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カテゴリー「小中連携」の561件の記事

中学校化している?小学校の授業

 私の子どもが通っている公立小学校は,すぐ近くに中学校があるわけでもなく,小中連携の大がかりな取り組みをしているわけでもない。

 区は学力向上を大きな目標に掲げており,その指標となるのが全国学力調査等の「ペーパーテスト」の結果である。

 公開授業を参観してみたが,いくつか発見があった。

 まず,話し合い活動をしている教室が一つもない。

 コの字型の座席配置にしている教室も一つもない。

 授業はすべて,「一斉授業」である。

 中学校と比べると,聞いているだけで理解できていそうな子どもはあまりいないから,無駄な時間がたくさん過ぎている印象がある。

 黒板をそのままノートに写す,「書写」だけはしっかりやっている。

 子どもたちは一年生から六年生まで,おとなしく黒板に向かって座り,先生の話を聞いていた。

 この小学校では,授業が行われている45分×6回の間,どのくらい「言葉」を発する機会があるのだろう。

 ほとんどなさそうだ。そのストレスを,昼休みなどに一生懸命発散している感じである。

 ほぼ黙っていることが可能,というよりは,「黙っていなさい」「おしゃべりをやめなさい」と言われ続け,黙っていることが義務のような印象が強い小学校である。

 学力向上=ペーパーテストの得点力向上には,これが一番良いのだ,という意見が一致した,「同僚性」の賜物なのだろう。

 「お行儀良くする訓練」を強いられた子どもたちが,どうして中学校で荒れ始めるのか,想像はできるのだろうか。

 「お行儀良く黒板をノートに写したところで,勉強がわかるようにはならない」ことに気づくタイミングの問題である。小学校で気づいた「賢い」子どもも,できる子も多いため,なかなか行動に移せない。

 本当に教育を研究している人たちは無力なんだなと実感した。

 学力調査などの施策のせいにして,自分たちの無力さ加減をスルーしているうちに,こんな小学校ばかりになっていくのだろうか。

 細かいことはあまり書きたくないが,ある授業で教師が説明していたことがらのうち,5分くらいの中でも誤りがたくさんあった。何を読んで準備したらそういう説明になるのか,本当に小学校用の教師用の指導書の「検定」が必要になってくるかもしれない。教科書は「検定」で誤りがチェックできるが,資料集や指導書には「検定」がない。

 説明一辺倒の授業を続けるのなら,少なくとも正しい内容を教えてほしい(ほとんど定着しないから,害は少ないのだが)。

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なぜ学習指導要領が「小学校寄り」になるのか?

 学習指導要領は,総則や道徳を見ればよくわかるが,小学校のものをベースに,中学校向けに援用されている。

 全教科の指導と評価を行わなければならない小学校の教員と,専門とする教科の指導と評価を行う中学校の教員の違いがある(だから免許も別々になっている)のにもかかわらず,「義務教育」という同じ枠内(進学率が高く,無償化された高校も日本では実質的には「義務教育」のようなものであるが)で学習指導要領がつくられるため,重点の置き場が異なるはずなのに,小学校向けの言葉が義務教育全体にわたって発せられる状況にある。

 これによる弊害はいたるところにある。

 巷に溢れている教育関係書の多くは小学校向けである。それなのに,書籍紹介にも「小学校向けですよ」という断り書きが一切ない本が多く,迷惑を被っている。内容がお粗末な本もあるが,もちろん中学校教師が呼んで参考になる本もある。だが,たいていは子どもたちを商品化のために利用しただけの,自己満足の産物でしかない。「個人名が書名につく」という醜悪さだけは何とかしてほしい。小学校は「個人タクシー」の営業所みたいなところである。乗り物の見た目が同じだけで,行き先はバラバラである。

 中学校では,授業でノートをとるにしても,試験のための準備をするにしても,行事を運営するにしても,自分たちがきちんと判断して動かなければ,何も前に進めない,という活動が急に多くなるから,そういう習慣のない小学校から進学した子どもたちは最初,路頭に迷うことになる。

