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カテゴリー「生活指導」の323件の記事

女性社会が男性社会に変わることが中1ギャップの最大の原因か?

 中1ギャップを解消するために,さまざまな取組が行われている。

 小中一貫校の設置も,その一つだろうが,中学校1年生をナントカ学園7年生と呼んだところで,中学校の教育課程の学習についていけない生徒がいなくなるわけでもない。

 ギャップを感じにくくなる一方で,「中学生になった」という実感をもちにくいことは,子どもの成長にとってマイナスになってしまう側面が大きすぎる気もする。

 英語教育を小学校から始めるというのも,中1ギャップ解消への改革として期待される面もあるが,

 「英語教育の研修」を終えた小学校教師たちの多くが,「撃沈」して帰ってくるという話を耳にした。

 「私たちが英語を教えていいのだろうか?」という疑問というか「適性の乏しさ」を痛感してしまうというのだ。

 多くの教師に「道徳も同じでしょ」と言いたくもなるところだが,「英語があるから小学校教師にはなれない」という理由で,教師志願者が減っていくことも危惧しなければならない事態が目前に迫っている。

 制度をいじると,必ずと言っていいほど「悪い方向へ」の効果が高まっていく日本の教育界である。

 私は,中1ギャップの原因は,小学校と中学校・高等学校の教育課程,学習指導要領に示された内容にあると考えているが,もう一つ,「文化の違い」が無視できない要素であると確信している。

 小学校と中学校・高等学校の「文化の違い」は,たとえば「学習指導」や「生活指導」に顕著になって表れてくる。

 その点は何度もこのブログで取り上げているが,その他に,小学校=女性社会から,中学校・高等学校=男性社会に変わることが,非常に大きな不適用要素として直撃してしまう子どもがいると感じている。

 下の図は,東京都の中学校の男女別教員数の推移を示している。

 27

 小学校と比べると,男性教員の割合が高い。

 管理職になると,男女比はさらに男性に偏ることになる。

 少し前の記事でも書いたように,「男性」「女性」と区別する時代ではないかもしれないし,経験が10年未満の人が半数以上を占めるような小学校になってくると,今までとはまた異なった文化ができているかもしれない。

 しかし,「戦闘向き」の集団である「男性の群れ」がもつ独特な中学校の生活様式は,小学校には見られにくいのではないか。

 この文化の違いに,敏感に反応する子どもが少なからずいるはずなのである。

 別に,「女性社会」が「戦闘向き」ではない,とは言えないだろうが,子どもにとってどっちが「アットホームな感じがするか」と問われれば,もちろん例外はいくらでもあるだろうが,「男性社会」よりは「女性社会」だろう。女性の育児や家事労働がまだ多い国ならではの感じ方である。

 「中学校に行くと,先生たちはみんな怖いよ」と小学生を脅す教員がいるらしい(私の教え子たちの多くが,みんなこういう脅しを受けていたことを知っている)が,どういう人だろう?

 そもそも,なぜ小学校に女性の教員が多く,中学校では逆になっているのか。

 そこに中1ギャップの原因が潜んでいるかもしれない,という予想から,少し想像してみた。

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教師目線でしかない「授業論」を元暴走族が読んだらどう思うか?

 「授業」という枠組みだけで教師の仕事を考えたり話したりすることが許されるのは,採用試験に受かっていない人か,初任者くらいのものでしょう。

 「授業研究」をしている教師たちが本当に楽しみにしているのは,「授業」ではないことを,多くの経験者は知っています。

 教師目線での「授業研究」にしがみついているうちは,子どものことは何もわからないでしょう。

 勉強が好きな子どものことも,嫌いな子どものことも。もちろん,大学のセンセイが「暴走族」のレッテルを貼った少年少女たちのことも。

 教師の立場で「授業」をどう考えるかを語るのは,もちろん無駄なことではありませんし,それを語ってお金をとることも,いけないことではないと思います。

 でも,子どもの立場になってみて,唯我独尊的でわがままな「授業論」を語っている自分を眺めてみたときに,何が子どもの目に映っているのか,想像してみてほしいと思います。

