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カテゴリー「道徳」の592件の記事

「倫理」「モラル」軽視の「商売重視志向(嗜好?)」が教育の世界にも定着している

 原子力発電の割合を20%程度まで引き上げたい政府に対し,「倫理」を盾にして反対している人たちの説得力は,今ひとつパワーに欠けている印象がある。

 神社の御朱印帳がネットオークションで転売されたことに対して,神社側が怒っている,というニュースを目にすることができた。

 「商売の倫理」という言葉があるのかどうか知らないが,「自由な取引」と「モラル」の価値を対比させて考えさせることができるよい題材(題材にすること自体は,神様にも許してもらえると思うが・・・)である。

 中学生からは,「足が不自由で神社に参拝できない人にとって,ネットで入手できる仕組みは必要だ」という声が聞こえてきそうである。

 神社参拝に対して個人が抱く「ありがたみ」の違いは,大人と子どもを比べても,あるいは子どもだけでも受験の前とそうでない時期を比べても,個人差がとても大きいだろうが,「ありがたみ」を感じる人が少なくなればなるほど,「自由な取引」の方が大切な価値として認識されやすくなりそうである。

 教育の世界でも,「なんでこんな程度の研究会に3000円とか4000円とか払う必要があるのか」と憤慨したくなる中学校,高校の教員がいる一方,大学や小学校の教員はむしろ「こんなに安いお金でいい話が聞けるんだからありがたく思え」なんていう態度でふんぞり返っている。

 大学のセンセイを講師に呼んだ場合,安くても2万円くらいはかかり,人によっては5万円くれないと行かない,などと公言しているのもいて,そういう人間の財布を潤すために主催者は金額を決めなければならなくなっているのである。

 お金を出したくない人は行かなければよいわけだから,「自由な取引」はいつでもどこでも成立する。

 「商売の倫理」が「教育の倫理」に勝つ時代に即した「教育方法」を熱心に広めてようとしている人がいるのも,致し方ないことなのだろうか。

 「こんな教育を続けていたら,お前の教え子達の大部分は将来,仕事につけないぞ」という脅迫を受けるために,どうして大切なお金と時間を手放していくのか,私には全く理解できないのだが。

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現場の教師にしかできない仕事

 先日,学校公開週間に私の最初の勤務校を訪問する機会があった。

 21年ぶりの訪問である。校舎はほとんど変わっておらず,校長先生は廊下のタイルが剥がれまくっていることを気にされていた。

 各教室とも,30人くらいの教室で,これでも少人数とは言えないはずだが,

 40人学級で10年以上仕事をしている身からすると,

 「いろいろなことができそうだな」という感触も得られたが,

 「少し寂しそうだな」という印象を強く受けた。

 私の妹の長女の学級をのぞくことはできなかったが,廊下を歩いていると,昔とあまり変わらない挨拶の習慣は定着していてよい印象だった。

 初任者として6年間お世話になったこの学校の周辺には,いろいろな意味で本当にお世話になった方々がいる。

 正門から歩いて50mくらいのところにある花屋さんに挨拶にうかがった。

 ご夫婦はお元気で,私の顔も覚えていて下さった。

 さすがにこのお店まで私の大きな声が届いていたとは思えないが,地域を歩くと恥ずかしい気にさせられたことも思い出した。

 当時は,伝統があり,一定の評判がある地域の学校は,「○○区の学習院」と呼ばれていた。

 高校に進学し,出身中学校名を自己紹介ですると,それだけで一目置かれる経験をして,初めて中学校に誇りを持てた,という卒業生もいるらしいが,多くの在校生は胸を張って日々を過ごしていた気がする。それは,教師たちも同じであった。もちろん,それをプレッシャーに感じる人がいたり,生活指導で苦労しないですむ,と手を抜いたりする人もいた。とにかくありとあらゆる教師のタイプ(管理職も含めて)をそこで知ることができた経験は行政に入ったときにも役に立ったと思う。

