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カテゴリー「家政婦のミタ」の14件の記事

【データから考える教育-7】 子どもの自立への不安

 子どもが自立できるか不安である,と考えている親(子どもが小1~高3)はほぼ半数。

 ベネッセ教育総合研究所が2015年7~8月に行った調査の結果である。

 学年別で見ると,どこでも男子の保護者が女子の保護者を上回っている。

 では,「自立できない」と考えている理由は何だろうか。
 
 「整理整頓・片付け」が57%で最多。

 「家庭学習の習慣」が39%。

 「友達との関わり」が38%。

 そのほか,「家庭の経済状況」,「学校の宿題」,「心の成長や性格」,「進路・学校選び」,「ゲームの仕方」などが不安要因としてあがっている。

 (日本経済新聞2016年4月4日の記事より)

********************

 子どもが将来,自立できるかどうか「不安」に思ってくれる保護者が多いのはありがたい。

 「不安を感じない」保護者は,大きく2つのタイプに分けられると考えられる。

 十分な教育をほどこしており,学校の成績もまずまずよいので,本当に不安を感じていない保護者。

 本当は不安を感じてもらわないと困るのに,根拠のない楽観で余裕のある?保護者。

 世の中には,不安をあおることが自分の収入源になる人たちがいる。

 「人間の不安心理寄生虫」とでも呼ぶべき仕事がお金になるくらいだから,

 将来も「仕事が皆無になる」心配はないだろう。

 
 将来を生き抜く力をつけるために,アクティブ・ラーニングをどんどん推進させようというムードが高まっている。

 教科書レベルの内容が理解できてお互いに満足しているような「協働性」では,格差は開くばかりである。

 公立学校の現場の教師は,絶対にだまされてはいけない。

 何が子どもたちによって最善の教育かを常に問い続けることができる教師でありたい。

 教育はその場その場で常に現在進行形の取り組みである。

 教育の成果が「死蔵」されてしまる理由もそこにある。

 「変わり続ける力」と「守り続ける力」を両方合わせ持つ柔軟性がほしい。

 
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続 家政婦のミタ に見る教師の適性

 「変わる」能力というか資質は,どのような人にも備わっている,と考えるのが,様々な「教育」制度の存在理由です。

 問題は,その能力を引き出す人の能力,つまり「変える」能力とか資質というのは,どのような人にも備わっているのかどうか。

 疑いは,荒れた学校の子どもや教師,親たちにふりかかってきます。

 
 私はもし教員採用の面接官なら,「教育実習であなたの何が変わりましたか」と問います。

 さらに,「教育実習で,子どもの何を変えることができましたか」とも問います。

 
 前者については,「授業」や「教育」の難しさについてのコメントを,

 後者については,「子どもの可能性」についてのコメントを期待します。


 学校には,家政婦のミタのように,「自ら変わることを封印している」人がたくさんいます。

 
 保護者の暴力に毎日耐えている生徒。

 家庭崩壊状態の教師。

 いじめをしていないと精神的に安定できない生徒。

 いつもだれかの評価ばかり気にしている教師。


 「病んでいる」という印象を真っ先にもつ学校には,本当に多くの困難が,顕在化しており,そしてはるかに多くの困難が潜んでいる。

 そういう学校現場で力を発揮できる教師が求められています。

 
 スポーツを経験していない人を責めるわけではないですが,「自分に対する甘さ」があればもうそこには存在できない,そういう環境を経験していない人に,酷な要求をしてくのは気がひけてしまいます。

 
 あなたには,「自分の甘さ」に気づける場が,今までどれだけありましたか。

 という問いかけを,家政婦のミタからもらいました。

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家政婦のミタ に見る教師の適性

 教育の「失敗」を引き起こす原因を見逃せない私が,やりとりの末に「コメントを入れられなくなった」教育ブログが2つあります。

 はじめのうちは相手も私の質問に答える余裕があったのですが,途中から放棄せざるを得ない状況になりました。
 
 コメントのやりとりは,不特定多数の人が読めますから,自分の分が悪くなってくると,「言い負かされている状況の公開」になってしまうので,自身の「教育ブログ」としての格好がつかなくなってくる。

 一人は,「嘆き節」専門。

 もう一人は,「ずれ」専門。


 こういう「自分は絶対的に正しい」型人間は,辞書で言葉の意味を引いてきたり,本に書いてあることを引用してきたりと,「幼稚な信頼性の向上」を図ったりもするのですが,そもそもこういうタイプの人が,教師には向いていない。

