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カテゴリー「教師の逆コンピテンシー」の1926件の記事

中学校1年生でよく起こる思考停止状態

 対人関係で何かの被害にあった人が,加害者を責めるのは当然のことですが,

 被害にあったきっかけが,被害者自身にある場合には,加害者を責めるだけで終わらせてはいけないことはわかるでしょうか。

 学校では,Aという子どもがBという子どもの悪口を言い,BがAに殴りかかって怪我をさせる,ということが起こりえます。

 Aの怪我は,AがBに悪口を言わなければ防ぐことができたものでした。

 しかし,Aという子どもがBに悪口を言ったことを反省できないことがよくあります。

 なぜならば「私は被害者なのだから」という一種の思考停止状態です。

 A・Bという空間上の対立軸しか頭になくて,どういう経緯でそうなったのかという「時間軸」での思考が働かない状態です。

 起こったことを順を追って説明することができないのは,どんな教育が欠けているからでしょうか?

 中学校1年生(小学校7年生)によく起こる生活指導事案です。

 なぜか,中学校2年生になると,時系列で語ることは可能になります。

 発達段階によるものなのか,生まれて初めて,通史としての「歴史」を中学校で習うからか?

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いまそこに,いるべき子どもがいないことを瞬時に判断できない仕組みがアウト

 授業を抜け出して,職員室の教師の机から金品を盗もうとしていていた生徒が,たまたま外から同じ目的で侵入してきた泥棒と出くわし,顔を見られた泥棒が生徒を刺し殺してしまった・・・とする。

 授業をしていた教師は,生徒が教室を抜け出していたことに気づけなかった。

 そんなことがあり得るだろうか?

 教師はずっと黒板を向いていたのか?

 ・・・教室では,生徒たちが自由に教室内を動き回っていた。

 40人いる生徒たちの,だれがどこにいるのかを瞬時に把握することはできない。

 グラウンドで体育をしている教師も同じだろうか?

 教師が,教室内で負うべき責任とは何だろう?


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どのレベルの生徒に合わせて授業をしますか?

 私は社会科の教師だからか,「どのレベルの生徒」という質問を受けたときに,「何のレベルの話?」と聞き返さずにはいられない。

 「コミュニケーション能力のレベル?」

 「知能指数のレベル?」

 「社会科の知識レベル?」

 「思考力とか,資料活用力のレベル?」

 「親しさのレベル?」

 「実際についている役職のレベル?」

 授業では,非常に多くの問いかけが子どもに対してなされるが,その難易度は一定ではない。

 様々なレベルの子どもに向かって,様々なレベルの問いを投げかける。

 答えが言えない子どもにとって,その問いは意味がないと捉えるのは,

 「今日は,これができるようになりましょう」などと子どもに指示する下らない教育のレベルの話だろう。

 「授業中にはできるようになっても,家に帰ったらできなくなる」ようなことを学校で延々とやっていても意味はない。

 問いとその応答のやりとりを通して,コミュニーション能力を向上させていく。

 知識はどういう風に使われることで,意味を持って行くか自覚させていく。

 「思考力」とは,ただ「考える」という漠然とした頭の働きではないことに気づかせる。

 Aさんは共通点から大事なことを読み取った。Bさんは因果関係から本質に迫ってきた。

 Cさんは・・・。多くの発言がさまざまなレベルの子どもにとって,参考になっていく。

 対話を通して,それぞれのレベルの子どもに合っていく,それが「授業」である。

 今時の「教育学者」は,こんな当たり前のことを学生たちに語ることができないのだろうか?

