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カテゴリー「グローバル人材」の374件の記事

SDGs(持続可能な開発目標)の時代の2年目に当たり

 ESD(持続可能な開発のための教育)=イーエスディーはまだ言いやすかったのですが,
 
 SDGsはちょっと日本語でイメージが持ちにくい略語になってしまいました。

 昨日の予算委員会の中でもふれられていたので,あれっ?何のことだろう?思った人が多かったかもしれません。

 SDGsは,2000年に採択された国連のMDGs(ミレニアム開発目標)が2015年に終了するのに伴い,昨年=2016年からの開発目標を定めたもので,以下の17の目標が示されています。

 17という数字も覚えるにしてはちょっと多すぎる感じですね。

 日本の立場で言えば,途上国への支援と同時に,国内でも解決・対応すべき問題に取り組むことが求められます。グローバルな視点から,どのような行動・社会貢献ができるのか,教育現場でも教えていく(考えさせていく)ことを安倍総理が名言しました。

 ちょっと重荷になりかねない雰囲気もありますが,実はすでに教育内容に含まれているものもありますし,時流に乗っているものもあり,「心に訴える」ことも容易にできるものばかりなので,通年目標・月間目標などを定めて,「行動の記録」をつくらせていくことも不可能ではありません。

目標1 貧困をなくそう
あらゆる場所のあらゆるかたちの貧困を終わらせる

目標2 飢餓をゼロに
飢餓を終わらせ、栄養を改善し、持続可能な農業をすすめる

目標3 すべての人に健康と福祉を
あらゆる年齢の全ての人の健康な生活を確保し、福祉を推進する

目標4 質の高い教育をみんなに
全ての人への衡平な質の高い教育と生涯学習の機会を提供する

目標5 ジェンダー平等を実現しよう
世界中で女性と少女が力をつけ、ジェンダー平等を実現する

目標6 安全な水とトイレを世界中に
全ての人に持続可能な水の使用と衛生設備(トイレ、下水道など)を保障する

目標7 エネルギーをみんなに そしてクリーンに
全ての人が、安くて安定的に発電してくれる、持続可能なエネルギー(太陽光、風力などの再生可能エネルギー)が使えるようにする

目標8 働きがいも 経済成長も
みんなが参加できる持続可能な経済成長を促進し、全ての人が職をもち、働きがいのある人間らしい仕事ができるようにする
           
目標9 産業と技術革新の基盤をつくろう
災害に強いインフラをつくり、みんなが参加できる持続可能な産業化を進め、新しい技術を生み出しやすくする

目標10 人や国の不平等をなくそう
国内及び国家間の格差と不平等を減少させる

目標11 住み続けられるまちづくりを
まちや人びとが住んでいるところを、だれもが受け入れられ、安全で、災害に強く、持続可能な場所にする

目標12 つくる責任 使う責任
生産と消費のパターンを持続可能なものにすることを促進する

目標13 気候変動に具体的な対策を
気候変動とその影響を軽減するための緊急対策を講じる

目標14 海の豊かさを守ろう
海と海洋資源を守り、持続可能な利用を促進する

目標15 陸の豊かさも守ろう
陸の生態系を保護し、持続可能な利用を促進し、森林の持続可能な管理、砂漠化への対処、土地の劣化、生物多様性の喪失を止める

目標16 平和と公正をすべての人に
平和的で、誰一人のけ者にされない社会と、すべての人が法律に基づいた手続きをとれるようにする。あらゆるレベルで効率的で説明責任ある能力の高い行政を実現する

目標17 パートナーシップで目標を達成しよう
目標達成のために必要な行動を強化し、持続可能な開発に向けて世界の国々が協力する


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「教育」が国の足を引っ張る時代

 これも歴代政権が,「教育」を軽視し続けてきたツケだろうか。

 よりによって,現政権を利用してのし上がろうとした教育関係者が,現政権を潰す爆弾を背負って野党に接近しようとしている。

 野党といっても,今の日本に長期政権が維持できる党は存在しないから,またしばらく前の「年ごとに首相がかわる」時期に戻っていくのだろうか。

 しばらくぶりに,政治が安定するかと思われていた日本だが,他人の足の引っ張る仕事を延々と続けている国会の様子を見ていると,「教育」の失敗はこうやって形になっていくものなのだとつくづく思い知らされる。

 むしろ政権側が,「教育勅語」への関心を高めるための演出として取り組んでいるプロセスの話だとしたら,したたかさも感じるが,現在の歴史教育のレベルでは,「教育勅語」への肯定的な評価を定着させるのは不可能だろう。