 実態から逃避する手段としての「本」の活用。

 「運用」という任務遂行技能の欠如。


 相変わらず,「認識不足」の記事ばかり書き,まるで自作自演の「提灯コメント」がついている。

 自作自演でない場合は,「似たような教師」のブログからのトラックバックがついている。

 これから教師になろうとする人が,絶対に参考にしてはならない人たち。


 
 視野が狭すぎて,批判されたこと自体に腹を立て始める。

 自分の誤りや嘘を認めない。

 都合の悪い質問には答えない。

 自分は正しいことを言っていると信じている。

 
 こういう人,ある意味では「行政」に非常に向いているとも言えますが,教師には絶対に向いていない。

 子どもからもすぐに「見下される」存在になります。


 人から評価されることを極端に嫌う。

 低い評価に耐えられない。

 こういう人は,もはやあらゆる職業に向いていません。

少なくとも,人に「何かを教える」職業は,無理です。

 自分は「安全圏」にいて,教える相手を「評価するだけ」なんて・・・。


 「家政婦のミタ」のように,自分なりの「解釈」を絶対的な自信をもって述べるのはいいのですが,それは「異論」もでないほど完璧なものでなければなりません。

 そもそも「異論」が出て当然の主張をしながら,「異論」は受け付けない。

 
 欠陥だらけの教育論はこのブログには最高の題材ですから,どんどん取り上げたいのですが・・・。

 
 家政婦のミタを堪能した人たちによって,「見直されるきっかけになる教師」が増える一方,「見限られる教師」も増えてしまうことでしょう。


 一方には,批判に耳を貸さないタイプ。

 もう一方には,批判にただただふりまわされるタイプ。

 
 批判に耳を貸さない,というのは一見,「ブレのなさ」を示しているように見えますが,それは「公務員」ができる態度ではありません。

 
 家政婦のミタのような資質が教師には必要なところがあります。


 議論中に感情をコントロールする力。

 ぶれない信念。教育への使命感。


 ぶれにぶれている子どもや親,教師に自分の位置を正しく認識させるには,相手の自分がぶれてはなりません。

 家政婦のミタの安定感が必要です。

 そして,相手の成長を見極めて,「笑ったり」「泣いたり」「怒ったり」すればよいのです。

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家政婦のミタ 真似できない教育観

 体罰容認。

 心に深い傷を負った人は,何でもやらかせる(殺人も)という人間観。

 死にたい,という人を死なせてあげようとする姿勢。

 言うことを聞かない子どもは,家から追い出す厳しい態度。

 
 教育現場で(なくても,もちろん,実生活では)なかなか真似はできないことですが,「そこまでして初めて相手を変えられる,心を動かせる」というメッセージは,教育現場にどう響いてくるでしょうか。

 テレビを通して(さらにはインターネットを通じて),こうした強い刺激が子どもたちにもふりまかれている一方で,現実の社会生活は,平々凡々とした毎日が繰り返されていく。


 テレビ慣れした子どもたちは,卒業式のあと,最後の別れの場面で「この人,どんなことを言ってくれるのか」と期待するようなところがありましたが,私の場合は照れもあったので,写真をとっただけで事務的にサヨナラしました。

 「要求」は,どんどんエスカレートしてくる。

 テレビでは,実現していることがたくさんあるから。

 実際の生活でも,それを求めようとしている。


 勘弁してほしいと思うかたわら,「本当に相手のことを考えている,ということを伝えるには,どうしたらよいか」を真面目に考えざるを得なくなります。


 始まって5分間で,いえ,1分で,もう打ち切りにしたい教育実習生の授業がありました。

 もし,「もうやめなさい」と言って,代わりに授業を始めたら,その大学生はどうなりますかね。

 生徒の前で,「続けさせて下さい」と訴えるか。

 「すみませんでした」と言って,あっさり授業をやめるか。


 生徒のことを考えると,そもそも教育実習生に授業をさせることが間違っている,なんてことになってしまう。

 あるいは,教員免許をとろうなんて気持ちをなくさせることが,最もその大学生のためになり,万が一間違ってその人が教員になり,子どもが不幸になることを防ぐことができる,ということになる。


 それでも実際上は,低い評価しか出せないことがわかっていても,教育実習生の授業は続く。

 指導力不足教員の授業は続くのです。


 「家政婦のミタ」の,「教師改造」版はできないか,とちょっと考えてみましたが,ダメ親ぶりは公にできても,ダメ教師を公にするのは,なかなか厳しいでしょうか。

 あしだまな演じる「笑わない児童」が,ダメ教師たちを目覚めさせていく・・・ある人は現場を去り,自分が生き生きできる職場で働き,ある人は本当に変身できて,最後にあしだまなが「ほほえむ」・・・どうも気分が滅入っていきます。
 
 
 私が受け持っている大学の学生は,厳しい指導に耐えられているのですが,他の学校の先生にお聞きすると,もう授業を打ち切るどころの話ではない学生もいるようです。

 どこがどうダメなのかを,学べる場所がないんですね。

 もし「家政婦のミタ」が同姓のあのおばさまだったら・・・あの家族はどうなっていたのでしょう。

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家政婦のミタ 学校現場で問われたら?

