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カテゴリー「レジリエンス」の86件の記事

すぐに嘘がつける子どもの言い逃れの仕方

 嘘をつくことが習慣になっている子どもに1年か2年おきくらいに必ず出会う。

 空気を吸ったりはいたりするのと同じくらい自然に嘘がつける。

 嘘というのは,自分がやったことを「やっていない」と言うだけではなく,

 ほぼ同時に「やっていない」ことをやったと言うことが多い。

 教師である私が直接見ていたその場のことであるにもかかわらず,

 すぐに見破られる嘘がつける子どもとは,どのように育ってきたのか。

 これから,どのような大人になっていくのか。

 大人になった見本が,その子どもの親だった,という経験もある。

 一体全体,家族でどんな「だましあい」をしてきたのだろう。

 こういう人たちの「言い逃れ」の方法は,他者への攻撃に尽きる。

 それも,相当の激しさをもって攻撃してくるので,気の弱いセンセイだと問題の本質を見誤ってしまう。

 そこが狙い目だということを知っておくべきだろう。
 

 時の人となった「K氏」は,すぐにばれる自己の経歴を偽った報告をしていたことがわかっている。

 大学にしろ,就職先にしろ,小学校経験34年(?)にしろ,バレたあとのことを考えずにその場の思いつきで書いてしまう人はいるものだ。

 職員になることを断った人物の名前を名簿に載せていたこともわかっている。

 野党の代表質問に立った人が,「証人喚問での発言は重い」と語っていたが,

 私は偽証罪以上の重い罪を背負う可能性のある人には該当しない指摘だと感じた。

 私の目は別に精密な嘘発見器ではないのだが,

 嘘を平気でつく人の態度は,肌感覚でわかってしまう。

 幼稚園児を本気で「犬臭い」「おぞましい」と罵ることができる神経が,「教育者」にふさわしいものかどうかなど,「街の声」を聞くまでもないだろう。「おぞましい」のはどちらなのか・・・・。

 このK氏そっくりのD氏というのがこのブログ村に生息している。

 「しょうさん」という良識あるブロガーがあまりにひどい記事をたしなめてくださっているが,

 D氏の返答は,「あいつの方がひどい」というのだから,まさにK氏と瓜二つである。

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嘘がつけない人の言い逃れの仕方

 今まで何百人の子どもの生活指導をしてきただろう。
 
 重たい問題でも100人を超えている。

 こういう子どもを相手にし続けていると,嘘をついているかどうか,たいていは見破れるようになってくる。

 中には嘘なのだが真実っぽい話をする子どももいて,逆にバレやすかったりもする。

 問題行動を繰り返す子どもの中には,親の教育のおかげか,本人の性格かはわからないが,嘘がつけない子どももいる。

 こういう子どもの共通点は,「僕はやっていません」とは絶対に言わないことである。

 「やったのはあなたですか」という質問に,「はい」「いいえ」では答えない。

 「だれかの妄想だ」

 「証拠はないはずだ」

 「ぼくがやったと言っているやつは嘘つきだ」

 これですでにバレている。


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理解するよりも誤解する人が多い教育論

 「アドラー心理学」は,理解する人よりも,誤解する人の方が多いだろう,とアドラー自身が語っているそうです。

 中教審の答申で,「生きる力」というキーワードは何とセットで使われていたか,よく理解している人は,どれくらいいるでしょうか。

 「ゆとり」教育とは,何のために,どんな方法で実現しようとしたか,ご存じでしょうか。

 もしこのことを知っていたら,現在の公立中高一貫校がどれだけ「約束違反」の代物か,理解できるはずです。

 「アクティブ・ラーニング」という,流行になりそうで,なりきれずに消えていこうとしているキーワードがあります。

 今,「アクティブ・ラーニング」という言葉を使い,調子に乗って本を出したり,雑誌で特集をしたりした出版社や著者は,みんなバカにされていますが,どうしてこんなことになったのでしょう。

 指導要領という法令に匹敵するものには,こんな「いかがわしい」言葉が使われないことは,はじめからわかっていたことですが,流行を追うことだけが得意で,中身の理解がほとんどできない人たちが多いのは,何も教育の世界に限った話ではないでしょう。

 「主体的・対話的で深い学び」と言い換えたところで,自分自身がその経験をしたことがない人に,いきなり「そういう原理原則で実践しろ」と言われても,困ってしまうか,どさくさに紛れて,「それっぽい」ことを導入してお茶を濁すかしかありません。

