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カテゴリー「生活指導」の343件の記事

ネガティブ・ケイパビリティ~解決困難な問題に正対し続けられる資質能力

 また小難しいカタカナ語が出てきたなと反発される向きもあろうが,

 「ネガティブ・ケイパビリティ」は日本語に訳しにくいことこの上ない。

 しかしこの「能力」を重視せずにはいられない人々がこれから増えていくはずなので,あえて訳さないというのも一つの方法である。どう解釈したらイメージがしやすいか。

 ネガティブはポジティブの反対語だから,「消極的」「否定的」が真っ先に思い浮かぶかもしれないが,

 「プラスとマイナスのマイナスの方」「正と負の負の方」というのがここでは一番ピッタリくる。

 ポジティブ・シンキングを「プラス思考」というのに対し,ネガティブ・シンキングを「マイナス思考」と呼んでいるように。 

 次に,ケイパビリティという言葉だが,

 経営学や防衛産業で使われている「手腕」「能力」「性能」という意味で,

 単語ではアビリティ(これも「能力」)の前に「cap」がついているものである。

 「able」と「capable」という単語の意味はほぼ同じようだが,

 「capable」の方には「受け入れる余地がある」という意味で使える。

 「capacity」(能力,最大限の収容能力,包容力,度量)という単語に

 やや近いイメージだろうか。

 つまり,「ネガティブ・ケイパビリティ」とは私なりに直訳すると

 「負の事象を受け入れる力」が一番イメージに合っている。

 だれがどのような意味で使い始めた言葉なのかというと,帚木蓬生さんの著書によれば,詩人のキーツがシェイクスピアに備わっていた能力だと指摘していたこととして紹介されている。


>どうにも答えの出ない,どうにも対処しようのない事態に耐える能力

>性急に証明や理由を求めずに,不確実さや不思議さ,懐疑の中にいることができる能力

>(詩人がアイデンティティを必死に模索する中で,物事の本質に到達する前の)宙吊り状態を支える力

>不確かさの中で事態や情況を持ちこたえ,不思議さや疑いの中にいる能力

>対象の本質に深く迫る方法であり,相手が人間なら,相手を本当に思いやる共感に至る手立て

>〈問題〉を性急に措定せず,生半可な意味づけや知識でもって,未解決の問題にせっかちに帳尻を合わせず,宙ぶらりんの状態を持ちこたえる(能力)

>(学校教育や職業教育では)問題が生じれば,的確かつ迅速に対処する能力が養成されるが,ネガティブ・ケイパビリティは,その裏返しの能力です。論理を離れた,どのようにも決められない,宙ぶらりんの状態を回避せず,耐え抜く能力です


 キーツが文学・芸術の領域でその有益さを示したネガティブ・ケイパビリティを精神療法の場においても必須の要素だと考えたのがビオンという精神科医,精神分析医であった。


>ネガティブ・ケイパビリティを保持しつつ,治療者と患者との出会いを支え続けることによって,人と人との素朴な,生身の交流が生じるのだとビオンは説きました

>(ビオンは同じく,精神分析医も,患者との間で起こる現象,言葉に対して,同じ能力が養成されると主張したのです。つまり,)不可思議さ,神秘,疑念をそのまま持ち続け,性急な事実や理由を求めないという態度


 ビオンが抱いていたとされる危惧は,そのまま教育者,企業の経営者などにもあてはまることと考えられる。


>精神分析学には膨大な知見と理論の蓄積があります。若い分析家たちはその学習と理論の応用ばかりにかまけて,目の前の患者との生身の対話をおろそかにしがちです。患者の言葉で自分を豊かにするのではなく,精神分析学の知識で患者を診,理論をあてはめて患者を理解しようとするのです。これは本末転倒です。


 日本の文化の事例にあてはめてみると,「道」を究めた人が行き着く「無の境地」というイメージに近いものだろうか。

 物事の本質を見極める上で,山の頂を想像し,「頂点」から展望が周囲に開けた状態,「ものの見方」よりもっと広い視野が持てて,焦点もあちこちに浮遊できる状態から始めるという方法も参考になった。

