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カテゴリー「ビジネス英語」の24件の記事

カンニングの習慣がつく『学び合い』

 日常的に,友達から答えを教えてもらって理解する習慣がついた子どもは,試験のときに落ち着かなくなります。

 私の学校でも,カンニングと疑われても仕方がない目の動きをする中学校1年生が,最初の定期考査で何人か「摘発」されます。

 さすがに次の定期考査ではそういう生徒は減っていきますが,どうしても「直せない」子どもがいる。

 まわりが気になって気になって仕方がない。

 もしかしたら,勉強とはいつもだれかと一緒にしゃべりながら行うこと,という習慣が染み付いてしまっているのかもしれません。

 小学校(の担任)によっては,カンニングが公認されてしまっていたところもあるらしい。

 無理もないですね。

 大学入試で「携帯電話を持ち込み可にしたらどうだろう」と提案しているセンセイの影響を受けてしまったのがいるようですから。

 さすがに会話は禁止にするとしても,問題を写真で撮影して,頭の良い人に解いてもらい,解答を送信してもらえれば,よい点が狙えてしまいます。

 要は,正解が出せる人とどれだけの人脈をもっているかが評価の分かれ道になる,ということですね。

 学校は寄生虫として生きる道を教える場所ではありません。

 『学び合い』はテストで点数が高くなることが売りのようですが,その理由がよくわかりました。

 「政治闘争」があったり,多くの人から相手にされない理由も。

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続出してくる「反証」になぜ耳を傾けないか

 一部の研究者たちの不正によって,大学や研究機関への信頼も随分低下してきている。

 不正がなくならないのは,企業なら大打撃を受けたり潰れたりするが,

 公的機関にはその心配がないことが原因の一つだろうか。

 研究者側には,「短期的な成果を求める」姿勢のせいだという「言い訳」が頭がよぎっているだろうが,

 まさか「だから虚偽の成果を出しました」とは言えない。

 ある理論を証明することは,簡単である。

 都合のよい数字だけ集めてくればよい。

 しかし,「反証」することも簡単である。

 都合の悪い数字を集めてくればよい。

 自分のやり方が「正しい」か「他の奴よりはまし」と言い続けるためには,

 「反証」に対する「反論」も必要である。

 さすがに,企業同士で足の引っ張り合いをすることはない。

 「CMで見せてるほど,汚れは落ちませんよ」

 「実際に,洗濯機をまわして他者の製品の汚れの落ち方を比較してみましょう」

 などの「比較広告」・・・というより「実証」は「しない」ことになっている。

 教育の世界も,こうした「大人の約束」に従っていてよいのだろうか?


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教科学習におけるなんちゃって「アクティブ・ラーニング」の成功がおぼつかないのは,英語が使えるようにならないことと仕組みは同じ