 「教育」で足を引っ張られ,「教育」で息の根を止められる国では,「教育」による国の未来像は描きようもない。


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理解するよりも誤解する人が多い教育論

 「アドラー心理学」は,理解する人よりも,誤解する人の方が多いだろう,とアドラー自身が語っているそうです。

 中教審の答申で,「生きる力」というキーワードは何とセットで使われていたか,よく理解している人は,どれくらいいるでしょうか。

 「ゆとり」教育とは,何のために,どんな方法で実現しようとしたか,ご存じでしょうか。

 もしこのことを知っていたら,現在の公立中高一貫校がどれだけ「約束違反」の代物か,理解できるはずです。

 「アクティブ・ラーニング」という,流行になりそうで,なりきれずに消えていこうとしているキーワードがあります。

 今,「アクティブ・ラーニング」という言葉を使い,調子に乗って本を出したり,雑誌で特集をしたりした出版社や著者は,みんなバカにされていますが,どうしてこんなことになったのでしょう。

 指導要領という法令に匹敵するものには,こんな「いかがわしい」言葉が使われないことは,はじめからわかっていたことですが,流行を追うことだけが得意で,中身の理解がほとんどできない人たちが多いのは,何も教育の世界に限った話ではないでしょう。

 「主体的・対話的で深い学び」と言い換えたところで,自分自身がその経験をしたことがない人に,いきなり「そういう原理原則で実践しろ」と言われても,困ってしまうか,どさくさに紛れて,「それっぽい」ことを導入してお茶を濁すかしかありません。

 人は,自分の都合のよいように解釈することが得意です。

 「話し合い」活動を多く取り入れていた教師が,「私は昔からアクティブ・ラーニングを実践していた!」と得意になることくらいは,「可愛い」もの。

 自分にとって都合の悪いことには,耳を貸さない。

 特に,人の「生き方」に関することにふれる教育や心理学は,

 「オレ様の理論」をもつことが優先されやすく,現場の教師などと違って,

 特にそこにしか存在理由がない人たちにとっては,「オレ様の理論」を守ることが死活問題になるわけです。

 実践者が全教員の1000分の1に満たなくても,「全国でこんなに広まっている!」と宣伝しなければならない背景には,こんな事情があります。

 しかし,現場における教育という仕事は,他人の「理論」にかまっている余裕はありません。

 現場の状況というのは,常に流動的です。

 教育について,あり得ない「前提条件」をつきつけられて,目の前の状況に対応できずに苦しんでいる教師には,「被害者」でもあるという面もありますが,事態が収拾できなければ,「指導力不足教員」という烙印を押され,教員としての残りの人生は,その「称号」を背負ったまま,学校をたらい回しにされる運命になります。

 自分の理論を取り入れてくれる教師を「同志」などと呼んで,「敵」を増やし続けている人間が守っているのは,「子どもの未来」や「あるべき教師」ではなく,・・・。

 さまざまな教育論は,きちんと理解され,実践されるとこういう良い効果があります,という宣伝だけではなく,こういう誤解も受けやすく,もしその誤解のもとで実践されると,こういう問題が起こりえます,という注意喚起も必要なのです。

 教師が,教壇に立つ前に,習得してあるはずの「理論」とは何でしょうか。

 教員免許を取得した時点で,習得しているはずの「理論」とは?

 教員採用試験に合格した時点で,習得していると見なされている「理論」とは?

 教育現場では,「理論」をどうこうと批判する以前に,教師になる時点では身についていなければならないはずのことが,大いに欠落しているという致命的な大問題があることを,証明してくれた本があるので驚きました。
 
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「ヘンな人」が「よき人」を駆逐していく

 ヘンな人を邪険にする集団より,ヘンな人を大切にする空気をもった集団の方が,

 人間集団全体としてはうまくいくかもしれません。

 「ヘン」と言ってもレベルはさまざまなで,高い・低いや浅い・深い,広い・狭い,早い・遅いなど,四次元空間の「ヘン」さが存在するので,だれでもどこからしら「ヘン」な部分はあるわけで,

 そういう「違和感」が全部お互いの「敵」になってしまったら,すべての人を排除する方向に流れやすくなってしまうはずです。

 ただ,残念ながら,その逆のことも起こってしまうのが人間集団です。

 「ヘンな人」のために,「よき人」がどんどんやる気をなくしたり,嫌気がさしたり,「こんな場所にいたくない」と思ったりする。

 いじめはしたくない・・・としたら,自分がいなくなるしかない・・・「いじめ防止」とは,「人間からの遠ざかり推進」という面ももってしまっていることが怖いことなのです。

 気がついてみたら,本当に自分勝手な人間しかいなくなってしまった・・・

 そういう学校は,生徒の荒れが遅れてやって来るので,原因がつかみにくいのです。

 子どもの問題は,大人が引き起こしているものが多いことをどこかの機会で実感しておきべくでしょう。


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教育への情熱は,どこに消えたのか?

