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カテゴリー「小中連携」の492件の記事

動いたり話したりしていないと「学んでいない」と考える人たちがつくる落とし穴

 人間は,自分の頭脳を本当にしっかりと使っているとき,どんな状態になると思いますか?

 ものを考えているときに,だれかが無神経に話しかけてきたら,どう感じるでしょうか?

 「話しをしながら考える」ことができる人間など,ごくわずかです。

 残念ながら,教育の世界には,もともと「座学」が大嫌いな人がいて,子どもが歩き回ったり話したりしているだけで,嬉しくなってしまう人がいます。

 小学校だけかと思いきや,高校の授業ですら,見当外れの意見が出ても,「ああ,自分の考えをもつことができていて素晴しい」と感動してしまう人がいる。

 事実認識も関係認識も誤っているのに,たまたま評価者(学校では教師)がもっている価値認識と重なっただけで,よしとされてしまう仕組みが世の中にはあるのです。

 だから,多くの人間が「騙される側」「利用される側」に陥っていく。

 子どもが勝手に動くことも話すことも放置して,結局何もわかっていない状態に子どもが陥っていくのを気にせずにすませられてしまう人が教師になったら,学校はどうなっていくのでしょう。

 価値認識を最優先させて,事実認識や関係認識をしっかり育てない国だから,先の戦争が防げなかったのではないでしょうか。

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義務感を持たせて死亡率が2倍に

 政治家の中には,自分の命を狙われることなど何とも思わず,言うべきことを言ってきた人がたくさんいる。

 人の命がどうなろうとお構いなし,という政治家も,もちろんいた。

 自分の信念を貫くために,平気で嘘をつく政治家もいるが,神様と個人が直接対峙しにくい日本には,そういう人間を許容する緩い文化がある。

 ただ,子どもの将来にかかわることについては,いたずらに危機感を煽り,「おれたちの仲間だけが救世主だ」みたいな言動は慎んでいただきたい。


 貴族という特権や階級社会そのものを認めさせるために考え出された「高貴なる者の義務」という用語。

 第一次世界大戦でイギリス貴族の多くの若者が犠牲になり,イギリス貴族を没落させる結果になったことは,歴史の皮肉である。

 子どもの教育に熱意をもって仕事をさせようとすれば,1日24時間では足りなくなる。

 48時間くらいかかることを効率を上げて,毎日16時間くらいで終わらせる努力している教師たちにとっては,間近に迫っているかもしれない「死」を意識するゆとりもない。

 自分自身の子どもがいない若いうちは,いくらでも時間があるから,とにかく自分ができることはすべてやり尽くす,という姿勢が続く教師も少なくない。

 一方で,「自分の時間が大事」と10時間足らずで帰宅していく幸せな若者たちもいるが,そういう教師を恨むつもりは毛頭ない。

 なぜそういう教師を許せるのかというと,子どもたちに「いろいろな大人がいる」ことを知ってもらいたいという願いがあるからである。

 机にかじりついて,子どもの作品にコメントを書き続けている教師もいれば,子どもが帰った放課後のテニスコートで汗を流している教師たちもいる。さっさと学校を出てパチンコにいく教師もいる。

 義務感なり責任感でいっぱいになった大人ほど,子どもたちにとって頼りがいのある対象はいないが,同時に,鬱陶しい存在でもある。

 社会では,本当の使命感をもって仕事に臨んでいる人は,そんなに多くはない,ということを知ることも大切だ。

 自分が責任をとらされたくないために,部下に義務感を高めるようなプレッシャーをかける人間がいるのを知ることも大切である。

 義務感や責任感を強めさせるために,プレッシャーをかけるだけの人間は気楽なものである。

 戦地に若い兵士を送り出すとき,自分が上官だったら,どんな言葉が適切だろうか。

 
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義務教育でアクティブ・ラーニングに取り組ませる目的

 学習指導要領の改訂によって,「主体的・対話的で深い学び」の実現が求められているが,

 これは従来,観点別で評価していた関心・意欲・態度,資料活用の技能と思考・判断・表現,知識・理解という学力の3つの面について,

 「量」はそのままで「質」を高めよ,という話である。

 今まで「量」をこなしても,それが身についていなかった。

 だから,学習の「質」を高め,身につく「量」も増やせ,という方が趣旨に近いかもしれない。

 学習の「質」が高まってこなかった背景には,「観点別学習状況の評価」の存在があった。

 私がこれまでこのブログで何度も指摘してきたように,

 「観点別の評価」というのは,学力の総体を見るものではないために,

 「関心・意欲・態度」を授業中に発言した回数や提出物を出した回数で評価するなど,目標とは無縁のいい加減な評価がまかり通っていた現状があった。

 今後,4観点が3観点に変わるのだろうが,同じ過ちが繰り返されるおそれがある。

 センター試験のように,穴埋め問題ができたことをもって「知識・理解」がなされているという恐ろしく適当な評価をしてきた教員にとって,アクティブ・ラーニングがどんな学習か想像もつかないかもしれないが,

