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カテゴリー「レジリエンス」の77件の記事

教員になれない人のための教員養成課程

 教員採用試験の合格者がそれなりに多い教員養成系大学がある一方で,合格者がほとんどいない大学がある。

 合格する見込みのない大学生に,教員養成のための時間を設けることに意味はあるのか?

 こういう疑問をもつ人も,いるにはいるでしょう。

 私の答えは,「意味はある」です。

 一生の思い出に残る教育実習を体験できるかどうかが,教員養成課程の最大のポイントだと思っています。

 そして,充実した教育実習を体験できるかどうかは,現場の指導教諭と生徒たちにすべてかかっていると考えてよいでしょう。

 指導教諭(の勤務する学校)が,教育実習の指導のための綿密なプログラムをもっているかどうかが成功の鍵です。

 「何も起こらない」学校や学級では,実習になりません。

 「いつでも何かを起こせる」学校や学級は魅力的です。

 教育実習は,指導教諭から学ぶための場ではなく,子どもから何かを学ぶ場です。

 「最高の指導者」としての子どもがいる学校とは,どういうところでしょうか。

 「教員養成の専門家」が,そういうところに関心を持てるようになるのはまだまだ先のことかもしれませんが・・・。
 
 教育実習の再チャレンジができる仕組みを整えようとしてくれる事務方が出てきてくれることを望みます。

 
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「主幹教諭」の使い捨てが始まっている

 管理職と一般の教諭の間に,「主幹教諭」という立場がある。

 管理職のなり手がいないように,

 将来の管理職に近い立場としての「主幹教諭」のなり手もいなくなっていくだろう。

 本人の強い意思というより,管理職への「主幹教諭のなり手を増やせ」という強い要請がもとになり,管理職によって「主幹教諭」に勧められたからなった人が多いのではないか。

 なったきっかけはどうであるにせよ,「主幹教諭」に課せられる任務は決して軽いものではない。

 当然,「主幹教諭」としてのつとめを果たしていない,と断罪される人が増えていく。

 「お前は役に立たない」とまでは言われないだろうが,

 「他の学校でスキルを磨いたらどうか」などと言われて,異動させられる人が増えていくだろう。

 そして,異動先で能力が認められなければ,またすぐに次の学校に移らされる。

 単純に「行政職」としてとらえたら,「主幹教諭転がし」が,本人のためになる場合ももちろんある。

 ただ,管理職の養成方法としての「主幹教諭」育成にも,私は限界があると思っている。

 私は3年間の教育委員会での勤務を通して,現場の教師の大変さに改めて気づかされた。

 現場では,子どもだけではなく(子どもだけでも恐ろしく大変だが,以前に増して子どもとセットで大変な親も増えている),教員たちという,子どもの以上に大変な「指導」対象を抱えているのである。

 「指導」とは,問題行動を起こした教員への注意,という意味ではない。

 十分に高い能力をもった教員の能力をさらに伸ばすための働きかけも重要な「指導」である。

 まだまだ自分を磨くのに時間がかかる,そういう学校現場で,
 
 教師として不完全な自分が,他の教師の(もちろん自分よりキャリアが長い教師も含めて)「指導」を担うのは,大きな負担になるだろう。

 学校内で閉塞状況に陥った主幹教諭が異動させられることは,心理的重圧から逃れる手段として一時的な効果があるかもしれないが,それを繰り返すことで,教師として最も重要なものが得られないまま終わってしまうのではないか,と私は危惧している。

 その気持ちの表れが,標題の「使い捨て」という言葉になった。


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ポジティヴシンキングもほどほどに

 明るい未来像だけを描くようにコントロールされた人々が,いよいよ地獄を見る日が近づいているように思える。

 地獄が目の前に迫っているのに,絶対に自分は地獄に堕ちないですむと信じ切っている人に,危険を察知する能力を与えるのは不可能である。

 遠いところにある危険ばかりを煽り立てて,目の前の危機はなかったことにする神経でも,生きていける国の最後の望みとは何だろう。

 地獄への階段を用意したのは,自分の国以外の人間や異教徒たちだと開き直る姿が目に浮かぶようである。

 歴史の浅い国だからといって軽蔑するわけではないが,楽観的すぎる単純な生き方は,本当に心配になる。

 敵対勢力の攻勢が甘いとき,それは自滅を待てばすむという分析に基づく判断かもしれないと想像してみてもらいたい。

 
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日本人は多文化共生に耐えられない?