 とてもよい環境で仕事ができたからか,たった2年で教育の仕事を放棄した人の気持ちはわからない。

 いわゆる「良い学校」の勤務中に辞めるのであれば,まだ「本当の志が別にあるのだな」という気にもなるのだが,

 「暴走族を相手に私は頑張った」などと粋がっても,結局は底辺校に嫌気がさしたんだな,と思われても仕方がない辞め方をした人の気持ちはわからない。やる気のある人の採用枠を1つ増やしてくれたことの意義は大きいけれど。

 授業の評価をあれこれとすることは,簡単なことである。

 100時間分くらいの40人の子どもの言葉をすべて拾い出して,それぞれの子どもの成長を考える作業は,研究だけで飯が食える暇な人にしかできない。

 現場の教師は,授業はもちろん,休み時間や放課後の時間も含めて,教室の40人に限らず,ありとあらゆる場面で子どもたちの言葉に晒され続ける。人間のコミュニケーションは,録音可能な「音声言語」に限ったものではないことはだれでもわかることだろう。その言葉を口にしたときの表情,周囲にだれがいたか,どのくらいの大きさの声か,普段の話し方とどう違っていたか,それらすべてが大切な情報である。

 教育の現場に年間200日くらい居続けなければ,そういう情報は手に入らないのである。

 もちろん,絶対に聞き逃してはいけない言葉,見過ごしてはならない表情というものがある。

 それを聞き逃さない,見過ごさないのはセンスも必要かもしれないが,

 センスがなければ経験でカバーするしかない。

 「一人も見捨てない」という表現は,人によって捉え方がまちまちな言葉である。

 親ならまだしも,不特定多数の人のために尽くす医師や教師,政治家などが,軽々しく口にするべきではない言葉だと私は考えている。

 どうしても,「私が担当している患者に限って」「私が担任しているクラスの子どもに限って」「私を支持してくれる人に限って」という条件が必要になってきたり,実際にそうなってしまったりする言葉である。

 でも,そうであるならば,文字通りの「一人も見捨てない」状態にはなっていない。

 では,「少人数に限った集団の人間を一人も見捨てない」と言い換えたときはどうだろう。

 私は,「見捨てられない対象になった子ども」の身になってみると,

 「そいつを見捨てると自分たちが損するから」という論理で世話になり続けることに耐えられるのだろうか,という疑問がわいてくる。

 「この課題,あの子にはできないだろうな。だから,私が教えてあげないと・・・」という発想で,ちらちら見られ続けることになる。

 「全員ができるようになる課題」に意味があるかどうかは別として,子どもは容易に「わかったふり」「できたふり」をするようになることが予想される。

 「深い学びをするつもりはない」そうだから,「わかったつもり」のまま,全生徒が放置される教室では,学習指導要領の総則に反する教育をしていることになる。

 本当の意味での「一人も見捨てない」を成就したいのであれば,当然のことだが,文科省に対して反旗を翻さなければならないはずである。それをしないで「一人も見捨てない」は絵に描いた餅に過ぎないだろう。


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「あんたは本当にそれができるようになると思っているのか?」

 私は指導主事を経験して,自分がとても恵まれた環境にいられたことに感謝している。

 まだ十数年前は,指導主事を「教育委員会の犬」として露骨に嫌悪できる教員たちがいた。

 指導主事というものは,「お上」の考えをただ伝達したり押しつけてきたりするような人間であり,自分たち教員のことなどこれっぽっちもわかっていない,という印象を持たれていた。

