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カテゴリー「レジリエンス」の93件の記事

悪いのは「失言」ではなく,「認識」

 問題なのは,「失言」ではなく,大臣としてあるまじき「認識」や「思想」である。

 これは,「政権の緩み」などではない。

 「大臣の認識は,政権の認識である」と明言するわけにいかない政権の問題である。

 もちろん,「認識」を「表明」したことも問題である。

 この国には「言霊」が生きているという「認識」があり,

 古代から続くものを大切にしている「文化」がある。

 大地震はいつどこで起きるかわからない。

 責任追及も大事だが,震災対応,防災のレベルを引き上げることを優先すべきである。
 

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理想に走り,現実を軽視するか,現実を最優先し,理想を忘れるか

 労働の見直しにしろ,教育の改革にしろ,理想を求めていって,必ずぶつかるのが「現実の壁」である。

 教育の理想は,結局似たり寄ったりである。 

 現実を軽視したり,無視したりして,無理矢理に理想を通そうとすると,恐ろしい結果を招くことになる。

 1,2年間くらい,子どもを犠牲にして,やってまともな教育ができるようになったら,異動になる。

 これを繰り返していても,学校現場には犠牲者しか残らない。

 逆に,現実問題を優先しすぎると,いつの間にか理想などは忘れ去られる。

 教科書にある程度の内容を,全員でおおむね理解した,と言えるレベルに定着させたいなどという「理想」を掲げる人間に,「教育の理想」があるとは到底思えない。

 「働き方改革」についても,日本は生産性を向上させることがまだ理想のイメージになっていないようである。

 「事故を防ぐこと」「苦情を言われないこと」「失敗の責任をとらされないこと」が理想像になっている人間たちから,仕事を奪い返すことが最も重要なことだと思われる。


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アメリカ・中国・韓国と日本

 現大統領を支持しているアメリカの人々の子どもたちは,大統領の発言をどのように受け止めているのだろうか。

 Aさんは,BさんがCさんたちのことをこう言っていた,と語った。

 こういう話法が原因で,学校現場でも多くのトラブルが発生している。

 Cさんたちは,Bさんに確かめることをせず,あるいは確かめることができず,

 Bさんへの嫌悪を強めていく。

 Bさんは,Aさんへの嫌悪を高める。

 Aさんは,もともとCさんのことを何とも思っていない。

 振り回される周囲の人たち。

 人間は,人を振り回したり,人に振り回されたりするのが好きな生き物かとも思ってしまう。

 さて,舞台は学校ではなく,国際社会である。

 発言の影響は,すぐに出るものと,少しだけ後に出るものと,しばらくたってから出るものがある。

 私が心配しているのは,発言を耳にした子どもが大人になる時期の話である。

 日清・日露戦争に勝ったとき,まだ幼かった子どもたちが起こしたのは何だったか。

 日本も決して「部外者」ではあり得ない。


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日本が守るべきものは何だろうか

 日本は何を,誰のために,守っていくべきなのだろう。

 テロの標的として自ら進んで名乗り出なければならないほど,関係を守りたい国があるのだろうか。

 世界では,さまざまな理由で命の危険に晒されている人たちがいる。

 日本丸ごとその「仲間入り」を果たしていくことが,政府の役割ではないはずである。

 新聞も報じなくなったとき,その次に起こる出来事を,歴史は例示してくれている。

 オブラートに包んだ中に入った情報まで,ちょっかいを出される時代になったのだろうか。


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「一斉授業」の展開のバリエーション

