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カテゴリー「生活指導」の283件の記事

教育や研修の費用対効果

 企業で役に立たなかった人が,学校現場に入ってやたらに気にかけるようになるのが,教育の「費用対効果」の問題である。

 今後,段階の世代がいなくなって,学校現場が若い人たちであふれるようになると,費用対効果が一気に上昇する見込みがある。

 それは,学校ではベテランの方が若手よりもより多くの成果や教育効果が出せるとは限らないからである。

 逆に,部活動などでは若い教師が増えた方が,子どもたちに高いモチベーションを与え,成果が出しやすくなるかもしれない。
 
 人件費が大幅に減るだけで,費用対効果は向上するのである。

 若い人を短いサイクルで辞めさせてコストを削れるだけ削るレベルまで厳しい企業から,学校現場に入った人には,「コスト感覚のなさ」に唖然としてしまうだろう。

 税金は,決められた額の範囲内なら,いくらでも使えるのである。

 予算をとったら,無駄とわかっていても使うのが,この無駄な世界の常識である。

 企業で本当の意味で存在意義を発揮して人間なら,たとえ損を出していても,効果だけを追求していただろう。

 

 教師個人個人の能力について言えば,研修にかける時間と能力の向上は,個人によって大きく異なる。

 たとえば,小中連携がなぜ必要なのか,その意味や意義がわかっていない人が研修の場にいても,それはただの時間の無駄になりかねない。

 普段接することのない人が近くにいるだけで,さまざまな刺激が得られる人にとっては,機会を与えられただけで効果がある。

 行政の側からすると,その場で何が話されようが,みんな寝ていようが,「小中連携の会を何回開いたこと」という事実に意味がある。

 なぜなら,「小中連携の会を開いても意味がない」という声がもし聞こえてきたら,責任を小中の管理職により重くのしかけることができるからで,失敗しても成功しても,監督者の立場からは成功になるというからくりがあるからである。

 研修というのは,やはり主体的な態度で参加することで初めて意義があると言えるものである。

 本来の研修の趣旨とは別の目的をそこで探してもよいということ。

 時間を無駄にしない態度というのは,その本人自身にかかわっているのである。

 「今回の研修は,本当に意味がなかった」と感じている教師は,

 きっと,「今日の授業は,本当に意味がなかった」と子どもに実感させる教師であるに違いない。

 「自ら意味や意義を見いだす」ことを教育の指針に掲げていない教師は,自らもそういう態度を持ち合わせていないのだろう。

 教員採用試験の演習問題。

 ある教員が,「今日行われた小中連携の研修は,本当に意味がなかった」と愚痴を言っているのを耳にしたあなたは,どのような言葉をその教員にかけたいですか?


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議員の資質能力が試される東京都

 小池都知事が,都庁の役人と都議のなれ合いにメスを入れたらしい。

 役人が自分への質問を自作し,都議に渡す。

 都議と役人との間で,さも「政治らしい仕事」が行われているように見せかけるわけだが,

 「権力分立」の原則を放棄し,「民主主義国家」であることをやめるような行為を,子どもたちに見せてほしくはない。

 質問ができる力とは,かなり高度な能力だということを,読書編でも紹介した。

 自分で考えた質問ができない議員はそもそも議員になる資格がないのだが,今まで,それを見極めることが都民にはできなかった。

 都民の方を見ずに,お互いの既得権益を守り合う関係が白日の下にさらされることが重要である。

 都議会議員が話すための原稿を,都庁の役人が書くことを禁止する。

 これで都議会が機能しなくなることで,「試験を通過し能力がある人」のお墨付きを得た「小池新党」の議員が増えることは,容易に想像がつく。


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「棚上げ人間」の増加問題と対策

 自分のことを棚上げして,平気で他人を批判したり,自分の考えを他人に押しつけようとしたりする人間が増えている。

 ニュースによく登場する指導者もそうだし,今一番気になっているのは,道徳の内容をすべて扱えとしている指導要領案を出してパブリック・コメントを募集している文部科学省である。

