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カテゴリー「生活指導」の311件の記事

自分で批判を受け止める気がない「親分」を戴く「子分」ほど,気の毒なものはない

 人から胡散臭く見られる宗教であっても,その宗教を信じる人を妨害してはならない。

 なんだそれ?といぶかられる言動をしている人でも,決して口をふさいではいけない。

 ただ,周囲の不満が大きくなったとき,だれが責任をとるべきなのか。

 本人がもし,「親分」の言う通り,「親分」が書いた本の通りにしているとする。

 周囲の不満は,すべて「子分」が受け止めないといけないのだろうか。

 悩んだとき,「本を読め」と言われても,問題が解消しないときはどうしたらいいのか。

 世の中には,自分の言いたいことだけ言って周囲を動かし,

 自身は「安全圏」にいるという自分勝手な人間がいる。

 「子分」からの信用を失わないように,ますます言うことが大きくなっていく。

 私から見ると,これは破滅の一歩手前のように感じてしまう。

 大きな話ばかりして立場の弱い人間たちを扇動し,あたかも

 お前は理想に沿った教育をしていると信じ込ませる姿は,

 とても危うく見える。私の杞憂にすぎないのなら,それでよいのだが。


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他人事ではない通学路暴走動画

 学校の通学路におけるトラブルは多い。

 通行人から学校に苦情が寄せられるケースも多いだろう。

 「広がって歩くのはやめなさい」と全校集会などで注意を呼びかけても,なかなか改善しにくい。

 自転車に乗っている人に対しては,

 「歩道を自転車が通行することの方が悪い」と堂々と反発する生徒もいる。

 自転車の方も,車道の左側のスペースがほとんどない道では,

 「自動車への迷惑」を考えて,歩道を行くことなる。

 だから,今度は私の「自転車への迷惑」を考えて,歩行者は道のどちらかに寄るべきだ,と考えてしまうのだろう。

 

 道路を利用する人の不満が,思いがけないかたちでネットに登場した。

 道路をかなりのスピードで走る(暴走する)車と,よけていく生徒たち。

 生徒はしっかり前を向いて歩いていたから,よける動きもスムーズだったが,

 もしふざけ合って歩いている生徒たちがいたとしたら・・・。

 死亡事故にもつながりかねない状況のように見える。


 小学校の学区域では,歩道にカラーのペンキを塗って,歩行者ゾーンと車道を分けているところもあるが,

 住宅街の中すべてにペンキを塗るのもいかがなものかと思うので,

 どうにか「お互い様」の関係を築けないものか。

 
 今回の「暴走」とネットへの投稿は,学校全体,社会全体への問題提起としても受け止めるべきだろう。

 生徒の集団に突っ込まないでくれたことに感謝するのも,おかしな話かもしれないが・・・。


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義務感を持たせて死亡率が2倍に

 政治家の中には,自分の命を狙われることなど何とも思わず,言うべきことを言ってきた人がたくさんいる。

 人の命がどうなろうとお構いなし,という政治家も,もちろんいた。

 自分の信念を貫くために,平気で嘘をつく政治家もいるが,神様と個人が直接対峙しにくい日本には,そういう人間を許容する緩い文化がある。

 ただ,子どもの将来にかかわることについては,いたずらに危機感を煽り,「おれたちの仲間だけが救世主だ」みたいな言動は慎んでいただきたい。


 貴族という特権や階級社会そのものを認めさせるために考え出された「高貴なる者の義務」という用語。

 第一次世界大戦でイギリス貴族の多くの若者が犠牲になり,イギリス貴族を没落させる結果になったことは,歴史の皮肉である。

 子どもの教育に熱意をもって仕事をさせようとすれば,1日24時間では足りなくなる。

 48時間くらいかかることを効率を上げて,毎日16時間くらいで終わらせる努力している教師たちにとっては,間近に迫っているかもしれない「死」を意識するゆとりもない。

 自分自身の子どもがいない若いうちは,いくらでも時間があるから,とにかく自分ができることはすべてやり尽くす,という姿勢が続く教師も少なくない。

 一方で,「自分の時間が大事」と10時間足らずで帰宅していく幸せな若者たちもいるが,そういう教師を恨むつもりは毛頭ない。

 なぜそういう教師を許せるのかというと,子どもたちに「いろいろな大人がいる」ことを知ってもらいたいという願いがあるからである。

 机にかじりついて,子どもの作品にコメントを書き続けている教師もいれば,子どもが帰った放課後のテニスコートで汗を流している教師たちもいる。さっさと学校を出てパチンコにいく教師もいる。

