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カテゴリー「仕事術」の1520件の記事

SDGs(持続可能な開発目標)の時代の2年目に当たり

 ESD(持続可能な開発のための教育)=イーエスディーはまだ言いやすかったのですが,
 
 SDGsはちょっと日本語でイメージが持ちにくい略語になってしまいました。

 昨日の予算委員会の中でもふれられていたので,あれっ?何のことだろう?思った人が多かったかもしれません。

 SDGsは,2000年に採択された国連のMDGs(ミレニアム開発目標)が2015年に終了するのに伴い,昨年=2016年からの開発目標を定めたもので,以下の17の目標が示されています。

 17という数字も覚えるにしてはちょっと多すぎる感じですね。

 日本の立場で言えば,途上国への支援と同時に,国内でも解決・対応すべき問題に取り組むことが求められます。グローバルな視点から,どのような行動・社会貢献ができるのか,教育現場でも教えていく(考えさせていく)ことを安倍総理が名言しました。

 ちょっと重荷になりかねない雰囲気もありますが,実はすでに教育内容に含まれているものもありますし,時流に乗っているものもあり,「心に訴える」ことも容易にできるものばかりなので,通年目標・月間目標などを定めて,「行動の記録」をつくらせていくことも不可能ではありません。

目標1 貧困をなくそう
あらゆる場所のあらゆるかたちの貧困を終わらせる

目標2 飢餓をゼロに
飢餓を終わらせ、栄養を改善し、持続可能な農業をすすめる

目標3 すべての人に健康と福祉を
あらゆる年齢の全ての人の健康な生活を確保し、福祉を推進する

目標4 質の高い教育をみんなに
全ての人への衡平な質の高い教育と生涯学習の機会を提供する

目標5 ジェンダー平等を実現しよう
世界中で女性と少女が力をつけ、ジェンダー平等を実現する

目標6 安全な水とトイレを世界中に
全ての人に持続可能な水の使用と衛生設備(トイレ、下水道など)を保障する

目標7 エネルギーをみんなに そしてクリーンに
全ての人が、安くて安定的に発電してくれる、持続可能なエネルギー(太陽光、風力などの再生可能エネルギー)が使えるようにする

目標8 働きがいも 経済成長も
みんなが参加できる持続可能な経済成長を促進し、全ての人が職をもち、働きがいのある人間らしい仕事ができるようにする
           
目標9 産業と技術革新の基盤をつくろう
災害に強いインフラをつくり、みんなが参加できる持続可能な産業化を進め、新しい技術を生み出しやすくする

目標10 人や国の不平等をなくそう
国内及び国家間の格差と不平等を減少させる

目標11 住み続けられるまちづくりを
まちや人びとが住んでいるところを、だれもが受け入れられ、安全で、災害に強く、持続可能な場所にする

目標12 つくる責任 使う責任
生産と消費のパターンを持続可能なものにすることを促進する

目標13 気候変動に具体的な対策を
気候変動とその影響を軽減するための緊急対策を講じる

目標14 海の豊かさを守ろう
海と海洋資源を守り、持続可能な利用を促進する

目標15 陸の豊かさも守ろう
陸の生態系を保護し、持続可能な利用を促進し、森林の持続可能な管理、砂漠化への対処、土地の劣化、生物多様性の喪失を止める

目標16 平和と公正をすべての人に
平和的で、誰一人のけ者にされない社会と、すべての人が法律に基づいた手続きをとれるようにする。あらゆるレベルで効率的で説明責任ある能力の高い行政を実現する

目標17 パートナーシップで目標を達成しよう
目標達成のために必要な行動を強化し、持続可能な開発に向けて世界の国々が協力する


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「入試問題が変わる」という安直な発想

 「入試が変わるから学校での学習が変わる」などと安易に語っているのは,おそらく「学習の質を変える」ほどのインパクトのある試験問題をつくったことのない人たちだろう。

 採点基準を厳格に定めなければならない入学者選抜試験では,想定外の正解が出てこないような出題に限られてしまう。

 私が学校の定期考査で行っているように,生徒の答案を集めて全部読んでから,採点基準を決めるようなテストは入試では実施できない。

 私の場合は,解説の時間に生徒の意見を聞き,採点基準を改める場合すらある。そのために,返却する答案はすべてコピーをとっておき,得点が変わった場合は,該当するすべての生徒に説明するとともに,なぜどのような答えの得点が変わったか,具体例を示すプリントを配布している。
 
