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カテゴリー「『学び合い』」の354件の記事

現場の教師にしかできない仕事

 先日,学校公開週間に私の最初の勤務校を訪問する機会があった。

 21年ぶりの訪問である。校舎はほとんど変わっておらず,校長先生は廊下のタイルが剥がれまくっていることを気にされていた。

 各教室とも,30人くらいの教室で,これでも少人数とは言えないはずだが,

 40人学級で10年以上仕事をしている身からすると,

 「いろいろなことができそうだな」という感触も得られたが,

 「少し寂しそうだな」という印象を強く受けた。

 私の妹の長女の学級をのぞくことはできなかったが,廊下を歩いていると,昔とあまり変わらない挨拶の習慣は定着していてよい印象だった。

 初任者として6年間お世話になったこの学校の周辺には,いろいろな意味で本当にお世話になった方々がいる。

 正門から歩いて50mくらいのところにある花屋さんに挨拶にうかがった。

 ご夫婦はお元気で,私の顔も覚えていて下さった。

 さすがにこのお店まで私の大きな声が届いていたとは思えないが,地域を歩くと恥ずかしい気にさせられたことも思い出した。

 当時は,伝統があり,一定の評判がある地域の学校は,「○○区の学習院」と呼ばれていた。

 高校に進学し,出身中学校名を自己紹介ですると,それだけで一目置かれる経験をして,初めて中学校に誇りを持てた,という卒業生もいるらしいが,多くの在校生は胸を張って日々を過ごしていた気がする。それは,教師たちも同じであった。もちろん,それをプレッシャーに感じる人がいたり,生活指導で苦労しないですむ,と手を抜いたりする人もいた。とにかくありとあらゆる教師のタイプ(管理職も含めて)をそこで知ることができた経験は行政に入ったときにも役に立ったと思う。

 とてもよい環境で仕事ができたからか,たった2年で教育の仕事を放棄した人の気持ちはわからない。

 いわゆる「良い学校」の勤務中に辞めるのであれば,まだ「本当の志が別にあるのだな」という気にもなるのだが,

 「暴走族を相手に私は頑張った」などと粋がっても,結局は底辺校に嫌気がさしたんだな,と思われても仕方がない辞め方をした人の気持ちはわからない。やる気のある人の採用枠を1つ増やしてくれたことの意義は大きいけれど。

 授業の評価をあれこれとすることは,簡単なことである。

 100時間分くらいの40人の子どもの言葉をすべて拾い出して,それぞれの子どもの成長を考える作業は,研究だけで飯が食える暇な人にしかできない。

 現場の教師は,授業はもちろん,休み時間や放課後の時間も含めて,教室の40人に限らず,ありとあらゆる場面で子どもたちの言葉に晒され続ける。人間のコミュニケーションは,録音可能な「音声言語」に限ったものではないことはだれでもわかることだろう。その言葉を口にしたときの表情,周囲にだれがいたか,どのくらいの大きさの声か,普段の話し方とどう違っていたか,それらすべてが大切な情報である。

 教育の現場に年間200日くらい居続けなければ,そういう情報は手に入らないのである。

 もちろん,絶対に聞き逃してはいけない言葉,見過ごしてはならない表情というものがある。

 それを聞き逃さない,見過ごさないのはセンスも必要かもしれないが,

 センスがなければ経験でカバーするしかない。

 「一人も見捨てない」という表現は,人によって捉え方がまちまちな言葉である。

 親ならまだしも,不特定多数の人のために尽くす医師や教師,政治家などが,軽々しく口にするべきではない言葉だと私は考えている。

 どうしても,「私が担当している患者に限って」「私が担任しているクラスの子どもに限って」「私を支持してくれる人に限って」という条件が必要になってきたり,実際にそうなってしまったりする言葉である。