 研修を命じている文部科学省が,不正を誤魔化す原稿まで相手に渡して口裏合わせをするような状態なのだから,イヤイヤやらされている側の意欲など,なくなって当然だろう。

 道徳の授業があるから,いじめが起き,自殺者も出てしまうという,とてもわかりやすい問題が中学校で起こっていることを信じようとしない人ばかりなのだろう。

 何でも教師の言いなりになりやすい小学生に対する道徳の授業がかろうじて成立したとしても,中学生になった子どもがどういう感想を述べているか,知らない教師が多いのではないか。

 「やらないといけないからやる」という道徳が,いかに時間の無駄になっているかという「見方・考え方」を持ち合わせていないのが問題なのである。

 ルールを守らない大人,人権を侵害する大人,組織に貢献できない大人を目の当たりにさせられた子どもたちは,本当に気の毒である。

 さて,教育ブログには,昔から,同じようなことばかり繰り返し書き,「頭がおかしい」とか「狂っている」とかいう品のない言葉で,他人を罵倒することに生きがいを感じている御仁がおられる。

 自分に対する批判への耐性が低く,論理で勝てないとなると必ず登場するのが「頭」の話である。

 明らかにぶろぐ村の利用規約には反しているのだが,こういう記事を喜んで見る方が多いのも,ネットならではの特殊な世界である。

 ブログのタイトルを変更し,せっかくお行儀のよい人間を装っていたのに,本性丸出しで例の調子が復活し,本人が何も変わっていないことを証明する様子を,喜々として傍観している人たちがいることが気の毒でならない。
 
 「教育論・教育問題」のカテゴリーは,何のために存在するのか。

 個人攻撃をすることではなく,勘違いしている個人の発言の悪影響を最小限に食い止めたり,より適切な方向性を探求できるヒントを提示したりすることで,注目を集めるべきカテゴリーなのではないか。

 生物多様性はとても大切にしなければならないものである。

 多様性の価値をお互いに認め合えるような発言こそが重要であり,

 「同志」だのなんだといって「敵」を意識させ,一元化を目指すような発言は批判されるべき場である。

 「一人も見捨てない」という極端な要求を子どもに強いることが,どれだけの負担になるか。

 その最も重要な理由には,飛び込み授業などを何千回やっても気づけない。

 こういう私のコメントに対して,

 「おいおい,お前の教育はどうなっているんだ」というのが,正しいツッコミ方だろう。

 ずるい答え方をすると,過去の4261件の記事を読んでいただければ,少しはわかっていただけるのではないでしょうか?となる。


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教育困難校を避けたい教育公務員たち

 教育困難校に勤めていると思われる教員の愚痴ブログ。

 共感を覚えるのは,同じ教員だけでなく,同じ学校に通っている心優しい生徒たちも同じだろう。

 もちろん,私のように反感を覚える者もいる。

 子どもから暴言を浴びせられ,「裏切られた」と感じている哀しき教育公務員は,

 いくつかの意味で本人が重大な「裏切り行為」をしている。

 その最も「裏切ってはならない」対象とはだれか,本人は気づいているのだろうか。

 教育困難校立て直しの切り札こそが『学び合い』だろうか。

 残念ながら,ご本尊は学校を辞めてしまっているが。

 
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小学校における「完璧」なカリキュラム・マネジメントの実際

 カリキュラム・マネジメントと学校の真面目な教師が耳にすると,次のようなイメージが最も強いと予想できる。

 「道徳は,何が何でも年間35時間実施しなければならない」

 「学級閉鎖で出席停止になった分の授業はどうしようか」

 要は,内容よりも形式である。

 小学校の教師は恵まれていることに,報告した内容と実際に行った内容が異なっていても,ばれなければ問題ない。毎時間管理職が授業観察に来ている学校は難しいかもしれないが。

