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カテゴリー「道徳」の651件の記事

子どもの心が読めない大人の悲劇

 教師の中にも,ごく稀に子ども心が全く読み取れない人がいる。

 子どもにはそれがわかるから,ある人はからかいの対象となり,別の人は「利用する」対象となる。完全にコミュニケーションが取れなくなる場合もある。

 会話をしながら相手の心がつかみ取れる人は,道徳の授業などバカらしくてやってられなくなるかもしれない。

 授業で建前を言い合ったところで,実生活には何の役にも立たないことが「お互い」にわかっているからである。

 公務員や会社員の場合はどうだろう。

 相手の心を読もうとしない大人もいるかもしれない。

 私は指導主事だった3年間で,いろいろなタイプの事務方や管理職と出会うことができたが,こういう人たちからは,あまり「心を読もう」とする意思は感じられなかった。私の方では必死にやっていたのだが。

 一部の管理職は,私の意図を読み間違ったのか,過去に出会った指導主事がそうだったのか,必死に教員の悪口を並べ立ててきた。基本的に授業は成立しているので,そこまでひどいことを言わなくても・・・と聞いていて思ったが,そういう気持ちがちゃんと伝わったのは,2年間くらいおつきあいが続いた後の話だった。

 なぜ口先の言葉だけのコミュニケーションに頼ろうとするのだろう,と不思議だった。

 今回の文科省の件は,「なるほど」と納得せざるを得ない。

 「だからか」と思ってしまう。

 「バレない自信」を育んできた組織の実態を知りたい。

 権力の側にいる人間が,その職権を利用して,自分の子どもの得点に下駄を履かせるなどという行為をチェックできない機関が,大学の評価をまともに行うことができるのだろうか?

 天下りしている先輩と,権力の側にいる後輩が,何をしでかすかをだれが監督できるのか?

 教育行政の上の方にいる人間が,日本の将来を担う子どもたちの信用を裏切る罪は重いぞ。

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「だれにも止められない子ども」をどうするか?

 親にも止められない,学校の教師にも止められない,事故を起こすまで,警察にも止められない,そういう子どもをどうしたらいいのか。

 私の父親は保護司をしていたので,「そういう子ども」たちを私もよく見てきた。

 「どうしてこの子が?」という印象の方が,「なるほどこの子がね」という感じよりも強い。

 大きな問題があって,周囲が騒いだ後は,しばらくの静寂が訪れるが,油断した途端に再び噴火が起こる。この繰り返しのパターンが多い。

 このループを断ち切れるのはだれなのか?

 親は,「教育の専門家」である教師にとりあえずは期待をかける。

 ある担任がダメなら,また次の年に期待をかける。

 今いる教師がダメなら,年度がかわって異動してくる教師に期待をかける。

 やがて,学校そのものを信用しなくなる。

 このループを断ち切れるのはだれなのか?

 学年が違っていたが,無免許運転による事故でよく知っている中学生が亡くなるという経験を私もしている。

 運転していた子は生き残った。今,どういう人生を送っているのだろう。

 報道によって,世の中には,我が子を全くコントロールできない親と,真逆に殺してしまう親ばかりだと誤解してしまう人が少なくないのではないか。これが少子化の原因になっていると言いたいわけではないが。ほとんどの親と子は,多少の喧嘩を乗り越えながら,子は人間として,親は親として,成長していく。その関係を成立させないものは何なのか。

 知り合いの岡山県の先生の嘆きが脳裏にこだまするが,やはり最後の希望は教師しかいないのではないか。

 しかしそういう教師を子どもから引き剥がそうとしているのが世の中の流れである。

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自分で自分を誠実だと言える力は必要か?

