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カテゴリー「公共空間と私共空間」の102件の記事

すぐに嘘がつける子どもの言い逃れの仕方

 嘘をつくことが習慣になっている子どもに1年か2年おきくらいに必ず出会う。

 空気を吸ったりはいたりするのと同じくらい自然に嘘がつける。

 嘘というのは,自分がやったことを「やっていない」と言うだけではなく,

 ほぼ同時に「やっていない」ことをやったと言うことが多い。

 教師である私が直接見ていたその場のことであるにもかかわらず,

 すぐに見破られる嘘がつける子どもとは,どのように育ってきたのか。

 これから,どのような大人になっていくのか。

 大人になった見本が,その子どもの親だった,という経験もある。

 一体全体,家族でどんな「だましあい」をしてきたのだろう。

 こういう人たちの「言い逃れ」の方法は,他者への攻撃に尽きる。

 それも,相当の激しさをもって攻撃してくるので,気の弱いセンセイだと問題の本質を見誤ってしまう。

 そこが狙い目だということを知っておくべきだろう。
 

 時の人となった「K氏」は,すぐにばれる自己の経歴を偽った報告をしていたことがわかっている。

 大学にしろ,就職先にしろ,小学校経験34年(?)にしろ,バレたあとのことを考えずにその場の思いつきで書いてしまう人はいるものだ。

 職員になることを断った人物の名前を名簿に載せていたこともわかっている。

 野党の代表質問に立った人が,「証人喚問での発言は重い」と語っていたが,

 私は偽証罪以上の重い罪を背負う可能性のある人には該当しない指摘だと感じた。

 私の目は別に精密な嘘発見器ではないのだが,

 嘘を平気でつく人の態度は,肌感覚でわかってしまう。

 幼稚園児を本気で「犬臭い」「おぞましい」と罵ることができる神経が,「教育者」にふさわしいものかどうかなど,「街の声」を聞くまでもないだろう。「おぞましい」のはどちらなのか・・・・。

 このK氏そっくりのD氏というのがこのブログ村に生息している。

 「しょうさん」という良識あるブロガーがあまりにひどい記事をたしなめてくださっているが,

 D氏の返答は,「あいつの方がひどい」というのだから,まさにK氏と瓜二つである。

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嘘がつけない人の言い逃れの仕方

 今まで何百人の子どもの生活指導をしてきただろう。
 
 重たい問題でも100人を超えている。

 こういう子どもを相手にし続けていると,嘘をついているかどうか,たいていは見破れるようになってくる。

 中には嘘なのだが真実っぽい話をする子どももいて,逆にバレやすかったりもする。

 問題行動を繰り返す子どもの中には,親の教育のおかげか,本人の性格かはわからないが,嘘がつけない子どももいる。

 こういう子どもの共通点は,「僕はやっていません」とは絶対に言わないことである。

 「やったのはあなたですか」という質問に,「はい」「いいえ」では答えない。

 「だれかの妄想だ」

 「証拠はないはずだ」

 「ぼくがやったと言っているやつは嘘つきだ」

 これですでにバレている。


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某芸能事務所と教育現場の共通点

 超人気グループの解散にともない,某芸能事務所では,若手人気メンバーやマネージャーの退所が相次いでいるらしい。

 このままだと,事務所には大ベテランと新人しかいなくなってしまう。

 ・・・という記事を読んで,これは今の教育現場と似ているなと思った。

 大ベテランがいるうちは,まだ「崩壊」はしないだろうが・・・。

 教育現場において,団塊の世代の大量退職のあとにひかえているのは,若手の大量採用である。

 ある自治体では,教職経験がごくわずかなセンセイがすでに職員の半分以上を占めているということである。

 今後,このような学校が増えていくのと同時に,

 「マネージャー」=教育管理職のなり手がいなくなっていく。

 私は30代半ばで指導主事に任用されてしまったが,30代半ばの管理職も今後,登場しかねない。

 日本では,指示をして部下=平教員に仕事をどんどんやらせるタイプの副校長・教頭ではなく,自分ですべて抱え込んですませてしまう人が多い。やる気はあっても,事務仕事ができない人はさすがに管理職には任用されない。事務仕事ばかりしている管理職の姿を見て,ますます多くの平教員は平教員のままで終わりたくなってしまう。