 なぜ45分とか50分の一斉授業において,一定時間,教師が話をしなければならないのか。

 それは,生徒に「学習」をさせるためである。

 生徒が「学習」に取り組むためには,頭の中を「アクティブ」な状態にしなければならない。

 生徒の頭の中が「アクティブ」な状態になるためには,「なぜこの問題を考える必要があるのか」「なぜこの問題を考える価値があるのか」を実感させないといけない。

 「そんなことは無理だ」と諦めているのは,「子どもを見捨てている」教師である。

 「一人も見捨てない」などという綺麗事を言いながら,「大勢を見捨てている」罪悪感に駆られない人間は教師ではない。

 「主体的に学ぶ」姿勢を持たせるためには,教師主導の「導入」や「展開」が必要なのである。

 「展開」の仕方は様々である。

 指導案では,「展開1」「展開2」「展開3」などと,発問や理解の深まりとともに,学習のスタイルも変化する場合がある。

 ペアで議論したり,4人1組で話し合ったりする場面もあるだろうし,1人の発言をもとに,多くの生徒が意見交換をする場面もあるだろう。

 いつの間にか,「学級自治会」みたいになることもある。

 これも「一斉授業」である。

 理解が不十分な子どもに寄ってたかって理解させようとする子どもたちに,「それでお前たちが得ができるんだ」なんて「説得」している教師が実在するとすれば,恐ろしい限りである。

 文科省は,「自分で考えればもう少しで答えが出たのに,他の子に解き方を教えられて悲しい思いをした」というケースも,「いじめ」と認定するという見解を出していることを覚えておいてほしい。

 「一斉授業」に対する理解も技能も不十分なまま,子どもたちを「放し飼い」にする教師を断罪できるのはだれだろう。

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NHKドラマ『精霊の守り人』が守れなかったもの

 いつの間にか,『精霊の守り人』シーズン2が最終回を迎えていたらしい(見逃してしまった)。

 視聴率も6%と低かったようで,気の毒に主演女優の「大爆死作」という穏やかではないコメントが寄せられている。

 主演女優にとって,『精霊』が『悪霊』になりかねない事態だという。

 最初のシリーズを家族が楽しみに視聴していたので,少し間があいて始まったシーズン2も何度か見ていたが,ストーリーがつまらないために誰も見なくなってしまった。

 ミスマッチは,ストーリーの壮大さとアクション(戦い)のショボさだけにあるわけではない。

 ゲームで言えば,「クソゲー」と子どもがゴミ箱に捨てかねない出来だったのではないか。
 
 お金がかかっているのはわかるが,すべてにわたって中途半端であり,「視聴料泥棒」と叫びたくなるほどだった。

 ドラマ制作現場の実態を関係者から直接聞いたこともあるし,記者による取材の内容も読んだことがあるが,今の「政治」の流れによって,もし「労働時間」のことであーだこーだ言われたら,何もいいものはできてこないような気がする。

 教師には「手当」がないので「残業」という仕事の種類はないが,人から頼まれなくても遅くまで学校に残り,生徒のノートにコメントを書いて励まそうとしている教師,次の日の教材を準備している教師,学級・学年だよりをつくっている教師などが一定数いる。

 こういう先生を「さっさと帰宅してください」と言いかねない管理職が生まれてきそうで恐い。

 寝ている時間以外はほとんどすべて勤務時間という生活を送っている教師への逆風は,教育の仕事を根っこから腐らせかねない威力をもっている。

 やる気のある人たちの気持ちをくじく政策が,なぜ実行されようとしているかの理由はわかる。

 若者の自殺というのは,とても痛ましい最悪の結果だった。

 しかし・・・。

 世の中には,「こうやって仕事をすれば,勤務時間が終わってすぐに帰宅できますよ」なんていう,明らかに勤務時間外につくった本を出版しているセンセイもいるが,そんな時間があれば,どうして子どものめんどうを見ようと思わないのか?という反撃を加えることもできない空気になってきた。

