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カテゴリー「生活指導」の358件の記事

南青山に似た環境の公立学校は,頑張った。

 児童相談所を南青山につくってほしくない。南青山のイメージが崩れる。

 こういう「住民」(本当の住民かどうかは,確かめようがない)の声を「説明会」の映像で直接耳にすることができた。

 南青山のイメージを崩そうとしているのは,だれなのか,という話でもある。

 火葬場とか葬儀場,ゴミ処理施設といったものに限らず,保育園や公園ですら,反対の対象となる。

 児童相談所の場合は,その間くらいに位置する「嫌われる施設」なのだろう。

 慌てて政府や文科省は,「道徳教育に力を入れなければ」「高校の必修・公共でしっかり教えなければ」と思い始める。

 いくら学校で本音を封じ込めたところで,当事者の「住民」となった瞬間に,今まで学んだことがチャラになる,といったことにだれも責任をとらずにすむのだから,やれることはやるという行動パターンになるだろう。

 南青山とは全く別の環境だが,同じように住民から総スカンをくらっていた学校があった。

 そこは,人口が増えすぎたので,都営住宅をつぶしてまで,学校をつくらなければならない,というところだった。

 新設された学校に集まってきたのは,異なる制服を身にまとった「追放者」たちだった。

 ここでの「追放者」とは,自分の意思で転校したわけではなく,もといた学校から「追い出された」生徒たちのことを言っている。

 当然のように学校は開校当初から荒れ続け,生活指導の事件のときに,学校の全景が空撮で新聞に載ったこともあるという。役所や教育委員会からも「絶対に荒れはおさまらない」とされたところだった。

 そんな学校でも,時間はかかったが,「ここを卒業できてよかった」と思う子どもが増えていった。

 「開かれた学校づくり」は,新しい学習指導要領で始まったものではない。大昔から学校には協力者がたくさんいた。地元の自治会からなにから,すべての人々が応援したくなる学校をつくったのは,子どもたちである。

 児童相談所の場合は,学校とは逆で,むしろ「閉ざされた施設」という性格をもつ。

 南青山の場合は,とても「適した立地」だと思うのは私だけだろうか。

 地域住民に協力を求められることはまずないだろう。

 児童相談所を抜け出した子どもに,盗みに入られたりするのが嫌だ,とでも思って反対しているのだろうか。

 街頭インタビューでは,これも住民かどうかわからないが,数が足りずに困っており,社会には必要な施設であるから,むしろ南青山に建設されることを誇りに思わなければならない,という声もあった。行政のヤラセでないことを切に願う。

