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カテゴリー「リスクマネジメント」の146件の記事

胡散臭さに気づける大学生がいて安心しましたが・・・

 ある国立大学のセンセイの教え子のことが心配で,知り合いの何人かの方に状況をお聞きしたところ,さすがに国立大学に合格できる人たちはそれなりの見識をもっていることがわかり,ほっとしました。

 自分がお世話になった先生方との比較ができる年齢であることの意味も大きいのでしょう。

 現場ではできそうにもないこと,教育学部以外の人からは笑われそうなことを延々と主張されることに嫌気がさしている大学生が多いそうで,アカハラを避けるために従順なふりをしている大学生も含めれば,「支持者」がわずかであってくれるのは,とても喜ばしいことです。

 ある先生は,「最近の学生の中には,嫌に自信だけはあって,中身のないのが目立ってきている」と教えてくれましたが,それは大学のセンセイの中に,そういうタイプの人が紛れ込んでいるからなのかもしれません。

 先日,ある研究会に参加された初任者の先生は,「私は教育学部出身で,専門と言えるものがありません」と頼りなさそうにぼそっと話されていましたが,私のように現場の叩き上げの教員を見てもらって,どこを出ようが勉強するのは教員になってからでも十分,という空気を感じてもらうだけでも,参加していただいた価値があったのではないかと思っています。

 大学では,謙虚な人間と,傲慢な人間のうち,どちらの割合がどれくらい多いのでしょうか。

 傲慢な人間が語る教育は,「国産」のものではなく,「舶来品」に目がくらんでいることが多いようですが,私のように「国史」という「純国産」の学問に触れてきた身としては,どうしても胡散臭い印象がして仕方がありません。

 英語の本を日本語に訳すとき,自分の都合のいいように解釈し,自分の主張を展開するための材料として「利用」することもできるため,「捏造」とまではいかなくても,「本物」であるかどうかの判断をするためには原著を読まないとならない(けれど暇がないからできない)という限界があり,いちいち相手にしていられない,というのが論争相手の考えなのでしょうが,現場の教師にしてみれば,一読しただけで,本物かどうか,ありふれたものかどうかくらい判断がつきます。

 胡散臭い人たちに共通するのが,「論理の飛躍」というか,「目的と手段の強引な結びつき」というか,・・・一言でイメージを表現すれば,「傲慢さ」に尽きるのです。そんな方法で子どもたちを騙すなよ,と言いたくなる。

 騙されないで正気が保てる大学生たちを応援します。

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現場の教師にしかできない仕事

 先日,学校公開週間に私の最初の勤務校を訪問する機会があった。

 21年ぶりの訪問である。校舎はほとんど変わっておらず,校長先生は廊下のタイルが剥がれまくっていることを気にされていた。

 各教室とも,30人くらいの教室で,これでも少人数とは言えないはずだが,

 40人学級で10年以上仕事をしている身からすると,

 「いろいろなことができそうだな」という感触も得られたが,

 「少し寂しそうだな」という印象を強く受けた。

 私の妹の長女の学級をのぞくことはできなかったが,廊下を歩いていると,昔とあまり変わらない挨拶の習慣は定着していてよい印象だった。

 初任者として6年間お世話になったこの学校の周辺には,いろいろな意味で本当にお世話になった方々がいる。

 正門から歩いて50mくらいのところにある花屋さんに挨拶にうかがった。

 ご夫婦はお元気で,私の顔も覚えていて下さった。

 さすがにこのお店まで私の大きな声が届いていたとは思えないが,地域を歩くと恥ずかしい気にさせられたことも思い出した。

 当時は,伝統があり,一定の評判がある地域の学校は,「○○区の学習院」と呼ばれていた。

 高校に進学し,出身中学校名を自己紹介ですると,それだけで一目置かれる経験をして,初めて中学校に誇りを持てた,という卒業生もいるらしいが,多くの在校生は胸を張って日々を過ごしていた気がする。それは,教師たちも同じであった。もちろん,それをプレッシャーに感じる人がいたり,生活指導で苦労しないですむ,と手を抜いたりする人もいた。とにかくありとあらゆる教師のタイプ(管理職も含めて)をそこで知ることができた経験は行政に入ったときにも役に立ったと思う。

