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カテゴリー「教員の評価」の1000件の記事

私でなくてもいい,私ではない方がいい

 教員の多くは,ちょっとやそっとのことでは心が折れません。

 いちいち生徒がしでかしてくれることに怒ったり落胆したりしていては,きっとストレスですぐに病休に入ってしまうでしょう。

 ただ,こういう「心の強さ」は,別の角度から見れば「鈍感すぎる」という嫌悪感すら抱かれる「短所」にもなります。

 生徒の表情や心の中を読めず,直接は言われないかもしれませんが「空気が読めない教師」と陰口をたたかれても,そんなことはどうでもいい,自分は自分のやるべきことをやる,なんていう,人間相手の仕事には不向きであるはずの教員がいます。

 一方,最近は,小中学校時代から本当に「真面目」に勉強に取り組んでいたんだろうなあ,と実感するような「良い子」「良い若者」が増えています。こういう「真面目」な人は,自己評価も的確に行おうとします。

 そうすると,ときには,「私ではない方が,子どもたちは幸せなのではないか」と思うこともあるでしょう。

 明らかに指導力が高い教員というのは,多くの人にとって,「ああ,~先生のことかな」と身近にいるから想像がつくものです。

 「~先生だったら,どうするだろう」ならまだよいのですが,「~先生だったら,子どもたちも嬉しいだろうな」なんて思うようになると,子どもの方も気づいてしまうようになります。

 こういうタイプの人は,また,得てして「新しい何か」「評判のよい何か」に飛びつきます。

 そして,「改めての挫折」を経験します。

 こういう「挫折」は,とても大事なものだと思っています。

 子どもやその保護者の側からすると,「ちょうど自分の(子どもの)ときに,ドツボにはまらないでくれ・・・」と思うこともあるでしょうが,子どもは「挫折から次のレベルへのステップを歩み出すプロセス」を目の当たりにすることで,大いに勇気づけられることになるはずです。そして,教員を「挫折から救う」のは,実は自分たち,子どもたち,児童生徒たちであることに気づきます。

 自分たちが挫折し,なかなか立ち上がれないときに,救ってくれるのも子どもたちです。ごくまれに,教員が手を貸してくれることもありますが,もしここで「お互い様」の関係でも生まれたら,卒業しても,貴重な関係は切れずに続くことでしょう。

 「先生でなくてはだめです」なんて,何度言われても嫌な気にはならないでしょう。

 教育の基本は,教えることができる教師と,同じように,教師に教えることができるような子どもたちとの支え合いです。

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ペーパーテストだけで「評価」ができる「教科」はない

 地方の教員養成系の大学のセンセイが,「教科の評価」はペーパーテストで事足りると書いているので,ここで批判・・・ではなく,否定しておく。

 私は観点別学習状況の評価が適正に行われている学校は少数だと認識している。

 なぜなら,観点別学習状況の評価ができるような学習指導が行われていない学校が多いからである。

 だから「ペーパーテストで成績を決めればよい」というものではない。

 評価・評定は目標に準拠したものであり,ペーパーでは測定できない能力があるからだ。

 たとえば,「技能」の評価を「技能」が試される場面なしに行うことはできない。

 自動車教習所で,ペーパーテストだけで免許が取れるようになることはないのと同じである。

 私が2つ目に勤務した学校では,3月で異動した理科の教員は,「実験」をしたことがなかったということだ。

 理由は,「危険だから」。

 私と一緒に4月に異動してきた教員は驚いた。実験器具がない。薬品がない。実験室が『開かずの間』になっていた。

 公立学校には,「この世のものとは思えない学校」が普通に存在する。

 そういう学校をつくる教師を送り出している大学は,どこにあるのかと疑問に思う。

 大学のセンセイが「ペーパーでよい」と指導しているなら,指導要録をまともにつくれる教員は現場に入ってこない。

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子どもの人間関係に対する不感症の影響力

 言語ではなく目線や表情,しぐさだけで相手にシグナルを送るコミュニケーションが発達している日本では,「言語化されたもの」の分析だけでは何も分かったことにはならない。頭の中で考えてはいたが,口に出していないことが山ほどあるのが人間の思考というものである。