 帚木さんの著書には,黒井千次氏の「知り過ぎた人」という随筆の一節も紹介されている。


>それにしても,とあらためて考えざるを得なかった。謎や問いには,簡単に答えが与えられぬほうがよいのではないかと。不明のまま抱いていた謎は,それを抱く人の体温によって成長,成熟し,更に豊かな謎へと育っていくのではあるまいか。そして場合によっては,一段と深みを増した謎は,底の浅い答えよりも遙かに貴重なものを内に宿しているような気がしてならない。


 この文章が紹介されている第三章「分かりたがる脳」の最後を,帚木さんは次のように締めくくっている。


>全くそうです。ネガティブ・ケイパビリティは拙速な理解ではなく,謎を謎として興味を抱いたまま,宙ぶらりんの,どうしようもない状態を耐えぬく力です。その先には必ず発展的な深い理解が待ち受けていると確信して,耐えていく持続力を生み出すのです。


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準備体操なしで全力疾走させるような授業はアウト

 小手先の理論や先輩の実践,体験談などに頼っていては,現場で成果を出すことはできない。

 現場で相手に向き合っているのは理論や先輩ではなく,自分なのである。

 だからといって,理論や先輩の実践,体験談を知らないでよい,というわけではない。

 教育現場で起こる様々な現象について,その都度その都度,新しい自分なりの「気づき」が得られるのは,理論や実践記録,体験談を知っているからである。

 こういう話は,教師にとってあてはまるのと同じように,子どもたちにもあてはまる。

 ただ単純に上級生と同じような体験をさせただけでは,

 本当に大切な「気づき」は得られないまま終わることが多い。

 「アクティブ・ラーニングを行う」だけでは意味がないことは,実際にそういう目にあわされた人ならわかるだろう。

 そしてそういう人がこれから非常に増えてくるおそれがある。

 その裏側で,理論なり先輩からの話なりを聞いていた人だけに,成果がついてくる。

 現役引退を決めた巨人の「代走のスペシャリスト」,鈴木選手の記事を日経電子版で読んだ。

 「勝負は準備の中で決まる」

 この言葉を,これからALを実践しようとする現場の教師たちにも読んでほしい。

 「準備」するのは,教師だけではない。子どもにこそ「準備」が必要なのであり,その「準備」を大切にしてきた授業スタイルを捨てると,子どもに待っているのは何なのか,失敗して気づいてからでは遅いのである。

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LINEのメッセージ「送信取消」機能は「いじめ」の証拠隠しを可能にするか

 小さな「村」の中のたわいもない諍いが,

 つながっている外の世界に容易に拡散され,

 面白がられる時代になっている。

 仲間であって仲間でない子,仲間でないのに仲間になる子,

 そのときそのときの雰囲気に同調したり反発したりする子,

 カメレオンのように立場を変える子どもたち。

 一瞬だけ,悪口や誹謗中傷を送信し,すぐに取り消して,

 気づかれるか気づかれずにすむかのスリルを楽しむ子どもたちの姿が

 目に浮かぶ。

 学校では一言も会話をかわさない生徒同士だと,教師としては

 「全くつながりがない」と勘違いしてしまう。その子どもたちが,

 一緒になって別の子どもを「効率的に」いじめている場合,

 気づくことが遅れ,対応も後手にまわりやすい。

 もともと悪用がいくらでも可能な道具に,

 善意のための機能が加えられることで,さらに悪用しやすくなる,

 世の中こんなことばかりの繰り返しである。

 いじめられる子どもはよりいじめられやすく,

 いじめる子はよりいじめやすくなる世の中にあって,

 教師の仕事は困難を極めている。

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成長をとめないために

 先日,大学の学生さんたちに私の授業を参観していただいた。

 私が免許講習講習などでお世話になった先生のご依頼を受けて,今年度2度目の参観だった。

 「よい授業とは何か」を考えるのがテーマだったそうで,そんな依頼をよく受けたなと呆れられるかもしれないが,文科省とくだらない本を出している出版社以外からのお願いには全力で応えたいと思っている。今年は経済産業省と厚生労働省の方とのつながりもできて,「違法天下り大量発生官庁」が存在しなくても,教育が成立することが証明できるように頑張りたい。

 授業50分,質疑応答40分だけのかかわりであったが,自分にとって,子どもにとって,学生さんたちにとっての課題を改めて考えることができるので,とても充実した時間になった。以下は,先生からいただいたお言葉への私の返信の内容である。都合により,一部改変してある。