 とてもよい環境で仕事ができたからか,たった2年で教育の仕事を放棄した人の気持ちはわからない。

 いわゆる「良い学校」の勤務中に辞めるのであれば,まだ「本当の志が別にあるのだな」という気にもなるのだが,

 「暴走族を相手に私は頑張った」などと粋がっても,結局は底辺校に嫌気がさしたんだな,と思われても仕方がない辞め方をした人の気持ちはわからない。やる気のある人の採用枠を1つ増やしてくれたことの意義は大きいけれど。

 授業の評価をあれこれとすることは,簡単なことである。

 100時間分くらいの40人の子どもの言葉をすべて拾い出して,それぞれの子どもの成長を考える作業は,研究だけで飯が食える暇な人にしかできない。

 現場の教師は,授業はもちろん,休み時間や放課後の時間も含めて,教室の40人に限らず,ありとあらゆる場面で子どもたちの言葉に晒され続ける。人間のコミュニケーションは,録音可能な「音声言語」に限ったものではないことはだれでもわかることだろう。その言葉を口にしたときの表情,周囲にだれがいたか,どのくらいの大きさの声か,普段の話し方とどう違っていたか,それらすべてが大切な情報である。

 教育の現場に年間200日くらい居続けなければ,そういう情報は手に入らないのである。

 もちろん,絶対に聞き逃してはいけない言葉,見過ごしてはならない表情というものがある。

 それを聞き逃さない,見過ごさないのはセンスも必要かもしれないが,

 センスがなければ経験でカバーするしかない。

 「一人も見捨てない」という表現は,人によって捉え方がまちまちな言葉である。

 親ならまだしも,不特定多数の人のために尽くす医師や教師,政治家などが,軽々しく口にするべきではない言葉だと私は考えている。

 どうしても,「私が担当している患者に限って」「私が担任しているクラスの子どもに限って」「私を支持してくれる人に限って」という条件が必要になってきたり,実際にそうなってしまったりする言葉である。

 でも,そうであるならば,文字通りの「一人も見捨てない」状態にはなっていない。

 では,「少人数に限った集団の人間を一人も見捨てない」と言い換えたときはどうだろう。

 私は,「見捨てられない対象になった子ども」の身になってみると,

 「そいつを見捨てると自分たちが損するから」という論理で世話になり続けることに耐えられるのだろうか,という疑問がわいてくる。

 「この課題,あの子にはできないだろうな。だから,私が教えてあげないと・・・」という発想で,ちらちら見られ続けることになる。

 「全員ができるようになる課題」に意味があるかどうかは別として,子どもは容易に「わかったふり」「できたふり」をするようになることが予想される。

 「深い学びをするつもりはない」そうだから,「わかったつもり」のまま,全生徒が放置される教室では,学習指導要領の総則に反する教育をしていることになる。

 本当の意味での「一人も見捨てない」を成就したいのであれば,当然のことだが,文科省に対して反旗を翻さなければならないはずである。それをしないで「一人も見捨てない」は絵に描いた餅に過ぎないだろう。


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東京都教育委員会の傘下に入る?東京学芸大学と附属学校

 国立大学の附属学校をつぶしていこうという動きは,すでに30年以上前からあったものだが,そう簡単にできることではなかった。行政が規定する存在意義と,実社会での存在意義が乖離しているのは何も国立大学の附属学校に限ったものではないからである。

 ただ,現状のような官邸主導の「恐怖政治」が続けば,「消されにかかっている」ことを肌で実感できるようになるだろう。現に,公立学校の採用試験に合格できない人を採用している附属学校が増えて,一般の公立学校よりも指導力に課題がある教員が増えていけば,附属学校の存在意義は一切説明がつかなくなるだろう。