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1000人当たりの暴力行為発生件数ワースト5は

 文科省が,「平成29年度児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査結果」を公開している。

 小中高における暴力行為とは,「対教師暴力」「生徒間暴力」「対人暴力」「器物損壊」の4つを指している。

 1000人当たりの発生件数のワースト5は

1位 島根県   15.6件
2位 神奈川県 10.7件
3位 沖縄県   10.0件
4位 新潟県   9.0件
5位 京都府   8.0件

 だった。ちなみに東京都は2.1件。

 人口の少ない地域では,どうしても1人当たりの件数が多く見える問題があるが,神奈川県の場合は言い訳ができない。

 最も発生件数が少ないのは愛媛県で0.5件だった。

 指定都市別に見ると,ワーストの順位は

1位 横浜市  18.4件
2位 新潟市  18.0件
3位 相模原市 13.3件

 の3市が突出して多い。

 高い割合を示しているのは「生徒間暴力」で,横浜市では暴力行為総数4935件のうち,生徒間暴力は3375件で7割弱を占めている。

 校種別では,中学校が最も多い。

 横浜市の公立中学校では,子どもはどのようなストレスを暴力で解消しようとしているのだろうか。

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「成果」を出すための「時間」

 学校現場では,180度異なる理由で同じような苦情を受けることがある。

 「A先生は,部活動の指導が熱心すぎて,困る」

 「B先生は,部活動の指導に熱が入っていないから,困る」

 他の先生は,「ちょうどいい」のか?というと,そうでもない。

 A先生に対して,「もっと指導してほしい」という要望が寄せられることもある。

 宿題についても同じようなことが言えるだろう。

 「C先生は宿題が多すぎる」と訴える保護者がいる一方で,「もっと宿題を増やしてください」という保護者もいる。

 学校として,しっかりとしたガイドラインを作ってくれていれば,苦情対応の時間は減らせるかもしれない。

 ただ,「ライン」が引かれることで,問題が解決することはないだろう。

 「働き方改革」とは「働く時間の短縮」が大命題だから,

 毎日遅くまで学校に残って仕事をしているD先生には,いずれ,

 もっと効率的に仕事を進めてください。

 自分で仕事を抱えずに,学年や分掌の組織をうまく使ってください。

 部活動の日数を減らして,その時間に仕事を進めてください。

 勤務時間終了後の学校の電気代はご自分で負担してください。

 という管理職や行政からの指導が行われるようになるだろう。

 こうした教育への意欲や熱意を殺ぐような動きを防ぐ上で,ガイドラインは効果的な役割を果たせるだろうか。

 教育の世界では,すべての人たちが共通して追究しているものがあるはずである。

 それは,「成果」である。

 見えにくい教育の「成果」を,「全国学力調査」は「見える化」した。

 しかし,この程度の「成果」だけを学校が追究しているわけではないことは,学習指導要領を出している文科省ならよくわかっているはずだろう。

 新聞記者の仕事を想像してみてほしい。

 「特ダネ」をとるために,どれだけの取材を積み重ねていることか。

 「情報をとる」ためには,人間関係が成立していなければならない。

 「信頼関係」を築くまでに,どれだけの努力が必要とされるか。

 「悪」を暴く新聞と,「善」へと導く教育には,似たような敵もいる。

 敵と対峙しながら,「成果」を出すためには,一定の「時間」が必要であることは,わざわざ説明するまでもないことだろう。

 一番しっくりと来る関係が,もっと教育にかかわりたいと思う教員と,かかわってほしいと思う保護者と子どもたち。その関係が壊されようとしている。

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子どもたちにとっての「迷惑行為」とは何か

 教員の過度の「思い入れ」,「教育熱」が,子どもを苦しめている実態を調査できる大学のセンセイはどのくらいいるだろう?

 教員の仕事が,子どもたちにとっては「迷惑行為」にあたっているということがらの事例はどのくらい挙げられるだろう。

 私が出会った「迷惑行為」の被害者もたくさんいる。ほとんどが,自分が被害者である自覚が全くない,ということは,中学校教員にとってもひどい「迷惑行為」である。たいていは,高校入学か,大学を選ぶ段階になってやっと問題の深刻さに直面する。

 地方では潜在的な危機感の裏返しなのか,とても極端な「個人崇拝」がある。

 異なる宗教を信じている人の行動を見ると,「私にはできないことだな」ということがわかるが,信じている側から見れば,「当たり前」のことであり,疑問を持つ余地はない。

 都市部にも,地方に負けないような「群れ」が存在するが,「異分子」に対する「村八分」的な排除行動のすごさはない。人口が多いために,「群れ」の種類がたくさんあるからだろうか。

 教育の世界に見える「狂信的な行為」によって,子どもたちは何重かの犠牲を強いられる。

 少しでも早く,気づいた方がよい。

 「たった一人の例外も認めない」という理想が,現実世界で完全に適用される社会で生まれる歪みがどれだけ深刻な傷を残すものなのか。

 9月に入って,私の子どもが通う小学校では,まだ一度も道徳の授業がないそうだ。

 夏休みの宿題で,数十ページ分の宿題が出たからだろうか。

 よい学校である。

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利便性と危険性のバランス感覚

 歩きスマホより危険なのは,自転車を運転しながらスマホの画面を見たり操作したりする行為である。

 自動車の運転をしていて,「自転車スマホ」を発見すると,気になってついつい見てしまう。こちらも危険になる。

 「カーナビ」と同じように「チャリナビ」用のホルダーも販売されているが,運転しながら画面を見るのは危険な行為である。

 技術の進歩によって便利な世の中になっていく分,危険なことも増していく社会のあり方を教えることも学校の大きな役割になっている。

 考えてみれば,学校の中に入ってしまうと,大きな事故が全く起きないわけではないが,生活が便利になったことで危険が増しているということはあまりない。

 中学校1年生くらいは廊下を走ったり教室からすごい勢いで飛び出したりすることがあるが,こういう子どもがいる方が,「よける技」が身に付く,周囲に気を配るようになる,なんていう「利点」もある。

 ただ,赤信号や信号のない場所を渡ろうとする人が,「自動車は止まってくれるもの」と信じ切って(思い込んで),堂々としている様子も気にかかる。こちらはどちらかというと,高齢者に多い。若い人がスマホをいじりながら自転車を運転できる理由も同じようなものだろうか?