******************

いつも過分なお褒めの言葉をいただきまして,恐縮至極に存じます。

○○大学のプロジェクトでも「○○の教員の卓越した指導力を生かした・・・」
などという研究がありましたが,自分たちのことを「卓越した」などと
思い上がるのもいい加減にしろと感じますし,
「よい授業」を自分の実践を通して語ろうとすることも,
教育者の態度としていかがなものかと思ったりもしています。

私が長年問題に思っていることは,授業をしていて,いつも自分の感覚で
「あっという間に50分が過ぎてしまう」ということです。
生徒とのやりとりに集中しているからそうなるのかもしれませんが,
生徒自身が自分の時間を授業内でしっかり使うことができていない証拠に
なっているのが現状です。
 
「よい授業」として必要な要素を自分なりに整理し,その優先順位を考えて,
その順位に沿った発問,作業時間の確保も含めた時間配分,まとめなどが
できているかを検証していく必要が私自身にもかなりあるかと思います。

40人それぞれが伸ばすべき能力にも違いがあり,1人に対する声かけや
突発的な対話に時間が割かれる傾向が強いのも私の授業の課題に
なっています。

学生の皆さんからの質問に対しては,その学生さん独自の関心や課題意識に
沿った形でお答えする努力をしたつもりですが,お一人お一人の特性や能力に
ついての理解もほとんどない状態ですから,質問から類推するしかなく,
見当違いの方向の答えになってしまったかもしれません。もしそういう方が
いらっしゃいましたら,再度返答の機会を頂戴できればありがたいです。
生徒理解が授業の基本になっていることと同じですね。
 
エネルギーミックスと同じで,「最適解」は必ず何かの犠牲を伴っています。
最も優れた発電方法があれば,100%それにすればいいだけの話です。
 
授業もそれと同じで,何かを重視すれば,必ず何かが犠牲になる。
犠牲を少なくすれば,何も重視していないように見えることもあるし,
重点を絞れば犠牲が大きくなっていく。
「見方・考え方」を働かせる授業に重点をおけば,おそらく学力下位の
子どもたちは犠牲者になります。そうさせないための方法がたとえば
今回お渡ししたワークシートなのですが,まだまだ開発途上です。
 
「時間」という尺度において教育の骨格をなしている授業については,
そういう悩ましい問題があり,「よい授業」にも,「正解」は存在しない。
それでも少しでも「よりよい授業」に取り組もうとする態度を教員が
もっていれば,必ずそういう態度は子どもたちによい影響を与えていく,
と信じて研鑽を積んでいく必要がある,とまとめようとしても・・・・
今の時代,こういう言葉も「逃げ」と受け止められる可能性もあり,
教員養成は難しい時代だとつくづく感じます。

「よい授業とは何か」という種類の問いに真剣に向き合い,
考え抜こうとすればするほど,どんどん「何が正解かがわからなくなっていく」
おそれがありますが,それでもあきらめずに問い続けていける力を授業では
育てたいと考えています。

今回,しっかり自分自身の課題に向き合う機会を与えて下さった
○○先生と学生の皆さんには心から感謝しています。

******************

 わいわい子どもたちが楽しそうに学んでいるように見える「授業」がいかに子どもたちの可能性をつぶしてしまっているかについては,中学校の教育実践がないとわからないかもしれません。

