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カテゴリー「仕事術」の1000件の記事

ネガティブ・ケイパビリティ~解決困難な問題に正対し続けられる資質能力

 また小難しいカタカナ語が出てきたなと反発される向きもあろうが,

 「ネガティブ・ケイパビリティ」は日本語に訳しにくいことこの上ない。

 しかしこの「能力」を重視せずにはいられない人々がこれから増えていくはずなので,あえて訳さないというのも一つの方法である。どう解釈したらイメージがしやすいか。

 ネガティブはポジティブの反対語だから,「消極的」「否定的」が真っ先に思い浮かぶかもしれないが,

 「プラスとマイナスのマイナスの方」「正と負の負の方」というのがここでは一番ピッタリくる。

 ポジティブ・シンキングを「プラス思考」というのに対し,ネガティブ・シンキングを「マイナス思考」と呼んでいるように。 

 次に,ケイパビリティという言葉だが,

 経営学や防衛産業で使われている「手腕」「能力」「性能」という意味で,

 単語ではアビリティ(これも「能力」)の前に「cap」がついているものである。

 「able」と「capable」という単語の意味はほぼ同じようだが,

 「capable」の方には「受け入れる余地がある」という意味で使える。

 「capacity」(能力,最大限の収容能力,包容力,度量)という単語に

 やや近いイメージだろうか。

 つまり,「ネガティブ・ケイパビリティ」とは私なりに直訳すると

 「負の事象を受け入れる力」が一番イメージに合っている。

 だれがどのような意味で使い始めた言葉なのかというと,帚木蓬生さんの著書によれば,詩人のキーツがシェイクスピアに備わっていた能力だと指摘していたこととして紹介されている。


>どうにも答えの出ない,どうにも対処しようのない事態に耐える能力

>性急に証明や理由を求めずに,不確実さや不思議さ,懐疑の中にいることができる能力

>(詩人がアイデンティティを必死に模索する中で,物事の本質に到達する前の)宙吊り状態を支える力

>不確かさの中で事態や情況を持ちこたえ,不思議さや疑いの中にいる能力

>対象の本質に深く迫る方法であり,相手が人間なら,相手を本当に思いやる共感に至る手立て

>〈問題〉を性急に措定せず,生半可な意味づけや知識でもって,未解決の問題にせっかちに帳尻を合わせず,宙ぶらりんの状態を持ちこたえる(能力)

>(学校教育や職業教育では)問題が生じれば,的確かつ迅速に対処する能力が養成されるが,ネガティブ・ケイパビリティは,その裏返しの能力です。論理を離れた,どのようにも決められない,宙ぶらりんの状態を回避せず,耐え抜く能力です


 キーツが文学・芸術の領域でその有益さを示したネガティブ・ケイパビリティを精神療法の場においても必須の要素だと考えたのがビオンという精神科医,精神分析医であった。


>ネガティブ・ケイパビリティを保持しつつ,治療者と患者との出会いを支え続けることによって,人と人との素朴な,生身の交流が生じるのだとビオンは説きました

>(ビオンは同じく,精神分析医も,患者との間で起こる現象,言葉に対して,同じ能力が養成されると主張したのです。つまり,)不可思議さ,神秘,疑念をそのまま持ち続け,性急な事実や理由を求めないという態度


 ビオンが抱いていたとされる危惧は,そのまま教育者,企業の経営者などにもあてはまることと考えられる。


>精神分析学には膨大な知見と理論の蓄積があります。若い分析家たちはその学習と理論の応用ばかりにかまけて,目の前の患者との生身の対話をおろそかにしがちです。患者の言葉で自分を豊かにするのではなく,精神分析学の知識で患者を診,理論をあてはめて患者を理解しようとするのです。これは本末転倒です。


 日本の文化の事例にあてはめてみると,「道」を究めた人が行き着く「無の境地」というイメージに近いものだろうか。

 物事の本質を見極める上で,山の頂を想像し,「頂点」から展望が周囲に開けた状態,「ものの見方」よりもっと広い視野が持てて,焦点もあちこちに浮遊できる状態から始めるという方法も参考になった。