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「功を焦る子ども」に成長が阻害される「弱者たち」

 教室に,「強者」と「弱者」のはっきり・くっきりした区別が見て取れる。

 「強者」は得意げに,「救ってやってる」オーラを全開にし,

 「弱者」は控えめに,「救ってもらっている」オーラに浸っている。

 一斉授業でも,教師のコントロールのきかない,KYの「強者」は同じような「侵略者」となるが,

 「弱者」「弱者」とバカにされている子どもたちの成長をじっくりと待つ姿勢が維持できる。

 「弱者」が成長の糧とするのは何だろう。

 それは,自分自身の努力による課題の克服であり,

 「強者」の「お情け」「身勝手な侵略」ではない。

 「一人も見捨てない」という原則から外れないために,

 徹底的に「弱者」をいたぶる子どもたち。

 「これで俺も得ができるし,お前にも損にはならないだろう」という理屈。

 こういう光景に疑問をもたない教師たちが増えないことを祈りたい。

 優れた教師が育成できない大学がドツボにはまったままなら,

 自然と淘汰されてくれるに違いない。

 下らないこんな記事が4500個目の節目の記事になってしまった。

 優れた教師に出会うことがなかった人は,残念ながら,教師には向かないことがよくわかる。

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道徳教育をまともにやると,教員の立場がなくなる

 道徳教育は,手を抜いてやった方がよい,というのは教員としての経験則である。

 もし私が道徳教育を真剣にやったら,いくつか好ましくない問題が発生する。

 子どもたちは,「大人(教員)こそが道徳的でない」ことをよく知っている。

 差別はいけない,と言っている大人(教員)は,平気で差別をしているではないか。

 「~のくせに」という言葉は,差別意識の表れである。

 「子どものくせに」「中学生のくせに」「成績が悪いくせに」「よく遅刻するくせに」「忘れ物をよくするくせに」「授業中,寝ているくせに」などといった感情を,子どもはとても敏感に教員から読み取っている。

 子どもたちができていないことの大部分は,大人(教員)自身もできていない。

 自分よりも道徳的な課題を抱えているのは,「~~先生」だな,というのがわかってしまう。

 最も効果的な道徳教育は,子どもが教師の立場になり,教師たちが子どもの座席に座って「餌食」になることだろう。

 「あなたにとっての崇高な理想とは何ですか?」

 大人(教員)として,どういう答えを先生(子ども)にお返しすることができるだろう。

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リーダーシップの意味がわからない人たちに翻弄されるだけの校長たち

 自らリーダーになろうとする人が真のリーダーになれるわけではない,

 などと言われると,管理職試験を受けないと管理職にはなれない教員たちの中からは,

 いつまでたってもリーダーは現れない。

 学校のリーダーなどと言われても,予算をもらえるわけでも自分がいいと思う人材を選べるわけでもないから,そもそもリーダーシップなど必要ない,と考えることもできる。

 教育委員会の立場から学校を観察していると,各学校にはゴリラ型のリーダーやチンパンジー型のリーダーがいることがよくわかった。

 制度上,日本にはチンパンジー型の管理職しかいないことになる。

 ゴリラ研究の世界的権威である山極寿一先生によれば,ゴリラ社会のリーダーには,他者を惹きつける魅力と,他者を許容する魅力が必要で,自分からなる,というよりも,仲間から引き上げられてなるものだそうだ。

 だから,「立候補」ではなく「推薦」という形で選ばれるのがゴリラ型リーダーということになる。

 もちろん,「立候補」するからには,よきリーダーになろうとする主体性や積極性,意欲をもっており,しかも目指すリーダー像がゴリラ型であるという場合もあるだろう。

 ただ,「それまでどのような行動をとってきたか」「どのような実績を積み重ねてきたか」の方が,その場限りかもしれない,あるいは,なってしまった時点で失われる「やる気」よりも重要であることは,だれでもわかることだろう。

 リーダーは,人の評価が適切にできる人でないといけない。

 だれにどのような適性があり,どのような能力が優れていて,どういうタイプのメンバーと一緒にいると力が発揮できるのか。

 たとえば,学年という「運命共同体」を編成するときなどは,「人」がわかっていなければ,足し算の何倍にもなるはずのパワーがマイナスに転じてしまうかもしれないのだ。

 話しやすい人とばかり話すような人,人の好き嫌いが激しい人は,リーダーには不向きである。

 対話を通じて多様性を受け入れ,どんな事態にも適切に対応できる能力は,どこで育まれるのだろう。教員になってからの話で言えば,学年経営を経験するのがとてもよい機会だろう。

 事務仕事しかない役所の人間には,教務主任とか生活指導主任といった「分掌」の長が偉い人(=主幹教諭)で,学年主任は「係長」程度にしか感じられていないのだろうと思われる。

 組織を考える場合に,そこが最大のボタンのかけ違いなのだろう。

 わずか十数名しか教員がいない小規模校でも,数十名近く教員がいる学校でも,同じような組織で運営させていることに,だれも疑問を感じないとしたら,企業ならとっくの昔に潰れて終わっているはずである。

 校長に自分たちが想像もできない「リーダーシップ」を押しつけ,責任を押しつけているだけでヒト・モノ・カネを与えず,ろくでもない情報=命令だけを垂れ流している。

 教員仲間の声は聞くが,生徒の声は一切きかないという,企業でたとえれば,

 上司の声や「お友達」の声は聞くが,顧客の声は聞かないというタイプの社会人失格者がときどき教育現場にやってくる。

 こういう人を採用する教育委員会という組織が癌なんだと反発したい管理職も非常に多いのだが,ゴリラ型リーダーが存在しない役所に,人を見る目を期待することは無駄な話である。

