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カテゴリー「教員研修」の1000件の記事

現実的な教育内容や教育方法の議論がなぜ小学校や高校では役に立たないか

 小学校の教育内容にいちいち目くじらを立てる人は少ない。きりがないからでもあるし,学力を向上したければ,学校以外に頼れるところがたくさんあるからである。

 高校の教育内容にいちいち目くじらを立てる人も少ない。義務教育ではないし,学力が輪切りになっている高校では,Aという進学校で通じる話がEという生活指導困難校では通用しない(逆もある)からでもあるが,一番大きい理由は小学校と同じ。学力面では,高校の教師よりも頼りになる人が外にいくらでもいるからである。

 それなりの経済力がある家庭の場合は,学力向上を学校以外の教育産業にまかせることが可能である。

 小学校や高校を対象とした教育内容や教育方法の議論は,どれだけなされようが,主たる教材である教科書に寄りかかって学習を進めるような教師がいるうちは,ほとんど意味をもたないことは,大部分の学校が証明してしまっている。

 中学校の場合はどうだろう。中学校は中途半端な宙づり状態にある教育現場である。

 小学校や高校との最大の違いは,学校の成績が,進学にそれなりに大きな影響を及ぼす点にある。

 中学受験や大学受験との非常に大きな違いを高校受験が持っている。

 だから,教師や生徒は授業で手を抜くことはできない。教師が気まぐれにアクティブ・ラーニング風の授業をしたら,それに合わせてあげないといけないし,細かい知識ばかり問うような定期考査問題をつくってきたら,しっかり対応しないとよい成績が残せなくなる。

 都立高校は学力検査と調査書点(いわゆる内申点)の比率を7:3にしてしまったが,これまでは普通科の大部分が5:5の比率だったのである。

 「下級校の学習の成果を踏まえた進学指導」が成立する余地がかつては大きかったし,調査書点と実力の相関関係が怪しくなってきている今でも,中学校の成績がきちんと使われる場になっている。

 要は,中学校で通用する教育内容や教育方法の議論がなければ意味がないということと,中学校で通用しない教育内容や方法では意味がないということである。

 小学校や高校の実践ばかり集めても,「ああ,そういうことができていいね」と他人事で終わってしまう。

 どんな脚色をしても,バレずにすむのが小学校や高校である。

 捏造すればたちどころにバレるのが中学校であり,だから実践例が少ないのだろう。

 「地理総合」や「歴史総合」がどんな代物になるか,中学校側の目から見ていると,

 「大学の先生が中心になって考えると,ろくなことにならない」ことを証明するための実験をしているように見える。

 中学校教師の目から見れば,

 「これは何とかなる」

 「これでは中学校の繰り返しだ」

 「それでは小学校よりもレベルが低くなる」

 「これは無理だろう」

 などと生徒の実態を踏まえた感想がいくらでも出せる。

 義務教育でもないし未履修問題のような誤魔化し方ができる教育機関に期待することは実はほとんどないのだが,小中高のつながりを意識させる学習指導要領に変わっていくので,黙ってはいられない。

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日本の教育に欠けている「適時的で適正な評価」の発想

 日本の中等教育には,学習の評価を適時的に児童生徒に返す習慣というか制度がありません。

 小学校のときは,ノートや作品に必ずコメントが添えられて返却されましたが,「評価」というよりは「励まし」みたいなもので,「よろしい」だけで終わるときもたくさんありました。担任の先生はそれほど暇ではないし,30人の子ども全員にコメントをつけて返すのは難しいのだろうと子どもながらに思っていました。

 中学校の場合は,教科で担当する生徒数は100人を軽く超えるようになりますから,作品やノートにコメントを記していくことはなかなか困難です。

 かつて,私が「四段階の評価」の重要性を雑誌で発表したときに,北海道の中学校の先生に目をつけていただきましたが,制度は変わらないままで,申し訳なく思っています。日本の教育行政には,適時的で適正な評価を行わせようとする気はないのです。

 今日は,アメリカの学校から帰国していた教え子からいろんなことを学び,考えさせられました。

 論文の準備のために相談にやって来たのですが,質問がとてもシャープで,端的に答えられないもどかしさが募りました。アメリカの教育の成果がとてもよく見えた気がしました。