 人間というのは,嫌われた状態から入り,相手の誤解を解くことで,一気に距離を縮めることができる。

 そのおかげで,小学校の研修会に継続的に参加させてもらう機会を得ることもできた。とても貴重な経験だった。

 今の指導主事さんたちはどうだろう。

 呼ばれなくなったら終わりだが,ただ呼んでもらうだけでもダメである。

 私は,文科省の教科調査官とか,大学のセンセイたちは気の毒だと思う。

 おそらく,研究会や研修会で厳しい質問攻めに合う経験など,ほとんどできないのではないか。

 一方的な伝達や講演と,当たり障りのない質疑応答では,お互いの距離が縮まることは難しい。

 私はある全国大会で「質問しないで」と会長さんから命じられたことがある。

 タテ社会では,偉い人のメンツをつぶすと,偉い人を呼んだ人のメンツもつぶすことになる。

 だから意見を言いたい相手以外の人に配慮しなければならないような場では,私も発言は控えるつもりだった。

 しかし,教育に関する大きな研究会の場では,「できないものはできない」

 「むしろこっちをできるようにするべきだ」などといった議論ができるようにならないといけない。

 「ああそうですか」「はいはい,善処いたします」・・・結局何もできませんでした・・・ではダメなのだ。

 指導主事の場合は,恨みを買っている教育委員会がバックにあり,

 欲求不満が全部こっちにまわってくる。

 だから,指導主事は,立場で物を言ってくる人間ではなく,子どもの成長を基本において物を言ってくる人間だということを,自分自身の教員生活の経験を1割,答申や法令等からの言葉を8割,そしてその場にいる子どもや教師にとって何が最善かを自分なりに考えたことを1割,といった割合で話すことが求められる。

 「あんたは本当にそれができるようになると思っているのか?」
 
 という投げかけに対して,「今も昔も,できてますよ」と答えられる立場こそが「最強」なのである。

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「バレたところだけ,小出しに謝る」ことの意味を道徳教育の目から考えてみよう

 KAKE,KAKE,と報道で連呼されているお名前だが,

 そもそもこの問題は,だれとだれの問題なのか。

 総理とその友人との間の問題ではない。

 ようやく,「当事者の顔」がはっきりと見えてきた。

 小中学生にも「隠蔽」という言葉の意味が理解できるようになったと考えてよい。

 バレたところまでは,謝る。

 謝るべきポイントを,「文書があったこと」だけにしぼる様子などは,

 いじめや問題行動の事情を聞き取りしているときの,ずるがしこい中学生と姿が重なって見える。

 道徳教育の全く逆をひた走っている人たちが痛々しいほどである。

 「圧力」の分かりやすい構図を示した文書も出てきた。

 内閣府に文科省が牙をむいた形になったが,これも前事務次官のおかげだろう。

 官僚側ではなく,政権側の人間の攻撃がことごとく不発に終わっているのは,

 正義が見極められる国民の質の高さのおかげだろう。

 
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人を散々苦しませておいて,「私には相談しないで」と訴える人

