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カテゴリー「公共空間と私共空間」の124件の記事

政治の世界で目立つ「ダメリーダー」の教育効果

 朝のニュース番組から,世界の政治の動きに関する報道が途切れることがないのは,

 主にTさんとKさんとAさんのおかげである。

 発言が二転三転し,「ああ,これがホンネなんだな」とだれでにもわかってしまう指導者もいれば,

 一貫して「自分のせいではない」と言い張る指導者もいれば,

 「弱い犬ほどよく・・・」という諺がピッタリの指導者もいる。

 3人の指導者には,他のだれかが代わりにやっていけるわけではない,という無類の強さを持っているのが共通点である。
 
 その強さの源泉は,失敗したことにあるのではなく,実績そのものにある,というリーダーもいる。

 報道では耳にできないが,Aさんがどんな仕事をしているかは,HPでしっかり報告されているから,どこかのニュース番組ではぜひ取り上げてほしい。何も,これを取り上げたから,「体制べったり」というわけではない。報道は,やはり偏りが大きすぎて,「何かもっと大事なニュースが報じられていないのでは」という危惧を国民は抱いていると思われる。

 さて,3人のうちの2人は,「支持率」と「不支持率」が示されながら批判されているので,

 ほとんど「メッタ撃ち」の状態にある。

 「支持率100%」の指導者の行き先は,歴史を学んでいるほとんどの人が知っているのだが,

 多くの人は「とばっちりが来ないか」という心配をしているわけである。

 テレビのニュース報道の特色は,「情報を送り出す側と,情報を受け取る側の双方が正義の側」という「印象操作」をしっかりと行っていることにある。

 「悪」の部分をクローズアップすることで,「そういう人たちが身近にいないでほしい」という欲求を高めてくれる。

 超優秀な反面教師をつとめているのは,もちろんリーダーだけではないが。

 だれかのおかげで,部下を恫喝したり,生徒を怒鳴ったりできる上司や教師は激減するだろう。

 その場面を録音されていて,ネットに流されでもしたら・・・。

 これはダメなことですよね,という確認があっという間に何千,何万という人たちを対象にしてできてしまう時代である。テレビではさらにケタが違う(だからいまだに日本ではテレビ広告が消えない)。

 では,「どうすればよいのか」という答えは,どこかに示されているのだろうか。

 リーダーのその言葉ではダメなら,他の言葉があるのか。

 Tさんの場合は,どうやらその「他の言葉」を言わされた後に,ホンネが出てしまったようなのだが・・・。

 Aさんの場合は,「自分が指示したことはない」というのは正しい言葉かもしれないのだが,「指示した」「指示しない」という事実が大事な国ではないことは,自分自身が一番よくわかっているはずである。

 「自分が考えていることがすべて正しいと認識する」反知性主義の動きを止める力はどこにあるのだろう。

 このまま「正義の味方」のつもりでいると,「正義の見方」がわからなくなってしまうのではないか。

 ある政党からは,どんどん人が抜けていっている。

 こういう政党ほど,「再起不能」という言葉がぴったりくる党はないように思われる。

 大小,様々な組織の「危機」を気楽に眺めているうちに,自分の首を自分でしめていた,なんてことにならないよう,足もとの危機に注意を払うべきことを胸に刻んでおきたい。

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「失敗から立ち直ったつもり」の誤解が最大の失敗

 「失敗から学ぶ」系の本を読んでいて,たまに見つかるのが,

 「失敗に気づいて改善した後に出てきた失敗に気づけていない」ことがわかってしまう話である。

 結局,「点数至上主義」になってしまっている実践ほど痛いものはない。

 もともと「点数至上主義」だったのだから,何も進歩していない,という証拠にもなってしまっている。

 「結果が出てれば,理解されるはずだ」というご都合主義というか,批判回避主義も失敗の原因であるが,

 こういうタイプの失敗原因は,直しようがない。

 「点数がとれれば,成果が出たことになると言える」と思うのは,

 教育の実態がわかっていない,教育行政にいる教育の素人たちだけである。

 すでに教育の世界では,「そういうテストで点数がとれたところで意味がない」ことが常識になっている。

 社会の要請に応えられない教育なのに,意味のない要請をしてきて満足してしまう人間が一部にいることが失敗を生む背景となっている。

 子どもたちが全員そろってお互いのレベルを下げまくっている実践がどういうものか,もう少しだけ実践が有名になってくれば,一般の人たちにもわかってもらえるようになるだろう。

