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カテゴリー「アクティブ・ラーニング」の438件の記事

9月26日 災害への備え

 9月26日は,台風に襲われる回数が多い日だと言われている。

 痛ましい事故の記憶もある1日だが,日本は東日本大震災などを経て,

 災害に強い国に大きく変わりつつあると思われる。

 災害への強さは,物理的な備えだけではなく,精神的なつながりの度合いによっても測定できよう。

 「明日は我が身」という言葉を,ただ唱えているだけでも意味はない。

 今日,できる「備え」は何だったか。

 教育現場も,ときどき「豪雨」や「台風」に見舞われる。

 感情が嵐のように高ぶり,生徒と生徒が傷つけ合う事態に陥ることがある。

 こういう場合にものを言うのは,日頃からの「備え」である。

 気持ちでは救う対象である子どもが,いつの間にか人を救う立場になっていることがある。 

 子どもにいつも救われている感覚をもっている教師に油断はないか。

 子どもをいつも救っている自覚のある教師に油断はないか。

 生徒と教師の関係でも,「お互い様」という感覚が大事である。

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「功を焦る子ども」に成長が阻害される「弱者たち」

 教室に,「強者」と「弱者」のはっきり・くっきりした区別が見て取れる。

 「強者」は得意げに,「救ってやってる」オーラを全開にし,

 「弱者」は控えめに,「救ってもらっている」オーラに浸っている。

 一斉授業でも,教師のコントロールのきかない,KYの「強者」は同じような「侵略者」となるが,

 「弱者」「弱者」とバカにされている子どもたちの成長をじっくりと待つ姿勢が維持できる。

 「弱者」が成長の糧とするのは何だろう。

 それは,自分自身の努力による課題の克服であり,

 「強者」の「お情け」「身勝手な侵略」ではない。

 「一人も見捨てない」という原則から外れないために,

 徹底的に「弱者」をいたぶる子どもたち。

 「これで俺も得ができるし,お前にも損にはならないだろう」という理屈。

 こういう光景に疑問をもたない教師たちが増えないことを祈りたい。

 優れた教師が育成できない大学がドツボにはまったままなら,

 自然と淘汰されてくれるに違いない。

 下らないこんな記事が4500個目の節目の記事になってしまった。

 優れた教師に出会うことがなかった人は,残念ながら,教師には向かないことがよくわかる。

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道徳教育をまともにやると,教員の立場がなくなる

 道徳教育は,手を抜いてやった方がよい,というのは教員としての経験則である。

 もし私が道徳教育を真剣にやったら,いくつか好ましくない問題が発生する。

 子どもたちは,「大人(教員)こそが道徳的でない」ことをよく知っている。

 差別はいけない,と言っている大人(教員)は,平気で差別をしているではないか。

 「~のくせに」という言葉は,差別意識の表れである。

 「子どものくせに」「中学生のくせに」「成績が悪いくせに」「よく遅刻するくせに」「忘れ物をよくするくせに」「授業中,寝ているくせに」などといった感情を,子どもはとても敏感に教員から読み取っている。

 子どもたちができていないことの大部分は,大人(教員)自身もできていない。

 自分よりも道徳的な課題を抱えているのは,「~~先生」だな,というのがわかってしまう。

 最も効果的な道徳教育は,子どもが教師の立場になり,教師たちが子どもの座席に座って「餌食」になることだろう。

 「あなたにとっての崇高な理想とは何ですか?」

 大人(教員)として,どういう答えを先生(子ども)にお返しすることができるだろう。

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9月13日 世界法の日に考える「法の支配」

 「深い学びなど必要ない」と主張している大学のセンセイに習った人たちは,教員採用試験ではちゃんと「建前」を述べて,得点を稼ぐのだろうか。それとも,大学の「学び」を生かして,試験官に喧嘩を売るのだろうか。

 教育現場で「法の支配」という言葉を使うと,すぐに「よくないこと」というイメージを連想する教師が少なくないだろう。

 社会科の公民的分野や政治経済で学んだはずの「法の支配」という概念は,

 学校現場で惰性にまかせて教師を続けていると,いつの間にか生徒たちにとっての「校則による支配」などと同じようなレベルのものに変換されてしまうに違いない。

 採用試験のときはきちんと勉強したはずだった「教育法規」だが,管理職試験を受けようとして「学び直し」をしてみると,「こんな法律もあったのか!」などと驚くこともある。