 そもそもこうした致命的な環境化の学校におけるリーダーシップが育ちにくくなっている最大かつ改善困難な原因は,「小規模化」である。

 公立小中学校の「小規模化」が,リーダーの成長を阻害する最大かつ最悪の条件になっている。

 リーダーシップを身につける機会がなかった教員たちが,管理職になろうとしないのは自然のことである。

 「組織」や「リーダーシップ」を育てる能力は,学校や学年の行事運営でも培うことができる。

 しかし,特別活動の時間は週1時間しかないし,授業カットがしにくくなっているし,そもそも行事自体がカットされているから,子どもからも教師からもリーダーの資質を高める機会が奪われているのも痛い。

 自らリーダーシップの育成を放棄している学校に期待されるのは,常に上司の言いなりになって不満をもらさず働き続ける人間たちの大量生産である。

 それがわかっていながら校長職についている人たちで,元気そうな人がいないのは,気の毒だが当然のことだろう。

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大学の教員にとっての研究と中学校の教員にとっての教育

 私が勤務している学校でも,ついに「教育実習生を午後○時以降まで残してはならない」という指示がおりてきました。

 これでもはや学校の存在意義の一つが完全に否定されたことが実感できました。

 私は何も,「ブラックに耐えられる人間を教員にしたい」と言っているわけではありません。

 単純な事務仕事を延々とやっていて,子どもを放っておいて文句ばっかり言う人間と,

 単純な事務仕事をさっさと終わらせて,より子どものためになる時間を楽しく過ごしている人間を比べて,

 どちらが教員に向いているかは言うまでもないでしょう。

 大学の教員にとっての研究とは何でしょうか。

 読書編で紹介した本の中で,鷲田清一学長は以下のような研究者像を「理想」と考えているようですが,これが「時代おくれ」というか,「今,大学では求められていない人物像」であるのが残念でなりません。

>今すぐ役に立つようなことや日常生活とはおよそ関係のないことを必死になって研究している。それも私利私欲は一切抜きにしてです。傍から見れば何の役に立つのかさっぱりわからないような研究に,どうして正月も盆もないほど必死に取り組めるんだろう,そう思わせてこそ本物です。

 私が考えている「理想」の教師像は,これよりはるかに「日常生活」べったりの仕事をする人間ですが,「私利私欲は一切抜き」とか「正月も盆もない」という点が共通しています。

 いかに教員に楽をさせてあげられるかを一生懸命に研究している大学のセンセイがいます。

 よく考えてみたら,簡単な話でした。

 自分が育てた人間が通用するのは,自分が考えたイメージに沿った学校しかないのです。

 ただ,残念ながら,そんな学校は今の日本には存在しません。

 重ねて残念ながら,そういう学校ができる土台が固められてきています。
 
 「有識者会議」の参加者の「見識」の質を証明するものは何でしょう。

 「見識」ではなくて,どれくらい「自分の見識は置いておき,会議のゴールに向けての忖度ができるか」が参加者に求められている資質・能力であるとしか思えません。

 大学の教員にとっての研究と,中学校の教員にとっての教育の接点はどこにあるのでしょう。

 空間上,交わることのない,「ねじれ」の位置にある両者を結びつける方法はあるのでしょうか。

 この結びつきをブロックするための制度がある限り,いつまでたっても学習指導要領の失敗は繰り返されるのでしょう。

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9月13日 世界法の日に考える「法の支配」

 「深い学びなど必要ない」と主張している大学のセンセイに習った人たちは,教員採用試験ではちゃんと「建前」を述べて,得点を稼ぐのだろうか。それとも,大学の「学び」を生かして,試験官に喧嘩を売るのだろうか。

 教育現場で「法の支配」という言葉を使うと,すぐに「よくないこと」というイメージを連想する教師が少なくないだろう。

 社会科の公民的分野や政治経済で学んだはずの「法の支配」という概念は,

 学校現場で惰性にまかせて教師を続けていると,いつの間にか生徒たちにとっての「校則による支配」などと同じようなレベルのものに変換されてしまうに違いない。

 採用試験のときはきちんと勉強したはずだった「教育法規」だが,管理職試験を受けようとして「学び直し」をしてみると,「こんな法律もあったのか!」などと驚くこともある。