 私は別に,30代半ばの管理職がいけないと言っているわけではない。

 ただ,私が最も大切だと考えている「教員の育成」ができる管理職がどんどん減っていってしまうことを危惧している。

 能力がある人は,縛りがきつい公教育の現場から去って行ってしまうかもしれない。

 タレントを育ててきたマネージャーと同じように酷使されている教師たちにとっての生きがいとは何だろう。

 自分の仕事のあとを継げる人を育てる力が失われた組織の先行きはどうなるのだろうか。


 芸能事務所に所属しているタレントが「人気」を保つ上で,「悪いイメージ」「黒いイメージ」は致命的な問題になるのだろうが,

 公立学校というところは,今日も多摩地域の小学校教諭が女子児童に対する強制わいせつの容疑で逮捕されていたことが報道されたように,とにかくイメージはもともと最悪の場所である。

 それでも,「そこに通うしかない」「そこに通わせることを行政に指示される」子どもや親にとっては,頼りにせざるを得ないのがセンセイである。

 自分の子どもが「頭が悪い」とレッテルを貼られ,地域の関係者に顔写真と住所が配られようとも,生活基盤のある場所で生きていくしかない人もいる。

 学校で夢を失いかけている子どもたちの救済者として,芸能人に期待したい気持ちは強い。

 学校以外の場所で夢を追い求める子どもの姿の方が,むしろ正常のように思えてくるが,自分たちを育ててくれた教育のシステムを支える人材を絶やしてもいけない。
 
 小さな子どもたち,思春期の子どもたちに夢や感動を与えるタレントたちも,働く環境は実のところ学校現場と変わるかもしれないが,「会社が潰れる」想定がある組織の方が,まだ正常化の可能性も残されていると思われる。

 良いマネージャーが次の良いマネージャーを育てる環境のある職場になることが,タレントにとっても望ましいことだろう。

 学校にとって「正常」であることが「異常」だなんていうことにならないうちに,教師が教師を育てられる環境を整えることは非常に重要ではないかと思われる。 
 
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アクティブ・ラーニングを導入していない国の方が,問題解決能力調査の結果に優れている理由

 「詰め込み型の学習」とは何か。

 たとえば,百人一首をすべて暗記すること。

 これは「詰め込み型の学習」だろうか。

 授業で先生が50分しゃべり続けている。

 生徒がノートにひたすら内容をメモしている。

 これも「詰め込み型の学習」だろうか。

 私の考えはこうである。

 「学習」とは,そもそも「主体的なもの」である。

 実は,「教師が話をしている内容に耳を傾ける」こと自体が,かなり「主体的な態度」なのである。

 なぜなら,「寝ている」「話を聞かない」「自分で好きな本を読む」ことも可能だからである。

 もちろん,「自分で好きな本を読む」という行為も主体的な態度である。


 筑駒出身の企業人がどこかに書いていたが,授業を聞いている生徒は2~3割だったらしい(もちろん,聞いていないようで大事な部分は聞き分けている人はもっと多かったものと想像できるが)。

 他の生徒は,自分で別の教科の問題集を解いていたり,将棋の研究をしていたりと,「積極的に(授業とは別の)学習に取り組んでいた」のだ。

 では,授業を熱心に聞いて,メモをとる態度は,「主体的」とは言えないのか?

 もう一つ念のために付け加えておきたいことは,「主体的」に学んだところで,必ずしも知識や理解が定着したり,思考力や表現力がつくとは限らない,ということである。

 
 「学習」で大事なのは,「教材」「学習内容」の量と質である。

 豊富な教材や学習内容にふれた子どもの方が,そうではない子どもよりも優れた問題解決能力を発揮できるのは,なぜだろうか。

 日本の公立小学校では,昔から問題解決型の学習が行われてきており,

 こういう学習(アクティブ・ラーニング)を行ってきた子どもとは,中学校に進学しても,

 問題解決的学習への意欲や態度は一定の水準を保てている。

 しかし,その成果が出ているかと言われたら,疑問が残る。

 中学校で問題解決能力を発揮している子どもたちの多くは,中学受験を経験するなどして,より多くの教材にふれる機会があった子どもたちである。
 
 そもそも,問題解決能力を発揮している子どもは,「詰め込み学習」をしてきたという自覚があまりない。

 「詰め込み」されたものは,「取り出し」がしにくい。
 
 奥の方に入って出てこなくなるものがあるイメージだが,「主体的」に学ぶ子どもの中には,
 
 多くの引き出しにきちんと整理したり,大きな引き出しの中に小分けの仕切りをつくったりして,

 「取り出し」が容易になる仕組みができている子どももいる。

 
 多くの教材・学習内容を与えるだけでなく,その有機的なつながりを意識させるという「指導の工夫」がなされた「一斉学習」があるからこそ,日本の中等教育の一定水準は確保されてきたのである。

 中等教育の「初等教育化」を防ぐ意味でも,タイトルの言葉を書いたメモを職員室の掲示板にでも貼っておいていただきたい。


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道具化される「天皇の権威」

 日本のはじまりとはいつのことか?