 最近,文科省の若手の事務方に確認できたことだが,中学校の「特別活動」が年35時間で足りるわけがないことの認識は,はっきりと持っているようである。道徳の教科化など行わず,特別活動等との関連性を認めながら,特別活動の時間が35時間をはるかに上回ることができるように学習指導要領の弾力化を図ることが,文科省の仕事であるが,実際には現場の中学校がしっかりと「カリキュラム・マネジメント」している。もちろん,違法天下りのときに文科省がつくっていたマニュアルと同じように,現場も「実際の内容」ではなく「正しいとされる内容」に改変して報告しているのである。

 運動会,文化祭,部活動が大きなところだが,学校によっては,学級活動から学年で行う宿泊行事や遠足なども生徒が中心になって活動できるようにしている。

 主体的・対話的で多くの生きるための知恵が学べる活動に振り向けたい時間は,小学校と違い,中学校には山のようにあるのである。

 小学校では,担任教員だけしっかりしていれば,どうにかなる。

 もちろん行事で「練習させられる」のは子どもたちだが,たとえば毎週対外試合で実力のアップやチームの連帯感を高めるような環境は小学校にはない。

 こういう事情で,小学校では教科の授業での「主体的・対話的で深い学び」が必要になってくるため,無理矢理感の否めない「話し合い活動」を増やしたりして,ドツボにはまり,数値ですぐにばれてしまう学力不足を解消するために,たとえば学力調査のための練習問題を宿題にするなどの「家庭学習の押しつけ」が増えてくる。

 ときどき,「あんなに生き生きとしていた小学生が,どうして中学校に入っておとなしくなってしまうのか」という感想をもらす小学校教員がいるが,それは教科の特定の授業だけを見ているからである。小学校の教員は,放課後のまだ勤務時間が残っているうちでよいので,中学校の部活動を見学してみてはどうか。文化祭や運動家の準備の場面を見てみたらどうか。小学校では想像もつかないような,教科ごとの専門的な内容を自分の言葉で発表する時間の授業を見学してみたらどうか。どうして「小学校では見られなかった生き生きとした姿」を探そうとしないのかが不思議である。

 もちろん,極小規模化している中学校に活気がないのは当たり前である。少子化が進み,危険回避・安全最優先の弱気経営者の増加により,「運動会が盛り上がる」学校は,どんどん減少している。小学校の「延長」にしなからないと危惧されている「義務教育学校」に移行する学校の多くは,生徒数が大きく減少したのに,学校間の距離が長すぎたり,交通機関が確保できない地域で誕生する。こういう小中一貫校で学んだ生徒が,大きな都市部の中学校の教員になって初めてわかることはたくさんあるだろう。そして,何が望ましい教育環境なのかを痛感するに違いない。
 
 学校の統廃合が進まなければ,今後ますます,「小学校の学習指導要領を3年間延長する」だけで成り立ってしまう義務教育の学校が増えていく。

 文部科学省や大学の教育学部には,中等教育,特に中学校教育の専門家がほしい。

 日本の教育を改革するには,免許の違いにきちんと正対して,初等教育と中等教育を完全に切り離す発想が必要である。

 今後,中高一貫教育の成果が伸び,小中一貫教育の弊害が拡大すれば,文科省の「初等中等教育局」を「初等教育局」と「中等教育局」に分離する意義が増してくるはずである。

 学校の極小規模化を前提にした政策は,「学校は必要ない」という現実的な意味を持ち始めるようになるだろう。

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小学校英語教育の最大の欠点

 理想と現実の開きが大きいものの一つに,日本人の英語能力があります。

 勉強してもそれを実際に使う機会がほとんどない人が非常に多い英語は,小学校教員にとっても,「苦痛」「働き方改悪」の象徴のようなものだと思います。

 私が考える最大の欠点は,「英語に対して苦手意識を持っている人が授業=指導と評価をすること」です。

 実は「苦手な人ほど教えるのは上手」という,証明できるデータが一切ないことを根拠に小学校の英語教育を推奨している人もいるようですが,多くの保護者はすでに子どもたちを「英語の塾」「英会話の塾」に通わせ始めています。「教育のプロ」「実務のプロ」に任せたい,という欲求は,当たり前のものですし,実際に「成果」は目に見えて出てきますから,今後,こういう動きに拍車がかかってくることでしょう。