 塾で勉強している子どもたちのおかげで,みんなができる気になったという教育実践は,いずれ,塾の宣伝にしか役に立たなくなっていくだろう。

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女性社会が男性社会に変わることが中1ギャップの最大の原因か?

 中1ギャップを解消するために,さまざまな取組が行われている。

 小中一貫校の設置も,その一つだろうが,中学校1年生をナントカ学園7年生と呼んだところで,中学校の教育課程の学習についていけない生徒がいなくなるわけでもない。

 ギャップを感じにくくなる一方で,「中学生になった」という実感をもちにくいことは,子どもの成長にとってマイナスになってしまう側面が大きすぎる気もする。

 英語教育を小学校から始めるというのも,中1ギャップ解消への改革として期待される面もあるが,

 「英語教育の研修」を終えた小学校教師たちの多くが,「撃沈」して帰ってくるという話を耳にした。

 「私たちが英語を教えていいのだろうか?」という疑問というか「適性の乏しさ」を痛感してしまうというのだ。

 多くの教師に「道徳も同じでしょ」と言いたくもなるところだが,「英語があるから小学校教師にはなれない」という理由で,教師志願者が減っていくことも危惧しなければならない事態が目前に迫っている。

 制度をいじると,必ずと言っていいほど「悪い方向へ」の効果が高まっていく日本の教育界である。

 私は,中1ギャップの原因は,小学校と中学校・高等学校の教育課程,学習指導要領に示された内容にあると考えているが,もう一つ,「文化の違い」が無視できない要素であると確信している。

 小学校と中学校・高等学校の「文化の違い」は,たとえば「学習指導」や「生活指導」に顕著になって表れてくる。

 その点は何度もこのブログで取り上げているが,その他に,小学校=女性社会から,中学校・高等学校=男性社会に変わることが,非常に大きな不適用要素として直撃してしまう子どもがいると感じている。

 下の図は,東京都の中学校の男女別教員数の推移を示している。

 27

 小学校と比べると,男性教員の割合が高い。

 管理職になると,男女比はさらに男性に偏ることになる。

 少し前の記事でも書いたように,「男性」「女性」と区別する時代ではないかもしれないし,経験が10年未満の人が半数以上を占めるような小学校になってくると,今までとはまた異なった文化ができているかもしれない。

 しかし,「戦闘向き」の集団である「男性の群れ」がもつ独特な中学校の生活様式は,小学校には見られにくいのではないか。

 この文化の違いに,敏感に反応する子どもが少なからずいるはずなのである。

 別に,「女性社会」が「戦闘向き」ではない,とは言えないだろうが,子どもにとってどっちが「アットホームな感じがするか」と問われれば,もちろん例外はいくらでもあるだろうが,「男性社会」よりは「女性社会」だろう。女性の育児や家事労働がまだ多い国ならではの感じ方である。

 「中学校に行くと,先生たちはみんな怖いよ」と小学生を脅す教員がいるらしい(私の教え子たちの多くが,みんなこういう脅しを受けていたことを知っている)が,どういう人だろう?

 そもそも,なぜ小学校に女性の教員が多く,中学校では逆になっているのか。

 そこに中1ギャップの原因が潜んでいるかもしれない,という予想から,少し想像してみた。

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男性中心になってしまう教育実践の落とし穴

 ある本には,12人の現場教員の実践に関する内容が紹介されている。

 すべて仮名なのだろうが,12人中,11人が男性である。

 小学校は5人の事例が紹介されているが,女性はこの事例のうちの1人だけである。

 どうして「男性中心」の実践になってしまっているのか,私には何となく理由がわかる。

 この本に書かれた教育の特徴は,現実離れした理想を抱くことが前提とされている。

 「どういう行動をとると得なのか」を子どもにわからせようとする嫌らしい実践でもある。

 女性教員には,肌感覚として,拒否反応が強いだろうことが想像される。

 男性教員が優れているからとか,そういう意味ではない。

 むしろ,逆の意味が真である気がする。

 「二兎を追う者は一兎をも得ず」というが,

 全兎を追ったらどうなるのか?

