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カテゴリー「公共空間と私共空間」の112件の記事

「お前なんかは同志じゃない」

 大学のサークルのようなノリの研究会に,現場の教師が参加するのはとてもいいことだと思います。

 人間の承認欲求を簡単に満たしてくれるのは,やはり多くても十数人程度の寄合でしょうから。

 私はこういう研究会の人たちに,ぜひとも他の研究会の「道場荒らし」をしてほしいと思っています。

 小学校の学級王国連合みたいな趣味のサークルものがただ数だけ増えていっても,全国の教育の水準は決して向上しないからです。

 「道場荒らし」を負かせることができて,初めて,研究会の存在意義が出てくるわけで,

 「お前は考え方が違う人間だ」

 「お前は仲間じゃない」

 などと思考停止してしまっては,外部から見れば「だから趣味集団ではダメなんだよ」で終わってしまいます。

 サークル内で慰めて合っているだけでは,子どもたちは救えません。

 学校の教師として「一人も見捨てない」と豪語するからには,自分の教室だけではダメで,

 その学校の子どもたち全員,いやいや,すべての子どもたちに目が向けられていないといけないのです。

 「信念」や「方法」はいくらでも語れるのに,「内容」が語れない人間が増えてきています。

 行政にいた私の感覚だと,現場の教師というより,事務方が増えてきている印象です。

 教師の現場感覚から最も遠い位置にいるのは,事務方でもなく,大学のセンセイかもしれません。

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新聞による「印象操作」の逆効果

 首相と昵懇の間柄にある人物が起こした問題への関心は低く,敵対する人物への関心は高い。

 「政治の透明化」を果たそうとすると,「守秘義務違反」に問われて処罰されてしまう国を民主化するためにはどうしたらよいのか。

 首相が国会で「この新聞を読めばわかる」と名指しした特定の新聞社のおかげで,「印象操作」と相手を非難する人間を支持している側の方が,よほど「印象操作」をしている「印象」が国民の間に広がろうとしている。

 新聞社のこうしたとてもわかりやすい態度が,強すぎる政権の「流れ」を変えるきっかけになるかどうか。

 大金を使って選手を集めても全く成果が出せない弱すぎる巨人のように,報道機関が見切られる日は来るだろうか。

 新聞社内でも,「忖度」の問題を報道する側が「忖度」の主体となってどうするのか?という疑問を持っている人がいるに違いないし,

 「前川の乱」が「文科省の乱」に,そして「反内閣府連合」に発展しそうな雰囲気も感じられる。

 日本がいつの間にかどこかの国にそっくりになっていることに多くの国民が気づいたときには,手遅れになっているかもしれない。

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ヘビににらまれたカエルが語る「~できない」の意味

 文書を存在を「確認できない」という言葉の意味がよくわかった。

 「確認できてはいけない」状況下で,カエルはじっと耐えていなければならないわけである。

 同様に,カエルににらまれたハエ(大学)がおり,ハエににらまれた学校が存在する。

 「印象操作」とは,自分にとって都合の悪い相手の評判を貶めたり,逆に自分の方が正しい雰囲気を高めたりするためのものだが,

 「相手が印象操作をしている」と公言してしまうと,「印象操作」が存在することを認めることにもなるので,墓穴を掘ってしまった形になる。組織の外に出た人間に対する「印象操作」に失敗したことで,後は報道機関への圧力しか選択肢に残らなくなってしまった。

 威勢のいいハエが飛び回っているうちに,人間がどこかで立ち上がらないといけない。


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「離脱」が「離脱」を生む

 私は文部科学省が進める教育政策への協力から「離脱」しました。

 「離脱」の本当の理由はここでは書けません。

 私がある事実を知ったのはなぜか,だれから知ったのかがわかってしまうからです。

 学習指導要領の解説が公表されれば,わかることかもしれませんが。

 「文部科学省からの依頼が断れるのはあなたの学校だけだ」とも言われましたが,私の学校にはもうそんな力はありません。表向きの理由は,「校務に支障が出るから」ですが,平日毎日16時間働けば,支障は防げました。

 また,私が加わろうが加わらずにいようが,たいした貢献もできないことがわかっているからでもあります。

 「離脱」することで「良心」が守られるという満足感も得られます。

 
 パリ協定「離脱」を表明したトランプ政権から「離脱」した助言者たちは,今,どのような思いでいるのだろうか。

 私とは違って,「離脱」の意味が非常に大きい人たちだったのではないだろうか。

 
 国際社会に背を向け始めたアメリカと同じように「危ない」状態になっている国があります。

 報道の自由が脅かされているのは,他国の話ではありません。

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「任せながら鍛える」のではなく「鍛えながら任せる」?