 「指示があったか」と言われて,証拠に残る「文字による指示」や「言語による指示」を想定するかもしれないが,じっと見つめられただけで,相手の意図を察することができることを「信頼関係」という。

 実質的には指示されていても,「指示はなかった」と言えてしまうのが日本におけるコミュニケーションなのである。

 だから,「いじめ」の特定・認定も非常に難しい。証拠は何も出てこなかったりする。

 むしろ,「いじめられた」と主張している側の「被害妄想」だと思われてしまう。

 担任教師には,非常に高度な感覚が要求されている。

 「空気を読む」「目を読む」技量が重要である。

 それが,当たっている場合も,当たっていない場合もあるだろう。

 「いじめ」を防ぐためには,当たっていないのではないか,と思われる事例でも,当たっているという前提で動く必要がある。

 「推定無罪」ではなく,「推定有罪」である。

 大事なのは,「いじめている」側に,悪い思いをさせないように留意すべきことを伝え,

 言いたいことがあれば言葉で表現させることである。

 日本では「無言の圧力」ほど恐ろしいものはない。

 教師が「いじめ」を疑っている雰囲気を出すだけで効果がある「初歩的」な場合もあるが,

 「いじめ」はない前提で話を進めているかのように思わせる技量も必要である。

 何も話していなくても,とても神経を使うのが教職という仕事である。

 「鈍感の極み」と子どもに思わせることができる教師が最強なのだが,

 もし本物の「鈍感」「不感症」だったりすると,すべての人に悲劇が訪れる。

 全く神経質には見えないのに,神経を研ぎ澄ます状態が維持できる・・・

 武道を必修にするのは,子どもよりもむしろ教師が取り組んだ方が効果があるかもしれない。

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現実的な教育内容や教育方法の議論がなぜ小学校や高校では役に立たないか

 小学校の教育内容にいちいち目くじらを立てる人は少ない。きりがないからでもあるし,学力を向上したければ,学校以外に頼れるところがたくさんあるからである。

 高校の教育内容にいちいち目くじらを立てる人も少ない。義務教育ではないし,学力が輪切りになっている高校では,Aという進学校で通じる話がEという生活指導困難校では通用しない(逆もある)からでもあるが,一番大きい理由は小学校と同じ。学力面では,高校の教師よりも頼りになる人が外にいくらでもいるからである。

 それなりの経済力がある家庭の場合は,学力向上を学校以外の教育産業にまかせることが可能である。

 小学校や高校を対象とした教育内容や教育方法の議論は,どれだけなされようが,主たる教材である教科書に寄りかかって学習を進めるような教師がいるうちは,ほとんど意味をもたないことは,大部分の学校が証明してしまっている。

 中学校の場合はどうだろう。中学校は中途半端な宙づり状態にある教育現場である。

 小学校や高校との最大の違いは,学校の成績が,進学にそれなりに大きな影響を及ぼす点にある。

 中学受験や大学受験との非常に大きな違いを高校受験が持っている。

 だから,教師や生徒は授業で手を抜くことはできない。教師が気まぐれにアクティブ・ラーニング風の授業をしたら,それに合わせてあげないといけないし,細かい知識ばかり問うような定期考査問題をつくってきたら,しっかり対応しないとよい成績が残せなくなる。

 都立高校は学力検査と調査書点(いわゆる内申点)の比率を7:3にしてしまったが,これまでは普通科の大部分が5:5の比率だったのである。

 「下級校の学習の成果を踏まえた進学指導」が成立する余地がかつては大きかったし,調査書点と実力の相関関係が怪しくなってきている今でも,中学校の成績がきちんと使われる場になっている。

