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カテゴリー「『学び合い』」の396件の記事

「一人も見捨てない」は罪な要求である

 「一人も見捨てない」という教師から子どもへの要求を,子どもはどう受け止めるべきなのだろうか。

 もし従わない,という選択肢をとったら,「弱い立場の人間を見捨てることは,よいことか?」などといじわるな質問をされる。「お前は道徳的に問題のある人間だ」とレッテルを貼られてしまう。だから強制されるしかない言葉となる。

 「見捨てられてきた側」からすると,「一人も(自分も)見捨てられない」という状況は喜ばしいものだろうか。そういう体験をしたことがある私は,必ずしもありがたいものとは言えないと考える。いわゆる「ありがた迷惑」な状況がたくさん生まれるから。

 たとえば授業でわからないところがあると,よってたかって「教え」にくる。何しろ,できない子どもを「見捨ててはいけない」のだから。いろいろ「親切」にされて,「それでもわからない」のだが,「わからない」とは言いにくい状況になり,つい「わかった」と言ってしまう。テストのときに,ウソをついていたことがいちいちばれてしまう。

 「一人も見捨てない」という要求の問題を子どもにする教師の立場から考えてみる。 

 「子どもの扱い」が上手い教師なら,「一人も見捨てない」ことへの不満を封じ込めることが可能かもしれないが,「優秀な教師」=「子どもを騙すのが上手な教師」という評価が定着しそうでおそろしい。

 外国人の割合が高い一部の学校に限らず,「一人も見捨てない」という「強い」使命を小学生に課すのは,非常に重い要求であると言わざるを得ない。

 すぐに思い浮かべられるのは,戦時中の「玉砕」である。以前も「一人も見捨てない」という方針は「全滅」につながる危険な思想である,という趣旨のことを,震災における避難行動を例に強く訴えたが,今回は「大人の勝手な理屈への服従」という点から,益よりも害があることを述べておきたい。

 実際の授業では,「7・5・3(小中高での満足に学修を終えた児童生徒の割合)」と言われるように,決してすべての子どもが「最低限」の知識・技能すら習得できないまま,はじかれることのないエスカレーターに乗って進級していく。

 日本が「落第あり」に舵を切るのは,相当に無理があることだろう。

 不登校などによって学習ができず,学力がつかない子どもを「進級させるのが気の毒」と考える欧米と違って,「進級させないなんて可哀想」「進級させないなんて,あり得ない」と考える日本の溝は簡単には埋まるまい。

 現状としては,日本の大人は明らかに子どもを「見捨てている」のである。授業を「優秀な子どもに教えさせる」という方針は,「子どもに見捨てさせる」という責任転嫁にすぎない。学力の定着という,教師が実現できない問題をうやむやにしたまま,子どもたちにはひたすら「一人も見捨てるな」と要求するような大人が近くに居続けることは,結局は大人になれば無責任がまかり通る世の中にしてよいということを教えているようなものである。

 私有財産制の廃止など,共産主義思想として植え付けることを宣言しているというのなら,とてもわかりやすい。

 悲観的な私は,「実験」の結果を知るのは決して「楽しい」ことではないが,「過去の失敗をすべて理解した上で実践しても,なぜ失敗し続けるのか」という理由をしっかり認識してもらうことは,大事なことだろう。

 「一人も見捨てない」という「信念」は大事だが,それを「手段」として使うことが,最大の問題なのだ。

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生徒との対話の中から自然に目標達成へのルートをつくる

 授業の話がまともにできる人が少なくなっているかと思いきや,先日参観に来ていただいた教職大学院の方々から,ご丁寧な礼状をいただいて,その内容を読んで嬉しくなった。

 授業づくりのヒントを様々な教科から学ぼうとされている,数学の方からのコメントが特に新鮮だった。

 目をつけていただいたのが,「生徒との自然な(わざとらしくない)やりとりの中から,目標達成への道筋をつくり,引っ張り上げる」という「技」だった。

 授業を長年して,参観者からのコメントをうかがっていると,こちらが意図して行っていること,意図せず行っていることが,あまり当たり前ではないという事実を思い知らされることがある。

 社会科の授業では,授業の主題をいきなり板書するパターンと,後出しにするパターンがある。

 どんなときに先に提示して,提示しないときと,どんな条件が異なるのか。

 こういう話ができる人とのかかわりは楽しい。

 何の脈絡もなく,「やることに決まっているから」という理由でいきなり課題を提示され,教師による少しの説明の後,できる生徒を頼りに学習を丸投げされるような授業を続けて受けたりすると,実験室の犬のような子どもができあがるに違いない。どうにかしてそんな授業に若い人たちが引き込まれないよう,尽力していきたい。