 国際社会では,「法の支配」ではなく,「国益の支配」が主流になっているような印象があるのだが,

 学校現場でも,やはり「法の支配」ではなくて,「子どもや親の利益の実現」という目的に偏ってきている気がする。

 「未履修問題」に代表される「ルールを無視した受験重視・効率重視の学習・進路指導」を是正しようとしているのが,現在の教育改革のねらいの一つである。

 しかし,「子どもや親の利益のため」という部分を票のために議員までもが実現しようとしているので,

 学校現場の感覚ではどう考えても「それはない」というタイプの政策が浮上してきている。

 借金をして将来世代に負担を押しつけながら,「今の景気が良くなりすればそれでよい」という短期的利益誘導型の政策が,ありとあらゆる分野に一律に仕掛けられてきている。

 「法の支配」が実現しているのかどうか,チェックする機能を果たすべきなのは,どこのだれだろう。

 残念ながら,それを実行する主体が自分たちの利益ばかり考えてしまうというところが,悲しいところである。

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妄想教育に教材研究は必要ない

 妄想教育への批判は,どこから始めればよいのか,悩んでいる人がいるようです。

 そういう人やそういう人が集まっている場所には近づかない,というのが正解だと思うのですが,

 本当に出口が見えなくて困っている人たちにとっては,胡散臭いものの方が逆に「本物」に見えてくる。

 「藁をもつかむ」気持ちでいるときに,人は正常な判断が下せないものです。

 教材研究がなくても,具体的な子ども理解はなくても,信じさえすれば,成果が出せる。

 こんな妄想をいつの間にか「本物」として信じ込んでしまった人を現実世界に「取り戻す」のは骨の折れることです。

 教育の世界で教材研究を「取るに足らないもの」と信じ込んでいる人が,大きな過ちを犯したことを,このブログで具体的に紹介しました。大学に身を置きながら,「教材理解の浅さ」を露呈したその人物は,自分の過ちを認めないところや攻撃が大好きなことが「定評」になってか,「この人にだけは授業の講評をしてもらいたくない」という有名人になっているそうです。

 やがて忘れ去られる運命にある他国第一主義の人間や妄想教育の指導者は,他人の努力に価値を見出せないことが,最も「教育」から遠い位置にいる大学の「ただのガクシャ」らしいところなのです。

 人の努力を自分は認めないくせに,自分の努力を認めてくれないとすねる。

 教師が劣化している原因はお前にある,という批判に正面から応えられない。

 本を読む動機を与えてくれるのがよい教師としての資質の一つでしょう。

 批判をする前に,俺の本を読め,と本を読んでいる人に言う人とコミュニケーションをとることは困難です。

 だって,あなたが大切だと思うことは書いてあるけど,多くの人が大切だと思っていることと,食い違っていますよね,とか,あなたが書いていることは,みんなもうわかっていますよ,という問いかけに,「お前がわかっていないだけだ」と返されてしまうと,もうその人のかかわった本は読む気がしなくなるし,そもそも書いてあることが全く信用できなくなる。

 教育現場にご自分の妄想を押しつけることだけはやめてほしいのですが,「講師」に面と向かって批判できる教師は,どこかの政権内部と同じように,きっといなくなってしまっているのでしょうね・・・。

 私は組合員ではありませんが,組合のときだけ元気になっていた教師たちを懐かしく思い返しています。

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あの子どもは自分が見捨てた? 思い上がりもいい加減にしたまえ

 学校の教員には,「友達」がいない・・・。

 どこかの学者に調査してもらいたいテーマである。

 基本的に,「一匹狼」的な生き方をしている。

 自らそれを選択している人もいるし,結果としてそうなってしまう人もいる。

 だれかに頼って生きようとしている教員は,やれ,仕事が多いとか,教材研究する時間がないとかブツブツ言っているが,実際には大事な仕事は何一つ任されず,自分勝手で見当外れの子ども理解が原因で,子どもたちともコミュニケーションがとれない。友達をつくろうにもできないタイプの人間である。

 思い込みが激しいと,「全部,俺のせいだった」と勝手に悩み,現場から逃走していく。

 「友達がつくれない」タイプの教師に,なぜ人のために尽くし続けることができる人と,尽くしきってもだめだったと勝手に判断し,辞めていく人間がいるのか。

 一人一人の子どもを信用できるかどうかの違いではないか。

 自分自身が親や教師から見捨てられた経験や実感がないくせに,教師の立場として「一人も見捨ててはならない」と誇大妄想するのは,怪しげな宗教やダメな道徳教育に嫌気がさしている人間の側からすると,胡散臭いものにしか見えないだろう。

 自分は群れていないくせに,子どもがダメなのは群れていないからだと勘違いして,

 群れていることで人はどうにか成長していくことができると誤解していることもおかしな話である。

 普通の教師から見て,「おいここ,すごい変な空気だな」と思える場があるとする。

 相手が「変な空気感」を抱いていることが読めない人間に,子どもや教師を育てることはできないだろう。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より