 教師が一番苦しませたくないのは,子どもである。

 残念ながら,一番苦しませたくないのは,自分だ,という教師も少なくない。

 ある人が酔っ払って書いている文章を読んでみると,

 大学時代のさまざまな授業の講義で知った本に書いてあることが,

 なぜかたくさん思い出された。

 教育が失敗する原因の大部分は教師にある。

 いかに失敗させ,そこからどれだけ身になることを学ばせることができるかが勝負だが,

 子どもや教師自身の自尊感情を傷つけて終わるだけというタイプの失敗を
 
 平気で繰り返す人がいる。

 30年前に学んだ心理学から言語学,社会学などとことごとく「つながっていく」のは,

 私が気の毒に思える人が多いからだろう。


 多くの教師が,混乱させられ,悩まされている。

 そんな教師の問題を,1冊や2冊の本が解決できるわけがない。

 具体的な解決策が書いてあるわけではなく,

 「解決した気になる」ことが書いてあるだけだから,

 本人に確かめたくなる。しかしそれでも問題は解決しない。

 教育という仕事は,「人間関係」「対人関係」そのものだと考えてよい。

 「本を読めばわかる」なんていう態度は,そもそも「人間関係」を築く教育自体を否定していることになる。

 「本(教科書)を読めばわかる」なんていう態度だから,『学び合い』が成立することになってしまうのだ。

 大学の研究論文が,同じ職業の人間か学位をとるための学生にしか読まれない理由を語るまでもないだろう。

 「人間関係」の悪化自体が食べていくためのエサになる仕事があることを忘れてはならない。
 
 「現実の」教育の世界では,自分の都合のよいことは表に出すが,

 都合の悪いことは出しにくい。

 なぜなら,現実に被害にあっている子どもを公開するわけにはいかないからである。

 元大学教員の先生がお灸を据えてくれたのだが,

 「酔っ払って大きなことを書いてすみません」といいながら,

 ちゃっかり本の宣伝をしているところがこのセンセイらしいところである。

 「私は苦しい思いをしている」と書けば,「思いやりのある人」は,

 相談しにくくなるのである。「人間関係のことは相談しないで!」と訴えていることが伝わっていく。

 この大学のセンセイが担任の先生だと,心優しい子どもは,本当に可哀想なことになる。

 教師としてやってはいけないことを堂々とご開陳しながらの「最強」宣言なのだから,

 ある意味では本当に「最強」である。
 
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伝える技術に溺れるよりも,真摯な話しベタであれ

 このタイトルは,NIKKEI STYLEの出世ナビ「スタンフォード 最強の授業」というシリーズで,ある先生が語っている言葉である。

 「真摯な態度」は教えられないが,「伝える技術」ならある程度は教えることができる。

 だから教育の世界でも,「伝える技術」を伝えようとする人たちが少なくない。

 しかし,日本には,「伝える技術」を超えて,「伝わる」ものがある。

 「教師が教えなくてすむ教育理念」に飛びつく「教材研究をしたくない教師」「教えることが下手な教師」が近くにいれば,すぐにわかるだろう。

 主語だけでなく,目的語までが省けてしまう日本語の特性を持ち出すまでもなく,

 本来は「伝わってほしくないもの」までが「伝わってしまう」のが日本におけるコミュニケーションの特徴である。

 もちろん,日本以外の国に「以心伝心」などあり得ない,と言いたいわけではない。

 日本に長くいなくても,帰国子女が日本の学校の居づらさを感じることができるのは,特定の感情が容易に「伝わってしまう」ほど,言葉以上の「空気」が人間関係を支配できる国だからである。

 日本人が外国で暮らすときは,この「空気」の呪縛から解き放たれるが,逆に,「空気」は読むものではなく,「つくる」ものになっていく。「伝えないと始まらない」のがコミュニケーションの基本だから,「伝える技術」を学ばないと困る人も多いだろう。

 しかし,その技術がいかに優れていようと,本心から「伝えたいもの」「伝える価値があると信じているもの」がなければ意味はないわけである。

 タイトルに示した記事は,そういう趣旨の内容だった。

 一方で,真摯な態度でも「話しベタ」では全く通用しない職業もある。

 政治家や行政マンなどである。

 「本心で話しているわけではないな」と強く感じる政治家が増えてきた。

 私が経験した指導主事という職業もそうだが,決して「本心」を明かしてはならない場面も少なくない。

 しかし,「本心」から語らない人間を信用できる人はいないわけである。

 だからいかにも「本心」から語っているように見せかけられるかが,政治家や行政マンの才能と判断される。

 地獄に落ちて舌を引っこ抜かれる因果な商売だが,「秩序を守るための嘘」がまかり通る社会を変えるためにはどうしたらよいのだろうか。

 地位を失ってでも,「本当のことを言う」ことの素晴らしさに感銘できるのが,ドラマなどフィクションの場に限られていることが悲しい。どれだけ多くの人が,こういうドラマを見て,自分を慰めているのだろうか。

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新聞による「印象操作」の逆効果

 首相と昵懇の間柄にある人物が起こした問題への関心は低く,敵対する人物への関心は高い。

 「政治の透明化」を果たそうとすると,「守秘義務違反」に問われて処罰されてしまう国を民主化するためにはどうしたらよいのか。

 首相が国会で「この新聞を読めばわかる」と名指しした特定の新聞社のおかげで,「印象操作」と相手を非難する人間を支持している側の方が,よほど「印象操作」をしている「印象」が国民の間に広がろうとしている。