 でも,そうであるならば,文字通りの「一人も見捨てない」状態にはなっていない。

 では,「少人数に限った集団の人間を一人も見捨てない」と言い換えたときはどうだろう。

 私は,「見捨てられない対象になった子ども」の身になってみると,

 「そいつを見捨てると自分たちが損するから」という論理で世話になり続けることに耐えられるのだろうか,という疑問がわいてくる。

 「この課題,あの子にはできないだろうな。だから,私が教えてあげないと・・・」という発想で,ちらちら見られ続けることになる。

 「全員ができるようになる課題」に意味があるかどうかは別として,子どもは容易に「わかったふり」「できたふり」をするようになることが予想される。

 「深い学びをするつもりはない」そうだから,「わかったつもり」のまま,全生徒が放置される教室では,学習指導要領の総則に反する教育をしていることになる。

 本当の意味での「一人も見捨てない」を成就したいのであれば,当然のことだが,文科省に対して反旗を翻さなければならないはずである。それをしないで「一人も見捨てない」は絵に描いた餅に過ぎないだろう。


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「あんたは本当にそれができるようになると思っているのか?」

 私は指導主事を経験して,自分がとても恵まれた環境にいられたことに感謝している。

 まだ十数年前は,指導主事を「教育委員会の犬」として露骨に嫌悪できる教員たちがいた。

 指導主事というものは,「お上」の考えをただ伝達したり押しつけてきたりするような人間であり,自分たち教員のことなどこれっぽっちもわかっていない,という印象を持たれていた。

 人間というのは,嫌われた状態から入り,相手の誤解を解くことで,一気に距離を縮めることができる。

 そのおかげで,小学校の研修会に継続的に参加させてもらう機会を得ることもできた。とても貴重な経験だった。

 今の指導主事さんたちはどうだろう。

 呼ばれなくなったら終わりだが,ただ呼んでもらうだけでもダメである。

 私は,文科省の教科調査官とか,大学のセンセイたちは気の毒だと思う。

 おそらく,研究会や研修会で厳しい質問攻めに合う経験など,ほとんどできないのではないか。

 一方的な伝達や講演と,当たり障りのない質疑応答では,お互いの距離が縮まることは難しい。

 私はある全国大会で「質問しないで」と会長さんから命じられたことがある。

 タテ社会では,偉い人のメンツをつぶすと,偉い人を呼んだ人のメンツもつぶすことになる。

 だから意見を言いたい相手以外の人に配慮しなければならないような場では,私も発言は控えるつもりだった。

 しかし,教育に関する大きな研究会の場では,「できないものはできない」

 「むしろこっちをできるようにするべきだ」などといった議論ができるようにならないといけない。

 「ああそうですか」「はいはい,善処いたします」・・・結局何もできませんでした・・・ではダメなのだ。

 指導主事の場合は,恨みを買っている教育委員会がバックにあり,

 欲求不満が全部こっちにまわってくる。

 だから,指導主事は,立場で物を言ってくる人間ではなく,子どもの成長を基本において物を言ってくる人間だということを,自分自身の教員生活の経験を1割,答申や法令等からの言葉を8割,そしてその場にいる子どもや教師にとって何が最善かを自分なりに考えたことを1割,といった割合で話すことが求められる。

