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カテゴリー「リスクマネジメント」の80件の記事

新学習指導要領でいわゆる「学力」の格差はさらに拡大する

 すでにこんなことはわかりきったことかもしれませんが,新学習指導要領が実施されてしばらくたつと,学力の格差はどんどん広がっていきます。

 好き勝手に席を移動して穴埋めプリントを完成するというレベルの「知識」や「理解」すら生まれる見込みのない授業が増える危惧も一方ではありながら,できる子どもはよりできるようになり,できない子どもはなぜできないのかを自分なりに納得させられるようになるのが,新しい学習指導要領の趣旨です。

 キーワードは「自己責任」。

 学力が低いのは,センセイのせいではありません。

 あなたのせいです。

 なぜなら,あなたには,主体的に学ぼうとする意欲がない。

 対話を重視しながら,問題を解決する努力をしていない。

 活用できる知識をもっていない。

 ・・・センセイ,どうしたらいいの?

 主体的に学びなさい。

 対話を重視して,何人かの友達と一緒に問題の解決をはかりなさい。

 活用できる知識を身につけなさい。

 ・・・どうやって?

 本当に主体性のない子どもだな・・・。

 センセイって,何のためにいるの?

 小学校のセンセイって,英語を教えるようになるんだよね。

 センセイの発音を真似していいんだよね。

 帰国子女だった隣のクラスの担任の先生の授業とかなり違うんだけど・・・。

 「学力」の格差が広がる理由は,子どものせいだけとは限らない。


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「主幹教諭」の使い捨てが始まっている

 管理職と一般の教諭の間に,「主幹教諭」という立場がある。

 管理職のなり手がいないように,

 将来の管理職に近い立場としての「主幹教諭」のなり手もいなくなっていくだろう。

 本人の強い意思というより,管理職への「主幹教諭のなり手を増やせ」という強い要請がもとになり,管理職によって「主幹教諭」に勧められたからなった人が多いのではないか。

 なったきっかけはどうであるにせよ,「主幹教諭」に課せられる任務は決して軽いものではない。

 当然,「主幹教諭」としてのつとめを果たしていない,と断罪される人が増えていく。

 「お前は役に立たない」とまでは言われないだろうが,

 「他の学校でスキルを磨いたらどうか」などと言われて,異動させられる人が増えていくだろう。

 そして,異動先で能力が認められなければ,またすぐに次の学校に移らされる。

 単純に「行政職」としてとらえたら,「主幹教諭転がし」が,本人のためになる場合ももちろんある。

 ただ,管理職の養成方法としての「主幹教諭」育成にも,私は限界があると思っている。

 私は3年間の教育委員会での勤務を通して,現場の教師の大変さに改めて気づかされた。

 現場では,子どもだけではなく(子どもだけでも恐ろしく大変だが,以前に増して子どもとセットで大変な親も増えている),教員たちという,子どもの以上に大変な「指導」対象を抱えているのである。

 「指導」とは,問題行動を起こした教員への注意,という意味ではない。

 十分に高い能力をもった教員の能力をさらに伸ばすための働きかけも重要な「指導」である。

 まだまだ自分を磨くのに時間がかかる,そういう学校現場で,
 
 教師として不完全な自分が,他の教師の(もちろん自分よりキャリアが長い教師も含めて)「指導」を担うのは,大きな負担になるだろう。

 学校内で閉塞状況に陥った主幹教諭が異動させられることは,心理的重圧から逃れる手段として一時的な効果があるかもしれないが,それを繰り返すことで,教師として最も重要なものが得られないまま終わってしまうのではないか,と私は危惧している。

 その気持ちの表れが,標題の「使い捨て」という言葉になった。


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ポジティヴシンキングもほどほどに

 明るい未来像だけを描くようにコントロールされた人々が,いよいよ地獄を見る日が近づいているように思える。

 地獄が目の前に迫っているのに,絶対に自分は地獄に堕ちないですむと信じ切っている人に,危険を察知する能力を与えるのは不可能である。

 遠いところにある危険ばかりを煽り立てて,目の前の危機はなかったことにする神経でも,生きていける国の最後の望みとは何だろう。

 地獄への階段を用意したのは,自分の国以外の人間や異教徒たちだと開き直る姿が目に浮かぶようである。

 歴史の浅い国だからといって軽蔑するわけではないが,楽観的すぎる単純な生き方は,本当に心配になる。

 敵対勢力の攻勢が甘いとき,それは自滅を待てばすむという分析に基づく判断かもしれないと想像してみてもらいたい。

 
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日本人は多文化共生に耐えられない?