 中高6年間,授業で英語を学び続けても,3ヶ月語学留学したのと同じくらいの時間にしかならない,と聞いて,あなたなら何を思うでしょうか。

 「家でたくさん予習復習をやっているから,少なくとも2倍はやっているぞ!」

 では,半年の語学留学で,英語が使いこなせるようになると思いますか。

 もちろん,日常会話くらいなら,可能でしょう。

 中高の英語は,日常会話ができるようになることが目標でしょうか。

 違いますね。

 ある程度の語彙が必要なもの・・・たとえば英語の新聞なり,ラジオのニュースなりを読んだり聞いたりして理解できるレベルは求めているでしょう。

 なかなかできるようにはならない。

 単純な理由。それは,難しいからです。

 それなりに高度な認知スキルを必要とするからです。

 英語の発音の場合,舌を動かす技能をマスターするのにも時間がかかります。

 認知スキルを向上させることに重きをおいて教育を実施してきた日本ですら,
 
 まだ足りない,という状況なのです。

 非認知スキルを向上させれば,一見したところのコミュニケーション能力は高そうに見えるかもしれません。

 しかし,「高そうに見える」ことと,「実際に役立っている」こととの間には,また大きな開きがあります。

 非認知スキルは認知スキルを土台としたところで向上させようとしないと,

 「意欲が折れたとき」のダメージは大きいし,

 「取り返しがつかない」ことに気づいたときの絶望感は半端ないものがあるでしょう。


 英語教師がつらいのは,残酷な話ですが,「必要ない」のに学ばせられているという子どもの苦痛感も邪魔しているのです。

 もちろん,必要がある生徒は間違いなくいるでしょう。

 ユニクロに入社して,すぐにシンガポールの店で戦力として働くためには,

 英語で仕事も生活もができなければなりません。

 しかし,外国語としての英語は,いったい何%くらいの日本人に,どれだけの能力が求められているというのでしょうか。

 何%くらいの日本人が,英文の論文を発表するようになるのでしょうか。

 自動翻訳機の精度が向上しても,やはり英語が話せることは必要でしょうか。

 なんて考えると,ますますモチベーションが上がりません。

 
 では,アクティブ・ラーニングのモチベーションといったら何でしょう。

 最初のうちは,ごまかせるかもしれません。

 先生の話を黙って聞いて,ノートをとるだけ「よりはましだから」。

 
 活動自体がおもしろいから。

 ・・・活動あって,学びなしの「発見」から,日本の戦後の教育はスタートしました。

 日本は70年前に逆戻りしようとしているのでしょうか。

 
 教科ごとに,45分とか50分の単位時間というものは,そもそも「効率的」に知識や技能を獲得するためにつくられた人為的な「時間のまとまり」です。

 能動的に子どもが学ぶには,あまりにも「短い」のです。

 教室にいる人数が多い,少ないはあまり関係がありません。

 授業の時間が短いことが,アクティブ・ラーニングには決定的に向かないものなのです。

 ドラマの放映時間やバスケットボールの試合時間くらいならまだしも,

 プロ野球の試合時間が50分に決められたら,本当につまらなくなります。


 週に2~3時間学ぶ教科よりも,毎日2~3時間取り組む部活動の方が,よほど充実しているのは,

 「時間が長くてじっくりアクティブに学べるから」です。

 
 集中して好きなことを調べたり読んだりしていると,3時間くらいあっという間に過ぎてしまします。

 それを学校というところでは実現不可能にしています。

 「能動的に学ぶ」ことよりも,「時間を守る」ことの方が,はるかに優先順位が高いからです。

 
 また何年かを費やして,「教師の指導のもとで」小学生が仕上げていた発表用のパワポよりも質が低いものを大学生が「能動的に」つくって単位がとれてしまう時代が来るのを待つことになるのでしょうか。

 
 アクティブ・ラーニングについては,まずは,教科の学習指導ではなくて,特別活動などで子どもが自治的に動ける環境で使えるものから探ってみてはいかがでしょう。

 修学旅行で3泊4日,追究活動の連続・・・こんな経験ができる学校は少なくないはずです。


 なんて言われると,「うちの学校では,すでに長い間,アクティブ・ラーニングをやり続けている」というところも少なくないでしょう。

 日常的には,上級生が下級生に教えてあげることができることは何でしょう。

 教科の授業には,同年齢の集団で行うというしばりもあるのです。

 学習内容でもいいのですが,学校という場では,だれでもできること,だれもが身につけたいことは,ほかにもたくさんあるでしょう。

 
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当ブログには珍しく,真正直なコメント・・・感謝です!

 久しぶりのコメントにびっくりです。

 きっとご本人様だと思いますが,当ブログで紹介(読書編でも)させていただいた

 北大路書房『子どもの思考が見える21のルーチン』の訳者の方から,翻訳にあたってのご苦労を教えていただきました。

 考えの導入と展開のためのルーチンの1つ,

 「Compass Points」はどう訳したらよいのか。

 もともと,意思決定のプロセスで考慮すべき4つのことがらを,

 東西南北の4つの頭文字と同じになるよう,

 無理矢理あわせているために起こった問題です。

 Excitement (わくわく感)

Worries (不安感)
 
Needs (必要感)

Stance, Steps, or Suggestions (立場・手順・提言)

の頭文字が,「東西南北」の順に並んでくれていれば・・・おしい。南北が逆。

 ただ,このようにやや複雑というかやることが多いルーチンは,

 考え方自体を忘れてしまうのを防ぐ仕組みがほしいので,

 NEWS から始まる単語を考えることで思い出せるメリットが英語を使う人には合っているのです。

 21のルーチンのうち,

 このルーチンはステップが4つ(6つ?)もあるために,内容がわかるようなタイトルにすると長くなるし・・・。

 私自身の実践で使っていた言葉で整理すると,

 メリデメ分析→課題発見→改善策提案 にやや近いのですが・・・。

 訳者解説には,

 説明や解釈をつくり上げる→疑問に思って質問する→根拠をもとに推論する→核心を見抜いて結論を導く

 いう各ステップの思考のタイプが整理されています。

 実際の授業をしていると,

 このルーチンの中に,別のルーチンが入っている,

 「入れ子」構造になっていく場合も少なくないでしょう。

 「考える授業」を中心としたよい授業実践を通して,何とか「考える文化」を構築したいものです。

 教育創造学の中心的なテーマになっていきそうです。


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「もったいない」のは日本人そのものだった?