 日本独自の紀年法に,神武天皇=初代天皇が即位したとされる年(西暦で言えば紀元前660年)を元年とする「皇紀」というものがある。「皇紀」の正式名称は「神武天皇即位紀元」といい,「神武暦」「皇暦(すめらこよみ)」などともいう。「皇紀」が公的な暦として制定されたのは明治5年(1872)で,太陽暦が採用された年でもあった。

 今年は皇紀2677年に当たるが,社会での一般的な生活では,この数え方を目にすることはない。

 政治権力を持とうとする者にとって,その「権威」をどのように確保するかは切実な課題である。

 中国にならって,日本で「元号」が使われ始めたのは,西暦645年(皇紀1305年)のことであった。

 (まだ「日本」という「国号」もなかったことに注意しなければならないが)

 「大化の改新」とよばれる一連の政治改革で重要だったことの一つは,蘇我氏を滅ぼすことであった。

 「明治維新」では言うまでもなく,江戸幕府の滅亡から始まっている。

 「皇紀」の制定のタイミングを見ても,政治的権威をもつための手段として,「時間」の支配が重要だったことが想像できる。

 日本以外の国で,「独立宣言文」に日本の「皇紀」が使われていた国があった。

 植民地支配を受けていた国が抱える様々な課題を考えるきっかけになる「教材」である。

 「元号」の使用開始と比べると,「皇紀」の制定の理由については,政治権力をもとうする人の立場が異なり,「天皇自身が権威を高める」ことでなく,「天皇の権威を利用する」ことが目的だったと考えられる。

 日本では永く天皇の権威がそのときどきの政治権力によって守られてきたが,それは自分の権力を高める道具として利用した結果であったこともある。

 アジア太平洋戦争での「天皇の権威の道具化」は,日本の国民だけでなく,多くの人々に多大な犠牲を強いる結果となった。

 「天皇の権威」自体に敵意を向ける人もいるが,私としては「道具化」した政治権力に敵意を抱いている。

 戦後,GHQが占領政策の基盤として「天皇の権威」を利用したことで,新たな犠牲を生まずにすんだ,という面もあるので,「権威の道具化」がすべて悪いというわけでもない。

 現代では,「天皇の権威の道具化」が,今までのように「天皇の権威」自体を傷つけずにすむという保障はないという危惧を私は抱いている。

 新たな「元号」の制定をめぐる経緯を注視していたい動機がそこにある。


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理解するよりも誤解する人が多い教育論

 「アドラー心理学」は,理解する人よりも,誤解する人の方が多いだろう,とアドラー自身が語っているそうです。

 中教審の答申で,「生きる力」というキーワードは何とセットで使われていたか,よく理解している人は,どれくらいいるでしょうか。

 「ゆとり」教育とは,何のために,どんな方法で実現しようとしたか,ご存じでしょうか。

 もしこのことを知っていたら,現在の公立中高一貫校がどれだけ「約束違反」の代物か,理解できるはずです。

 「アクティブ・ラーニング」という,流行になりそうで,なりきれずに消えていこうとしているキーワードがあります。

 今,「アクティブ・ラーニング」という言葉を使い,調子に乗って本を出したり,雑誌で特集をしたりした出版社や著者は,みんなバカにされていますが,どうしてこんなことになったのでしょう。

 指導要領という法令に匹敵するものには,こんな「いかがわしい」言葉が使われないことは,はじめからわかっていたことですが,流行を追うことだけが得意で,中身の理解がほとんどできない人たちが多いのは,何も教育の世界に限った話ではないでしょう。

 「主体的・対話的で深い学び」と言い換えたところで,自分自身がその経験をしたことがない人に,いきなり「そういう原理原則で実践しろ」と言われても,困ってしまうか,どさくさに紛れて,「それっぽい」ことを導入してお茶を濁すかしかありません。