 国際社会では,「法の支配」ではなく,「国益の支配」が主流になっているような印象があるのだが,

 学校現場でも,やはり「法の支配」ではなくて,「子どもや親の利益の実現」という目的に偏ってきている気がする。

 「未履修問題」に代表される「ルールを無視した受験重視・効率重視の学習・進路指導」を是正しようとしているのが,現在の教育改革のねらいの一つである。

 しかし,「子どもや親の利益のため」という部分を票のために議員までもが実現しようとしているので,

 学校現場の感覚ではどう考えても「それはない」というタイプの政策が浮上してきている。

 借金をして将来世代に負担を押しつけながら,「今の景気が良くなりすればそれでよい」という短期的利益誘導型の政策が,ありとあらゆる分野に一律に仕掛けられてきている。

 「法の支配」が実現しているのかどうか,チェックする機能を果たすべきなのは,どこのだれだろう。

 残念ながら,それを実行する主体が自分たちの利益ばかり考えてしまうというところが,悲しいところである。

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あの子どもは自分が見捨てた? 思い上がりもいい加減にしたまえ

 学校の教員には,「友達」がいない・・・。

 どこかの学者に調査してもらいたいテーマである。

 基本的に,「一匹狼」的な生き方をしている。

 自らそれを選択している人もいるし,結果としてそうなってしまう人もいる。

 だれかに頼って生きようとしている教員は,やれ,仕事が多いとか,教材研究する時間がないとかブツブツ言っているが,実際には大事な仕事は何一つ任されず,自分勝手で見当外れの子ども理解が原因で,子どもたちともコミュニケーションがとれない。友達をつくろうにもできないタイプの人間である。

 思い込みが激しいと,「全部,俺のせいだった」と勝手に悩み,現場から逃走していく。

 「友達がつくれない」タイプの教師に,なぜ人のために尽くし続けることができる人と,尽くしきってもだめだったと勝手に判断し,辞めていく人間がいるのか。

 一人一人の子どもを信用できるかどうかの違いではないか。

 自分自身が親や教師から見捨てられた経験や実感がないくせに,教師の立場として「一人も見捨ててはならない」と誇大妄想するのは,怪しげな宗教やダメな道徳教育に嫌気がさしている人間の側からすると,胡散臭いものにしか見えないだろう。

 自分は群れていないくせに,子どもがダメなのは群れていないからだと勘違いして,

 群れていることで人はどうにか成長していくことができると誤解していることもおかしな話である。

 普通の教師から見て,「おいここ,すごい変な空気だな」と思える場があるとする。

 相手が「変な空気感」を抱いていることが読めない人間に,子どもや教師を育てることはできないだろう。

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「お友達」を増やすことだけで満足していたら,学校に来る意味がない

 学校時代にできた友人と長く関係を持ち続けている人も多いだろう。

 「学校は,友達をつくるところ」という宣伝も,間違いではない。

 教育のねらいや有効性を宣伝するとき,基本的に「良いこと」「気持ちが安らぐこと」「ためになること」が前面に出て,「反対意見」はないことが普通である。

 しかし,学校という社会にいて,いつもだれかから守られている,いつも同じような趣味や考えの人と一緒にいる,いつも自分の生活に満足している,・・・そういう状況の中で,人は人として成長できるのだろうか。

 実社会に出て,「あれっ? こんなはずじゃないのに・・・」と不平不満を訴える人が多いのはなぜだろう。

 自分自身の弱さや未成熟に目が向かなくなっている人たちに,「再教育」の場は訪れにくい。

 「学校にいても,だれも私を守ってくれない」「みんなと自分は違う考えで,友達もできず,孤立している」「勉強ができないのに,だれも私に教えてくれない」状況の子どもは成長できるのか?と批判したくなる人もいるだろうが,子どもとは,多かれ少なかれ,基本的にそういう不安や不満を抱くものである。

 「不登校ゼロ」「いじめゼロ」を実現する,といって,過剰に子どもたちを防衛した結果が,「不登校たくさん」「いじめ件数増加」なのではないか。

 「学校にいても,だれも私を守ってくれない」わけではなかった。「私を守ってくれている人の存在に気づけない自分」がいたことに気づいた。

 「みんなと自分は違う考え」だから友達ができないわけではなかった。「私が違う考えへの興味や関心を持てなかった」のが悪いことだと気づいた。

 「勉強ができない私」は,それを「教えてくれない人」のせいにして,「自分ができるはずの努力をしていなかった」ことに気づいた。

 こういう「気づき」のために,学校は存在する。

 「一人も見捨てない」という教師の願いが,結果として「最も見捨ててはいけない子どもに最大の不利益を与えていた」ことに気づける教育者が増えてほしい。

 「学力調査の結果がよくなる」ことで安心や満足を与えようとしている人間がいかに胡散臭いか,「教育者」ならだれでもわかるだろう。

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もう新学習指導要領が発表された後なので,遅いかもしれないが・・・

