「一人も見捨てない」は罪な要求である
「一人も見捨てない」という教師から子どもへの要求を,子どもはどう受け止めるべきなのだろうか。
もし従わない,という選択肢をとったら,「弱い立場の人間を見捨てることは,よいことか?」などといじわるな質問をされる。「お前は道徳的に問題のある人間だ」とレッテルを貼られてしまう。だから強制されるしかない言葉となる。
「見捨てられてきた側」からすると,「一人も(自分も)見捨てられない」という状況は喜ばしいものだろうか。そういう体験をしたことがある私は,必ずしもありがたいものとは言えないと考える。いわゆる「ありがた迷惑」な状況がたくさん生まれるから。
たとえば授業でわからないところがあると,よってたかって「教え」にくる。何しろ,できない子どもを「見捨ててはいけない」のだから。いろいろ「親切」にされて,「それでもわからない」のだが,「わからない」とは言いにくい状況になり,つい「わかった」と言ってしまう。テストのときに,ウソをついていたことがいちいちばれてしまう。
「一人も見捨てない」という要求の問題を子どもにする教師の立場から考えてみる。
「子どもの扱い」が上手い教師なら,「一人も見捨てない」ことへの不満を封じ込めることが可能かもしれないが,「優秀な教師」=「子どもを騙すのが上手な教師」という評価が定着しそうでおそろしい。
外国人の割合が高い一部の学校に限らず,「一人も見捨てない」という「強い」使命を小学生に課すのは,非常に重い要求であると言わざるを得ない。
すぐに思い浮かべられるのは,戦時中の「玉砕」である。以前も「一人も見捨てない」という方針は「全滅」につながる危険な思想である,という趣旨のことを,震災における避難行動を例に強く訴えたが,今回は「大人の勝手な理屈への服従」という点から,益よりも害があることを述べておきたい。
実際の授業では,「7・5・3(小中高での満足に学修を終えた児童生徒の割合)」と言われるように,決してすべての子どもが「最低限」の知識・技能すら習得できないまま,はじかれることのないエスカレーターに乗って進級していく。
日本が「落第あり」に舵を切るのは,相当に無理があることだろう。
不登校などによって学習ができず,学力がつかない子どもを「進級させるのが気の毒」と考える欧米と違って,「進級させないなんて可哀想」「進級させないなんて,あり得ない」と考える日本の溝は簡単には埋まるまい。
現状としては,日本の大人は明らかに子どもを「見捨てている」のである。授業を「優秀な子どもに教えさせる」という方針は,「子どもに見捨てさせる」という責任転嫁にすぎない。学力の定着という,教師が実現できない問題をうやむやにしたまま,子どもたちにはひたすら「一人も見捨てるな」と要求するような大人が近くに居続けることは,結局は大人になれば無責任がまかり通る世の中にしてよいということを教えているようなものである。
私有財産制の廃止など,共産主義思想として植え付けることを宣言しているというのなら,とてもわかりやすい。
悲観的な私は,「実験」の結果を知るのは決して「楽しい」ことではないが,「過去の失敗をすべて理解した上で実践しても,なぜ失敗し続けるのか」という理由をしっかり認識してもらうことは,大事なことだろう。
「一人も見捨てない」という「信念」は大事だが,それを「手段」として使うことが,最大の問題なのだ。
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