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カテゴリー「道徳」の659件の記事

「一人も見捨てない」は罪な要求である

 「一人も見捨てない」という教師から子どもへの要求を,子どもはどう受け止めるべきなのだろうか。

 もし従わない,という選択肢をとったら,「弱い立場の人間を見捨てることは,よいことか?」などといじわるな質問をされる。「お前は道徳的に問題のある人間だ」とレッテルを貼られてしまう。だから強制されるしかない言葉となる。

 「見捨てられてきた側」からすると,「一人も(自分も)見捨てられない」という状況は喜ばしいものだろうか。そういう体験をしたことがある私は,必ずしもありがたいものとは言えないと考える。いわゆる「ありがた迷惑」な状況がたくさん生まれるから。

 たとえば授業でわからないところがあると,よってたかって「教え」にくる。何しろ,できない子どもを「見捨ててはいけない」のだから。いろいろ「親切」にされて,「それでもわからない」のだが,「わからない」とは言いにくい状況になり,つい「わかった」と言ってしまう。テストのときに,ウソをついていたことがいちいちばれてしまう。

 「一人も見捨てない」という要求の問題を子どもにする教師の立場から考えてみる。 

 「子どもの扱い」が上手い教師なら,「一人も見捨てない」ことへの不満を封じ込めることが可能かもしれないが,「優秀な教師」=「子どもを騙すのが上手な教師」という評価が定着しそうでおそろしい。

 外国人の割合が高い一部の学校に限らず,「一人も見捨てない」という「強い」使命を小学生に課すのは,非常に重い要求であると言わざるを得ない。

 すぐに思い浮かべられるのは,戦時中の「玉砕」である。以前も「一人も見捨てない」という方針は「全滅」につながる危険な思想である,という趣旨のことを,震災における避難行動を例に強く訴えたが,今回は「大人の勝手な理屈への服従」という点から,益よりも害があることを述べておきたい。

 実際の授業では,「7・5・3(小中高での満足に学修を終えた児童生徒の割合)」と言われるように,決してすべての子どもが「最低限」の知識・技能すら習得できないまま,はじかれることのないエスカレーターに乗って進級していく。

 日本が「落第あり」に舵を切るのは,相当に無理があることだろう。

 不登校などによって学習ができず,学力がつかない子どもを「進級させるのが気の毒」と考える欧米と違って,「進級させないなんて可哀想」「進級させないなんて,あり得ない」と考える日本の溝は簡単には埋まるまい。

 現状としては,日本の大人は明らかに子どもを「見捨てている」のである。授業を「優秀な子どもに教えさせる」という方針は,「子どもに見捨てさせる」という責任転嫁にすぎない。学力の定着という,教師が実現できない問題をうやむやにしたまま,子どもたちにはひたすら「一人も見捨てるな」と要求するような大人が近くに居続けることは,結局は大人になれば無責任がまかり通る世の中にしてよいということを教えているようなものである。

 私有財産制の廃止など,共産主義思想として植え付けることを宣言しているというのなら,とてもわかりやすい。

 悲観的な私は,「実験」の結果を知るのは決して「楽しい」ことではないが,「過去の失敗をすべて理解した上で実践しても,なぜ失敗し続けるのか」という理由をしっかり認識してもらうことは,大事なことだろう。

 「一人も見捨てない」という「信念」は大事だが,それを「手段」として使うことが,最大の問題なのだ。

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五輪ボランティアの数字を見て

 「奉仕活動」というカリキュラムがあると,「奉仕」するのは「強制」になる可能性がありますね。

 何しろ,「奉仕活動」って名前の授業で,「奉仕」しないとは何事だ!と怒られてしまうので。

 昔から,そういう「報師活動」はありましたよね。

 さて,都立高校でボランティア応募の強制か?という疑いがあった件で,学校側は否定していたようですが,もしかしたら学校別の応募者数が公表され,管理職の評価に反映される,という情報でも流れたのか?と勝手に想像していたりもしました。