 あることがらをこれらの資料を使って2~3の観点から説明せよ,という「目標に照らして本来そうあるべき学習内容と方法」を課題として与えてきて,1つの課題に対する解答を各観点から評価できていた教員にとっては,「今まで通り」で何の問題もないのである。

 「深い学び」についてイメージできない人は,まずは自分の大学での卒業論文を想定してみる。

 卒論で「深い学び」をした経験させてもらえなかった大学の卒業生は,教員として採用するべきではないだろう。

 もちろん,教育実習に毛が生えた程度の実践をして,単純に「みんなで正解できました」「これでみんな理解できました」などという報告をしただけの大学生も,教員にしてはならない。

 義務教育でアクティブ・ラーニングに取り組ませる目的は,

 一言で表現すれば,「わかっていない,という自分の状況がわかるようにしてあげること」である。

 成果至上主義は教育の世界にも蔓延しているから,

 「わかったつもりの人間」が隅から隅まであふれ出している。

 「わかったつもりの人間」を大量生産しているのは,A4用紙たかだか数十枚程度の文字数で,「これで授業は劇的に変わる」などと宣伝している暇人たちのせいでもある。

 現状のどこが問題かがわかっていないような人間も増えているが,それは

 「アクティブ・ラーニング」がこの国の教育の常識ではなかったからである。

 「本を読めばできるようになる」などと考えている人間がいるとしたら,まさに

 「アクティブ・ラーニングとは縁がなかった」という証拠になる。

 主体的・対話的で深い学びを子どもにさせてあげようとするならば,

 まずは校内研修でそういう「学び」を経験してみるべきだろう。

 呼んだ講師を評価するときの大事な視点は,

 「わかったつもりになった自分がバカだった」と思えるかどうかである。

 「よくわかった」などと「わかったふり人間」を増やしただけだったら,研修は意味がなかったと考えてよい。

 いきなり隣の教員と握手させたり,肩をたたき合うような暇つぶしをする講師が来たら,まずは怪しいと思った方がよい。

 データをたくさん示し始めて,「科学的ですよ」なんていう雰囲気を充満させる講師も同様である。

 将来の子どもの危機を煽るような人間も同様である。

 「似非アクティブ・ラーニング」は,必ずこうした「目くらまし」から始まる。

 歴史や伝統がない国のアクティブ・ラーニングが,

 歴史も伝統もある国のアクティブ・ラーニングのパクリでは,

 どう考えてもアクティブ・ラーニングにはなり得ない。

 自分たちで工夫すること。

 教師が工夫すること。子どもが工夫できる余地を与えること。

 それが義務教育でアクティブ・ラーニングに取り組ませる目的である。


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「わからない人」「批判的な人」を排除する人間が語る「だれも見捨てない」教育とは

 お友達連中で成功体験を喜び合うことは,決して悪いことではない。

 小学校という教育現場では,教師一人一人の孤立傾向が強いため,「自分は研究熱心」と自画自賛したい教師たちは,同僚との結びつきよりも,学校外の教師たちとのつながりを大切にする。

 学校内では浮いた存在でも,仲間と一緒なら頼りにされる満足感も得られる。

 もちろん小学校の中には,力のある教師が若い教師たちを育てる環境が整っているところもあるだろう。

 そういう学校の教師なら,放課後にいそいそと外部に出かけていく時間などないはずである。校内に指導対象となる教師はいくらでもいるから。

 中学校のように,学年全体・学校全体で共通理解をもつために情報のすり合わせをしなければならないところは,横だけでなく縦のつながりも軽視できなくなる。

 だから,「わからない人」「批判的な人」を仲間はずれにしている余裕はない。

 そういう教師を放置しておくと,不利益を被るのは学校全体=子どもたちと自分たちということになる。

 「あいつらに,俺たちの言っていることの意味なんかわかりゃしないだろう」という話法は,たまたま組合活動の中心部の教師たちに,総合的な学習の時間の動かし方をレクチャーしに行ったときに耳にしたものである。