 英語は中学校に上がる段階で非常に大きな差がついてしまう教科になってしまいます。

 教師が「苦手意識」をもっているものに「道徳」があります(自分自身にとっての課題でもあるという自覚をしているまともな人ほど,苦手意識をもつものです)が,「成績」を出さなければならないものではないので,嫌な時間ではあっても,テストがない分,負担感が重いわけでもありません。「道徳」の塾に通わせる保護者もいません(柔道や剣道などを「道徳教育」の一環で習わせている人もいるかもしれませんが)。

 小学校教員には,「算数が苦手」「社会が苦手」といった人も,たくさんいます。

 自分自身の内容理解が浅いために,「学習方法」の研究に頼る傾向にあるのは昔からでしょうが,「英語」のような「技能教科」は,方法と内容が一体化しているので,誤魔化しようがありません。

 高学年の教科担任制など,小学校教育のより望ましい体制への移行を促す犠牲としてくらいしか機能しないように思われる英語教育。いよいよ始まります。

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中1ギャップを考える前提としての小中ギャップ

 小学生の娘の運動会に出かけてきた。

 危険な組体操が排除され,娘は「幼稚園のお遊戯に似てきた」と酷評していたが,楽しそうに演技する小学校最後の姿を目に焼き付けることができた。

 小学校と中学校の違いは様々あるが,小学校には6,7歳児がいるというのが最大の違いといっていいだろう。

 小学生たちは,自分も含めて6年間も6,7歳児と一緒に生活していたのが,中学校に上がるとやたらと体が大きいお兄さん,お姉さんしかいない世界に身を置くこととなる。

 運動会も,迫力が違う。運動が苦手な娘は,体育会系の中学校には適応できないだろう。

 さて,「行事精選」「教員の働き方改革」「危険防止」という流れの中,運動会ですら,変化しようとしてきている。

 そもそも運動会の歴史をさかのぼれば,「戦争」との関係が密接であった。

 「平和」の時代の運動会でも,行進あり,組体操あり,騎馬戦や棒倒しあり,と何ら変わっていない学校もあるだろう。自衛隊や警察に人材を送り込むためには,これらをなくすわけにはいかない,などと声高に言う人はいないだろうが。しかし「銃剣道」が武道の一つとして学習指導要領に明記されるような時代である。「平和とは,たまたま戦争がない時期のことを指す」という歴史観によるものだろうか。

 さて,話は小中ギャップの問題である。

 つい先日も書いたが,小中連携校,小中一貫校の多くがうまく機能していない。

 小学校や中学校における「慣習」をそのまま両者が維持しようとしているからだろうが,まず何を差し置いても,小学校と中学校の先生では「免許が異なる」ことを忘れてはならない。

 たとえが適切かどうかわからないが,バイクの免許があるからといって,自動車を運転してもよいとはならない。

 小中の最大の違いとは何か。教科指導の専門性のことか?そうではない。

 小学生と中学生はそもそも年齢が違うのである。今は死語になったようだが,「発達段階」が異なるのだ。

 学習指導要領を読むと,小学生を対象にして作られた小学校向けの文章が,そのまま中学校にも当てはめられているものが多い。こういうつくりだから,小中連携を大事にする背景はわかるが,小中連携を進めていくには,まずは中学校学習指導要領をしっかりと作り直さなければならない。小学校の延長では通用しない部分がどこで,通用する部分はどこか。通用する部分から連携はできるのだが,通用しない部分では新しく中学校用をつくるのが先だろう。

 小学生は,基本的に先生の言うことをよく聞いてくれるのがよくわかった。

 全体指導は小学校1年生のときに受けたものを,そのまま6年生でも受けて懐かしく思いながらよく従っている。

 しかし,その全体指導は中学生には通じない。

 なぜなのか?

 子どもに「実力」がついてきているからである。

 中1に入ってすぐに,「実力」がつき,それを発揮している上級生を見ているからである。

 小中一貫校では,まず何を先に進めるべきか,「今まであるものをつかう」のはやめて,「今,必要なものをつくる」ことから始めるべきだろう。

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小学校に望む本当の「働き方改革」=小学校が変われば「中1ギャップ」解消に一歩近づく