 特筆すべきとして挙げられているのは,外国籍の方が4割近くも占めているということ。

 恥ずかしいですね。

 「私の国では,学校で英語を何年学んでも,話せるようにはならないんですよ」

 ということを世界に知らしめた感じです。

 こんな数字のおかげで,また学校の授業が「英会話教室」になってしまうおそれがあります。

 人に合わせてモノを考えて話せるようになるためには,相当な時間が必要だと思います。週4時間のペースで勉強したところで,忘れていく子はどんどん忘れてしまうでしょう。

 ただ,皆さんとにかく気をつけてほしいものです。

 来年の真夏に,一度,模擬演習をしてみて下さい。

 そういうプログラムになっているでしょうか。

 無理そうなら,すぐに辞退しましょう。

 倒れるボランティアを介抱するボランティアが大量に必要になってしまいます。

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南青山に似た環境の公立学校は,頑張った。

 児童相談所を南青山につくってほしくない。南青山のイメージが崩れる。

 こういう「住民」(本当の住民かどうかは,確かめようがない)の声を「説明会」の映像で直接耳にすることができた。

 南青山のイメージを崩そうとしているのは,だれなのか,という話でもある。

 火葬場とか葬儀場,ゴミ処理施設といったものに限らず,保育園や公園ですら,反対の対象となる。

 児童相談所の場合は,その間くらいに位置する「嫌われる施設」なのだろう。

 慌てて政府や文科省は,「道徳教育に力を入れなければ」「高校の必修・公共でしっかり教えなければ」と思い始める。

 いくら学校で本音を封じ込めたところで,当事者の「住民」となった瞬間に,今まで学んだことがチャラになる,といったことにだれも責任をとらずにすむのだから,やれることはやるという行動パターンになるだろう。

 南青山とは全く別の環境だが,同じように住民から総スカンをくらっていた学校があった。

 そこは,人口が増えすぎたので,都営住宅をつぶしてまで,学校をつくらなければならない,というところだった。

 新設された学校に集まってきたのは,異なる制服を身にまとった「追放者」たちだった。

 ここでの「追放者」とは,自分の意思で転校したわけではなく,もといた学校から「追い出された」生徒たちのことを言っている。

 当然のように学校は開校当初から荒れ続け,生活指導の事件のときに,学校の全景が空撮で新聞に載ったこともあるという。役所や教育委員会からも「絶対に荒れはおさまらない」とされたところだった。

 そんな学校でも,時間はかかったが,「ここを卒業できてよかった」と思う子どもが増えていった。

 「開かれた学校づくり」は,新しい学習指導要領で始まったものではない。大昔から学校には協力者がたくさんいた。地元の自治会からなにから,すべての人々が応援したくなる学校をつくったのは,子どもたちである。

 児童相談所の場合は,学校とは逆で,むしろ「閉ざされた施設」という性格をもつ。

 南青山の場合は,とても「適した立地」だと思うのは私だけだろうか。

 地域住民に協力を求められることはまずないだろう。

 児童相談所を抜け出した子どもに,盗みに入られたりするのが嫌だ,とでも思って反対しているのだろうか。

 街頭インタビューでは,これも住民かどうかわからないが,数が足りずに困っており,社会には必要な施設であるから,むしろ南青山に建設されることを誇りに思わなければならない,という声もあった。行政のヤラセでないことを切に願う。

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チコちゃんに叱られる~おやじギャグが言える年齢になると,ホンネも漏れやすい

 人のホンネが漏れる場所はどこか?