 人は,自分の都合のよいように解釈することが得意です。

 「話し合い」活動を多く取り入れていた教師が,「私は昔からアクティブ・ラーニングを実践していた!」と得意になることくらいは,「可愛い」もの。

 自分にとって都合の悪いことには,耳を貸さない。

 特に,人の「生き方」に関することにふれる教育や心理学は,

 「オレ様の理論」をもつことが優先されやすく,現場の教師などと違って,

 特にそこにしか存在理由がない人たちにとっては,「オレ様の理論」を守ることが死活問題になるわけです。

 実践者が全教員の1000分の1に満たなくても,「全国でこんなに広まっている!」と宣伝しなければならない背景には,こんな事情があります。

 しかし,現場における教育という仕事は,他人の「理論」にかまっている余裕はありません。

 現場の状況というのは,常に流動的です。

 教育について,あり得ない「前提条件」をつきつけられて,目の前の状況に対応できずに苦しんでいる教師には,「被害者」でもあるという面もありますが,事態が収拾できなければ,「指導力不足教員」という烙印を押され,教員としての残りの人生は,その「称号」を背負ったまま,学校をたらい回しにされる運命になります。

 自分の理論を取り入れてくれる教師を「同志」などと呼んで,「敵」を増やし続けている人間が守っているのは,「子どもの未来」や「あるべき教師」ではなく,・・・。

 さまざまな教育論は,きちんと理解され,実践されるとこういう良い効果があります,という宣伝だけではなく,こういう誤解も受けやすく,もしその誤解のもとで実践されると,こういう問題が起こりえます,という注意喚起も必要なのです。

 教師が,教壇に立つ前に,習得してあるはずの「理論」とは何でしょうか。

 教員免許を取得した時点で,習得しているはずの「理論」とは?

 教員採用試験に合格した時点で,習得していると見なされている「理論」とは?

 教育現場では,「理論」をどうこうと批判する以前に,教師になる時点では身についていなければならないはずのことが,大いに欠落しているという致命的な大問題があることを,証明してくれた本があるので驚きました。
 
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「ヘンな人」が「よき人」を駆逐していく

 ヘンな人を邪険にする集団より,ヘンな人を大切にする空気をもった集団の方が,

 人間集団全体としてはうまくいくかもしれません。

 「ヘン」と言ってもレベルはさまざまなで,高い・低いや浅い・深い,広い・狭い,早い・遅いなど,四次元空間の「ヘン」さが存在するので,だれでもどこからしら「ヘン」な部分はあるわけで,

 そういう「違和感」が全部お互いの「敵」になってしまったら,すべての人を排除する方向に流れやすくなってしまうはずです。

 ただ,残念ながら,その逆のことも起こってしまうのが人間集団です。

 「ヘンな人」のために,「よき人」がどんどんやる気をなくしたり,嫌気がさしたり,「こんな場所にいたくない」と思ったりする。

 いじめはしたくない・・・としたら,自分がいなくなるしかない・・・「いじめ防止」とは,「人間からの遠ざかり推進」という面ももってしまっていることが怖いことなのです。

 気がついてみたら,本当に自分勝手な人間しかいなくなってしまった・・・

 そういう学校は,生徒の荒れが遅れてやって来るので,原因がつかみにくいのです。

 子どもの問題は,大人が引き起こしているものが多いことをどこかの機会で実感しておきべくでしょう。


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教育への情熱は,どこに消えたのか?

 教育論・教育問題を語る意味は,どこにあるのでしょうか?

 子どもの教育のために,真剣に語れる教師は今,どのくらいいるでしょう。

 教育への情熱を語りにくい情勢があるのは確かです。

 定時に帰り,個人の時間を大事にすることが大事な人や

 家事や育児のために担任をもっていない人と,

 何時まででも学校に残り,次の日の授業の準備をしている人を比べてしまうことはタブーです。

 部活動の指導の能力も意欲もない人と,

 大学時代まで自分がやってきた種目を子どもに教えている人を比べることもタブーです。

 いかにも楽に指導ができそうな「すぐ役立つ本」ばかり読んで,

 ろくに教材研究をしない人と,

 専門書を自費で買い,教科書や指導書が何を省いてしまっているのかを突き止めようとする人を比べることはタブーです。

 教育現場では,真面目に教育に取り組むための空気感が欠けているところがあります。

 職員室に帰ると「息抜き」しかしないようなおしゃべりな人と,

 生徒の記録ノートや生活ノートにびっしりコメントを書き込む人を比べることもタブーです。

 教育への情熱を感じられない現場教師がいる以上,

 「真面目な人」は生きにくく,いつ足を引っ張られるか,気が気でないのが教育現場です。

 なぜこんな状況になってしまったのかは,教育に関係してきた人たちのブログを拾い読みするだけでよくわかります。

 怨念の渦巻く空気の中で,もし,だれの助けも得られないで困っている人がいたら・・・

 教育長ならどうしますか?