 教育の世界には,「言葉遊び」で戯れ合う暇な人たちがいる。

 「任せながら鍛える」のではなく,これからは「鍛えながら任せる」ことが大切だ,などと主張している人がいた。

 両者の違いは何だろうか。後者は「任せる」ことに主眼をおく,という意味だろうか。

 教師が課題を与えておいて,「任せる」も何もない。子どもは「やらされている」だけである。
 
 「任せながら鍛える」ときの「鍛える」方法とは何だろう。結局「任せてはいない」のではないか。

 「任せる」も「鍛える」も,教師の側の姿勢・態度である。

 「任せる」ことの価値が,何となく「鍛える」ことの価値よりも高く思える。

 ただそれだけのことでは,何の意味もない。だから「言葉遊び」だと言っている。

 事実や関係性を読み解く能力がついていないのに,自分がいいなと思う姿を子どもが見せただけで安心してしまう教師が増えるのだけは阻止すべきだろう。

 子ども自身が重要な課題を見つけ出すまで試行錯誤させることには意義がある。

 これが「任せている」状態というのだろうか。見方を変えれば,課題発見力を「鍛えている」状態になる。

 こういう「言葉遊び」や, 

 「子どもの誰一人も不幸にしない」などという自分勝手な願いではなく,

 「子どもの思考力・表現力を高める授業をしたい」という具体的な願いをもった教師がいるとする。

 「思考力」が数値化できるとしたら,10もっていた子どもを12にしたり,
 
 3もっていた子どもを4にしたりすることが「高める」という言葉の意味である。

 ただ,残念ながら,「思考力」の数値化は難しい。

 「表現力」はある程度,測定することができるかもしれないが,「思考力」は「量」的なものではなく,「質」が問われる能力である。

 言葉では表現できない子どもに,イメージできていることを絵で表現させたことがあるが,

 そこで初めて「かなりの思考力がもっていた」ことがわかったことがある。

 「思考」したことを「表現」する方法は様々であるが,子どもの特質に応じた方法を考えておかなければならない。

 教師が子どもに課題を与えるときは,その解決の方法を「任せる」のではなく,

 選択肢を与えて「選ばせる」ことが必要な場面がある。

 「思考」させるときに,教師がどこまで具体的な指示を出すかも,様々な要因によって変わってくる。

 時間に余裕がないときは,「~が~であることを発見するために,2つの資料を比べてみなさい」

 というところを,子ども自身に発見すべきことを気づかせるために,
 
 単純に「比べてみなさい」と言ったり,「2つの資料を見てみなさい」と言ったりする。

 では,「~が~であることを発見した」生徒は「思考力が高まった」と言えるかというと,そう簡単には判断できない。

 もともともっていた思考力を活用しただけなのかもしれないから。

 一斉授業はテクニック次第でどうにでもなる,とほざいている連中がいるが,

 教育はそんなに簡単な仕事ではない。

 教師は学習状況を授業の中で把握して,子どもの活動の種類を調整することが求められる。

 当たり前のことだが,個々の学習状況を把握するためには,個々の生徒の学習状況が把握できる場面をつくらなければならない。

 教師の中には,生徒が話し合いをしている場面を「学習状況」として把握しようとする人がいるが,

 「協働性を高める」ことがねらいならそれでよいとしても,

 「個々の思考力を高める」ためには,個々が今どのような状況にあるかが把握できないといけない。

 だからテストのときはもちろん,「だれともかかわらないで一人で活動する場面」が授業では絶対に必要なのである。

 子どもが4人1組で教え合わされて,わかったつもりにさせられるような授業をしてはならない。

 これほど当たり前のことが理解できない指導者がついてしまう教師や教育実習生と子どもたちは本当の気の毒である。 

 価値認識を重視するあまりに,事実認識や関係認識がおろそかにされている学校現場は,要するに「思考力を奪う」場所になっているのである。

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動いたり話したりしていないと「学んでいない」と考える人たちがつくる落とし穴

 人間は,自分の頭脳を本当にしっかりと使っているとき,どんな状態になると思いますか?