 「もったいない」・・・ワンガリ・マータイさんが国連での環境に関する演説で紹介してくれた日本語である。
 
 リサイクルというとドイツが有名だが,日本も負けてはいない。

 物に感謝し,大切にする。そして無駄を出さない。

 この言葉は,能力は高いのに実力を発揮できない状態も表すことができる。

 学力の面で言えば,「記述問題に弱い」とされる日本人の力である。

 グローバル社会においては,能力が低い割に,しゃべることはご立派,というのが大事なようだが,日本人はまだそういう人を

 「舌先三寸」

 の人間と見て,軽蔑する傾向がある。

 こうしたブログのように面と向かわない相手を文字で攻撃することは得意でも,

 いざ本人の前に出ると,何も表現できなくなってしまう。

 ビジネスの世界でも,能力は高いのにうまく相手に意図が伝わらないとか,

 そもそも高い能力を発揮したりさらに伸ばしたりする方法がわからない,という悩みがあるようである。

 
 
 こうした「もったいない」人間が多くなってしまう原因は何かと考えると,まず思いつくのが

 日本における「言葉」の授業の在り方である。

 「国語」と「英語」。

 この2つの「言葉」の授業では,だれかが書いた文章から「読み取ること」が中心になっている。

 授業では,書いてあることを読むことや読み取ったことを発表することが中心で,「自分の考え」を述べる機会はほとんどないと言ってよいだろう。

 「言葉」の授業でそのような習慣を6年なり12年にわたって繰り返していれば,「相手のことを理解する」ことしか頭にない人が増えるのは当然である。

 日本人は,「自分の主張をする」前に,まずは「相手のことを理解する」ことが優先する傾向があり,おそらく道徳教育でもそこに重点が置かれているだろう。

 ビジネスの世界では,「自分の考えを相手に伝える」ことが最優先で,場合によっては相手のことを理解したり,相手に理解させることは二の次になっていく。

 そういう世界に生きる人間を育てるのにぴったりした教育をしている国も少なくない。

 もちろんバランス感覚が大事なのは当然だが,バランスを最重視しようとしている国は,どんどん相手の主張を受け入れざるを得なくなり,国益は失われていく方が多くなるだろう。