 日本の道徳教育には,欧米の常識とバッティングする部分があります。

 「誠実であろう」とする態度や気持ちが大切であることは教えますが,

 「自分は誠実である」と宣言するような姿勢は重視しません。

 そんな態度の子どもを見たら,「言葉を慎みなさい」とか,「態度で示していれば,言葉にしなくてもよい」などという声かけをします。そんなことなら,道徳なんてやる必要はない,という意見も全くその通りなのですが,「不遜な態度」というのを「大人」たちは忌避します。

 「誠実な人間なんて,いない」という前提からスタートするから,道徳教育が存在するのです。

 では,「大人」なら,そういう「不遜」な態度をとってもよいのでしょうか。

 多くの子どもが気づいていると思いますが,「道徳」でナントカしてほしいと願うのは,

 「子ども」ではなく「大人ども」なのです。

 教員の犯罪行為が報道されるたび,「先生たちは何をしているんだ」と憤慨し続けているのは子どもの方なのです。

 自分で自分を誠実だと言う必要があるのは,そんなことを信じてくれない人たちの中で仕事をしている,孤独で哀れな年寄りだけなのです。

 「あなたは誠実ではない」と言われることに耐えられない年寄りには,近くにいる人がしっかりわからせてあげないといけないのです。

 未来がこうなる,とかああなるとか,自分はわかっているんだ,なんてことを偉そうにまき散らす人間は,決して「誠実」な人間とは言えないということを。

 「オレが書いている本を読めばわかる」なんていう人間の,どこが誠実なのか,ということを。

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公開授業で「いじめ」がバレた道徳授業

 ある中学校の公開授業の道徳の授業の導入部分で,「友達を助けた経験」を生徒が発表する場面があった。

 二人の生徒から,「いじめられていた子を助けた」という発表があった。

 そのときの言葉が気になった。

 二人とも,「いじめっていうのではないんですけど」という枕詞を使っていた。

 「いじめ」は「被害者」以外が「いじめ」かどうかを判断するものではない。

 被害者が「いじめを受けている」と言いにくい空気がある学校も多い。

 「セクハラ」などの「ハラスメント」も,同じようなものである。

 道徳の授業では,多くの生徒が「黙っていた方がよい」という空気を醸し出しているが,

 ときどき「空気が読めない」「空気を読まない」生徒の発言で「問題」が浮き上がる。

 こういう生徒の「勇気」が評価される学校がどれだけあるだろうか。

 「正直」が評価される社会がどこにあるだろうか。

 「ウソ」の方が評価される国に生まれた子どもたちは,今の道徳の授業に「ぴったり」なのだろうか。

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子どもたちに多大なストレスをかけている道徳

 ある中学校の公開授業に参加していた。

 廊下が広く,入り口の扉も広かったので,道徳と社会科,国語,英語,数学の授業を参観することができた。

 一番気になったのは道徳である。

 子どもたちの重苦しい雰囲気の原因は,そのテーマだった。

 「寛容」「相互理解」という道徳的価値がテーマだったのだが,子どもたちの表情は固まったままだった。

 道徳授業そのものへの「寛容」や教師との「相互理解」を拒絶したいとするメッセージが感じ取れた。

 おそらくだが,この教師は道徳の公開を「やらされた」のだと思われる。

 何の教科の先生かはわからないが,保健体育科のような雰囲気があった。

 なぜこんな「不幸」な時間を担わされるのか,と子どもも教師も口にできない「不幸」が哀れである。

 道徳の教材の場合,「考えろ」を言われても,その「前提」が明示されていないケースが多い。

 ダメな典型と呼ばれる国語の授業のように,物語の主人公になりきって,と言われても,
 
 日本のように「場の空気」によっていくらでも立場や考え方が変化しうる国では,

 「空気感」に違和感があるだけで,「考える」という脳の回路は停止してしまう。

 このまま毎週毎週,重苦しい時間や雰囲気を耐え続けることで,就職すると経験させられる

 「意味のない会議」に慣れさせる,というねらいがあるのならわからないでもないが,

 子どもは授業でストレスを抱えると,いじめや暴力などの問題行動への歯止めがききにくくなる。

 他の教科を見る限り,「教師によく飼い慣らされている子ども」という印象が強かったが,

 道徳については,「内に秘めた抵抗」が手に取るようにわかった。

 人間は,「不当な支配」に寛容であるべきではない。

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道徳教科書は「いじめ」を正当化する手段になる