 帚木さんの著書には,黒井千次氏の「知り過ぎた人」という随筆の一節も紹介されている。


>それにしても,とあらためて考えざるを得なかった。謎や問いには,簡単に答えが与えられぬほうがよいのではないかと。不明のまま抱いていた謎は,それを抱く人の体温によって成長,成熟し,更に豊かな謎へと育っていくのではあるまいか。そして場合によっては,一段と深みを増した謎は,底の浅い答えよりも遙かに貴重なものを内に宿しているような気がしてならない。


 この文章が紹介されている第三章「分かりたがる脳」の最後を,帚木さんは次のように締めくくっている。


>全くそうです。ネガティブ・ケイパビリティは拙速な理解ではなく,謎を謎として興味を抱いたまま,宙ぶらりんの,どうしようもない状態を耐えぬく力です。その先には必ず発展的な深い理解が待ち受けていると確信して,耐えていく持続力を生み出すのです。


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準備体操なしで全力疾走させるような授業はアウト

 小手先の理論や先輩の実践,体験談などに頼っていては,現場で成果を出すことはできない。

 現場で相手に向き合っているのは理論や先輩ではなく,自分なのである。

 だからといって,理論や先輩の実践,体験談を知らないでよい,というわけではない。

 教育現場で起こる様々な現象について,その都度その都度,新しい自分なりの「気づき」が得られるのは,理論や実践記録,体験談を知っているからである。

 こういう話は,教師にとってあてはまるのと同じように,子どもたちにもあてはまる。

 ただ単純に上級生と同じような体験をさせただけでは,

 本当に大切な「気づき」は得られないまま終わることが多い。

 「アクティブ・ラーニングを行う」だけでは意味がないことは,実際にそういう目にあわされた人ならわかるだろう。

 そしてそういう人がこれから非常に増えてくるおそれがある。

 その裏側で,理論なり先輩からの話なりを聞いていた人だけに,成果がついてくる。

 現役引退を決めた巨人の「代走のスペシャリスト」,鈴木選手の記事を日経電子版で読んだ。

 「勝負は準備の中で決まる」

 この言葉を,これからALを実践しようとする現場の教師たちにも読んでほしい。

 「準備」するのは,教師だけではない。子どもにこそ「準備」が必要なのであり,その「準備」を大切にしてきた授業スタイルを捨てると,子どもに待っているのは何なのか,失敗して気づいてからでは遅いのである。

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歴史用語半減による「ゆとり」が生むもの

 高校の日本史や世界史を「用語を覚える科目」としてきた高校や大学の教員たちが,教科書の用語を減らすための案を作成したという。2つの点でナンセンスである。

 1つは,結局用語を減らしたところで,「少なくなった用語を覚える科目」に変わることはなく,試験も「暗記問題」を出すことが前提になっている。なぜ義務教育の「ゆとり教育」という名の「ゆるみ教育」を繰り返そうとしているのか。

 もう1つは,そもそも教科書の内容をすべて教えなければ,受験のときに生徒が困るという強迫観念が捨て去れない限り,授業や試験の改善などあり得ない,ということである。

 歴史の人物名や事件名などは,それらを覚えたり,それらの事実を知るためだけにあるのではない。

 歴史学習は,さまざまな事象の関係,関連を考えるためにある。

 取り上げられる事柄が限定されることによって,さまざまな「気づき」のチャンスが失われていく。

 「多ければ多いほどよい」とは言わないが,実際に資料集を活用している高校なら,教科書ではなく資料集を実質上「主たる教材」として授業をする教員も出てくる可能性があるだろう。20年前と同じワークシートで授業をしている教員にとっては,関係のない話かもしれないが。

 そもそも「用語削減策」は,「受験生がテストでいい点をとるために不利な科目を敬遠することを避けるため」に出されたようなものだろう。

 客を増やすために当たりの確率を高める娯楽産業のような対応である。

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教師の成長力を奪う力

 教育の世界では昔から,「大学における教員養成の限界」が問題になっている。

 「教育学部の学生の資質能力に課題がある」のは企業だけでなく教育現場も同じことで,

 教育実習に挨拶に来るとき,「教育学部でごめんなさい」とお詫びから入ってくるのが通例になっていることが印象的である。

 私は「教育学部」というところで学生の能力が潰されているのではないかと危惧している教員の1人だが,その根の深さは昔からなので,すぐに改善することは難しいだろう。人間を育てるのは人間なのである。