 要は,中学校で通用する教育内容や教育方法の議論がなければ意味がないということと,中学校で通用しない教育内容や方法では意味がないということである。

 小学校や高校の実践ばかり集めても,「ああ,そういうことができていいね」と他人事で終わってしまう。

 どんな脚色をしても,バレずにすむのが小学校や高校である。

 捏造すればたちどころにバレるのが中学校であり,だから実践例が少ないのだろう。

 「地理総合」や「歴史総合」がどんな代物になるか,中学校側の目から見ていると,

 「大学の先生が中心になって考えると,ろくなことにならない」ことを証明するための実験をしているように見える。

 中学校教師の目から見れば,

 「これは何とかなる」

 「これでは中学校の繰り返しだ」

 「それでは小学校よりもレベルが低くなる」

 「これは無理だろう」

 などと生徒の実態を踏まえた感想がいくらでも出せる。

 義務教育でもないし未履修問題のような誤魔化し方ができる教育機関に期待することは実はほとんどないのだが,小中高のつながりを意識させる学習指導要領に変わっていくので,黙ってはいられない。

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自分のダメさを完全に棚上げできる才能の伝授

 資質能力の向上は,そう簡単に望めるものではない。

 能力の面ならまだしも,資質の面をよくしようとするなら,本人が相当「自分」と向き合ってくれないと難しい。

 ただ,あまりに真剣に「自分」と向き合われると,子どもの前に立つ勇気や自信を喪失してしまうことも起こりうる。現在の自分の能力を客観的に評価できてしまうと,「子どもたちに失礼だ」という遠慮の気持ちが起こってしまい,「自分は教師に向いていないのではないか」「教師を辞めるべきではないか」と真面目な人ほど考えてしまう。

 大学では,こういう状況に置かれた自分と事前に向き合っておける場を用意しておいてほしい。

 切実感や臨場感,責任感のない大学という場で何をしても無駄かもしれないが・・・。

 一方で,全く自分に向き合わない教師というのも一定数存在する。

 すべてを他人のせいにする。

 自分のダメさは完全に棚上げできる能力というのは,病気を防ぐための完全無欠のパワーのように見える。

 しかもこの能力は伝染・感染しやすい。感染力も強いウイルスだから,油断できない。

 必死な思いで教育しても良き資質能力が育たない一方で,近くにいて話を聞くだけで,簡単に育ってしまうのが悪しき資質能力である。たとえば「無責任体質」。

 教材研究を不要とする教育方法を考案して,ごく一部の能力しか測定できないテストの点数が上がったことを口実に,少しでも学校にいる時間を短くしようと努力する教師を増やすのは容易なことである。「働き方改革」なる言葉が強力に後押ししてくれる。二重の意味で「時代の最先端」を行っている自分に酔うという「三重苦」をもった若者が増えてくるのだろうか。

 こういう教師のおかげで,仕事が増えてしまっている人たちがいるが,まだ余裕があるかもしれない。

 問題はいつ起きてもおかしくないのが学校現場であるが,どこで発生するか予想しやすい問題については,ゆとりをもって対処できるので,多忙感を抱かずにすむ。

 しかし,多くの教師が「自分棚上げ型の無責任体質」になってしまうと,子どもが引くほどの露骨な非難の応酬が始まってしまう恐れがある。これはこれで,学校を落ち着かせる一時的な手段になるのだが,その先は崩壊が待っている。

 管理職が逃げ出すほどの崩壊状態が起きる危機のある学校が増えていくと,ますます本気の管理職のなり手が減っていき,高給目当てのみの志願者が増えていくだろう。恐ろしい未来像になってしまった。