 制限時間が決まっているテストでは,自分の言いたいこと,考えていたことをすべて答案に書き尽くすことができない生徒もいる。そういう生徒から,レポートを提出させて,評価に加味する場合もある。

 「テストの点数絶対主義」を排除できるこうした学校現場での定期考査と,入学試験とは全く質が異なるものである。

 「知識がいらない」ような問題では,そもそも学校の授業を真面目に受ける意味もないと考えてしまう生徒が出てきてしまうから,当然,良質な知識を活用して,与えられた資料から必要な情報を取り出しながら思考し,表現させるような問題をつくることになる。

 しかし,「良質な知識」とはあくまでも教科書に取り上げられているような内容に限られてくるから,やはり教科書の内容はしっかりと理解しなければならない。

 だから,どんな対話的な授業をしようが,理解していなければ意味がないことに変わりはなく,多くの教師は教科書が網羅できるような授業を行い続けることになるだろう。

 では,「主体的・対話的で深い学び」を行うことは,不可能なのか?

 そんなことはない。全国各地から,「工夫された定期考査問題例」を集めてみて,精選した問題を公開してみたらどうか。

 「良質な問題」とはどういうものか,その定義を対話的に考えてみたらどうか。

 「この問題は,教科書を読まずに,授業も受けずに答えられてしまうからまずい」とか,

 「この問題は,結局この知識だけがあれば解けてしまうので,まずい」など,ありとあらゆる批判を集めて,「良問」をつくるコツを磨いていける場をつくってみたらどうか。

 すでに初めている自治体があれば,素晴しい。

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某芸能事務所と教育現場の共通点

 超人気グループの解散にともない,某芸能事務所では,若手人気メンバーやマネージャーの退所が相次いでいるらしい。

 このままだと,事務所には大ベテランと新人しかいなくなってしまう。

 ・・・という記事を読んで,これは今の教育現場と似ているなと思った。

 大ベテランがいるうちは,まだ「崩壊」はしないだろうが・・・。

 教育現場において,団塊の世代の大量退職のあとにひかえているのは,若手の大量採用である。

 ある自治体では,教職経験がごくわずかなセンセイがすでに職員の半分以上を占めているということである。

 今後,このような学校が増えていくのと同時に,

 「マネージャー」=教育管理職のなり手がいなくなっていく。

 私は30代半ばで指導主事に任用されてしまったが,30代半ばの管理職も今後,登場しかねない。

 日本では,指示をして部下=平教員に仕事をどんどんやらせるタイプの副校長・教頭ではなく,自分ですべて抱え込んですませてしまう人が多い。やる気はあっても,事務仕事ができない人はさすがに管理職には任用されない。事務仕事ばかりしている管理職の姿を見て,ますます多くの平教員は平教員のままで終わりたくなってしまう。

 私は別に,30代半ばの管理職がいけないと言っているわけではない。

 ただ,私が最も大切だと考えている「教員の育成」ができる管理職がどんどん減っていってしまうことを危惧している。

 能力がある人は,縛りがきつい公教育の現場から去って行ってしまうかもしれない。

 タレントを育ててきたマネージャーと同じように酷使されている教師たちにとっての生きがいとは何だろう。

 自分の仕事のあとを継げる人を育てる力が失われた組織の先行きはどうなるのだろうか。


 芸能事務所に所属しているタレントが「人気」を保つ上で,「悪いイメージ」「黒いイメージ」は致命的な問題になるのだろうが,

 公立学校というところは,今日も多摩地域の小学校教諭が女子児童に対する強制わいせつの容疑で逮捕されていたことが報道されたように,とにかくイメージはもともと最悪の場所である。