 今までに受けてきた講座,今受けている講座の成績が一覧で分かるようになっているサイトを見せてもらいましたが,素晴しい仕組みだと思いました。レポートの点数も,すぐに反映される仕組みがあり,宿題等はメールで送られることもあるようです。

 こうした適時的な評価をいつでもどこでも見られるような仕組みは,日本にはありません。

 アメリカでも,中には友達に宿題をやってもらう子もいるようですが,バレたらアウトだそうです。

 成績が悪い場合も学校をやめさせられるという厳しい環境は,日本では考えられません。

 教師1人が担当する児童生徒数が非常に多く,教師がただ情報を垂れ流しておけば仕事が成立する日本と比べて,教え子の学校では,教師が的確な評価を適時的にすべての受け持ち生徒に送れるくらい,余裕があるようです。もちろん,質問にはメールでも答えてもらえるそうですし,教師と生徒のつながりも強いようですね。

 日本の教育の良さは,大量生産だから,「安い」こと。それだけだったら哀しすぎます。

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鉄道トラブルと学校教育の劣化の共通点

 ここ10年,教育実習生の資質能力の低下,劣化が順調に?進んでいることを実感している。

 こういう実習生たちのうちの何%かが現場の教師になっていく。

 昔だったら,「教師は現場で育てられる」ことが常識であり,本当に成長させることができたのだが,現場は現場で問題を抱えている。

 その問題とは,トラブルを相次いで発生させている鉄道会社と同じ構造的な問題であることがわかった。

 構造的な問題とは,職員の年齢構成上の問題である。修正不可能な問題である。

 JRでは,民営化された時期に新規採用を抑制した影響で,45~49歳の社員が極端に少なくなっている。

 働き盛りのベテランの人数が少なくなっているのは,学校現場も同じ。

 学校現場では,やる気はないが能力がある人,やる気はあるが能力がない人たちが教育管理職に登用されるようになっており,貴重な前線のベテランが減らされている。

 大学での教育は役に立たないから,OJTが機能しなくなったら,学校は終わりである。

 学校にはもともと,ベテランでも「お荷物」がいて,こちらにとられるエネルギーも大量に要するところに,若い教師たちを育てる労力も大変なものだった。一般企業だったら,窓際に追いやることで現場での実害を防ぐことができるのだろうが,学校ではそれは難しい。ベテランの尻ぬぐいと若い教師の教育の両方を担える人の絶対数が足りない。

 鉄道会社の場合はさしあたって,たとえば新幹線の脱線事故が起こる前に,少なくとも異常を感知したときには安全点検を徹底させるなど,指導を徹底させればよい。職員が異常に気づくこともできない場合は,乗客を頼るしかない。

 学校の場合は,今でもあるのだが,子どもや保護者から教員の問題を訴えることができる場を充実させる必要があるだろう。
 
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ネガティブ・ケイパビリティ~解決困難な問題に正対し続けられる資質能力

 また小難しいカタカナ語が出てきたなと反発される向きもあろうが,

 「ネガティブ・ケイパビリティ」は日本語に訳しにくいことこの上ない。

 しかしこの「能力」を重視せずにはいられない人々がこれから増えていくはずなので,あえて訳さないというのも一つの方法である。どう解釈したらイメージがしやすいか。

 ネガティブはポジティブの反対語だから,「消極的」「否定的」が真っ先に思い浮かぶかもしれないが,

 「プラスとマイナスのマイナスの方」「正と負の負の方」というのがここでは一番ピッタリくる。

 ポジティブ・シンキングを「プラス思考」というのに対し,ネガティブ・シンキングを「マイナス思考」と呼んでいるように。 

 次に,ケイパビリティという言葉だが,

 経営学や防衛産業で使われている「手腕」「能力」「性能」という意味で,

 単語ではアビリティ(これも「能力」)の前に「cap」がついているものである。

 「able」と「capable」という単語の意味はほぼ同じようだが,

 「capable」の方には「受け入れる余地がある」という意味で使える。

 「capacity」(能力,最大限の収容能力,包容力,度量)という単語に

 やや近いイメージだろうか。

 つまり,「ネガティブ・ケイパビリティ」とは私なりに直訳すると

 「負の事象を受け入れる力」が一番イメージに合っている。

 だれがどのような意味で使い始めた言葉なのかというと,帚木蓬生さんの著書によれば,詩人のキーツがシェイクスピアに備わっていた能力だと指摘していたこととして紹介されている。


