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カテゴリー「道徳」の567件の記事

自分への執着<他者への関心

 「自意識過剰」というときの「自意識」の中には,自己愛に基づく「自己満足」が占めているものをすぐに思い浮かべてしまいますが,「自己嫌悪」がほとんどを占めている人もいます。

 自分に自信がある人は行動を示すことで,自己の欲求を満たすことができますが,

 自分に自信がない人は,行動に移せないという悩みをもっているものです。

 アドラー心理学では,後者のタイプの人に,次のようなアドバイスが用意されているそうです。

 無理に自己肯定する必要はない。

 人は,与えられているものを活用していくしかない。

 人にとって大切なのは,何が与えられているかではなく,

 与えられたものをどう活用するかである。

 活用しなければ何にもならないわけだし,

 いきなり「完全」を求めても無理な相談である。

 だから,「肯定的なあきらめ」が必要だ。

 今はできないことがある。それを受け入れろ。

 「自己受容」が第一段階である。

 今与えられているもので,できることをしろ。

 自分に足りないのは能力ではなく,

 今できることをしようとする勇気である。

 ・・・・という話を聞いても,「私にはその勇気がない」という人は多いはず。

 自分のことだけに目を向けていては,進まないのが人間関係です。

 「勇気がわかない」最大の原因は何でしょうか?