 一部の教師の無責任体質がもたらす事態をカバーできている現状のバランスを崩しにかかる勢力に,どう対処したらよいのか。

 そういうことを説明するための資質能力を育てるのは,やはり現場しかない。

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脱教職聖職論に飛びつく若者の未来

 教職員組合に所属する教員の中にも,遅い時間まで教材研究や生徒指導に付き合ってくれた人がたくさんいた。

 近くの中華料理店や飲み屋で先輩の先生方と夕食を一緒にとる機会が多かった20代の経験がなければ,今の自分はいなかっただろう,と実感できる。
 
 しかし,「憲法が保障している個人の権利=私の幸福追求権」を頑なに主張し,困っている子どもを置いてさっさと帰宅する人もいた。

 子どもたちが求めているのはどちらのタイプの教師だろうか。

 学校の子どもたちは「一人も見捨てるつもりはない」と言いながら,

 勤務時間を過ぎたら,「俺には家族がいる」と言ってさっさと帰ってしまう教師を見て,

 「ああ,こういう人がいるおかげで,ブラック企業が一掃されて,自分もひどい目に遭わないですむだろう」と希望に目を輝かせる子どもがいるだろうか。

 若い教師たちの中にはいるかもしれない。そういう若者の未来を見てみたい。

 教育現場からの脱落者の言葉を聞いて,現実的な希望を持てる人がいるだろうか。

 たまに現場に介入してくる「外部」の人間の不平不満が現場の教師や子どもたちを幸福にできる世界があれば見てみたい。

 私は家族を大切にする教員を軽蔑しようとは思わない。

 家で原稿を書いたり,家事をやらせたりしている教員も,別に軽蔑はしない。

 ただ,学校に残してきた同僚や子どものことに心を奪われている父親を見た家族は,何をどう感じるのだろうと心配になる。

 一銭ももらえない長時間家事労働に文句を言ってストライキに入る家族がいたりすれば,帰らざるを得ないのかもしれない。 

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鉄道トラブルと学校教育の劣化の共通点

 ここ10年,教育実習生の資質能力の低下,劣化が順調に?進んでいることを実感している。

 こういう実習生たちのうちの何%かが現場の教師になっていく。

 昔だったら,「教師は現場で育てられる」ことが常識であり,本当に成長させることができたのだが,現場は現場で問題を抱えている。

 その問題とは,トラブルを相次いで発生させている鉄道会社と同じ構造的な問題であることがわかった。

 構造的な問題とは,職員の年齢構成上の問題である。修正不可能な問題である。

 JRでは,民営化された時期に新規採用を抑制した影響で,45~49歳の社員が極端に少なくなっている。

 働き盛りのベテランの人数が少なくなっているのは,学校現場も同じ。

 学校現場では,やる気はないが能力がある人,やる気はあるが能力がない人たちが教育管理職に登用されるようになっており,貴重な前線のベテランが減らされている。

 大学での教育は役に立たないから,OJTが機能しなくなったら,学校は終わりである。

 学校にはもともと,ベテランでも「お荷物」がいて,こちらにとられるエネルギーも大量に要するところに,若い教師たちを育てる労力も大変なものだった。一般企業だったら,窓際に追いやることで現場での実害を防ぐことができるのだろうが,学校ではそれは難しい。ベテランの尻ぬぐいと若い教師の教育の両方を担える人の絶対数が足りない。

 鉄道会社の場合はさしあたって,たとえば新幹線の脱線事故が起こる前に,少なくとも異常を感知したときには安全点検を徹底させるなど,指導を徹底させればよい。職員が異常に気づくこともできない場合は,乗客を頼るしかない。

 学校の場合は,今でもあるのだが,子どもや保護者から教員の問題を訴えることができる場を充実させる必要があるだろう。
 
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ネガティブ・ケイパビリティ~解決困難な問題に正対し続けられる資質能力