 「エビデンス」を求められて,だれでもできるようなテストの点数を挙げているような人間に,教育を語る資格はないのです。

 大学の先生もおっしゃっていましたが,今回の学生さんたちは,皆さん教育実習を終えた方々だったので,私が言いたいことがとてもよく伝わっていたようでした。 

 自著の営業マンに騙されないよう,注意しましょう。

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大切な人だから殴る

 昭和時代には,まだ通用した親や教師の「指導観」かもしれない。

 先生に叱られ,殴られたことを家で離せば,父親からそれを上回る勢いで叱られ,激しく殴られる。

 そういう時代がかつて存在したことは確かだろう。

 インターネットが普及する以前の話である。

 「父親の威厳」とは何か,ということを,人々はそれぞれの勝手な想像の中で形作っていた。

 「子どもを殴るのは,憎いからじゃない。愛しているからこそ殴れるのだ」という論理は,

 「私はあのとき,本気で殴られたからこそ,これじゃいけない,ということに気づき,更正できた」

 「先生に強く叱られたからこそ,今のような芯のある人間に成長できた」

 「私は親や教師に鍛えられた」

 という「殴られた側」「叱られた側」からの擁護の声によって,「真理」であるかのような印象ができていた。

 しかし,当然のことだが,愛情がないから殴れる,という人もたくさんいる(というかほとんどがそうだったのかもしれない)。

 ただ自分の怒りを相手にぶつけるためだけに強く叱る指導をしていた,という教師もたくさんいた(いる)はずである。

 平成に入って30年近くが経過しようとしている。

 私が教師として現場に立ったのは平成以後だが,この間には,不況をはじめとした数え切れない要因から,

 「殴られる」「叱られる」ことに全く耐えることができない子どもが増えてきたことを実感している。

 耐える必要はない,なぜなら,自分たちには人権が保障されているのだから,という当たり前のことが当たり前になってきたからなのかしれないが,
 
 そういう子どもたちはすでに社会人になっている。

 いじめだけでなく,アカハラ,パワハラも,昔からあったはずだが,かつては「耐えてくれる」のが常識だった。

 今は,耐える必要がないのだから,耐えない,という時代になっている。

 大切に思っていない人なら殴らない,叱らない,という論理も,

 大切な人だから殴る,という論理も,通用しない時代である。

 こういう時代には,自分自身の課題を自分自身でしっかり解決できる資質や能力が欠かせないのだが,

 そういう資質や能力はそう簡単には身に付かない,という立ち位置の人がいれば,

 大切だと思うから殴ったんだ,という言い訳がなくなることはないかもしれない。


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「怒鳴り殺し」の生活指導

 ある大学の教育学部の先生も,学生を怒鳴ることがある,と耳にしたが,いずれ

 「怒鳴る」=「大きな声で叱責する」ことの禁止令が出されるかもしれない。

 私は耳障りな大声で話す,ある大学のセンセイが大嫌いだが,自分は怒鳴ることがなかったかと言われると,そんなことはない。

 ただ,怒鳴る相手とタイミングを間違えることはないようにしていた。

 ある時期から,友達が怒鳴られることに耐えられないような子どもが増えてきて,使いどころに困るようになっている。

 そもそも大きな声を聞いたことがない子どもには,衝撃が強すぎるようだ。

 家でも学校でも怒鳴り声に慣れてきた身としては,まるで別世界の子どもたちに別の形で愛情を示す必要に迫られている状態である。

 強い叱責によって子どもが精神的に追い詰められてしまうことがあることは,教師ならだれでもわかっていることだろう。

 小学校の職員室で私が担任の先生に怒鳴られているときは,私の無実をだれも証明してくれず,助けてもくれなかったが,自分が中学校の教員になると,いろんな人が進んでフォロー役にまわってきてくれるものだということがよくわかった。それで調子に乗って生徒を厳しく叱ることもあった。もちろん,自分がフォロー役にまわることもある。

 福井で起こったことは,当然,他の地域でも起こりうるが,フォローがなされない,あるいは機能しない原因をはっきりさせてほしい。

 これも「学力向上圧力」が生み出した悲劇ではなかろうか。

 もともともっていなかった可能性もあるが,教師から大切なものを奪うことに関して,行政は非常に積極的である。

 中学生の悲しすぎる死を無駄にしてはならない。

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中学校1年生でよく起こる思考停止状態

 対人関係で何かの被害にあった人が,加害者を責めるのは当然のことですが,

 被害にあったきっかけが,被害者自身にある場合には,加害者を責めるだけで終わらせてはいけないことはわかるでしょうか。

 学校では,Aという子どもがBという子どもの悪口を言い,BがAに殴りかかって怪我をさせる,ということが起こりえます。

 Aの怪我は,AがBに悪口を言わなければ防ぐことができたものでした。

 しかし,Aという子どもがBに悪口を言ったことを反省できないことがよくあります。

 なぜならば「私は被害者なのだから」という一種の思考停止状態です。

 A・Bという空間上の対立軸しか頭になくて,どういう経緯でそうなったのかという「時間軸」での思考が働かない状態です。

 起こったことを順を追って説明することができないのは,どんな教育が欠けているからでしょうか?

 中学校1年生(小学校7年生)によく起こる生活指導事案です。

 なぜか,中学校2年生になると,時系列で語ることは可能になります。

 発達段階によるものなのか,生まれて初めて,通史としての「歴史」を中学校で習うからか?