>どうにも答えの出ない,どうにも対処しようのない事態に耐える能力

>性急に証明や理由を求めずに,不確実さや不思議さ,懐疑の中にいることができる能力

>(詩人がアイデンティティを必死に模索する中で,物事の本質に到達する前の)宙吊り状態を支える力

>不確かさの中で事態や情況を持ちこたえ,不思議さや疑いの中にいる能力

>対象の本質に深く迫る方法であり,相手が人間なら,相手を本当に思いやる共感に至る手立て

>〈問題〉を性急に措定せず,生半可な意味づけや知識でもって,未解決の問題にせっかちに帳尻を合わせず,宙ぶらりんの状態を持ちこたえる(能力)

>(学校教育や職業教育では)問題が生じれば,的確かつ迅速に対処する能力が養成されるが,ネガティブ・ケイパビリティは,その裏返しの能力です。論理を離れた,どのようにも決められない,宙ぶらりんの状態を回避せず,耐え抜く能力です


 キーツが文学・芸術の領域でその有益さを示したネガティブ・ケイパビリティを精神療法の場においても必須の要素だと考えたのがビオンという精神科医,精神分析医であった。


>ネガティブ・ケイパビリティを保持しつつ,治療者と患者との出会いを支え続けることによって,人と人との素朴な,生身の交流が生じるのだとビオンは説きました

>(ビオンは同じく,精神分析医も,患者との間で起こる現象,言葉に対して,同じ能力が養成されると主張したのです。つまり,)不可思議さ,神秘,疑念をそのまま持ち続け,性急な事実や理由を求めないという態度


 ビオンが抱いていたとされる危惧は,そのまま教育者,企業の経営者などにもあてはまることと考えられる。


>精神分析学には膨大な知見と理論の蓄積があります。若い分析家たちはその学習と理論の応用ばかりにかまけて,目の前の患者との生身の対話をおろそかにしがちです。患者の言葉で自分を豊かにするのではなく,精神分析学の知識で患者を診,理論をあてはめて患者を理解しようとするのです。これは本末転倒です。


 日本の文化の事例にあてはめてみると,「道」を究めた人が行き着く「無の境地」というイメージに近いものだろうか。

 物事の本質を見極める上で,山の頂を想像し,「頂点」から展望が周囲に開けた状態,「ものの見方」よりもっと広い視野が持てて,焦点もあちこちに浮遊できる状態から始めるという方法も参考になった。

 帚木さんの著書には,黒井千次氏の「知り過ぎた人」という随筆の一節も紹介されている。


>それにしても,とあらためて考えざるを得なかった。謎や問いには,簡単に答えが与えられぬほうがよいのではないかと。不明のまま抱いていた謎は,それを抱く人の体温によって成長,成熟し,更に豊かな謎へと育っていくのではあるまいか。そして場合によっては,一段と深みを増した謎は,底の浅い答えよりも遙かに貴重なものを内に宿しているような気がしてならない。


 この文章が紹介されている第三章「分かりたがる脳」の最後を,帚木さんは次のように締めくくっている。


>全くそうです。ネガティブ・ケイパビリティは拙速な理解ではなく,謎を謎として興味を抱いたまま,宙ぶらりんの,どうしようもない状態を耐えぬく力です。その先には必ず発展的な深い理解が待ち受けていると確信して,耐えていく持続力を生み出すのです。


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準備体操なしで全力疾走させるような授業はアウト

 小手先の理論や先輩の実践,体験談などに頼っていては,現場で成果を出すことはできない。

 現場で相手に向き合っているのは理論や先輩ではなく,自分なのである。

 だからといって,理論や先輩の実践,体験談を知らないでよい,というわけではない。

 教育現場で起こる様々な現象について,その都度その都度,新しい自分なりの「気づき」が得られるのは,理論や実践記録,体験談を知っているからである。

 こういう話は,教師にとってあてはまるのと同じように,子どもたちにもあてはまる。

 ただ単純に上級生と同じような体験をさせただけでは,

 本当に大切な「気づき」は得られないまま終わることが多い。

 「アクティブ・ラーニングを行う」だけでは意味がないことは,実際にそういう目にあわされた人ならわかるだろう。

 そしてそういう人がこれから非常に増えてくるおそれがある。

 その裏側で,理論なり先輩からの話なりを聞いていた人だけに,成果がついてくる。

 現役引退を決めた巨人の「代走のスペシャリスト」,鈴木選手の記事を日経電子版で読んだ。

 「勝負は準備の中で決まる」

 この言葉を,これからALを実践しようとする現場の教師たちにも読んでほしい。

 「準備」するのは,教師だけではない。子どもにこそ「準備」が必要なのであり,その「準備」を大切にしてきた授業スタイルを捨てると,子どもに待っているのは何なのか,失敗して気づいてからでは遅いのである。

