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カテゴリー「アクティブ・ラーニング」の450件の記事

現場感覚のない人が社会感覚のない人にアドバイスを送る教育の世界の不思議

 放射線に関する知識を小学生,中高生が身につければ,風評被害や原発避難者へのいじめをなくすことができるだろうか。

 現場感覚的に言えば,「無理」「難しい」である。教員ではない方に聞いても,感想は同じだった。

 「放射能の性質を学べば,いじめはなくなる」という考え方は,「被差別部落の歴史を学べば,部落差別はなくなる」というものと同じである。LGBTの日常生活を詳しく知ることで,LGBTへの偏見がむしろ強くなってしまうおそれがあることくらいは,想像できると思う。

 「無知がいじめを生む」というのはいじめた人間に対する良心的な態度であり,そういう発想でいる以上,いじめは絶対になくならない。

 学校現場には,風評被害の実態や,原発避難者の生活を知らない人が多い。「SDGs」の意味すら知らない教員がいることには驚きを隠せない。

 社会感覚と現場感覚がない人が,社会感覚のない人間に指示を送り,教育させているのが今の日本の学校である。

 文部科学省から,全国すべての小学校,中学校,高等学校に,放射線副読本が無償配布されている。

 HPによる説明は,以下のとおりである。

平成23年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震と津波によって東京電力株式会社福島第一原子力発電所で事故が起こり,この事故により放出された放射性物質は,日本に大きな被害を与えました。

 文部科学省では,福島第一原子力発電所の事故後の状況を踏まえ,平成23年度に作成した「放射線等に関する副読本」の内容を見直し,児童生徒等が放射線に関する科学的な知識を身に付けるとともに,理解を深める一助となるよう,平成26年3月に,放射線副読本として,小学校用と中学・高等学校用の2種類作成・配布し,その活用を促しています。

 パンフレットを開くと,そこに書かれている言葉は「風評被害」と「いじめ」をなくしたい,とする作成意図である。

 新しい学習指導要領では総則で放射線教育への指針が書かれている。

 しかし,「社会科」で扱われる想定がないこと。なぜか「道徳」で扱う想定になっていることが,現場感覚,社会感覚からすると,大きなハテナである。

 日本の小中学校では,エネルギー教育に対する指針がない。だから,原子力発電に関する知識がない状態で,事故後の放射線に関する知識だけを学ぶことになる。

 こういう社会感覚の欠如が,そもそも事故を生み,被害を拡大した原因の一つだと私は言いたい。

 福島県で処分に困っている除染土が,園芸用の土として利用されることになっていることを,国民の多くは知っているだろうか。小さな子どもを公園によく連れて行く保護者は,知っているだろうか。

 日本が定めている安全な?放射線量の基準がどういうものか,知っているだろうか。

 震災直後から,現在まで,その基準がどのくらい緩められているか,知っているだろうか。

 国民が本当に知りたい情報が,パンフレットに書かれていないことだけは確かである。
 
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苦しいときほど笑って「感情の錯覚」を生み出す

 体罰防止のための研修で,「アンガーマネジメント」を習得できている教員もたくさんいると思われる。

 私の場合は,高校,大学時代,野球というスポーツで,「リラックス」より「怒り」による集中力の向上を個人的には武器にしていたので,ピンチのときや敵に逆転されたときにニヤニヤしている選手を見ると非常にイライラしてしまう。

 しかし,逆境のときの「にやけ」が,しっかりとした心理学の理論に基づく「冷静になる手段」であることも知っておくべきだろう。高校野球では,よく打たれたピッチャーが「笑顔」をつくっていたことに,「感銘」を受けている。

 大坂なおみ選手が実践していた「我慢」・・・というより,もっと前向きなアンガーマネジメントに注目した記者も多かったようだ。優れた解説者なら見逃すことのないパフォーマンスがあった。

 自分がミスしたとき,テニスのシングルスのようなスポーツでは,損するのは自分一人である。野球やサッカーのようなスポーツでは,味方の選手全員に迷惑をかけるわけだから,オーバーに悔しがるのは「恥ずかしい」行為であるが,子どものまま大人になってしまった選手なら仕方がない。

 セリーナ・ウィリアムズ選手がしたような,ラケットを破壊する行為は,「怒り」の感情をわかりやすくすべての人に行動で示すもので,それによってさらに「怒り」の感情が増し,おそらくは「我を忘れる」快感に浸れる行為なのだろう。嫌なことは忘れたい。「怒り狂う」ことによって,「ミス」の重さを忘れ去る。「怒り」は「不快」な状況を通り越すと,「快感」に変わるのであろうことは,クレーマー対応をしたことがある人ならわかってくれるかもしれない。