 恵まれた時間枠ではないのに,あれだけの視聴率を残した「家政婦のミタ」。

 もし教師が,教室で「先生,家政婦のミタ,見た?」と問われたら,どうしますか。

 
 まずは,

 「それは業務命令ですか」と返す?

 「そうです」と言われたら,

 「承知しました」と答える・・・のがセオリーでしょうか。

 もう実行している教師もいるでしょう。

 
 小学校のように一日中一緒にいなければならない教師は,「話題についていけない」のがネックになっていくでしょうから,テレビドラマへのアンテナもはっておく必要を感じていることでしょう。(小学生が見るテレビドラマにしては,時間帯が遅すぎる。だから「録画でみなさいね」というのもお忘れなく)

 
 小学校の教師になろうとする人たちにお伝えしたいことは,「子ども」にとっての「教師」とは,「家族の一員ではない」「他人」であることをしっかりと自覚してほしいということです。

 子どもを研究の道具にする教師がいる一方で,わがままに抵抗できず「都合のいい教師」「甘い教師」に成り下がる人が後をたちません。

 
 「家政婦のミタ」のように無表情になる必要はないのですが,教師の中には演技じみた「子ども大好き人間」がいます。醜悪の極みです。

 「家政婦のミタ」のように,「死にたい」と言っている人を殺そうとすることも許されないのですが,「死にたい」と訴えてきた子どもから,原因を根掘り葉掘り聞き出そうとすることも許されません。

 
 「家政婦のミタ」から学べるのは,「一線を画す」姿勢。


 コメントにも,それが必要です。

 
 いじめを深く理解していない子どもには,「心の傷は,簡単には癒せないことがわかった。だから『いじめ』を今まで以上に許せなくなった」と伝え,

 親の愛情に飢えている子どもには,「親も愛情に飢えていることがわかった。愛情に飢えると,愛情からほど遠い行動をとるようになり,ますます愛情を失っていく。優しくするとか,願いをかなえてあげることが本当の愛情の表現ではないのだ」と伝え,

 人の言うことをハイハイきいてしまう素直な生徒には,「承知しました,という言葉の使い方がわかった。あなたはその程度の人間なんですね,それで本当にいいのかどうか,思い知らせてあげます,という意味でも使えるのだ」と伝え,

 教師という職業の存在理由に気づかせます。

 それが伝えられない現場からは,将来の「よい教師」は生まれてこないでしょう。


 最後に,テレビに出演する女優も男優も,子役も,選りすぐり中の選りすぐり,何万人分の1の人物が演じているので,成立するのがテレビドラマだ,ということも付け加えます。

 金八先生のときも,どんなに荒れた学校を再現しようとしても,私にはどの中学生役の子どもも,「台詞がきちんと覚えられる優等生」にしか見えませんでした。

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家政婦のミタ すでに死んでいた「家政婦のミタ」

 最終回の視聴率40%超えで,本当に「伝説のドラマ」になってしまいました。

 話題もつきないようです。

 「希衣ちゃん」役の本田望結ちゃんは「ポスト・あしだまな」か?

 続編はつくられるのか?

 松嶋菜々子の次回作は?

