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カテゴリー「教師の逆コンピテンシー」の1000件の記事

遠慮しないで情報を提供しろ!~いじめを見逃す環境との戦い

 学校によっては,闇雲に定時一斉(よりはたいてい1時間から2時間くらい後に設定されると思うが)退出を推進しようとしているところがあるのではないか。

 放課後の活動がほとんどない小学校ではやりやすく,中学校も極小規模で部活動がほとんどさかんでない学校ではやりやすい。

 組合の組織率が低下し続けている今,勤務時間の短さを競い合う時代が来るとは思ってもみなかった。

 困っている先生方にメッセージを送るとしたら,・・・。

 無理矢理に持ち帰り仕事にさせられる場合は,すぐに不服を直接伝えるより,合計何時間分の自宅勤務をさせられたか,累計をしっかりとって,1か月とか2か月「たまった」状態で「発表」することをお薦めしたい。

 ただ,決してためたり,なかったことにしたりではいけない仕事が教師にはある。

 それは「いじめ」への対応である。

 少しでも気になった点があれば,「いじめる側」はもちろん,「いじめられる側」の子どもから,さらにはそれぞれの生徒と親しい子どもから,しっかりと聞き取りを行って,対応を「組織」で(たいていは学年で,重いものや他学年にまたがっている場合はいじめ対策委員会等で)協議する必要がある。

 冒頭のような環境の学校にいる少し消極的な教員が陥りがちな課題がある。

 「これ,報告したら,いろんな先生方の仕事を増やしてしまうな・・・・」

 「本人からの訴えがないんだから,いいか,見なかったことにしよう」

 この瞬間に,「自殺」への一直線のルートが確立してしまうケースもあるだろう。

 「忙しい」「忙しい」と言っている割に,たいして仕事もせず,さっさと帰宅してしまう教員が多い組織に対して,「憶測や思い込みにすぎないかもしれないこと」について,先生方の対応について協議してもらうことをお願いするにはけっこうな勇気がいる。嫌われる勇気が必要な行動である。下手をしたら,教員である自分自身が組織から「いじめ」を受けることになるかもしれない。そんなのは嫌だ・・・。

 いじめられているかもしれない子どもに寄り添おうとしない教員の構図は,実は教員の組織内にしっかりできあがっていたりする。それが学校が信頼されない大きな理由の一つである。

 「働き方改革」と「いじめ対策」をどうしたら両立できるか。簡単な話である。「いじめ」を早期に発見し,聞き取りや指導をすぐに行う。子どもたちは,教師集団の機動力の高さを実感したとたんに,「より気づかれにくくやる」という方向へ舵を切るかもしれないが,そこはベテランの力の見せ所である。ベテランがいない?育たない?そんなことを言っていると,「いじめ被害」の恐怖心から,親も子どもを学校に通わせなくなってしまう。

 いずれ学校にも,「不審者判別防犯カメラ」が設置される日が来るのだろうか。もちろんカメラが常時監視するのは,生徒たちである。心拍数が上がったりした生徒はその都度「履歴」に氏名が重ねられていき,「呼び出し」を受けることになる。

 教員にはどれだけの資質・能力が必要とされているか,実感できる話の一つである。

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偶然の重なりと緻密な演出~インスタレーションから受けた刺激

 ネタバレを避けるために,どこのどのような美術館であるかは伏せておくことにする。

 ある施設を見学する目的で,その美術館を訪れたのは昨日のこと。

 特別な趣向の企画展が開かれており,私は多くのことを学ぶこととなった。

 日常の中で,いかに多くの大切な変化を見落としてきたか。

 施設の方に関心があった私は,せっかくの美術展示のいいところを見落としたまま,その場を去りかけていた。

 空間にただならぬ「気配」を感じることはできたものの,「仕掛け」には気づかなかった。

 そこへある仕掛けを管理されている方に声をかけていただき,「その瞬間」を待ち,見届けることができた。

 作品が,1日,1日,変化する。2か月後,3か月後には,どうなっているのだろう。そんな期待をもって,再び美術館を訪れる人のための割引制度が用意されている。

 古寺めぐりには興味があっても,美術館めぐりを趣味とした経験がない私にとって,今回の企画展はとてもよい刺激となった。

 今,私はとても苦しい立場にある。

 「あり得ないことが起こる」といった経験を立て続けにしている私にとって,もはや悪夢から抜け出す方法は一つしかないとあきらめかけている。出口のない迷いの感覚に,完全に疲弊している。