 テレビの「視聴率」にあたる数字が,もし教師にとっての「学力検査の得点」だったとしたら・・・。

 一定の得点をとらせている(ほとんど塾のおかげということは置いておき)教師が,堂々と,さっさと家に帰る姿を想像するだけで吐き気を催すと同時に,

 なかなか得点が伸びないなか,あの手この手で子どもたちのやる気を引き出そうと努力している教師が「早く帰れ」というプレッシャーを受けることにも,我慢ができない。

 管理職に昇進しない方がよい,刑事ドラマの刑事さんのような教師が現場にいることをわかってほしいと思う。


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嘘をつかなければならない子どもと大人

 正しいことを主張するときには,相手を傷つけないようにすることに留意すべきである。

 教師を長くやっていると,「正義感」がいかに人を傷つけるかがわかるようになってくる。

 年はとっても,経験が浅い教師は,「信頼感」が失われたことに我を忘れ,たたみかけるように「正しさ」を追い求める愚を犯してしまう。

 なぜその子ども(大人)は,嘘をつかなければならないのか。

 なぜそのような状況に追い込まれているのか。

 教師には,想像力が必要である。

 「正義感」だけで教師は「教育」を行うことはできない。

 お互いに「信頼感」がある関係でこそ,対話が成り立つ。

 「信頼感」と「正義感」が両立しないケースでは,どこまで「教師」であり続けられるかが大事である。

 嘘をつく子ども(大人)は,相手の「疑惑の目」には,非常に敏感に反応する。

 過剰反応は,さらなる「嘘」を重ねるという結果だけでなく,

 相手の悪口をこれでもかと言い続ける醜態を招く恐れもある。

 それは完全なる自己崩壊の始まりであり,自己の矛盾に気づけないレベルに達すると,「教育」ではなく「治療」の対象となってしまう。

 「教育」も広い意味では「治療」なのかもしれないが,教師と子ども,人間と人間は「対話」が続く限り,「治療」も可能になり,何より「自己治療」「自己教育」への望みをつなぐことができる。


 教員採用試験の論文で,「嘘をついている子どもにどのように接するか」という課題が与えられたら,どのように指導の原理や方法,具体的な言葉かけ,評価のあり方を述べていきますか。 


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すぐに嘘がつける子どもの言い逃れの仕方

 嘘をつくことが習慣になっている子どもに1年か2年おきくらいに必ず出会う。

 空気を吸ったりはいたりするのと同じくらい自然に嘘がつける。

 嘘というのは,自分がやったことを「やっていない」と言うだけではなく,

 ほぼ同時に「やっていない」ことをやったと言うことが多い。

 教師である私が直接見ていたその場のことであるにもかかわらず,

 すぐに見破られる嘘がつける子どもとは,どのように育ってきたのか。

 これから,どのような大人になっていくのか。

 大人になった見本が,その子どもの親だった,という経験もある。

 一体全体,家族でどんな「だましあい」をしてきたのだろう。

 こういう人たちの「言い逃れ」の方法は,他者への攻撃に尽きる。

 それも,相当の激しさをもって攻撃してくるので,気の弱いセンセイだと問題の本質を見誤ってしまう。

 そこが狙い目だということを知っておくべきだろう。
 

 時の人となった「K氏」は,すぐにばれる自己の経歴を偽った報告をしていたことがわかっている。

 大学にしろ,就職先にしろ,小学校経験34年(?)にしろ,バレたあとのことを考えずにその場の思いつきで書いてしまう人はいるものだ。

 職員になることを断った人物の名前を名簿に載せていたこともわかっている。

 野党の代表質問に立った人が,「証人喚問での発言は重い」と語っていたが,

 私は偽証罪以上の重い罪を背負う可能性のある人には該当しない指摘だと感じた。

 私の目は別に精密な嘘発見器ではないのだが,

 嘘を平気でつく人の態度は,肌感覚でわかってしまう。

 幼稚園児を本気で「犬臭い」「おぞましい」と罵ることができる神経が,「教育者」にふさわしいものかどうかなど,「街の声」を聞くまでもないだろう。「おぞましい」のはどちらなのか・・・・。