 それでも,「そこに通うしかない」「そこに通わせることを行政に指示される」子どもや親にとっては,頼りにせざるを得ないのがセンセイである。

 自分の子どもが「頭が悪い」とレッテルを貼られ,地域の関係者に顔写真と住所が配られようとも,生活基盤のある場所で生きていくしかない人もいる。

 学校で夢を失いかけている子どもたちの救済者として,芸能人に期待したい気持ちは強い。

 学校以外の場所で夢を追い求める子どもの姿の方が,むしろ正常のように思えてくるが,自分たちを育ててくれた教育のシステムを支える人材を絶やしてもいけない。
 
 小さな子どもたち,思春期の子どもたちに夢や感動を与えるタレントたちも,働く環境は実のところ学校現場と変わるかもしれないが,「会社が潰れる」想定がある組織の方が,まだ正常化の可能性も残されていると思われる。

 良いマネージャーが次の良いマネージャーを育てる環境のある職場になることが,タレントにとっても望ましいことだろう。

 学校にとって「正常」であることが「異常」だなんていうことにならないうちに,教師が教師を育てられる環境を整えることは非常に重要ではないかと思われる。 
 
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「教育」が国の足を引っ張る時代

 これも歴代政権が,「教育」を軽視し続けてきたツケだろうか。

 よりによって,現政権を利用してのし上がろうとした教育関係者が,現政権を潰す爆弾を背負って野党に接近しようとしている。

 野党といっても,今の日本に長期政権が維持できる党は存在しないから,またしばらく前の「年ごとに首相がかわる」時期に戻っていくのだろうか。

 しばらくぶりに,政治が安定するかと思われていた日本だが,他人の足の引っ張る仕事を延々と続けている国会の様子を見ていると,「教育」の失敗はこうやって形になっていくものなのだとつくづく思い知らされる。

 むしろ政権側が,「教育勅語」への関心を高めるための演出として取り組んでいるプロセスの話だとしたら,したたかさも感じるが,現在の歴史教育のレベルでは,「教育勅語」への肯定的な評価を定着させるのは不可能だろう。

 「教育」で足を引っ張られ,「教育」で息の根を止められる国では,「教育」による国の未来像は描きようもない。


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理解するよりも誤解する人が多い教育論

 「アドラー心理学」は,理解する人よりも,誤解する人の方が多いだろう,とアドラー自身が語っているそうです。

 中教審の答申で,「生きる力」というキーワードは何とセットで使われていたか,よく理解している人は,どれくらいいるでしょうか。

 「ゆとり」教育とは,何のために,どんな方法で実現しようとしたか,ご存じでしょうか。

 もしこのことを知っていたら,現在の公立中高一貫校がどれだけ「約束違反」の代物か,理解できるはずです。

 「アクティブ・ラーニング」という,流行になりそうで,なりきれずに消えていこうとしているキーワードがあります。

 今,「アクティブ・ラーニング」という言葉を使い,調子に乗って本を出したり,雑誌で特集をしたりした出版社や著者は,みんなバカにされていますが,どうしてこんなことになったのでしょう。

 指導要領という法令に匹敵するものには,こんな「いかがわしい」言葉が使われないことは,はじめからわかっていたことですが,流行を追うことだけが得意で,中身の理解がほとんどできない人たちが多いのは,何も教育の世界に限った話ではないでしょう。

 「主体的・対話的で深い学び」と言い換えたところで,自分自身がその経験をしたことがない人に,いきなり「そういう原理原則で実践しろ」と言われても,困ってしまうか,どさくさに紛れて,「それっぽい」ことを導入してお茶を濁すかしかありません。

 人は,自分の都合のよいように解釈することが得意です。

 「話し合い」活動を多く取り入れていた教師が,「私は昔からアクティブ・ラーニングを実践していた!」と得意になることくらいは,「可愛い」もの。

 自分にとって都合の悪いことには,耳を貸さない。

 特に,人の「生き方」に関することにふれる教育や心理学は,

 「オレ様の理論」をもつことが優先されやすく,現場の教師などと違って,

 特にそこにしか存在理由がない人たちにとっては,「オレ様の理論」を守ることが死活問題になるわけです。

 実践者が全教員の1000分の1に満たなくても,「全国でこんなに広まっている!」と宣伝しなければならない背景には,こんな事情があります。

 しかし,現場における教育という仕事は,他人の「理論」にかまっている余裕はありません。

 現場の状況というのは,常に流動的です。

 教育について,あり得ない「前提条件」をつきつけられて,目の前の状況に対応できずに苦しんでいる教師には,「被害者」でもあるという面もありますが,事態が収拾できなければ,「指導力不足教員」という烙印を押され,教員としての残りの人生は,その「称号」を背負ったまま,学校をたらい回しにされる運命になります。

