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カテゴリー「教員の評価」の1056件の記事

後悔しない・後悔させないための教育

 子どもたちの「命の守り方」。

 教員研修では絶対に必要な内容の一つである。

 部活動の帰りに体調を崩した子どもの命が失われた事件。

 教師は「息をしている」という理由から、適切な処置をしなかったのではないかと報道されている。

 「死戦期呼吸」という言葉を知らない人は、すぐにでも救命のための講習を受けてほしい。

 AEDは、心臓の状態を判断してくれて、自動的に電気ショックが必要かどうかを教えてくれる機械でもある。

 このことを知らなかった教師は、すぐにでも機能だけは勉強しておいてほしい。

 海や山で今年も多くの命が失われている。

 救えたはずの命が救えずに後悔しないよう、常に学んでいたい。

 死なずにすんだはずの自分の命が失われたら、後悔のしようがない。

 子どもたちにも、後悔をさせないための教育を進めるべきだろう。

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「失敗から立ち直ったつもり」の誤解が最大の失敗

 「失敗から学ぶ」系の本を読んでいて,たまに見つかるのが,

 「失敗に気づいて改善した後に出てきた失敗に気づけていない」ことがわかってしまう話である。

 結局,「点数至上主義」になってしまっている実践ほど痛いものはない。

 もともと「点数至上主義」だったのだから,何も進歩していない,という証拠にもなってしまっている。

 「結果が出てれば,理解されるはずだ」というご都合主義というか,批判回避主義も失敗の原因であるが,

 こういうタイプの失敗原因は,直しようがない。

 「点数がとれれば,成果が出たことになると言える」と思うのは,

 教育の実態がわかっていない,教育行政にいる教育の素人たちだけである。

 すでに教育の世界では,「そういうテストで点数がとれたところで意味がない」ことが常識になっている。

 社会の要請に応えられない教育なのに,意味のない要請をしてきて満足してしまう人間が一部にいることが失敗を生む背景となっている。

 子どもたちが全員そろってお互いのレベルを下げまくっている実践がどういうものか,もう少しだけ実践が有名になってくれば,一般の人たちにもわかってもらえるようになるだろう。

 塾で勉強している子どもたちのおかげで,みんなができる気になったという教育実践は,いずれ,塾の宣伝にしか役に立たなくなっていくだろう。

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女性社会が男性社会に変わることが中1ギャップの最大の原因か?

 中1ギャップを解消するために,さまざまな取組が行われている。

 小中一貫校の設置も,その一つだろうが,中学校1年生をナントカ学園7年生と呼んだところで,中学校の教育課程の学習についていけない生徒がいなくなるわけでもない。

 ギャップを感じにくくなる一方で,「中学生になった」という実感をもちにくいことは,子どもの成長にとってマイナスになってしまう側面が大きすぎる気もする。

 英語教育を小学校から始めるというのも,中1ギャップ解消への改革として期待される面もあるが,

 「英語教育の研修」を終えた小学校教師たちの多くが,「撃沈」して帰ってくるという話を耳にした。

 「私たちが英語を教えていいのだろうか?」という疑問というか「適性の乏しさ」を痛感してしまうというのだ。

 多くの教師に「道徳も同じでしょ」と言いたくもなるところだが,「英語があるから小学校教師にはなれない」という理由で,教師志願者が減っていくことも危惧しなければならない事態が目前に迫っている。

 制度をいじると,必ずと言っていいほど「悪い方向へ」の効果が高まっていく日本の教育界である。

 私は,中1ギャップの原因は,小学校と中学校・高等学校の教育課程,学習指導要領に示された内容にあると考えているが,もう一つ,「文化の違い」が無視できない要素であると確信している。

 小学校と中学校・高等学校の「文化の違い」は,たとえば「学習指導」や「生活指導」に顕著になって表れてくる。

 その点は何度もこのブログで取り上げているが,その他に,小学校=女性社会から,中学校・高等学校=男性社会に変わることが,非常に大きな不適用要素として直撃してしまう子どもがいると感じている。

 下の図は,東京都の中学校の男女別教員数の推移を示している。

 27

 小学校と比べると,男性教員の割合が高い。

 管理職になると,男女比はさらに男性に偏ることになる。

 少し前の記事でも書いたように,「男性」「女性」と区別する時代ではないかもしれないし,経験が10年未満の人が半数以上を占めるような小学校になってくると,今までとはまた異なった文化ができているかもしれない。

 しかし,「戦闘向き」の集団である「男性の群れ」がもつ独特な中学校の生活様式は,小学校には見られにくいのではないか。

 この文化の違いに,敏感に反応する子どもが少なからずいるはずなのである。

 別に,「女性社会」が「戦闘向き」ではない,とは言えないだろうが,子どもにとってどっちが「アットホームな感じがするか」と問われれば,もちろん例外はいくらでもあるだろうが,「男性社会」よりは「女性社会」だろう。女性の育児や家事労働がまだ多い国ならではの感じ方である。

 「中学校に行くと,先生たちはみんな怖いよ」と小学生を脅す教員がいるらしい(私の教え子たちの多くが,みんなこういう脅しを受けていたことを知っている)が,どういう人だろう?