 2005年から続けているこのブログの終着点が見えてきたようだ。

 無限の可能性を子どもには期待できるのだが,大人はダメなのだ。

 子どもに夢を持たせることができないとあきらめるようなことになったら,教師などやっている資格もなくなる。

 まだかろうじて,子どもたちには多くの期待を寄せることができている。

 しかし,大人は厳しい。

 病院にたとえれば,学校は無数の子どもの死体を作り続けていることになる。

 重病で苦しんでいる子どもが放置されているか,さらに虐待を受けている。

 死ぬべき人間が生き存え,生きるべき人間が死んでいく。

 美術館で落ちてくる桜の花びらに感じたのは,果てしない後悔の念であった。

 そして今日は,優れたリーダーシップでメンバーをまとめている校長先生に招かれて,「授業づくり」の研究成果を発表することができた。参加された先生方の表情は,真剣そのものだった。

 私は「中央」の人間の扱いを受けていたが,正直申し上げて私は「中央」を見限った人間である。その経緯も簡単に申し上げた。理由が具体的であるので,相当説得力は高かったようだ。

 反旗を翻すか,もう少し様子を見るか。

 これから起こることを,すべて偶然の産物であるかのように思わせるための緻密な演出が必要となる。

 インスタレーションからもらったアイデアを生かしたい。

 大人たちの多くは見過ごすことになるのだろうが,子どもたちはきっと気づいてくれるだろう。

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子どもから有能感を奪い取る方法

 子どもたちの可能性は計り知れません。教師たちの想像を超えたパフォーマンスをしてくれることがあります。

 「想像を超えた」というのは,たいてい,教師が「この子の能力は低い」とレッテルを貼った子どもたちが実力を発揮している状況を示します。

 こういう子どもたちから,有能感を奪い取る方法は簡単です。

 学び合いだ,という号令をかけて,答えを教え合う環境をつくることです。
 
 中にはクイズ番組の影響か,できるだけヒントを与えて,正解に気づく快感を与えてあげることを優先できる子どももいますが,大部分は「教えてあげる」ことで手間を省きます。

 できる子どもたちが,できない子どもたちを支配下に治める環境になっていきます。

 先生なんかいらない代わりに,塾や予備校で先取り学習をして「知ってしまっている子ども」が幅をきかせることができる環境です。

 もし教師にできることがあるとすれば,教室をそういう環境にしないことです。

 「できる子に答えを教えてもらえば,自分もできたことにしてくれる」環境にしないことです。

 教師の仕事は,子どもの有能感を引き出すことです。教師にとっての授業のモチベーションは,自分の中の有能性に気づいた子どもの表情を読み取ることにあるのです。この状況まで持っていってからの「学び合い」なら効果的なのです。

 授業が始まって「自習課題」を示しただけで,後は子どもから平気な顔をして有能感を奪っている人間たちに言いたいこと。

 「言っていることとやっていることが違うセンセイほど,信用されない人間はいない。」

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量より質が大事なものと,質より量が大事なものとは?

 量の多い少ないに限らず,質がよければよいに越したことはないのですが,実際には高い質を常に求めるのは難しい。だから成果を出そうとすると,みんな「量」に頼ろうとします。中学校で言えば,たとえば部活動の「時間」です。

 「~の時間」と呼んでいるくらいですから。野球部など,強いチームになると,休日の活動は朝9時に始まって午後4時まで行うなどというのは普通にあり得ます。高い「質」の練習をしていても,強くなろうとすれば,「量」も増えていきます。