 「おれのせいではない」と言いたいことが,子どもたち全員に伝わっていると思います。

 肌感覚で,「お前じゃだめだ」と子どもの目が言っていることがわかると思います。

 自分勝手に否定している授業が成立していることを,徹底して否定しなければ気がすまないような人間を,子どもは本当の「教師」という立場で見てくれるでしょうか。

 子どもたちを騙すのは,簡単ではありませんよ。

 子どもたちは胡散臭い人間をかぎ分ける最低限の能力を持っていると思います。

 新しい方法にすぐに飛びつきたくなる「軽い」人間たちが,次々に失敗し,

 「失敗しないプロセス」を紹介してくれているのに,それも否定する。

 大前提にしているはずの「お題目」が,本当に白けて見えるのは,だれのせいなのでしょうか。

 コピーに失敗するのは,相手のせいではありません。

 しっかり写し取れないでいること自体は,正常な結果なのです。

 それが今の子どもたちにとっては,大いなる救いになっています。

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大学教授の「体罰」「パワハラ」の原因を考える

 教員になりたてのころ,初めて研究会に参加して知り合いになった先生が,私を後任として引っ張ってくれようとしたことがあった。当時はまだ,一本釣りで教員を確保することが可能な学校があった。

 この方が国立大学の先生になられた後,授業でふざけた態度をとった学生を投げ飛ばした,という話を人伝に聞いた。

 大学では「体罰」ではなく「暴行」と呼ぶようだが,そういうことができる先生に認められたことは嬉しく思っている。

 別の国立大学で同じようなことが起こって,すでに処分の内容も合わせて発表されている。

 マンガのように気合いが入ったセンセイなのか,ただのオッサンなのかはわからない。

 私の心配は,学生の側の問題ではなく,何かの成果を出すのを強制的に求められたり,どうでもいい書類を書かされたりしたストレスが原因ではないか,ということである。

 本当にどうでもいい事務的なことに費やされる時間が増えたのは,たいてい,「事故」のせいである。

 「事故」を防ぐために,「事故」が起こったとき以上の煩雑な手続きが必要になる。

 「事故」を防ぐためにしなければならない行動のストレスが,「事故」を生む。

 最悪の悪循環である。 

 国立大学の先生たちが今,不満たらたらであろうことが想像できる。

 でも,もしそれが原因で学生に八つ当たりしているようなら,やめていただきたい。

 また,どうしようもない学生には,単位を与えなければよいだけだ。

 公表しているポリシーに合っていない学生を取ったのが原因かもしれない。
 
 努力もせず,成果も出さずに学位がとれてしまうような大学は,国立でもつぶれた方がよい。

 停職期間中に「今の大学生はこんなだ」なんていう暴露本でも書いてくれれば,読んでみたくもある。


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つぶし役の必要性

 行き過ぎた生活指導が引き起こす問題が多く指摘されるようになっているが,

 生活指導が成立していない学校から上がってくる小学校7年生を何とかまっとうな中学生に育てるためには,たとえば,うそを平気でつき通すような習慣だけは消してあげるような「つぶす」指導が必要になってくる。