 新聞社のこうしたとてもわかりやすい態度が,強すぎる政権の「流れ」を変えるきっかけになるかどうか。

 大金を使って選手を集めても全く成果が出せない弱すぎる巨人のように,報道機関が見切られる日は来るだろうか。

 新聞社内でも,「忖度」の問題を報道する側が「忖度」の主体となってどうするのか?という疑問を持っている人がいるに違いないし,

 「前川の乱」が「文科省の乱」に,そして「反内閣府連合」に発展しそうな雰囲気も感じられる。

 日本がいつの間にかどこかの国にそっくりになっていることに多くの国民が気づいたときには,手遅れになっているかもしれない。

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傲慢な人間が変われる機会~誹謗中傷をして何とも思わない人間に「価値学習」の価値を語る資格などない

 大学のセンセイにプライドがあるのはわかる。

 中学校の教師の私にだって,プライドはある。

 教え子の中学生にだって,プライドはある。

 その保護者たちのプライドもすさまじいものがある。

 こういうプライドは,ときに傷つけられる場合がある。

 プライドというものは,人から傷つけられるものだ,と一面的にとらえてはいけない。

 自分のプライドを自分が傷つけていることに気づけない人がいるのは悲しい。

 他人の言動によってプライドが傷つけられたときに,自分から不適切な反応をとることによって,自分の首を絞める結果になることがある。

 著書を貶された元都知事がとった反応が,逆に「どの口が言うか」という反感を買う結果になったらしい。

 ブログ村には,他人から噛みつかれると,異常な反応を示す人がいた。

 防衛反応というより,「攻撃は最大の防御なり」みたいな感覚で,激しい攻撃をしてくるのが常であった。

 私はそのエネルギーを別の方向に・・・よりよい教育の創造に向けることが,何より教育への情熱の望ましい姿だという信念から,いかに攻撃している自分の方が損しているかを説き続けたのだが,結果は無駄だった。

 どれだけ論理的に語ろうとしても,感情面の高ぶりが思考力を低下させてしまったようで,出てくる言葉は下品・下劣・罵詈雑言の類のものだった。そして統合失調症の解説が定期的に繰り返されるのが痛々しかった。よほどつらい人生を送ってきたのだろうと同情した。

 私に対して

>貴公のような「犬クソ」教師
>貴公があまり頭が良くないことは十分に承知
>国語力を鍛えなおしてはいかが
>(雑誌に原稿を書くのは)ブログで自慰行為するのとは違う

 などと誹謗中傷を行った現役の大学のセンセイも似たようなものである。

 私なりに,情報を集めさせてもらった。

 私には,怒りの感情はない。どちらかというと,戸惑いの感情である。

 「どうしてこういう人が大学に存在するのか?」という戸惑いである。

 退職が間際に迫っており,「辞めたらすべてのことから足を洗う」と言い放っているセンセイにはその無責任さに心底辟易し,憤っているが,若い人には「変われる機会」がきっと訪れるはずと信じたい。自分もそうだったから。

 「無視した方が相手にはこたえる」というご忠告を下さった方もあったが,

 「もったいない」という言葉を口にされていた先生もいた。

 その性格で,とても損をしているように思える。

 どうしたら変われるのだろう?