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子どもから有能感を奪い取る方法

 子どもたちの可能性は計り知れません。教師たちの想像を超えたパフォーマンスをしてくれることがあります。

 「想像を超えた」というのは,たいてい,教師が「この子の能力は低い」とレッテルを貼った子どもたちが実力を発揮している状況を示します。

 こういう子どもたちから,有能感を奪い取る方法は簡単です。

 学び合いだ,という号令をかけて,答えを教え合う環境をつくることです。
 
 中にはクイズ番組の影響か,できるだけヒントを与えて,正解に気づく快感を与えてあげることを優先できる子どももいますが,大部分は「教えてあげる」ことで手間を省きます。

 できる子どもたちが,できない子どもたちを支配下に治める環境になっていきます。

 先生なんかいらない代わりに,塾や予備校で先取り学習をして「知ってしまっている子ども」が幅をきかせることができる環境です。

 もし教師にできることがあるとすれば,教室をそういう環境にしないことです。

 「できる子に答えを教えてもらえば,自分もできたことにしてくれる」環境にしないことです。

 教師の仕事は,子どもの有能感を引き出すことです。教師にとっての授業のモチベーションは,自分の中の有能性に気づいた子どもの表情を読み取ることにあるのです。この状況まで持っていってからの「学び合い」なら効果的なのです。

 授業が始まって「自習課題」を示しただけで,後は子どもから平気な顔をして有能感を奪っている人間たちに言いたいこと。

 「言っていることとやっていることが違うセンセイほど,信用されない人間はいない。」

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人間の醜さを露呈させる教育方法

 人間には,多様な種類ごとにレベルの異なる醜さが備わっています。

 たとえば,「自分にとって得だと思えることだからやる」という利己主義。

 私がその文化を知らない地方には,利己的な子どもばかりをどうしたら動かせるようになるか,悩みもしないで,その利己主義を利用する安易な教育方法に走る人間がいるようですね。

 教師にとって,これほど醜悪な判断の仕方はありません。

 それが醜悪に思えない地方の人がいるのは意外です。

 また,どんな人にでも分け隔てなく接することができることが善だという,平等主義を平気で放棄できる地方もあるようです。こっちは何となくわかります。近い奴ほど憎い,という感覚は,閉鎖的な地方独特の文化ですね。

 嫌な奴とは付き合うな,という「教え」を,利己主義に固まった子どもにすれば,どんなことになるのか。

 醜いという言葉では表現しきれないほどの腐臭を発する教育を語る人間がいるんですね。

 「身近な地域」との交流がなく,遠く隔てた地方に存立の意義を見いだそうとする人たちにとって,「郷土」とはどんな意味をもっているのでしょう。

 どれだけ「地域」の子どもをバカにしようが,「こういう風にだけは育ってほしくない」と思える大人はいないのでしょうか。

 大丈夫ですかね。

 まだ風邪とかインフルエンザくらいに軽く思っている管理職が哀れです。

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教師の成長力を奪う力

 教育の世界では昔から,「大学における教員養成の限界」が問題になっている。

 「教育学部の学生の資質能力に課題がある」のは企業だけでなく教育現場も同じことで,

 教育実習に挨拶に来るとき,「教育学部でごめんなさい」とお詫びから入ってくるのが通例になっていることが印象的である。

 私は「教育学部」というところで学生の能力が潰されているのではないかと危惧している教員の1人だが,その根の深さは昔からなので,すぐに改善することは難しいだろう。人間を育てるのは人間なのである。

 
 少子化による学校の小規模化に伴って,適正規模に満たない学校が増え,

 「職場における教員の能力開発の限界」も問題になっており,それだけ余計に

 「現場で使えない若い教師が多くなっている」ことが学校の重荷になっている。


 こういう学校の窮状につけ込んで,教師の成長力を奪う実践が広がっていくことへの懸念もある。

 私は組合には入らなかったが,仮に入ったとしても,組合の体質には絶対に染まらなかっただろうし,

 すぐに抜けていたと思われる。

 今,学校を侵食しているのは,新しいタイプの組合体質を浸透させようとする「革命家」たちである。

 間違いなく,教師の成長力は奪われる。

 教員研修はお遊戯会レベルとなり,「仲良しこよし」が増えるだけだが,

 表向きは,「同僚性が高まった」などと宣伝される。

 浸食率は0.1%にも満たないレベルだろうが,1000校に1校でも子どもたちが犠牲になるのは心が痛む。 

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本に書いてある失敗を学べばよい?

 小学生が微分積分の問題が解けないことを,「失敗」とは呼ばない。

 幼稚園生が「恋愛の失敗」の話を聞かされても,「失敗の本質」を理解することは不可能である。

 「失敗の本質」がわかっていない大学のセンセイが,「教育の質」を致命的に落としていることを危惧する。

 教育現場から逃げ去ったことも,「失敗」ではなく,むしろ「大成功」である。

 今まで,まともな教育者で,「本を読めばわかる」と訴えた人がいただろうか?

