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カテゴリー「小中連携」の556件の記事

教師の成長力を奪う力

 教育の世界では昔から,「大学における教員養成の限界」が問題になっている。

 「教育学部の学生の資質能力に課題がある」のは企業だけでなく教育現場も同じことで,

 教育実習に挨拶に来るとき,「教育学部でごめんなさい」とお詫びから入ってくるのが通例になっていることが印象的である。

 私は「教育学部」というところで学生の能力が潰されているのではないかと危惧している教員の1人だが,その根の深さは昔からなので,すぐに改善することは難しいだろう。人間を育てるのは人間なのである。

 
 少子化による学校の小規模化に伴って,適正規模に満たない学校が増え,

 「職場における教員の能力開発の限界」も問題になっており,それだけ余計に

 「現場で使えない若い教師が多くなっている」ことが学校の重荷になっている。


 こういう学校の窮状につけ込んで,教師の成長力を奪う実践が広がっていくことへの懸念もある。

 私は組合には入らなかったが,仮に入ったとしても,組合の体質には絶対に染まらなかっただろうし,

 すぐに抜けていたと思われる。

 今,学校を侵食しているのは,新しいタイプの組合体質を浸透させようとする「革命家」たちである。

 間違いなく,教師の成長力は奪われる。

 教員研修はお遊戯会レベルとなり,「仲良しこよし」が増えるだけだが,

 表向きは,「同僚性が高まった」などと宣伝される。

 浸食率は0.1%にも満たないレベルだろうが,1000校に1校でも子どもたちが犠牲になるのは心が痛む。 

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小学校の授業を参考にする高校教師

 小学校の授業を参観したいと思う高校の教師がいたとしたら,極めて有望な人材だと思われる。

 大学の教育学部などには,元小学校教師だった先生がけっこうたくさんいる。

 とても立派な指導案や板書計画をつくれる人が多いので,こういう先生に習うと,「実践的」な力がつけられることが期待できる。

 大学の先生の専門性は非常に狭い世界に限ったものだから,一人に多くのことを期待してはならないのだが,教師になろうとする人が最も頼りにできるのは,現場で長く勤め上げた人であろうことは,想像のとおりで間違ってはいない。ただ,大学の先生になれるような小学校の教師は,百校とかに1人いるかいないかくらいの割合だろう。そういう先生のようになれと言われても,そう簡単にはいかないのも当然である。

 経験の浅い高校の教師が授業を参観して最も参考になりやすいのは,小学校であろう。

 題材が簡単だから,すぐに自分なりの別のアプローチが思い浮かぶし,子どもたちは素直だからわかりやすい演技をしてくれる。

 中高との激しすぎるほどの落差を痛感すると,かえって教育困難校の教師にとっては,ハードルが下がった分,どこでつまずいた子どもがどういう辛い目に遭っているのかという共感を持とうとするきっかけにもなる。

 中学生にしろ高校生にしろ,場合によっては大学生にしろ,まるで小学生のように無邪気に課題に取り組んでくれるような教材をいくつか持っていると,今までつまらない授業をしてくれていたセンセイたちに感謝したくなる人が出てくるかもしれない。

 小学生たちが夢中になる授業で心を洗われた後,現実に戻るのはキツイかもしれないが,本当に意味のある「学び」とは何かを考えるための出発点に立つこともできるかもしれない。

 常に初心に帰れる場所を持っておくことは大事である。

 よりよい「原点」は,教師になって何年かしてから見つけ出すことになる人もいるだろう。

 私はまだ「原点」を探しているところであるが,見つけるのは退職してからになるかもしれない。

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どのレベルの生徒に合わせて授業をしますか?