 行き過ぎた生活指導とは,子どもそのものをつぶしてしまうものを言う。

 「今の子どもたちはみんな弱い」という先入観があるために,

 多くの学校では,「及び腰の生活指導」やそもそも指導をする意欲も能力もない教師の存在が問題になっていることだろう。

 だから成長するきっかけ,自分を見つめるきっかけを得られないまま上級校に進学していく子どもが多くなっている。

 学校,学年には,「つぶし役」の教師が必要である。

 人間にではなく,行為に対して怒っていると子どもに理解させるのが「つぶし役」の役割である。

 悲しいことは,人間ごと否定してかかるセンセイがどこにも一定数存在してしまうことで,

 生活指導を傍観して,後で評論家のように偉そうなことを言ったり,

 指導の尻馬に乗ったようなかたちで余計な言葉を子どもに投げつけたりすると,

 せっかくの指導も台無しになってしまう。

 生活指導を行うときには,自分はもちろん,教師たちの特性の把握が不可欠である。

 フォロー役がいない場合は,「つぶす指導」をあきらめざるを得なくなるときもある。

 「つぶす指導」で傷つけられた自尊心を修復し,むしろ自尊心を回復させたり,生成させたりすることができる教師は欠かせない。

 学級担任とのかかわりが中心である小学校では,こういうチームプレーがやりにくいから,どうしても「個人」で完結するような指導のマニュアルばかりがはやっている。

 もちろん,一人で「つぶす指導」から「自尊心を生成させる指導」までを完結させられる教師が大勢いればよいのだが,それが難しいことは,かつて日本で当たり前のようにあった「家族」のドラマを見ればわかりやすいだろう。

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やるべきことをやりきることの難しさ

 学校の道徳がなぜ嫌いになるのか,普通の大人ならわかることでしょうが,コミュニケーション能力とか他人の感情がよく理解できない子どもが,道徳の学習に「はまって」くれるケースがあります。

 「教科書にこう書いてあるから大事だ」

 「先生が言ったことだから守らなければならない」

 こういう子どもばかりだった時代に,日本は戦争で多くの若者を失いました。

 やるべきこと,守るべきことは,生活の中から発見していく,

 そういう社会科の授業を真面目に考えている人たちに限って,

 なぜか道徳の授業がそうはならない。

 不思議なものですが,「教科書に書いてあることを教える」というのは,

 それがすべてではないとわかっている勉強家でも陥りがちな姿なのです。

 学校運営でも,おもしろい現象が起こります。

 それはやらなくてもいいこと,どうでもいいこと,というのはみんながやろうとして,

 これをやらずしてどうするという大切なことはスルーしてしまう。

 その対照がものの見事にセットになっているとき,

 教育は死んでいくのです。


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評定で「1」がつく中学生はどのくらいいるのか?

 日本の義務教育のシステムは,学校に通わなくても,あるいは,学業成績が不振でも,時間がたてば自動的に「卒業」できる仕組みになっている。

 不登校生徒の場合,担任教師が献身的に授業の記録を自宅に送ったり,教科担任の何人かがノートのやりとりをしたりする場合もあろうが,学校の教師との接触を完全に断ち切ったまま卒業を迎える子どもも少なくはない。

 非常に微妙な空気が流れる,校長室での卒業式の光景は想像できるだろうか。

 1日も登校できなかった子どもが,卒業式の日だけ,他の生徒たちが下校した後に学校にやって来て,少人数での「卒業式」を実施し,校長先生から「卒業証書」を手渡される。

 通知表など,何も書くことがないものも,形式的に渡される。

 日本の教育の課題の一端を一般の方も考えさせられる一場面ではないだろうか。

 東京都が公表している12月までの5段階評定の分布を見ると,

 評定で「1」がついている生徒の割合は,おおむね3~4%程度である。
 
 墨田区のある学校は突出して「1」がついている生徒の割合が高く,多くの教科が14%前後である。

 江東区や足立区のある学校では,数学で「1」がついた生徒の割合が17%~18%台であった。

 足立区では英語で2割の生徒が「1」である学校もある。

 おそらくは,すべてが不登校の生徒ではないだろう。

 そもそも,都立高校入試に際して,不登校の生徒のうち,評価資料がない場合は,「評定不能」として提出することが可能である。

 目標に準拠した評価になってから,5段階の評定のインフレが続き,「5」はそれほど多くなくても,「4」(十分満足)の生徒の割合が高くなっている。

 だから「1」がほとんどいない学校もあるが,何がどこまで「できない」と「1」になるかの共通した明確な指標はないため,不登校でなければ「2」がつくところも少なくないだろう。

 それでも「1」がつく中学生は相当数存在している。

 学力面の裏付けがなく,高校に進学する生徒も多いため,当然,中退率も高くなっている。

 登校しているにもかかわらず,評定が「1」になっている生徒の学力を「2」や「3」に引き上げるためには,どうしたらよいのか。

 私は社会科の教師だが,ある学校で,数学と英語を夏休み中に教えてあげたことがある。

 「2」の子どもは「3」になるが,「1」の子どもはなかなか「2」のレベルに達しない。

 当日できていたことも,次の日にはできなくなっている。

 素人の良さが生かされることもあるが,子どもも含めてやはり素人にはできない仕事がある。

 成績が良い子が教えればよいのではないか,と主張する人もいる。しかし,この方が「わかったふり」を子どもがしやすくなる傾向が強くだけでなく,教える側にかかる負担が大きい。