 私の中学校の教え子の中には,「道徳の時間は,毎回ドッジボールをやっていた」と「証言」している子どももいる。

 楽しそうに「申告」したわけではなく,単にドッジボールは自分への「いじめ」が「合法的に?」できる機会になっていたから,嫌だったそうだ。

 そういう意味では,小学校の教師の方が,中学校や高校よりもよほどカリキュラム・マネジメントを実践している。

 「子ども本位」=そのとき子どもが一番学びたいと思っている教科や内容,活動を優先することを実践しているわけである。

 中学校に入学してくる子どもの学力を知って愕然とするには,こういうからくりがある。

 高学年で「国語の授業がなかった」と聞かされたときは,開いた口がふさがらなかった。

 カリキュラム・マネジメントの主体はどこにあるか。

 これから,管理職は本当に激務になっていくだろう。

 廊下を歩く時間が1日5時間以上必要になる。

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小さな「違い」には敏感で,大きな「違い」には鈍感な人たち

 大きな「違い」には鈍感で,小さな「違い」にはとても敏感な人たちがいる。

 「違い」が大きすぎると,「比べる」という思考が停止してしまう。

 一方,小さい「違い」の方は,思考や感覚がフル回転し,「とても気になる存在」になる。

 「細かいところに気がつく」習性が,発達に多大な影響を及ぼした産業もあるだろう。

 大きい「違い」の方はスルーできてしまうことで,余計なトラブルを避けることができていたと言える面もあるだろう。

 ただ,時代は大きく変わっている。

 今までスルーしてきた大きな「違い」に目を向け,どうでもよい小さな「違い」にこだわらない性質をもつ人が増えていかないと,つぶれてしまうところはないか。

 たとえば学校現場。

 学校教育に関しては,どんなことをスルーしてきたか。

 たとえば「異常に多い1クラスの人数」。義務教育だけではなく,大学も同じである。

 「こんな状態では,教育効果は測定できない」という声をほとんど聞かないのは,

 外国とまともに比較する気がなかったからだろう。

 どんな細かいことにこだわってきたか。

 観点別学習状況の評価である。

 A(十分満足)とB(おおむね満足)の違いはどこにあるのか。

 この説明を,たとえばある単元の学習について,同じ県のすべての市の中学校教師たちが同じようにできるわけがない。

 しかし,同じようにできることが前提となって使われているのが高校入試の内申点である。

 様々な学習場面,活動場面があったはずである。

 それをAとBにきちんと分ける根拠を,すべての教師がもっているとは思えないし,

 その基準が同じであるとは思えない。

 そんな議論は完全にスルーされてきた。

 でないと,「入試に公平性がない」ことになってしまうからである。

 「できていることにする」という発想が,ここでだけ許される理由は単純であるが,

 「全員が困る」ことには目を向けない,という無責任さがさまざまな不幸を招いてきたことにそろそろ気づくべきではないか。

  
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子どもの学力は「おしゃべり」では向上せず,「対話」でこそ向上する