 私は社会科の教師だからか,「どのレベルの生徒」という質問を受けたときに,「何のレベルの話?」と聞き返さずにはいられない。

 「コミュニケーション能力のレベル?」

 「知能指数のレベル?」

 「社会科の知識レベル?」

 「思考力とか,資料活用力のレベル?」

 「親しさのレベル?」

 「実際についている役職のレベル?」

 授業では,非常に多くの問いかけが子どもに対してなされるが,その難易度は一定ではない。

 様々なレベルの子どもに向かって,様々なレベルの問いを投げかける。

 答えが言えない子どもにとって,その問いは意味がないと捉えるのは,

 「今日は,これができるようになりましょう」などと子どもに指示する下らない教育のレベルの話だろう。

 「授業中にはできるようになっても,家に帰ったらできなくなる」ようなことを学校で延々とやっていても意味はない。

 問いとその応答のやりとりを通して,コミュニーション能力を向上させていく。

 知識はどういう風に使われることで,意味を持って行くか自覚させていく。

 「思考力」とは,ただ「考える」という漠然とした頭の働きではないことに気づかせる。

 Aさんは共通点から大事なことを読み取った。Bさんは因果関係から本質に迫ってきた。

 Cさんは・・・。多くの発言がさまざまなレベルの子どもにとって,参考になっていく。

 対話を通して,それぞれのレベルの子どもに合っていく,それが「授業」である。

 今時の「教育学者」は,こんな当たり前のことを学生たちに語ることができないのだろうか?

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9月13日 世界法の日に考える「法の支配」

 「深い学びなど必要ない」と主張している大学のセンセイに習った人たちは,教員採用試験ではちゃんと「建前」を述べて,得点を稼ぐのだろうか。それとも,大学の「学び」を生かして,試験官に喧嘩を売るのだろうか。

 教育現場で「法の支配」という言葉を使うと,すぐに「よくないこと」というイメージを連想する教師が少なくないだろう。

 社会科の公民的分野や政治経済で学んだはずの「法の支配」という概念は,

 学校現場で惰性にまかせて教師を続けていると,いつの間にか生徒たちにとっての「校則による支配」などと同じようなレベルのものに変換されてしまうに違いない。

 採用試験のときはきちんと勉強したはずだった「教育法規」だが,管理職試験を受けようとして「学び直し」をしてみると,「こんな法律もあったのか!」などと驚くこともある。

 国際社会では,「法の支配」ではなく,「国益の支配」が主流になっているような印象があるのだが,

 学校現場でも,やはり「法の支配」ではなくて,「子どもや親の利益の実現」という目的に偏ってきている気がする。

 「未履修問題」に代表される「ルールを無視した受験重視・効率重視の学習・進路指導」を是正しようとしているのが,現在の教育改革のねらいの一つである。

 しかし,「子どもや親の利益のため」という部分を票のために議員までもが実現しようとしているので,

 学校現場の感覚ではどう考えても「それはない」というタイプの政策が浮上してきている。

 借金をして将来世代に負担を押しつけながら,「今の景気が良くなりすればそれでよい」という短期的利益誘導型の政策が,ありとあらゆる分野に一律に仕掛けられてきている。

 「法の支配」が実現しているのかどうか,チェックする機能を果たすべきなのは,どこのだれだろう。

 残念ながら,それを実行する主体が自分たちの利益ばかり考えてしまうというところが,悲しいところである。

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妄想教育に教材研究は必要ない

 妄想教育への批判は,どこから始めればよいのか,悩んでいる人がいるようです。

 そういう人やそういう人が集まっている場所には近づかない,というのが正解だと思うのですが,

 本当に出口が見えなくて困っている人たちにとっては,胡散臭いものの方が逆に「本物」に見えてくる。

 「藁をもつかむ」気持ちでいるときに,人は正常な判断が下せないものです。

 教材研究がなくても,具体的な子ども理解はなくても,信じさえすれば,成果が出せる。

 こんな妄想をいつの間にか「本物」として信じ込んでしまった人を現実世界に「取り戻す」のは骨の折れることです。

 教育の世界で教材研究を「取るに足らないもの」と信じ込んでいる人が,大きな過ちを犯したことを,このブログで具体的に紹介しました。大学に身を置きながら,「教材理解の浅さ」を露呈したその人物は,自分の過ちを認めないところや攻撃が大好きなことが「定評」になってか,「この人にだけは授業の講評をしてもらいたくない」という有名人になっているそうです。