 
 少子化による学校の小規模化に伴って,適正規模に満たない学校が増え,

 「職場における教員の能力開発の限界」も問題になっており,それだけ余計に

 「現場で使えない若い教師が多くなっている」ことが学校の重荷になっている。


 こういう学校の窮状につけ込んで,教師の成長力を奪う実践が広がっていくことへの懸念もある。

 私は組合には入らなかったが,仮に入ったとしても,組合の体質には絶対に染まらなかっただろうし,

 すぐに抜けていたと思われる。

 今,学校を侵食しているのは,新しいタイプの組合体質を浸透させようとする「革命家」たちである。

 間違いなく,教師の成長力は奪われる。

 教員研修はお遊戯会レベルとなり,「仲良しこよし」が増えるだけだが,

 表向きは,「同僚性が高まった」などと宣伝される。

 浸食率は0.1%にも満たないレベルだろうが,1000校に1校でも子どもたちが犠牲になるのは心が痛む。 

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成長をとめないために

 先日,大学の学生さんたちに私の授業を参観していただいた。

 私が免許講習講習などでお世話になった先生のご依頼を受けて,今年度2度目の参観だった。

 「よい授業とは何か」を考えるのがテーマだったそうで,そんな依頼をよく受けたなと呆れられるかもしれないが,文科省とくだらない本を出している出版社以外からのお願いには全力で応えたいと思っている。今年は経済産業省と厚生労働省の方とのつながりもできて,「違法天下り大量発生官庁」が存在しなくても,教育が成立することが証明できるように頑張りたい。

 授業50分,質疑応答40分だけのかかわりであったが,自分にとって,子どもにとって,学生さんたちにとっての課題を改めて考えることができるので,とても充実した時間になった。以下は,先生からいただいたお言葉への私の返信の内容である。都合により,一部改変してある。

******************

いつも過分なお褒めの言葉をいただきまして,恐縮至極に存じます。

○○大学のプロジェクトでも「○○の教員の卓越した指導力を生かした・・・」
などという研究がありましたが,自分たちのことを「卓越した」などと
思い上がるのもいい加減にしろと感じますし,
「よい授業」を自分の実践を通して語ろうとすることも,
教育者の態度としていかがなものかと思ったりもしています。

私が長年問題に思っていることは,授業をしていて,いつも自分の感覚で
「あっという間に50分が過ぎてしまう」ということです。
生徒とのやりとりに集中しているからそうなるのかもしれませんが,
生徒自身が自分の時間を授業内でしっかり使うことができていない証拠に
なっているのが現状です。
 
「よい授業」として必要な要素を自分なりに整理し,その優先順位を考えて,
その順位に沿った発問,作業時間の確保も含めた時間配分,まとめなどが
できているかを検証していく必要が私自身にもかなりあるかと思います。

40人それぞれが伸ばすべき能力にも違いがあり,1人に対する声かけや
突発的な対話に時間が割かれる傾向が強いのも私の授業の課題に
なっています。

学生の皆さんからの質問に対しては,その学生さん独自の関心や課題意識に
沿った形でお答えする努力をしたつもりですが,お一人お一人の特性や能力に
ついての理解もほとんどない状態ですから,質問から類推するしかなく,
見当違いの方向の答えになってしまったかもしれません。もしそういう方が
いらっしゃいましたら,再度返答の機会を頂戴できればありがたいです。
生徒理解が授業の基本になっていることと同じですね。
 