 学校のカリキュラム一般も,「質」より「量」を優先しているのですが,

 当たり前の話,「量」を確保しても「質」がよくなければ,単なる「時間の浪費」になってしまいます。

 ただ,教育課程の実施状況の調査で,「浪費した時間」の集計は行っていません。

 「質」の評価は簡単ではないので,基準をつくるのも一苦労ですから。

 「時間をどうやったら生み出せるか」という「考えても無駄」であることが多い思考を学校では強いられます。

 本当は,「質をどうやって高めるか」を考えさせた方が,よい結果が望めるのですが,

 「働き方改革」では,こういう創造的なことを考える時間すら削られていきます。

 学習指導要領は,「標準時数」というのを定めてありますが,実はこれが「諸悪の根源」です。

 今や,大学の授業までもが「決められた時数を下回らないことが重要」となり,祝日に授業が入ったりもしています。

 「時間を費やしたのだから,教育はしたことにできる」と考えるのは,学校現場的な感覚ではアウトですが,事務の発想としてはアリです。

 学校現場は,効果が出せなかったときに,「標準の時間には足りませんでした」というと,「そのせいですね」で言われて,完全にアウトです。

 だから「時間だけは守る」ことにあくせくして,結局成果が上がらずに疲弊しているのが学校現場です。

 量(時間)の話だけは,全国共通で同じ尺度で測れるのですが,授業参観で唖然とするような実践が行われている場面に出くわすと,その「意味のなさ」を実感できます。

 いつの日か,教育の「質」が語れる学校が出現してもらいたいものです。

 実際には存在するのですが,授業時数を堂々と公開することができないので,「知っている人だけが知っている」まま終わるか,こういう学校ですら,「標準時数」を確保することを強いられ,教育が破壊されていくのだと予想しています。

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現実的な教育内容や教育方法の議論がなぜ小学校や高校では役に立たないか

 小学校の教育内容にいちいち目くじらを立てる人は少ない。きりがないからでもあるし,学力を向上したければ,学校以外に頼れるところがたくさんあるからである。

 高校の教育内容にいちいち目くじらを立てる人も少ない。義務教育ではないし,学力が輪切りになっている高校では,Aという進学校で通じる話がEという生活指導困難校では通用しない(逆もある)からでもあるが,一番大きい理由は小学校と同じ。学力面では,高校の教師よりも頼りになる人が外にいくらでもいるからである。

 それなりの経済力がある家庭の場合は,学力向上を学校以外の教育産業にまかせることが可能である。

 小学校や高校を対象とした教育内容や教育方法の議論は,どれだけなされようが,主たる教材である教科書に寄りかかって学習を進めるような教師がいるうちは,ほとんど意味をもたないことは,大部分の学校が証明してしまっている。

 中学校の場合はどうだろう。中学校は中途半端な宙づり状態にある教育現場である。

 小学校や高校との最大の違いは,学校の成績が,進学にそれなりに大きな影響を及ぼす点にある。

 中学受験や大学受験との非常に大きな違いを高校受験が持っている。

 だから,教師や生徒は授業で手を抜くことはできない。教師が気まぐれにアクティブ・ラーニング風の授業をしたら,それに合わせてあげないといけないし,細かい知識ばかり問うような定期考査問題をつくってきたら,しっかり対応しないとよい成績が残せなくなる。

 都立高校は学力検査と調査書点(いわゆる内申点)の比率を7:3にしてしまったが,これまでは普通科の大部分が5:5の比率だったのである。

 「下級校の学習の成果を踏まえた進学指導」が成立する余地がかつては大きかったし,調査書点と実力の相関関係が怪しくなってきている今でも,中学校の成績がきちんと使われる場になっている。

 要は,中学校で通用する教育内容や教育方法の議論がなければ意味がないということと,中学校で通用しない教育内容や方法では意味がないということである。

 小学校や高校の実践ばかり集めても,「ああ,そういうことができていいね」と他人事で終わってしまう。

 どんな脚色をしても,バレずにすむのが小学校や高校である。

 捏造すればたちどころにバレるのが中学校であり,だから実践例が少ないのだろう。

 「地理総合」や「歴史総合」がどんな代物になるか,中学校側の目から見ていると,

 「大学の先生が中心になって考えると,ろくなことにならない」ことを証明するための実験をしているように見える。

 中学校教師の目から見れば,

 「これは何とかなる」

 「これでは中学校の繰り返しだ」

 「それでは小学校よりもレベルが低くなる」

 「これは無理だろう」

 などと生徒の実態を踏まえた感想がいくらでも出せる。

 義務教育でもないし未履修問題のような誤魔化し方ができる教育機関に期待することは実はほとんどないのだが,小中高のつながりを意識させる学習指導要領に変わっていくので,黙ってはいられない。