 また小難しいカタカナ語が出てきたなと反発される向きもあろうが,

 「ネガティブ・ケイパビリティ」は日本語に訳しにくいことこの上ない。

 しかしこの「能力」を重視せずにはいられない人々がこれから増えていくはずなので,あえて訳さないというのも一つの方法である。どう解釈したらイメージがしやすいか。

 ネガティブはポジティブの反対語だから,「消極的」「否定的」が真っ先に思い浮かぶかもしれないが,

 「プラスとマイナスのマイナスの方」「正と負の負の方」というのがここでは一番ピッタリくる。

 ポジティブ・シンキングを「プラス思考」というのに対し,ネガティブ・シンキングを「マイナス思考」と呼んでいるように。 

 次に,ケイパビリティという言葉だが,

 経営学や防衛産業で使われている「手腕」「能力」「性能」という意味で,

 単語ではアビリティ(これも「能力」)の前に「cap」がついているものである。

 「able」と「capable」という単語の意味はほぼ同じようだが,

 「capable」の方には「受け入れる余地がある」という意味で使える。

 「capacity」(能力,最大限の収容能力,包容力,度量)という単語に

 やや近いイメージだろうか。

 つまり,「ネガティブ・ケイパビリティ」とは私なりに直訳すると

 「負の事象を受け入れる力」が一番イメージに合っている。

 だれがどのような意味で使い始めた言葉なのかというと,帚木蓬生さんの著書によれば,詩人のキーツがシェイクスピアに備わっていた能力だと指摘していたこととして紹介されている。


>どうにも答えの出ない,どうにも対処しようのない事態に耐える能力

>性急に証明や理由を求めずに,不確実さや不思議さ,懐疑の中にいることができる能力

>(詩人がアイデンティティを必死に模索する中で,物事の本質に到達する前の)宙吊り状態を支える力

>不確かさの中で事態や情況を持ちこたえ,不思議さや疑いの中にいる能力

>対象の本質に深く迫る方法であり,相手が人間なら,相手を本当に思いやる共感に至る手立て

>〈問題〉を性急に措定せず,生半可な意味づけや知識でもって,未解決の問題にせっかちに帳尻を合わせず,宙ぶらりんの状態を持ちこたえる(能力)

>(学校教育や職業教育では)問題が生じれば,的確かつ迅速に対処する能力が養成されるが,ネガティブ・ケイパビリティは,その裏返しの能力です。論理を離れた,どのようにも決められない,宙ぶらりんの状態を回避せず,耐え抜く能力です


 キーツが文学・芸術の領域でその有益さを示したネガティブ・ケイパビリティを精神療法の場においても必須の要素だと考えたのがビオンという精神科医,精神分析医であった。


>ネガティブ・ケイパビリティを保持しつつ,治療者と患者との出会いを支え続けることによって,人と人との素朴な,生身の交流が生じるのだとビオンは説きました

>(ビオンは同じく,精神分析医も,患者との間で起こる現象,言葉に対して,同じ能力が養成されると主張したのです。つまり,)不可思議さ,神秘,疑念をそのまま持ち続け,性急な事実や理由を求めないという態度


 ビオンが抱いていたとされる危惧は,そのまま教育者,企業の経営者などにもあてはまることと考えられる。


>精神分析学には膨大な知見と理論の蓄積があります。若い分析家たちはその学習と理論の応用ばかりにかまけて,目の前の患者との生身の対話をおろそかにしがちです。患者の言葉で自分を豊かにするのではなく,精神分析学の知識で患者を診,理論をあてはめて患者を理解しようとするのです。これは本末転倒です。


 日本の文化の事例にあてはめてみると,「道」を究めた人が行き着く「無の境地」というイメージに近いものだろうか。

 物事の本質を見極める上で,山の頂を想像し,「頂点」から展望が周囲に開けた状態,「ものの見方」よりもっと広い視野が持てて,焦点もあちこちに浮遊できる状態から始めるという方法も参考になった。

 帚木さんの著書には,黒井千次氏の「知り過ぎた人」という随筆の一節も紹介されている。


>それにしても,とあらためて考えざるを得なかった。謎や問いには,簡単に答えが与えられぬほうがよいのではないかと。不明のまま抱いていた謎は,それを抱く人の体温によって成長,成熟し,更に豊かな謎へと育っていくのではあるまいか。そして場合によっては,一段と深みを増した謎は,底の浅い答えよりも遙かに貴重なものを内に宿しているような気がしてならない。