 日本人は多文化共生に耐えられない・・・

 ある東大名誉教授の社会学者が新聞で展開していた主張である。

 ツイッターなどで,「信じられない」という反応が多く寄せられているらしい。

 「仲間を後ろから槍で突きさすような発言」という趣旨の言葉もあった。

 人口減少社会に「移民」という切り札を使うことは,不可能だ,という理解があるようだ。

 反論の理由として挙げられている,多文化共生で生きている人々が実際にいる,そういう地域がある,ということをご存じないはずはない。

 努力している人々の足を引っ張るタイプのガクシャは少なくはないだろう。

 教育の世界では,優秀な教師たちを「見下す」ための「理念」を吹聴し,「等しく貧しい学力をつける」ことに専念させようとしているセンセイとその「同志」もいる。

 「平等に貧しくなろう」

 こういう考え方にすがらないと生きていけないほど日本が落ちぶれる前に,何とかしたいと思っているのは,私だけではないと信じたい。


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教育困難校を避けたい教育公務員たち

 教育困難校に勤めていると思われる教員の愚痴ブログ。

 共感を覚えるのは,同じ教員だけでなく,同じ学校に通っている心優しい生徒たちも同じだろう。

 もちろん,私のように反感を覚える者もいる。

 子どもから暴言を浴びせられ,「裏切られた」と感じている哀しき教育公務員は,

 いくつかの意味で本人が重大な「裏切り行為」をしている。

 その最も「裏切ってはならない」対象とはだれか,本人は気づいているのだろうか。

 教育困難校立て直しの切り札こそが『学び合い』だろうか。

 残念ながら,ご本尊は学校を辞めてしまっているが。

 
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子どもを輝かせるための仕事を教える教職課程の科目とは?

 教師の仕事は,子どもを輝かせるためにある。

 子どもが子どもを輝かせるための力をつけさせることも教師の仕事である。

 勘違いしている教師は,いつも同じ子どもが同じような条件で輝くためのお膳立てだけをしている。

 自ら輝きを発している子どもと,それに照らされているだけの子どもの区別がつかない人がときどきいる。
 
 自分ではなく,仲間を輝かせることができる子どもを育てるにはどうしたらよいか。

 様々な場面で,様々な子どもにリーダーとしての自覚を持たせることが最善の教育方法である。

 様々な子どもにリーダーとしての自覚を芽生えさせ,行動を起こさせるための手がかりを与えるのは,

 教師自身のリーダーシップである。それも,一人の教師だけのリーダーシップではなく,子ども同士と同じように,

 教師同士が,一定の役割を分担し合って,それぞれが活躍している姿を見せる必要がある。

 中学校に子どもが進学すると,小学校では見たことも聞いたこともなく,全く想像できなかった教師集団のチームワークを目の当たりにすることができるようになる。

 日本の学校では,「学年」という集団のもつ教育力が際立っているものである。

 その「教育力」は,ときに「破壊力」を発揮してしまう場合もあるが,そういうときこそ「教育力」に転嫁できる最大のチャンスとなる。

 こういう話を大学生にしてみたと仮定してみよう。

 キョトンとしている学生や意味不明で怪訝そうな学生と,そうではない学生に議論させてみたい。

 「学年」の教育力とは何か。

 教師の集団のチームの基本は,「学年」である。
 
 これがチームとして機能していなかった学校に所属していた学生たちには,将来,教師になったときに,なぜそれが大切なのかを理解させてあげなければならない。

 さて,こういう話を教えてくれる教職課程の科目とは,どういうものなのだろう。


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暗礁に乗り上げてどうにもならなくなる高大接続問題

 センター試験は廃止することになっているが,よくよく考えてみれば,足切り用のテストなのに,それ以上の手間がかかるような無駄など,できればみんな省いてしまいたいと思っていることだろう。

 単純な知識のみで解ける問題を入試で出している大学への補助金を出さなくすればよいだけの話なのに。

 高大の接続を真面目に考えることは,文科省の再就職斡旋に象徴されるように,もともと意味のないことだと思えば,考えるのもばかばかしい。そこら中に天下っているOBたちの指示通り動く「天下り待ち」の人間には何もできないというわけである。

 賢く経済力のある親は,子どもを大学まで一貫で上げられる有名校にどんどん入学させている。

 小学校を設置したある学校では,低学力のままの子どもを進学させなければならない問題で頭を抱えているそうだが,寄付金をたくさんもらった子どもに限ってはOK,というわけにもいかないので,みんな上に上がっていくことになる。経営上は,何も困らない。

 私立大学の,いかにも「落とすため」の試験問題を見るたびに,こんな金儲けのための道具に規制をかけることくらい,たった文書1枚で=ほとんど税金コストゼロ円でできるはずなのに・・・と哀しく思う。

 1人の答案の審査に10人くらいが1時間かかわるのなら,たとえ3万円かかっても,時給3000円の仕事として納得してもらえるはずである。そういう問題を出題すればよいのだ。

 一体何の専門家である大学のセンセイが,高大接続を軌道に乗せようとしているのか?