 などなど。

 
 脚本を手掛けた遊川和彦氏のインタビュー記事も多数見かけられます。

 
 私は,教育の観点から,ドラマの「ミタ」と現実の社会を考えています。


 家政婦という立場で,非常に「教育的な言葉」を繰り出す「ミタ」。

 しかし,プロセスにおける行動自体は,ほとんど「やってはいけないこと」。

 「一歩間違えばたいへんなこと」。「犯罪行為」。


 教育現場でも,特に荒れた学校をたてなおすときには,似たようなことが起こっています。

 
 しかし,現在は「やってはいけないこと」は,やってはいけない。

 教師を「やっていくこと」ができなくなってしまう。


 だから,「ミタ」の「思い切りのよさ」に羨望のまなざしを向ける教師も少なくないかもしれません。

 でも,「業務命令」によって「笑顔」を見せる→魅せる「ミタ」と,

 「泣き顔」をその笑顔に向ける家族たち・・・・そういう場面を経験できる「生きた人間」の職業は,そうはないでしょう。

 仏様=仏像のように「生きていないもの」ならできるのかもしれませんが。

 
 松嶋菜々子は,「ミタ」を「仏像」として演じていたのだと考えています。

 本当はすでに「死んでいる」のが,「家政婦のミタ」です。

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家政婦のミタ の最大のテーマは「教育」

 最終回を見て,受け持ちのクラスの子どもたちがつくり,最後までみんなで問い抜いた「自立と自律」というクラス目標を思い出しました。

 自律とは何か,

 自立とは何か,

 それを問い続いているうちに,

 いつの間にか,みんなそれを手に入れました。

家政婦のミタが口を開こうとしたときに,

 絆が強くなった「家族」が口を開いていく。


 私はここが「ほほえむ」タイミングかなと思いましたが,違っていてほっとしました。

 もし「教育」だったら,「目標達成」の場面です。
 


 最後の晩餐の場面は,「卒業式」と同じでしたね。


 教師というのは,「別れ」のつらさを毎日の忙しさで紛らわすものです。


 「荒れた学校」への異動は,最高の舞台を手に入れたことになります。


 まばたきだけで同意や感動を伝えられる教師は,あなたのそばにいますか。


 (蛇足) 三田=サンタの落ちはやり過ぎか。

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家政婦のミタ 人を変える一言 

 人を変える一言とは?

 安易な人間は,「その一言だけで変わった」→「その一言で変えられる」

 と考えてしまいます。

 
 この間違いには,たとえば研究会に参加して,目の前の成功を表面的に真似しようとして失敗した経験がある教師ならばわかるでしょう。

 大学生や大学院生が不幸なのは,「元優秀な教師」に習って,その話に「なるほど」と思っても,それを実行して自分が失敗する機会がないことです。

 幸福なのは,それを実行して成功したつもりになってしまう機会がないことです。

 
 人を変える一言とは?

 コップに水を1滴ずつ,入れて,こぼれる直前を想像してみて下さい。

 最後の1滴で,コップから水がこぼれる。


 この1滴が,「人を変える一言」です。

 これが,教育でいう「成功」の瞬間です。


 その一言の前に,どのくらいの数の「言葉かけ」があったか。

 もし「家政婦のミタ」の再放送があったら,丹念に調べてみて下さい。

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「家政婦のミタ」への期待

 本当に愛情をもっている子どもには,

 媚びるような親ではなく,

 甘やかす親ではなく,

 厳しく接することができるはずだ・・・というメッセージは,


 教育現場には,
 
 本当に愛情をもっている生徒には,

 媚びるような教師ではなく,

 甘やかす教師ではなく,

 厳しく接することができるはずだ・・・という形で響いてきます。


 しかし,ただ厳しく接することはできても,厳しく接する生徒に対して,愛情も感じさせることは簡単ではありません。

 愛情を感じながら,厳しく接することも,簡単ではありません。

 
 自分を忘れることができたら簡単そうですが,人間,そう簡単でもありません。


 裏の裏を見てきた私には,「感動させようとする意図」が見えてしまうので,そう思えるのかもしれませんが,「耐えている自分」に酔うことができたら,実はそんなに難しくはないのです。

 制作者は,今,どんなふうに酔っているでしょうか。

 いよいよ明日が最終回ですね。

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「家政婦のミタ」にみる教育失敗学

 ネット上のアンケート結果では,視聴率30%超えは確実な?ドラマですが,物語上では,「たいへんな失敗」とその克服過程が描かれており,当ブログの趣旨からも見逃せないものとなっています。

 このドラマが,どのような社会現象を引き起こすのかは分かりませんが,

 「人を教育しているミタ」が

 最も「教育されることを必要としている」・・・あたりの矛盾は何とも言えません。


 「あやかり商法」として,今回の最終回では松嶋菜々子の「笑顔」をあえて見せずに,

 「続編」へのつなぎを考えるテレビ局サイドの人がいてもおかしくないでしょう。


 そういう期待の裏切り方ができるのがテレビというものです。

 しかし,もし「笑顔」が見えるとしたら,今年のもやもやの一部が晴れるような気分になれるかもしれません。


 ドラマの成功が,人間の「失敗」に支えられているという話は,

 どうも教育の世界ではスムーズにいかないのです。

 
 教育の世界は,たとえば各学校の「教育課程」を読めば分かる通り,ほとんど「本当に実現させる気はないだろう」と思えることが平気で書いてあります。そして,全教員がその「教育課程」を熟知して,その内容に基づいて自己の仕事の成果を検証することなどなく,ただ「例年通り」のようなかたちで4月を迎えるようになる・・・。

 ドラマの人間は「リセット」が可能ですが,

 きちんとできていないことでもできていることにしている教育の世界では,そもそも「リセット」という発想は生まれません。

 せめて,これから教師になる人たちには,最初に抱くはずの疑問を決して自分の中でもみ消さないよう,感覚を研ぎ澄ましてほしいと思います。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より