 この文章が紹介されている第三章「分かりたがる脳」の最後を,帚木さんは次のように締めくくっている。


>全くそうです。ネガティブ・ケイパビリティは拙速な理解ではなく,謎を謎として興味を抱いたまま,宙ぶらりんの,どうしようもない状態を耐えぬく力です。その先には必ず発展的な深い理解が待ち受けていると確信して,耐えていく持続力を生み出すのです。


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「大人になったら教師はいなくなる」は大間違い

 子どもに自己責任の感覚を身に付けさせることは大切である。

 「任されることが嬉しい」子どもがいることで,「さあ,取り組みなさい」という指示が成立する。

 しかし,「一人も見捨てたくない」からこうする,という理屈は,常に「すべてを見限る」ことと表裏一体であることを忘れてはならない。

 子どもが大人になったときに,「教師のような存在はいなくなる」,というのは,ポストがただあくのを待って延々と自分の存在証明だけをしてきた人間には当てはまるが,「過去の人から何かを学び取ろう」という姿勢を忘れない人間にとっては,何歳になっても,「教師」からは切り離されずにすむ。

 「教師」を捨てた人間はもちろん頼もしい存在かもしれないが,

 結局その人間が子どもたちも捨てていたことに気づいてからでは遅い。

 自分も含めて,今までだれもしてこなかった教育に意味づけをしたい人間にとっては,つけ込みやすい対象はいくらでもある。

 「今までいくら努力してもダメだったのだから,こっちの方がましですよ」

 というセールスに騙されてしまった人たちが,騙されていたことに気づいたときには,もうその会社は潰れているかもしれない。

 「今までの努力を諦める」ことを薦める人間たちに警戒感を抱かないのは,どういうタイプの教師たちなのだろう。

 「教師が教えてしまうからダメ」という主張を容易に受け入れられる土壌があるのはどこだろう。

 私は一時期,協同で実践事例を開発した経験があるからよくわかる。

 そもそも知識が乏しい人たちが共通してはまりやすい落とし穴がある。

 安易に「方法を変える」こと自体が,すべての誤りの始まりであることに気づいてからでは遅いのである。

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教師の成長力を奪う力

 教育の世界では昔から,「大学における教員養成の限界」が問題になっている。

 「教育学部の学生の資質能力に課題がある」のは企業だけでなく教育現場も同じことで,

 教育実習に挨拶に来るとき,「教育学部でごめんなさい」とお詫びから入ってくるのが通例になっていることが印象的である。

 私は「教育学部」というところで学生の能力が潰されているのではないかと危惧している教員の1人だが,その根の深さは昔からなので,すぐに改善することは難しいだろう。人間を育てるのは人間なのである。

 
 少子化による学校の小規模化に伴って,適正規模に満たない学校が増え,

 「職場における教員の能力開発の限界」も問題になっており,それだけ余計に

 「現場で使えない若い教師が多くなっている」ことが学校の重荷になっている。


 こういう学校の窮状につけ込んで,教師の成長力を奪う実践が広がっていくことへの懸念もある。

 私は組合には入らなかったが,仮に入ったとしても,組合の体質には絶対に染まらなかっただろうし,

 すぐに抜けていたと思われる。

 今,学校を侵食しているのは,新しいタイプの組合体質を浸透させようとする「革命家」たちである。

 間違いなく,教師の成長力は奪われる。

 教員研修はお遊戯会レベルとなり,「仲良しこよし」が増えるだけだが,

 表向きは,「同僚性が高まった」などと宣伝される。

 浸食率は0.1%にも満たないレベルだろうが,1000校に1校でも子どもたちが犠牲になるのは心が痛む。 

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より