 義務感なり責任感でいっぱいになった大人ほど,子どもたちにとって頼りがいのある対象はいないが,同時に,鬱陶しい存在でもある。

 社会では,本当の使命感をもって仕事に臨んでいる人は,そんなに多くはない,ということを知ることも大切だ。

 自分が責任をとらされたくないために,部下に義務感を高めるようなプレッシャーをかける人間がいるのを知ることも大切である。

 義務感や責任感を強めさせるために,プレッシャーをかけるだけの人間は気楽なものである。

 戦地に若い兵士を送り出すとき,自分が上官だったら,どんな言葉が適切だろうか。

 
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子どもは教師を選べないが,教師は子どもを選び直せる

 学級経営や授業づくりに行き詰まって,自称・成功者たちが開く,3000円くらいが相場の有料のセミナーに参加したことがある教師は多いかもしれない。

 小学生たちは,学校教育の求めるレベルに照らしてみると,基本的に優秀で,真面目で,向上心にあふれているから,教師が自分の方に問題があるのではないか,と疑ってかかる姿勢は非常に正しい。

 教育の世界でいう「七五三」とは,小中高における子どもの平均的な学習到達度を指す。

 私が知っているデータに基づいて言えば,中の「五割」は当たっているが,小においては「八割以上」を達成している学級も少なくない。その程度のレベルしか想定されていないのが今の小学校である。(だから学力上位層・・・最近は,公立の中高一貫校を目指す子どもが一定数いるために,裾野が広がり始めている・・・は競って進学塾に通い,中学受験を目指すわけである。)

 中高に比べて,小学生に達成感を持たせることは容易いことである。

 百マス計算をやらせるだけで,生き生きしてしまう子どもはいくらでもいた(今もやっているのだろうか?)。

 そんな時間はもったいない,ということに気づき始めると,今度はアクティブ・ラーニングだ,と目先を変える。

 何を試してみても,どうもしっくりこない。流行の先端ばかりを追い求めて,結局は単純に自分が勉強不足であり経験不足であって,同じ学校の教師たちから学ぶ姿勢がないばかりでなく,子どもを見ることすらできていなかった自分に気づく。

 学校という建物の中で間借りをしているヨソモノに過ぎない自分から担任が交代するだけで,子どもたちががらっと変わる,学級崩壊がぴたっと止まる様子を目前にした教師たちは,とりあえず異動させてもらって,次なるチャンスに備える,という選択が可能である。

 子どもは,教師を選べないが,教師は,子どもを選び直すことができる。

 親と教師の違いがここにある。

 教師たちは,いったいどれくらいの子どもたちを見捨ててきたのだろう。


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人を見捨てる余裕のある人にはわからない話

 子どもたちは,教師の想像以上に自分たちのことがわかっている。

 また,教師の想像以上に教師のことがわかっている。

 そういう子どもたちのことを信頼できない教師に限って,どんなことを言い出すのか。

 「だれも見捨てるな」

 これほど傲慢な言葉はない。お前は,何様なんだ?

 「私はだれも見捨てない」

 おいおい,お前に何ができるっていうんだ?

 うちの家族の喧嘩も止められるのか?

 家を出ていったオヤジを連れ戻せるのかよ。

 お前,俺たちのことがどのくらいわかってるんだ?

 できるやつには高い成績をあげて,

 できないやつには低い成績を刻み込んでいく。

 できないやつに花を持たせて,調子に乗せて,

 「おれは見捨てていなかった」と胸をはるのか?

 お前の手柄話のために,俺たちは利用されているのか?
 
