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カテゴリー「生活指導」の353件の記事

「正しさ」とは別の「作法」の原理はどこにあるか?

 読書編でもふれた内容だが,挨拶などの「作法」の原理を「正しさ」「ルール」として教えようとする人がいるが,それは誤りである。

 「作法」には様々なものがある。たとえば社会人として身に付けるべき「作法」を「形」として教えている人がいるが,それは「批判されない」「恨まれない」「憎まれない」ことが目的であって,「常識」として教えてしまう「作法」は,ただの「ルール」として伝達されていくだけのものになってしまう。

 残念ながら,強制された「作法」による行為で満足する人が少なくない。学校現場でこういう教師が増えると,子どもの心は荒んでいく。

 その道を究めた人は,単純なルーティーンとしての「作法」にはこだわらない。

 というか,自分から進んでは「作法」は語らない。

 「作法」を語りたいと,編集者を説得するような作家はいないだろう。

 教育分野には,そういう「作家」がいて困る。

 「押しつけ感」が半端ない環境に子どもを慣れさせることで,得られるものは何だろう。

 近くにある国を軽蔑する資格が日本にあるだろうか。

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心にないことは相手に伝わらない

 指導がうまくいかない,授業がうまくいかないと悩む教員は少なくない。

 どんなにベテランでも,「悩む」人の方がより有望である。

 子どもへの愛情がある一方で,現状と限界がわかっているということだから。

 学校には,「悩まない」タイプの教員が存在する。

 「うまくいっていない」という現状認識すらできないタイプの人もいる。

 先日,ある会合が開かれて,様々な年齢層の方々が集まった。

 会合の主催者側は,集めた人々に感謝をしなければならない立場にある。

 しかし,「感謝の念」が伝わっている空気はなかった。

 人間の心にないことは,相手に伝わることはない。

 「ただのお世辞」をそれと気づいて受け取ったことがある人ならわかるだろう。

 子どもの成長への期待というか,責任感のようなものをもっていない教員から,

 子どもたちはどのような影響を受けているのだろう。

 「自分の仕事が問題なくすめばよい」

 「もめなければいい」

 「できれば仕事が減るのが望ましい」

 そんな教員を増やす環境ができあがるのはなぜだろうか。

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子どもの心が読めない大人の悲劇

 教師の中にも,ごく稀に子ども心が全く読み取れない人がいる。

 子どもにはそれがわかるから,ある人はからかいの対象となり,別の人は「利用する」対象となる。完全にコミュニケーションが取れなくなる場合もある。

 会話をしながら相手の心がつかみ取れる人は,道徳の授業などバカらしくてやってられなくなるかもしれない。

 授業で建前を言い合ったところで,実生活には何の役にも立たないことが「お互い」にわかっているからである。

 公務員や会社員の場合はどうだろう。

 相手の心を読もうとしない大人もいるかもしれない。

 私は指導主事だった3年間で,いろいろなタイプの事務方や管理職と出会うことができたが,こういう人たちからは,あまり「心を読もう」とする意思は感じられなかった。私の方では必死にやっていたのだが。

 一部の管理職は,私の意図を読み間違ったのか,過去に出会った指導主事がそうだったのか,必死に教員の悪口を並べ立ててきた。基本的に授業は成立しているので,そこまでひどいことを言わなくても・・・と聞いていて思ったが,そういう気持ちがちゃんと伝わったのは,2年間くらいおつきあいが続いた後の話だった。

 なぜ口先の言葉だけのコミュニケーションに頼ろうとするのだろう,と不思議だった。

 今回の文科省の件は,「なるほど」と納得せざるを得ない。

 「だからか」と思ってしまう。

 「バレない自信」を育んできた組織の実態を知りたい。

 権力の側にいる人間が,その職権を利用して,自分の子どもの得点に下駄を履かせるなどという行為をチェックできない機関が,大学の評価をまともに行うことができるのだろうか?

 天下りしている先輩と,権力の側にいる後輩が,何をしでかすかをだれが監督できるのか?

 教育行政の上の方にいる人間が,日本の将来を担う子どもたちの信用を裏切る罪は重いぞ。

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「だれにも止められない子ども」をどうするか?