 道徳教科書を書いているのは,「どういう人たち」なのだろう。

 これだけは,大学のセンセイや現場の教員に委ねるべきではない。

 学校や子どものことなど何も知らない実社会の大人が書いたものの方が,よほど学習になる。

 「道徳」と「教科書」の二つがいかに相性の良くないものであるかは,

 ネットで話題になっている小2の教材を読めば一目瞭然である。

 日直などの当番や清掃活動などの班活動に熱心でない子どもは,

 「仕事をする楽しさがわかっていない」となじられ,「いじめ」の対象になりかねない。

 道徳教科書は,「いじめ」を「正当化」する手段になり得る。

 道徳教科書の効果測定をぜひどこかの施設で試してほしい。

 学校での「効果」は,悪い予測しか立たない。

 虫酸が走る。

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私が信用しない教師のタイプ

 新学習指導要領に関する本を読んでいると,こんな文章に出くわすことがある。

新学習指導要領では,講義中心から子どもが主体的に学ぶアクティブ・ラーニング型授業への転換が肝になる。

 書き手は,平成元年版,10年版,20年版の学習指導要領を読んだことがない,という人ではないはずであるが,それらのもとでの実践が「講義中心」だったということだ。

 こういうことを書く教師は信用できないし,子どももからも信用されていない事実の根拠にもなる。

 そもそも義務教育で,「講義中心」で授業をして,それが成り立つような環境があるはずもない。

 居眠りや遊びをしながら聞き流せる大教室での授業をしている大学のセンセイと,義務教育の現場の教員では環境が全く異なる。

 少なくとも授業者と子どもとの間でのやりとりがほとんどない「授業」を意味する「講義中心」では,何が成立しないか,本の原稿を頼まれるくらいだから,わかっているはずである。

 確かに,今回の新学習指導要領では,「内容」だけではなくそれを身に付けるための「限定的」な「方法」も示されている。しかし,総則等で従来示されてきた「留意点」もたくさんある。

 ではなぜ「~中心から~へ」という「話法」が使われるのか。発想の源は何か。

 単純な話である。「商業主義」だ。本を売るための「宣伝文句」である。

 英語教育や道徳教育が「商業主義」にまみれているせいで,「公教育」が穢れに満たされてしまっている。

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広告を撤去してほしい大学名

 スポーツマンシップのかけらもないプレーを見せた,某大学のアメフト選手。

 ネットでは「殺人タックル」などと呼ばれ,犯罪的行為として扱われるレベルだと断罪する声もある。

 一方,「上からの指示がなければ,あんなことはしない」という声もある。

 この大学,東京ドームなどテレビ放映される野球場などに大々的な宣伝を打っている。

 吐き気がして大好きな野球も見る気がなくなってしまうので,ぜひもう広告は自粛してほしい。

 ああいうプレーを見て,実は私も率いているチームのメンバーが敵チームに迷惑をかけ,

 申し訳ないというか,もう試合はしない方がよいと考えることが過去に多々あった。

 種目も様々で,わざとではないディフェンスの行為が非常に危険で,大ケガを引き起こさないとも言えないケースがある。特に相手が空中にいる状態で後ろからぶつかるという競技が下手な人間ならではのプレーである。

 スポーツは,自分がケガをしてから本当の理解が始まると言ってもいいかもしれない。

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寝た子を起こす教育

 「寝た子を起こす」とは,せっかく収拾がついたのに蒸し返したりするなどの余計なことをして,再びもめたり問題を起こしたりすることのたとえである。教育の世界では,性教育などを例に,潜んでいる欲望が刺激されてよからぬ行動を引き起こすことのたとえにも使われてる。

 ことわざや慣用句を使い慣れない若い人たちがこの言葉を聞くと,「退屈しない授業」「集中して学べる授業」という意味にとられるかもしれない。

 私の場合は,それらのどれにも当たらない意味での「寝た子を起こす教育」の姿を思い描く。

 子どもたちが使っていない能力を発揮できる教育,といったニュアンスである。

 子どもたちがその資質や能力を遺憾なく発揮できるのは,得意なスポーツや学習をしているときだろう。

 ただ,学校には「できないことをできるようにする」という「使命」が与えられているせいで,最初は「できない」ことが前提の学習が多い。「できない」「わからない」ものは,「先生に教えてもらうしかない」という発想になりがちで,どうしても学校での子どもたちの姿勢は「受け身」になる。