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小学校における「完璧」なカリキュラム・マネジメントの実際

 カリキュラム・マネジメントと学校の真面目な教師が耳にすると,次のようなイメージが最も強いと予想できる。

 「道徳は,何が何でも年間35時間実施しなければならない」

 「学級閉鎖で出席停止になった分の授業はどうしようか」

 要は,内容よりも形式である。

 小学校の教師は恵まれていることに,報告した内容と実際に行った内容が異なっていても,ばれなければ問題ない。毎時間管理職が授業観察に来ている学校は難しいかもしれないが。

 私の中学校の教え子の中には,「道徳の時間は,毎回ドッジボールをやっていた」と「証言」している子どももいる。

 楽しそうに「申告」したわけではなく,単にドッジボールは自分への「いじめ」が「合法的に?」できる機会になっていたから,嫌だったそうだ。

 そういう意味では,小学校の教師の方が,中学校や高校よりもよほどカリキュラム・マネジメントを実践している。

 「子ども本位」=そのとき子どもが一番学びたいと思っている教科や内容,活動を優先することを実践しているわけである。

 中学校に入学してくる子どもの学力を知って愕然とするには,こういうからくりがある。

 高学年で「国語の授業がなかった」と聞かされたときは,開いた口がふさがらなかった。

 カリキュラム・マネジメントの主体はどこにあるか。

 これから,管理職は本当に激務になっていくだろう。

 廊下を歩く時間が1日5時間以上必要になる。

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全世界が賞揚すべきある指導者の言葉

 ある指導者が,「人権侵害行為を禁止する」というような趣旨の指示をしていたことが,報道されている。

 別に,「自分自身はどうなのだ」という,だれでもわかっている批判的な言葉を表明する必要はない。

 ただ,その発言自体の素晴らしさ(当たり前さ)を,賞賛することが可能なすべての指導者は,賞賛すべきである。

 今まで世界からほとんど賞賛させることがなかった国が,その対象になることはすばらしい。

 指導者が「藁をもつかむ」状態になる前に,国民の意識が変わることが望まれる。

 怒りの矛先転嫁にも限界がある。


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インフルエンザによる高校入試の追試

 このブログでは,新型インフルエンザが流行したときに,高校入試では受験生に別室受験などの機会を確保しないと,受験会場での感染拡大の恐れがあると指摘していた。

 先日の報道では,文科省から,高校などに対して,インフルエンザにかかった生徒に追試の機会を設けるように求めた通知が出されたとのことである。

 この通知がいつ出されたものかはわからないが,追試の問題作成,追試の受験日の設定などは,急にできるわけではないから,これからの入試ですぐに採用されるわけではないだろう。

 東京都立高校で言えば,二次募集の前に一次募集の追試を行うということになる。

 文科省は,引き続き調査を行うとしているが,きっと明らかにならないだろう数字がある。

 それは,本来,インフルエンザにかかっているので,出席停止期間なのに,隠して受検しに来た生徒の数である。

 実際に高熱を発しており,いかにも体調が悪そうな生徒なら,監督者が見つけて,保健室や別室で保護することもできようが,試験に集中している生徒すべてをチェックするわけにもいかない。

 感染症にかかった生徒の受検機会の確保は,とても難しい問題である。

 追試を行うべきかどうか。別室受検を認めるかどうか。

 「各学校に任せる」ということにすると,学校による対応の違いが問題となってしまうから,教育委員会として何かの決断を下さなければならない。

 新型インフルエンザの対応について,私の甥っ子が受検する可能性があったいくつかの高校に問い合わせをしたら,教育委員会から電話がかかってきて,「余計なことを聞くな」という恫喝があった。

 高校の管理職の判断は,「黙っていること」「クレーマーの処理は教育委員会に任せること」であったのだ。

 たった一人だけ,返事をくれた副校長先生がいたが,都民ファーストのこの先生にまで迷惑をかけてしまったとしたら,申し訳ないと思う。

 高校は,無償になったとしても,義務教育ではない。

 義務ではないのだから,別に進学できなくてもいい。

 大学進学実績を出したい高校で,受検生が優秀だった場合は,きっと「どうにかしてあげたい」と思うだろう。

 新型インフルエンザのときは,「切り捨て」に過ぎない態度だったものが,

 知事が変わったことで,どんな変化が見られるのか。

 もちろん,本当に変わらなければならないのは,教育そのものなのであるが,

 感染症によって進学の夢を絶たれる子どもを生まない仕組みは必要だろう。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より