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日本の教育に欠けている「適時的で適正な評価」の発想

 日本の中等教育には,学習の評価を適時的に児童生徒に返す習慣というか制度がありません。

 小学校のときは,ノートや作品に必ずコメントが添えられて返却されましたが,「評価」というよりは「励まし」みたいなもので,「よろしい」だけで終わるときもたくさんありました。担任の先生はそれほど暇ではないし,30人の子ども全員にコメントをつけて返すのは難しいのだろうと子どもながらに思っていました。

 中学校の場合は,教科で担当する生徒数は100人を軽く超えるようになりますから,作品やノートにコメントを記していくことはなかなか困難です。

 かつて,私が「四段階の評価」の重要性を雑誌で発表したときに,北海道の中学校の先生に目をつけていただきましたが,制度は変わらないままで,申し訳なく思っています。日本の教育行政には,適時的で適正な評価を行わせようとする気はないのです。

 今日は,アメリカの学校から帰国していた教え子からいろんなことを学び,考えさせられました。

 論文の準備のために相談にやって来たのですが,質問がとてもシャープで,端的に答えられないもどかしさが募りました。アメリカの教育の成果がとてもよく見えた気がしました。

 今までに受けてきた講座,今受けている講座の成績が一覧で分かるようになっているサイトを見せてもらいましたが,素晴しい仕組みだと思いました。レポートの点数も,すぐに反映される仕組みがあり,宿題等はメールで送られることもあるようです。

 こうした適時的な評価をいつでもどこでも見られるような仕組みは,日本にはありません。

 アメリカでも,中には友達に宿題をやってもらう子もいるようですが,バレたらアウトだそうです。

 成績が悪い場合も学校をやめさせられるという厳しい環境は,日本では考えられません。

 教師1人が担当する児童生徒数が非常に多く,教師がただ情報を垂れ流しておけば仕事が成立する日本と比べて,教え子の学校では,教師が的確な評価を適時的にすべての受け持ち生徒に送れるくらい,余裕があるようです。もちろん,質問にはメールでも答えてもらえるそうですし,教師と生徒のつながりも強いようですね。

 日本の教育の良さは,大量生産だから,「安い」こと。それだけだったら哀しすぎます。

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鉄道トラブルと学校教育の劣化の共通点

 ここ10年,教育実習生の資質能力の低下,劣化が順調に?進んでいることを実感している。

 こういう実習生たちのうちの何%かが現場の教師になっていく。

 昔だったら,「教師は現場で育てられる」ことが常識であり,本当に成長させることができたのだが,現場は現場で問題を抱えている。

 その問題とは,トラブルを相次いで発生させている鉄道会社と同じ構造的な問題であることがわかった。

 構造的な問題とは,職員の年齢構成上の問題である。修正不可能な問題である。

 JRでは,民営化された時期に新規採用を抑制した影響で,45~49歳の社員が極端に少なくなっている。

 働き盛りのベテランの人数が少なくなっているのは,学校現場も同じ。

 学校現場では,やる気はないが能力がある人,やる気はあるが能力がない人たちが教育管理職に登用されるようになっており,貴重な前線のベテランが減らされている。

 大学での教育は役に立たないから,OJTが機能しなくなったら,学校は終わりである。

 学校にはもともと,ベテランでも「お荷物」がいて,こちらにとられるエネルギーも大量に要するところに,若い教師たちを育てる労力も大変なものだった。一般企業だったら,窓際に追いやることで現場での実害を防ぐことができるのだろうが,学校ではそれは難しい。ベテランの尻ぬぐいと若い教師の教育の両方を担える人の絶対数が足りない。