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教師の成長力を奪う力

 教育の世界では昔から,「大学における教員養成の限界」が問題になっている。

 「教育学部の学生の資質能力に課題がある」のは企業だけでなく教育現場も同じことで,

 教育実習に挨拶に来るとき,「教育学部でごめんなさい」とお詫びから入ってくるのが通例になっていることが印象的である。

 私は「教育学部」というところで学生の能力が潰されているのではないかと危惧している教員の1人だが,その根の深さは昔からなので,すぐに改善することは難しいだろう。人間を育てるのは人間なのである。

 
 少子化による学校の小規模化に伴って,適正規模に満たない学校が増え,

 「職場における教員の能力開発の限界」も問題になっており,それだけ余計に

 「現場で使えない若い教師が多くなっている」ことが学校の重荷になっている。


 こういう学校の窮状につけ込んで,教師の成長力を奪う実践が広がっていくことへの懸念もある。

 私は組合には入らなかったが,仮に入ったとしても,組合の体質には絶対に染まらなかっただろうし,

 すぐに抜けていたと思われる。

 今,学校を侵食しているのは,新しいタイプの組合体質を浸透させようとする「革命家」たちである。

 間違いなく,教師の成長力は奪われる。

 教員研修はお遊戯会レベルとなり,「仲良しこよし」が増えるだけだが,

 表向きは,「同僚性が高まった」などと宣伝される。

 浸食率は0.1%にも満たないレベルだろうが,1000校に1校でも子どもたちが犠牲になるのは心が痛む。 

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成長をとめないために

 先日,大学の学生さんたちに私の授業を参観していただいた。

 私が免許講習講習などでお世話になった先生のご依頼を受けて,今年度2度目の参観だった。

 「よい授業とは何か」を考えるのがテーマだったそうで,そんな依頼をよく受けたなと呆れられるかもしれないが,文科省とくだらない本を出している出版社以外からのお願いには全力で応えたいと思っている。今年は経済産業省と厚生労働省の方とのつながりもできて,「違法天下り大量発生官庁」が存在しなくても,教育が成立することが証明できるように頑張りたい。

 授業50分,質疑応答40分だけのかかわりであったが,自分にとって,子どもにとって,学生さんたちにとっての課題を改めて考えることができるので,とても充実した時間になった。以下は,先生からいただいたお言葉への私の返信の内容である。都合により,一部改変してある。

******************

いつも過分なお褒めの言葉をいただきまして,恐縮至極に存じます。

○○大学のプロジェクトでも「○○の教員の卓越した指導力を生かした・・・」
などという研究がありましたが,自分たちのことを「卓越した」などと
思い上がるのもいい加減にしろと感じますし,
「よい授業」を自分の実践を通して語ろうとすることも,
教育者の態度としていかがなものかと思ったりもしています。

私が長年問題に思っていることは,授業をしていて,いつも自分の感覚で
「あっという間に50分が過ぎてしまう」ということです。
生徒とのやりとりに集中しているからそうなるのかもしれませんが,
生徒自身が自分の時間を授業内でしっかり使うことができていない証拠に
なっているのが現状です。
 
「よい授業」として必要な要素を自分なりに整理し,その優先順位を考えて,
その順位に沿った発問,作業時間の確保も含めた時間配分,まとめなどが
できているかを検証していく必要が私自身にもかなりあるかと思います。

40人それぞれが伸ばすべき能力にも違いがあり,1人に対する声かけや
突発的な対話に時間が割かれる傾向が強いのも私の授業の課題に
なっています。

学生の皆さんからの質問に対しては,その学生さん独自の関心や課題意識に
沿った形でお答えする努力をしたつもりですが,お一人お一人の特性や能力に
ついての理解もほとんどない状態ですから,質問から類推するしかなく,
見当違いの方向の答えになってしまったかもしれません。もしそういう方が
いらっしゃいましたら,再度返答の機会を頂戴できればありがたいです。
生徒理解が授業の基本になっていることと同じですね。
 