 それでも「バランス感覚が価値の最上位であり続けるべき」というのなら,そういう意識を相手に持たせるほどの影響力をもつには,どうしたらよいかを考えなければならない。

 グローバル社会のスタンダードは,「影響力」とは「自分の主張が無理にでも通せる力」と同じ意味である。

 パクリで稼ぎながら教育ブログで自画自賛系の発言をする人たちを,嗤っていられる余裕はない。


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自分の立ち位置を柔軟に変えて思考できるかどうか

 語学留学の訪問国を,フィリピンにするか,イギリスにするか。

 同じお金を全部使い切る期間だけ,訪問できるとしたら,どちらを選ぶか。

 それはなぜか。

 理由を確かめると,それは逆の方がよい,と判断できる根拠が見つかることもあるでしょう。

 「学び合い」の価値とは,そのような場合に認められることになります。

 ただ相手の主張を聞くだけ聞いて(聞き流して),「きみはきみ」と突き放すのではなくて,

 「自分の立場だったら,これこれこういう理由でこうだが,改めてあなたはどう考えるか」

 という投げかけができるような人が,教師にはむいています。

 さらに,「あなたの場合は,これこれの理由から,これがいいのではないか」

 とすすめたり,そういう状態に気づかせたりするヒントを与えられるといいですね。

 これから採用試験でも,討論場面を面接官が見ていて,

 「よいよい教師の資質」を見抜こうとする問題が出題されるかもしれません。

 子供の立場だったら,こういう言われ方をするとうれしい,

 というものが思い浮かぶ人にとっては,難しい課題ではないでしょう。

 頭の柔軟性に欠ける印象のある教師がいます。

 年をとるにつれて,「立ち位置を変えて思考する」ことが面倒くさくなるのかもしれません。

 こういう教師は子どもたちの指導も,非常にいい加減・投げやりなものに見えます。

 教師自身が「反・道徳」的教材になっています。

 頭の固い人に,道徳の指導は向きません。

 特別の教科・道徳では,子供による教師の評価が最も有効的かもしれません。


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「イスラム国」の「絶対」を知る

 イスラム・・・イスラームとは,「絶対服従」という意味です。

 何に絶対服従しているから,今のようなことになっているのか。

 読書編で紹介した相澤理著『はじめての哲学・宗教』(大和書房)

 ・・・副題はすごく控えめな表示で・・・・

 「センター倫理でびっくりするくらいよくわかる」です。

 さて,ここで引用されていた,イスラーム教とユダヤ教の共通点と相違点を知る問題は,「一般教養」として大切な情報を私たちに伝えてくれるものだと思い,掲載させてもらうことにしました。

 センター試験というのは,問題自体の選択肢はつまらないのですが,問題を解くうえで示されている資料はおもしろいものが多いのです。

****************

 【クアルーンの十の戒律

  神に並ぶものを配してはならない
  
  両親によくしなさい

  貧乏を恐れて子を殺してはならない

  醜悪なことに近づいてはならない

  理由なく命を奪ってはならない

  孤児の財産に近づいてはならない

  十分に計量し正しく量れ

  発言する際には,公正であれ

  神との約束を果たせ

  神が示した正しい道に従え

 
 【モーセの十戒

  私以外のどんなものも神とするな

  像を造って,ひれ伏してはならない

  神の名をみだりに唱えてはならない

  安息日を心に留め,これを聖とせよ

  父母を敬え

  殺してはならない

  姦淫してはならない

  盗んではならない

  隣人に関して偽証してはならない

  隣人の家をむさぼってはならない

****************
 
 とても似てますね。生活を送っていく上で,私たち日本人からすると,とても不便そうなところも。

 でも,「教育勅語」と同じ内容もある。

 なぜ同じ根っこをもつ人間どうしが殺しあうのか。

 人間ってまったく違いすぎる人より,少し似ていて違う人の方が憎みやすいという性質はないですか?

 グローバル化だ,異文化理解だ,といっている人たちは,

 おとなりの国との将来像をどう描いていらっしゃるのでしょう。

 自分の答えはないのに,それを子どもたちに「自ら」探させようとしているのが,

 「新しい教育」を唱える人たちの行動パターンです。


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タブレット端末の時代は終わり,大型画面のスマホの時代へ

 教育現場でのICT機器の利用については,2~3年スパンの研究が終わると,もう研究中に使っていた機器は古くて使えなくなっている,時代が訪れるだろう。

 今や,高校生のほとんどがスマホを持っている時代である。

 中学生にもすごい勢いで広まっている。

 やがて小学生の多くがスマホをもつ時代になるだろう。

 とすれば,「持ち込み禁止」という原則は難しくなっていき,

 むしろ「授業でも利用してもらいます」という方が,

 学校や教育委員会,教師は費用負担という意味でプラス,

 親には経済的な負担がかかるが,単なる通信費に教育費の意味が加わることになり,

 子どもは学校で堂々とゲームやメールができてしまうという意味で,

 だれもが「得をする」結果になる。

 2020年の東京オリンピックのころには,小中学生もスマホを使って,

 来日した外国人とは音声翻訳ソフトを使って堂々とコミュニケーションをとるなど,

 今まででは見たこともない「国際化」の光景が当たり前になるかもしれない。

 英語の授業は,スマホのアプリを用いた学習が主流になり,

 定期考査などのテストも,アプリで出題し,解答を集め,文章題も教師のパソコン上のエクセルシートで解答が一覧で表示され,キーワード検索などでほぼ自動的に採点ができるようになるなどのシステムも可能になるだろう。