 やがて忘れ去られる運命にある他国第一主義の人間や妄想教育の指導者は,他人の努力に価値を見出せないことが,最も「教育」から遠い位置にいる大学の「ただのガクシャ」らしいところなのです。

 人の努力を自分は認めないくせに,自分の努力を認めてくれないとすねる。

 教師が劣化している原因はお前にある,という批判に正面から応えられない。

 本を読む動機を与えてくれるのがよい教師としての資質の一つでしょう。

 批判をする前に,俺の本を読め,と本を読んでいる人に言う人とコミュニケーションをとることは困難です。

 だって,あなたが大切だと思うことは書いてあるけど,多くの人が大切だと思っていることと,食い違っていますよね,とか,あなたが書いていることは,みんなもうわかっていますよ,という問いかけに,「お前がわかっていないだけだ」と返されてしまうと,もうその人のかかわった本は読む気がしなくなるし,そもそも書いてあることが全く信用できなくなる。

 教育現場にご自分の妄想を押しつけることだけはやめてほしいのですが,「講師」に面と向かって批判できる教師は,どこかの政権内部と同じように,きっといなくなってしまっているのでしょうね・・・。

 私は組合員ではありませんが,組合のときだけ元気になっていた教師たちを懐かしく思い返しています。

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「お友達」を増やすことだけで満足していたら,学校に来る意味がない

 学校時代にできた友人と長く関係を持ち続けている人も多いだろう。

 「学校は,友達をつくるところ」という宣伝も,間違いではない。

 教育のねらいや有効性を宣伝するとき,基本的に「良いこと」「気持ちが安らぐこと」「ためになること」が前面に出て,「反対意見」はないことが普通である。

 しかし,学校という社会にいて,いつもだれかから守られている,いつも同じような趣味や考えの人と一緒にいる,いつも自分の生活に満足している,・・・そういう状況の中で,人は人として成長できるのだろうか。

 実社会に出て,「あれっ? こんなはずじゃないのに・・・」と不平不満を訴える人が多いのはなぜだろう。

 自分自身の弱さや未成熟に目が向かなくなっている人たちに,「再教育」の場は訪れにくい。

 「学校にいても,だれも私を守ってくれない」「みんなと自分は違う考えで,友達もできず,孤立している」「勉強ができないのに,だれも私に教えてくれない」状況の子どもは成長できるのか?と批判したくなる人もいるだろうが,子どもとは,多かれ少なかれ,基本的にそういう不安や不満を抱くものである。