エネルギーミックスと同じで,「最適解」は必ず何かの犠牲を伴っています。
最も優れた発電方法があれば,100%それにすればいいだけの話です。
 
授業もそれと同じで,何かを重視すれば,必ず何かが犠牲になる。
犠牲を少なくすれば,何も重視していないように見えることもあるし,
重点を絞れば犠牲が大きくなっていく。
「見方・考え方」を働かせる授業に重点をおけば,おそらく学力下位の
子どもたちは犠牲者になります。そうさせないための方法がたとえば
今回お渡ししたワークシートなのですが,まだまだ開発途上です。
 
「時間」という尺度において教育の骨格をなしている授業については,
そういう悩ましい問題があり,「よい授業」にも,「正解」は存在しない。
それでも少しでも「よりよい授業」に取り組もうとする態度を教員が
もっていれば,必ずそういう態度は子どもたちによい影響を与えていく,
と信じて研鑽を積んでいく必要がある,とまとめようとしても・・・・
今の時代,こういう言葉も「逃げ」と受け止められる可能性もあり,
教員養成は難しい時代だとつくづく感じます。

「よい授業とは何か」という種類の問いに真剣に向き合い,
考え抜こうとすればするほど,どんどん「何が正解かがわからなくなっていく」
おそれがありますが,それでもあきらめずに問い続けていける力を授業では
育てたいと考えています。

今回,しっかり自分自身の課題に向き合う機会を与えて下さった
○○先生と学生の皆さんには心から感謝しています。

******************

 わいわい子どもたちが楽しそうに学んでいるように見える「授業」がいかに子どもたちの可能性をつぶしてしまっているかについては,中学校の教育実践がないとわからないかもしれません。

 「エビデンス」を求められて,だれでもできるようなテストの点数を挙げているような人間に,教育を語る資格はないのです。

 大学の先生もおっしゃっていましたが,今回の学生さんたちは,皆さん教育実習を終えた方々だったので,私が言いたいことがとてもよく伝わっていたようでした。 

 自著の営業マンに騙されないよう,注意しましょう。

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大学生に教師のコンピテンシーを育成できるか?

 私がある学会で教師のコンピテンシーについて発表したとき,ある大学の先生から「どうやってこういう能力を育成できるのか」と質問された記憶がある。

 人の能力というのは,大学の先生などという立場では簡単に育成できるものではない,とは当時は言わなかったが,同じようなニュアンスが伝わったせいか,不機嫌そうな表情をしていた。

 コンピテンシーとは,そもそも,仕事で優秀な成績を継続的に残している人がもっている,普段の行動特性のことを指している。

 だから,全員が同じレベルに達することは不可能だが,目指すべきはっきりとした「できる人」のイメージがあるという特徴がある。

 「学生にあなたのコンピテンシーを評価してもらうところから始めてみてはどうか?」という答えも頭をよぎったが,

 「私には教員免許がない」「学校で教えた経験がない」と言われると,たしかに能力の確かめようもない。

 教師というのは,教育現場で自分の仕事をこなしていく中で,少しずつ目標を達成していき,「自分もできる」と実感が得られ,「あなたはできる」と他者評価を受け,「子どもが伸びている」という教育成果が得られた段階で,「身に付けることができた」と言えるものである。

 資質能力というものは,そもそも個人差が大きい。

 大学時代に,授業も大切にしながら,体育会でチームをまとめるのに苦労してきた経験がある人と,

 大学の教室とバイト先を行ったり来たりしていただけの人に同じ期待をかけてはいけない。

 バイト体験があるだけまだましかもしれない。

 本で読んだり講義で耳にした先生の話,他人の話しか知らない人には,想像上の成功イメージしか存在しない。

 バイトの場合は,労働の結果,お金という報酬をもらうためだけに従事するものも多いだろう。

 大学院にまで進んで,意味もよくわからない文章の翻訳を手伝わされ,日本語らしいものにしても,実践的指導力など一切身に付かない。自己保身のための理屈だけは立派なことが言えるようになるかもしれないが。

 大学の体育会では,お金にならないのに先輩にやれと言われたことは何でもして,言われなくてもやるべき努力は自分でして,最後には勝敗というシビアな「結果」が待っている。