 いまどきは,「無礼講」の席でも「無礼」は許されない時代だから,ネット上の匿名の書き込みくらいでしか,ホンネは語られない時代になったのかもしれない。

 先日,ある講演があった。私はホンネが漏れるタイミングを知っている。

 控え室に戻った直後である。

 ベテランの講演者にとっても,一仕事終わって衆人環視の状態から抜けた時点はやはり気が緩むらしい。

 「●●の××化」が,その人にとっての激しいストレスになっていることは,講演からも痛々しいほど伝わってきたが,控え室で私が投げかけた言葉に,本当に素直に反応されてしまった。

 「××化さえなければ・・・」

 ●●が××化されたことで,講演者は多くの「ウソ」をつかなければならなくなった。

 ●●の指導を徹底させなければならない立場なのに。

 まともな人なら,相当な葛藤があるはずである。

 もし証人喚問されて,真実を隠すか語らないことを強いられたら,精神が持たないだろう。●●の指導者なのだから。

 しかし,行政マンが求められる資質能力は,そういうケースでも揺らがない「精神力」である。

 羊の群れの中では,居心地がよかったためか,ホンネもたくさん漏れていた。
 
 仕事を辞めた後の人の講演がなぜおもしろく,現役の行政マンの話がなぜつまらないか,ホンネを言っているかどうかの違いととらえれば,わかりやすい。

 行政マンが一応,精神状態を保てるのは,「ペーパーを読むのが仕事」と割り切れるからである。

 それなら,ペーパーを配ってもらえれば,話はすむ。

 動画もいらない。原稿を公開すればよい。

 動画をとるなら,俳優・女優を起用してほしい。

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道徳教育が成立するための条件とは

 ある中学生が正論を述べている。

 「道徳の授業という枠の中で,綺麗事を考えるのは,忖度できる人間をつくるだけで,害の方が大きい」とのこと。

 確かに,決まった時間にテーマが決められて,そのときだけ「考えたことにする」という時間は,まともな子どもにとっては,どちらかというと罪を犯している感覚の方が強くなる。時間が終わればそんなことに構っていられない現実が子どもにも待っているからである。

 道徳教育で育まれるべき諸能力は,どんな場でも,どんなかたちでも,だれに対しても,いつでも発揮されなければならない。

 道徳の授業という限られた場だけで頭を使わせられるのは,開店前に挨拶の練習をさせられる店員のようなものである。

 だから,道徳の授業は最も道徳教育の成果を発揮しにくい場になっていることの自覚がほしい。

 自分の頭で考える時間が必要だと真剣に考えるのなら,時間も場もテーマも強制してはならない。

 小学校低学年くらいで道徳の授業は「卒業」させることを真剣に考えてみてはどうか。

 いずれにせよ,ろくな授業が行われいないことは,調査をするまでもなく明白なことである。

 それはまともな授業をやろうとすればするほど,ろくでもなくなるという道徳に特有な事情である。

 最も道徳教育が機能している学校とは,道徳の授業の話などせずとも,いくらでも道徳が語れる教師で満たされている学校のことである。

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教員の「多忙さ」への遠慮がもたらす「多忙さ」

 教員は,どんなに忙しくても,傍から(子どもや親から)「忙しそう」と思われないようにする努力が必要な職業である。

 学校=ブラックという印象によって,「先生は忙しい」という固定観念が定着しつつあるが,「忙しい」と思う暇があり,そういうオーラを発している教員には,子どもも保護者も相談しにくいだろう。

 「忙しいのにすみません」と断って相談を持ちかけるのは通常の社会人の礼儀だろうが,教員の立場からすると,子どもや保護者自身の深刻な悩み事の相談については,遠慮は無用である。

 夜の10時を過ぎて自宅に電話をかけてしまうのはどうかと思うが,「相談するタイミングで悩む」という余計な悩み事を増やしているうちに,問題が深刻化してしまうよりは,早めに相談してもらって,解決への糸口を共に考える時間が増えることの方が大事である。

 警察署や消防署に「今,忙しそうだから,事故が起きたがもう少し待ってから電話しよう」などと思う人はいない。

 素早い情報の共有や初動が大事なのは,教育も同じである。

 教員にとって必要な「本物のゆとり」とは何か。

 教育という仕事ならではの特徴を知っておきたい。

 ブラックになりやすい現場とは,必要な情報がすぐに入ってこない=優先順位がわかっていない人間が多いところである。

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「感動ビジネス」「感動の押し売り」への批判

 「決まったパターンの感動もの」が好きな人がいる一方で,「やらせ」「プログラム」にすぎない「感動もの」を毛嫌いする人もいる。

 優勝チームがほとんど無視される報道は,「感動の対象になるもの」と「そうではないもの」の線引きをあまりにも綺麗に分けていて嫌だ,という人もいる。

 別に鑑賞することも感動することも押しつけられているわけではないTV番組を批判する意味はないという考え方もあろうが,教師の立場からすると,学校教育全体が「プログラムされた感動もの」であるため,やや肩身の狭い思いをしなければならない。