 「一人も見捨てない」という意思は,基本的にすべての教師がもっているものだが,それを現実的に実践しようとした教師は,結果として多くの子どもを見捨ててしまうことになるジレンマを経験しているはずである。

 津波が襲ってきたときに,「全員を救う」つもりで行動した教師が,逆にほとんどの子どもを犠牲にしてしまった教訓を忘れてはならない。

 今どき,女性教員がどう,男性教員がどう,なんていう時代ではないかもしれないが,女性の割合がかなり高い小学校で実践に加わる人が少ない現状には,それなりの「真理」が隠されているはずである。

 私はそこには絶対に近づけない「オゾマシサ」を強烈に感じている。

 もともと,「テクニックでどうにかする」主義だったそうだ。

 だれから学んだのかも明らかにせず,「オレ様のやり方」をひけらかす連中が増殖している。

 柔道にしろ,合気道にしろ,テクニックは大事かもしれない。

 しかし,相手を尊重する気持ちがない「何とかファースト」は,すぐに見破られてしまうものである。

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「結果を出すためには何でもする」哀しき学校現場

 全国学力調査の「成績」を上げるために,過去問をたくさん解かせたり,各自治体で似たようなテストを実施することが当たり前になってきたようだ。

 このテストのために,本来行われるべき教育ができなくなっていることはみんなスルーして,とにかく「結果を出す」ためにみんなで邁進している。

 学力面だけではない。

 体力テストの結果が芳しくないから,テストの本実施の時期を少しでも遅らせようとする自治体もあるようだ。

 「体力テスト」の種目の練習をする,という学校まであるらしい。

 結果至上主義は,こういう弊害を学校現場にもたらしている。

 このことの何が問題かがわかっていない人間は教育委員会の事務局にもいないはずだが,

 「数字がすべて」という「宗教」は,行政の世界にもずいぶんと浸透しているようだ。

 すべてが劣化に向かっていく社会で,まともな神経を何とか保って,子どもを成長させてあげることができるのは,やはり現場しかないのだが・・・。

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向かうところ,敵なし

 「1強」と呼ばれる立場になれるのは,どうしてか。

 「他より圧倒的に強い」と言えるのは,原因ではなくて,結果に過ぎない場合もある。

 他が圧倒的に「弱い」ときに,自分が強くなくても,「1強」になれる可能性がある。

 プロ野球で最下位の球団でも,高校野球の大会に出たら,優勝がのぞめるに違いない。

 「強弱」とは相対的なものであり,パイの取り合いでは,

 「他がダメだから結局は自分のものになる」という結果が起こる。

 その典型を政治に見ることができた。

 教育の世界でも,似たようなことが起きている様子を目にすることができる。

 信じられない粗悪な実践事例が書籍化されているのだが,今の時代は粗悪品だから出版できるという事情があるようだ。

 何の準備もいらない授業実践が可能であるならば,飛びつきたいという教師が多いからである。

 最も大きな問題は,「適正な自己評価」の能力が欠けていることにある。

 ある政党もそうだし,他からの批判をまともに受けることができない人たち全てに共通するのがこれである。

 向かうところ,敵なし。

 良い意味ではなく,「学ぶ友なし」という「孤独」の意味を感じさせたい言葉である。

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つぶし役の必要性

 行き過ぎた生活指導が引き起こす問題が多く指摘されるようになっているが,

 生活指導が成立していない学校から上がってくる小学校7年生を何とかまっとうな中学生に育てるためには,たとえば,うそを平気でつき通すような習慣だけは消してあげるような「つぶす」指導が必要になってくる。