 教育論・教育問題を語る意味は,どこにあるのでしょうか?

 子どもの教育のために,真剣に語れる教師は今,どのくらいいるでしょう。

 教育への情熱を語りにくい情勢があるのは確かです。

 定時に帰り,個人の時間を大事にすることが大事な人や

 家事や育児のために担任をもっていない人と,

 何時まででも学校に残り,次の日の授業の準備をしている人を比べてしまうことはタブーです。

 部活動の指導の能力も意欲もない人と,

 大学時代まで自分がやってきた種目を子どもに教えている人を比べることもタブーです。

 いかにも楽に指導ができそうな「すぐ役立つ本」ばかり読んで,

 ろくに教材研究をしない人と,

 専門書を自費で買い,教科書や指導書が何を省いてしまっているのかを突き止めようとする人を比べることはタブーです。

 教育現場では,真面目に教育に取り組むための空気感が欠けているところがあります。

 職員室に帰ると「息抜き」しかしないようなおしゃべりな人と,

 生徒の記録ノートや生活ノートにびっしりコメントを書き込む人を比べることもタブーです。

 教育への情熱を感じられない現場教師がいる以上,

 「真面目な人」は生きにくく,いつ足を引っ張られるか,気が気でないのが教育現場です。

 なぜこんな状況になってしまったのかは,教育に関係してきた人たちのブログを拾い読みするだけでよくわかります。

 怨念の渦巻く空気の中で,もし,だれの助けも得られないで困っている人がいたら・・・

 教育長ならどうしますか?


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昭和を生きた「厚かましき」人々

 昭和20年=1945年は,日本にとって,とてもとても大きな区切れ目となった。

 海外からは,「戦後」という時期区分の異常さを指摘する向きもあるようだが,

 それでも「戦後」は「戦後」であろう。

 太宰治の『走れメロス』が発表されたのは,いつのことか,ご存じだろうか。

 中学校の教科書に掲載されているから,あらすじを聞くだけで,内容をすぐに思い浮かべられる人も多いだろう。

 1930年代の後半から1940年代の前半にかけて,

 国民には,「国家への奉仕」が強く要請されていた。

 (『公共』という科目が生まれそうな,これからの社会と似たような時代である)

 こういう情勢下でものを書かなければならなかった時期と,

 戦後の自由で縛りのない社会の中で何でも書ける時期とを比べると,
 
 どちらの方がつらかったのだろうか。

 人間には,縛られること=一定の自由を奪われることで,

 適度な居心地の良さを感じてしまう部分がないだろうか。

 自由に耐えうる力というのは,決して軽いものではないはずである。

 自由に耐えうるたくましさを発揮した人を「厚かましい」と表現すると,

 「厚かましい」生き方をしてきた昭和の人たちが,

 「厚かましい」まま生きられる社会であった方が,

 平和が保たれるのではないか,と思う一方で,

 この「厚かましさ」のせいで,日本から子どもがいなくなるのではないか?