 そもそも,なぜ小学校に女性の教員が多く,中学校では逆になっているのか。

 そこに中1ギャップの原因が潜んでいるかもしれない,という予想から,少し想像してみた。

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男性中心になってしまう教育実践の落とし穴

 ある本には,12人の現場教員の実践に関する内容が紹介されている。

 すべて仮名なのだろうが,12人中,11人が男性である。

 小学校は5人の事例が紹介されているが,女性はこの事例のうちの1人だけである。

 どうして「男性中心」の実践になってしまっているのか,私には何となく理由がわかる。

 この本に書かれた教育の特徴は,現実離れした理想を抱くことが前提とされている。

 「どういう行動をとると得なのか」を子どもにわからせようとする嫌らしい実践でもある。

 女性教員には,肌感覚として,拒否反応が強いだろうことが想像される。

 男性教員が優れているからとか,そういう意味ではない。

 むしろ,逆の意味が真である気がする。

 「二兎を追う者は一兎をも得ず」というが,

 全兎を追ったらどうなるのか?

 「一人も見捨てない」という意思は,基本的にすべての教師がもっているものだが,それを現実的に実践しようとした教師は,結果として多くの子どもを見捨ててしまうことになるジレンマを経験しているはずである。

 津波が襲ってきたときに,「全員を救う」つもりで行動した教師が,逆にほとんどの子どもを犠牲にしてしまった教訓を忘れてはならない。

 今どき,女性教員がどう,男性教員がどう,なんていう時代ではないかもしれないが,女性の割合がかなり高い小学校で実践に加わる人が少ない現状には,それなりの「真理」が隠されているはずである。

 私はそこには絶対に近づけない「オゾマシサ」を強烈に感じている。

 もともと,「テクニックでどうにかする」主義だったそうだ。

 だれから学んだのかも明らかにせず,「オレ様のやり方」をひけらかす連中が増殖している。

 柔道にしろ,合気道にしろ,テクニックは大事かもしれない。

 しかし,相手を尊重する気持ちがない「何とかファースト」は,すぐに見破られてしまうものである。

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若い先生が増えると,子どもや管理職の悩みも増える

 次の図は,東京都の小学校教員数の推移を示している。

27

 男女比はおおよそ1:2であるのが小学校の特徴である。

 学校によっては,男女比が半々くらいのところがあったり,男性教員がごくわずかしかいないところもある。

 小学校の管理職の悩みの一つに,女性教員がご懐妊され,産休に入ることにある。

 日本全体から見れば,とても歓迎すべきことだが,こと人事管理という点や指導の一貫性という観点から言うと,とにかく人を探してこなければならない,しかし,適材がなかなか見つからない,という点で,管理職にとっては非常に頭の痛いところである。学級担任がほとんどすべてを仕切る小学校教育のシステムを変えない限り,この難問の解決は難しい。

 ある地域では,住民(保護者)と学校(行政)との対立の図式を生んだりもする。

 何と,教員がほぼ男性だけで,若い女性がいない,という異常な小学校が存在するのは,教育委員会事務局が住民の要望を受け入れているからである。

 希望しないへき地の学校に赴任すると,異動前は予定はしていなかった妊活に取り組む人がいるというのだ。

 少子化が止まらない日本で,もっと寛容にできないのか,と疑問に思われる方も多いかもしれないが,こと自分の子どもの担任がコロコロ変わり(小学校の6年間で,ほとんど毎年,担任が産休に入っていくという学級もあったらしい),学級が落ち着かなかったり荒れてしまったりいじめが蔓延するようになると,黙っていられなくなり,果ては「産休に入りそうな女性教員を担任にすえた管理職の責任」がクローズアップされてしまう。

 私が知っている管理職にも,この理不尽な責任追及に辟易してしまっている人が少なくない(中学校ですら,そういう責任が問われてくる)。

 いっそのこと,子どもが減って空き教室が増えている小学校内に託児所を設置してしまうという政策もありかと思われるが,「家でゆっくり育児したい」という教員の希望ももちろん重視すべきであろう。

 行政として最も力を入れるべきなのは「自宅研修システム」で,できれば一定の業務も在宅でできるような仕組みをつくるべきではないだろうか。

 育児をしたことがある人はわかるだろうが,自分の子どもの育児は基本的に24時間「営業」である。

 そんなゆとりはない,そもそも育児「休暇」をとっているんだ,という当たり前の声に対して,

 「学校の危機」「子どもの危機」「保護者の危機」を背景に何かしらの手を打たないと,それこそ小学校の学校経営が「成立しない」ほど,苦境に立たされるところが続出するおそれがある。