 行き過ぎた生活指導とは,子どもそのものをつぶしてしまうものを言う。

 「今の子どもたちはみんな弱い」という先入観があるために,

 多くの学校では,「及び腰の生活指導」やそもそも指導をする意欲も能力もない教師の存在が問題になっていることだろう。

 だから成長するきっかけ,自分を見つめるきっかけを得られないまま上級校に進学していく子どもが多くなっている。

 学校,学年には,「つぶし役」の教師が必要である。

 人間にではなく,行為に対して怒っていると子どもに理解させるのが「つぶし役」の役割である。

 悲しいことは,人間ごと否定してかかるセンセイがどこにも一定数存在してしまうことで,

 生活指導を傍観して,後で評論家のように偉そうなことを言ったり,

 指導の尻馬に乗ったようなかたちで余計な言葉を子どもに投げつけたりすると,

 せっかくの指導も台無しになってしまう。

 生活指導を行うときには,自分はもちろん,教師たちの特性の把握が不可欠である。

 フォロー役がいない場合は,「つぶす指導」をあきらめざるを得なくなるときもある。

 「つぶす指導」で傷つけられた自尊心を修復し,むしろ自尊心を回復させたり,生成させたりすることができる教師は欠かせない。

 学級担任とのかかわりが中心である小学校では,こういうチームプレーがやりにくいから,どうしても「個人」で完結するような指導のマニュアルばかりがはやっている。

 もちろん,一人で「つぶす指導」から「自尊心を生成させる指導」までを完結させられる教師が大勢いればよいのだが,それが難しいことは,かつて日本で当たり前のようにあった「家族」のドラマを見ればわかりやすいだろう。

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子ども不在の教師教育論の無意味さ

 元小学校教師と中学校教師の対談本を読んでいるのだが,冒頭3分の1は若い教師たちへの愚痴のオンパレードであり,よくこんな本が出版できたものだと驚いている。

 お互いに同じような「商売」をしている関係からか,最も大事なことには踏み込んでおらず,だれでも感じていることを確認し合っているに過ぎないやりとりは,読者の「時間泥棒」である。

 そもそも小学校の教師と中学校の教師がガチで議論する場など,ほとんどない。

 この本への私の期待は大きかったのだが,非常に残念である。

 本を大量に購入して読んだり,セミナーや研究会に参加したりしなければ,まともな教師にはなれないことを若い教師に納得させるような効果しかもたないのではないか。

 冒頭で「偉そうに俺たちを呼ぶんじゃない」「金を準備しておけ」などと主張しておきながら,実際には自分も同じようなことをしていることを対談で暴露している。

 こういう人に影響を受けている教師たちが気の毒でならない。

 
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「頭がいい人」とそうでない人は「別の生物」?

 教師を長年やっていると,同僚たちをはじめとして,教育関係者や保護者たちが,どんな基準で人間を区別・差別しているかを実感できる機会が多くなる。

 多くの場合,「頭がいい」「頭が悪い」「学習成績がよい」「学習成績が悪い」で人を区別しようとする人が多く,それが差別的言動になって表面化してくる。

 差別扱いされるのは,どちらか一方とは限らない。

 指導力のない教師の場合は,自分の言うことを素直に聞く人間と,聞かない人間に区別する。

 この場合は,言うことを聞かない人間は差別される。

 クラス替えのときに,露骨に「この子の担任はやりたくない」などというタイプの教師もいた。

 人は,生まれてから死ぬまで,本当に多くの人間から様々な影響を受けて生きていく。

 人間を区別したり,差別したりすることは,だれを通して学習するのだろうか。

 それはたいてい,指導力のない教師や会社の上司が元凶ではないか。

 そうでない教師や上司に出会えた人は,そう簡単に人間を差別しない。

 子どもにも差別をしない人間に育つよう,教育できるはずである。

 高校や大学レベルになると,もともと差別化され,選抜された人間が教育対象になるからか,小学校や中学校よりも露骨な差別を浴びる機会が増えるようだ。

 そういう環境で教師になるための勉強をした人は,教育現場に悪しき風習を持ち込まないように,注意してほしい。


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東京大学に入れなかった人間が書いている妄言

 ときどき,東京大学やそこで学ぶ学生のことを何も知らないでものを書いている人が見かけられます。

 その多くはただの妄言であり,自分の憶測を,自分がいつも言っていることの正当性を補強するために言っているだけであって,「真実」なり「実情」を知っている人間が読めば,「ああ,こいつの言っていることは嘘ばっかりだな」というのがバレてしまうのです。