 親にも止められない,学校の教師にも止められない,事故を起こすまで,警察にも止められない,そういう子どもをどうしたらいいのか。

 私の父親は保護司をしていたので,「そういう子ども」たちを私もよく見てきた。

 「どうしてこの子が?」という印象の方が,「なるほどこの子がね」という感じよりも強い。

 大きな問題があって,周囲が騒いだ後は,しばらくの静寂が訪れるが,油断した途端に再び噴火が起こる。この繰り返しのパターンが多い。

 このループを断ち切れるのはだれなのか?

 親は,「教育の専門家」である教師にとりあえずは期待をかける。

 ある担任がダメなら,また次の年に期待をかける。

 今いる教師がダメなら,年度がかわって異動してくる教師に期待をかける。

 やがて,学校そのものを信用しなくなる。

 このループを断ち切れるのはだれなのか?

 学年が違っていたが,無免許運転による事故でよく知っている中学生が亡くなるという経験を私もしている。

 運転していた子は生き残った。今,どういう人生を送っているのだろう。

 報道によって,世の中には,我が子を全くコントロールできない親と,真逆に殺してしまう親ばかりだと誤解してしまう人が少なくないのではないか。これが少子化の原因になっていると言いたいわけではないが。ほとんどの親と子は,多少の喧嘩を乗り越えながら,子は人間として,親は親として,成長していく。その関係を成立させないものは何なのか。

 知り合いの岡山県の先生の嘆きが脳裏にこだまするが,やはり最後の希望は教師しかいないのではないか。

 しかしそういう教師を子どもから引き剥がそうとしているのが世の中の流れである。

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集団による「いじめ」と個人による「いじめ」の区別がつかない人がいる

 長く教員をやっている人の中にも,集団による「いじめ」と個人による「いじめ」の区別がつなかい人がいます。

 子ども社会と同じように,職場にも教員社会にも,子どもの「いじめ」に当たるような現状は起こります。

 大人の場合,「いじめ」加害者になる側に,「罪の意識」などはありません。

 だれが悪い,何が悪い,これが原因だ,と言い切るタイプの人間には,「いじめ」が起こるメカニズムは絶対にわからないでしょう。こういうタイプの人は,たとえ自分が「いじめ」にあっても,それを「いじめ」とは捉えず,「対立」と捉えて終わりでしょう。

 「わかったつもり」でいる人間ほど,「教育」するのは難しいのです。

 学校によっては,「いじめ」は絶対に許さない,という強い決意を教師が持っていれば,それで「いじめ」が防げる,と真面目に考えている人がいます。「日本は絶対に戦争に負けない」と強く願っていれば,戦争に勝てると思っていた人たちと似ています。

 「自分はいじめを許さない態度をとっていて,それでいじめが起こってしまったのだから,自分には責任がない」という,どういう思考経路をたどっているのかわからない主張をしている人もいれば,

 「いじめはこういう原因が起こるのだから,その原因となる環境をなくしてしまえばいじめはなくなる」などという,「無人島作戦」を展開しようとしている人もいます。

 教員の世界の大きな問題は,「自分はいじめに向き合っている」などと息巻いていながら,「いじめ」に全く気づけなかったり,「いじめはないよな」などと生徒を恫喝して「いじめがないことにする」のが得意だったりする人がいることです。

 全く役に立たないような勉強を矯正したり,言いたくもない本心を道徳の授業で言わせたりすることも,相手がもし教師ではなく子どもだったら,立派な「いじめ」なのです。

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「感化力」を甘く見てはいけない

 人間の「感化力」に鈍感になってはいけない。

 たとえば勝利至上主義の監督がいるチームでは,監督からの指示がなくても,選手が進んで「勝つための反則」を犯す可能性がある。勝利は,「今のこの試合」とは限らない。もっと大切な試合に勝つために,「今この試合」でできることをやってしまうかもしれない。