 授業で子どもが話し合い活動に熱中している場面を想定してみよう。

 教師が聞き逃せない言葉の一つは,内容に関するキーワードがどのように使われているかであるが,

 話し合いそのものがうまく進んでいるかどうかを確かめる手がかりはどこにあるのか。

 それは,「接続詞」の使い方である。

 小学校では,発表・発言のルールといった文脈で,こういう言葉から始める,という事例が黒板のヨコに大きな字で掲示しているところもあった。

 小学校くらいで丁寧に指導されていると,中学校では話し合いがスムーズになる。


 接続詞は,論理系,整理系,理解系,展開系に分けられる(『「接続詞」の技術』石黒圭著,実務教育出版)。

 論理系は順接と逆説,
 
 整理系は並列と対比と列挙,

 理解系は換言,例示,補足,

 展開系は転換と結論。

 「だから」「でも」しか会話に出てこないグループは,話し合いが上手に進んでいないことを示唆しているから,こういう活動を何時間していても,学力は向上しない。

 このようなケースが多いから,学校の授業は,教師が「進行役」となり,「話し合い」にはあまり時間をかけないことが得策となる。

 ただし,その方が学力を向上させることができると言い切るためには,

 教師の方が適切な接続詞を使い,導入→展開→まとめという一般的な授業全体の流れがしっかりできていることが条件となる。

 もちろん,話し合いを中心に転換する授業を構想するのはかまわない。

 AとBどちらに賛成か?という課題が与えられたとする。
 
 冒頭は,順接の接続詞を多用させて,AとBそれぞれの特色を理解させる。

 A(B)は,そのおかけで~となる。A(B)にすれば,~になる。ただ,~ということもある。

 「論理」で頭を使うことで,「理解」しているかどうかがわかる言葉が話せるようになる。

 Aが~のは,つまり,・・・。むしろBは・・・。たとえば・・・。実際に・・・。なぜなら・・・。

 「理解」できたところで,「整理」してみる。

 Aは~であるのに対し,Bは~である。AもBも,~である。Aについては第一に~が課題,Bは・・・。

 最後に,というわけでAはBより・・・。いずれにしても,・・・・。

 さらに「そもそも」という回帰的な転換が見られるとおもしろい。


 こうした「話し合い」活動ができれば,すぐに「レポート」にまとめることができるようになる。

 わかりやすい「レポート」が作れるようになるためには,教師が「レポート」にまとめられるような指導の過程を普段から示してくれている必要があるだろう。
 
 教師が子どもとの会話の中で,まずは多様な接続詞を駆使して子どもの発想を広げ,理解を深めることを意図した指導を繰り返し,子どもにも似たような口癖ができることをねらっていく。


 それから?

 たとえば?

 具体的には?

 第一に,・・・第二に,・・・,

 だとすると・・・どうなる?

 そのくせ,~は・・・・?

 だからといって,・・・

 要するに・・・?

 ちなみに・・・

 ところで・・・

 どちらにしても,・・・・

 
 一度,授業のどのタイミングでどのような接続詞をどれくらい使っているか,ビデオで検証してみてもよいだろう。


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学校生活調査の「教師用」が配布された

 一部の教師が「事務作業が多い」と文句を言っているらしいが,

 「忙しい」から「ミスをしても仕方がない」というわけにはいかない。

 昨日,学校から「学校生活調査の結果」が配布されたが,封筒を開けてみたら,

 「教師用」の方が入っていた。

 私の子どもは「要支援対象」なのだそうだ。

 「授業がつまらない」という感想をもらしているらしい。

 この理由は親ならよくわかるが,ここではふれないでおく。

 私のような「教師」を職としている人間にとっては,「こっちの方がありがたい」と思う資料だが,

 これを見てショックを受ける保護者は多いだろう。

 取り返しのつかないケースにつながる場合も考えられる。

 小学校に問い合わせをしてみたら,「休日でいません」とのこと。

 中学校ならこの連休でだれもいないということはあり得ないが,

 ここが小学校らしいところである。

 ニュースになるほどの「価値」がある話ではないかもしれないが,

 月曜日から教育委員会も含めて大忙しとなろう。

 回収はどうやって行うのか。

 私が管理職なら,担任に一軒一軒まわって謝罪しながら回収するように指示する。

 「この程度」の不祥事はいくらでも起きるのが公立小学校というところだとあきらめるしかないのだろうか。


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「学級崩壊が見られない」学校が迎える可能性のある「本格的な学級崩壊」

 「学級崩壊」とはどのような状態なのか?

 「家庭崩壊」とどのような共通点と相違点があるのか?