 卒業式でやたらと歌を歌わせるのが好きな人がいる。

 卒業式後に,さっさと親のもとに返せばいいのに,長々と生徒との別れを惜しむのが好きな人もいる。

 人生のそれなりの「区切り」となる儀式と最後に別れるまでの過ごし方は,学校によってそれほど大きな差異はないのではないか。

 教師を神輿に担いで「仰げば尊し」をやる極端に「道徳的」な別れを見るとちょっと引いてしまうが,学校で長く踏襲されてきたことを潰すのは,よほどの「空気読まない派」でないと難しい。

 私の場合は,見苦しい姿を最後に見られて終わるのが嫌なので,主役級の子どもやちょっと目立たなかったけどコツコツ頑張ってきた子どもに花を持たせて終わりにしたい。

 子どもに気を遣わせることを仕事にしている人たちは,ちょっと寂しい人たちなのではないか。

 「感動ビジネス」の供給側は,視聴率で評価が決まってしまう,実は非常に苦悩に満ちた「感動できない」人たちなのではないか,と想像してもらうことで,少しは私も気が楽になる。

 心を「感動用コンテンツ」で操られる人間が増えることを危惧する神経も,もちろん大事である。

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他人を騙そうとしている人と,自己暗示にかかって他人を騙しているつもりはなく,騙している人と,どちらが問題か

 騙すつもりはなかった,と後で弁解しても手遅れだ,という問題がありますから,「騙した」という結果については,同じように悪いことなのですが,恐らく,意図的かそうでないかは,罪の重さを比較する上では参考になってしまうことでしょう。

 一般的に考えて,「わざと騙した」方が悪い印象があります。悪意というか,人の善意につけこむという「悪事」が加わっているので。

 しかし,やはり被害を受けた側からすると,同じような「罪」です。

 「教育」などという営みは,「騙すつもりがないのに,人を騙してしまう,ということが起こらないようにする」「悪意はないのに,人に害を与えてしまうことがないようにすること」が狙いとなっていると考えられます。

 よく,道徳教育を「悪意を持たないようにさせる教育」と勘違いしている人がいますが,一度真面目に教育現場で働いてみたり,親になって子どもを育ててみると,「悪意をもたない生き方」がいかに難しいかがわかるでしょう。特に,罪を犯した人間に対する「悪意」というのは,実際に自分や家族が被害者であるならなおさら,隠しきれないものになるはずです。

 教育の世界には,残念ながらと言うべきか,「研究」=「独創的なもの」(だから税金を出してあげる気になる)という成果をより出にくくさせる固定観念があるために,研究者の側も,自分が嘘つきであることを知りながら(平気で改竄・捏造をする人もいますが)税金で食べていくことには引け目を感じるので,「自分は正しい」ことを自分に信じ込ませるような自己暗示をかけ続け,やがて,「騙すつもりはなかった悪者」になっていくのです。教育は,子どもの将来に大きな影響を与えるので,被害は「想定することのできない規模」になっていきます。

 未来はこうなるだろうと予想するのは自由です。

 ある人の予想を信頼して,その主張を採用するのも自由ですが,「鵜呑み」にならないよう,全く別の主張にも耳を傾ける態度が大事でしょう。そこに「議論」「討論」することの意味も生まれてきます。

 「議論」「討論」は時間の無駄,というタイプの人が理系には多くないですか?