 学校現場に入ると,仕事を自ら進んで取り組み,一定の出来映えが見込める若い人には,どんどん新たな仕事が入ってくる。仕事が多くなれば,自然と効率的な仕事の進め方を考えることになる。そして生活指導の案件など,難しいが教師らしい仕事が増えてきて,生徒理解も進む。

 改めて「では大学では何をしたらいいのか」と問われたら,「学生に考えさせろ」と答えたい。あなたにはそれがわからないのだから。

 一番先生っぽいオーラを持っているのは誰なのか。そのオーラとは,何なのか。

 一番受けてみたい授業ができるのは誰なのか。なぜ受けてみたいと思えるのか。

 一番悩みを相談したい,相談できそうな人は誰なのか。それはなぜなのか。実際に相談してみたらどう思ったのか。

 400人を整然と並ばせ,安全な場所に誘導する指示が出せるのは誰なのか。だれもいなければ,その指示とはどうやってすればいいのか。

 数え切れないほどの「確かめてみたいこと」が挙げられるはずである。 

 そして,多くの学生は気づく。

 「それは,教育現場に行かないとわからない。」


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普遍性,汎用性があると誤解する「研究者」たち

 「ある場面」で身に付けた能力が,別の場面でも生かされた,と気づくとき,「ある場面」で能力を身に付けておいてよかったと思う・・・こういう経験ができるのは,ごく狭い世界で生きている人たち・・・わかりやすく言えば,研究だけしていれば,実践をしなくても給料がもらえる人たちに限ったことかもしれません。

 小中学校のレベルだと,子どもたちは,授業で勉強したことが,そのまま試験に出されて「できた」と言える,そんな世界に過ぎません。ただ,研究者たちにとっては,それではつまらない。

 ある人の本や主張を読んで,とても強く感じることになりました。

 昔の研究者には,そういうタイプの人はいなかった。

 おそらく,「そんなことを言えば,みんなにバカにされる」ことがわかっていたからです。

 最近は,「バカにする」人が少なくなってしまったためか,

 あるいは「バカにする」人が大事な会議に呼ばれなくなってしまったためか,

 研究者というより事務方が「バカな主張」を平気で通せる世の中になってしまいました。

 その集大成が新しい学習指導要領です。

 研究させられている学校の授業を見て,一定数の人は悟ることができたはずです。

 「これでは間違いなく失敗するな」と。
 
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小学校の授業を参考にする高校教師

 小学校の授業を参観したいと思う高校の教師がいたとしたら,極めて有望な人材だと思われる。

 大学の教育学部などには,元小学校教師だった先生がけっこうたくさんいる。

 とても立派な指導案や板書計画をつくれる人が多いので,こういう先生に習うと,「実践的」な力がつけられることが期待できる。

 大学の先生の専門性は非常に狭い世界に限ったものだから,一人に多くのことを期待してはならないのだが,教師になろうとする人が最も頼りにできるのは,現場で長く勤め上げた人であろうことは,想像のとおりで間違ってはいない。ただ,大学の先生になれるような小学校の教師は,百校とかに1人いるかいないかくらいの割合だろう。そういう先生のようになれと言われても,そう簡単にはいかないのも当然である。

 経験の浅い高校の教師が授業を参観して最も参考になりやすいのは,小学校であろう。

 題材が簡単だから,すぐに自分なりの別のアプローチが思い浮かぶし,子どもたちは素直だからわかりやすい演技をしてくれる。

 中高との激しすぎるほどの落差を痛感すると,かえって教育困難校の教師にとっては,ハードルが下がった分,どこでつまずいた子どもがどういう辛い目に遭っているのかという共感を持とうとするきっかけにもなる。

 中学生にしろ高校生にしろ,場合によっては大学生にしろ,まるで小学生のように無邪気に課題に取り組んでくれるような教材をいくつか持っていると,今までつまらない授業をしてくれていたセンセイたちに感謝したくなる人が出てくるかもしれない。

 小学生たちが夢中になる授業で心を洗われた後,現実に戻るのはキツイかもしれないが,本当に意味のある「学び」とは何かを考えるための出発点に立つこともできるかもしれない。

 常に初心に帰れる場所を持っておくことは大事である。

 よりよい「原点」は,教師になって何年かしてから見つけ出すことになる人もいるだろう。

 私はまだ「原点」を探しているところであるが,見つけるのは退職してからになるかもしれない。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より