 事故を起こした経験などない方がよいのだが,一度(物理的に)痛い思いをしなければ改善しにくいことかもしれない。

 最近の交通安全教室は,警察官だけでなくスタントマンも登場し,実際の衝突場面を演じてくれたりもする。

 「本物の事故」を目撃する経験も大事だろう。

 話題が突然変わるが,最近の入試問題はミスが増えている。

 単純ミスは論外だが,少し工夫を凝らした問題で,ミスが起こりやすい。

 危険を冒す度胸がある人はあまりいないから,作問者は無難なところで妥協するものだが,「新しいもの」というだけで「いいもの」と捉える人が増えると,ミスも多発するかもしれない。

 「事故は起きない」と理由もなく信じるような人を,

 「事故はいつ起きてもおかしくない」と慎重でいられる人に変える方法を考えている。

 保険会社にそういうノウハウがあるのなら,教えてほしい。

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「正しさ」とは別の「作法」の原理はどこにあるか?

 読書編でもふれた内容だが,挨拶などの「作法」の原理を「正しさ」「ルール」として教えようとする人がいるが,それは誤りである。

 「作法」には様々なものがある。たとえば社会人として身に付けるべき「作法」を「形」として教えている人がいるが,それは「批判されない」「恨まれない」「憎まれない」ことが目的であって,「常識」として教えてしまう「作法」は,ただの「ルール」として伝達されていくだけのものになってしまう。

 残念ながら,強制された「作法」による行為で満足する人が少なくない。学校現場でこういう教師が増えると,子どもの心は荒んでいく。

 その道を究めた人は,単純なルーティーンとしての「作法」にはこだわらない。

 というか,自分から進んでは「作法」は語らない。

 「作法」を語りたいと,編集者を説得するような作家はいないだろう。

 教育分野には,そういう「作家」がいて困る。

 「押しつけ感」が半端ない環境に子どもを慣れさせることで,得られるものは何だろう。

 近くにある国を軽蔑する資格が日本にあるだろうか。

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心にないことは相手に伝わらない

 指導がうまくいかない,授業がうまくいかないと悩む教員は少なくない。

 どんなにベテランでも,「悩む」人の方がより有望である。

 子どもへの愛情がある一方で,現状と限界がわかっているということだから。

 学校には,「悩まない」タイプの教員が存在する。

 「うまくいっていない」という現状認識すらできないタイプの人もいる。

 先日,ある会合が開かれて,様々な年齢層の方々が集まった。

 会合の主催者側は,集めた人々に感謝をしなければならない立場にある。

 しかし,「感謝の念」が伝わっている空気はなかった。

 人間の心にないことは,相手に伝わることはない。

 「ただのお世辞」をそれと気づいて受け取ったことがある人ならわかるだろう。

 子どもの成長への期待というか,責任感のようなものをもっていない教員から,

 子どもたちはどのような影響を受けているのだろう。

 「自分の仕事が問題なくすめばよい」

 「もめなければいい」

 「できれば仕事が減るのが望ましい」

 そんな教員を増やす環境ができあがるのはなぜだろうか。

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子どもの心が読めない大人の悲劇

 教師の中にも,ごく稀に子ども心が全く読み取れない人がいる。

 子どもにはそれがわかるから,ある人はからかいの対象となり,別の人は「利用する」対象となる。完全にコミュニケーションが取れなくなる場合もある。

 会話をしながら相手の心がつかみ取れる人は,道徳の授業などバカらしくてやってられなくなるかもしれない。

 授業で建前を言い合ったところで,実生活には何の役にも立たないことが「お互い」にわかっているからである。

 公務員や会社員の場合はどうだろう。

 相手の心を読もうとしない大人もいるかもしれない。

 私は指導主事だった3年間で,いろいろなタイプの事務方や管理職と出会うことができたが,こういう人たちからは,あまり「心を読もう」とする意思は感じられなかった。私の方では必死にやっていたのだが。

 一部の管理職は,私の意図を読み間違ったのか,過去に出会った指導主事がそうだったのか,必死に教員の悪口を並べ立ててきた。基本的に授業は成立しているので,そこまでひどいことを言わなくても・・・と聞いていて思ったが,そういう気持ちがちゃんと伝わったのは,2年間くらいおつきあいが続いた後の話だった。

 なぜ口先の言葉だけのコミュニケーションに頼ろうとするのだろう,と不思議だった。

 今回の文科省の件は,「なるほど」と納得せざるを得ない。

 「だからか」と思ってしまう。

 「バレない自信」を育んできた組織の実態を知りたい。

 権力の側にいる人間が,その職権を利用して,自分の子どもの得点に下駄を履かせるなどという行為をチェックできない機関が,大学の評価をまともに行うことができるのだろうか?