 「あんたは本当にそれができるようになると思っているのか?」
 
 という投げかけに対して,「今も昔も,できてますよ」と答えられる立場こそが「最強」なのである。

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「お前なんかは同志じゃない」

 大学のサークルのようなノリの研究会に,現場の教師が参加するのはとてもいいことだと思います。

 人間の承認欲求を簡単に満たしてくれるのは,やはり多くても十数人程度の寄合でしょうから。

 私はこういう研究会の人たちに,ぜひとも他の研究会の「道場荒らし」をしてほしいと思っています。

 小学校の学級王国連合みたいな趣味のサークルものがただ数だけ増えていっても,全国の教育の水準は決して向上しないからです。

 「道場荒らし」を負かせることができて,初めて,研究会の存在意義が出てくるわけで,

 「お前は考え方が違う人間だ」

 「お前は仲間じゃない」

 などと思考停止してしまっては,外部から見れば「だから趣味集団ではダメなんだよ」で終わってしまいます。

 サークル内で慰めて合っているだけでは,子どもたちは救えません。

 学校の教師として「一人も見捨てない」と豪語するからには,自分の教室だけではダメで,

 その学校の子どもたち全員,いやいや,すべての子どもたちに目が向けられていないといけないのです。

 「信念」や「方法」はいくらでも語れるのに,「内容」が語れない人間が増えてきています。

 行政にいた私の感覚だと,現場の教師というより,事務方が増えてきている印象です。

 教師の現場感覚から最も遠い位置にいるのは,事務方でもなく,大学のセンセイかもしれません。

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足に鎖でつながれた重りの捉え方

 子どもがわくわくしながら本当の乗り気で取り組む課題を評価する方法がある。

 同じ設定の作業を,人の力を借りないでやらせること。

 「人の力を借りながらやるべきこと」と,

 「人の力を借りずにやるべきこと」の区別を『学び合い』はどのようにしているのだろう。

 その選択も子どもを信頼して任せているのだろうか。

 『学び合い』が楽しいだけなのか,

 楽しみながら学習をして様々な能力を習得しているのかがわかるテストをどんどん開発してほしい。

 「子どもだまし」の指導案をたくさん見せられて,辟易している『学び合い』である。

 子どもをだませるのも,せいぜい小3くらいまでか。

 指導力のない教師が行う一斉授業を参観していると,

 子どもたちの足に鎖でつながれた重りが見えてくる。

 やはり同じように,「子どもだましの課題」に「全体主義的精神」で取り組まされている子どもたちの足にも,同じようなものが見えてくる。

 教師の仕事は,子どもの足から重りをはずしてあげることではないか。

 もちろん,それは「自由に立ち歩かせる」ことに限った話ではない。

 「開放感にあふれた一斉授業」というものに,一生出会うことなく学校を去らなければならない人がいるのは本当に気の毒なことである。

 たった1年で挫折して,「本を読んで学んだ」と紹介している人たちの言葉が,ほとんどみんな同じである。

 まるでだれかのなりすましブログのように。

 本当に現場を知っている人間と,現場を想像して書いている人間が語る現場は全く違うことがわかっていないらしい。

 重りを鎖でとりつけられた人たちが苦しみから解放されている姿が逆にとても痛々しい。


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教育の「損失」は測定しにくい

 教育のように公共性の高い仕事については,第三者がその効果や成果を厳密に測定し,評価しようとする動機に欠けている面があった。

 唯一,わかりやすい「テスト」の得点については,教育上ほとんど意味をなさないとも言えるドリルばかりを繰り返すだけの学習を続けているだけでも,向上させることができる。

 対話も深い学びも自主性も問われず,ただひたすらプリントの問題を解かせ続けさせられる子どもたちが,高い成果を残したといえるようになり,教師が感謝されるようになれば,そのような安易な仕事に切り換える教師が増えるかもしれない。

 このような教育(?)を受けて育った子どもがどれだけの「損失」を被ったかを実証的に示すのは難しい。

 多くの教育実習生を受け入れている立場からすると,「損失」というより「壊滅的な負の遺産」を背負った大学生が教師となり,授業をすることなど,不可能に見える機会が増えてくる。

 教師が真の意味で苦労している姿を見たことがない大学生に,実習とはいえど教育など務まりようがないのである。

 大学での学習でも,どれだけの「損失」を算出することができるか,だれか研究してみてほしい。

 まじめな人ほど,たくさんの「単位」をとって卒業しようとしているらしい。

 このことがいかにダメなことか,ある私立大学の学長はわかっていらっしゃって,改革にのぞむとおっしゃっていたが,その趣旨が,大学のセンセイたちに伝わるかどうか・・・。


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「自由」を強制する目的とは?

 ひめゆり隊だった女性が,米軍の攻撃中に,日本軍から突然「自由」を指示されたという話を伝えているそうだ。

 社会学者の見田宗介さんが,現代思想2016年9月号で「これを本当に自由のいうのか」「どこに行ってもよい,と指示されるだけでは,現実的には自由であることにはならない」「希望がないところに現実的,実際的な自由はない」と指摘していることも紹介されている。

 教室で子どもたちに課題を与えた後,動き回ったり人と協力したりして,自由に解決・達成できるチャンスを与え,その教育効果に期待を寄せる人たちがいる(なぜか,10人以下の学級では成果がでないそうである)。

