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カテゴリー「道徳」の631件の記事

ネガティブ・ケイパビリティ~解決困難な問題に正対し続けられる資質能力

 また小難しいカタカナ語が出てきたなと反発される向きもあろうが,

 「ネガティブ・ケイパビリティ」は日本語に訳しにくいことこの上ない。

 しかしこの「能力」を重視せずにはいられない人々がこれから増えていくはずなので,あえて訳さないというのも一つの方法である。どう解釈したらイメージがしやすいか。

 ネガティブはポジティブの反対語だから,「消極的」「否定的」が真っ先に思い浮かぶかもしれないが,

 「プラスとマイナスのマイナスの方」「正と負の負の方」というのがここでは一番ピッタリくる。

 ポジティブ・シンキングを「プラス思考」というのに対し,ネガティブ・シンキングを「マイナス思考」と呼んでいるように。 

 次に,ケイパビリティという言葉だが,

 経営学や防衛産業で使われている「手腕」「能力」「性能」という意味で,

 単語ではアビリティ(これも「能力」)の前に「cap」がついているものである。

 「able」と「capable」という単語の意味はほぼ同じようだが,

 「capable」の方には「受け入れる余地がある」という意味で使える。

 「capacity」(能力,最大限の収容能力,包容力,度量)という単語に

 やや近いイメージだろうか。

 つまり,「ネガティブ・ケイパビリティ」とは私なりに直訳すると

 「負の事象を受け入れる力」が一番イメージに合っている。

 だれがどのような意味で使い始めた言葉なのかというと,帚木蓬生さんの著書によれば,詩人のキーツがシェイクスピアに備わっていた能力だと指摘していたこととして紹介されている。


>どうにも答えの出ない,どうにも対処しようのない事態に耐える能力

>性急に証明や理由を求めずに,不確実さや不思議さ,懐疑の中にいることができる能力

>(詩人がアイデンティティを必死に模索する中で,物事の本質に到達する前の)宙吊り状態を支える力

>不確かさの中で事態や情況を持ちこたえ,不思議さや疑いの中にいる能力

>対象の本質に深く迫る方法であり,相手が人間なら,相手を本当に思いやる共感に至る手立て

>〈問題〉を性急に措定せず,生半可な意味づけや知識でもって,未解決の問題にせっかちに帳尻を合わせず,宙ぶらりんの状態を持ちこたえる(能力)

>(学校教育や職業教育では)問題が生じれば,的確かつ迅速に対処する能力が養成されるが,ネガティブ・ケイパビリティは,その裏返しの能力です。論理を離れた,どのようにも決められない,宙ぶらりんの状態を回避せず,耐え抜く能力です


 キーツが文学・芸術の領域でその有益さを示したネガティブ・ケイパビリティを精神療法の場においても必須の要素だと考えたのがビオンという精神科医,精神分析医であった。


>ネガティブ・ケイパビリティを保持しつつ,治療者と患者との出会いを支え続けることによって,人と人との素朴な,生身の交流が生じるのだとビオンは説きました

>(ビオンは同じく,精神分析医も,患者との間で起こる現象,言葉に対して,同じ能力が養成されると主張したのです。つまり,)不可思議さ,神秘,疑念をそのまま持ち続け,性急な事実や理由を求めないという態度


 ビオンが抱いていたとされる危惧は,そのまま教育者,企業の経営者などにもあてはまることと考えられる。


>精神分析学には膨大な知見と理論の蓄積があります。若い分析家たちはその学習と理論の応用ばかりにかまけて,目の前の患者との生身の対話をおろそかにしがちです。患者の言葉で自分を豊かにするのではなく,精神分析学の知識で患者を診,理論をあてはめて患者を理解しようとするのです。これは本末転倒です。


 日本の文化の事例にあてはめてみると,「道」を究めた人が行き着く「無の境地」というイメージに近いものだろうか。

 物事の本質を見極める上で,山の頂を想像し,「頂点」から展望が周囲に開けた状態,「ものの見方」よりもっと広い視野が持てて,焦点もあちこちに浮遊できる状態から始めるという方法も参考になった。

 帚木さんの著書には,黒井千次氏の「知り過ぎた人」という随筆の一節も紹介されている。


>それにしても,とあらためて考えざるを得なかった。謎や問いには,簡単に答えが与えられぬほうがよいのではないかと。不明のまま抱いていた謎は,それを抱く人の体温によって成長,成熟し,更に豊かな謎へと育っていくのではあるまいか。そして場合によっては,一段と深みを増した謎は,底の浅い答えよりも遙かに貴重なものを内に宿しているような気がしてならない。