 人は,自分の都合のよいように解釈することが得意です。

 「話し合い」活動を多く取り入れていた教師が,「私は昔からアクティブ・ラーニングを実践していた!」と得意になることくらいは,「可愛い」もの。

 自分にとって都合の悪いことには,耳を貸さない。

 特に,人の「生き方」に関することにふれる教育や心理学は,

 「オレ様の理論」をもつことが優先されやすく,現場の教師などと違って,

 特にそこにしか存在理由がない人たちにとっては,「オレ様の理論」を守ることが死活問題になるわけです。

 実践者が全教員の1000分の1に満たなくても,「全国でこんなに広まっている!」と宣伝しなければならない背景には,こんな事情があります。

 しかし,現場における教育という仕事は,他人の「理論」にかまっている余裕はありません。

 現場の状況というのは,常に流動的です。

 教育について,あり得ない「前提条件」をつきつけられて,目の前の状況に対応できずに苦しんでいる教師には,「被害者」でもあるという面もありますが,事態が収拾できなければ,「指導力不足教員」という烙印を押され,教員としての残りの人生は,その「称号」を背負ったまま,学校をたらい回しにされる運命になります。

 自分の理論を取り入れてくれる教師を「同志」などと呼んで,「敵」を増やし続けている人間が守っているのは,「子どもの未来」や「あるべき教師」ではなく,・・・。

 さまざまな教育論は,きちんと理解され,実践されるとこういう良い効果があります,という宣伝だけではなく,こういう誤解も受けやすく,もしその誤解のもとで実践されると,こういう問題が起こりえます,という注意喚起も必要なのです。

 教師が,教壇に立つ前に,習得してあるはずの「理論」とは何でしょうか。

 教員免許を取得した時点で,習得しているはずの「理論」とは?

 教員採用試験に合格した時点で,習得していると見なされている「理論」とは?

 教育現場では,「理論」をどうこうと批判する以前に,教師になる時点では身についていなければならないはずのことが,大いに欠落しているという致命的な大問題があることを,証明してくれた本があるので驚きました。
 
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注目を浴びたい子どもがすること

 教師になって多くの人が最初に戸惑うのは,あり得ないような問題行動を起こす(繰り返す)子どもへの指導だろう。

 特に,自分の子ども時代にそういう問題を起こす子どもとの接点がなかった人は,「教師」であり続けることが難しくなる。

 あるときはできそこないの「刑事」になり,あるときは「裁判官」になり,そしてあるときは「暴力で動かす」人となる。

 問題行動を起こす子どもに「寄り添う」ことができるようになるには,経験者の声を何時間聞くよりも,自分自身でたくさん経験するしかない。

 「塾の先生」の延長で「学校の先生」の仕事を考えていた人は,自分は「塾の先生」の方が向いているのではないか,と自問してほしい。

 子どもが問題を起こすメカニズムは,本当に多種多様である。

 単純に,「目立ちたい」「人から注目されたい」だけが動機の問題行動もある。

 「規範意識が足りない」から,「規範意識を育ててあげよう」という「指導原理」では,問題行動を根絶できない。

 教師たちにとって基本的な対応策は,予防策でもあるべきである。

 「問題の行動」ではなく,「人から頼られる場面」「人にやさしくできる場面」など,プラスの意味の行動で目立てる環境を整えてあげることが大切である。

 もちろん,そういう場で「注目」されても,それで飽き足らない子どももいる。

 教師から指導を受ける=相手にされることを期待して問題行動を繰り返す子どももいる。

 要は「親代わり」を教師は務めるわけだが,それだけやりがいがある仕事であることがわかっていただけるだろうか。

 社会に出ても,食品ケースに入った写真を公開するなど,注目を浴びることに悦びを感じられる人間が多いが,それは若い人に限ったことではない。

 ブログ村の,教育論・教育問題の「注目記事」を見ていただきたい。

 「下劣」を絵に描いたような「内容のない」記事がアップロードされ,そして注目が集まる。

 注目を浴びたい「子ども」がすることに,ぶろぐ村は寛容なようだ。


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ブログ上での非難と告白

 何度も登場するのでおなじみの話だが,世の中には,怒りを生きがいにしている人がいる。

 とても気の毒なことは何かというと,憤っている相手の描写が,自分自身にぴったり当てはまってしまっていることである。

 漫才なら,綺麗なボケである。

 「それ,お前のことじゃん!」とツッコミを入れたくなってしまう。

 自分以外の机を汚い,汚い,といって非難しているが,だれの目から見てもその人の机の上が最も汚い。

 そういうタイプの人は,職場に1人くらい生息しているのではないか。

 まともに相手にすることはできない。

 自分のことがわかっていない人間とは,議論もなにも成立しない。

 人の話に耳を貸さない(というより,自分がなりすましている「他人」以外,話しかけてくれる人がいない・・・ただ,今は話しかけていますよ)人間というのは,実はこの世で最も「孤独」な人なのだ。