 ある教師が,他のある教師を軽蔑しているとする。

 侮蔑する言葉を直接投げかけることはなくても,会話や態度でわかるものである。

 そういう態度は簡単に子どもたちに「伝染」する。

 中学校1年生くらいなら,まだ素直だから,センセイはあの先生が嫌いなの?と質問してきたりする。

 ドッキリしたら,「終わり」である。何も答えなくても,子どもたちには伝わってしまう。

 私にも,軽蔑している教師はいる。しかし,それを子どもに気づかれてはならない。

 だから,気づかれる前に,何かのきっかけがあるときに,わざとらしくないように,自分はその先生のことを大切にしている理由を生徒に話す。

 人間は不思議なもので,「言った言葉」に沿うような行動を自然にとってしまうものである。

 だから,「目標」を掲げていつも目に見えるところに置いておく,という習慣をもっている人がいる。

 クラス目標や学年目標は,常に教室の正面に飾ってある,という学校も多いだろう。 

 本を読むことが嫌いか,そもそも本を読んでいない教師の言葉は,会話をするとわかる。

 自分の言葉で語れる教師か,本などをもとにした他人の言葉でしか語れない教師かも,会話をするとわかる。

 私は長い教師生活の中で,生活指導の機会に恵まれてきたので,記者会見の監督とコーチの関係も痛いほどよくわかる。

 会見場に「置き去り」にされたコーチに,ぜひ単独会見を開いてもらい,真実を語ってほしい。

 若い人の「失敗」の責任を負うのが,監督であり,経営者である。

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教師にとって,「壊していいもの」「壊してはいけないもの」とは

 とてもありがたいコメントをいただきましたので,ご紹介させていただきます。

初めてこのサイトを見ましたが、なんで教師に「壊れてもよい覚悟」を求めるんですか。
>我々教師だって幸福追求権を持つ人間ですよ。教師には人権がないとでも?
>夜の11時まで生徒のために尽くしたって、暴言吐かれるのが関の山なんですよ。だいたい「暴言なんて吐かれる方が悪い」で片付けられる。
>私は壊れたくありません。履き違えている上の世代が多すぎる。

 上から目線の返信としては,次のような言葉になります。

 なお,このブログを書き始めたのは,30代のころでした。

 「公務員」という職業に対する使命感というか価値観のズレがあります。

 日本国憲法「第10章 最高法規」の第99条に,こうあります。

天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

 国務大臣,国会議員,裁判官といっしょに一括りにされている公務員ですが,教師と「国民」との立場の違いは,「この憲法を尊重し擁護する義務」を負う側であるということです。

 ご指摘の通り,「国民」には,「第3章 国民の権利及び義務」の第13条で「幸福追求権」についても最大の尊重を必要とする,とされています。

すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

 「国民」の「幸福追求権」を尊重するために,現在でもさまざまな法案の検討が国会で進められていますが,審議や決議は夜中に及ぶこともあります。国会議員や職員たちが「私は,早く帰りたい!」と駄々をこねないのは,それが「国民の権利を尊重する」ことにつながっているからです。それでも,野党の議員をはじめ,「反対意見」はあるわけで,「反対派」側からすれば,いくらでも文句を言いたいというのが政治の世界です。

 教育公務員にとっての憲法擁護義務は,国会議員たちよりも「軽い」のでしょうか。

 私はそうは思いません。

 国会議員たちは,暴言を吐かれて,「私には人権はないのか?」と言い返すでしょうか。

 夜中まで議論を続けて,「私には幸福追求権はないのか?」と苦情を言うでしょうか。

 むしろ,夜中になっても話し合いが続けられる環境というのは,「国民」にとってはありがたいのではないでしょうか。

 ・・・・・・・・・なんていう言葉で納得していただけるはずはないでしょう。

 まずは,大前提となることを1つ申し上げます。

 教師は,絶対に体を壊してはいけません。現場に立てなくなり,子どもたちや同僚,場合によっては自分の家族にまで迷惑をかけますから。

 私の恩師の一人は,常々こう言っていました。

 「教師にとって大切なのは,1に健康,2に健康,3,4がなくて5に健康。指導力はその次」

 私も同じ意見です。

 「壊れてはいけないもの」には,子どもや親との信頼関係などもあります。

 では,「壊れてもよいもの」とは何でしょうか。

 それは,「過信であったことがわかる自信」「どうでもいいプライド」「古い価値観」「固定観念」「自分への甘さ」「どうでもいい人間との関係」などです。これらはむしろ「壊すべきもの」でしょう。