 「不登校ゼロ」「いじめゼロ」を実現する,といって,過剰に子どもたちを防衛した結果が,「不登校たくさん」「いじめ件数増加」なのではないか。

 「学校にいても,だれも私を守ってくれない」わけではなかった。「私を守ってくれている人の存在に気づけない自分」がいたことに気づいた。

 「みんなと自分は違う考え」だから友達ができないわけではなかった。「私が違う考えへの興味や関心を持てなかった」のが悪いことだと気づいた。

 「勉強ができない私」は,それを「教えてくれない人」のせいにして,「自分ができるはずの努力をしていなかった」ことに気づいた。

 こういう「気づき」のために,学校は存在する。

 「一人も見捨てない」という教師の願いが,結果として「最も見捨ててはいけない子どもに最大の不利益を与えていた」ことに気づける教育者が増えてほしい。

 「学力調査の結果がよくなる」ことで安心や満足を与えようとしている人間がいかに胡散臭いか,「教育者」ならだれでもわかるだろう。

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省庁の動き 「介入」とみるか「介護」とみるか

 今日,電車の中吊り広告を見ていて,ある雑誌の「経産省による企業経営への介入が進んでいる」という趣旨のタイトルが目に入ってきた。

 天下りの批判が強くなってきて,現役官僚の出向が増えてくると,

 文部科学省が大学を直接動かす,

 経済産業省が企業を直接動かす,

 といった図式が表面化しやすくなっていくのかもしれない。

 あるブログでは,省庁の壁を越えて,

 「経済産業省が学校を動かす」役割を果たそうとしていることが紹介されていた。

 政策の実行=予算の獲得が,だれの何のためか,見定める必要がある。

 教育という仕事は,利益を出すための企業活動と異なっているという点だけ,書いておきたい。

 大部分が人件費という世界では,「人がすべて」という特色がある。

 教師の多くは,仕事で楽をしたいと思っているわけではない。

 子どもに寄り添おうとすればするほど,子どもによりよい学校生活を送ってもらおうと思えば思うほど,

 子どもによりよい授業をしようと思えば思うほど,仕事はどんどん増えていく。

 仕事が増えて,成果が上がったら,給料が増える,というものではない。

 そういうものではないからこそ,堂々とした仕事ができる。

 仕事の省力化という発想自体が,そもそも学校現場に通用するかどうかはわからない。

 教育の仕事は,「できること」「やるべきこと」「やりたいこと」が山のようにある。

 事務仕事の一部の軽減に成功したら,やれていなかったそれらのことができるようになる。

 時間は同じでも,絶対量は増えていく。

 「生産性を向上させる」というねらいは達成できるかもしれない。

 他省庁の「介護」を受けて,本領を発揮しようと思ってくれる省庁があるだろうか。


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大学生は「子ども」ではないか?

 私がある大学の採用面接を受けたときに,面接官の方(役職名も教えていただいていましたが,失念しました)が事務的ではなく,本気で聞いてきているなと思った質問が,

 「うちの大学はどのような評価を社会から得ていると思われているか」

 という趣旨のものでした。私はだれかからその大学の評価を耳にしたことは一度もなかったのですが,まさか「耳にしたことはございません」とも答えられないので,

 「教育のナントカと呼ばれるように,とても評判はよいです」と当たり障りのないことをお答えしました。

 本心で言っていないのがバレたのか,何だか煮え切らないような反応をされていましたが,

 教育学部でそれなりに学生の質が高いことは間違いなく,かつての同僚もその出身だったので,「良い教育をされていると思います」としか答えようがありませんでした。

 ただ,小学校とは違って中高の教員採用試験にはあまり合格者が出ていないことも確かで,どこかの教員採用試験予備校のような大学ではないために,経営陣には大学の将来性に多少の不安があるのかもしれません。

 いずれにせよ,大学の大学生の扱いは,昔と比べてはるかに「丁寧」になっていることは確かでしょう。

 私から言わせれば「子ども扱い」という話ですが,

 「子ども扱い」した方が,教員になりやすいのであれば,そうした方がよいかもしれません。

 「一人も見捨てない」と息巻く人たちは,「子ども」たちを何歳まで自分たちの方法で育てようとしているのでしょうか。

 大学生だと,いくらでも見捨ててよいのでしょうか。

 採用試験に合格できないで困っている人たちが気の毒で仕方がありません。

 教育学部なんかにいて教育学とか中途半端な免許のための単位を取らされるより,教員になってからもっと役に立つ学問がいくらでもあったはずなのに・・・。

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授業では,「わかったつもりになっている子ども」を罠にはめることも大事

 公立の小中学校レベルの授業だと,すでに塾とか通信教育での学習で「履修済み」の内容が扱われたりして,一部の子ども(地域によっては大部分の子ども)にとって「わかっていること」を繰り返しているだけの場面が増えてきます。

 当然,教師は,まだわかっていない子どもをわかっている状態に変えるために授業をしますから,単純な発想しかできない人は,「わかっている子どもに教師役になってもらう」という姑息な手段に訴えようとします。

 ただ,まだわかっていない子どもが「わかった!」という快感が得られる手前で答えを言ってしまうなど,「手加減を知らない」「自分の優位性を示したい」のがやはり子どもらしいところですから,「わからない」状態にある子どもが,「わかる」プロセスを通してせっかくの「成功体験」が得られる機会が無駄になってしまうことが多いのです。