 委員が集められて,ある程度の方向性が決められているものに「権威」をもたせ,実行に向けて動いていく・・・教育の世界に限らないパターンだと思いますが,この「委員会」が出す結論の中に,「委員の具体的提案」がどれくらい含まれているものなのか,議事録を分析して数値を出したことがある人はいるでしょうか。

 つまり,「いてもいなくても意味はなかった」という人はどのくらいいるものでしょうか。

 まだ日本では「沈黙は金」みたいな文化があるので,本当はそこで「待った」をかけなければいけないのに,太平洋戦争開戦時のようにできなかった,ということはないでしょうか。

 新学習指導要領の総則を読んでみましょう。

 教師がどのくらいの責務を負っているか(負わされているか)がよくわかります。

 「働き方改革」に関する会議という,新教育課程の検討とは別路線から来ている提言の中に,「教師の役割が本当にわかっているのか?」と疑問に思ってしまうのが紛れているのは,やはり「センスが別」の人たちがつくっているからでしょう。

 教員の働き方改革などは「かっこだけですませよう」と思っている人も少なくないでしょう。

 以前の記事でも書いたように,教育現場というのは,そもそも「きりのない場所」なんです。

 40人のクラスの担任をしている私のような教員には,道徳にしろ教科の授業にしろ特別活動にしろ総合的な学習の時間の指導にしろ,学年経営にかかわることにしろ,学級経営にかかわることにしろ,分掌にかかわることにしろ,研修にかかわることにしろ,現状でも「時間が十分にある」とは言えません。

 全く逆に,手を抜こうと思えば,いくらでも抜ける場所でもあります。

 学校現場の人はよく知っていますよ。

 本当に忙しい人は,「忙しい」なんて言っているような暇な時間はありません。

 「いじめ」に対して毅然とした態度をとり,「心の安らかさ」を維持しようとしたら,「働き方改革」の会議で「他の人にやってもらったら?」などと提案されているもののほとんどから目を離せないのが学校というところです。

 「いじめ」への対応が,教員やスクールカウンセラーなどの「一応の専門家」以外の方に,どのくらい期待できるでしょうか。 

 第三者を間に挟むと,結局,聞き取りの時間が余分に必要になり,かつ,事実関係がつかみにくくなる。

 なかなか「人任せ」にできないのが教育の仕事です。

 ある方々は,大胆にも授業そのものを教室の中にいる成績上位の2割の子どもに任せてしまうという行動に出ているようですが,「働き方改革」と「教育改悪」が同時に進行していく可能性があることは,これから危惧すべきことでしょう。

 繰り返します。新学習指導要領の総則の解説を読みましょう。

 教師に何が求められているかがよくわかります。

 「働き方改革」の方が重要なのであれば,総則の作り直しが必要です。

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省庁の動き 「介入」とみるか「介護」とみるか

 今日,電車の中吊り広告を見ていて,ある雑誌の「経産省による企業経営への介入が進んでいる」という趣旨のタイトルが目に入ってきた。

 天下りの批判が強くなってきて,現役官僚の出向が増えてくると,

 文部科学省が大学を直接動かす,

 経済産業省が企業を直接動かす,

 といった図式が表面化しやすくなっていくのかもしれない。

 あるブログでは,省庁の壁を越えて,

 「経済産業省が学校を動かす」役割を果たそうとしていることが紹介されていた。

 政策の実行=予算の獲得が,だれの何のためか,見定める必要がある。

 教育という仕事は,利益を出すための企業活動と異なっているという点だけ,書いておきたい。

 大部分が人件費という世界では,「人がすべて」という特色がある。

 教師の多くは,仕事で楽をしたいと思っているわけではない。

 子どもに寄り添おうとすればするほど,子どもによりよい学校生活を送ってもらおうと思えば思うほど,

 子どもによりよい授業をしようと思えば思うほど,仕事はどんどん増えていく。

 仕事が増えて,成果が上がったら,給料が増える,というものではない。

 そういうものではないからこそ,堂々とした仕事ができる。

 仕事の省力化という発想自体が,そもそも学校現場に通用するかどうかはわからない。

 教育の仕事は,「できること」「やるべきこと」「やりたいこと」が山のようにある。

 事務仕事の一部の軽減に成功したら,やれていなかったそれらのことができるようになる。

 時間は同じでも,絶対量は増えていく。

 「生産性を向上させる」というねらいは達成できるかもしれない。

 他省庁の「介護」を受けて,本領を発揮しようと思ってくれる省庁があるだろうか。


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大学生は「子ども」ではないか?