 コメントをいただいた方については,今,生徒との信頼関係が壊れている,あるいは,築けていない,と判断して,返信させていただきます。

 あなたは何のために,教師になられたのでしょうか。

 教師として,子どもに何を最も伝えたいのでしょうか。

 子どもと自分との関係を,どのようにしたいのでしょうか。

 あなたの学校の教育目標は何でしょうか。

 あなたが教えている教科の目標は何でしょうか。

 学年目標や学級目標は何でしょうか。

 その目標を実現するために,あなたや同僚の教師たちは,どのような指導を子どもにしているのでしょうか。

 指導の評価とその見直しを,どのように進めているでしょうか。

 子どもに対する評価は保護者にどのように受け止められているでしょうか。

 子どもの成長に役立つ評価とは,どのようなものでしょうか。

 校長先生は,あなたのことはどのように評価しているでしょうか。

 人材育成の役割を担うべき主幹教諭などは,あなたに対してどのような指導をしてくれているでしょうか。

 あなたはどのような本をどのくらい読まれているでしょうか。

 あなたが習った教師たちも,あなたと同じような思いを抱いていたのでしょうか。

 あなたが学校で最も尊敬し,信頼している教師なら,あなたにどのようなアドバイスをしてくれるでしょうか。

 あなたにとって,健康以外で「壊していけない」ものは何でしょうか。

 あと100個くらい質問がありますが,この「質問」が,いただいた貴重なコメントへの「答え」です。

 国民の生命,自由及び幸福追求に対する権利を尊重することが,公務員の義務であるため,警察官や消防官のように,自らの自由だけでなく生命をも失うリスクを背負っている人もいます。人命を救助しても,自分が死亡したら,家族は悲しみます。しかし,危険な現場に立ち寄らない,という警察官や消防官はいないと信じています。これは,私の意見です。ですから,「こんな教師にはなりたくない」という方は,このようなブログは「読まない」ことをお薦めします。 

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「罰」を受ければチャラになる,という発想の人間なら,「もう罰は受けている」と開き直れる

 子どもが問題行動を起こしたとき,

 「罰を与えないと気がすまない」という人間がいる。

 学校の場合,「体罰」は法律で禁止されているから,「厳重注意」などで終わるわけだが,

 子どもや教師の中には,「それでチャラになった」と考える人たちがいる。

 だから,問題行動に歯止めがきかない。

 「指導を継続する」のが正解である。罰を受ければ反省する,という浅はかな期待は消すべきだろう。

 だいたい,もし自分が不服に思うような処分を受けたら,「罰」を下した人間に恨みを抱くだろう。

 指導力のない教員と,子どもの問題行動が繰り返される関係がどうして断ち切れないかは,この「負のスパイラル」でも説明がつく。

 「お前は退場処分になったんだから,すでに罰は受けている」という趣旨の「慰め」を監督がしたらしいが,

 こういう発想で「反則」を故意にさせる監督やコーチからは,「資格」を永久に剥奪することが一番よい「罰」だろう。

 問題行動を起こしている子どもも,心に傷を負っている,という共感性を持たずして,現場に立ち続けることは許されない。

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「怒る」と「叱る」の違い

 こういう教師は近くにいませんか。

 感情を表に出して,生徒を指導している。

 生徒を威圧するように,大きな声を出す。

 本人が目の前にいないのに,問題行動を非難する。

 その場で指導せず,後になってから問題視する。

 生徒や教員との間の不信を深める指導をする。

 集団や職場全体のムードを沈滞化させる。

 こういう「怒れる教師」の対極にあるのが,

 「叱れる教師」です。

 感情ではなく,愛情を表に出して生徒を指導している。

 生徒を威圧するのではなく,伸ばす意思を持って指導している。

 必ず本人が目の前にいる状態で問題を指摘する。

 その場で間を置かずに指導する。

 「躾」づくりの観点で指導する。

 集団や職場全体を活性化させる。

 前の記事で紹介した『5S入門』に紹介されていた内容をもとにしています。

 「叱る」には,タイミングも大事です。

 「怒り」は溜ってから爆発する場合もありますから,タイミングがずれるリスクが高く,子どもたちが唖然として教員が何に怒っているのかわからない場合もある。

 「怒ろう」「怒ろう」と思って怒る人はいないでしょうから,これからは「叱ろう」「叱ろう」と思っていればよいのでは・・・。

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小学校に望む本当の「働き方改革」=小学校が変われば「中1ギャップ」解消に一歩近づく