 体罰をしたり暴言を吐いたりしている人間は,実は「快感に浸っている」と理解してもかまわないだろう。

 アンガーマネジメントの研修は,体罰防止だけではなく,生活指導の大失敗を防ぐことにも役立つ。

 指導力不足の教員は,自分が気に入らない特定の生徒の気に入らない行動ばかりにいつも目が行き,他の生徒の同じような行動には目もくれないで,「不公平」な指導をついつい行い,生徒をキレさせる。「私はお前(だけ)が憎い」という感情がストレートに生徒に伝わってしまえば,もう指導も何もない。荒れる学校には,こうしたタイプの,アンガーマネジメントが必要な教員が複数いるものである。こういう学校では,指導力のある教員がすべての「尻ぬぐい」をさせられるわけで,「働き方改革」のためにもまずは教員の資質能力の向上が最優先である。これは本当に「笑えない」話である。

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教科独自の見方・考え方の意味や意義がわかるためには

 その内容,私の教科でやるから,あなたの教科ではやらなくてよい,というものは,現実問題として滅多にない。

 教科は,内容によって切り分けられている。

 だから,教科独自の見方・考え方があると言ってみたところで,内容が独自なのだから,どんな扱い方をしようが,その教科を学んだことになってしまう。

 ハンガリーの首都ブダペストで開かれた世界科学会議には,世界中から2000人以上の科学者,国会議員,ジャーナリストなどが集まった。1999年のことである。

 宣言文では,21世紀の科学のありかたとして,次の4つの柱が謳われたという。

知識のための科学

平和のための科学

持続可能な発展のための科学

社会のなかの,社会のための科学

 最初の「知識のための科学」という柱は,タイトルだけでは何だかよくわからないが,内容を読むと奥が深い。

 理科教育に携わっている人には常識かもしれないが,実際の理科教育が,この世界宣言を念頭に科学教育に取り組んでいるのだろうか。

 文科省のHPにはきちんと示されているが,科学技術・学術審議会の参考資料の扱いだった。

 子どもたちにとって,別々の内容を別々の教科で学ぶのは当たり前のことであるが,

 同じ内容を教科ごとに別々のアプローチから学ぶことで,内容についての理解が深まるだけでなく,各教科独自の見方・考え方の有効性に気づき,それらを活用できるようにするという仕組みが必要なのではないか。

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「知らない」ことが持っている大きなパワー

 教員に求められる資質能力に際限はない。

 子どもの学力低下が問題になれば,教員の教え方が悪い,となる。

 子ども同士の「いじめ合い」が増えると,人間愛が足りない,となる。

 教員養成系大学の教員の嘆きも深刻である。

 「そんなことまで大学で教えないといけないのか?小中高で何を学んできたのだ?」

 教員研修担当の指導主事や学校管理職の嘆きもある。

 「こんなのでどうして採用試験に合格できたのか?」

 現場教師の嘆きが最も深刻なのは言うまでもないが。

 「指導案も書けないのか」「指導案は書けるのに,授業が成立しない」

 子どもだけではない。

 教員にも,「知らないこと」「できないこと」が少なくない。

 しかし,「知らない」からできない。「能力がない」からできない。と嘆いていても,仕方がない。

 「知らない」「できないこと」をパワーにすればよいだけである。

 小学校の先生方には失礼かもしれないが,中学校で教えているとき,

 子どもが「知らない」「聞いたことがない」「読んだことがない」からこその「わかる」喜びを原動力にしている部分がある。そこで「自分からわかるようにしてしまおう」とする「近道」のありかを探っている。

 関心があるかないかで知識の習得度に大きな違いがあることは言うまでもない。

 私は相撲は大切な国技だと思っているが,18時に本番が終わってしまうようなスポーツはライブで見る機会がないから,関取の名前なども有名人以外はほとんど知らないし,知ろうとも思わない。

 「もっと知りたい」「もっとわかりたい」と思わせるきっかけが教育にあることで,「私にとっての相撲」以上のものが,子どもたちに生まれることを望んでいる。学校では,1日6時間の授業すべてでこれが起こると,放課後の時間がいくらあっても足りなくなってしまうが・・・。