 まともな学校では,自分で自分を「リーダー」と呼ぶような教師はいない。

 生活指導というと,「それに適した先生」の仕事のように思えるかもしれない。

 テレビドラマで「生活指導主任」の役者は,体が丈夫そうで,怖そうなタイプが選ばれる。

 しかし,実際の教育現場で,優れた生活指導主任の資質は何かと問われれば,

 私は「調整力」だと即答したい。

 管理職はもちろんだが,教師たちの声に耳を傾けつつ,基本方針を徹底してもらえる「話法」が必要である。

 「みんなで~しましょう」

 「私たちは,~しています」

 という「話法」で語れるかどうかが,まずは生活指導主任としての第一歩である。

 自分の考え(あるいは管理職の考え)を他人に押し付けるタイプの人が生活指導主任になると,

 どうしても教師集団のコミュニケーションが希薄になっていく。

 生活指導には,日々起こる新しい事態への機敏な対応が求められる。

 迅速,敏速,俊敏,・・・・そんな「動き」が生活指導の・・・・学校の,命運を握る,と言っても過言ではない。

 しかし,「問題となる事態」を見過ごす教師が一人でもいると・・・・

 あるいは,「問題となる事態」を隠す教師,一人で何とかしてしまおうとする教師がいると・・・。

 共有されるべき情報が共有されないことが,「荒れる学校」から変われない原因の一つである。

 授業は個人の技能次第でいくらでも生徒をひきつけることができるが,

 生活指導は教師全体の揺るぎない統一感が命である。

 だれの口からも,同じような状況では同じような言葉が発せられる学校であることが,

 「荒れる学校」から変わるための条件の一つである。

 「信頼される学校」に変わるために欠かせない条件の一つである。

 だから,「私はこうした」という話をいくらしても,現場の教師の「助け」にはならない。

 生活指導には,「私たちはこうした」という「話法」が欠かせない。

 「私たちの学校は,すべての教師がすべての子どものことを真剣に考える学校です」

 という言い方をすべての教師ができる学校づくりが,生活指導主任の最も大切な仕事となる。

 しかし,小学校にはそもそもそのような「話法」が通用しない空気があるようだ。

 学級ごとに異なったルールが存在するのは当たり前。

 その理由。「子どもが決めたから」。

 当然のことだが,「どうしてあっちはよくてこっちはだめなの」という話になる。

 「クラスが違うんだから,当然だ」という「話法」になる。

 こういう風土の学校では,教師たちが「私たちはこうする」という「話法」が使われることはまれだろう。

 あっちでは試しに「学び合い」をやっている,こっちでは「ドリル中心」でやっている,

 そっちでは「指導書どおり」にやっている。

 授業はそれでいいのかもしれないが,

 授業の基盤となる「生活」が,学級によって異なってしまっていては,中学校に進学したときのギャップに子どもは苦しむことになってしまう。

 どうして学校にマンガを持ってきてはいけないのか。

 どうして休み時間にゲームをしてはいけないのか。

 どうして放課後にお菓子を食べてはいけないのか。

 小学校のときは,よかったのに。

 昔は「いけないものはいけない」という言葉が通じたが,今はそうではない。

 小中のスムーズな接続に最も必要なのは,

 学習指導の問題ではなく,

 生活指導の問題である。

 生活指導の「話法」の有無が,問題なのである。

**************************

 以上は,2014年2月16日の記事:『生活指導の充実を図るための教師の「話法」』の冒頭を一部改変したものである。

 「私のクラスには,そんな問題はない」なんていう反応に意味がないこと,むしろ罪が重いことがわからない限り,小学校の学校経営がつとまるはずもない。管理職がいなくなるのも時間の問題だったのである。

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教師の成長力を奪う力

 教育の世界では昔から,「大学における教員養成の限界」が問題になっている。

 「教育学部の学生の資質能力に課題がある」のは企業だけでなく教育現場も同じことで,

 教育実習に挨拶に来るとき,「教育学部でごめんなさい」とお詫びから入ってくるのが通例になっていることが印象的である。

 私は「教育学部」というところで学生の能力が潰されているのではないかと危惧している教員の1人だが,その根の深さは昔からなので,すぐに改善することは難しいだろう。人間を育てるのは人間なのである。