 という心配もある。

 孫の世話ができる段階の世代の人たちは,どれくらいいるのだろう。

 孫世代の面倒を見ようとする人,面倒を見る余裕がある人,その幸せを願える人たちが

 いなくなり,「厚かましい老人」ばかりの国になってしまったら・・・。

 佐藤愛子著『それでもこの世は悪くなかった』(文春新書)への佐藤優のレビューを読んで,頭に思い浮かんだことを書かせてもらった。


 価値観の一変を経験した世代が,この社会に残してくれるものは何だろう。

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他人への要求ばかりが大好きな人たち

 学校では,「モンスター」と呼びたくなるのは,夜中の2時に苦情電話をかけてくるような保護者だけとは限らない。

 どうしてこうも,要求ばかりが好きな人がいるのだろう。

 よくそんな要求を次々に思い浮かべることができるのだろう。

 自分でやればいいのに。

 無理なのはわかっているのに。

 「民主的な話し合いの場」では,様々な要求に対して,ああでもない,こうでもないと始まるが,時間ばかりがいたずらに過ぎていく。

 今の国会と同じである。

 テレビ中継されている国会では,中学校や高校の授業でも紹介できる,もっともましな話は聞けないのだろうか。

 私も,行政にいるときには,とにかく人々の要求を叶えるために活動するのが主な仕事だったように思える。

 あまりに無茶な要求には,どうしてその要求が通らないのかを切々と訴えるのだが,

 全く耳を貸さずに,同じ要求ばかりを同じ論理で繰り返す人たちがいた。

 「公正さ」「公平さ」の基準が異なるので,話がかみ合わない。

 その論理はどこがおかしいかを説明してあげても,同じことを繰り返すだけなので,

 やたらと時間ばかりが過ぎる。

 時間が来ると,大人しく去って行かれる姿を見ると,

 無駄なのはわかっているのに無駄な要求をしないといけない人たちがいる様子がよくわかってくる。

 「少しは自分のメンツは立った」と得意げに帰っていった方の表情は忘れない。

 議員さんたちも似たようなものなのだろう。


 経済の世界での「効率」の話はおそろしいものである。

 経済の世界で生きてきた大統領が,政治を始めている。

 民主主義の政治ほど,「効率」の悪い仕組みはない。

 まだ,人々は,民主主義の原則を捨てようとしていないようだが,

 いずれは,「要求を通してくれる人がすべて」みたいな社会になっていかないか,心配である。

 より「効率」のよい独裁政治を・・・と。

 
 教育現場では,もう少し,自分の頭で考えたり,自分の力で問題を解決したりすることができる子どもを育てたいが,そういうことができない教員も何とかしたい。


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「温水洗浄便座」の国別・県別普及率

 ある記事を読んでいたら,「温水洗浄便座」の普及率が示されていた。

 中国は1%未満だが,日本は79%もあるそうだ。

 私の手元にある資料では,71%とか,64%になっているが。

 韓国は50%,台湾は25%だとか。

 日本人の多くは「ウォシュレット」と呼んでいるのではないかと思われるが,これはTOTOという会社の製品の商品名である。

 発売からもう37年も経っているそうだが,1980年代に使用した記憶はなかった。

 温水洗浄便座の県別普及率が最も低いのは,

 沖縄,高知,長崎,岩手,青森の順となっている。

 なお,トイレットペーパーの使用量が最も多いのは,長崎県。沖縄は4位,高知は9位。

 何か関係があるのか?と思ったが,岩手は46位だった。

 ここから,何が読み取れるだろうか?

 地理の学習の発問である。


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人よりも言葉を愛する人にしないために

 心を育てる教育というのは,重要なのだが,「教える」のは難しい。
 
 うまい具合に「育ってくる」ことを望みたいところである。

 「私は,忘れられた人たちのことを忘れない」

 とてもいい言葉である。今,放映中の池上彰さんの番組で紹介されている。

 だれが語った言葉だろう。

 「忘れられた人々」とは,

 鉄鋼業や自動車産業の不振で工業が「錆びついた地域」=ラストベルトの労働者のことである。

 この言葉によって,「忘れられた」と表現した人々から指示を集めることができたのが新大統領である。

 人は,当然のことだが,人から大切に扱われることを望んでいる。

 たった一つの言葉でも,感動したり満足したりできるのが人間だから,

 人を大切にしていることを示したければ,そういう「言葉」を使うようにする,というのが一つの方法である。

 グローバル化が進む社会では,やはりこういう「言葉」が使えるようになることは大切である。

 ただ・・・。

 日本には,「軽々しい言葉」を「軽率」に語ることを慎む文化がある。

 目の前にいない人への優しい言葉を語ることより,

 目の前にいる人に対する優しい行動をとれることを重視したい。

 教員になろうとする人が,教員に向いているかどうかを判断できるのはだれだろう。

 目の前にいない子どものことをどんな言葉で語ろうとも,

 目の前に子どもがいる場で何もできない人を現場においていても意味はない。

 「人よりも言葉を大事にしようとしている」教育をめざしている人はいないだろうか。


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新学習指導要領でいわゆる「学力」の格差はさらに拡大する

 すでにこんなことはわかりきったことかもしれませんが,新学習指導要領が実施されてしばらくたつと,学力の格差はどんどん広がっていきます。

 好き勝手に席を移動して穴埋めプリントを完成するというレベルの「知識」や「理解」すら生まれる見込みのない授業が増える危惧も一方ではありながら,できる子どもはよりできるようになり,できない子どもはなぜできないのかを自分なりに納得させられるようになるのが,新しい学習指導要領の趣旨です。

 キーワードは「自己責任」。

 学力が低いのは,センセイのせいではありません。

 あなたのせいです。

 なぜなら,あなたには,主体的に学ぼうとする意欲がない。

 対話を重視しながら,問題を解決する努力をしていない。

 活用できる知識をもっていない。

 ・・・センセイ,どうしたらいいの?

 主体的に学びなさい。

 対話を重視して,何人かの友達と一緒に問題の解決をはかりなさい。

 活用できる知識を身につけなさい。

 ・・・どうやって?

 本当に主体性のない子どもだな・・・。

 センセイって,何のためにいるの?

 小学校のセンセイって,英語を教えるようになるんだよね。

 センセイの発音を真似していいんだよね。

 帰国子女だった隣のクラスの担任の先生の授業とかなり違うんだけど・・・。

 「学力」の格差が広がる理由は,子どものせいだけとは限らない。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より