 それは,相手が自分を受け入れてくれるかどうか,懐疑的であることです。

 言い換えると,相手を信頼していないのです。

 行動に移せない最大の原因は,「自己嫌悪」ではなく,「他者嫌悪」である可能性もかなりあります。

 悩みは尽きない。

 でも,こういう悩みを抱いているということは,

 他人との「深い」関係を築こうとしている証拠なのかもしれません。

 他人との「深い」関係を築くには,相手を信頼すること,

 相手のために自分の力を尽くすこと,この2つが大きな武器になることは理解できるでしょう。

 自分への執着がなくなったときには,悩んでいたことも忘れてしまっているかもしれません。


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学校現場という「甘えん坊」たちの巣窟

 こんなタイトル,管理職ではない学校の一教員だから書けるものかもしれない。

 学校の教員が,「締め切りに追われる」というのは,どういう場合か想像つくだろうか。

 私は6つくらいの出版社の原稿を抱えて,死にそうになっていたころがあったが,そんな話ではない。

 締め切りを過ぎるのが複数出てくると,本当に寝る時間がなくなる。

 部活の指導をして,授業の準備をした後に原稿を書くと,もう次の日の授業が始まる,なんていう生活になる。

 今でも夢に「締め切りに追われる自分」が出てくるのは困ったものである。

 学校には,準備しなければならない様々な「計画」がある。

 「道徳の年間計画・全体計画」「総合的な学習の・・・」「安全指導の・・・」などなど。

 「各教科の評価規準と評価基準」なども。「計画」の一種である。

 こういう「計画」は,年度当初か,教育課程届けを受理してもらうために,必要なものである。

 これ以外にも,指導主事に任用されて,私は初めて「学校はこんなにたくさん調査書類を提出しているんだ」ということがわかった。

 依頼文書の写しをつくり,教育長名で各学校長に依頼する。

 中には,自分のところに届いた時点で,すでに締め切りがかなり迫ってしまっている調査もあった。

 困るのは現場の教頭である。

 郵送では間に合わないから,FAXで先に送っておき,準備しておいてもらう。

 国→都道府県→区市町村→学校→区市町村→都道府県→国

 というルートで依頼される調査の結果が上がっていく。

 一カ所でも締め切りを守らないと,後に迷惑をかける。

 こういうプレッシャーのかかる経験をすると,

 締め切りを守らない人間は「悪魔」に見えてくる。

 もちろん,すべての教員がこういう「調査もの」にかかわるとは限らない。

 ただ,いつも「締め切り」など守ろうとしない人のところに,
 
 よくその人を知らなかった管理職が書類をまわしてしまうと,大変なことになる。

 「締め切りを守る」とかいうレベルではなく,

 「書類を紛失する」というレベルも存在する。

 「多分この辺に埋もれていると思うんですが・・・」

 真っ青になっている管理職の顔が目に浮かぶ。

 人によっては,書類をなくしておいて,

 「忙しいのに,こんな仕事をふりやがって!」と逆ギレする。

 そんな学校現場を見てきたが,子どもレベルの「甘えん坊」でも生きていける世界だったことを思うと,今では逆に微笑ましくもなる。

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嘘をつかなければならない子どもと大人

 正しいことを主張するときには,相手を傷つけないようにすることに留意すべきである。

 教師を長くやっていると,「正義感」がいかに人を傷つけるかがわかるようになってくる。

 年はとっても,経験が浅い教師は,「信頼感」が失われたことに我を忘れ,たたみかけるように「正しさ」を追い求める愚を犯してしまう。

 なぜその子ども(大人)は,嘘をつかなければならないのか。

 なぜそのような状況に追い込まれているのか。

 教師には,想像力が必要である。

 「正義感」だけで教師は「教育」を行うことはできない。

 お互いに「信頼感」がある関係でこそ,対話が成り立つ。

 「信頼感」と「正義感」が両立しないケースでは,どこまで「教師」であり続けられるかが大事である。

 嘘をつく子ども(大人)は,相手の「疑惑の目」には,非常に敏感に反応する。

 過剰反応は,さらなる「嘘」を重ねるという結果だけでなく,

 相手の悪口をこれでもかと言い続ける醜態を招く恐れもある。

 それは完全なる自己崩壊の始まりであり,自己の矛盾に気づけないレベルに達すると,「教育」ではなく「治療」の対象となってしまう。

 「教育」も広い意味では「治療」なのかもしれないが,教師と子ども,人間と人間は「対話」が続く限り,「治療」も可能になり,何より「自己治療」「自己教育」への望みをつなぐことができる。


 教員採用試験の論文で,「嘘をついている子どもにどのように接するか」という課題が与えられたら,どのように指導の原理や方法,具体的な言葉かけ,評価のあり方を述べていきますか。 


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すぐに嘘がつける子どもの言い逃れの仕方

 嘘をつくことが習慣になっている子どもに1年か2年おきくらいに必ず出会う。

 空気を吸ったりはいたりするのと同じくらい自然に嘘がつける。

 嘘というのは,自分がやったことを「やっていない」と言うだけではなく,

 ほぼ同時に「やっていない」ことをやったと言うことが多い。

 教師である私が直接見ていたその場のことであるにもかかわらず,

 すぐに見破られる嘘がつける子どもとは,どのように育ってきたのか。

 これから,どのような大人になっていくのか。

 大人になった見本が,その子どもの親だった,という経験もある。

 一体全体,家族でどんな「だましあい」をしてきたのだろう。

 こういう人たちの「言い逃れ」の方法は,他者への攻撃に尽きる。

 それも,相当の激しさをもって攻撃してくるので,気の弱いセンセイだと問題の本質を見誤ってしまう。

 そこが狙い目だということを知っておくべきだろう。
 

 時の人となった「K氏」は,すぐにばれる自己の経歴を偽った報告をしていたことがわかっている。

 大学にしろ,就職先にしろ,小学校経験34年(?)にしろ,バレたあとのことを考えずにその場の思いつきで書いてしまう人はいるものだ。

 職員になることを断った人物の名前を名簿に載せていたこともわかっている。

 野党の代表質問に立った人が,「証人喚問での発言は重い」と語っていたが,

 私は偽証罪以上の重い罪を背負う可能性のある人には該当しない指摘だと感じた。

 私の目は別に精密な嘘発見器ではないのだが,

 嘘を平気でつく人の態度は,肌感覚でわかってしまう。

 幼稚園児を本気で「犬臭い」「おぞましい」と罵ることができる神経が,「教育者」にふさわしいものかどうかなど,「街の声」を聞くまでもないだろう。「おぞましい」のはどちらなのか・・・・。

 このK氏そっくりのD氏というのがこのブログ村に生息している。

 「しょうさん」という良識あるブロガーがあまりにひどい記事をたしなめてくださっているが,

 D氏の返答は,「あいつの方がひどい」というのだから,まさにK氏と瓜二つである。

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嘘がつけない人の言い逃れの仕方

 今まで何百人の子どもの生活指導をしてきただろう。
 
 重たい問題でも100人を超えている。

 こういう子どもを相手にし続けていると,嘘をついているかどうか,たいていは見破れるようになってくる。

 中には嘘なのだが真実っぽい話をする子どももいて,逆にバレやすかったりもする。

 問題行動を繰り返す子どもの中には,親の教育のおかげか,本人の性格かはわからないが,嘘がつけない子どももいる。

 こういう子どもの共通点は,「僕はやっていません」とは絶対に言わないことである。

 「やったのはあなたですか」という質問に,「はい」「いいえ」では答えない。

 「だれかの妄想だ」

 「証拠はないはずだ」

 「ぼくがやったと言っているやつは嘘つきだ」

 これですでにバレている。


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「教育」が国の足を引っ張る時代

 これも歴代政権が,「教育」を軽視し続けてきたツケだろうか。

 よりによって,現政権を利用してのし上がろうとした教育関係者が,現政権を潰す爆弾を背負って野党に接近しようとしている。

 野党といっても,今の日本に長期政権が維持できる党は存在しないから,またしばらく前の「年ごとに首相がかわる」時期に戻っていくのだろうか。

 しばらくぶりに,政治が安定するかと思われていた日本だが,他人の足の引っ張る仕事を延々と続けている国会の様子を見ていると,「教育」の失敗はこうやって形になっていくものなのだとつくづく思い知らされる。

