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カテゴリー「言語活動の充実」の176件の記事

授業では,「わかったつもりになっている子ども」を罠にはめることも大事

 公立の小中学校レベルの授業だと,すでに塾とか通信教育での学習で「履修済み」の内容が扱われたりして,一部の子ども(地域によっては大部分の子ども)にとって「わかっていること」を繰り返しているだけの場面が増えてきます。

 当然,教師は,まだわかっていない子どもをわかっている状態に変えるために授業をしますから,単純な発想しかできない人は,「わかっている子どもに教師役になってもらう」という姑息な手段に訴えようとします。

 ただ,まだわかっていない子どもが「わかった!」という快感が得られる手前で答えを言ってしまうなど,「手加減を知らない」「自分の優位性を示したい」のがやはり子どもらしいところですから,「わからない」状態にある子どもが,「わかる」プロセスを通してせっかくの「成功体験」が得られる機会が無駄になってしまうことが多いのです。

 だから,「わかっている子どもがいるんだから,任せてしまえ」というのはあまりにも乱暴というかいい加減な態度なので,絶対にやめてほしいのです。

 これからの学習指導で「主体的・対話的な深い学び」を子どもに実感させるために,いい方法があります。

 「わかったつもり」になっている子どもに「本当のことはわかっていなかった」と思わせ,「わからない」子どもの方が「本当のことがわかりやすい」立場にいたことを実感させるのです。

 「わかったつもりになって人に説明することが,いかに恐ろしいことか」を実感させれば,授業に集中しやすい環境がつくれるでしょう。

 以前どこかで紹介したかもしれませんが,聖徳太子(厩戸王)の政策を蘇我馬子が苦々しく思っているように描いている漫画と,誇らしく思っているように描いている漫画があります。漫画にも,レベルの違いがあるのです。

 どうして蘇我馬子の反応が違うのか。どっちが正しいのか。

 小学校レベルの授業では,「聖徳太子の政治」というタイトルが成立していますが,今,そういうタイトル自体が成立しないような解釈が一般化してきています(残念ながら,一番売れている中学校の教科書も,そういう小見出しがついてしまっていますが)。

 なぜ聖徳太子が,朝廷のあった場所からかなり離れた斑鳩に拠点を置いたのか?

 それが次の段階に考えさせることで,聖徳太子の死後,何が起こったのか?

 小学生にもこの辺までふれておいてくれると,「権力争い」の構図の捉え方の基礎が身に付く感じがしますね。

 もちろん,「高校生レベルが深い学びなんだ」というわけではありません。

 小学生にでも,「蘇我氏の実力」をどう捉えるべきか,深く考えることは不可能ではないでしょう。

 「善」と「悪」に簡単に分けて人間や歴史を語るような態度では,「深い学び」は絶対に不可能です。


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すでに「深い学び」への関心が高まっている

 「主体的・協働的な学び」に関する実践や研究は,これまで数十年かけて積み上げられていました。

 一方,「深い学び」の方は,そもそも英語で表現できる概念なのか?という疑問が湧くほど,欧米教育制度輸入専門学者には説明不可能なものになっており,現場では戸惑いがあります。

 学習指導要領解説が公開されていますので,「改訂の基本方針」の

>③「主体的・対話的で深い学び」の実現に向けた授業改善の推進

 の項目を読んでもらえれば,「深い学び」を登場させている理由がわかります。

深い学び(ここにはカギ括弧が必要でしょう。出版されるときは訂正されると思います。)の鍵として「見方・考え方」を働かせることが重要になること。各教科等の「見方・考え方」は,「どのような視点で物事を捉え,どのような考え方で思考していくのか」というその教科等ならではの物事を捉える視点や考え方である。各教科等を学ぶ本質的な意義の中核をなすものであり,教科等の学習と社会をつなぐものであることから,児童生徒が学習や人生において「見方・考え方」を自在に働かせることができるようにすることにこそ,教師の専門性が発揮されることが求められていること。

 要は,「深い学び」はできない,としている学習の方法,考え方が生き残れない時代になった,ということです。

 研修に見えたある先生から,「深い学びとはどんなものだと思われますか」と問われたときに,

 文部科学省的には,上の内容ですよ,とお示ししたあと,

 私の本心は,「そもそも深くなければ学びではない」「人間そのものが深い存在だ」という趣旨のことをお伝えいたしました。

 10冊とか20冊程度の本を読んだだけで教育ができるのであれば,資格試験など必要ありません。

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教科独自の「見方・考え方」を働かせて「深い学び」を実現させようという考え方自体が,「教科」にこだわり,タコツボ型大学教師たちの既得権益を守ろうとする,硬直的で一面的な「見方・考え方」しかできないことを示している