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いまそこに,いるべき子どもがいないことを瞬時に判断できない仕組みがアウト

 授業を抜け出して,職員室の教師の机から金品を盗もうとしていていた生徒が,たまたま外から同じ目的で侵入してきた泥棒と出くわし,顔を見られた泥棒が生徒を刺し殺してしまった・・・とする。

 授業をしていた教師は,生徒が教室を抜け出していたことに気づけなかった。

 そんなことがあり得るだろうか?

 教師はずっと黒板を向いていたのか?

 ・・・教室では,生徒たちが自由に教室内を動き回っていた。

 40人いる生徒たちの,だれがどこにいるのかを瞬時に把握することはできない。

 グラウンドで体育をしている教師も同じだろうか?

 教師が,教室内で負うべき責任とは何だろう?


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10月2日 豆腐と望遠鏡

 学校現場で生活指導をしていると,「豆腐にかすがい」の連続で疲弊する場合がある。

 家でとんでもない暴力を振るわれている子どもも,現在の学校ではまず体罰を加えられることはない,とわかっているから,とても伸び伸びとしている様子が目に浮かぶ。

 自分のタブレット端末か何かを取り上げた教師を蹴っている高校生の動画を見たが,蹴っている高校生よりも,後ろで笑っている高校生,動画を公開する子の方が,「よっぽどだ」と多くの人が思っているだろう。

 教師の立場で言うと,子どもに背中を向けて蹴りを受けるような人は,絶対に子どもからモノを取り上げてはならない。

 モノを取り上げられた子どもが逆上する様子を見た経験がある人なら,モノを取り上げるとき,よほど気をつけないと,「犯罪行為」を誘発することを知っているはずである。

 どっちもどっちというのが第一印象だが,私が見たニュースで磯田道史さんがとてもいいコメントを発していた。

 「これはチャンスと捉えるべきだ」

 まさにその通りである。

 望遠鏡から眺めているだけの教師や,叱ればいいとだけしか思っていない教師は,およびではない。

 問題の多くは,教師と子どもとの関係性ができてない場所で発生するが,

 教師にとって,暴力を体で受け止めた経験というのを無にしてはならない。

 10月2日はガンジーの誕生日で,国際非暴力デーとされている。

 暴力は許せないのだが,許されないのは暴力だけではない。無視も,心ない言葉も,心ない行為も,相手を傷つける深さでは,ときに暴力以上の威力があることを,教師は知っておくべきである。

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9月13日 世界法の日に考える「法の支配」

 「深い学びなど必要ない」と主張している大学のセンセイに習った人たちは,教員採用試験ではちゃんと「建前」を述べて,得点を稼ぐのだろうか。それとも,大学の「学び」を生かして,試験官に喧嘩を売るのだろうか。

 教育現場で「法の支配」という言葉を使うと,すぐに「よくないこと」というイメージを連想する教師が少なくないだろう。

 社会科の公民的分野や政治経済で学んだはずの「法の支配」という概念は,

 学校現場で惰性にまかせて教師を続けていると,いつの間にか生徒たちにとっての「校則による支配」などと同じようなレベルのものに変換されてしまうに違いない。

 採用試験のときはきちんと勉強したはずだった「教育法規」だが,管理職試験を受けようとして「学び直し」をしてみると,「こんな法律もあったのか!」などと驚くこともある。

 国際社会では,「法の支配」ではなく,「国益の支配」が主流になっているような印象があるのだが,

 学校現場でも,やはり「法の支配」ではなくて,「子どもや親の利益の実現」という目的に偏ってきている気がする。

 「未履修問題」に代表される「ルールを無視した受験重視・効率重視の学習・進路指導」を是正しようとしているのが,現在の教育改革のねらいの一つである。

 しかし,「子どもや親の利益のため」という部分を票のために議員までもが実現しようとしているので,

 学校現場の感覚ではどう考えても「それはない」というタイプの政策が浮上してきている。

 借金をして将来世代に負担を押しつけながら,「今の景気が良くなりすればそれでよい」という短期的利益誘導型の政策が,ありとあらゆる分野に一律に仕掛けられてきている。

 「法の支配」が実現しているのかどうか,チェックする機能を果たすべきなのは,どこのだれだろう。

 残念ながら,それを実行する主体が自分たちの利益ばかり考えてしまうというところが,悲しいところである。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より