 甲子園優勝監督が個人指導すれば,イチローのような選手は生まれるのか?だって・・・。

 おバカなたとえです。1年ごとに,プロ野球選手になれる人の人数と,東大に合格できる人の人数を比較してもらってもかまいません。

 イチローだって,プロになった1年目は,どんな選手だったかご存じですか?

 「育てる人はいらない」なんていう妄言は,いろいろな人に対して失礼なのです。 

 だれとは名指ししませんが,ぶろぐ村によく訪れる方,この「教育論・教育問題」に立ち寄られる方なら,妄言のぬしがだれのことか,おわかりになることでしょう。

 インターネットの掲示板のように,「同じ程度」の人が憶測だけを交換する仕組みならそれでいいと思いますが,一応,自分の名を名乗り,教育の仕事をしている,国立大学法人の関係者が,

>要領のいいやつだから東大に入れた。

>東大に入れるような子どもは,教師は何もしなくていい。ほおっておけ。

>東大に入れないレベルの人間(成績が中の上程度)には,東大に合格させられるような勉強を教えることはできない。

 なんていうことを平気で書く神経が信じられません。

 周囲にいる人間が,要領の悪いのばかりで嫌気がさしている。

 そういう人間がいくら「教える努力」をしても,無駄である,という個人的な「信念」を曲げたくない。

 そういう気持ちは理解できます。

 だからといって,いい加減なことを書いていいわけではありません。

 「お前らは頭が悪いんだから,頭がいい教師がやっているタイプの授業はするな」

 と言っているようなもの(というより,それを強要しようとしているもの)です。

 国立大学に入れるような学生は,文系でも一応,ある程度,数学ができるわけです。

 そういう学生に対しても,「お前は東大生と違って,要領が悪い。要領が悪いお前達が教えても,ろくな結果にはならない」と言うわけです。
 
 このセンセイに近づけるのは,「オレはバカだ」ということを誇りにしている殊勝な人だけということになる。

 私も,それなりに情報を集めました。

 その結果,「お前は東大生には遠く及ばない」といわれているレベルの教師が,勘違いさせられて行っている授業の多くは,子どもたちに教師の「勘違い」を伝染させています。その悪影響がいつから拡大し,常態化するかわかりませんが,それを食い止める力になっているのが,

>私にも東大に限らず,志望する大学に入れる学生を育てられる指導力を身につけることができる

 という普通の教師たちの「信念」です。

 「教える」ことへの情熱と,「学ぶ」ことへの情熱がリンクしたところに,何があるかを知りたい人が,

 「そこには何もないぞ。膨大なデータがそれを証明しているぞ」と幻滅させてくる人間に近づきたがるでしょうか。

 離れていた方が,よいでしょう。

 もちろん,「時間をかければ何となる」なんていうレベルでは,逆立ちしても東大には入れないかもしれません。

 ただ,学習指導要領に示されている目標を達成できるような授業をすれば,東大に合格するための手がかりをつかむチャンスを与えることは不可能ではないのです。

 「深い学び」を授業で展開できるような教材研究は,無駄にはならないのです。

 中学校の学習指導要領が示している歴史学習が,実は東大合格の近道であることに気づいている,東大出身ではない教師の人たちは,それなりに存在しているはずです。

 こういう教師を近づける空気を持たない大学が,いつまで存続できるかの方に私の興味はあります。

 何でも,ある制度に応募した人は,ゼロだったとか。だれの責任か,言うまでもないでしょう。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より