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カテゴリー「『学び合い』」の301件の記事

新学習指導要領でいわゆる「学力」の格差はさらに拡大する

 すでにこんなことはわかりきったことかもしれませんが,新学習指導要領が実施されてしばらくたつと,学力の格差はどんどん広がっていきます。

 好き勝手に席を移動して穴埋めプリントを完成するというレベルの「知識」や「理解」すら生まれる見込みのない授業が増える危惧も一方ではありながら,できる子どもはよりできるようになり,できない子どもはなぜできないのかを自分なりに納得させられるようになるのが,新しい学習指導要領の趣旨です。

 キーワードは「自己責任」。

 学力が低いのは,センセイのせいではありません。

 あなたのせいです。

 なぜなら,あなたには,主体的に学ぼうとする意欲がない。

 対話を重視しながら,問題を解決する努力をしていない。

 活用できる知識をもっていない。

 ・・・センセイ,どうしたらいいの?

 主体的に学びなさい。

 対話を重視して,何人かの友達と一緒に問題の解決をはかりなさい。

 活用できる知識を身につけなさい。

 ・・・どうやって?

 本当に主体性のない子どもだな・・・。

 センセイって,何のためにいるの?

 小学校のセンセイって,英語を教えるようになるんだよね。

 センセイの発音を真似していいんだよね。

 帰国子女だった隣のクラスの担任の先生の授業とかなり違うんだけど・・・。

 「学力」の格差が広がる理由は,子どものせいだけとは限らない。


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「棚上げ人間」の増加問題と対策

 自分のことを棚上げして,平気で他人を批判したり,自分の考えを他人に押しつけようとしたりする人間が増えている。

 ニュースによく登場する指導者もそうだし,今一番気になっているのは,道徳の内容をすべて扱えとしている指導要領案を出してパブリック・コメントを募集している文部科学省である。

 研修を命じている文部科学省が,不正を誤魔化す原稿まで相手に渡して口裏合わせをするような状態なのだから,イヤイヤやらされている側の意欲など,なくなって当然だろう。

 道徳の授業があるから,いじめが起き,自殺者も出てしまうという,とてもわかりやすい問題が中学校で起こっていることを信じようとしない人ばかりなのだろう。

 何でも教師の言いなりになりやすい小学生に対する道徳の授業がかろうじて成立したとしても,中学生になった子どもがどういう感想を述べているか,知らない教師が多いのではないか。

 「やらないといけないからやる」という道徳が,いかに時間の無駄になっているかという「見方・考え方」を持ち合わせていないのが問題なのである。

 ルールを守らない大人,人権を侵害する大人,組織に貢献できない大人を目の当たりにさせられた子どもたちは,本当に気の毒である。

 さて,教育ブログには,昔から,同じようなことばかり繰り返し書き,「頭がおかしい」とか「狂っている」とかいう品のない言葉で,他人を罵倒することに生きがいを感じている御仁がおられる。

 自分に対する批判への耐性が低く,論理で勝てないとなると必ず登場するのが「頭」の話である。

 明らかにぶろぐ村の利用規約には反しているのだが,こういう記事を喜んで見る方が多いのも,ネットならではの特殊な世界である。

 ブログのタイトルを変更し,せっかくお行儀のよい人間を装っていたのに,本性丸出しで例の調子が復活し,本人が何も変わっていないことを証明する様子を,喜々として傍観している人たちがいることが気の毒でならない。
 
 「教育論・教育問題」のカテゴリーは,何のために存在するのか。

 個人攻撃をすることではなく,勘違いしている個人の発言の悪影響を最小限に食い止めたり,より適切な方向性を探求できるヒントを提示したりすることで,注目を集めるべきカテゴリーなのではないか。