 無責任な日本軍との違いはどこにあるのだろうか。

 「すべての子どもがわかるようになる」という現実的な希望があることだろうか。

 「教師が教えるより,子どもが教え合う方が効果が高い」という実際の成果があることだろうか。

 希望が見えることはよいことではあるが,実際の教育現場には,とても大きな「壁」がある。

 それは「時間が限られていること」であり,「習得すべき内容がとても多いこと」である。

 「自由」を与えるということは,「自己責任」を追わせるということとイコールである。

 「保護」しているように見えないのは,「保護すること」が目的ではなく,

 「だれか一人ができない責任を自分たち全員で背負えるようにすること」が目的なのであって,

 「自分たち」の中に「教師」が入ってこないところがミソである。

 「跳び箱」をたくさん跳ばせたい。

 教師が一人しかいない一斉授業では,なかなか子どもが回数をこなせない。

 だから,子どもに子どもを監督させる。

 もし,「全員が跳べるようになること」を課題とし,

 無理をして跳び箱から落下して首の骨を折る事故を起こしたら,

 無理をした子どもや補助していた子どもはどうなるのだろうか。

 当然だが,精神的に「重い責任」を負わせられることになるだろう。

 『学び合い』では,「先生,ここは教えて下さい」という子どもの希望にはどのように対処するのだろう。

 「教えて下さい」と言ってきた子どもにだけ教えて,他のことをしていた子どもには教えないのだろうか。

 一端「自由」を認めた集団に対して,教師が統制しにかかるのは難しいし,統制するのであれば,はじめから「自由」には何の意味があるのか,という疑問を子どもが持ちかねないという問題もある。

 檻の中での「自由」に反旗を翻すことは,小学生はおろか,大人でも難しいだろう。


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「自分のクラスの子どもだけ,一人も見捨てない」でいられるセンセイたち

 『学び合い』が失敗する原因の一つは対人関係であるという表現は,不適切であるように思います。

 原因と結果の関係が逆なのではないでしょうか。 

 教師間の対人関係を悪化させる原因が,『学び合い』である,という方が正確でしょう。

 教育の失敗を「他人のせいにする」癖がつくのが『学び合い』なのかもしれませんが・・・。

  『学び合い』では,従来型の授業をしてきて「出世」した人間を「敵」扱いしているだけでなく,従来型の授業をして「出世」しようとしている同僚も「仲間」「同志」ではないのですから,当然,職場の対人関係が悪くなる学校が出てきます。

 他校の「同志」とのつながりの方が,自校の「同僚」とのつながりより大事。これでも小学校では生きられる。

 そもそも小学校の教師のように,自分のクラスだけ,自分の思うように教育できる職業では,対人関係の悪化は容易に起こりえます。「学級王国」から成り立つ連合国家のような場所が小学校だから,対人関係が悪くても,教育が成立してしまうというのが小学校の利点とも言えます。ある小学校などは,学級間の競争意識が強く,教師の対人関係の悪さをバネにした教育が行われているくらいです。

 小学校は,自分のクラスの子どもだけ,「一人も見捨てないぞ」と粋がることが可能な職場です。

 中学校のように,学年集団のまとまりがないと協働生活が成立しにくい環境では,たとえば,学年会,担任会で,不登校や問題行動を起こす生徒をはじめとした「見捨てられない子ども」の日常を,すべての教員で把握できるよう,とても長い時間をかけて情報を共有しあいます(もちろん,不登校の子どもと,その子を支えている子どもたちのために2時間,3時間でも他のクラスの担任の言葉に耳を傾けられる小学校の先生もいるでしょうが)。

 こういう職場の先生方が,「あなたたちは授業で子どもたちを見捨てているんですよ」と言われたらどんな気持ちになるでしょうか。

 「一斉授業をしているやつらより,オレはマシな教育をしている」なんていう目をもっている教員が近くにいたら,どんな気持ちがするでしょう。 

 小学生のほとんどは,担任の先生に対して「思いやり」をもちます。

 「見捨てる」とか「見捨てない」などという見方で人間を見るのは,心の卑しい大人だけです。

 子どもはどんな授業をする先生でも,決して「見捨てる」ことはないでしょう。

 だから,『学び合い』は問題なのです。


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「良心」を守ったおかげで得られたもの

 ときどき優しいコメントを下される方(「元戦友」と表現して意味が通じるのは,このぶろぐ村に長く生きている方だけでしょうが)の記事に対して,どういうかたちでお答えしようか考えていたら,かなり時間がたってしまいました。