 通話などは耳にとりつける小さな機器があればできるから,「携帯電話は小さい方が便利」という言い方もできなくなっていく。

 iPhone 6の影響で,iPadのWebコンテンツ利用が減少しているというニュースが出たのは昨年のことである。

 実現可能性の低い「タブレット革命」の「先」を見た行動が教育界には必要になっていくだろう。


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英語を何のために学ぶのか

 週刊東洋経済1月15日号では,とても中身の濃い特集が組まれている(『最強の英語力』)。

 ここで登場している人たちは,ビジネスパーソンなら一度は聞いたことがあるエキスパートばかりなのだろう。

 佐藤優の連載では「専門知識を得るには適切な著者を選ぶ」ことの重要性が述べられているから,その有力者が集まっていると考えてよい。

 私が何冊か著書を読ませていただいたのが,日本通訳サービス代表の関谷英里子さんで,『えいごのもと』(NHK出版)の一部がこの雑誌で紹介されている。

 英単語は,一般的にはそのつづりと,よく用いられる日本語の訳語をセットにしては覚えるものだが,「イメージ力」を身に付けることを重視している。

 たとえば,cimmit という単語には,「献身する」「委託する」「決意する」「結婚する」などの訳語があるのだが,この表現のイメージを,「身を投じる」というもので理解する,ということ。

 arrange なら,「整列する」「用意する」「調整する」「アレンジする」などの訳語があるが,「うまくいくように整える」と理解しておく。

 そうすれば,いちいち「適切な訳語を探そうとしてまごまごする」頭の状態を取り除くことができる。

 「英語は英語として理解する」とはよく言われることだが,日本人はすぐに「日本語で言うと何という単語か」にこだわるクセがある。

 他の特集で紹介されているが,商談相手の方に「お座り下さい」というとき,日本人は「Please」をつければ丁寧な言い方になると単純に考えていて,「 Please sit down 」と言ってしまうのだが,これは犬に「お座り」と言っているのと同じニュアンスだったりする。当然,商談など成立しない。

 だから,「どのような単語で」という発想ではなく,「どのような表現で」相手に伝えるのがベストかを考えるようにしなければならない。

 それは,コミュニケーションの基本であり,「単語を並べてどうにかする」という発想ではダメなのである。

>イメージでとらえると,話の内容にとらわれず,相手の話しているフレーズのいちばん言いたい「本質」を的確に受け取れるようになる。人とのコミュニケーションで重要なのは,相手の言葉の意図を正確にくみ取り,自分の言いたいことを相手に届けること。英語のコミュニケーションではそこにイメージを介在させることが大切になる。

 英語を学ぶなら,このような能力を身に付けたいものである。

 お蔵入りにしてよかったと思っているが,

 「自分の言いたいこと」が単なる「相手への侮辱」(「○がおかしい」のような表現で)に過ぎない人間の場合は,言葉を学ぶこと自体が他人にとっての災厄になる気がする。

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英語教育におけるICT機器の利用

 英語の学習ができる無料のアプリをいくつか試したみたが,やはり有料のアプリにはかなわない。

 音声認識もなかなか厳しくチェックされるので,1回でクリアできない文も多い。

 そのあたりは甘くジャパニーズイングリッシュを認めてほしい気もするが,それだけネイティヴと話せる英語を訓練したい人にはもってこいだろう。

 このようなアプリは,小学生にもってこいだと思われる。

 家庭でもどんどん学習を進められる。

 学校では,持ち運ぶとやはりiPadなどは落としたりして液晶画面を破損するおそれもあるので,小規模化して空き教室が増えているところではそれを利用し,英語教室を1つ用意して学べる環境がつくれるといいだろう。

 そもそも持ち運べるように軽量化されているICT機器だが,学校では場所を固定しておいた方が無難である。

 高校生段階では,個人でスマホを保有する生徒も多いので,その利用を許可して進めていくことも可能だろう。

 英語は,コミュニケーションの手段であり,それ自体を学ぶことを教育現場では目標としていない。

 機器と対話するような形で学習が進められる環境は,1人とか2人といった教師と30~40人の子どもが学ぶ日本にはぜひとも手に入れたいものである。

 NHKのプロフェッショナル仕事の流儀に登場していた中学校の英語の先生(今は大学教授になってしまっている)の授業は,中学生というよりも,むしろ小学生向きである。

 ここにICT機器があればもうこわいものはない。

 子どもが各自のペースで英語によるコミュニケーションのスキルを身につけていける環境を,小学校でぜひ導入してほしい。

 絶対にやめてほしいのは,発音が正しくない教師による一斉指導である。

 それは実は,中学校の英語の授業にも言えることでもある。

 ICTの利用は,ぜひとも英語教育の世界でどんどん進めてほしい。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より