 自分の理論を取り入れてくれる教師を「同志」などと呼んで,「敵」を増やし続けている人間が守っているのは,「子どもの未来」や「あるべき教師」ではなく,・・・。

 さまざまな教育論は,きちんと理解され,実践されるとこういう良い効果があります,という宣伝だけではなく,こういう誤解も受けやすく,もしその誤解のもとで実践されると,こういう問題が起こりえます,という注意喚起も必要なのです。

 教師が,教壇に立つ前に,習得してあるはずの「理論」とは何でしょうか。

 教員免許を取得した時点で,習得しているはずの「理論」とは?

 教員採用試験に合格した時点で,習得していると見なされている「理論」とは?

 教育現場では,「理論」をどうこうと批判する以前に,教師になる時点では身についていなければならないはずのことが,大いに欠落しているという致命的な大問題があることを,証明してくれた本があるので驚きました。
 
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注目を浴びたい子どもがすること

 教師になって多くの人が最初に戸惑うのは,あり得ないような問題行動を起こす(繰り返す)子どもへの指導だろう。

 特に,自分の子ども時代にそういう問題を起こす子どもとの接点がなかった人は,「教師」であり続けることが難しくなる。

 あるときはできそこないの「刑事」になり,あるときは「裁判官」になり,そしてあるときは「暴力で動かす」人となる。

 問題行動を起こす子どもに「寄り添う」ことができるようになるには,経験者の声を何時間聞くよりも,自分自身でたくさん経験するしかない。

 「塾の先生」の延長で「学校の先生」の仕事を考えていた人は,自分は「塾の先生」の方が向いているのではないか,と自問してほしい。

 子どもが問題を起こすメカニズムは,本当に多種多様である。

 単純に,「目立ちたい」「人から注目されたい」だけが動機の問題行動もある。

 「規範意識が足りない」から,「規範意識を育ててあげよう」という「指導原理」では,問題行動を根絶できない。

 教師たちにとって基本的な対応策は,予防策でもあるべきである。

 「問題の行動」ではなく,「人から頼られる場面」「人にやさしくできる場面」など,プラスの意味の行動で目立てる環境を整えてあげることが大切である。

 もちろん,そういう場で「注目」されても,それで飽き足らない子どももいる。

 教師から指導を受ける=相手にされることを期待して問題行動を繰り返す子どももいる。

 要は「親代わり」を教師は務めるわけだが,それだけやりがいがある仕事であることがわかっていただけるだろうか。

 社会に出ても,食品ケースに入った写真を公開するなど,注目を浴びることに悦びを感じられる人間が多いが,それは若い人に限ったことではない。

 ブログ村の,教育論・教育問題の「注目記事」を見ていただきたい。

 「下劣」を絵に描いたような「内容のない」記事がアップロードされ,そして注目が集まる。

 注目を浴びたい「子ども」がすることに,ぶろぐ村は寛容なようだ。


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ブログ上での非難と告白

 何度も登場するのでおなじみの話だが,世の中には,怒りを生きがいにしている人がいる。

 とても気の毒なことは何かというと,憤っている相手の描写が,自分自身にぴったり当てはまってしまっていることである。

 漫才なら,綺麗なボケである。

 「それ,お前のことじゃん!」とツッコミを入れたくなってしまう。

 自分以外の机を汚い,汚い,といって非難しているが,だれの目から見てもその人の机の上が最も汚い。

 そういうタイプの人は,職場に1人くらい生息しているのではないか。

 まともに相手にすることはできない。

 自分のことがわかっていない人間とは,議論もなにも成立しない。

 人の話に耳を貸さない(というより,自分がなりすましている「他人」以外,話しかけてくれる人がいない・・・ただ,今は話しかけていますよ)人間というのは,実はこの世で最も「孤独」な人なのだ。