 だから,「わかっている子どもがいるんだから,任せてしまえ」というのはあまりにも乱暴というかいい加減な態度なので,絶対にやめてほしいのです。

 これからの学習指導で「主体的・対話的な深い学び」を子どもに実感させるために,いい方法があります。

 「わかったつもり」になっている子どもに「本当のことはわかっていなかった」と思わせ,「わからない」子どもの方が「本当のことがわかりやすい」立場にいたことを実感させるのです。

 「わかったつもりになって人に説明することが,いかに恐ろしいことか」を実感させれば,授業に集中しやすい環境がつくれるでしょう。

 以前どこかで紹介したかもしれませんが,聖徳太子(厩戸王)の政策を蘇我馬子が苦々しく思っているように描いている漫画と,誇らしく思っているように描いている漫画があります。漫画にも,レベルの違いがあるのです。

 どうして蘇我馬子の反応が違うのか。どっちが正しいのか。

 小学校レベルの授業では,「聖徳太子の政治」というタイトルが成立していますが,今,そういうタイトル自体が成立しないような解釈が一般化してきています(残念ながら,一番売れている中学校の教科書も,そういう小見出しがついてしまっていますが)。

 なぜ聖徳太子が,朝廷のあった場所からかなり離れた斑鳩に拠点を置いたのか?

 それが次の段階に考えさせることで,聖徳太子の死後,何が起こったのか?

 小学生にもこの辺までふれておいてくれると,「権力争い」の構図の捉え方の基礎が身に付く感じがしますね。

 もちろん,「高校生レベルが深い学びなんだ」というわけではありません。

 小学生にでも,「蘇我氏の実力」をどう捉えるべきか,深く考えることは不可能ではないでしょう。

 「善」と「悪」に簡単に分けて人間や歴史を語るような態度では,「深い学び」は絶対に不可能です。


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「わかっている子」の説明で,「わかっていない子」が理解できるようになるか?

 教師が教えるより,子どもが教えた方が,教えられる子どもは理解しやすい,と主張している人がいますが,それはときと場合によるでしょう。

 もしそういう主張が正しいのであれば,「小学3年生の勉強のよくできる人が教師をしている小学3年生のための塾」などが商業的に成立しているはずでしょう。「教えるプロ」なんていらない,という主張なんでしょうから。

 教師をしていれば・・・というより,教育心理学とか認知心理学を学べばわかることですが,

 「理解の仕方」「認識の仕方」は子どもによってまちまちです。

 「言葉で理解してしまう子ども」が,言葉のまま説明しても,

 「言葉だけでは理解できない子ども」にはわかりません。

 一斉授業をしながら,教師たちは,「いかに子どもの発言・説明を他の子どもにも理解できるようにさせてあげるか」に苦心します。手っ取り早いのは,教師が「言い換え」をしてしまうことです。

 それで理解できるきっかけになる場合もありますが,「言い換え」は説明する側の子どもができるようにしなければなりません。

 ICTなどいろいろな道具を使ったり,黒板に図を書いたり,たとえ話をもってきたりして,「変換作業を行う場」が一斉指導の中で必要なのです。

 教育実習をしているときに,大学生の実習生の発問を,生徒がわかりやすく変換して,課題を焦点化したり,具体化してから,考えや答えを述べる,という場面が出てくるように指導しておくのが,教師の役割です。

 「自分がわかっていても,相手が同じような方法でわかるとは限らない」。

 一斉授業を行って,教師である自分自身の説明や,教科書の記述を例にして,これをきちんと把握させておくことが教師には求められます。

 教師はだめだが子どもが説明すれば大丈夫なんて,簡単に言ってはいけないのです。

 「何がどうわからないかがわかるというのは,相当高いレベルのこと」ということを理解した上で,学習は進めていくものです。

 ボタンのかけ違いはあとで取り返しのつかないことになりますから,ぜひぜひ注意して下さい。

 特に,「同じレベルの仲間が多いほどいい」なんて言っている連中には警戒して下さい。

 だめな人が束になって自分たちの首を絞めるのはやめましょう。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より