 「1」の生徒がいる学校で,「5」がもらえる2割の生徒が大活躍し,成績を向上させることができると豪語している人もいるが,残念ながら,教育現場はそれほど甘いところではない。

 「家庭に問題がある子どもはダメだ」なんて「例外規定」を定めている人もいる。こういう人は死ぬまで閉じた空間で議論し,役に立たない本を出版していれば,それでよい。いずれだれの記憶からも消えてなくなる。

 学校現場では,改めて,学習指導要領ではどのような内容とどのような能力を身につけさせることが示されているか,しっかりと確認する作業が必須になってくる。

 今から15年ほど前,総合的な学習の時間の実施にあたり,子どもにつけさせるべき学力をしっかりと考え,子ども自身がじっくりと学べるカリキュラムを実践することができた人には,改めて説明するまでもないだろう。

 教員になったとき,すでに総合的な学習の時間の指導が始まっていた人にとっては,教育課程づくりの根本を学ぶ機会を用意してあげるべきである。

 自分自身が総合的な学習の時間の学習をしてきて,そのねらいとする力を身につけてから教師になった人には,改めてどういう学力が大切なのかを考え直してほしい。

 評定の「1」の「重み」は,信じられないくらい「重たい」ものになってくるはずである。

 小中連携が機能するかどうか,その意味があるかどうかも問われるべき重大な課題である。

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子ども不在の教師教育論の無意味さ

 元小学校教師と中学校教師の対談本を読んでいるのだが,冒頭3分の1は若い教師たちへの愚痴のオンパレードであり,よくこんな本が出版できたものだと驚いている。

 お互いに同じような「商売」をしている関係からか,最も大事なことには踏み込んでおらず,だれでも感じていることを確認し合っているに過ぎないやりとりは,読者の「時間泥棒」である。

 そもそも小学校の教師と中学校の教師がガチで議論する場など,ほとんどない。

 この本への私の期待は大きかったのだが,非常に残念である。

 本を大量に購入して読んだり,セミナーや研究会に参加したりしなければ,まともな教師にはなれないことを若い教師に納得させるような効果しかもたないのではないか。

 冒頭で「偉そうに俺たちを呼ぶんじゃない」「金を準備しておけ」などと主張しておきながら,実際には自分も同じようなことをしていることを対談で暴露している。

 こういう人に影響を受けている教師たちが気の毒でならない。

 
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保護者との面談は録音される時代に

 保護者が教員との面談の内容をICレコーダーなどで録音し,保護者間での情報共有の手段として利用される時代になった。

 いじめや体罰などの学校側の説明を録音する保護者も増えていくだろう。

 「飛び降りろ」発言の小学校教師と校長の謝罪の音声が,マスコミを通して公開されている。

 保護者が自らの判断で録音し,マスコミに情報提供したのか,

 マスコミがあらかじめICレコーダーを渡して,録音するように保護者に頼んだのか,

 そのあたりの事情は分からないが,こうしたやりとりは,

 たとえば保護者側が裁判を起こしたりするときの資料にする時代になっていくのだろう。

 学校の日常生活が「可聴化」されるのも時間の問題だろう。

 場合によってはカメラも設置され,「可視化」されるようになるのだろうか。

 日常的な声かけや面談の内容に関する情報をやりとりされて学校側が少しやりにくくなるのは,

 子どもの個性や現状を踏まえて,面談などの言葉を使い分けている場合である。

 ある子には「叱咤激励」し,ある子には「激励」だけする。

 「差別ではないか!」と批判されかねない。

 保護者の中には,自分の子どもに教師がかける言葉と,他人の子どもにかける言葉を比較したがる人がいる。

 過去に自分が体験した差別の経験が,子どもに対する「保護欲求」に結びついているのだろうか。

 私は面談を録音した経験がないが,「罪の意識,罪悪感を強く感じる」ことが録音しない理由である。

 会社でも,上司の言葉を部下がみんな録音する時代になることは,

 「働き方改革」にどのように寄与するのだろう。

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「頭がいい人」とそうでない人は「別の生物」?