 このK氏そっくりのD氏というのがこのブログ村に生息している。

 「しょうさん」という良識あるブロガーがあまりにひどい記事をたしなめてくださっているが,

 D氏の返答は,「あいつの方がひどい」というのだから,まさにK氏と瓜二つである。

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嘘がつけない人の言い逃れの仕方

 今まで何百人の子どもの生活指導をしてきただろう。
 
 重たい問題でも100人を超えている。

 こういう子どもを相手にし続けていると,嘘をついているかどうか,たいていは見破れるようになってくる。

 中には嘘なのだが真実っぽい話をする子どももいて,逆にバレやすかったりもする。

 問題行動を繰り返す子どもの中には,親の教育のおかげか,本人の性格かはわからないが,嘘がつけない子どももいる。

 こういう子どもの共通点は,「僕はやっていません」とは絶対に言わないことである。

 「やったのはあなたですか」という質問に,「はい」「いいえ」では答えない。

 「だれかの妄想だ」

 「証拠はないはずだ」

 「ぼくがやったと言っているやつは嘘つきだ」

 これですでにバレている。


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理解するよりも誤解する人が多い教育論

 「アドラー心理学」は,理解する人よりも,誤解する人の方が多いだろう,とアドラー自身が語っているそうです。

 中教審の答申で,「生きる力」というキーワードは何とセットで使われていたか,よく理解している人は,どれくらいいるでしょうか。

 「ゆとり」教育とは,何のために,どんな方法で実現しようとしたか,ご存じでしょうか。

 もしこのことを知っていたら,現在の公立中高一貫校がどれだけ「約束違反」の代物か,理解できるはずです。

 「アクティブ・ラーニング」という,流行になりそうで,なりきれずに消えていこうとしているキーワードがあります。

 今,「アクティブ・ラーニング」という言葉を使い,調子に乗って本を出したり,雑誌で特集をしたりした出版社や著者は,みんなバカにされていますが,どうしてこんなことになったのでしょう。

 指導要領という法令に匹敵するものには,こんな「いかがわしい」言葉が使われないことは,はじめからわかっていたことですが,流行を追うことだけが得意で,中身の理解がほとんどできない人たちが多いのは,何も教育の世界に限った話ではないでしょう。

 「主体的・対話的で深い学び」と言い換えたところで,自分自身がその経験をしたことがない人に,いきなり「そういう原理原則で実践しろ」と言われても,困ってしまうか,どさくさに紛れて,「それっぽい」ことを導入してお茶を濁すかしかありません。

 人は,自分の都合のよいように解釈することが得意です。

 「話し合い」活動を多く取り入れていた教師が,「私は昔からアクティブ・ラーニングを実践していた!」と得意になることくらいは,「可愛い」もの。

 自分にとって都合の悪いことには,耳を貸さない。

 特に,人の「生き方」に関することにふれる教育や心理学は,

 「オレ様の理論」をもつことが優先されやすく,現場の教師などと違って,

 特にそこにしか存在理由がない人たちにとっては,「オレ様の理論」を守ることが死活問題になるわけです。

 実践者が全教員の1000分の1に満たなくても,「全国でこんなに広まっている!」と宣伝しなければならない背景には,こんな事情があります。

 しかし,現場における教育という仕事は,他人の「理論」にかまっている余裕はありません。

 現場の状況というのは,常に流動的です。

 教育について,あり得ない「前提条件」をつきつけられて,目の前の状況に対応できずに苦しんでいる教師には,「被害者」でもあるという面もありますが,事態が収拾できなければ,「指導力不足教員」という烙印を押され,教員としての残りの人生は,その「称号」を背負ったまま,学校をたらい回しにされる運命になります。

 自分の理論を取り入れてくれる教師を「同志」などと呼んで,「敵」を増やし続けている人間が守っているのは,「子どもの未来」や「あるべき教師」ではなく,・・・。

 さまざまな教育論は,きちんと理解され,実践されるとこういう良い効果があります,という宣伝だけではなく,こういう誤解も受けやすく,もしその誤解のもとで実践されると,こういう問題が起こりえます,という注意喚起も必要なのです。

 教師が,教壇に立つ前に,習得してあるはずの「理論」とは何でしょうか。

 教員免許を取得した時点で,習得しているはずの「理論」とは?

 教員採用試験に合格した時点で,習得していると見なされている「理論」とは?

 教育現場では,「理論」をどうこうと批判する以前に,教師になる時点では身についていなければならないはずのことが,大いに欠落しているという致命的な大問題があることを,証明してくれた本があるので驚きました。
 
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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より