 鉄道会社の場合はさしあたって,たとえば新幹線の脱線事故が起こる前に,少なくとも異常を感知したときには安全点検を徹底させるなど,指導を徹底させればよい。職員が異常に気づくこともできない場合は,乗客を頼るしかない。

 学校の場合は,今でもあるのだが,子どもや保護者から教員の問題を訴えることができる場を充実させる必要があるだろう。
 
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ネガティブ・ケイパビリティ~解決困難な問題に正対し続けられる資質能力

 また小難しいカタカナ語が出てきたなと反発される向きもあろうが,

 「ネガティブ・ケイパビリティ」は日本語に訳しにくいことこの上ない。

 しかしこの「能力」を重視せずにはいられない人々がこれから増えていくはずなので,あえて訳さないというのも一つの方法である。どう解釈したらイメージがしやすいか。

 ネガティブはポジティブの反対語だから,「消極的」「否定的」が真っ先に思い浮かぶかもしれないが,

 「プラスとマイナスのマイナスの方」「正と負の負の方」というのがここでは一番ピッタリくる。

 ポジティブ・シンキングを「プラス思考」というのに対し,ネガティブ・シンキングを「マイナス思考」と呼んでいるように。 

 次に,ケイパビリティという言葉だが,

 経営学や防衛産業で使われている「手腕」「能力」「性能」という意味で,

 単語ではアビリティ(これも「能力」)の前に「cap」がついているものである。

 「able」と「capable」という単語の意味はほぼ同じようだが,

 「capable」の方には「受け入れる余地がある」という意味で使える。

 「capacity」(能力,最大限の収容能力,包容力,度量)という単語に

 やや近いイメージだろうか。

 つまり,「ネガティブ・ケイパビリティ」とは私なりに直訳すると

 「負の事象を受け入れる力」が一番イメージに合っている。

 だれがどのような意味で使い始めた言葉なのかというと,帚木蓬生さんの著書によれば,詩人のキーツがシェイクスピアに備わっていた能力だと指摘していたこととして紹介されている。


>どうにも答えの出ない,どうにも対処しようのない事態に耐える能力

>性急に証明や理由を求めずに,不確実さや不思議さ,懐疑の中にいることができる能力

>(詩人がアイデンティティを必死に模索する中で,物事の本質に到達する前の)宙吊り状態を支える力

>不確かさの中で事態や情況を持ちこたえ,不思議さや疑いの中にいる能力

>対象の本質に深く迫る方法であり,相手が人間なら,相手を本当に思いやる共感に至る手立て

>〈問題〉を性急に措定せず,生半可な意味づけや知識でもって,未解決の問題にせっかちに帳尻を合わせず,宙ぶらりんの状態を持ちこたえる(能力)

>(学校教育や職業教育では)問題が生じれば,的確かつ迅速に対処する能力が養成されるが,ネガティブ・ケイパビリティは,その裏返しの能力です。論理を離れた,どのようにも決められない,宙ぶらりんの状態を回避せず,耐え抜く能力です


 キーツが文学・芸術の領域でその有益さを示したネガティブ・ケイパビリティを精神療法の場においても必須の要素だと考えたのがビオンという精神科医,精神分析医であった。


>ネガティブ・ケイパビリティを保持しつつ,治療者と患者との出会いを支え続けることによって,人と人との素朴な,生身の交流が生じるのだとビオンは説きました

>(ビオンは同じく,精神分析医も,患者との間で起こる現象,言葉に対して,同じ能力が養成されると主張したのです。つまり,)不可思議さ,神秘,疑念をそのまま持ち続け,性急な事実や理由を求めないという態度


 ビオンが抱いていたとされる危惧は,そのまま教育者,企業の経営者などにもあてはまることと考えられる。


>精神分析学には膨大な知見と理論の蓄積があります。若い分析家たちはその学習と理論の応用ばかりにかまけて,目の前の患者との生身の対話をおろそかにしがちです。患者の言葉で自分を豊かにするのではなく,精神分析学の知識で患者を診,理論をあてはめて患者を理解しようとするのです。これは本末転倒です。