 日本人は多文化共生に耐えられない・・・

 ある東大名誉教授の社会学者が新聞で展開していた主張である。

 ツイッターなどで,「信じられない」という反応が多く寄せられているらしい。

 「仲間を後ろから槍で突きさすような発言」という趣旨の言葉もあった。

 人口減少社会に「移民」という切り札を使うことは,不可能だ,という理解があるようだ。

 反論の理由として挙げられている,多文化共生で生きている人々が実際にいる,そういう地域がある,ということをご存じないはずはない。

 努力している人々の足を引っ張るタイプのガクシャは少なくはないだろう。

 教育の世界では,優秀な教師たちを「見下す」ための「理念」を吹聴し,「等しく貧しい学力をつける」ことに専念させようとしているセンセイとその「同志」もいる。

 「平等に貧しくなろう」

 こういう考え方にすがらないと生きていけないほど日本が落ちぶれる前に,何とかしたいと思っているのは,私だけではないと信じたい。


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教育困難校を避けたい教育公務員たち

 教育困難校に勤めていると思われる教員の愚痴ブログ。

 共感を覚えるのは,同じ教員だけでなく,同じ学校に通っている心優しい生徒たちも同じだろう。

 もちろん,私のように反感を覚える者もいる。

 子どもから暴言を浴びせられ,「裏切られた」と感じている哀しき教育公務員は,

 いくつかの意味で本人が重大な「裏切り行為」をしている。

 その最も「裏切ってはならない」対象とはだれか,本人は気づいているのだろうか。

 教育困難校立て直しの切り札こそが『学び合い』だろうか。

 残念ながら,ご本尊は学校を辞めてしまっているが。

 
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子どもを輝かせるための仕事を教える教職課程の科目とは?

 教師の仕事は,子どもを輝かせるためにある。

 子どもが子どもを輝かせるための力をつけさせることも教師の仕事である。

 勘違いしている教師は,いつも同じ子どもが同じような条件で輝くためのお膳立てだけをしている。

 自ら輝きを発している子どもと,それに照らされているだけの子どもの区別がつかない人がときどきいる。
 
 自分ではなく,仲間を輝かせることができる子どもを育てるにはどうしたらよいか。

 様々な場面で,様々な子どもにリーダーとしての自覚を持たせることが最善の教育方法である。

 様々な子どもにリーダーとしての自覚を芽生えさせ,行動を起こさせるための手がかりを与えるのは,

 教師自身のリーダーシップである。それも,一人の教師だけのリーダーシップではなく,子ども同士と同じように,

 教師同士が,一定の役割を分担し合って,それぞれが活躍している姿を見せる必要がある。

 中学校に子どもが進学すると,小学校では見たことも聞いたこともなく,全く想像できなかった教師集団のチームワークを目の当たりにすることができるようになる。

 日本の学校では,「学年」という集団のもつ教育力が際立っているものである。

 その「教育力」は,ときに「破壊力」を発揮してしまう場合もあるが,そういうときこそ「教育力」に転嫁できる最大のチャンスとなる。

 こういう話を大学生にしてみたと仮定してみよう。

 キョトンとしている学生や意味不明で怪訝そうな学生と,そうではない学生に議論させてみたい。

 「学年」の教育力とは何か。

 教師の集団のチームの基本は,「学年」である。
 
 これがチームとして機能していなかった学校に所属していた学生たちには,将来,教師になったときに,なぜそれが大切なのかを理解させてあげなければならない。

 さて,こういう話を教えてくれる教職課程の科目とは,どういうものなのだろう。


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直葬・0葬 VS 永遠葬

 中学生の担任である私が明日もし死亡し,葬儀は行わない,としたらどのようなことになるだろう。
 
 死んでも悲しんでもらえないのはつらい,という話ではない。

 日経電子版で読んだコラムには,今,日本では,通夜も告別式も行わずに遺体を火葬場に直行させ焼却する「直葬」が増えており,それをさらに進め,遺体を焼いた後,遺灰を持ち帰らず捨てる「0葬」を勧める人がいることが紹介されていた。