 偉いガクシャさんたちは,この「受け身」の姿勢が問題なんだといって,自分の大学でもアクティブ・ラーニングを進めなければと焦っているはず(そもそも大学で求められた学びを下級校に押しつけるだけの人もいるだろうが)である。しかし,コンテンツ重視からコンピテンシー重視へと姿勢をシフトさせる度胸がなかった文科省(これは「ゆとり」失敗の後遺症)が,「コンピテンシーっぽい香りのする見方・考え方を働かせる主体的,対話的で深い学び」を導入してお茶を濁そうとしたときに,待ったをかけなかった。この罪は決して軽くない。子どもは基本的に「寝かせたままでよい」という発想でしかないから,黙認したのだろう。

 「深い学び」は放棄してしまうことを堂々と宣言する『学び合い』のような,度胸のいる実践ができる人は少ない。

 コンピテンシーとは,そもそもが優秀で好成績を残している人がもつ行動特性のことである。

 主体的で対話的だから優秀になったのではなく,優秀だから主体的で対話的な手法もとり,深い学びもできるのだ。

 100%の子どもに保障できないことを押しつけるカリキュラムがスタンダードとして扱われ,力がつかなくても卒業させるという仕組みには,どう考えても正当な「整合性」がない。

 「なぜ学ぶのか」もしっかり考えさせることができる教育を選択しないことも,大きな罪である。

 子どもたちが使わせられずに眠らされたままになり,やがて腐ってなくなっていく「思考力」とはどのようなタイプのものだろうか。それほど難しい質問ではないはずである。古いタイプの学校を消すために何ができるかを考えている。

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日本語は筆の力が物を言う

 新しい社会人には,「コミュニケーション能力」が強く求められている。ということは,現役の社会人から見て,新人たちには「コミュニケーション能力に欠けている」という認識があるということである。

 学校現場のせいにされるかもしれないが,「ホウレンソウ」は子どもたちにも常に求めているところである。

 クラスであったこと,検討中の行事への取組など,自主的に進めていることのうち,担任やクラス全体で共通認識を持っていた方がよいことは,「帰りの会」で報告したり,連絡したり,相談したりする習慣をつけている。

 口頭で伝えるだけで,メモを取らないと,その内容が残らない。だから学級日誌にホウレンソウの内容はしっかりと記述もさせている。「記録」の習慣も学校教育ではつけさせている。

 ホウレンソウを欠かさず行うというコミュニーション能力も大切かもしれないが,そもそも伝えるべき内容を把握していなければ,コミュニケーションも何もない。

 どう伝えるかよりも,何を伝えるかの方が大事である。

 その「何」に当たることが,学習の場面では,頭の中にではなく,本(教科書や資料集を含む)やインターネットで検索されたもの,教師が配った教材にあるのが学校というところである。

 それらから自分なりにつかみとった内容を,まずは自分の手を使って書く。

 たったこれだけで学力は向上させられるのだが,教師が子どもの言葉を聞きながら黒板に書いてしまったり(黒板に書くと生徒は「写す」だけで終わってしまう),言葉のやりとりだけで終わってしまうから,雄弁なのにテストができない,という子どもが増えてしまう。

 先週末に,雑誌のセミナーに参加し,講演後に御礼を伝えた記者の方が,教員であることがわかる私の名刺をご覧になって,「話すのが上手でなくて」と恐縮されていた。内容に集中していた私には,「伝え方の上手・下手」などは全く関心の外にあった。

 かつて,ある大学の教授が学会の全体会で講演したときは,伝え方のお粗末さに辟易とさせられたが,内容がわかりきったものであることや,そもそも「文字が小さすぎて見えないプレゼン」で話していたから,「わかっている自分だけで満足しているダメな教師」の典型としか見えなかった。

 それに対して,地道な取材に基づいてとても興味深い記事をつくっていらっしゃった記者の方に対しては,敬意しかない。

 日本語は,筆の力が物を言う言語であることを改めて認識すると同時に,「音声言語」である外国語の学習がなぜ苦手なのか,「会話」を重視する外国語の教育がなぜ失敗するのかがよくわかった。

 繰り返しになるが,「話す聞く」ではなく,「読み書き」を重視した小学校の英語教育で成功している地域がある。

 学習指導要領からの逸脱によって,よりよい成果が導かれる場合,教育委員会としては板挟みになるわけだが,良識のある教育長ならむしろ成果がある方をナショナルカリキュラムにすることを提言するだろう。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より