エネルギーミックスと同じで,「最適解」は必ず何かの犠牲を伴っています。
最も優れた発電方法があれば,100%それにすればいいだけの話です。
 
授業もそれと同じで,何かを重視すれば,必ず何かが犠牲になる。
犠牲を少なくすれば,何も重視していないように見えることもあるし,
重点を絞れば犠牲が大きくなっていく。
「見方・考え方」を働かせる授業に重点をおけば,おそらく学力下位の
子どもたちは犠牲者になります。そうさせないための方法がたとえば
今回お渡ししたワークシートなのですが,まだまだ開発途上です。
 
「時間」という尺度において教育の骨格をなしている授業については,
そういう悩ましい問題があり,「よい授業」にも,「正解」は存在しない。
それでも少しでも「よりよい授業」に取り組もうとする態度を教員が
もっていれば,必ずそういう態度は子どもたちによい影響を与えていく,
と信じて研鑽を積んでいく必要がある,とまとめようとしても・・・・
今の時代,こういう言葉も「逃げ」と受け止められる可能性もあり,
教員養成は難しい時代だとつくづく感じます。

「よい授業とは何か」という種類の問いに真剣に向き合い,
考え抜こうとすればするほど,どんどん「何が正解かがわからなくなっていく」
おそれがありますが,それでもあきらめずに問い続けていける力を授業では
育てたいと考えています。

今回,しっかり自分自身の課題に向き合う機会を与えて下さった
○○先生と学生の皆さんには心から感謝しています。

******************

 わいわい子どもたちが楽しそうに学んでいるように見える「授業」がいかに子どもたちの可能性をつぶしてしまっているかについては,中学校の教育実践がないとわからないかもしれません。

 「エビデンス」を求められて,だれでもできるようなテストの点数を挙げているような人間に,教育を語る資格はないのです。

 大学の先生もおっしゃっていましたが,今回の学生さんたちは,皆さん教育実習を終えた方々だったので,私が言いたいことがとてもよく伝わっていたようでした。 

 自著の営業マンに騙されないよう,注意しましょう。

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大切な人だから殴る

 昭和時代には,まだ通用した親や教師の「指導観」かもしれない。

 先生に叱られ,殴られたことを家で離せば,父親からそれを上回る勢いで叱られ,激しく殴られる。

 そういう時代がかつて存在したことは確かだろう。

 インターネットが普及する以前の話である。

 「父親の威厳」とは何か,ということを,人々はそれぞれの勝手な想像の中で形作っていた。

 「子どもを殴るのは,憎いからじゃない。愛しているからこそ殴れるのだ」という論理は,

 「私はあのとき,本気で殴られたからこそ,これじゃいけない,ということに気づき,更正できた」

 「先生に強く叱られたからこそ,今のような芯のある人間に成長できた」

 「私は親や教師に鍛えられた」

 という「殴られた側」「叱られた側」からの擁護の声によって,「真理」であるかのような印象ができていた。

 しかし,当然のことだが,愛情がないから殴れる,という人もたくさんいる(というかほとんどがそうだったのかもしれない)。

 ただ自分の怒りを相手にぶつけるためだけに強く叱る指導をしていた,という教師もたくさんいた(いる)はずである。

 平成に入って30年近くが経過しようとしている。

 私が教師として現場に立ったのは平成以後だが,この間には,不況をはじめとした数え切れない要因から,

 「殴られる」「叱られる」ことに全く耐えることができない子どもが増えてきたことを実感している。

 耐える必要はない,なぜなら,自分たちには人権が保障されているのだから,という当たり前のことが当たり前になってきたからなのかしれないが,
 
 そういう子どもたちはすでに社会人になっている。

 いじめだけでなく,アカハラ,パワハラも,昔からあったはずだが,かつては「耐えてくれる」のが常識だった。

 今は,耐える必要がないのだから,耐えない,という時代になっている。

 大切に思っていない人なら殴らない,叱らない,という論理も,

 大切な人だから殴る,という論理も,通用しない時代である。

 こういう時代には,自分自身の課題を自分自身でしっかり解決できる資質や能力が欠かせないのだが,

 そういう資質や能力はそう簡単には身に付かない,という立ち位置の人がいれば,

 大切だと思うから殴ったんだ,という言い訳がなくなることはないかもしれない。


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極端に「世界」が狭くなる職場

 就職前よりも極端に「世界」が狭くなり,「世間」が小さく限られたものになる職場の代表が一般的な「学校」や「大学」,「公官庁」である。

 ときどき教員でも「俺はいろんな学校や地域に講演に呼ばれてるぞ」と粋がる人がいるが,限られた時間の中でそういう「サイドワーク」ができるのは,実はとても狭い「世界」で生きている証拠である。「世間」とのつながりがないから,目の前の子どもや学生を犠牲にして職場を離れることができるのだ。