 社会的な動物である人間にとって,最大の敵は「孤独」である。

 だから,自分自身を「敵」にして,相手があることにして非難しまくることで,「孤独」を紛らわさないと生きていけない。

 非難してくれる人がいるということで,「孤独感」は減退する。

 批判する,非難する=相手にしてくれているということだから。

 裸の王様状態のこの人が,変わるきっかけになり得る言葉は,

 「相手は,それほど熱心に非難してあげるほどの価値のある相手ですか?」

 汚い言葉を書いているときが,一番しっくりくる・・・・こんな可哀想な人は,滅多にいない。

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学校における非常識空間の多層化

 大阪府の中学校教師による窃盗事件。

 窃盗という犯罪行為によって,失った退職金はいくらくらいだろう?などと考えた人もいるだろうが,

 世間の常識から言うと,さらに2つのことの「異常性」に気づく。

 一つは,鍵のかからない机の中に,21万円という自分のものではないお金を入れておくという神経。

 もう一つは,それが部活動にかかわるお金だということ。

 公立小中学校では,校内予算などたかが知れている。

 研修などの出張にあてる教員の旅費なども,一人当たり何万円もあるわけではない。

 子どもからどういう部活動がどういう理由でいくら集めているか,管理職が把握していない学校も多いだろう。

 以前にも書いたが,私の甥っ子は野球少年で,中学校でも野球部に入りたかったが,遠征が多く,交通費が年間○十万かかると聞いて,入部を断念してしまった。

 中学校の教師が「私的」に集め,保管している金額の合計はいったいいくらになるのだろう?

 「金鉱脈」が職員室にあることを知っている教師の犯行に同情する気はないが。

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教師の「踏み台」にされている子どもたち

 私が学校で最も気の毒に思うのは,教師たちの「見世物」にされている子どもたちである。

 的を射ていないズレた発言などは,他の子どもたちの「餌食」になるが,獲物に食らいついた子どもを教師は嬉しそうな表情で見ている。

 生け贄になった子どもが,小学生くらいだと,まわりで何が起こっているのかよくわからない。

 「発言さえすれば,教師からいい評価がもらえる」と思い込んでいたり,

 「発言したくてしかたがないだけ」という子どもたちが,自分の「位置」に気づくのは

 高学年か中学校に進学してからということになる。

 
 最近では,「アクティブ・ラーニングを取り入れている」ことで粋がっている教師たちの「慰みもの」になっており,「ズレたまま」でなぜか答えだけはみんな同じになるというマジックに子どもまで浮かされている。

 子どもを「踏み台」にして,のし上がっている人間はどこにたくさんいる?

 子どもは教師が自由に「利用」できるものなのか?


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「ヘンな人」が「よき人」を駆逐していく

 ヘンな人を邪険にする集団より,ヘンな人を大切にする空気をもった集団の方が,

 人間集団全体としてはうまくいくかもしれません。

 「ヘン」と言ってもレベルはさまざまなで,高い・低いや浅い・深い,広い・狭い,早い・遅いなど,四次元空間の「ヘン」さが存在するので,だれでもどこからしら「ヘン」な部分はあるわけで,

 そういう「違和感」が全部お互いの「敵」になってしまったら,すべての人を排除する方向に流れやすくなってしまうはずです。

 ただ,残念ながら,その逆のことも起こってしまうのが人間集団です。

 「ヘンな人」のために,「よき人」がどんどんやる気をなくしたり,嫌気がさしたり,「こんな場所にいたくない」と思ったりする。

 いじめはしたくない・・・としたら,自分がいなくなるしかない・・・「いじめ防止」とは,「人間からの遠ざかり推進」という面ももってしまっていることが怖いことなのです。

 気がついてみたら,本当に自分勝手な人間しかいなくなってしまった・・・

 そういう学校は,生徒の荒れが遅れてやって来るので,原因がつかみにくいのです。

 子どもの問題は,大人が引き起こしているものが多いことをどこかの機会で実感しておきべくでしょう。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より