 生物多様性はとても大切にしなければならないものである。

 多様性の価値をお互いに認め合えるような発言こそが重要であり,

 「同志」だのなんだといって「敵」を意識させ,一元化を目指すような発言は批判されるべき場である。

 「一人も見捨てない」という極端な要求を子どもに強いることが,どれだけの負担になるか。

 その最も重要な理由には,飛び込み授業などを何千回やっても気づけない。

 こういう私のコメントに対して,

 「おいおい,お前の教育はどうなっているんだ」というのが,正しいツッコミ方だろう。

 ずるい答え方をすると,過去の4261件の記事を読んでいただければ,少しはわかっていただけるのではないでしょうか?となる。


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ポジティヴシンキングもほどほどに

 明るい未来像だけを描くようにコントロールされた人々が,いよいよ地獄を見る日が近づいているように思える。

 地獄が目の前に迫っているのに,絶対に自分は地獄に堕ちないですむと信じ切っている人に,危険を察知する能力を与えるのは不可能である。

 遠いところにある危険ばかりを煽り立てて,目の前の危機はなかったことにする神経でも,生きていける国の最後の望みとは何だろう。

 地獄への階段を用意したのは,自分の国以外の人間や異教徒たちだと開き直る姿が目に浮かぶようである。

 歴史の浅い国だからといって軽蔑するわけではないが,楽観的すぎる単純な生き方は,本当に心配になる。

 敵対勢力の攻勢が甘いとき,それは自滅を待てばすむという分析に基づく判断かもしれないと想像してみてもらいたい。

 
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日本人は多文化共生に耐えられない?

 日本人は多文化共生に耐えられない・・・

 ある東大名誉教授の社会学者が新聞で展開していた主張である。

 ツイッターなどで,「信じられない」という反応が多く寄せられているらしい。

 「仲間を後ろから槍で突きさすような発言」という趣旨の言葉もあった。

 人口減少社会に「移民」という切り札を使うことは,不可能だ,という理解があるようだ。

 反論の理由として挙げられている,多文化共生で生きている人々が実際にいる,そういう地域がある,ということをご存じないはずはない。

 努力している人々の足を引っ張るタイプのガクシャは少なくはないだろう。

 教育の世界では,優秀な教師たちを「見下す」ための「理念」を吹聴し,「等しく貧しい学力をつける」ことに専念させようとしているセンセイとその「同志」もいる。

 「平等に貧しくなろう」

 こういう考え方にすがらないと生きていけないほど日本が落ちぶれる前に,何とかしたいと思っているのは,私だけではないと信じたい。


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教育困難校を避けたい教育公務員たち

 教育困難校に勤めていると思われる教員の愚痴ブログ。

 共感を覚えるのは,同じ教員だけでなく,同じ学校に通っている心優しい生徒たちも同じだろう。

 もちろん,私のように反感を覚える者もいる。

 子どもから暴言を浴びせられ,「裏切られた」と感じている哀しき教育公務員は,

 いくつかの意味で本人が重大な「裏切り行為」をしている。

 その最も「裏切ってはならない」対象とはだれか,本人は気づいているのだろうか。

 教育困難校立て直しの切り札こそが『学び合い』だろうか。

 残念ながら,ご本尊は学校を辞めてしまっているが。

 
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子どもを輝かせるための仕事を教える教職課程の科目とは?

 教師の仕事は,子どもを輝かせるためにある。

 子どもが子どもを輝かせるための力をつけさせることも教師の仕事である。

 勘違いしている教師は,いつも同じ子どもが同じような条件で輝くためのお膳立てだけをしている。

 自ら輝きを発している子どもと,それに照らされているだけの子どもの区別がつかない人がときどきいる。
 
 自分ではなく,仲間を輝かせることができる子どもを育てるにはどうしたらよいか。

 様々な場面で,様々な子どもにリーダーとしての自覚を持たせることが最善の教育方法である。

 様々な子どもにリーダーとしての自覚を芽生えさせ,行動を起こさせるための手がかりを与えるのは,

 教師自身のリーダーシップである。それも,一人の教師だけのリーダーシップではなく,子ども同士と同じように,

 教師同士が,一定の役割を分担し合って,それぞれが活躍している姿を見せる必要がある。

 中学校に子どもが進学すると,小学校では見たことも聞いたこともなく,全く想像できなかった教師集団のチームワークを目の当たりにすることができるようになる。

 日本の学校では,「学年」という集団のもつ教育力が際立っているものである。

 その「教育力」は,ときに「破壊力」を発揮してしまう場合もあるが,そういうときこそ「教育力」に転嫁できる最大のチャンスとなる。

 こういう話を大学生にしてみたと仮定してみよう。

 キョトンとしている学生や意味不明で怪訝そうな学生と,そうではない学生に議論させてみたい。

 「学年」の教育力とは何か。

 教師の集団のチームの基本は,「学年」である。
 
 これがチームとして機能していなかった学校に所属していた学生たちには,将来,教師になったときに,なぜそれが大切なのかを理解させてあげなければならない。

 さて,こういう話を教えてくれる教職課程の科目とは,どういうものなのだろう。


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小学校における「完璧」なカリキュラム・マネジメントの実際