 俺たちの間には,お前ごときが「見捨てる」も「見捨てない」もないんだよ。

 そもそもお前たちは,俺たちなんかに関心のない連中の言いなりになっているんじゃないか?

 関心があるつもりになって,「見捨てないよ」なんて,わざとらしいにもほどがある。

 浮かれた話に飛びついて,そのときだけ「その気」になっているのが見え見えなんだよ。


 子どもから見える「無責任な大人」の姿とは,どのようなものだろうか。

 最も胡散臭く見えるのは,「わかったような顔」をしている人間である。

 
 自信満々の姿で子どもを引っ張っていける時期は長くない。

 「不安でいっぱいの大人」がいても,一向にかまわない。

 教師の中には,自分自身を「見捨てる」ことを避けるだけで精一杯の人もいる。

 「人を見捨てる」ことができるほど余裕のある人間にはわからない話かもしれないが。

 そういう教師が,「あなた自身のことだけは,決して見捨てることのないように」と子どもに向かって願う姿に,冷水を浴びせるようなお節介な「同志連中」が邪魔なのである。

 
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見えていないものがそこにある

 子どもっぽい集団のいじめと,そうでない集団のいじめの区別を見誤ると,とんでもないことになる。

 子どもたちの世界では,リアルのミサイル発射よりも,見えない消耗戦が続いているものである。

 教師が一生懸命になって「見よう」「見届けよう」としているものに対して,

 子どもたちは敏感である。

 それがプラスに働くのは,中学生といってもほとんど小学生に近い子ども集団に限られるだろう。

 教師が一生懸命になっても「見えない」ものを子どもたちは共有しており,

 そこで騙されている教師が多いことを肌で感じている。

 くれぐれも,調子にのって「いじめられっ子の活躍」を表に出されないように。

 成功体験が一人の人生を変えることは大いにあり得るが,

 それが教師の力によるものであっては,子どもはいずれ路頭に迷うことになるだろう。

 初任者研修で,小学校の教師たちによる,いじめ解決に向けてのロールプレイングの指導をしたことがある。

 「平和ボケ」したストーリーをぶった切りにしたことの意味が,経験を通してわかった教師はどのくらいいるだろう。


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「あいつは自分のことしか考えていないやつだ」は「悪口」か?

 「先生,相談があります。××くんが,僕の悪口ばかり言うんですよ」

 「どんな?」

 「自分のことしか考えていない」

 「人の話を聞かない」

 「自分と違う考えを認めない」

 「証拠を示さないくせに証拠があるんだと言い張る」

 「高圧的な話し方だ」

 「それから・・」

 「みんな正しいことですか」
 
 「そうですね」

 「どうしてそういうことを言ってくるんでしょう」

 「自分のことではなく,他人のことを考えて,ときにはクラスの仕事を優先してほしいから?」

 「人の話を聞いてほしいから?」

 「自分と違う考えも,検討してほしいから?」

 「証拠を示してほしいから?」

 「穏やかな話し方をしてほしいから?」

 「なるほど,そうなんじゃない?」

 「はあ・・・」

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「自負」の塊たちとの確執

 「自負」をもっていない人間が生き残れない世界があるというのは理解できる。

 しかし,教育の世界こそ,「自負」を脱ぎ捨てられる人間でないと,見るべきものが視界に入らないまま終わってしまう。

 自分が見たいものしか見ず,聞きたいことしか聞かないようにする人間に,教育を語る資格はない。

 自分に都合のいいように,言うことを聞かない人間や言うことをきく人間の話を持ち出して,お山の大将ぶる醜悪な姿は,必ず教え子たちに伝染する。物理的な距離の近い遠いが重要なのではない。

 実は私自身は,こういう「自負」の塊のような上司と直に接したことはほとんどない。

 本で読んでその薄っぺらな教育観にあきれる人たちは多いが,そのおかげで,直に会って話を聞こうと思う気になることはない。

 ここ数年,何を学んできたのかわからない大学院生たちの面倒を見ることがあって,「自負」の塊が伝染したかのような,教員採用試験には決して合格できないであろう,「教育の研究者」たちに辟易とさせられている。