 むしろ政権側が,「教育勅語」への関心を高めるための演出として取り組んでいるプロセスの話だとしたら,したたかさも感じるが,現在の歴史教育のレベルでは,「教育勅語」への肯定的な評価を定着させるのは不可能だろう。

 「教育」で足を引っ張られ,「教育」で息の根を止められる国では,「教育」による国の未来像は描きようもない。


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理解するよりも誤解する人が多い教育論

 「アドラー心理学」は,理解する人よりも,誤解する人の方が多いだろう,とアドラー自身が語っているそうです。

 中教審の答申で,「生きる力」というキーワードは何とセットで使われていたか,よく理解している人は,どれくらいいるでしょうか。

 「ゆとり」教育とは,何のために,どんな方法で実現しようとしたか,ご存じでしょうか。

 もしこのことを知っていたら,現在の公立中高一貫校がどれだけ「約束違反」の代物か,理解できるはずです。

 「アクティブ・ラーニング」という,流行になりそうで,なりきれずに消えていこうとしているキーワードがあります。

 今,「アクティブ・ラーニング」という言葉を使い,調子に乗って本を出したり,雑誌で特集をしたりした出版社や著者は,みんなバカにされていますが,どうしてこんなことになったのでしょう。

 指導要領という法令に匹敵するものには,こんな「いかがわしい」言葉が使われないことは,はじめからわかっていたことですが,流行を追うことだけが得意で,中身の理解がほとんどできない人たちが多いのは,何も教育の世界に限った話ではないでしょう。

 「主体的・対話的で深い学び」と言い換えたところで,自分自身がその経験をしたことがない人に,いきなり「そういう原理原則で実践しろ」と言われても,困ってしまうか,どさくさに紛れて,「それっぽい」ことを導入してお茶を濁すかしかありません。

 人は,自分の都合のよいように解釈することが得意です。

 「話し合い」活動を多く取り入れていた教師が,「私は昔からアクティブ・ラーニングを実践していた!」と得意になることくらいは,「可愛い」もの。

 自分にとって都合の悪いことには,耳を貸さない。

 特に,人の「生き方」に関することにふれる教育や心理学は,

 「オレ様の理論」をもつことが優先されやすく,現場の教師などと違って,

 特にそこにしか存在理由がない人たちにとっては,「オレ様の理論」を守ることが死活問題になるわけです。

 実践者が全教員の1000分の1に満たなくても,「全国でこんなに広まっている!」と宣伝しなければならない背景には,こんな事情があります。

 しかし,現場における教育という仕事は,他人の「理論」にかまっている余裕はありません。

 現場の状況というのは,常に流動的です。

 教育について,あり得ない「前提条件」をつきつけられて,目の前の状況に対応できずに苦しんでいる教師には,「被害者」でもあるという面もありますが,事態が収拾できなければ,「指導力不足教員」という烙印を押され,教員としての残りの人生は,その「称号」を背負ったまま,学校をたらい回しにされる運命になります。

 自分の理論を取り入れてくれる教師を「同志」などと呼んで,「敵」を増やし続けている人間が守っているのは,「子どもの未来」や「あるべき教師」ではなく,・・・。

 さまざまな教育論は,きちんと理解され,実践されるとこういう良い効果があります,という宣伝だけではなく,こういう誤解も受けやすく,もしその誤解のもとで実践されると,こういう問題が起こりえます,という注意喚起も必要なのです。

 教師が,教壇に立つ前に,習得してあるはずの「理論」とは何でしょうか。

 教員免許を取得した時点で,習得しているはずの「理論」とは?

 教員採用試験に合格した時点で,習得していると見なされている「理論」とは?

 教育現場では,「理論」をどうこうと批判する以前に,教師になる時点では身についていなければならないはずのことが,大いに欠落しているという致命的な大問題があることを,証明してくれた本があるので驚きました。
 