 まともな学校では,自分で自分を「リーダー」と呼ぶような教師はいない。

 生活指導というと,「それに適した先生」の仕事のように思えるかもしれない。

 テレビドラマで「生活指導主任」の役者は,体が丈夫そうで,怖そうなタイプが選ばれる。

 しかし,実際の教育現場で,優れた生活指導主任の資質は何かと問われれば,

 私は「調整力」だと即答したい。

 管理職はもちろんだが,教師たちの声に耳を傾けつつ,基本方針を徹底してもらえる「話法」が必要である。

 「みんなで~しましょう」

 「私たちは,~しています」

 という「話法」で語れるかどうかが,まずは生活指導主任としての第一歩である。

 自分の考え(あるいは管理職の考え)を他人に押し付けるタイプの人が生活指導主任になると,

 どうしても教師集団のコミュニケーションが希薄になっていく。

 生活指導には,日々起こる新しい事態への機敏な対応が求められる。

 迅速,敏速,俊敏,・・・・そんな「動き」が生活指導の・・・・学校の,命運を握る,と言っても過言ではない。

 しかし,「問題となる事態」を見過ごす教師が一人でもいると・・・・

 あるいは,「問題となる事態」を隠す教師,一人で何とかしてしまおうとする教師がいると・・・。

 共有されるべき情報が共有されないことが,「荒れる学校」から変われない原因の一つである。

 授業は個人の技能次第でいくらでも生徒をひきつけることができるが,

 生活指導は教師全体の揺るぎない統一感が命である。

 だれの口からも,同じような状況では同じような言葉が発せられる学校であることが,

 「荒れる学校」から変わるための条件の一つである。

 「信頼される学校」に変わるために欠かせない条件の一つである。

 だから,「私はこうした」という話をいくらしても,現場の教師の「助け」にはならない。

 生活指導には,「私たちはこうした」という「話法」が欠かせない。

 「私たちの学校は,すべての教師がすべての子どものことを真剣に考える学校です」

 という言い方をすべての教師ができる学校づくりが,生活指導主任の最も大切な仕事となる。

 しかし,小学校にはそもそもそのような「話法」が通用しない空気があるようだ。

 学級ごとに異なったルールが存在するのは当たり前。

 その理由。「子どもが決めたから」。

 当然のことだが,「どうしてあっちはよくてこっちはだめなの」という話になる。

 「クラスが違うんだから,当然だ」という「話法」になる。

 こういう風土の学校では,教師たちが「私たちはこうする」という「話法」が使われることはまれだろう。

 あっちでは試しに「学び合い」をやっている,こっちでは「ドリル中心」でやっている,

 そっちでは「指導書どおり」にやっている。

 授業はそれでいいのかもしれないが,

 授業の基盤となる「生活」が,学級によって異なってしまっていては,中学校に進学したときのギャップに子どもは苦しむことになってしまう。

 どうして学校にマンガを持ってきてはいけないのか。

 どうして休み時間にゲームをしてはいけないのか。

 どうして放課後にお菓子を食べてはいけないのか。

 小学校のときは,よかったのに。

 昔は「いけないものはいけない」という言葉が通じたが,今はそうではない。

 小中のスムーズな接続に最も必要なのは,

 学習指導の問題ではなく,

 生活指導の問題である。

 生活指導の「話法」の有無が,問題なのである。

**************************

 以上は,2014年2月16日の記事:『生活指導の充実を図るための教師の「話法」』の冒頭を一部改変したものである。

 「私のクラスには,そんな問題はない」なんていう反応に意味がないこと,むしろ罪が重いことがわからない限り,小学校の学校経営がつとまるはずもない。管理職がいなくなるのも時間の問題だったのである。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より