 人間が人間を育てるのが教育である。その影響は計り知れない。

 大学院生たちが見ようとしているのは,はじめから,自分たちの成果だけである。

 教育で見るべきものとは,子どもたちの表面的でだれの目にもうつっている活動ではない。

 黙っているときに伝わってくる願いであり,離れたところにいて伝わってくる思いである。

 子離れできない親が,最も子どもが自分を必要とするときに限ってそばにいないのと同じように,教師が子どもを困らせるのはその距離感である。

 自分たちの成果しか頭にないような人間たちに,子どもは変えられないし,最も私が危惧するのは,子どもにそういう利己的な人間たちの精神が伝染することである。

 「私の言う通りにすれば,みんな得ができる」という話法で丸め込む,商人すら小馬鹿にしたような私共(わたくしども)空間の主に,教育の世界が汚染されるのは忍びない。

 私の仕事はそういう人間の「自負」を打ち砕くことにある。

 学校や子ども,家庭のありとあらゆる実態に迫っている教師たちにとって,そことの距離が完全に離れてしまっている人間たちの「実証」だの「研究」だのはお荷物でしかない。

 自分に都合のよいデータだけで語るのはまだしも,議論をするときに最も核心的な問題点を論じる自由を与えないことこそが,「教育の研究者」を代表するいい加減な姿勢である。

 お荷物がもっと重たいお荷物を育てて学校現場に送り込んできてくれることで,やりがいのある仕事がまた増える。

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小学校の教師たちが築いている財産とは何か

 小学校の教師を希望する人の中には,

 英語が苦手だから・できないから

 部活動の指導をしたくないから・できないから

 家族との時間を大切にしたいから

 などといった,自分の特性が理解できている人が多くいるそうです。

 中学校や高校でも,部活動から距離を置いて生きていくことは不可能ではありませんし,

 教師集団や子どもたちから「この学校では必要とされない人」というプレッシャーを強く受けた場合は,

 2~3年周期で学校を転々と異動していく生き方もできなくはありません。

 そもそも能力も熱意もない部活動を指導するために教員になるわけではない,というのは正しい見解でしょうし,土日がつぶされるようなら,教員をしたくない,という人には,小学校の教師は向いていると思います。

 小学校は,中高と違い,子どもが6年間もかかわる場所です。

 家庭とのつながりも深くなりますし,兄弟がいれば,10年以上,保護者が学校とかかわることもあります。

 私は中学校の教師ですが,小学校のPTAのソフトボールに長い期間参加していました。

 その間,一緒に参加してくれた教員は,副校長先生だけでした。校庭を開放する管理上の責任もあったからでしょう。

 勤務している中学校のPTAソフトボールにも自ら参加していましたが,3年で子どもが卒業してしまう中学校より,小学校の方が保護者同士のつながりも深くなります。

 もし日本の教育が,小学校3~4年間,中学校5~6年間になれば,どれだけスポーツなど生涯教育の分野で学校と家庭が深く結びつき,子どもに好影響を及ぼすか,計り知れない気がするのは,こういう経験によってです。

 話を元に戻しますが,小学校の教師は,純粋に,授業だけをしていれば成立する仕事です。

 私はそれでかまわないと思っています。私自身が小学校でお世話になった3人の担任の先生方は,ある程度高齢で,だれも運動をなさっていませんでした。

 すべての教科の授業を面白くするために工夫する努力は並大抵ではできないでしょうから,授業の準備を真面目にしている人は,中学校の教師くらい,勤務時間が長くなっているはずです。

 できるだけ「仕事」の範囲を極小化して,広い意味での教育にあまりかかわらないようにする傾向は,

 過酷な労働によって起きるさまざまな弊害を是正する風潮を追い風として,今後も広がっていくことでしょう。

 小学校の教師が築いているものは何なのでしょうか。

 6年間も同じようなスタイルで授業を受け続けた子どもたちは,集団として,多くの優れた特性を身につけて中学校に入ってきます。中には,「慣れ」と「あきらめ」を習得し,「格差」を実感できている子どももいます。