 最近,私がかかわる学校を取り巻く環境が変化しているという実感があるのは,各省庁や業界団体の方々が学校に足を運びに来る回数が増えているからである。そこでまず感じるのは,相手の方の「世界」「世間」の狭さである。

 「教育現場を何も知らない」とまでは言わないが,無理を承知で様々な「お願い事」を持ち込んで来られる。

 ここのところ,「税金で運営されている(給料が支払われている)のだから,こっち(行政)の指示に従え」的な圧力も増えているが,学校に足を運んで下さる方にはそういう高圧的な態度は見られず,「困っているから助けて」という雰囲気が伝わってくる。

 大学が研究費を獲得してやっていることのうち,たとえば教育分野で言えば,どんな研究がどのような成果を残しているか,公立学校の方々にはほとんどわからないだろうし,研究をしている学校の側からすると,どうしてこんな無駄なことに税金が使われるのかが理解できない,というものばかりである。

 本当に必要な教育の姿を模索している人たちは,大学をスルーして,小中学校に直接足を運び,タッグを組もうしている。

 新しい学習指導要領の目指していることは,一言で表現すれば「世間を広げろ」「世界を広げろ」ということである。しかし,普通の学校には,それを自分で広げるための金も時間も人も余裕はない。

 教育の関係者同士がいくら群れたところで,何も始まらなかったことをこれまでの教育改革が示してくれている。

 どうすれば「社会に開かれた教育課程」がつくれるか,だれが語る資格をもっているのだろう。

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いまそこに,いるべき子どもがいないことを瞬時に判断できない仕組みがアウト

 授業を抜け出して,職員室の教師の机から金品を盗もうとしていていた生徒が,たまたま外から同じ目的で侵入してきた泥棒と出くわし,顔を見られた泥棒が生徒を刺し殺してしまった・・・とする。

 授業をしていた教師は,生徒が教室を抜け出していたことに気づけなかった。

 そんなことがあり得るだろうか?

 教師はずっと黒板を向いていたのか?

 ・・・教室では,生徒たちが自由に教室内を動き回っていた。

 40人いる生徒たちの,だれがどこにいるのかを瞬時に把握することはできない。

 グラウンドで体育をしている教師も同じだろうか?

 教師が,教室内で負うべき責任とは何だろう?


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道徳教育をまともにやると,教員の立場がなくなる

 道徳教育は,手を抜いてやった方がよい,というのは教員としての経験則である。

 もし私が道徳教育を真剣にやったら,いくつか好ましくない問題が発生する。

 子どもたちは,「大人(教員)こそが道徳的でない」ことをよく知っている。

 差別はいけない,と言っている大人(教員)は,平気で差別をしているではないか。

 「~のくせに」という言葉は,差別意識の表れである。

 「子どものくせに」「中学生のくせに」「成績が悪いくせに」「よく遅刻するくせに」「忘れ物をよくするくせに」「授業中,寝ているくせに」などといった感情を,子どもはとても敏感に教員から読み取っている。

 子どもたちができていないことの大部分は,大人(教員)自身もできていない。

 自分よりも道徳的な課題を抱えているのは,「~~先生」だな,というのがわかってしまう。

 最も効果的な道徳教育は,子どもが教師の立場になり,教師たちが子どもの座席に座って「餌食」になることだろう。

 「あなたにとっての崇高な理想とは何ですか?」

 大人(教員)として,どういう答えを先生(子ども)にお返しすることができるだろう。

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リーダーシップの意味がわからない人たちに翻弄されるだけの校長たち