 国立大学の附属学校には,一般の学校にとっての「教育委員会」と同等の機能を果たすための事務局がない。

 そこが最大の弱点だと定義できる立場からは,格好の攻撃対象になる。

 東京学芸大学の大学院の先生を見てみたら,驚いた。

 東京都教育委員会の「重鎮」だった方々が並んでいらっしゃる。

 これで,東京学芸大学の附属学校は,「安泰」だと思われた。

 都立高校のような「改革」がどんどん進められるだろう。

 国立大学の附属学校に,「ガバナンス」(=管理・支配)が働く時代になったのである。

 これではもはや,国立大学の附属学校に存在意義は見いだせなくなるだろう。

 もうお気づきの方が多いと思われるが,今の政治のもとでは,そもそも国立大学に存在意義はないのである。

 
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文科省への「指示」の実態が明らかになると・・・

 私は文科省のある内部情報を根拠に,学習指導要領関係の仕事をお断りしたが,

 これは文科省が悪いわけではない。

 とうとう,前川氏が「最も重大な問題群」にふれだしている。

 「安保法に反対する学者」はずし。

 「政権への批判的なことを口にする人間」はずし。

 だが,まだ,「最も重大な問題」にはふれていない。

 これは,彼が今までに受けてきた「揺さぶり」の倍返しであるように見える。

 「最も重大な問題」が明らかになると,

 教育の世界には激震が走るだろう。

 さすがに教育現場にも迷惑がかかる「最も重大な問題」だから,

 前川氏にとっても公開することは憚られるだろうが,

 「恨み骨髄に徹す」状況にもっていったのは「あちら側」である。

 警察庁出身で,官邸の危機管理担当をしている人物が,どういう仕事をしているのか。

 前川氏が述べたことが事実だとすると,

 「政府の危機管理」の具体的な方針がはっきりと見えてくる。

 「恐怖政府」とはどういうものか。歴史にはっきりと刻み込まれることになるためには,

 さらなる数の「正義」の側の被害者が必要なのだろうか。


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「あんたは本当にそれができるようになると思っているのか?」

 私は指導主事を経験して,自分がとても恵まれた環境にいられたことに感謝している。

 まだ十数年前は,指導主事を「教育委員会の犬」として露骨に嫌悪できる教員たちがいた。

 指導主事というものは,「お上」の考えをただ伝達したり押しつけてきたりするような人間であり,自分たち教員のことなどこれっぽっちもわかっていない,という印象を持たれていた。

 人間というのは,嫌われた状態から入り,相手の誤解を解くことで,一気に距離を縮めることができる。

 そのおかげで,小学校の研修会に継続的に参加させてもらう機会を得ることもできた。とても貴重な経験だった。

 今の指導主事さんたちはどうだろう。

 呼ばれなくなったら終わりだが,ただ呼んでもらうだけでもダメである。

 私は,文科省の教科調査官とか,大学のセンセイたちは気の毒だと思う。

 おそらく,研究会や研修会で厳しい質問攻めに合う経験など,ほとんどできないのではないか。

 一方的な伝達や講演と,当たり障りのない質疑応答では,お互いの距離が縮まることは難しい。

 私はある全国大会で「質問しないで」と会長さんから命じられたことがある。

 タテ社会では,偉い人のメンツをつぶすと,偉い人を呼んだ人のメンツもつぶすことになる。

 だから意見を言いたい相手以外の人に配慮しなければならないような場では,私も発言は控えるつもりだった。

 しかし,教育に関する大きな研究会の場では,「できないものはできない」

 「むしろこっちをできるようにするべきだ」などといった議論ができるようにならないといけない。

 「ああそうですか」「はいはい,善処いたします」・・・結局何もできませんでした・・・ではダメなのだ。

 指導主事の場合は,恨みを買っている教育委員会がバックにあり,

 欲求不満が全部こっちにまわってくる。

 だから,指導主事は,立場で物を言ってくる人間ではなく,子どもの成長を基本において物を言ってくる人間だということを,自分自身の教員生活の経験を1割,答申や法令等からの言葉を8割,そしてその場にいる子どもや教師にとって何が最善かを自分なりに考えたことを1割,といった割合で話すことが求められる。

 「あんたは本当にそれができるようになると思っているのか?」
 
 という投げかけに対して,「今も昔も,できてますよ」と答えられる立場こそが「最強」なのである。

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「バレたところだけ,小出しに謝る」ことの意味を道徳教育の目から考えてみよう