 基本的にほとんどの子どもは純朴で従順な性質を身につけ,反抗的な面はもちながらも批判的精神を持たないまま,中学校に進学してきます。

 新入生にとって,中学校は,最上級生が自分には遠く及ばない全く別の大人に見えるほどの別世界です。

 「部活動」という異次元空間への入口が,まるで大人の世界の入口のように感じさせてくれるのは,小学校のおかげです。

 部活動の指導者が,教科指導を行っている先生,自分のクラスの担任の先生であったりもする。

 小学校とはまた別の意味で,「何でもできる大人」がそこにいる。

 いずれ,小学校と中学校の区別ができない時代になったときが,子どもにとっては出口のない不幸の入口になるでしょう。

 「部活動」を憎む一部の人間たちが邪魔をしたい気持ちはわからないでもありません。

 日本の教育は常に非常事態をしいていたのです。

 これを解除した瞬間に訪れるものを予想できる人間は少なくないはずですが。

 小中一貫校には,その不幸をなくす働きが期待できるのと同時に,絶望的な場所になる恐れがあることを予言しておきます。

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どうしていい加減な教育方法にたどり着いたか,よくわかった

 私のブログもそうかもしれないが,読めば読むほど,なぜある人が,特定の教育観にこだわっているのかがわかるということがある。

 多くの教師たちから相手にされていないものの,アクティブ・ラーニングというバズワードが登場したことで脚光を浴びることができた人がいる。

 この人の教育観の背景には,自分自身が抱えている問題があることがよくわかった。

 この人は,「公平でありたい」という強烈な欲求から,名簿にチェックを入れてまで,かける必要もないのにすべての子どもに声をかけていたことがあるという。そして,それは無理であることに気づいたのだと。

 「公平である」ためには,一部の子どもに声をたくさんかけて,大多数にあまり声をかけないという状況は許されない。
 
 だから,教師と子どもとの間の距離感を子どもから全くつかませないようにする授業方法にたどり着いたのだろう。

 それは教師の子どもに対するほとんどすべての働きかけを放棄することで可能になった。

 この人は,教育者として,いくつもの理由で間違っている。

 まず,「公平でなければならない」という理由から,すべての子どもに不必要な声をかけまくるという動機自体が間違っている。

 「公平でなければならない」ことを最優先することで,声をかけられることを必要としている子どもとそうでない子どもが区別できなくなる。学習能力の高い子どもも,低い子どもも,「同じ数だけ発表する」「同じ点数をとる」ことが必要になってきてしまう。

 「人に対して公平に接する」というのは,用もないのに同じ数だけただ声をかける,なんていうものではないことは,道徳の教材を用いなくても容易に理解できるはずである。

 教師との子どもとの距離感のことを,この人は「間合い」と表現しているが,武道の試合のことを例に挙げるまでもなく,「間合い」は相手がどういう特徴をもっているかで変わってくる。

 すべての相手との「間合い」を同じような距離にするということは,相手の特性を理解しようとしないという態度の現れなのである。


 ここからは,私の想像だが,この人は,実は特定の子どもに声をかけたくてしかたながい人間だったのだ。

 そういう教育熱心なところが,自分が教師に向いている理由だと信じていた。

 しかし,声をかけられることを望まない人間もいることを現場で初めて知ったのではないか。

 まさか子どもの方も,「公平さを守る」という教師個人の信念のみが理由で声をかけられていたなんて思いもしなかっただろう。

 すぐに教師を辞めたのは本人にとっても子どもにとっても大正解だったと思うが,その後に行っていた研究が,自分をただ正当化するためだけのものになっていないかどうか,検証してくれる人はいないだろうか。材料はご自身がたくさん発信してくれている。

 自分自身のコミュニケーション能力不足を理由とした教育方法は,「後付けの論理」で生まれたものではないのか。

 教育における人間関係は,自分と相手の長所・短所をお互いにわかり合えることで成り立っていくものである。

 自分の短所を堂々と全面に出すのはかまわないが,すべての教師が同じ短所をもっているとは限らない。

 また,相手のつながりの中で,自分の短所は長所に変わりうる。

 この点が全く分かっていない人が学校現場でも少なくない。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より