 カリキュラム・マネジメントと学校の真面目な教師が耳にすると,次のようなイメージが最も強いと予想できる。

 「道徳は,何が何でも年間35時間実施しなければならない」

 「学級閉鎖で出席停止になった分の授業はどうしようか」

 要は,内容よりも形式である。

 小学校の教師は恵まれていることに,報告した内容と実際に行った内容が異なっていても,ばれなければ問題ない。毎時間管理職が授業観察に来ている学校は難しいかもしれないが。

 私の中学校の教え子の中には,「道徳の時間は,毎回ドッジボールをやっていた」と「証言」している子どももいる。

 楽しそうに「申告」したわけではなく,単にドッジボールは自分への「いじめ」が「合法的に?」できる機会になっていたから,嫌だったそうだ。

 そういう意味では,小学校の教師の方が,中学校や高校よりもよほどカリキュラム・マネジメントを実践している。

 「子ども本位」=そのとき子どもが一番学びたいと思っている教科や内容,活動を優先することを実践しているわけである。

 中学校に入学してくる子どもの学力を知って愕然とするには,こういうからくりがある。

 高学年で「国語の授業がなかった」と聞かされたときは,開いた口がふさがらなかった。

 カリキュラム・マネジメントの主体はどこにあるか。

 これから,管理職は本当に激務になっていくだろう。

 廊下を歩く時間が1日5時間以上必要になる。

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悪徳商法と全く同じ手法を使う大学のセンセイ

 電通が叩かれる理由として,過労死問題とは別の心当たりがある人は少なくないだろう。

 高収入の背景には,高い成果と膨大な仕事量が求められる過酷な能力主義があることについては,納得がいくことである。

 「広告」に対しては,どこかに「だまされてはならない」という自制心が働くのが正常な受け止め方だろう。

 ネットの時代になっても,私も含め,紙(新聞や雑誌本体も含めて)の「広告」やテレビのコマーシャルのお世話になっている人が多いから,「広告」という仕事への忌避感が背景にあるとは考えないのが普通かもしれない。

 アンケートに答えたら,自分の年収に合った広告が入ってきたときに,「もう関係をもつのをやめよう」と思った会社があったが,一度答えたデータはもう消しようがないかもしれない。

 電通に社員向けの格言があったように,広告業界には,「消費者をだますためのテクニック」が当たり前のように存在する。

 ここでの「だます」の意味は,法律に触れる範囲のことではない。

 たとえば女性が化粧して「すっぴん状態」をわからないようにすることも「だます」に入ると考えていただきたい。

 本来,買うつもりがなかったもの,買う必要がなかったものを買わせるのが広告の仕事である。

 もちろん純粋に,定期的に買っていただいているのに,今月はまだだから,きらしてしまって不自由しているのではないですか,という趣旨の「広告」もあるかもしれない。

 ただ,夏の終わりに冬の着物は必要ないし,独身男性に高額な生命保険などは必要ないから,それをすすめるような「広告」は「いかにだますか」が力の見せ所といったことになっている。

 年収300万円の人が,ローンでベンツを買って乗りまわすことを,「悪いこと」だとは言わない。

 ただ,そのお金のもっと大事な使い途はないですか,と自問してもらいたくはなる。

 前置きが長くなったが,

 「モノを買わせる」「人を騙す」ための広告業界のテクニックには,
 
 「じらし(ティーザー広告)=大事な部分を隠しておく」,「不安を煽る」,「理想や夢を実現したいという欲望につけこむ」,「稀少性を訴える」,「権威を利用」などがある。

 この手法を見事にすべて利用している大学のセンセイがいる。

 どうでもいいものを公開する一方,大事なことは内緒にしている。それは,絶対にバレてはいけないことがあるからである。

 もちろん,違法性があるという趣旨の指摘をしているわけではない。

 「不安を煽る」手法を使っていることは,教育者というより宗教家としての資質の方が高いことを示している。

 宗教は,人の心の弱みにつけ込める「強さ」を持っている一方で,

 人から強い反発を受け,孤立しやすく,迫害されやすいという「弱さ」を持っている。

 教育は,人の「弱さ」を認めつつ,人の絆の「強さ」をつくる取り組みである。

 教育が宗教的に利用されると,ごく一部の人間の絆だけが強くなり,社会との絆が弱くなっていく。

 「賢い」子どもを育てるために,教育が譲ってはならない部分がどこにあるのか。

 教師としては,常に問い続けておきたい点である。

 
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大学のセンセイに,公立学校の管理職を経験させてあげる機会を!