 天下りしている先輩と,権力の側にいる後輩が,何をしでかすかをだれが監督できるのか?

 教育行政の上の方にいる人間が,日本の将来を担う子どもたちの信用を裏切る罪は重いぞ。

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「だれにも止められない子ども」をどうするか?

 親にも止められない,学校の教師にも止められない,事故を起こすまで,警察にも止められない,そういう子どもをどうしたらいいのか。

 私の父親は保護司をしていたので,「そういう子ども」たちを私もよく見てきた。

 「どうしてこの子が?」という印象の方が,「なるほどこの子がね」という感じよりも強い。

 大きな問題があって,周囲が騒いだ後は,しばらくの静寂が訪れるが,油断した途端に再び噴火が起こる。この繰り返しのパターンが多い。

 このループを断ち切れるのはだれなのか?

 親は,「教育の専門家」である教師にとりあえずは期待をかける。

 ある担任がダメなら,また次の年に期待をかける。

 今いる教師がダメなら,年度がかわって異動してくる教師に期待をかける。

 やがて,学校そのものを信用しなくなる。

 このループを断ち切れるのはだれなのか?

 学年が違っていたが,無免許運転による事故でよく知っている中学生が亡くなるという経験を私もしている。

 運転していた子は生き残った。今,どういう人生を送っているのだろう。

 報道によって,世の中には,我が子を全くコントロールできない親と,真逆に殺してしまう親ばかりだと誤解してしまう人が少なくないのではないか。これが少子化の原因になっていると言いたいわけではないが。ほとんどの親と子は,多少の喧嘩を乗り越えながら,子は人間として,親は親として,成長していく。その関係を成立させないものは何なのか。

 知り合いの岡山県の先生の嘆きが脳裏にこだまするが,やはり最後の希望は教師しかいないのではないか。

 しかしそういう教師を子どもから引き剥がそうとしているのが世の中の流れである。

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集団による「いじめ」と個人による「いじめ」の区別がつかない人がいる

 長く教員をやっている人の中にも,集団による「いじめ」と個人による「いじめ」の区別がつなかい人がいます。

 子ども社会と同じように,職場にも教員社会にも,子どもの「いじめ」に当たるような現状は起こります。

 大人の場合,「いじめ」加害者になる側に,「罪の意識」などはありません。

 だれが悪い,何が悪い,これが原因だ,と言い切るタイプの人間には,「いじめ」が起こるメカニズムは絶対にわからないでしょう。こういうタイプの人は,たとえ自分が「いじめ」にあっても,それを「いじめ」とは捉えず,「対立」と捉えて終わりでしょう。

 「わかったつもり」でいる人間ほど,「教育」するのは難しいのです。

 学校によっては,「いじめ」は絶対に許さない,という強い決意を教師が持っていれば,それで「いじめ」が防げる,と真面目に考えている人がいます。「日本は絶対に戦争に負けない」と強く願っていれば,戦争に勝てると思っていた人たちと似ています。

 「自分はいじめを許さない態度をとっていて,それでいじめが起こってしまったのだから,自分には責任がない」という,どういう思考経路をたどっているのかわからない主張をしている人もいれば,

 「いじめはこういう原因が起こるのだから,その原因となる環境をなくしてしまえばいじめはなくなる」などという,「無人島作戦」を展開しようとしている人もいます。

 教員の世界の大きな問題は,「自分はいじめに向き合っている」などと息巻いていながら,「いじめ」に全く気づけなかったり,「いじめはないよな」などと生徒を恫喝して「いじめがないことにする」のが得意だったりする人がいることです。

 全く役に立たないような勉強を矯正したり,言いたくもない本心を道徳の授業で言わせたりすることも,相手がもし教師ではなく子どもだったら,立派な「いじめ」なのです。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より