 KAKE,KAKE,と報道で連呼されているお名前だが,

 そもそもこの問題は,だれとだれの問題なのか。

 総理とその友人との間の問題ではない。

 ようやく,「当事者の顔」がはっきりと見えてきた。

 小中学生にも「隠蔽」という言葉の意味が理解できるようになったと考えてよい。

 バレたところまでは,謝る。

 謝るべきポイントを,「文書があったこと」だけにしぼる様子などは,

 いじめや問題行動の事情を聞き取りしているときの,ずるがしこい中学生と姿が重なって見える。

 道徳教育の全く逆をひた走っている人たちが痛々しいほどである。

 「圧力」の分かりやすい構図を示した文書も出てきた。

 内閣府に文科省が牙をむいた形になったが,これも前事務次官のおかげだろう。

 官僚側ではなく,政権側の人間の攻撃がことごとく不発に終わっているのは,

 正義が見極められる国民の質の高さのおかげだろう。

 
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教育の「損失」は測定しにくい

 教育のように公共性の高い仕事については,第三者がその効果や成果を厳密に測定し,評価しようとする動機に欠けている面があった。

 唯一,わかりやすい「テスト」の得点については,教育上ほとんど意味をなさないとも言えるドリルばかりを繰り返すだけの学習を続けているだけでも,向上させることができる。

 対話も深い学びも自主性も問われず,ただひたすらプリントの問題を解かせ続けさせられる子どもたちが,高い成果を残したといえるようになり,教師が感謝されるようになれば,そのような安易な仕事に切り換える教師が増えるかもしれない。

 このような教育(?)を受けて育った子どもがどれだけの「損失」を被ったかを実証的に示すのは難しい。

 多くの教育実習生を受け入れている立場からすると,「損失」というより「壊滅的な負の遺産」を背負った大学生が教師となり,授業をすることなど,不可能に見える機会が増えてくる。

 教師が真の意味で苦労している姿を見たことがない大学生に,実習とはいえど教育など務まりようがないのである。

 大学での学習でも,どれだけの「損失」を算出することができるか,だれか研究してみてほしい。

 まじめな人ほど,たくさんの「単位」をとって卒業しようとしているらしい。

 このことがいかにダメなことか,ある私立大学の学長はわかっていらっしゃって,改革にのぞむとおっしゃっていたが,その趣旨が,大学のセンセイたちに伝わるかどうか・・・。


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規制緩和がもたらした地獄の世界

 TBSの報道特集で「運送屋さん」の大変な事情を知りました。

 草野球で一緒のチームにいた元自衛官や,二校目の学校で強い思い出に残る生徒の保護者が長距離トラック運転手さんだったことを思い出しました。

 「送料無料」につられてついついネットで買い物をしてしまう自分を戒めたくなるような内容でもありました。

 規制緩和は,国土交通省から言えば,「安くて便利になったんだから,いいじゃないか。国民のためになっている」という話になりますが,

 お互いに首を絞め合う結果になっている「運送屋さん」たちの立場で考えてみたら・・・。

 私は社会科の教材集めのために,車の長距離運転をすることがありますが,高速道路でもやはり神経を使って疲れます。
 
 激しい価格競争にさらされている運送業界では,運転手に高速料金の制限を設けて,一般道を走らざるを得ない状況をつくっているところもあることを知りました。

 長時間労働は「死」「事故」と隣り合わせの状況も生み出します。

 今日の報道特集では,「水屋さん」と呼ばれる,中間業者というか,「帰りの荷物を探してくれる人」の存在を知りました。「事故が怖いから,運転をやめ,水屋になったのかもしれない」という人もいました。

 運び手がいなくて困っている人と,荷物なしで運転する無駄を避けたい人をつなぎ「Win-WinーWin」の関係をつくるのが「水屋さん」ですが,この仕事の存在が配送料金のさらなる低下を招いているとも言えます。

 中学校の教師の私は,「水屋さん」というと教務部の時間割担当の仕事を思い出します。

 だれかの出張がわかっているときは,時間割を事前に変更できますが,当日の朝になって欠勤になるのがわかると,空き時間の先生から順番に当たっていき,「自習」にならないように時間割を急いで組み替えるのです。

 空き時間がある中学校の教師でも,たいていの時間は「予定」が入っています。

 生徒のノートや日記のチェックとコメント記入,次の授業のプリントの印刷,報告書の作成,会議の資料づくり,欠席の生徒への連絡,保健室にいる生徒の様子のチェック,などなど。