 読書編で紹介したアクティブ・ラーニングの評価に関する本の内容は,ひどすぎるというレベルを超えていた。

 小中高の教員の言葉が紹介されているが,それは「実践報告」ではなく,「信仰の表明」にすぎない。

 各教科の特質などには何の興味もない著者が,どこにでも通用すると勘違いし,ところかまわず垂れ流している持論が並べられているだけである。

 そもそも,アクティブ・ラーニングを行わない限り,その評価はできないはずである。

 最も肝腎な「深い学び」をあきらめているわけだから,せいぜい「アクティブ・プレーイング」があるにすぎない。

 今,昭和22年~30年頃の教育改革の議論を読んでいるが,今とほとんど変わらない話が繰り広げられている。

 教育の世界では,70年間,ほとんど進歩らしい進歩はないと見なしてよいだろう。

 今よりはるかに「国際理解」も可能だっただろうし,教師自身がしっかり学ばなければ教育できないカリキュラムが編成されていたように思う。

 教育に関する議論の劣化は,どうしてここまで進んでしまったのだろうか。

 授業の中だけの子どもの姿を誇大にとらえて,研究した気になっている人たちが劣化を伴いながら再生産されてきただけにすぎないようだ。

 教育を研究している大学のセンセイは,一度はどこかの公立学校の管理職をつとめることを義務にしたらどうだろうか。

 理念を好きなだけ具現化できる環境を用意してあげることが,ろくでもない理念を拡散させているという問題に気づく最後の手段ではないだろうか。

 理論で学校は変わるのか,それとも人柄で決まるのかも,試してみていただきたい。

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1930年代の政治の再来か

 中途半端な危機感では,変わろうとするよりも,変わらないまま自滅を待つ傾向があるのは何も日本人だけではないかもしれない。

 文部科学省の「天下り」の実態が示す壊滅的な反道徳的行為は,組織の廃止・再編を構想するレベルの問題ではないか。

 公務員が自ら法令を破るという行為が,憲法のどこに違反しているか,

 自らわからない人間はいない(公務員には採用されていない)はずである。

 文部科学省に見られた天下りの問題は,構図があまりにもわかりやすいものなので,社会科か道徳の教科書にでも採用しておくべき教材である。

 組織というものが,どのような仕組みで動いているのか。

 「OB」という立場を利用すると,どんなことができるのか。

 官僚というのは,何を目指して生きているのか。

 省庁というのは,それぞれどのような「利権」をもっているのか。

 省庁と企業,財団法人は,どのように結びついているのか。

 省庁は,どういう意味で,日本全体の利益を考えるための組織ではないと言えるのか。

 文部科学省の実態を見ると,よくわかる。

 これだけのことをして,どれくらい国民からの信用や信頼を失い,不信感を招いているか,わからないわけがない。

 そもそも信用などはなく,関心も持たれない省だと言ってしまえばそれまでかもしれないが,

 私たち教育関係者,子どもを学校に通わせている親の立場から言わせてもらえば,

 道徳教育や法教育を受けるべきは,まさしくトップの人間たちにほかならない。

 文科大臣は,省全体として法令遵守の意識が不足していたと認めている。

 「研修を通じて職員の意識改革を徹底する」とは,文科省自身が教員の非行に対していつも口にしていたことである。

 最も重い責任を持っているのは,だれか。

 何も語らず多額の退職金をもらって消えていくのを見過ごすことはできない。

 教員の犯罪行為ももちろん問題である。

 文部科学省が行っていたことが,どれくらい問題なのか,まともに答える責任を負う者を,逃がしてよいのか。

 1930年代の日本には,まだ軍部の主張を言論で圧倒できる帝国議会が存在していた。

 しかし,世界的に国家主義的なムードが高まり,

 国民のための民主主義が実現しつつあった「大正デモクラシー」から,

 世界の潮流に合った国家のための「昭和デモクラシー」に移行していってしまった。

 一部の人間が「甘い汁を吸える」仕組みは,何も国だけにあるわけではない。

 しかし,弱小とは言え国の機関のトップが平気で法律を破るだけでなく,

 誤魔化すための想定問答までつくって罪がなかったことにする行為をして,

 それが見逃されてしまうようでは議会など存在意義もない。

 与党からの厳しい追及もあり,内閣も動いている。

 弱小省庁だけの締め上げて終わらないことが,信頼回復の道だと信じたい。

 今こそ,1930年代の再来ではないことを政府が示すべきときである。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より