 
 少子化による学校の小規模化に伴って,適正規模に満たない学校が増え,

 「職場における教員の能力開発の限界」も問題になっており,それだけ余計に

 「現場で使えない若い教師が多くなっている」ことが学校の重荷になっている。


 こういう学校の窮状につけ込んで,教師の成長力を奪う実践が広がっていくことへの懸念もある。

 私は組合には入らなかったが,仮に入ったとしても,組合の体質には絶対に染まらなかっただろうし,

 すぐに抜けていたと思われる。

 今,学校を侵食しているのは,新しいタイプの組合体質を浸透させようとする「革命家」たちである。

 間違いなく,教師の成長力は奪われる。

 教員研修はお遊戯会レベルとなり,「仲良しこよし」が増えるだけだが,

 表向きは,「同僚性が高まった」などと宣伝される。

 浸食率は0.1%にも満たないレベルだろうが,1000校に1校でも子どもたちが犠牲になるのは心が痛む。 

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小学校の授業を参考にする高校教師

 小学校の授業を参観したいと思う高校の教師がいたとしたら,極めて有望な人材だと思われる。

 大学の教育学部などには,元小学校教師だった先生がけっこうたくさんいる。

 とても立派な指導案や板書計画をつくれる人が多いので,こういう先生に習うと,「実践的」な力がつけられることが期待できる。

 大学の先生の専門性は非常に狭い世界に限ったものだから,一人に多くのことを期待してはならないのだが,教師になろうとする人が最も頼りにできるのは,現場で長く勤め上げた人であろうことは,想像のとおりで間違ってはいない。ただ,大学の先生になれるような小学校の教師は,百校とかに1人いるかいないかくらいの割合だろう。そういう先生のようになれと言われても,そう簡単にはいかないのも当然である。

 経験の浅い高校の教師が授業を参観して最も参考になりやすいのは,小学校であろう。

 題材が簡単だから,すぐに自分なりの別のアプローチが思い浮かぶし,子どもたちは素直だからわかりやすい演技をしてくれる。

 中高との激しすぎるほどの落差を痛感すると,かえって教育困難校の教師にとっては,ハードルが下がった分,どこでつまずいた子どもがどういう辛い目に遭っているのかという共感を持とうとするきっかけにもなる。

 中学生にしろ高校生にしろ,場合によっては大学生にしろ,まるで小学生のように無邪気に課題に取り組んでくれるような教材をいくつか持っていると,今までつまらない授業をしてくれていたセンセイたちに感謝したくなる人が出てくるかもしれない。

 小学生たちが夢中になる授業で心を洗われた後,現実に戻るのはキツイかもしれないが,本当に意味のある「学び」とは何かを考えるための出発点に立つこともできるかもしれない。

 常に初心に帰れる場所を持っておくことは大事である。

 よりよい「原点」は,教師になって何年かしてから見つけ出すことになる人もいるだろう。

 私はまだ「原点」を探しているところであるが,見つけるのは退職してからになるかもしれない。

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どのレベルの生徒に合わせて授業をしますか?

 私は社会科の教師だからか,「どのレベルの生徒」という質問を受けたときに,「何のレベルの話?」と聞き返さずにはいられない。

 「コミュニケーション能力のレベル?」

 「知能指数のレベル?」

 「社会科の知識レベル?」

 「思考力とか,資料活用力のレベル?」

 「親しさのレベル?」

 「実際についている役職のレベル?」

 授業では,非常に多くの問いかけが子どもに対してなされるが,その難易度は一定ではない。

 様々なレベルの子どもに向かって,様々なレベルの問いを投げかける。

 答えが言えない子どもにとって,その問いは意味がないと捉えるのは,

 「今日は,これができるようになりましょう」などと子どもに指示する下らない教育のレベルの話だろう。

 「授業中にはできるようになっても,家に帰ったらできなくなる」ようなことを学校で延々とやっていても意味はない。

 問いとその応答のやりとりを通して,コミュニーション能力を向上させていく。

 知識はどういう風に使われることで,意味を持って行くか自覚させていく。

 「思考力」とは,ただ「考える」という漠然とした頭の働きではないことに気づかせる。

 Aさんは共通点から大事なことを読み取った。Bさんは因果関係から本質に迫ってきた。

 Cさんは・・・。多くの発言がさまざまなレベルの子どもにとって,参考になっていく。

 対話を通して,それぞれのレベルの子どもに合っていく,それが「授業」である。

 今時の「教育学者」は,こんな当たり前のことを学生たちに語ることができないのだろうか?