 同僚間の人間関係がよくない小学校では,さらに関係が悪化し,産休→異動→産休→異動というパターンになりかねない。

  「自分の子どもと,担任をしていた子どもたちと,どっちが大事なの?」なんて質問はもちろん論外だが,教員でなくても,「育児から解放されたい」という欲求がわき起こるときがかならずあることも念頭においておきたい。

 男性教員で産休をとっている人がどれいくらいいるかは,よくわからない。

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「セオリー化」による思考停止がもたらす弊害

 子どもたちを相手とする教育という仕事に「セオリー化」を持ち出すと,どうしても「見捨てしまう人」が出てきます。

 「主体性を重んじたいから,勝手にやらせておく」という方法にも,課題が生じる場合があります。

 複数の人間の話し声がすると,頭が混乱してものを考えられなくなる子どもがいたら,どのようなことに気をつけて授業をしますか? どんな活動ができなくなりますか?

 授業で扱われる内容が決まっている通常の授業というのは,子どもにとって,どうしても「受け身」の学習にならざるを得ません。

 反転学習は,一見すると「主体性を引き出す」ようなものに見えるかもしれませんが,家では強制的に映像などを見させられているので,そこから自分がどんな考えを抱き,学校でそれを発表したとしても,「やらされ感」は払拭できないでしょう。

 プリントを与えられて,さあ,やれ,と指示されるような,「自習」とほぼ同じ学習も,監視がついている以上,家畜と似たような環境になります。

 一斉授業には何が欠けているかを一生懸命に主張している人がいますが,学習というのは,基本的に何が欠けているかを考えるよりも,だれが何をどれだけ習得し,活用できたかを考えるべきでしょう。

 子どもに学習内容の選択の余地があるのは,総合的な学習の時間です。

 教科の授業では,授業をする人が学習上の諸課題を意識しながら,計画を柱にしながら臨機応変に対応していくことが大切です。
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子どもは各授業で,だれに感謝しているのか?

 子どもは各授業で,だれに感謝の気持ちを抱けるような学習活動を行っているのだろうか。

 感謝される対象はだれ?

 わからない問題の解き方を教えてくれた生徒たちか?

 他の教科の宿題をやっていても気づかれないような授業をしてくれた先生か?

 すぐに終わる課題だけを提示してくれて,後は何もしなくてもよい楽な授業をしてくれた先生か?

 塾で問題だけ解いても何の意味も感じなかったのに,そもそもなぜこういう学習をしているのか,学ぶ意義に気づかせてくれた先生か?

 ほんのわずかなつぶやきを,取り上げて話のつなぎにしてくれた先生か?

 集中して考えるべきときに,騒がしい教室を落ち着かせてくれた先生か?

 他の生徒が何を考えているかを知りたいと思ったちょうどいいタイミングで,発表の時間を設けてくれた先生と発表してくれた生徒か?

 あとちょっとでわかるというぎりぎりのところまで,さまざまな角度からのヒントを出し続けてくれた生徒や先生か?

 自分とは異なる考えが,どういう思考経路で導き出されてきたのか,わかりやすく図にして示してくれた先生か?

 自分に対する反論を,しっかりとした根拠をあげながら説明してくれた先生や生徒か?

 教科書や資料集には掲載されていない資料を紹介して,出来事の背景をより深く理解させてくれた先生か?

 ちょっと集中力が散漫になったときに,我に返るような話をしてくれた先生か?

 
 教師は,別に子どもに感謝されることを目的として授業をしているわけではない。

 子どもたちが習得しなければならない知識や技能がある。それらの中には,繰り返し扱うことで何とか定着できるようなものもあるし,しっかりと資料を使って考えることで,応用可能な「使える知識」になるものもある。

 「意味がわかった」「関係がわかった」「使えることがわかった」「意義がわかった」・・・だから,私はこう考える・・・とゴールに近いところに多くの生徒を到達させていくのが教師の仕事である。

 評価が3段階あるのは,それぞれの状態に置かれる子どもがいることが,想定されているからである。

 できれば全員を「B」(おおむね満足)以上の状態にもっていきたい。

 しかし,目標が低くない分,「C」(努力を要する)の状態を脱せない子どもがいるのも事実である。

 本人も自覚している場合がある。

 教師は,このような生徒からは目を離せない。

 「わかる瞬間」を見逃さないようにするために。

 本人が自覚せず,「わかったつもり」になっている場合も多い。

 こういうとき,「気づかせ役」はだれであるべきか。

 生徒にその任務を負わせるのは少々酷だろう。

 「わかっていない」のに,「わかったつもり」になっている生徒に対して,「わかっていないことがわかる」質問なり問題なりを,教師たちは苦労しながら考え,生徒に提示し,反応を観察する習慣を持たなければならない。

 教師はどういう意図でこの時間の自分たちを鍛えようとしてくれたのか,すぐにではなく,後でじわっとわかってくるような授業もしたいものである。

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教師目線でしかない「授業論」を元暴走族が読んだらどう思うか?