 ものを考えているときに,だれかが無神経に話しかけてきたら,どう感じるでしょうか?

 「話しをしながら考える」ことができる人間など,ごくわずかです。

 残念ながら,教育の世界には,もともと「座学」が大嫌いな人がいて,子どもが歩き回ったり話したりしているだけで,嬉しくなってしまう人がいます。

 小学校だけかと思いきや,高校の授業ですら,見当外れの意見が出ても,「ああ,自分の考えをもつことができていて素晴しい」と感動してしまう人がいる。

 事実認識も関係認識も誤っているのに,たまたま評価者(学校では教師)がもっている価値認識と重なっただけで,よしとされてしまう仕組みが世の中にはあるのです。

 だから,多くの人間が「騙される側」「利用される側」に陥っていく。

 子どもが勝手に動くことも話すことも放置して,結局何もわかっていない状態に子どもが陥っていくのを気にせずにすませられてしまう人が教師になったら,学校はどうなっていくのでしょう。

 価値認識を最優先させて,事実認識や関係認識をしっかり育てない国だから,先の戦争が防げなかったのではないでしょうか。

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前事務次官の「武士の一分」

 日本の政治は明治維新や占領期の変革を経ても,結局江戸時代と何も変わっていないような気がしています。

 国民がだめだから,こうなっているという見方もできるでしょうが,

 批判的精神が「うざいもの」とされる流れは,これからも変わっていかないかもしれません。

 日本の政治に最も必要なのは,正しいものは正しい,間違っているものは間違っていると堂々と言える人間の存在です。

 前事務次官は,辞めたことで言えるようになったようですが,

 きっと現職のときも,言いたいことはたくさんあったのでしょう。

 現職のときに言わなければ意味がないわけですが,

 私の場合も,行政にいたときは,「トップにかける迷惑」ではなく,「関係する多くの人々にかかる迷惑」を気にして,言いたいことは言えませんでした。

 「上の意向だから」・・・政治にかかわらず,どこの世界でも反論を認めない決まり文句が使われています。

 文書の存在がはっきりしたわけで,ここまで化けの皮が剥がれても,誤魔化し続けようとする姿を忘れてはなりません。

 同じことが何度繰り返されれば,国民の目は覚めるのでしょう。

 今回のことに限らず・・・ここ,重要なので繰り返します・・・今回のことに限らず,

 行政のあり方は,ゆがめられていたのです。

 前事務次官が会見で述べたように,

>これ以上、行政のあり方をゆがめてはいけない

 この意味を考えるヒントは,戦前にあります。

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結果至上主義の部活動と「全員に正解させる」教育の共通点

 目標だけを最優先させる精神は,多くの問題を生む。

 結果至上主義の部活動と,「全員に正解させる」授業には,全く同じ共通点がある。

 「できない」という状態や「失敗」を認めないということである。 

 「できていない状態」「わかっていない状態」=悪という単純な発想が,いかに子どもたちの健全な成長を阻害するか,教育現場に長くいる教師だったらわかるはずだ。

 「全員ができること」「一人も置いてきぼりにしないこと」を目標にする精神至上主義の教育をすると,どういうことが起きるのか。

 子どもたちにとっては,表面上の成果とは裏腹に,激しいストレスが蓄積していく。

 このストレスは「反抗」や「不満」といったものを根っことしない分,とてもやっかいなものである。

 人間は,内面の葛藤を抱えながら,成長する生き物であり,

 その葛藤は,年齢とともに変化する。たとえば教師だったら,単純な子どもとの関係から,上司との葛藤,学年の教員との葛藤,保護者との葛藤,地域の人々との葛藤へと「移行」していく。