 大学時代の授業を思い出す。私にとってのよい授業とは,もう講義に出ている時間を気にせずに,自分で講師の著書などから学ぶ気持ちにさせてくれた授業のことである。昔は,試験さえ受ければ単位はとれたから,講義の多くは参加していないのに,試験の結果がよくて好成績を取れる仕組みがあった(今はダメだろうが)。

 学校は,すべてを教えてくれるところではないし,すべてができるようになるところでもない。

 教科書に書いてあることは,むしろ,読めばわかるという前提で,教えないように指導する,というスタンスもありだろう。

 昨日の会議で,文科省の人が,「他の教科の内容を,専門ではない別の教科の人が教えなければならない,というのはおかしい」と発言したので,私は次のように返答した。

新しい学習指導要領の趣旨は,教科ごとに学ぶ知識を分けたのではなく,別々の「見方・考え方」があることを教科のアイデンティティとした。ある教科の内容(知識)を他の教科で扱うべきではない,と捉えられかねない発言は誤りである。

 行政の立場で受けやすい質問の答えを,まさか本人が本気で信じているとは思いたくないが・・・

では,◎◎科(教科名が入る)の教員にも,そういう知識が必要で,教えなければならないのですか?(私は嫌です)

 逃げの答えは,「その内容は,○○科で扱うので,大丈夫です」。 

 私のホンネは,

中学校に教える程度の教科の内容は,すべての教員が持っていてもおかしくない。なぜなら,中学校の過程を修了しているのだから。

 しかし高校や大学には,「専門ではない領域の内容は教えるべきではない」という常識がある。専門だというお墨付きがあってはじめて職が得られることが前提になっているので。逆に言うと,大学のセンセイの最大の弱点は,専門ではない人に,自分より高度な知見を教えられてしまうことである。学位をもった人よりも,学位はない予備校の先生の本が売れに売れるという話は,「前提の誤り」を如実に示す事例である。

 「正しい知識」の習得という話になると,議論がやや複雑になる。子ども同士に教え合いをさせて何も感じないようなセンセイには関係ない話だが,「専門ではない人の話は信用しない」という大学の暗黙のルールは,大学の存在意義というか正統性に根付く話だから,仕方がない。ただ教育の世界の場合,「研究者は役に立たない」ことは,現場に立った人間が実務上わかってしまう話だから,教職大学院が研究者だけでは成り立たない場所になるわけである。

 「知らない」「できない」という資源を最大に活用する方法を,教育学者ならもっと研究すべきだろう。

 教育産業はとっくにやっている,という話もあろうが,教育産業の弱みは「合格する」「できるようになる」ことを売りにしなければならないことである。

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子どもたちに多大なストレスをかけている道徳

 ある中学校の公開授業に参加していた。

 廊下が広く,入り口の扉も広かったので,道徳と社会科,国語,英語,数学の授業を参観することができた。

 一番気になったのは道徳である。

 子どもたちの重苦しい雰囲気の原因は,そのテーマだった。

 「寛容」「相互理解」という道徳的価値がテーマだったのだが,子どもたちの表情は固まったままだった。

 道徳授業そのものへの「寛容」や教師との「相互理解」を拒絶したいとするメッセージが感じ取れた。

 おそらくだが,この教師は道徳の公開を「やらされた」のだと思われる。

 何の教科の先生かはわからないが,保健体育科のような雰囲気があった。

 なぜこんな「不幸」な時間を担わされるのか,と子どもも教師も口にできない「不幸」が哀れである。

 道徳の教材の場合,「考えろ」を言われても,その「前提」が明示されていないケースが多い。

 ダメな典型と呼ばれる国語の授業のように,物語の主人公になりきって,と言われても,
 
 日本のように「場の空気」によっていくらでも立場や考え方が変化しうる国では,

 「空気感」に違和感があるだけで,「考える」という脳の回路は停止してしまう。

 このまま毎週毎週,重苦しい時間や雰囲気を耐え続けることで,就職すると経験させられる

 「意味のない会議」に慣れさせる,というねらいがあるのならわからないでもないが,

 子どもは授業でストレスを抱えると,いじめや暴力などの問題行動への歯止めがききにくくなる。

 他の教科を見る限り,「教師によく飼い慣らされている子ども」という印象が強かったが,

 道徳については,「内に秘めた抵抗」が手に取るようにわかった。

 人間は,「不当な支配」に寛容であるべきではない。

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「一呼吸おく」ことの大切さ

 まだ仏教関係の本以外で,「アンガ-マネジメント」に関するものを読んだことはないが,教育書を読んだり読み返したりすると,特に生活指導に関する話題があれば,「アンガ-マネジメント」の手法に自然とふれられていることに気づく。