 「授業」という枠組みだけで教師の仕事を考えたり話したりすることが許されるのは,採用試験に受かっていない人か,初任者くらいのものでしょう。

 「授業研究」をしている教師たちが本当に楽しみにしているのは,「授業」ではないことを,多くの経験者は知っています。

 教師目線での「授業研究」にしがみついているうちは,子どものことは何もわからないでしょう。

 勉強が好きな子どものことも,嫌いな子どものことも。もちろん,大学のセンセイが「暴走族」のレッテルを貼った少年少女たちのことも。

 教師の立場で「授業」をどう考えるかを語るのは,もちろん無駄なことではありませんし,それを語ってお金をとることも,いけないことではないと思います。

 でも,子どもの立場になってみて,唯我独尊的でわがままな「授業論」を語っている自分を眺めてみたときに,何が子どもの目に映っているのか,想像してみてほしいと思います。

 「おれのせいではない」と言いたいことが,子どもたち全員に伝わっていると思います。

 肌感覚で,「お前じゃだめだ」と子どもの目が言っていることがわかると思います。

 自分勝手に否定している授業が成立していることを,徹底して否定しなければ気がすまないような人間を,子どもは本当の「教師」という立場で見てくれるでしょうか。

 子どもたちを騙すのは,簡単ではありませんよ。

 子どもたちは胡散臭い人間をかぎ分ける最低限の能力を持っていると思います。

 新しい方法にすぐに飛びつきたくなる「軽い」人間たちが,次々に失敗し,

 「失敗しないプロセス」を紹介してくれているのに,それも否定する。

 大前提にしているはずの「お題目」が,本当に白けて見えるのは,だれのせいなのでしょうか。

 コピーに失敗するのは,相手のせいではありません。

 しっかり写し取れないでいること自体は,正常な結果なのです。

 それが今の子どもたちにとっては,大いなる救いになっています。

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正直で無責任な政治家は,好感度を保てる?

 内閣を構成する大臣たちの資質が疑われるとき,首相の任命責任も同時に問われるのだが,今の時代,子どもでも大臣の中には,「官僚の作文を読む人」「官僚のアドバイスがないと話せない人」がいることを,国会中継などを通して見抜いてしまっている。

 「自分にはその力がない」「担当する業務の内容に詳しくない」と自分から表明している人に,だれが期待をかけるのだろう。そもそも,すでに「大臣」に期待をかけるという感覚は日本では失われているのだろうか。

 野党から総攻撃を受けても,さすがに就任後すぐの失言で罷免したとあっては,任命者である首相の立場がない。

 「大臣は飾りに過ぎない」という子どもたちの印象を,どうやったら払拭できるのだろうか。

 今や,「あの大臣は,無知で無責任だけど,正直で好感が持てる」という人もいそうである。

 「嘘をつかない政治家」という姿が,とても新鮮な印象を与えている。

 公的な場では,「言い間違い」ではすまされないことが多々ある。

 だから,「書かれたものをシッカリ読む」ことも大事である。

 ただ,国民の多くは,政治家の「建前」は聞き飽きている。

 もっと「本音の言葉」を聞かせてくれる政治家の出現を待ちわびているのではないか。

 「医療費を削減するために,もっと皆さん,運動して健康な体を作りましょう!」なんていって,

 「運動しすぎて病気になったから,責任取ってくれ」と批判されたらたいへんだ・・・なんて思う人ばかりでは,だれも何も言えなくなってしまう。

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「結果を出すためには何でもする」哀しき学校現場

 全国学力調査の「成績」を上げるために,過去問をたくさん解かせたり,各自治体で似たようなテストを実施することが当たり前になってきたようだ。

 このテストのために,本来行われるべき教育ができなくなっていることはみんなスルーして,とにかく「結果を出す」ためにみんなで邁進している。

 学力面だけではない。

 体力テストの結果が芳しくないから,テストの本実施の時期を少しでも遅らせようとする自治体もあるようだ。

 「体力テスト」の種目の練習をする,という学校まであるらしい。

 結果至上主義は,こういう弊害を学校現場にもたらしている。

 このことの何が問題かがわかっていない人間は教育委員会の事務局にもいないはずだが,

 「数字がすべて」という「宗教」は,行政の世界にもずいぶんと浸透しているようだ。

 すべてが劣化に向かっていく社会で,まともな神経を何とか保って,子どもを成長させてあげることができるのは,やはり現場しかないのだが・・・。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より