 いつまで経っても子どもとの関係づくりが苦手な教師がいるが,子どもの方から「戦力外通告」されている教師は,もはや無理をする必要はなく,「助けてくれる大人」との関係を良好にするように努めるべきである。

 内面の葛藤は,「科学」では容易に解消できない。

 スクールカウンセラーに相談するだけで,問題が解決できるわけではない。

 だから,人によっては,「宗教」に救いを求めるようになる。

 「宗教」の特徴は,「絶対的に正しい何か」に信頼を寄せることから始まる。

 言い換えれば,「忘れること」「何もなかったことにすること」から始めるようなものだから,

 儀式的,儀礼的な同じことの繰り返しくらいなら問題ないとしても

 (ただここを最大の問題だと考える人がいるのも当然のこと),

 教育と宗教は決して接近してはならないものだということは常識だ。

 子どもたちに対し,まだ感覚的に理解不可能な「大原則」「約束」を押しつけて,

 自分は眺めているだけできょろきょろ,うろうろしているだけの教師を見かけたら,

 どんな本を読んでいるか確かめてみるとよい。

 
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子どもは教師を選べないが,教師は子どもを選び直せる

 学級経営や授業づくりに行き詰まって,自称・成功者たちが開く,3000円くらいが相場の有料のセミナーに参加したことがある教師は多いかもしれない。

 小学生たちは,学校教育の求めるレベルに照らしてみると,基本的に優秀で,真面目で,向上心にあふれているから,教師が自分の方に問題があるのではないか,と疑ってかかる姿勢は非常に正しい。

 教育の世界でいう「七五三」とは,小中高における子どもの平均的な学習到達度を指す。

 私が知っているデータに基づいて言えば,中の「五割」は当たっているが,小においては「八割以上」を達成している学級も少なくない。その程度のレベルしか想定されていないのが今の小学校である。(だから学力上位層・・・最近は,公立の中高一貫校を目指す子どもが一定数いるために,裾野が広がり始めている・・・は競って進学塾に通い,中学受験を目指すわけである。)

 中高に比べて,小学生に達成感を持たせることは容易いことである。

 百マス計算をやらせるだけで,生き生きしてしまう子どもはいくらでもいた(今もやっているのだろうか?)。

 そんな時間はもったいない,ということに気づき始めると,今度はアクティブ・ラーニングだ,と目先を変える。

 何を試してみても,どうもしっくりこない。流行の先端ばかりを追い求めて,結局は単純に自分が勉強不足であり経験不足であって,同じ学校の教師たちから学ぶ姿勢がないばかりでなく,子どもを見ることすらできていなかった自分に気づく。

 学校という建物の中で間借りをしているヨソモノに過ぎない自分から担任が交代するだけで,子どもたちががらっと変わる,学級崩壊がぴたっと止まる様子を目前にした教師たちは,とりあえず異動させてもらって,次なるチャンスに備える,という選択が可能である。

 子どもは,教師を選べないが,教師は,子どもを選び直すことができる。

 親と教師の違いがここにある。

 教師たちは,いったいどれくらいの子どもたちを見捨ててきたのだろう。


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「あいつは自分のことしか考えていないやつだ」は「悪口」か?

 「先生,相談があります。××くんが,僕の悪口ばかり言うんですよ」

 「どんな?」

 「自分のことしか考えていない」

 「人の話を聞かない」

 「自分と違う考えを認めない」

 「証拠を示さないくせに証拠があるんだと言い張る」

 「高圧的な話し方だ」

 「それから・・」

 「みんな正しいことですか」
 
 「そうですね」

 「どうしてそういうことを言ってくるんでしょう」

 「自分のことではなく,他人のことを考えて,ときにはクラスの仕事を優先してほしいから?」

 「人の話を聞いてほしいから?」

 「自分と違う考えも,検討してほしいから?」

 「証拠を示してほしいから?」

 「穏やかな話し方をしてほしいから?」

 「なるほど,そうなんじゃない?」

 「はあ・・・」

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より