 こういうタイプへの投資が,いかに危険かということがわからないように煙幕がはられている日本の弱点は,「議論」「討論」が苦手なことです。

 道徳の時間なんて,本当にムダ以外の何物でもない。そんな時間を過ごしても,絶対にいじめはなくならない,と主張する人が,どれだけ道徳教育に熱心かを実証するデータはすぐに得られるはずです。しかし,それを実証してくれる研究者はいません。なぜなら,自分が必要なくなる証明になってしまうから。そうやって,国民を騙す側にまわる人もいます。

 道徳教育で大学の職を手に入れた若い研究者の本を読みました。

 ご就職おめでとうございます。

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子どもの心が読めない大人の悲劇

 教師の中にも,ごく稀に子ども心が全く読み取れない人がいる。

 子どもにはそれがわかるから,ある人はからかいの対象となり,別の人は「利用する」対象となる。完全にコミュニケーションが取れなくなる場合もある。

 会話をしながら相手の心がつかみ取れる人は,道徳の授業などバカらしくてやってられなくなるかもしれない。

 授業で建前を言い合ったところで,実生活には何の役にも立たないことが「お互い」にわかっているからである。

 公務員や会社員の場合はどうだろう。

 相手の心を読もうとしない大人もいるかもしれない。

 私は指導主事だった3年間で,いろいろなタイプの事務方や管理職と出会うことができたが,こういう人たちからは,あまり「心を読もう」とする意思は感じられなかった。私の方では必死にやっていたのだが。

 一部の管理職は,私の意図を読み間違ったのか,過去に出会った指導主事がそうだったのか,必死に教員の悪口を並べ立ててきた。基本的に授業は成立しているので,そこまでひどいことを言わなくても・・・と聞いていて思ったが,そういう気持ちがちゃんと伝わったのは,2年間くらいおつきあいが続いた後の話だった。

 なぜ口先の言葉だけのコミュニケーションに頼ろうとするのだろう,と不思議だった。

 今回の文科省の件は,「なるほど」と納得せざるを得ない。

 「だからか」と思ってしまう。

 「バレない自信」を育んできた組織の実態を知りたい。

 権力の側にいる人間が,その職権を利用して,自分の子どもの得点に下駄を履かせるなどという行為をチェックできない機関が,大学の評価をまともに行うことができるのだろうか?

 天下りしている先輩と,権力の側にいる後輩が,何をしでかすかをだれが監督できるのか?

 教育行政の上の方にいる人間が,日本の将来を担う子どもたちの信用を裏切る罪は重いぞ。

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「だれにも止められない子ども」をどうするか?

 親にも止められない,学校の教師にも止められない,事故を起こすまで,警察にも止められない,そういう子どもをどうしたらいいのか。

 私の父親は保護司をしていたので,「そういう子ども」たちを私もよく見てきた。

 「どうしてこの子が?」という印象の方が,「なるほどこの子がね」という感じよりも強い。

 大きな問題があって,周囲が騒いだ後は,しばらくの静寂が訪れるが,油断した途端に再び噴火が起こる。この繰り返しのパターンが多い。

 このループを断ち切れるのはだれなのか?

 親は,「教育の専門家」である教師にとりあえずは期待をかける。

 ある担任がダメなら,また次の年に期待をかける。

 今いる教師がダメなら,年度がかわって異動してくる教師に期待をかける。

 やがて,学校そのものを信用しなくなる。

 このループを断ち切れるのはだれなのか?

 学年が違っていたが,無免許運転による事故でよく知っている中学生が亡くなるという経験を私もしている。

 運転していた子は生き残った。今,どういう人生を送っているのだろう。

 報道によって,世の中には,我が子を全くコントロールできない親と,真逆に殺してしまう親ばかりだと誤解してしまう人が少なくないのではないか。これが少子化の原因になっていると言いたいわけではないが。ほとんどの親と子は,多少の喧嘩を乗り越えながら,子は人間として,親は親として,成長していく。その関係を成立させないものは何なのか。

 知り合いの岡山県の先生の嘆きが脳裏にこだまするが,やはり最後の希望は教師しかいないのではないか。

 しかしそういう教師を子どもから引き剥がそうとしているのが世の中の流れである。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より