 「本を読んでもわかることはないが,本を読んでおかないと,話にならない」ならまだわかる。

 もちろん,個人の体験談だけを載せてある本ではダメだし,

 過去のセンセイたちが書いたものを引用の断りなしにパクりまくっている本でもダメである。

 教育の世界に限った話ではないだろうが,人間は,自分が実際に経験してみて,

 失敗してみて,初めて「学ぶ」ことがいくらでもある,という最も大切なことを,

 人生の先輩から一度は耳にしたことがあるはずである。

 本を読んでわかった気になって,自分が成功した気になっている人間ほど,おそろしいものはない。

 人間には,他人に語れる失敗と,語りにくい,あるいは語れない失敗というものもある。

 「実証的なデータがある」という断り書きだけで,どこにも「実証的なデータ」が掲載されていない本は,

 虚偽データで好き勝手言う本よりはましであっても,信頼性はゼロである。

 ある本を読むと,編集者がいつも口で言っていることを,自分が経験したことのように書いているものがある。

 人の話を鵜呑みにして,現実の場面で自分が置かれている状況がわからない人間がいるのが学校現場の特色でもある。ただでさえ自己判断力の乏しい人間から,判断力を奪うセンセイほどおそろしいものはない。

 日本の大学院がどの程度のものか,どこかアジアの途上国の先生に看破してもらえないものだろうか。

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人に「素直であれ」という人は素直なのか?

 人はなかなか素直になれない生き物である。

 「素直に生きていこう」と自分が口にしている時点では,「素直ではない何か」を感じているはずである。

 人から「素直になれ」と言われて,その通りにする人を「素直な人」というのか?

 もちろんそうではないだろう。ただの「お人形」である。

 自分がもし「批判的な人間だ」「情報は疑ってかかることが大事」と自覚しているのなら,
 
 「批判的に考える」「疑ってみる」ことが「素直」な生き方である。 

 人は,自分に対して「素直」になれない場合もあるし,他人に対して「素直」になれない場合もある。

 他人に対して「素直になれ」と言う人を信頼する場合,気をつけるべきことは何か。

 直に会ってみることである。

 「素直に生きることの大切さ」を分からせてくれる人は,

 他人に決して「素直に生きろ」とは口にしないことを,先人たちが教えてくれている。

 道徳の時間は,そのことを隠しているから,「お人形」工場と言われてしまうのである。

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「信じる」と「あきらめる」の同一性

 「あきらめの境地」に達した人には,「悩み事」がない。

 これを人は「うらやましい」と思うだろうか。

 今のこの世の中に,「悩み事」がない教師がいるらしい。

 こういう教師を,「うらやましい」と思うのは教師だけではないか。

 親や子どもはどう思うだろう?

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いまそこに,いるべき子どもがいないことを瞬時に判断できない仕組みがアウト

 授業を抜け出して,職員室の教師の机から金品を盗もうとしていていた生徒が,たまたま外から同じ目的で侵入してきた泥棒と出くわし,顔を見られた泥棒が生徒を刺し殺してしまった・・・とする。

 授業をしていた教師は,生徒が教室を抜け出していたことに気づけなかった。

 そんなことがあり得るだろうか?

 教師はずっと黒板を向いていたのか?

 ・・・教室では,生徒たちが自由に教室内を動き回っていた。

 40人いる生徒たちの,だれがどこにいるのかを瞬時に把握することはできない。

 グラウンドで体育をしている教師も同じだろうか?

 教師が,教室内で負うべき責任とは何だろう?


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「功を焦る子ども」に成長が阻害される「弱者たち」

 教室に,「強者」と「弱者」のはっきり・くっきりした区別が見て取れる。

 「強者」は得意げに,「救ってやってる」オーラを全開にし,

 「弱者」は控えめに,「救ってもらっている」オーラに浸っている。

 一斉授業でも,教師のコントロールのきかない,KYの「強者」は同じような「侵略者」となるが,

 「弱者」「弱者」とバカにされている子どもたちの成長をじっくりと待つ姿勢が維持できる。

 「弱者」が成長の糧とするのは何だろう。

 それは,自分自身の努力による課題の克服であり,

 「強者」の「お情け」「身勝手な侵略」ではない。

 「一人も見捨てない」という原則から外れないために,

 徹底的に「弱者」をいたぶる子どもたち。

 「これで俺も得ができるし,お前にも損にはならないだろう」という理屈。

 こういう光景に疑問をもたない教師たちが増えないことを祈りたい。

 優れた教師が育成できない大学がドツボにはまったままなら,

 自然と淘汰されてくれるに違いない。

 下らないこんな記事が4500個目の節目の記事になってしまった。

 優れた教師に出会うことがなかった人は,残念ながら,教師には向かないことがよくわかる。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より