 この文章が紹介されている第三章「分かりたがる脳」の最後を,帚木さんは次のように締めくくっている。


>全くそうです。ネガティブ・ケイパビリティは拙速な理解ではなく,謎を謎として興味を抱いたまま,宙ぶらりんの,どうしようもない状態を耐えぬく力です。その先には必ず発展的な深い理解が待ち受けていると確信して,耐えていく持続力を生み出すのです。


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LINEのメッセージ「送信取消」機能は「いじめ」の証拠隠しを可能にするか

 小さな「村」の中のたわいもない諍いが,

 つながっている外の世界に容易に拡散され,

 面白がられる時代になっている。

 仲間であって仲間でない子,仲間でないのに仲間になる子,

 そのときそのときの雰囲気に同調したり反発したりする子,

 カメレオンのように立場を変える子どもたち。

 一瞬だけ,悪口や誹謗中傷を送信し,すぐに取り消して,

 気づかれるか気づかれずにすむかのスリルを楽しむ子どもたちの姿が

 目に浮かぶ。

 学校では一言も会話をかわさない生徒同士だと,教師としては

 「全くつながりがない」と勘違いしてしまう。その子どもたちが,

 一緒になって別の子どもを「効率的に」いじめている場合,

 気づくことが遅れ,対応も後手にまわりやすい。

 もともと悪用がいくらでも可能な道具に,

 善意のための機能が加えられることで,さらに悪用しやすくなる,

 世の中こんなことばかりの繰り返しである。

 いじめられる子どもはよりいじめられやすく,

 いじめる子はよりいじめやすくなる世の中にあって,

 教師の仕事は困難を極めている。

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「いじめ=32万件」はまだまだ少ない数字だろう

 自らの命を絶つ人をできるだけ減らしたい。小中学生は特に。

 社会で注目されやすいのは,「いじめ」が原因とされる子どもの自殺である。

 社会や学校,家庭でも,「いじめ」に対する関心はますます高まっていると言えるだろう。
 
 文科省が「いじめ」に該当するトラブルの定義を拡大していることもあって,

 2016年のいじめ認知件数が前年比43.8%増となった。

 言葉の定義を途中で変えると,統計から変化や推移を読み取ることができなくなっていくが,それはそれで一向にかまわない。

 どうせ全部を報告している暇がないのだから。

 さて,道徳の教科化のせいで,ますますいじめが増えていく,と予測している教育学者はどのくらいいるだろうか? 

 子どもの目を見ない教師が,子どもが何を学んだのかわからないのは当然である。
 

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「怒鳴り殺し」の生活指導

 ある大学の教育学部の先生も,学生を怒鳴ることがある,と耳にしたが,いずれ

 「怒鳴る」=「大きな声で叱責する」ことの禁止令が出されるかもしれない。

 私は耳障りな大声で話す,ある大学のセンセイが大嫌いだが,自分は怒鳴ることがなかったかと言われると,そんなことはない。

 ただ,怒鳴る相手とタイミングを間違えることはないようにしていた。

 ある時期から,友達が怒鳴られることに耐えられないような子どもが増えてきて,使いどころに困るようになっている。

 そもそも大きな声を聞いたことがない子どもには,衝撃が強すぎるようだ。

 家でも学校でも怒鳴り声に慣れてきた身としては,まるで別世界の子どもたちに別の形で愛情を示す必要に迫られている状態である。

 強い叱責によって子どもが精神的に追い詰められてしまうことがあることは,教師ならだれでもわかっていることだろう。

 小学校の職員室で私が担任の先生に怒鳴られているときは,私の無実をだれも証明してくれず,助けてもくれなかったが,自分が中学校の教員になると,いろんな人が進んでフォロー役にまわってきてくれるものだということがよくわかった。それで調子に乗って生徒を厳しく叱ることもあった。もちろん,自分がフォロー役にまわることもある。