 自らリーダーになろうとする人が真のリーダーになれるわけではない,

 などと言われると,管理職試験を受けないと管理職にはなれない教員たちの中からは,

 いつまでたってもリーダーは現れない。

 学校のリーダーなどと言われても,予算をもらえるわけでも自分がいいと思う人材を選べるわけでもないから,そもそもリーダーシップなど必要ない,と考えることもできる。

 教育委員会の立場から学校を観察していると,各学校にはゴリラ型のリーダーやチンパンジー型のリーダーがいることがよくわかった。

 制度上,日本にはチンパンジー型の管理職しかいないことになる。

 ゴリラ研究の世界的権威である山極寿一先生によれば,ゴリラ社会のリーダーには,他者を惹きつける魅力と,他者を許容する魅力が必要で,自分からなる,というよりも,仲間から引き上げられてなるものだそうだ。

 だから,「立候補」ではなく「推薦」という形で選ばれるのがゴリラ型リーダーということになる。

 もちろん,「立候補」するからには,よきリーダーになろうとする主体性や積極性,意欲をもっており,しかも目指すリーダー像がゴリラ型であるという場合もあるだろう。

 ただ,「それまでどのような行動をとってきたか」「どのような実績を積み重ねてきたか」の方が,その場限りかもしれない,あるいは,なってしまった時点で失われる「やる気」よりも重要であることは,だれでもわかることだろう。

 リーダーは,人の評価が適切にできる人でないといけない。

 だれにどのような適性があり,どのような能力が優れていて,どういうタイプのメンバーと一緒にいると力が発揮できるのか。

 たとえば,学年という「運命共同体」を編成するときなどは,「人」がわかっていなければ,足し算の何倍にもなるはずのパワーがマイナスに転じてしまうかもしれないのだ。

 話しやすい人とばかり話すような人,人の好き嫌いが激しい人は,リーダーには不向きである。

 対話を通じて多様性を受け入れ,どんな事態にも適切に対応できる能力は,どこで育まれるのだろう。教員になってからの話で言えば,学年経営を経験するのがとてもよい機会だろう。

 事務仕事しかない役所の人間には,教務主任とか生活指導主任といった「分掌」の長が偉い人(=主幹教諭)で,学年主任は「係長」程度にしか感じられていないのだろうと思われる。

 組織を考える場合に,そこが最大のボタンのかけ違いなのだろう。

 わずか十数名しか教員がいない小規模校でも,数十名近く教員がいる学校でも,同じような組織で運営させていることに,だれも疑問を感じないとしたら,企業ならとっくの昔に潰れて終わっているはずである。

 校長に自分たちが想像もできない「リーダーシップ」を押しつけ,責任を押しつけているだけでヒト・モノ・カネを与えず,ろくでもない情報=命令だけを垂れ流している。

 教員仲間の声は聞くが,生徒の声は一切きかないという,企業でたとえれば,

 上司の声や「お友達」の声は聞くが,顧客の声は聞かないというタイプの社会人失格者がときどき教育現場にやってくる。

 こういう人を採用する教育委員会という組織が癌なんだと反発したい管理職も非常に多いのだが,ゴリラ型リーダーが存在しない役所に,人を見る目を期待することは無駄な話である。

 そもそもこうした致命的な環境化の学校におけるリーダーシップが育ちにくくなっている最大かつ改善困難な原因は,「小規模化」である。

 公立小中学校の「小規模化」が,リーダーの成長を阻害する最大かつ最悪の条件になっている。

 リーダーシップを身につける機会がなかった教員たちが,管理職になろうとしないのは自然のことである。

 「組織」や「リーダーシップ」を育てる能力は,学校や学年の行事運営でも培うことができる。

 しかし,特別活動の時間は週1時間しかないし,授業カットがしにくくなっているし,そもそも行事自体がカットされているから,子どもからも教師からもリーダーの資質を高める機会が奪われているのも痛い。

 自らリーダーシップの育成を放棄している学校に期待されるのは,常に上司の言いなりになって不満をもらさず働き続ける人間たちの大量生産である。

 それがわかっていながら校長職についている人たちで,元気そうな人がいないのは,気の毒だが当然のことだろう。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より