 宗教教育をしてはならない日本で,葬儀をめぐる議論を教育の場でさせることは難しいかもしれない。

 ただ,「生命の尊さ」「人間の尊厳」などの道徳的価値を理解させるためには,素通りできない話題である。

 「葬儀」の場合には,「儀式」の意義を考えさせることもできる。

 「形式」があるものを,単に「形式的だ」といって批判する人間を増やさないために,

 日本の教育では,「社会的事象」の「意味」や「意義」を考えさせる,という指導上の留意点がある。

 「入学式」や「卒業式」を,一定の流れに沿って,厳粛に行うことの意味と,

 「葬儀」を行うことの意味の共通点と相違点を考えさせる授業を実践すると,子どもたちにどのような思いが芽生えるだろうか。

 物心ついてから初めて親族や関係者の葬儀に参列した子どもはどのような思いをもつだろう。

 私の娘は,いつも可愛がってくれた祖父が亡くなり,火葬になる前に,

 「どうして焼いちゃうの」と泣いていた。

 こういう場を経験できない子どもが増えていくことが,今後予想される。

 日本に限らないかもしれないが,「節目」を大切にし,「区切り」を通過することによって,

 新しい何かを生み出し続けるとともに,永く変わらない何かを創り出すことの意味を,

 教員ですらわかっていないものがいる。

 学習指導要領を読んでいないから,わかっていないのだ,という意味ではない。

 読んでもわからないだろう,と思われる教員がいるのである。

 教員ですらそうなのだから,社会に同じような人々が増えていくのも当然かもしれない。

 できたら私のときは,葬儀を行ってもらい,「区切れ目」としてほしいものである。

 
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極細の屋台骨が折れた日本の教育界

 国立大学を縛り上げていた文科省が,

 私立大学に対して想定問答集まで与えて,省ぐるみで国家公務員法に違反する行為を行っていたことは,

 日本の何を象徴しているのだろうか。

 利己的な国家公務員とそのOBが,教育も道徳も無価値に見える社会に日本を変質させようとするねらいは何か。

 いじめの聞き取り調査では,口裏合わせをさせないような機動的な調査が求められるが,

 これからは,文科省の人事課というお役所の人たちが行っていた方法を真似るケースが増えていくのだろうか。

 行政の人間なら,それも霞ヶ関の人間なら,絶対に口にできない言葉があったはずである。

 「法律をよく知らなかった」

 「自分の行為が法令に違反しているとは思わなかった」

 という言い訳ができる官庁が,日本にあったとは驚きである。文科省レベルなら仕方がない,とは言えない。

 もしそれで事務次官などという地位につき,8000万円もの退職金を手に入れて「もらい逃げ」することができるとしたら,

 日本はもはや法治国家ではなくなってしまう。

 立場を利用して甘い汁を吸う人間がいるのは,もちろん日本だけではない。

 お隣の国との共通性が滲み出てくるような出来事であった。

 骨が折れ曲がったテントをそのまま露出しておくのか,どうか。

 穴の空いた天井から,どのような景色が見えているのだろうか。

 国家公務員が法令を守らない国の政府が語れる道徳や正義とは何か。

 拷問は「効果がある」と発言する新大統領がいる国と一緒に自滅しないですむ進路を探ってもらいたい。

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1時間座ったままでいると寿命が22分縮む

 耳石というものの存在を初めて学んだのは,中学生だろうか。

 記憶に残りにくかったのは,その存在意義の理解が薄っぺらだったからだろう。

 「1時間座ったままでいると寿命が22分縮む」と聞くと,毎日6時間くらいほとんど座ったままで,

 それを10年以上も続けている人はドキドキするかもしれない。

 記事によれば,歩くことより,「立ち上がること」が大事らしい。

 教員は,1日6時間くらいは立って過ごす。

 部活動の指導の時も,40代くらいまでは「座って行う」など考えられなかった。

 私の転機は指導主事になってことで,おそらく寿命は10年くらい縮まってしまっただろう。

 その分を後の12年で取り戻せたかどうか・・。

 学校も管理職になると,とたんに不健康になるが,

 事務作業は「立ったまま行う」というのもよいかもしれない。

 ふと生徒に目を向けると,座っている時間が圧倒的に多い。

 自分もそうだったが,改めてふり返るとあまりにも不自然な時間である。

 もちろん,立ち歩き可が論外であることは言うまでもない。

 「歩きながら考える」姿が一人前になるような将来をつくってあげたい。

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長子・中間子・末っ子,一人っ子の特質

 トップアスリートに末っ子が多いというのは,どこかで聞いたことがある。

 一人っ子が増え,兄弟姉妹がいても一人だけ(つまり子どもが二人)という家族ばかりになっていくと,「末っ子」という分類自体がなくなっていくと思われるが,

 次のような兄弟姉妹の「価値観」などの分析?が紹介されている記事(週刊朝日)を読んだ。

>長子は,やるべきことをやる

>末子は,やれそうなことをやる

>中間子は,みんながやらないことをやる

>一人っ子は,やりたいことだけやる

 なるほど,と思えるのは,だからこそ,・・・と思い当たる事例が多いからだろう。

 歴代首相の約半数が中間子だというのも,なるほどと思える。

 「注意される・叱られる」とき,どうなるか。

>長子は,「自分が悪かった」と反省する

>末子は,「自分のせいじゃない」と開き直る

>中間子は,「なんで自分だけ」といじける

>一人っ子は,「……!」とパニックになる

 教育現場での事例を集めると,同じような分析結果が出てくるかもしれない。

 人間関係をうまく機能させるための一言は・・・

>長子には「頼りにしてます」

>中間子には「あなたしかいない」

>一人っ子には「やり方は任せるよ」

>末子には「これが終われば○○だよ」。

 学校にも,放っておかれる方が大好きなのと,放っておかれると怒り出す子がいる。

 自分はどうでもいいが,先生が人によって扱いを変えることが嫌いな子もいる。

 いずれにせよ,教育というのは「面倒臭い」ものだからこそ,面白いとも思えるし,

 かかわりたくない,とも思えるものである。

 かかわりたくない,と思ってしまうのは,どういう人だろう。

 末っ子や一人っ子で先生になっている人がいたら,会ってみたい。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より