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9月13日 世界法の日に考える「法の支配」

 「深い学びなど必要ない」と主張している大学のセンセイに習った人たちは,教員採用試験ではちゃんと「建前」を述べて,得点を稼ぐのだろうか。それとも,大学の「学び」を生かして,試験官に喧嘩を売るのだろうか。

 教育現場で「法の支配」という言葉を使うと,すぐに「よくないこと」というイメージを連想する教師が少なくないだろう。

 社会科の公民的分野や政治経済で学んだはずの「法の支配」という概念は,

 学校現場で惰性にまかせて教師を続けていると,いつの間にか生徒たちにとっての「校則による支配」などと同じようなレベルのものに変換されてしまうに違いない。

 採用試験のときはきちんと勉強したはずだった「教育法規」だが,管理職試験を受けようとして「学び直し」をしてみると,「こんな法律もあったのか!」などと驚くこともある。

 国際社会では,「法の支配」ではなく,「国益の支配」が主流になっているような印象があるのだが,

 学校現場でも,やはり「法の支配」ではなくて,「子どもや親の利益の実現」という目的に偏ってきている気がする。

 「未履修問題」に代表される「ルールを無視した受験重視・効率重視の学習・進路指導」を是正しようとしているのが,現在の教育改革のねらいの一つである。

 しかし,「子どもや親の利益のため」という部分を票のために議員までもが実現しようとしているので,

 学校現場の感覚ではどう考えても「それはない」というタイプの政策が浮上してきている。

 借金をして将来世代に負担を押しつけながら,「今の景気が良くなりすればそれでよい」という短期的利益誘導型の政策が,ありとあらゆる分野に一律に仕掛けられてきている。

 「法の支配」が実現しているのかどうか,チェックする機能を果たすべきなのは,どこのだれだろう。

 残念ながら,それを実行する主体が自分たちの利益ばかり考えてしまうというところが,悲しいところである。

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妄想教育に教材研究は必要ない

 妄想教育への批判は,どこから始めればよいのか,悩んでいる人がいるようです。

 そういう人やそういう人が集まっている場所には近づかない,というのが正解だと思うのですが,

 本当に出口が見えなくて困っている人たちにとっては,胡散臭いものの方が逆に「本物」に見えてくる。

 「藁をもつかむ」気持ちでいるときに,人は正常な判断が下せないものです。

 教材研究がなくても,具体的な子ども理解はなくても,信じさえすれば,成果が出せる。

 こんな妄想をいつの間にか「本物」として信じ込んでしまった人を現実世界に「取り戻す」のは骨の折れることです。

 教育の世界で教材研究を「取るに足らないもの」と信じ込んでいる人が,大きな過ちを犯したことを,このブログで具体的に紹介しました。大学に身を置きながら,「教材理解の浅さ」を露呈したその人物は,自分の過ちを認めないところや攻撃が大好きなことが「定評」になってか,「この人にだけは授業の講評をしてもらいたくない」という有名人になっているそうです。

 やがて忘れ去られる運命にある他国第一主義の人間や妄想教育の指導者は,他人の努力に価値を見出せないことが,最も「教育」から遠い位置にいる大学の「ただのガクシャ」らしいところなのです。

 人の努力を自分は認めないくせに,自分の努力を認めてくれないとすねる。

 教師が劣化している原因はお前にある,という批判に正面から応えられない。

 本を読む動機を与えてくれるのがよい教師としての資質の一つでしょう。

 批判をする前に,俺の本を読め,と本を読んでいる人に言う人とコミュニケーションをとることは困難です。

 だって,あなたが大切だと思うことは書いてあるけど,多くの人が大切だと思っていることと,食い違っていますよね,とか,あなたが書いていることは,みんなもうわかっていますよ,という問いかけに,「お前がわかっていないだけだ」と返されてしまうと,もうその人のかかわった本は読む気がしなくなるし,そもそも書いてあることが全く信用できなくなる。

 教育現場にご自分の妄想を押しつけることだけはやめてほしいのですが,「講師」に面と向かって批判できる教師は,どこかの政権内部と同じように,きっといなくなってしまっているのでしょうね・・・。

 私は組合員ではありませんが,組合のときだけ元気になっていた教師たちを懐かしく思い返しています。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より