 社会的な動物である人間にとって,最大の敵は「孤独」である。

 だから,自分自身を「敵」にして,相手があることにして非難しまくることで,「孤独」を紛らわさないと生きていけない。

 非難してくれる人がいるということで,「孤独感」は減退する。

 批判する,非難する=相手にしてくれているということだから。

 裸の王様状態のこの人が,変わるきっかけになり得る言葉は,

 「相手は,それほど熱心に非難してあげるほどの価値のある相手ですか?」

 汚い言葉を書いているときが,一番しっくりくる・・・・こんな可哀想な人は,滅多にいない。

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「ヘンな人」が「よき人」を駆逐していく

 ヘンな人を邪険にする集団より,ヘンな人を大切にする空気をもった集団の方が,

 人間集団全体としてはうまくいくかもしれません。

 「ヘン」と言ってもレベルはさまざまなで,高い・低いや浅い・深い,広い・狭い,早い・遅いなど,四次元空間の「ヘン」さが存在するので,だれでもどこからしら「ヘン」な部分はあるわけで,

 そういう「違和感」が全部お互いの「敵」になってしまったら,すべての人を排除する方向に流れやすくなってしまうはずです。

 ただ,残念ながら,その逆のことも起こってしまうのが人間集団です。

 「ヘンな人」のために,「よき人」がどんどんやる気をなくしたり,嫌気がさしたり,「こんな場所にいたくない」と思ったりする。

 いじめはしたくない・・・としたら,自分がいなくなるしかない・・・「いじめ防止」とは,「人間からの遠ざかり推進」という面ももってしまっていることが怖いことなのです。

 気がついてみたら,本当に自分勝手な人間しかいなくなってしまった・・・

 そういう学校は,生徒の荒れが遅れてやって来るので,原因がつかみにくいのです。

 子どもの問題は,大人が引き起こしているものが多いことをどこかの機会で実感しておきべくでしょう。


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教育への情熱は,どこに消えたのか?

 教育論・教育問題を語る意味は,どこにあるのでしょうか?

 子どもの教育のために,真剣に語れる教師は今,どのくらいいるでしょう。

 教育への情熱を語りにくい情勢があるのは確かです。

 定時に帰り,個人の時間を大事にすることが大事な人や

 家事や育児のために担任をもっていない人と,

 何時まででも学校に残り,次の日の授業の準備をしている人を比べてしまうことはタブーです。

 部活動の指導の能力も意欲もない人と,

 大学時代まで自分がやってきた種目を子どもに教えている人を比べることもタブーです。

 いかにも楽に指導ができそうな「すぐ役立つ本」ばかり読んで,

 ろくに教材研究をしない人と,

 専門書を自費で買い,教科書や指導書が何を省いてしまっているのかを突き止めようとする人を比べることはタブーです。

 教育現場では,真面目に教育に取り組むための空気感が欠けているところがあります。

 職員室に帰ると「息抜き」しかしないようなおしゃべりな人と,

 生徒の記録ノートや生活ノートにびっしりコメントを書き込む人を比べることもタブーです。

 教育への情熱を感じられない現場教師がいる以上,

 「真面目な人」は生きにくく,いつ足を引っ張られるか,気が気でないのが教育現場です。

 なぜこんな状況になってしまったのかは,教育に関係してきた人たちのブログを拾い読みするだけでよくわかります。

 怨念の渦巻く空気の中で,もし,だれの助けも得られないで困っている人がいたら・・・

 教育長ならどうしますか?


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現場での教育という仕事は,「攻撃」の対象になった時点でアウトです