 子どもたちの心がどんどん蝕まれていく「家庭崩壊」と異なり,

 「学級崩壊」状態の子どもはとても生き生きしている場合がある。

 恐ろしいのは,教師自身が「崩壊」していることに気づけない場合もある。

 教室に自分以外の大人がほとんど入らない,小学校という特殊な教育現場で起こりやすい「学級崩壊」は,「家庭崩壊」と同じようなニュアンスで捉えられている可能性がある。

 子どもは「子ども」らしく育っているが,大人の方が「親」や「教師」らしくない。

 親の方が家庭が崩壊していることに気づけないことが本当にあるのかと疑問に思われる方もいらっしゃるだろうが,現場の教師をしていると,「気づかないふりをしているだけでいてほしい」と願うケースに接することが多かった。

 問題行動を起こす子どもの親の中には,

 「自分もそうやって育てられて,何の不満もなく,悪いこともしなかったのに」と疑問に思う人が少なくない。

 「ちゃんとお金はあげていたのに」

 ・・・・学級や家庭はどうあるべきなのか?

 教師や親の役割とは何か?

 そこから教育の問題をとらえなおさないといけない時代である。

 あるブログで,「学級崩壊が見られない学校」の紹介がされていたが,内容を読ませていただくと,

 これからちゃんと崩壊が起こる準備を着々と進めている学校のように思えた。

 むしろ,実際には崩壊しているのかもしれない。

 授業中に,生徒が一言も私語をしない?

 生徒は「生きて」いるのだろうか?

 親が教師の前で問題を起こした子どもを殴る?

 虐待・暴力の現場を目撃した教師が果たすべき義務とは?

 法治国家以前の「教育」レベルの地域では,「学級崩壊」や「家庭崩壊」以前に,

 「人間」が崩壊していく。

 「学級崩壊」があった方が,子どもが本当の「生きる力」を身につけられる可能性があるとさえ感じてしまった。

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教科指導に「埋もれる」ことなかれ

 教師にとって,最後の逃げ場になるのが「教科指導」です。

 教科指導の場面では,子どもは絶対的に教師の言いなりにならざるを得ません。

 教師の権限は絶対です。基本的に,自分の「監督者」はそこにいません。

 授業が成立しないほどおしゃべりがやまず,やかましいままの状態が続いている場合でも,

 「教室空間に閉じ込めることに成功している」という点で評価されてしまうのが教科指導です。

 生活指導や部活動は,そもそも困難であることが前提だったりしますから,

 そう簡単には達成感なり充実感がもてません。

 教科指導の場合は,自己満足というかたちであれ,一応,自分がやった気になる,という点で,

 「かろうじて持つ」ことが可能な場になります。

 だからといって,「教科」の枠に閉じこもり,校内分掌や学級,学年経営に貢献しないというのは考えものです。

 学校では,教師に「教科指導」という最後の逃げ場があるために,「組織の一員」とは呼べない人が出てきてしまう職場です。

 もし,「教科指導」の場に監督者が常に数名いて,教師の資質能力が最も問われる場に変わったら,教育現場はどうなっていくでしょう。

 離職率が格段に高まってしまうかもしれません。

 1時間ごとに,徹底的なダメ出しをされる。教育実習ですら言われたことがない問題を指摘される。

 「逃げ場」が完全になくなっていく。

 しかし,教育という場に限らず,「逃げ道」を探すことにかけてはものすごい情熱を傾けられる人たちがいる。

 自分が生徒に「教えること」を放棄して,生徒が生徒に「教える」スタイルを教科指導でとるという「逃げ道」などは,人によってはとても魅力的に見えるでしょう。

 
 「無責任体質」が世の中をおおい始めている前兆ととらえることができます。

 「すべての人類を救う」ことをねらいに掲げたら,一人一人の人間が使えるものがどれだけ減っていくことでしょう。

 イデオロギーの亡霊をどうしたら退治できるのか。

 自分自身に向き合わない人との会話を成立させるにはどうしたらよいのか。

 検討中の大課題です。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より