 だからお願いする側は,人から嫌われないタイプの教員でないとできません。

 調整能力が高い教員でないと,「いけません」「ダメです」と断れ続けて終わってしまう。

 もちろん,こういうときは同じ教科の教員や,同じ学年の教員がフォローするのも普通のことなのですが。

 話を戻します。

 「便利な世の中になった」ことを知ることも大切。

 ただ,「それは,何と引き替えに?」と問う姿勢を育てることも大切でしょう。

 運送業だけの問題ではないはずです。

 「一人も見捨てない」なんて抽象的な信念ではなく,

 「重要な問題は一つも見逃さない」という実践的な態度が必要なのが教育現場です。


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国立大学が附属学校を潰せるチャンス

 運営交付金をどんどん削られている国立大学が熱心になっているのは,「金儲け」である。

 ただ,私立大学化が進んでしまうと,人気の下落が心配になる。

 大学での人員削減が限界までいけば,あとは「附属学校」を捨てるという選択肢もある。

 東京学芸大は教員養成系大学だから,附属高校を切るのは難しいだろうが,

 「予算を削られたのはお前のせいだからな」といじめることは可能だし,「その下」をねらうこともできるだろう。

 筑駒のように,筑波大学などには目もくれず,東京大学をねらう子どもが多い学校の未来はどうなるのか。

 筑駒は国会でも「標的」に上がるくらいだから,いつ「餌食」になってもおかしくはない。

 とうとう,この国から本当に消えて無くなるものが出てきそうである。


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国立大学がとうとう附属学校の管理に乗り出すか

 国立大学の附属学校というと,いかにもエリートの養成というイメージがつきまとうかもしれないが,

 それができていた最大の理由は,「自由な教育」が確保されていたからである。

 偏差値が高い附属学校ほど,「自由度が高い」ことは世間の常識だろう。

 読売新聞のニュースによれば,文部科学省の国立大学法人評価委員会が公表した評価結果で,群馬大と東京学芸大が「業務運営の改善と効率化」という項目で最低評価を受け,これが来年度以降に配分される運営交付金にも反映される見通しだという。東京学芸大の場合は,いじめで重傷を負った附属高校の生徒の訴えに対し,事実確認が不十分で重大事態として認識するのが遅れたことが問題視されたようである。

 東京学芸大にとってみれば,「とんだ迷惑」といったところだろう。

 これをきっかけに,いよいよ河野太郎議員が指摘した「文部科学省による国立大学の植民地化」が,附属学校にまで及んでくる可能性が考えられる。

 なぜなら,都道府県や市区町村の「教育委員会」のような組織も人材もいない国立大学に,附属学校の管理を行う能力などないからである。

 ザ・リバティWebというサイトで,小林真由美さんという方が,次のような「図式」を書かれている。

*********************

 そもそも国立大学が法人化されたのは,自立した環境の下,個性豊かで特色ある研究,教育に取り組むことが目的。各大学が国の統制下から外れて,独自性を強めて特色のある研究を促すことを目指していた。

 しかし,実態はまるで逆。

 大学は,文科省のOBの天下りを受け入れることで,補助金を得たり,新学部設置の際などに文科省の嫌がらせを受けずに交渉を進められたりするというメリットにあずかる。

 文科省の官僚としては,天下り先の大学に補助金をバラまき,天下り後は自らの給料や退職金として懐に回収できる。

 これが文科省の一部の官僚と大学との間の「持ちつ持たれつ」の癒着関係。

 文科省の現役の官僚が国立大学法人に出向するのは「現役出向」と呼ばれる。

 政府はこれを大学などに再就職する「天下り」とは区別している。

 しかし,現役出向も天下りと同様に,癒着の温床になる懸念がある。

 受け入れ側の大学の運営に省庁の意向が過剰に反映されたりするという懸念もある。

 そうであれば,憲法で定められている「学問の自由」を文科省自らが破るということになりかねない。

********************

 ある教科書を採択した国立大学の附属学校に,文科省から「採択理由の聞き取り」に来たことは,もちろん違法ではないが,自分のところで検定を通しておきながら,その教科書が気に入らなかったことは明々白々である。

 河野太郎議員は,与党議員である。議員の頑張りに期待したい。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より