 「おいおい,私も『あいつら』の一部なんだけど・・・」とは言わなかったが。

 排除指向が強い人間ほど,口では「生徒のため」「子どものため」などと言っておきながら,

 実質的には「自分たちと同じ考えをもっている教師のため」にしか動いていないという姿を嫌と言うほど見てきた。

 総合的な学習の時間がなぜ大切になってくるのか,移行期間の実践からの成果をいくら説いても,「負担が増える」の一言で聞く耳を持たない教師もいた。「すべての子どものために」という看板は,ただの飾りでしかなかったのである。

 そもそも「生徒のため」なんていう言葉は,教育に携わる人間だったらわざわざ口に出すまでもなく,当たり前すぎる前提の姿勢である。

 そういう言葉をわざわざ口にするタイプの人間ほど怪しい奴はいない。

 言葉に酔いやすい人間が集まっている教育のグループでは,「感動話」に花が咲く。

 そこで同じように花が咲いている「敵集団の失敗話」が表に出ることはないだろう。


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人を見捨てる余裕のある人にはわからない話

 子どもたちは,教師の想像以上に自分たちのことがわかっている。

 また,教師の想像以上に教師のことがわかっている。

 そういう子どもたちのことを信頼できない教師に限って,どんなことを言い出すのか。

 「だれも見捨てるな」

 これほど傲慢な言葉はない。お前は,何様なんだ?

 「私はだれも見捨てない」

 おいおい,お前に何ができるっていうんだ?

 うちの家族の喧嘩も止められるのか?

 家を出ていったオヤジを連れ戻せるのかよ。

 お前,俺たちのことがどのくらいわかってるんだ?

 できるやつには高い成績をあげて,

 できないやつには低い成績を刻み込んでいく。

 できないやつに花を持たせて,調子に乗せて,

 「おれは見捨てていなかった」と胸をはるのか?

 お前の手柄話のために,俺たちは利用されているのか?
 
 俺たちの間には,お前ごときが「見捨てる」も「見捨てない」もないんだよ。

 そもそもお前たちは,俺たちなんかに関心のない連中の言いなりになっているんじゃないか?

 関心があるつもりになって,「見捨てないよ」なんて,わざとらしいにもほどがある。

 浮かれた話に飛びついて,そのときだけ「その気」になっているのが見え見えなんだよ。


 子どもから見える「無責任な大人」の姿とは,どのようなものだろうか。

 最も胡散臭く見えるのは,「わかったような顔」をしている人間である。

 
 自信満々の姿で子どもを引っ張っていける時期は長くない。

 「不安でいっぱいの大人」がいても,一向にかまわない。

 教師の中には,自分自身を「見捨てる」ことを避けるだけで精一杯の人もいる。

 「人を見捨てる」ことができるほど余裕のある人間にはわからない話かもしれないが。

 そういう教師が,「あなた自身のことだけは,決して見捨てることのないように」と子どもに向かって願う姿に,冷水を浴びせるようなお節介な「同志連中」が邪魔なのである。

 
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見えていないものがそこにある

 子どもっぽい集団のいじめと,そうでない集団のいじめの区別を見誤ると,とんでもないことになる。

 子どもたちの世界では,リアルのミサイル発射よりも,見えない消耗戦が続いているものである。

 教師が一生懸命になって「見よう」「見届けよう」としているものに対して,

 子どもたちは敏感である。

 それがプラスに働くのは,中学生といってもほとんど小学生に近い子ども集団に限られるだろう。

 教師が一生懸命になっても「見えない」ものを子どもたちは共有しており,

 そこで騙されている教師が多いことを肌で感じている。

 くれぐれも,調子にのって「いじめられっ子の活躍」を表に出されないように。

 成功体験が一人の人生を変えることは大いにあり得るが,

 それが教師の力によるものであっては,子どもはいずれ路頭に迷うことになるだろう。

 初任者研修で,小学校の教師たちによる,いじめ解決に向けてのロールプレイングの指導をしたことがある。

 「平和ボケ」したストーリーをぶった切りにしたことの意味が,経験を通してわかった教師はどのくらいいるだろう。


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小学校の教師たちが築いている財産とは何か

 小学校の教師を希望する人の中には,

 英語が苦手だから・できないから

 部活動の指導をしたくないから・できないから

 家族との時間を大切にしたいから

 などといった,自分の特性が理解できている人が多くいるそうです。

 中学校や高校でも,部活動から距離を置いて生きていくことは不可能ではありませんし,

 教師集団や子どもたちから「この学校では必要とされない人」というプレッシャーを強く受けた場合は,

 2~3年周期で学校を転々と異動していく生き方もできなくはありません。

 そもそも能力も熱意もない部活動を指導するために教員になるわけではない,というのは正しい見解でしょうし,土日がつぶされるようなら,教員をしたくない,という人には,小学校の教師は向いていると思います。