 私がある大学の採用面接を受けたときに,面接官の方(役職名も教えていただいていましたが,失念しました)が事務的ではなく,本気で聞いてきているなと思った質問が,

 「うちの大学はどのような評価を社会から得ていると思われているか」

 という趣旨のものでした。私はだれかからその大学の評価を耳にしたことは一度もなかったのですが,まさか「耳にしたことはございません」とも答えられないので,

 「教育のナントカと呼ばれるように,とても評判はよいです」と当たり障りのないことをお答えしました。

 本心で言っていないのがバレたのか,何だか煮え切らないような反応をされていましたが,

 教育学部でそれなりに学生の質が高いことは間違いなく,かつての同僚もその出身だったので,「良い教育をされていると思います」としか答えようがありませんでした。

 ただ,小学校とは違って中高の教員採用試験にはあまり合格者が出ていないことも確かで,どこかの教員採用試験予備校のような大学ではないために,経営陣には大学の将来性に多少の不安があるのかもしれません。

 いずれにせよ,大学の大学生の扱いは,昔と比べてはるかに「丁寧」になっていることは確かでしょう。

 私から言わせれば「子ども扱い」という話ですが,

 「子ども扱い」した方が,教員になりやすいのであれば,そうした方がよいかもしれません。

 「一人も見捨てない」と息巻く人たちは,「子ども」たちを何歳まで自分たちの方法で育てようとしているのでしょうか。

 大学生だと,いくらでも見捨ててよいのでしょうか。

 採用試験に合格できないで困っている人たちが気の毒で仕方がありません。

 教育学部なんかにいて教育学とか中途半端な免許のための単位を取らされるより,教員になってからもっと役に立つ学問がいくらでもあったはずなのに・・・。

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授業では,「わかったつもりになっている子ども」を罠にはめることも大事

 公立の小中学校レベルの授業だと,すでに塾とか通信教育での学習で「履修済み」の内容が扱われたりして,一部の子ども(地域によっては大部分の子ども)にとって「わかっていること」を繰り返しているだけの場面が増えてきます。

 当然,教師は,まだわかっていない子どもをわかっている状態に変えるために授業をしますから,単純な発想しかできない人は,「わかっている子どもに教師役になってもらう」という姑息な手段に訴えようとします。

 ただ,まだわかっていない子どもが「わかった!」という快感が得られる手前で答えを言ってしまうなど,「手加減を知らない」「自分の優位性を示したい」のがやはり子どもらしいところですから,「わからない」状態にある子どもが,「わかる」プロセスを通してせっかくの「成功体験」が得られる機会が無駄になってしまうことが多いのです。

 だから,「わかっている子どもがいるんだから,任せてしまえ」というのはあまりにも乱暴というかいい加減な態度なので,絶対にやめてほしいのです。

 これからの学習指導で「主体的・対話的な深い学び」を子どもに実感させるために,いい方法があります。

 「わかったつもり」になっている子どもに「本当のことはわかっていなかった」と思わせ,「わからない」子どもの方が「本当のことがわかりやすい」立場にいたことを実感させるのです。

 「わかったつもりになって人に説明することが,いかに恐ろしいことか」を実感させれば,授業に集中しやすい環境がつくれるでしょう。

 以前どこかで紹介したかもしれませんが,聖徳太子(厩戸王)の政策を蘇我馬子が苦々しく思っているように描いている漫画と,誇らしく思っているように描いている漫画があります。漫画にも,レベルの違いがあるのです。

 どうして蘇我馬子の反応が違うのか。どっちが正しいのか。

 小学校レベルの授業では,「聖徳太子の政治」というタイトルが成立していますが,今,そういうタイトル自体が成立しないような解釈が一般化してきています(残念ながら,一番売れている中学校の教科書も,そういう小見出しがついてしまっていますが)。

 なぜ聖徳太子が,朝廷のあった場所からかなり離れた斑鳩に拠点を置いたのか?

 それが次の段階に考えさせることで,聖徳太子の死後,何が起こったのか?

 小学生にもこの辺までふれておいてくれると,「権力争い」の構図の捉え方の基礎が身に付く感じがしますね。

 もちろん,「高校生レベルが深い学びなんだ」というわけではありません。

 小学生にでも,「蘇我氏の実力」をどう捉えるべきか,深く考えることは不可能ではないでしょう。

 「善」と「悪」に簡単に分けて人間や歴史を語るような態度では,「深い学び」は絶対に不可能です。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より