 日本の文化の事例にあてはめてみると,「道」を究めた人が行き着く「無の境地」というイメージに近いものだろうか。

 物事の本質を見極める上で,山の頂を想像し,「頂点」から展望が周囲に開けた状態,「ものの見方」よりもっと広い視野が持てて,焦点もあちこちに浮遊できる状態から始めるという方法も参考になった。

 帚木さんの著書には,黒井千次氏の「知り過ぎた人」という随筆の一節も紹介されている。


>それにしても,とあらためて考えざるを得なかった。謎や問いには,簡単に答えが与えられぬほうがよいのではないかと。不明のまま抱いていた謎は,それを抱く人の体温によって成長,成熟し,更に豊かな謎へと育っていくのではあるまいか。そして場合によっては,一段と深みを増した謎は,底の浅い答えよりも遙かに貴重なものを内に宿しているような気がしてならない。


 この文章が紹介されている第三章「分かりたがる脳」の最後を,帚木さんは次のように締めくくっている。


>全くそうです。ネガティブ・ケイパビリティは拙速な理解ではなく,謎を謎として興味を抱いたまま,宙ぶらりんの,どうしようもない状態を耐えぬく力です。その先には必ず発展的な深い理解が待ち受けていると確信して,耐えていく持続力を生み出すのです。


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準備体操なしで全力疾走させるような授業はアウト

 小手先の理論や先輩の実践,体験談などに頼っていては,現場で成果を出すことはできない。

 現場で相手に向き合っているのは理論や先輩ではなく,自分なのである。

 だからといって,理論や先輩の実践,体験談を知らないでよい,というわけではない。

 教育現場で起こる様々な現象について,その都度その都度,新しい自分なりの「気づき」が得られるのは,理論や実践記録,体験談を知っているからである。

 こういう話は,教師にとってあてはまるのと同じように,子どもたちにもあてはまる。

 ただ単純に上級生と同じような体験をさせただけでは,

 本当に大切な「気づき」は得られないまま終わることが多い。

 「アクティブ・ラーニングを行う」だけでは意味がないことは,実際にそういう目にあわされた人ならわかるだろう。

 そしてそういう人がこれから非常に増えてくるおそれがある。

 その裏側で,理論なり先輩からの話なりを聞いていた人だけに,成果がついてくる。

 現役引退を決めた巨人の「代走のスペシャリスト」,鈴木選手の記事を日経電子版で読んだ。

 「勝負は準備の中で決まる」

 この言葉を,これからALを実践しようとする現場の教師たちにも読んでほしい。

 「準備」するのは,教師だけではない。子どもにこそ「準備」が必要なのであり,その「準備」を大切にしてきた授業スタイルを捨てると,子どもに待っているのは何なのか,失敗して気づいてからでは遅いのである。

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歴史用語半減による「ゆとり」が生むもの

 高校の日本史や世界史を「用語を覚える科目」としてきた高校や大学の教員たちが,教科書の用語を減らすための案を作成したという。2つの点でナンセンスである。

 1つは,結局用語を減らしたところで,「少なくなった用語を覚える科目」に変わることはなく,試験も「暗記問題」を出すことが前提になっている。なぜ義務教育の「ゆとり教育」という名の「ゆるみ教育」を繰り返そうとしているのか。

 もう1つは,そもそも教科書の内容をすべて教えなければ,受験のときに生徒が困るという強迫観念が捨て去れない限り,授業や試験の改善などあり得ない,ということである。

 歴史の人物名や事件名などは,それらを覚えたり,それらの事実を知るためだけにあるのではない。

 歴史学習は,さまざまな事象の関係,関連を考えるためにある。

 取り上げられる事柄が限定されることによって,さまざまな「気づき」のチャンスが失われていく。

 「多ければ多いほどよい」とは言わないが,実際に資料集を活用している高校なら,教科書ではなく資料集を実質上「主たる教材」として授業をする教員も出てくる可能性があるだろう。20年前と同じワークシートで授業をしている教員にとっては,関係のない話かもしれないが。

 そもそも「用語削減策」は,「受験生がテストでいい点をとるために不利な科目を敬遠することを避けるため」に出されたようなものだろう。

 客を増やすために当たりの確率を高める娯楽産業のような対応である。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より