 読書編で紹介した『問い続ける教師』(学事出版)では,苫野一徳さんがモンテッソーリのエピソードを紹介した後で,次のように述べている。

>さまざまなトラブルが起こった時,私たちは条件反射的に叱り飛ばしたり矯正したりするのではなく,まずは一呼吸おいて,これをチャンスととらえる練習をしてみたいものだと思います。

 中学校の生活指導では,「瞬発力」が求められるため,「間髪おかず」が大事な場面も多いのだが,状況判断を誤ると,無関係の生徒を叱ってしまう可能性がある(・・・私もかつて,中学校時代に人違いで殴られた経験をもつ一人である)。こういう注意とは別に,子どもたちの成長を願う教育,自立を促す教育,主体性を育てる教育,という視点で考えると,「今この場のこの行動には,この生徒にとってどのような意味があるのか」を考える「瞬間」が必要なのである。

 「一呼吸」という「長い時間」があれば,いろいろなことが頭の中で回転する余裕がある。
 
 「我を忘れる」ような事態になったときに,「一呼吸」の間で何ができるようになるかを考えていくことには,とても意味がありそうだ。

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現実的な教育内容や教育方法の議論がなぜ小学校や高校では役に立たないか

 小学校の教育内容にいちいち目くじらを立てる人は少ない。きりがないからでもあるし,学力を向上したければ,学校以外に頼れるところがたくさんあるからである。

 高校の教育内容にいちいち目くじらを立てる人も少ない。義務教育ではないし,学力が輪切りになっている高校では,Aという進学校で通じる話がEという生活指導困難校では通用しない(逆もある)からでもあるが,一番大きい理由は小学校と同じ。学力面では,高校の教師よりも頼りになる人が外にいくらでもいるからである。

 それなりの経済力がある家庭の場合は,学力向上を学校以外の教育産業にまかせることが可能である。

 小学校や高校を対象とした教育内容や教育方法の議論は,どれだけなされようが,主たる教材である教科書に寄りかかって学習を進めるような教師がいるうちは,ほとんど意味をもたないことは,大部分の学校が証明してしまっている。

 中学校の場合はどうだろう。中学校は中途半端な宙づり状態にある教育現場である。

 小学校や高校との最大の違いは,学校の成績が,進学にそれなりに大きな影響を及ぼす点にある。

 中学受験や大学受験との非常に大きな違いを高校受験が持っている。

 だから,教師や生徒は授業で手を抜くことはできない。教師が気まぐれにアクティブ・ラーニング風の授業をしたら,それに合わせてあげないといけないし,細かい知識ばかり問うような定期考査問題をつくってきたら,しっかり対応しないとよい成績が残せなくなる。

 都立高校は学力検査と調査書点(いわゆる内申点)の比率を7:3にしてしまったが,これまでは普通科の大部分が5:5の比率だったのである。

 「下級校の学習の成果を踏まえた進学指導」が成立する余地がかつては大きかったし,調査書点と実力の相関関係が怪しくなってきている今でも,中学校の成績がきちんと使われる場になっている。

 要は,中学校で通用する教育内容や教育方法の議論がなければ意味がないということと,中学校で通用しない教育内容や方法では意味がないということである。

 小学校や高校の実践ばかり集めても,「ああ,そういうことができていいね」と他人事で終わってしまう。

 どんな脚色をしても,バレずにすむのが小学校や高校である。

 捏造すればたちどころにバレるのが中学校であり,だから実践例が少ないのだろう。

 「地理総合」や「歴史総合」がどんな代物になるか,中学校側の目から見ていると,

 「大学の先生が中心になって考えると,ろくなことにならない」ことを証明するための実験をしているように見える。

 中学校教師の目から見れば,

 「これは何とかなる」

 「これでは中学校の繰り返しだ」

 「それでは小学校よりもレベルが低くなる」

 「これは無理だろう」

 などと生徒の実態を踏まえた感想がいくらでも出せる。

 義務教育でもないし未履修問題のような誤魔化し方ができる教育機関に期待することは実はほとんどないのだが,小中高のつながりを意識させる学習指導要領に変わっていくので,黙ってはいられない。