 小学校は,中高と違い,子どもが6年間もかかわる場所です。

 家庭とのつながりも深くなりますし,兄弟がいれば,10年以上,保護者が学校とかかわることもあります。

 私は中学校の教師ですが,小学校のPTAのソフトボールに長い期間参加していました。

 その間,一緒に参加してくれた教員は,副校長先生だけでした。校庭を開放する管理上の責任もあったからでしょう。

 勤務している中学校のPTAソフトボールにも自ら参加していましたが,3年で子どもが卒業してしまう中学校より,小学校の方が保護者同士のつながりも深くなります。

 もし日本の教育が,小学校3~4年間,中学校5~6年間になれば,どれだけスポーツなど生涯教育の分野で学校と家庭が深く結びつき,子どもに好影響を及ぼすか,計り知れない気がするのは,こういう経験によってです。

 話を元に戻しますが,小学校の教師は,純粋に,授業だけをしていれば成立する仕事です。

 私はそれでかまわないと思っています。私自身が小学校でお世話になった3人の担任の先生方は,ある程度高齢で,だれも運動をなさっていませんでした。

 すべての教科の授業を面白くするために工夫する努力は並大抵ではできないでしょうから,授業の準備を真面目にしている人は,中学校の教師くらい,勤務時間が長くなっているはずです。

 できるだけ「仕事」の範囲を極小化して,広い意味での教育にあまりかかわらないようにする傾向は,

 過酷な労働によって起きるさまざまな弊害を是正する風潮を追い風として,今後も広がっていくことでしょう。

 小学校の教師が築いているものは何なのでしょうか。

 6年間も同じようなスタイルで授業を受け続けた子どもたちは,集団として,多くの優れた特性を身につけて中学校に入ってきます。中には,「慣れ」と「あきらめ」を習得し,「格差」を実感できている子どももいます。

 基本的にほとんどの子どもは純朴で従順な性質を身につけ,反抗的な面はもちながらも批判的精神を持たないまま,中学校に進学してきます。

 新入生にとって,中学校は,最上級生が自分には遠く及ばない全く別の大人に見えるほどの別世界です。

 「部活動」という異次元空間への入口が,まるで大人の世界の入口のように感じさせてくれるのは,小学校のおかげです。

 部活動の指導者が,教科指導を行っている先生,自分のクラスの担任の先生であったりもする。

 小学校とはまた別の意味で,「何でもできる大人」がそこにいる。

 いずれ,小学校と中学校の区別ができない時代になったときが,子どもにとっては出口のない不幸の入口になるでしょう。

 「部活動」を憎む一部の人間たちが邪魔をしたい気持ちはわからないでもありません。

 日本の教育は常に非常事態をしいていたのです。

 これを解除した瞬間に訪れるものを予想できる人間は少なくないはずですが。

 小中一貫校には,その不幸をなくす働きが期待できるのと同時に,絶望的な場所になる恐れがあることを予言しておきます。

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社会に出てもすぐにドロップアウトしてしまう才能ある若者たちを救うために

 「打たれ強い人」という評価がある。

 こういう人たちに共通した「過去の経験」を抽出した調査結果もあるのだろう。

 成功体験があることは大切だが,失敗体験,挫折の体験があることも,「打たれ強い人」になるためにはとても重要なのではないか。

 では,「失敗体験」「挫折の体験」ができる,最も適切な場所はどこだろうか。

 多くの人にとってその経験をした場は,学校なのではないか。

 しかし,現在の学校教育では,「失敗」「挫折」をかなり恐れる傾向にある。

 不登校レベルではすまず,自殺に結びついてしまう可能性もあるからである。

 だから,多くの学校では「過保護」になり,ほとんど「失敗経験」のない子どもが育っていく。

 このうち,学力が高く,生徒会などの自治活動にも積極的な活躍をし,

 偏差値の高い大学を出たのに,仕事上のミスや失敗,想定外の場面に出くわしたことがショックで,鬱になったり,会社を辞めてしまったりする人が増えているという。

 日本は世界的に見てかなり「生産性が低い国」に分類されるが,こうした能力や才能があるのに,それがしっかりと発揮できないでいる人が多いことも原因の一つになっているのではないだろうか。