 理想だけ語っていればすむ人間とは違って,社会に出ると,「一人も見捨てない」なんてことはできなくなります。

 文科省の仕事を切ることは簡単なことです。

 これから先も,声をかけないでくれれば,土日が有効に使えるようになります。

 代わりに活躍のチャンスをもらえる人が出たのはよいことでしょう。

 「犬クソ教師」と呼んでもらえる栄光や,

 官邸のご機嫌とりをいじめる楽しさはなくなってしまいますが・・・。

 上の言いなりになっている人たちをいじめる「良心の呵責」はありました。

 実は,文科省からの「離脱」が明確にできた背景には,もう一つの「大きな選択」がありました。

 今の学校からある場所へと「離脱」しなかったという選択です。

 この選択による「良心」の痛みは非常に大きいものでしたが,同時に,

 守られた「良心」の価値もはかりきれないものでした。

 私が「蹴った」かたちになってしまった場所の名前を聞いたら,多くの人が驚くでしょう。

 私が勤め先を変えることで,受け入れ側は,長年抱いていた構想に着手することができる。

 私を送り出す側は,日々訪れる課題,やがて訪れる大きな課題への対応が苦しくなる。

 選択肢は,Aを切ってBを守るか,Bを切ってAを守るかしかない。

 どちらにしても,私がする仕事は似たようなものですが,

 勤め先を変えることで,教育の世界に面白い現象が起こったかもしれないと想像すると,もったいない気もしますが,たぶんその勤め先に迷惑がかからないように,本物の「犬クソ教師」になっていたかもしれません。

 「離脱」しなかったことで,この「潜伏生活」もさらに長く続くことが予想されますが,ここに来て,「新しい異物」が一斉に芽吹きだしている危機感を強く感じています。

 その異物に共通した特徴は,傲慢で,自意識過剰で,知性が感じられないというものですが,そのイメージは,『進撃の巨人』と重なります。

 壁を一生懸命壊しにかかっている人たちは,弱い人間をどれだけ食べていけば気がすむのか。

 私たちが壊さなければならない壁は,別のところにあるのです。

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人を散々苦しませておいて,「私には相談しないで」と訴える人

 教師が一番苦しませたくないのは,子どもである。

 残念ながら,一番苦しませたくないのは,自分だ,という教師も少なくない。

 ある人が酔っ払って書いている文章を読んでみると,

 大学時代のさまざまな授業の講義で知った本に書いてあることが,

 なぜかたくさん思い出された。

 教育が失敗する原因の大部分は教師にある。

 いかに失敗させ,そこからどれだけ身になることを学ばせることができるかが勝負だが,

 子どもや教師自身の自尊感情を傷つけて終わるだけというタイプの失敗を
 
 平気で繰り返す人がいる。

 30年前に学んだ心理学から言語学,社会学などとことごとく「つながっていく」のは,

 私が気の毒に思える人が多いからだろう。


 多くの教師が,混乱させられ,悩まされている。

 そんな教師の問題を,1冊や2冊の本が解決できるわけがない。

 具体的な解決策が書いてあるわけではなく,

 「解決した気になる」ことが書いてあるだけだから,

 本人に確かめたくなる。しかしそれでも問題は解決しない。

 教育という仕事は,「人間関係」「対人関係」そのものだと考えてよい。

 「本を読めばわかる」なんていう態度は,そもそも「人間関係」を築く教育自体を否定していることになる。

 「本(教科書)を読めばわかる」なんていう態度だから,『学び合い』が成立することになってしまうのだ。

 大学の研究論文が,同じ職業の人間か学位をとるための学生にしか読まれない理由を語るまでもないだろう。

 「人間関係」の悪化自体が食べていくためのエサになる仕事があることを忘れてはならない。
 
 「現実の」教育の世界では,自分の都合のよいことは表に出すが,

 都合の悪いことは出しにくい。

 なぜなら,現実に被害にあっている子どもを公開するわけにはいかないからである。

 元大学教員の先生がお灸を据えてくれたのだが,

 「酔っ払って大きなことを書いてすみません」といいながら,

 ちゃっかり本の宣伝をしているところがこのセンセイらしいところである。

 「私は苦しい思いをしている」と書けば,「思いやりのある人」は,

 相談しにくくなるのである。「人間関係のことは相談しないで!」と訴えていることが伝わっていく。

 この大学のセンセイが担任の先生だと,心優しい子どもは,本当に可哀想なことになる。

 教師としてやってはいけないことを堂々とご開陳しながらの「最強」宣言なのだから,

 ある意味では本当に「最強」である。
 
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傲慢な人間が変われる機会~誹謗中傷をして何とも思わない人間に「価値学習」の価値を語る資格などない