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準備体操なしで全力疾走させるような授業はアウト

 小手先の理論や先輩の実践,体験談などに頼っていては,現場で成果を出すことはできない。

 現場で相手に向き合っているのは理論や先輩ではなく,自分なのである。

 だからといって,理論や先輩の実践,体験談を知らないでよい,というわけではない。

 教育現場で起こる様々な現象について,その都度その都度,新しい自分なりの「気づき」が得られるのは,理論や実践記録,体験談を知っているからである。

 こういう話は,教師にとってあてはまるのと同じように,子どもたちにもあてはまる。

 ただ単純に上級生と同じような体験をさせただけでは,

 本当に大切な「気づき」は得られないまま終わることが多い。

 「アクティブ・ラーニングを行う」だけでは意味がないことは,実際にそういう目にあわされた人ならわかるだろう。

 そしてそういう人がこれから非常に増えてくるおそれがある。

 その裏側で,理論なり先輩からの話なりを聞いていた人だけに,成果がついてくる。

 現役引退を決めた巨人の「代走のスペシャリスト」,鈴木選手の記事を日経電子版で読んだ。

 「勝負は準備の中で決まる」

 この言葉を,これからALを実践しようとする現場の教師たちにも読んでほしい。

 「準備」するのは,教師だけではない。子どもにこそ「準備」が必要なのであり,その「準備」を大切にしてきた授業スタイルを捨てると,子どもに待っているのは何なのか,失敗して気づいてからでは遅いのである。

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歴史用語半減による「ゆとり」が生むもの

 高校の日本史や世界史を「用語を覚える科目」としてきた高校や大学の教員たちが,教科書の用語を減らすための案を作成したという。2つの点でナンセンスである。

 1つは,結局用語を減らしたところで,「少なくなった用語を覚える科目」に変わることはなく,試験も「暗記問題」を出すことが前提になっている。なぜ義務教育の「ゆとり教育」という名の「ゆるみ教育」を繰り返そうとしているのか。

 もう1つは,そもそも教科書の内容をすべて教えなければ,受験のときに生徒が困るという強迫観念が捨て去れない限り,授業や試験の改善などあり得ない,ということである。

 歴史の人物名や事件名などは,それらを覚えたり,それらの事実を知るためだけにあるのではない。

 歴史学習は,さまざまな事象の関係,関連を考えるためにある。

 取り上げられる事柄が限定されることによって,さまざまな「気づき」のチャンスが失われていく。

 「多ければ多いほどよい」とは言わないが,実際に資料集を活用している高校なら,教科書ではなく資料集を実質上「主たる教材」として授業をする教員も出てくる可能性があるだろう。20年前と同じワークシートで授業をしている教員にとっては,関係のない話かもしれないが。

 そもそも「用語削減策」は,「受験生がテストでいい点をとるために不利な科目を敬遠することを避けるため」に出されたようなものだろう。

 客を増やすために当たりの確率を高める娯楽産業のような対応である。

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教師の成長力を奪う力

 教育の世界では昔から,「大学における教員養成の限界」が問題になっている。

 「教育学部の学生の資質能力に課題がある」のは企業だけでなく教育現場も同じことで,

 教育実習に挨拶に来るとき,「教育学部でごめんなさい」とお詫びから入ってくるのが通例になっていることが印象的である。

 私は「教育学部」というところで学生の能力が潰されているのではないかと危惧している教員の1人だが,その根の深さは昔からなので,すぐに改善することは難しいだろう。人間を育てるのは人間なのである。

 
 少子化による学校の小規模化に伴って,適正規模に満たない学校が増え,

 「職場における教員の能力開発の限界」も問題になっており,それだけ余計に

 「現場で使えない若い教師が多くなっている」ことが学校の重荷になっている。


 こういう学校の窮状につけ込んで,教師の成長力を奪う実践が広がっていくことへの懸念もある。

 私は組合には入らなかったが,仮に入ったとしても,組合の体質には絶対に染まらなかっただろうし,

 すぐに抜けていたと思われる。

 今,学校を侵食しているのは,新しいタイプの組合体質を浸透させようとする「革命家」たちである。

 間違いなく,教師の成長力は奪われる。

 教員研修はお遊戯会レベルとなり,「仲良しこよし」が増えるだけだが,

 表向きは,「同僚性が高まった」などと宣伝される。

 浸食率は0.1%にも満たないレベルだろうが,1000校に1校でも子どもたちが犠牲になるのは心が痛む。 

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より