現実的な教育内容や教育方法の議論がなぜ小学校や高校では役に立たないか
小学校の教育内容にいちいち目くじらを立てる人は少ない。きりがないからでもあるし,学力を向上したければ,学校以外に頼れるところがたくさんあるからである。
高校の教育内容にいちいち目くじらを立てる人も少ない。義務教育ではないし,学力が輪切りになっている高校では,Aという進学校で通じる話がEという生活指導困難校では通用しない(逆もある)からでもあるが,一番大きい理由は小学校と同じ。学力面では,高校の教師よりも頼りになる人が外にいくらでもいるからである。
それなりの経済力がある家庭の場合は,学力向上を学校以外の教育産業にまかせることが可能である。
小学校や高校を対象とした教育内容や教育方法の議論は,どれだけなされようが,主たる教材である教科書に寄りかかって学習を進めるような教師がいるうちは,ほとんど意味をもたないことは,大部分の学校が証明してしまっている。
中学校の場合はどうだろう。中学校は中途半端な宙づり状態にある教育現場である。
小学校や高校との最大の違いは,学校の成績が,進学にそれなりに大きな影響を及ぼす点にある。
中学受験や大学受験との非常に大きな違いを高校受験が持っている。
だから,教師や生徒は授業で手を抜くことはできない。教師が気まぐれにアクティブ・ラーニング風の授業をしたら,それに合わせてあげないといけないし,細かい知識ばかり問うような定期考査問題をつくってきたら,しっかり対応しないとよい成績が残せなくなる。
都立高校は学力検査と調査書点(いわゆる内申点)の比率を7:3にしてしまったが,これまでは普通科の大部分が5:5の比率だったのである。
「下級校の学習の成果を踏まえた進学指導」が成立する余地がかつては大きかったし,調査書点と実力の相関関係が怪しくなってきている今でも,中学校の成績がきちんと使われる場になっている。
要は,中学校で通用する教育内容や教育方法の議論がなければ意味がないということと,中学校で通用しない教育内容や方法では意味がないということである。
小学校や高校の実践ばかり集めても,「ああ,そういうことができていいね」と他人事で終わってしまう。
どんな脚色をしても,バレずにすむのが小学校や高校である。
捏造すればたちどころにバレるのが中学校であり,だから実践例が少ないのだろう。
「地理総合」や「歴史総合」がどんな代物になるか,中学校側の目から見ていると,
「大学の先生が中心になって考えると,ろくなことにならない」ことを証明するための実験をしているように見える。
中学校教師の目から見れば,
「これは何とかなる」
「これでは中学校の繰り返しだ」
「それでは小学校よりもレベルが低くなる」
「これは無理だろう」
などと生徒の実態を踏まえた感想がいくらでも出せる。
義務教育でもないし未履修問題のような誤魔化し方ができる教育機関に期待することは実はほとんどないのだが,小中高のつながりを意識させる学習指導要領に変わっていくので,黙ってはいられない。
最近のコメント