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注目を浴びたい子どもがすること

 教師になって多くの人が最初に戸惑うのは,あり得ないような問題行動を起こす(繰り返す)子どもへの指導だろう。

 特に,自分の子ども時代にそういう問題を起こす子どもとの接点がなかった人は,「教師」であり続けることが難しくなる。

 あるときはできそこないの「刑事」になり,あるときは「裁判官」になり,そしてあるときは「暴力で動かす」人となる。

 問題行動を起こす子どもに「寄り添う」ことができるようになるには,経験者の声を何時間聞くよりも,自分自身でたくさん経験するしかない。

 「塾の先生」の延長で「学校の先生」の仕事を考えていた人は,自分は「塾の先生」の方が向いているのではないか,と自問してほしい。

 子どもが問題を起こすメカニズムは,本当に多種多様である。

 単純に,「目立ちたい」「人から注目されたい」だけが動機の問題行動もある。

 「規範意識が足りない」から,「規範意識を育ててあげよう」という「指導原理」では,問題行動を根絶できない。

 教師たちにとって基本的な対応策は,予防策でもあるべきである。

 「問題の行動」ではなく,「人から頼られる場面」「人にやさしくできる場面」など,プラスの意味の行動で目立てる環境を整えてあげることが大切である。

 もちろん,そういう場で「注目」されても,それで飽き足らない子どももいる。

 教師から指導を受ける=相手にされることを期待して問題行動を繰り返す子どももいる。

 要は「親代わり」を教師は務めるわけだが,それだけやりがいがある仕事であることがわかっていただけるだろうか。

 社会に出ても,食品ケースに入った写真を公開するなど,注目を浴びることに悦びを感じられる人間が多いが,それは若い人に限ったことではない。

 ブログ村の,教育論・教育問題の「注目記事」を見ていただきたい。

 「下劣」を絵に描いたような「内容のない」記事がアップロードされ,そして注目が集まる。

 注目を浴びたい「子ども」がすることに,ぶろぐ村は寛容なようだ。


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ブログ上での非難と告白

 何度も登場するのでおなじみの話だが,世の中には,怒りを生きがいにしている人がいる。

 とても気の毒なことは何かというと,憤っている相手の描写が,自分自身にぴったり当てはまってしまっていることである。

 漫才なら,綺麗なボケである。

 「それ,お前のことじゃん!」とツッコミを入れたくなってしまう。

 自分以外の机を汚い,汚い,といって非難しているが,だれの目から見てもその人の机の上が最も汚い。

 そういうタイプの人は,職場に1人くらい生息しているのではないか。

 まともに相手にすることはできない。

 自分のことがわかっていない人間とは,議論もなにも成立しない。

 人の話に耳を貸さない(というより,自分がなりすましている「他人」以外,話しかけてくれる人がいない・・・ただ,今は話しかけていますよ)人間というのは,実はこの世で最も「孤独」な人なのだ。

 社会的な動物である人間にとって,最大の敵は「孤独」である。

 だから,自分自身を「敵」にして,相手があることにして非難しまくることで,「孤独」を紛らわさないと生きていけない。

 非難してくれる人がいるということで,「孤独感」は減退する。

 批判する,非難する=相手にしてくれているということだから。

 裸の王様状態のこの人が,変わるきっかけになり得る言葉は,

 「相手は,それほど熱心に非難してあげるほどの価値のある相手ですか?」

 汚い言葉を書いているときが,一番しっくりくる・・・・こんな可哀想な人は,滅多にいない。

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小学校による子どもの違い

 私は中学校の教師だが,小学生6年生を相手に授業をしたことが2度ほどある。

 1つ目の小学校では,中学生より賢いのではないか,と思えるほど輝いていた。

 テンポもよく,何より意欲が非常に高い。活動がとても活発で,無駄がない。

 2つ目の小学校では,全く逆で,時間が非常に遅く流れていく感じだった。
 
 テンポが合わない理由があとでよくわかった。

 いつもすぐに発言するような子どもが,黙っていたのだ。

 答えがわかっているのに黙るわけではなく,わからないから答えられないだけだった。

 いつもと質問の難易度が異なる。

 中学校の教師による授業だから,戸惑うのは当然かもしれない。

 ただ,残念なのは,能力が高い子どもがわかっているのにもかかわらず,

 発言をしなかったことである。

 私は子どものノートを見ながら授業していたので,ある子どもが書き出していた優れた意見を紹介するなどした。

 これは,教室ではタブーだったに違いない。

 能力の高い子どもの答えを先に出してはならない,という暗黙のルールがあったからだろうか。

 後者の学校は,全国から先生方が集まってくる小学校であり,

 前者の学校は,一般的な公立小学校である。

 教育は,学校によって,とても大きく異なっていてよい。

 学級によって,暗黙のルールが異なることもあってよい。

 ただ,「見世物」としての学習を続けていくと,結局のところ,学力はあまり向上しないことが証明されている。

 子どもをそっくり入れ替えてみる,という実践をどこかでやってくれないだろうか。

 授業は,教師の力によって大きく左右するものである,という仮説が証明されるだろう。

 それはいけない,「ハズレ」に当たるのは困る,という声もあるだろうが。

 深い思考に入れない子どもが増えている原因は何だろうか。
 
 この主な原因は,深い思考に入れる子どもが増えていることにあるのかもしれない。

 教育は,格差を拡大するために行われている,という言葉に心当たりがある人は多いのではないだろうか。

 格差を拡大しないようにするための教育をすれば,どうなるか。

 言うまでもないだろう。歴史は繰り返している。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より