 「失敗,挫折によるショックを乗り越えるという成功体験」を義務教育や高等教育でさせてあげることが,日本の生産性向上にも寄与するのではないか。

 1億人以上の人口をもつことに甘えることなく,

 1人1人の能力を最大限に引き出すための役割を教育は果たさなければならない。

 義務教育というと,すぐに「底上げ」「底辺を救う」という発想になってしまうが,

 そういう発想でいるうちは,生産性向上など望めない。

 むしろ,才能があるのにそれが十分に発揮できない子どもの成長を助けることの方が,将来の日本にとってはよほど大切なのではないか。

 そういう主張をすると,すぐに「底辺層が厚い日本になってもいいのか」という反論がくるかもしれないが,中間層を厚くしたところで,せいぜい高度経済成長期の日本のようにしかならないだろう。

 社会に出られないでくすぶっている若者は,今より増えるかもしれない。

 しかし,社会に出ているのにくすぶっている若者をなくす方が先決なのではないか。

 新学習指導要領に基づく教育では,このような視点を大切にしてほしいと願う。

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進学塾と進学塾についていけない子どもが通う進学塾

 たかが小学校の教育内容と侮っていると,扱われている教材の奥の深さに気づけない教師が行っている学校の手抜き授業を見逃してしまう。

 学習指導要領に示された内容を十分に身につけるためには,学習の「量」と「質」の両方が必要になる。

 この「量」と「質」の両面において,学校教育のはるか上をいくのが進学塾のカリキュラムである。

 「はるか上」のカリキュラムであることから,当然,「落ちこぼれ」が発生する。

 以下に紹介するのは,進学塾に通う子どもための進学塾の広告に使われている,勧誘のための「子どもの現状」である。

・授業が理解できない
・授業についていけない
・体力的に進学塾のカリキュラムがきつい
・授業内容を忘れてしまっている
・質問ができていない
・分かったつもりで終わっている
・宿題が多すぎて,こなしきれない
・親が教えられない
・親が教えるとケンカになってしまう
・宿題に追われて,復習に手が回らない
・苦手分野がそのままになっている
・家庭学習のやり方が分からない。
・机には長時間向かっているが,成果が出ない
・何を優先すればいいのか分からない。
・どこが分からないのかも,分からなくなっている
・ケアレスミスがなくならない
・時間配分がうまくできない

 これ以外にも「チェック項目」があり,5個以上当てはまっている子どもは「危険信号」がともっているという。

 「危険」というのは「志望校に不合格になる」という意味なのかどうかはわからないが,

 普通の子どもは5個どころではなく,「みんなあてはまる」状態になってしまうから,

 「予備校の予備校」に通わされるというたいへんな運命が待っている。

 「そこまで手厚いことができる経済力のある親の子どもは幸せだ」と思う人もいるだろうが,

 子どもの身にもなってほしい。

 「体力的に進学塾のカリキュラムがこなせない子ども」は,

 進学塾の内容の復習をさせるための進学塾に通わせられることになりかねないのだ。

 私の場合,小6のころ,週3回,国語と算数のテストとその解説だけを行う塾に通わせられた。
 
 家に帰るのは夜の10時になる。

 塾の近くのマクドナルドでハンバーガーを食べるのは楽しみだったが,

 きついのは塾のあった翌日の朝である。

 子どもたちは,大人でいう「残業」にあたる「残勉強」を週何十時間やらされているのか。

 私の娘は,毎日ノートのマス目を全部埋めるだけの漢字練習をさせられていた。

 「過労死」にあたる「過勉強死」などはだれも認めてくれないだろうが,

 「肉体的・精神的な苦痛」の大きさは計り知れないものがある子どももいるだろう。

 対子どもだけに限定される「いじめ」以外にも,たくさん自死に結びつく要因があることを,社会は見過ごしてはならない。

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理想に走り,現実を軽視するか,現実を最優先し,理想を忘れるか

 労働の見直しにしろ,教育の改革にしろ,理想を求めていって,必ずぶつかるのが「現実の壁」である。

 教育の理想は,結局似たり寄ったりである。 

 現実を軽視したり,無視したりして,無理矢理に理想を通そうとすると,恐ろしい結果を招くことになる。

 1,2年間くらい,子どもを犠牲にして,やってまともな教育ができるようになったら,異動になる。

 これを繰り返していても,学校現場には犠牲者しか残らない。

 逆に,現実問題を優先しすぎると,いつの間にか理想などは忘れ去られる。

 教科書にある程度の内容を,全員でおおむね理解した,と言えるレベルに定着させたいなどという「理想」を掲げる人間に,「教育の理想」があるとは到底思えない。

 「働き方改革」についても,日本は生産性を向上させることがまだ理想のイメージになっていないようである。

 「事故を防ぐこと」「苦情を言われないこと」「失敗の責任をとらされないこと」が理想像になっている人間たちから,仕事を奪い返すことが最も重要なことだと思われる。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より