうしてか?

 何か,態度がでかいんですよね。若い顧問の先生たちの。

 専門委員を30年もやっているとか,そういう人たちが偉そうにしているんならわかるんですが・・・。

 縮こまって逆に頭をたくさん下げているのは,いかにも引率だけ,責任を持たされてやって来ました,審判はできません,っていう年配の先生たち。

 こういう状態っていうのは,若い熱心な部活動の顧問の先生たちが,現場で浮き上がってしまっている証拠なんじゃないかと,気になります。手塩にかけて育てた生徒とは別れたくない,しかし,「お前出て行け」というオーラを全身で浴びて,いずらくなっていくジレンマがあるのでは・・・。

 さて,話題は「部活動の外部委託」。

 私は,小学校の英語の指導など,授業の外部委託ならいくらでもできる(実際に,公立中で教え始めた塾の先生がいましたからね)と思うんですが,無免許運転をOKにしたら,そもそも免許更新制度なんて必要ない(今もそうですが,むしろ教員免許そのものの意味がなくなる)いうことになりかねない。

 特別の教科になった道徳など,無免許なんですがいいのでしょうか?という話。

 部活動の指導には,免許は不要だから,というのが行政の判断でしょう。

 でも,部活動だけは,どう考えても,アウトです。もちろん,成功事例なんて,いくらでもつくれますね。しかし,1%にも満たない学校の成功を示したところで,それが99%の学校でも同じようにできるとは限らない。成功事例になるはずだったけどダメだったところは闇に葬り去られる。教育の世界では,失敗事例を堂々と認めて失敗事例として公開する慣習がないのです。だから,今の学習指導要領と同じで,失敗しているのに,成功していることにして,現場の苦労だけが増えていく。

 部活動の外部委託が本決まりになったら,どうなるか。

 中学校の教頭,副校長の先生方と同じ苦労をしたがる人がいるとしたら,転職した方がもっと充実したいい仕事がいくらでもできますよ。

 「学校が大変」と聞くと,外部の人間を入れれば楽になる,という発想の人がいるとしたら,これ以上のド素人はいません。

 野球部,サッカー部,陸上部,水泳部,剣道部,柔道部,テニス部,バスケットボール部,バレー部,バドミントン部,卓球部,吹奏楽部,合唱部がある中学校で,それぞれに指導ができる専門家が集められるのであれば(その仮定?がそもそも誤っているわけですが),有名な指導者がいるところにドーッと雪崩を打って新入生が集まっていくことになります。ただでいい先生に習えるんだから。

 どのくらいの権限が与えられるのかわかりませんが,「完全委託」じゃないと意味がないですから,誰をレギュラーにするかとか,ペアをどうするかも,「外部」の人たちが権限を握ることになるのでしょう。練習試合も,「遠征」が増えるかもしれません。強い部活動の年間の遠征費用を聞いたら,皆さん驚かれるでしょうね・・・。怪我,喧嘩,いじめなどのトラブルも,委託された人たちが責任を持つのでしょう。

 すごい世界が待っているような気がしますね。

 今でも十分,すごい世界なのですが。だから「委託」という蜘蛛の糸が垂れ下がってきているわけです。

 そのすごい世界の中に,自分自身がいる,という自覚を持っている中学校教師が,だんだん減っていく,という現実を見極めなければなりません。

 なかなか本題に入れませんでした。

 「部活動の外部委託」なんて,教師の余計な仕事がどれくらい増えるかを試算できる人をまず近くにおくことを行政は考えるべきでしょう。
  
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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より