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都心で見つけた「避難小屋」を訪れる人たち

 営業をやめたパン屋さんに近づくと,「男性」「女性」別々の入口が用意されていた。

 中に入ると,風呂屋の暖簾がかかっている。

 ここはどこなのか?

 奥から現れた女性は,週2回ここにいらっしゃる「管理人」であった。

 いろいろなものを見せていただいた。
 
 廃業したパン屋さんが使っていた,種類ごとのパンの値札。

 端数を見て,見学に訪れた生徒は,すぐに「これ,消費税が3%だったころのものだ!」と気づいた。

 他にも,廃業した旅館から運ばれた徳利やお猪口。

 「ケロリン」の桶。

 そして,奥には風呂屋の下駄箱。

 なぜか,奥の部屋には黒板があったが,何でも不登校の子どもがここで勉強することも可能なのだそうだ。

 もとは神社がたっていたこの場所は,地域の人々の特別なコミュニティー空間にする構想があったとのこと。

 「ものを捨てることが大切」という人の気持ちもわかるが,

 私は完全に「ものを捨てられない人」の代表であり,「ものをとっておいてくれている人」が大好きである。

 ここには,九州出身の小説家の方も訪れたそうで,出版された文庫本が置いてあった。

 何が人を引付けるのだろう。

 神社の跡地ということもあり,パワースポットの一種になっているのではないか。

 再び訪れずにはいられない,そういう場所である。

 ちなみに,昼食は,その近くの大正3年創業のお店でいただいた。

 地域を歩くのは,本当に面白い。

 前の記事で紹介した消防士さんも,「ブラタモリ」が大好きだそうだ。


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現場での教育という仕事は,「攻撃」の対象になった時点でアウトです

 教育現場ではない「遊び場」では,教育に関するどんな主張をしようが,自由です。

 「遊び場」での自己主張や,一日だけ現場を借りて行う「お遊び」は,

 たいした実害もないでしょうから。

 しかし,実際の「修羅場」=教育現場は違います。

 現場は,「攻撃」にはとても弱い場所です。

 だから,多くの管理職は「守備」重視で,そういう能力が高い人のもとでないと,危なくて仕事もしていられません。

 「指導力不足」を理由にした「攻撃」ほど扱いが難しいものはありません。

 授業規律の意義を知らない小学校の先生が,中学校に異動してきて,たいへんな苦労をしていることを直接相談されたことがありました。

 できることなら,早く小学校に戻してもらえるように,管理職にお願いした方がいいでしょう。
 
 ただ,私の学校に研修に来られる先生は,将来の管理職候補でしょうから,こういう苦労をどう乗り越えるかが大事,という見方もできますが・・・。

 地域によっては,東京都内ですら,小学生のような中学生がいる学校もあります。

 小学7年生から8年生に上がり,最後の一年で中学生になって,高校に進学していくような学校も。

 一方で,中学校に入ったときから気合いの入った「中学生」になっていく学校もある。

 極度の人間不信集団がいて,授業規律が保てない学校で,やりがいのある教育をするのは難しい,というタイプの人は,教師をやめるか,小学校の方が向いているでしょう。

 小学校でも,担任教師がある宗教の信者で,明らかにそれとわかる教育をしていたために,「攻撃」を受ける前に管理職が手を打ったこともありました。

 多くの小学生には,「抵抗能力」はあっても,「批判能力」はありません。
 
 だから,問題がばれないことも多いのですが,

 ばれたとたんに「担任を変えろ」の大合唱が始まりますから,管理職は気が気でないのです。

 公立学校には,「異動」という「最終兵器」があるので,結局,攻撃対象になる学校はローテーションする。

 「不幸な管理職」にならないことを望む一方で,そんな仕事を引き受けたくない,という人も増えるのです。

 教員の世界は狭いので,悪い噂は一瞬で広まります。

 「昔はこうだった」と陰口を言われるくらいなら,管理職なんてならない方がいい。

 小学校も中学校も,いずれ,管理職を外注する時代が来るのではないでしょうか。

 
 「攻撃」への対応のプロの養成も求められる時代です。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より