 福井で起こったことは,当然,他の地域でも起こりうるが,フォローがなされない,あるいは機能しない原因をはっきりさせてほしい。

 これも「学力向上圧力」が生み出した悲劇ではなかろうか。

 もともともっていなかった可能性もあるが,教師から大切なものを奪うことに関して,行政は非常に積極的である。

 中学生の悲しすぎる死を無駄にしてはならない。

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中学校1年生でよく起こる思考停止状態

 対人関係で何かの被害にあった人が,加害者を責めるのは当然のことですが,

 被害にあったきっかけが,被害者自身にある場合には,加害者を責めるだけで終わらせてはいけないことはわかるでしょうか。

 学校では,Aという子どもがBという子どもの悪口を言い,BがAに殴りかかって怪我をさせる,ということが起こりえます。

 Aの怪我は,AがBに悪口を言わなければ防ぐことができたものでした。

 しかし,Aという子どもがBに悪口を言ったことを反省できないことがよくあります。

 なぜならば「私は被害者なのだから」という一種の思考停止状態です。

 A・Bという空間上の対立軸しか頭になくて,どういう経緯でそうなったのかという「時間軸」での思考が働かない状態です。

 起こったことを順を追って説明することができないのは,どんな教育が欠けているからでしょうか?

 中学校1年生(小学校7年生)によく起こる生活指導事案です。

 なぜか,中学校2年生になると,時系列で語ることは可能になります。

 発達段階によるものなのか,生まれて初めて,通史としての「歴史」を中学校で習うからか?

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9月27日 100年違い

 日本では,今から100年前の9月27日に,初めて女性が自動車の運転免許を取得したらしい。

 9月27日は女性ドライバーの日とされている。

 サウジアラビアでは,26日に国王が女性の自動車の運転を認めるよう法改正する指示を出したようだ。

 女性の地位向上に力を入れるようになった背景は何だろう。

 原油価格の低迷が今後数年続けば,財政状況が大変なことになるのがわかっているらしい。その危機感の影響だろうか。

 勇気ある女性の訴えが功を奏したのだろうか。

 小学6年生も学ぶ友好国に,とてつもない差別があったことを,このニュースで初めて知った人も多いだろう。

 第一次世界大戦中に,社会進出にともなって女性の地位が向上した国は多い。

 その後,100年を経て,行政のトップに女性が選ばれる日がいよいよ来るのだろうか。

 ある番組のインタビューの最後で,「インシャラー」と口にしたその発音がなぜか耳に残っている。

 野党の再編がわずかな期間で急速に進みそうである。

 「風」だけを読んで「人気者」にあやかろうとする怪しげな人たちがうようよしているのも気になるが,

 「何でもあり」の方がむしろ,国民の政治への関心が高まるかもしれない。

 もし違う人が「インシャラー」と言ったら,どんな反応が集まっただろう。

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道徳教育をまともにやると,教員の立場がなくなる

 道徳教育は,手を抜いてやった方がよい,というのは教員としての経験則である。

 もし私が道徳教育を真剣にやったら,いくつか好ましくない問題が発生する。

 子どもたちは,「大人(教員)こそが道徳的でない」ことをよく知っている。

 差別はいけない,と言っている大人(教員)は,平気で差別をしているではないか。

 「~のくせに」という言葉は,差別意識の表れである。

 「子どものくせに」「中学生のくせに」「成績が悪いくせに」「よく遅刻するくせに」「忘れ物をよくするくせに」「授業中,寝ているくせに」などといった感情を,子どもはとても敏感に教員から読み取っている。

 子どもたちができていないことの大部分は,大人(教員)自身もできていない。

 自分よりも道徳的な課題を抱えているのは,「~~先生」だな,というのがわかってしまう。

 最も効果的な道徳教育は,子どもが教師の立場になり,教師たちが子どもの座席に座って「餌食」になることだろう。

 「あなたにとっての崇高な理想とは何ですか?」

 大人(教員)として,どういう答えを先生(子ども)にお返しすることができるだろう。

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真っ赤な甲子園球場

 広島が2年連続でリーグ優勝を甲子園球場で決めた。

 練習量で他球団をしのぐとされる若手中心の広島には,3連覇,4連覇の可能性もあると考えられる。

 絶対的なエースが退団しても,強さに変わりはなかった。

 中心選手が怪我で離脱しても,むしろチームは強くなっていった。

 敵地での胴上げだからやや控えめな感じの選手たちを,3塁側からレフトスタンドを埋め尽くしたファンは大喜びで見つめていた。

 阪神ファンからは,ライトスタンドや1塁側に広島のユニフォームを着て座っている「勘違いファン」に憤りを感じている,とか,球場近くの電車では,敵のユニフォームを脱ぐのが礼儀だ,という指摘もあるようだが,観戦中は敵同士でも,勝負がついた後は相手への敬意を忘れない,というスポーツマンシップを大切にしていただきたい。

 多くのプロ野球選手にとって,甲子園球場は特別な場所である。

 本拠地とはまた別の嬉しさがあると思われる。

 クライマックスシリーズをまた楽しみに待っていたい。

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9月15日 老人を働かせるための法律がある?