 倉橋竜哉さんの「毎朝1分!天才のヒント」を購読させていただいているが,今日のヒント #3391 「プライドはありますか?」では,

>今まで自分や他人に対して厳しかった人が、急に優しくなったりして、まるで仏のように人間が丸くなるケース

 が紹介されていた。それは「大病を患ったとき」である。

>入院していなかったら、自分の中にある「怒りの業火」で自分や周りを焼き尽くしていた

>「自分ひとりのチカラでここまでやってきた」というつもりになっていたけど、実際のところ自分のチカラはちっぽけなものだと気づいた

>自分や他人に対して「これが正しい」「こうあるべき」と押し付けていたこと、そこから外れると「それは間違っている!」とか「ゆるさない!」と責め続けていたことに気づき、そのストレスが澱のように積み重なって、大病の原因になったんじゃないか

 何も,「大病にかかれ」と言いたいわけではない。むしろ,「大病の原因をつくっている」ことの危険性を認識すべきであると言いたい。

 せっかく苦労してつくった訳書名を検索すると,上から2番目に「参考にしたい内容がない」という感想が書かれた記事へのリンクが示されている「事実」が不本意であることはよくわかるが,その記述が「事実」であることは否定できない。

 「価値学習」の結果,自分とは異なる価値観を認めない,という人間を生み出すのはおかしいと思うし,誹謗中傷をして何とも思わないような人間に,「価値学習」の価値を語る資格などないと私は考えている。

 
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教師をかき乱して隠居しようといる大学教授,退職後に匿名でボランティア活動に参加している前事務次官

 教育の実践者たちを苦悩のどん底に落とし込んだ後,自分は隠居すると宣言している人がいる。

 最も恵まれた世代の人間が,最も不幸な世代の人間を見下しながら,安穏とした生活を送ろうとしているようだ。

 他人の人生の選択に「正解」も「不正解」もないが,私はこういう態度を「不誠実の極み」と感じる。

 こういうのは全く対照的な人がいる。

 「前川の乱」の首謀者である,文部科学省前事務次官である。

 夜間中学の先生や低所得の子どもの学習支援などのボランティア活動に参加しているらしい。

 教育の世界にも及んでいた政治の圧力を語り始めているようだが,

 教育現場にとって最も迷惑なのは,目の前の子どもを不幸にする可能性のある教育理念の流布である。

 「切り込み隊長」は,即,討ち死にするかもしれない。

 「私の屍を乗り越えていけ」なら,まだわかる。

 「あとは頼むぞ」で何も見ない,聞かないぞ,という態度が許されるのか?

 日本は1940年代に滅びかける過程で,大きな空想の世界の風呂敷を広げていった。

 当時の日本と同じ,末期的な症状が出ている人がいる。

 「子どもの主体性に任せる」という態度をもった教師の最もおぞましい姿がそこになる。


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安倍政権に訪れる正真正銘の危機

 学校をめぐる問題は,政権を覆すほどのものではないと私は感じています。

 もちろん,見る人から見れば,「終わったな」という印象ですが,代役が不在なので「終わらない」のです。

 たとえ,「行政の常識」「権力者の周辺の忖度」が明らかになったとしても,それは大昔からそうだったわけで,安倍政権が開き直って「昔からそうだったじゃないか!」とキレても,「そうだよね」と共感してしまう人までいる可能性があります。

 「前川の乱」についても,残念ながら「決勝点」にはならないでしょう。

 教育への政治の影響が大きくなっているのは,みんな知っていることですし,今回の学習指導要領改訂は,2006年の第一次安倍内閣のときの教育基本法改正の流れをくんだものですから・・・。

 ただ,新たに報道されたある事件は,今までとは比較にならないくらいの問題を抱えていると思われます。

 代役なしでも痛手になる問題です。

 ですから,よく考えると,今朝は報道されるでしょうが,その続報が続くかどうかは疑問です。

 女性票を一気に失うようなこの問題は,

 人気に陰りが見え始めていた小池さん側にとっては台風並みの「追い風」になる可能性があります。

 総理に最も近いとされる人物のスキャンダルが,命取りになるという私の予想は当たるかどうか。

 霞ヶ関への信頼が失墜しても,何とかなるかもしれませんが,

 警察への信頼が失墜するような事態は,決して国民が許さないでしょう。

 「お友達から攻めるしかないのは情けない」という「対抗勢力」のやり方への批判はごもっともですが,

 警察権力と首相官邸との関係に対する疑念の広がりは,軽視できないのではないでしょうか。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より