 大学のセンセイにプライドがあるのはわかる。

 中学校の教師の私にだって,プライドはある。

 教え子の中学生にだって,プライドはある。

 その保護者たちのプライドもすさまじいものがある。

 こういうプライドは,ときに傷つけられる場合がある。

 プライドというものは,人から傷つけられるものだ,と一面的にとらえてはいけない。

 自分のプライドを自分が傷つけていることに気づけない人がいるのは悲しい。

 他人の言動によってプライドが傷つけられたときに,自分から不適切な反応をとることによって,自分の首を絞める結果になることがある。

 著書を貶された元都知事がとった反応が,逆に「どの口が言うか」という反感を買う結果になったらしい。

 ブログ村には,他人から噛みつかれると,異常な反応を示す人がいた。

 防衛反応というより,「攻撃は最大の防御なり」みたいな感覚で,激しい攻撃をしてくるのが常であった。

 私はそのエネルギーを別の方向に・・・よりよい教育の創造に向けることが,何より教育への情熱の望ましい姿だという信念から,いかに攻撃している自分の方が損しているかを説き続けたのだが,結果は無駄だった。

 どれだけ論理的に語ろうとしても,感情面の高ぶりが思考力を低下させてしまったようで,出てくる言葉は下品・下劣・罵詈雑言の類のものだった。そして統合失調症の解説が定期的に繰り返されるのが痛々しかった。よほどつらい人生を送ってきたのだろうと同情した。

 私に対して

>貴公のような「犬クソ」教師
>貴公があまり頭が良くないことは十分に承知
>国語力を鍛えなおしてはいかが
>(雑誌に原稿を書くのは)ブログで自慰行為するのとは違う

 などと誹謗中傷を行った現役の大学のセンセイも似たようなものである。

 私なりに,情報を集めさせてもらった。

 私には,怒りの感情はない。どちらかというと,戸惑いの感情である。

 「どうしてこういう人が大学に存在するのか?」という戸惑いである。

 退職が間際に迫っており,「辞めたらすべてのことから足を洗う」と言い放っているセンセイにはその無責任さに心底辟易し,憤っているが,若い人には「変われる機会」がきっと訪れるはずと信じたい。自分もそうだったから。

 「無視した方が相手にはこたえる」というご忠告を下さった方もあったが,

 「もったいない」という言葉を口にされていた先生もいた。

 その性格で,とても損をしているように思える。

 どうしたら変われるのだろう?

 倉橋竜哉さんの「毎朝1分!天才のヒント」を購読させていただいているが,今日のヒント #3391 「プライドはありますか?」では,

>今まで自分や他人に対して厳しかった人が、急に優しくなったりして、まるで仏のように人間が丸くなるケース

 が紹介されていた。それは「大病を患ったとき」である。

>入院していなかったら、自分の中にある「怒りの業火」で自分や周りを焼き尽くしていた

>「自分ひとりのチカラでここまでやってきた」というつもりになっていたけど、実際のところ自分のチカラはちっぽけなものだと気づいた

>自分や他人に対して「これが正しい」「こうあるべき」と押し付けていたこと、そこから外れると「それは間違っている!」とか「ゆるさない!」と責め続けていたことに気づき、そのストレスが澱のように積み重なって、大病の原因になったんじゃないか

 何も,「大病にかかれ」と言いたいわけではない。むしろ,「大病の原因をつくっている」ことの危険性を認識すべきであると言いたい。

 せっかく苦労してつくった訳書名を検索すると,上から2番目に「参考にしたい内容がない」という感想が書かれた記事へのリンクが示されている「事実」が不本意であることはよくわかるが,その記述が「事実」であることは否定できない。

 「価値学習」の結果,自分とは異なる価値観を認めない,という人間を生み出すのはおかしいと思うし,誹謗中傷をして何とも思わないような人間に,「価値学習」の価値を語る資格などないと私は考えている。

 
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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より