 「敬老の日」が設定された起源を知ることは,農業を知ることや,聖徳太子(厩戸王)の功績を知ることにもつながる。

 ハッピーマンデー制度の導入で,「敬老の日」が固定されなくなることへの反対意見もあったらしい。

 だから,9月15日が「老人の日」とされたのだが,「老人」というナマの言葉は,定義が65歳以上であるために感覚的に受け入れにくいなどの問題がある一方で,学校が休みにならない日が多くなるので,道徳教育のテーマとして授業で扱えるようになったという利点もある。

 ただ,「そんな歳なのに,現役で頑張っていることが素晴らしい」などといった,将来の年金政策の改定を視野に入れた「策略」も使いやすくなったという危惧もある。

 農閑期に疲れを癒し,労働に感謝するといった意味で,「勤労感謝の日」を増やすという構想をもつことは難しいだろうか。

 年に何回か,「勤労感謝の日」が来る。休日にするのではなくて,たとえば「パート労働者に関する日」は,特別ボーナスを支給する。

 パート労働者は,「休み」が増えてしまうと,単純に収入が減ってしまうわけだから,何でもかんでも「休日」にすればよい,というわけではない。

 勤め人が休みのときは,逆にパート労働者が休めない,という問題もある。

 祝日に仕事を休ませて,まとめてお金を使わせるという発想ではなく,普段からいつでも買い物ができるような政策の方が実利的ではないか。

 老人福祉法では,第3条に注目したい。

 老人が「働く機会」を得て,仕事をしながら収入をもらって感謝する,という時代が来るのだろうか・・・。

 ********************

第2条  
 老人は,多年にわたり社会の進展に寄与してきた者として,かつ,豊富な知識と経験を有する者として敬愛されるとともに,生きがいを持てる健全で安らかな生活を保障されるものとする。

第3条  老人は,老齢に伴つて生ずる心身の変化を自覚して,常に心身の健康を保持し,又は,その知識と経験を活用して,社会的活動に参加するように努めるものとする。
 2  老人は,その希望と能力とに応じ,適当な仕事に従事する機会その他社会的活動に参加する機会を与えられるものとする。

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9月13日 世界法の日に考える「法の支配」

 「深い学びなど必要ない」と主張している大学のセンセイに習った人たちは,教員採用試験ではちゃんと「建前」を述べて,得点を稼ぐのだろうか。それとも,大学の「学び」を生かして,試験官に喧嘩を売るのだろうか。

 教育現場で「法の支配」という言葉を使うと,すぐに「よくないこと」というイメージを連想する教師が少なくないだろう。

 社会科の公民的分野や政治経済で学んだはずの「法の支配」という概念は,

 学校現場で惰性にまかせて教師を続けていると,いつの間にか生徒たちにとっての「校則による支配」などと同じようなレベルのものに変換されてしまうに違いない。

 採用試験のときはきちんと勉強したはずだった「教育法規」だが,管理職試験を受けようとして「学び直し」をしてみると,「こんな法律もあったのか!」などと驚くこともある。

 国際社会では,「法の支配」ではなく,「国益の支配」が主流になっているような印象があるのだが,

 学校現場でも,やはり「法の支配」ではなくて,「子どもや親の利益の実現」という目的に偏ってきている気がする。

 「未履修問題」に代表される「ルールを無視した受験重視・効率重視の学習・進路指導」を是正しようとしているのが,現在の教育改革のねらいの一つである。

 しかし,「子どもや親の利益のため」という部分を票のために議員までもが実現しようとしているので,

 学校現場の感覚ではどう考えても「それはない」というタイプの政策が浮上してきている。

 借金をして将来世代に負担を押しつけながら,「今の景気が良くなりすればそれでよい」という短期的利益誘導型の政策が,ありとあらゆる分野に一律に仕掛けられてきている。

 「法の支配」が実現しているのかどうか,チェックする機能を果たすべきなのは,どこのだれだろう。

 残念ながら,それを実行する主体が自分たちの利益ばかり考えてしまうというところが,悲しいところである。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より