 教師を長年やっていると,同僚たちをはじめとして,教育関係者や保護者たちが,どんな基準で人間を区別・差別しているかを実感できる機会が多くなる。

 多くの場合,「頭がいい」「頭が悪い」「学習成績がよい」「学習成績が悪い」で人を区別しようとする人が多く,それが差別的言動になって表面化してくる。

 差別扱いされるのは,どちらか一方とは限らない。

 指導力のない教師の場合は,自分の言うことを素直に聞く人間と,聞かない人間に区別する。

 この場合は,言うことを聞かない人間は差別される。

 クラス替えのときに,露骨に「この子の担任はやりたくない」などというタイプの教師もいた。

 人は,生まれてから死ぬまで,本当に多くの人間から様々な影響を受けて生きていく。

 人間を区別したり,差別したりすることは,だれを通して学習するのだろうか。

 それはたいてい,指導力のない教師や会社の上司が元凶ではないか。

 そうでない教師や上司に出会えた人は,そう簡単に人間を差別しない。

 子どもにも差別をしない人間に育つよう,教育できるはずである。

 高校や大学レベルになると,もともと差別化され,選抜された人間が教育対象になるからか,小学校や中学校よりも露骨な差別を浴びる機会が増えるようだ。

 そういう環境で教師になるための勉強をした人は,教育現場に悪しき風習を持ち込まないように,注意してほしい。


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女性の機嫌の直し方

 女性の「ヒステリー」(これはもう死語?)にはどう対処したらいいのか,穏やかな女性とばかり接してきた人にはわからない話かもしれません。

 そういう意味では,脳科学に頼るのもいいですが,経験が物を言う場合もあります。

 ラジオで『女の機嫌の直し方』という本が話題になっていて,その要旨が一部紹介されているのを読みました。

 女性が読むと,少しムッとするような内容かもしれません。

 この著者の方は,ご自分の近くに「機嫌が悪い女性」がいつもいることにストレスを感じているタイプなのではないかと思ってしまいます。

 「機嫌が悪い女性」を思い浮かべることが難しい方は,まずは,

 母親が子どもを前にして機嫌を悪くする理由を想像してみてもらえばよいかもしれません。

 言うことを聞かない子どもに対して機嫌が悪くなっていることもあるのですが,

 それを増幅させて,「機嫌が悪い」と見た目でわかる,あるいは暴言を吐くレベルまでいってしまうのは,

 「共感してくれる人がその場にいない」ことが大きな原因です。

 その場に人が(父親が)いるのに,自分の機嫌の悪さを感じ取って共感してくれないと判断される場合は,さらに気分を悪化させる原因になります。

 小中学生の女子の会話を聞いていると・・・・話の中身を聞かなくても,様子を見ていると・・・・お互いに共感し合える関係にあることが,友達の条件のような雰囲気が漂っています。

 「でも,あんたにもこれこれこういう理由で問題があるよ」などと論理的に迫ってくる人は,仲間の輪に入れてもらえません。

 だから,言葉で納得させようとする下手くそな道徳の授業を繰り返すと,子どもにますますストレスがたまり,いじめや問題行動を起こしやすくする原因になるのです。

 すぐに機嫌を損ねる女性教師の扱いをとてもよく心得ている子どもたちがいることを何年か前に知りました。

 先輩からきちんと「技」を伝授されて,「無駄な時間を省く」工夫をしている子どもたちがいるのです。

 その技とは・・・。子どもを守るために秘密にしておきます。

 「女性脳」とか「男性脳」という命名は,本当に正しいのでしょうか。

 著者は女性のようなので,「女性は自分の理解したいように理解する」というご自分の理論をご自分で証明されているとすると・・・。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より