 教育現場ではない「遊び場」では,教育に関するどんな主張をしようが,自由です。

 「遊び場」での自己主張や,一日だけ現場を借りて行う「お遊び」は,

 たいした実害もないでしょうから。

 しかし,実際の「修羅場」=教育現場は違います。

 現場は,「攻撃」にはとても弱い場所です。

 だから,多くの管理職は「守備」重視で,そういう能力が高い人のもとでないと,危なくて仕事もしていられません。

 「指導力不足」を理由にした「攻撃」ほど扱いが難しいものはありません。

 授業規律の意義を知らない小学校の先生が,中学校に異動してきて,たいへんな苦労をしていることを直接相談されたことがありました。

 できることなら,早く小学校に戻してもらえるように,管理職にお願いした方がいいでしょう。
 
 ただ,私の学校に研修に来られる先生は,将来の管理職候補でしょうから,こういう苦労をどう乗り越えるかが大事,という見方もできますが・・・。

 地域によっては,東京都内ですら,小学生のような中学生がいる学校もあります。

 小学7年生から8年生に上がり,最後の一年で中学生になって,高校に進学していくような学校も。

 一方で,中学校に入ったときから気合いの入った「中学生」になっていく学校もある。

 極度の人間不信集団がいて,授業規律が保てない学校で,やりがいのある教育をするのは難しい,というタイプの人は,教師をやめるか,小学校の方が向いているでしょう。

 小学校でも,担任教師がある宗教の信者で,明らかにそれとわかる教育をしていたために,「攻撃」を受ける前に管理職が手を打ったこともありました。

 多くの小学生には,「抵抗能力」はあっても,「批判能力」はありません。
 
 だから,問題がばれないことも多いのですが,

 ばれたとたんに「担任を変えろ」の大合唱が始まりますから,管理職は気が気でないのです。

 公立学校には,「異動」という「最終兵器」があるので,結局,攻撃対象になる学校はローテーションする。

 「不幸な管理職」にならないことを望む一方で,そんな仕事を引き受けたくない,という人も増えるのです。

 教員の世界は狭いので,悪い噂は一瞬で広まります。

 「昔はこうだった」と陰口を言われるくらいなら,管理職なんてならない方がいい。

 小学校も中学校も,いずれ,管理職を外注する時代が来るのではないでしょうか。

 
 「攻撃」への対応のプロの養成も求められる時代です。


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他人への要求ばかりが大好きな人たち

 学校では,「モンスター」と呼びたくなるのは,夜中の2時に苦情電話をかけてくるような保護者だけとは限らない。

 どうしてこうも,要求ばかりが好きな人がいるのだろう。

 よくそんな要求を次々に思い浮かべることができるのだろう。

 自分でやればいいのに。

 無理なのはわかっているのに。

 「民主的な話し合いの場」では,様々な要求に対して,ああでもない,こうでもないと始まるが,時間ばかりがいたずらに過ぎていく。

 今の国会と同じである。

 テレビ中継されている国会では,中学校や高校の授業でも紹介できる,もっともましな話は聞けないのだろうか。

 私も,行政にいるときには,とにかく人々の要求を叶えるために活動するのが主な仕事だったように思える。

 あまりに無茶な要求には,どうしてその要求が通らないのかを切々と訴えるのだが,

 全く耳を貸さずに,同じ要求ばかりを同じ論理で繰り返す人たちがいた。

 「公正さ」「公平さ」の基準が異なるので,話がかみ合わない。

 その論理はどこがおかしいかを説明してあげても,同じことを繰り返すだけなので,

 やたらと時間ばかりが過ぎる。

 時間が来ると,大人しく去って行かれる姿を見ると,

 無駄なのはわかっているのに無駄な要求をしないといけない人たちがいる様子がよくわかってくる。

 「少しは自分のメンツは立った」と得意げに帰っていった方の表情は忘れない。

 議員さんたちも似たようなものなのだろう。


 経済の世界での「効率」の話はおそろしいものである。

 経済の世界で生きてきた大統領が,政治を始めている。

 民主主義の政治ほど,「効率」の悪い仕組みはない。

 まだ,人々は,民主主義の原則を捨てようとしていないようだが,

 いずれは,「要求を通してくれる人がすべて」みたいな社会になっていかないか,心配である。

 より「効率」のよい独裁政治を・・・と。

 
 教育現場では,もう少し,自分の頭で考えたり,自分の力で問題を解決したりすることができる子どもを育てたいが,そういうことができない教員も何とかしたい。


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教員になれない人のための教員養成課程

 教員採用試験の合格者がそれなりに多い教員養成系大学がある一方で,合格者がほとんどいない大学がある。

 合格する見込みのない大学生に,教員養成のための時間を設けることに意味はあるのか?

 こういう疑問をもつ人も,いるにはいるでしょう。

 私の答えは,「意味はある」です。

 一生の思い出に残る教育実習を体験できるかどうかが,教員養成課程の最大のポイントだと思っています。

 そして,充実した教育実習を体験できるかどうかは,現場の指導教諭と生徒たちにすべてかかっていると考えてよいでしょう。

 指導教諭(の勤務する学校)が,教育実習の指導のための綿密なプログラムをもっているかどうかが成功の鍵です。

 「何も起こらない」学校や学級では,実習になりません。

 「いつでも何かを起こせる」学校や学級は魅力的です。

 教育実習は,指導教諭から学ぶための場ではなく,子どもから何かを学ぶ場です。

 「最高の指導者」としての子どもがいる学校とは,どういうところでしょうか。

 「教員養成の専門家」が,そういうところに関心を持てるようになるのはまだまだ先のことかもしれませんが・・・。
 
 教育実習の再チャレンジができる仕組みを整えようとしてくれる事務方が出てきてくれることを望みます。

 
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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より