 最近,コンピテンシーは「21世紀に求められる大切な資質・能力」という意味合いなり文脈で語られることが多くなったが,このブログで10年以上前から紹介しているように,もともとは「企業で高い業績を残している人に多く見られる行動特性」を意味する言葉である。

 21世紀には,組織ではなく個人の仕事で高い業績を残せる仕事も多くなっていくから,コンピテンシーのすべてを身に付ける必要はなくなっていくだろうが,やはり「基礎」の部分ができていて,さらにその上をいくために何が必要かを示しているのがコンピテンシーである。

 いまやコンピテンシーといえば,「資質・能力」に読みかえられて基礎の基礎をも含む概念になりつつあるから,何でもありになってしまった。

 コンピテンシーの中核として,「思考力」が挙げられるのは当然である。客観的で科学的なデータをたくさん集めて,根拠をしっかり示し,明確な論理で説明できる人は,信頼性も高くなるから高い業績を残すことが期待できる。

 ただ,それだけでは足りないことに多くの人が気づいている。

 教科独自の「見方・考え方」を働かせて「深い学び」を実現させようという考え方自体が,「教科」にこだわり,タコツボ型大学教師たちの既得権益を守ろうとする,硬直的で一面的な「見方・考え方」しかできないことを示している。

 行政主導のカリキュラムマネジメントの典型的な失敗例である。

 「思考力」の分野でも,従来型の「アナリシス」重視から「アナロジー」重視へのシフトが欠かせないのは,高いレベルというより異なった次元の能力が求められるようになっている。

 霞ヶ関に寄せ集まって,「銀座で山を買う」式の行動に出ていることに,気づけない人が多いことが気の毒である。

 「総合的な学習の時間」が破綻している今,現場に余裕がないことくらい,だれでもわかる。

 子どもの主体性や意欲を最大限に発揮できるはずの「総合的な学習の時間」に,「学力向上」のための算数のドリルをやっているようでは全くの無意味である。

 「総合的な学習の時間」の意義を語れる「人材」がいないから,時数削減は当然の成り行きだろう。


 「大学入試が変われば,教育が変わる」という考え方の安易さにも,そろそろ気づく必要があるだろう。

 分析によって「評価」が可能だった能力から,そもそも簡単に「評価」なんてできないくらいの創造性の高さが求められているわけだが,それを「大学入試」などという「主観性」を排除すべき場で導入するのは無理なのである。

 「理由は説明できないが,この論文を気に入った採点官が多かったから合格」と言える仕組みが整えば,大学入試問題は変えられる。

 教育現場での評価はより「主観的」で「独善的」でかまわない。なぜなら,各学校での独自のカリキュラムがあり,目標としている能力が異なるから。・・・・というくらいの教育観の変化が求められているのが今の社会である。

 今の「絶対評価」は,指導の中身が伴っていないにもかかわらず,学習指導要領に示された目標に準拠したかたちの評価になっているから,そもそも信頼性に乏しいものであることは明らかである。そこに信頼性があれば,「入学試験」でわざわざ学力を測定する意味はない。

 画一化された入学試験がなぜ大切かと言えば,それは学校ごとの評価があてにならないからである。

 しかし,「あてにならない」ことは正しいのだが,本来は主体性を発揮している学校ごとの指導の重点が異なるのだから,「あてにしてはいけない」という発想で入学試験を用意しなければならない。

 新しい学習指導要領が本当の意味でのコンピテンシーを育てるものになるかどうかは,各学校のカリキュラムがより創造的で自由度が高いものになっているかどうかで判断できるだろう。


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「ゆとり教育」と「詰め込み教育」のいいところではなく問題点だけが際立ってくる次期学習指導要領

 学習指導要領を10年くらいの間隔で改訂するときに,「なぜ改訂するのか」と問われたら,「そのときまでの課題を克服するためだ」としか答えようがないだろう。

 ただの「ノリ」「勢い」「ムード」で「次期学習指導要領」の改訂の柱が決まることはない・・・・はずである。

 しかし,「改訂の柱」に据えようとしているのは,ごくわずかな期間の流行が背景になっている例もある。

 現行の学習指導要領の「改訂の柱」とは,「言語活動の充実」だった。

 今,教育現場で「言語活動を充実させましょう」などと言っている人はほとんどいないだろう。

 「言語活動」などといった「当たり前すぎる言葉」は,「死語」に近づいている。


 「言語活動の充実」をさせた結果,「思考力・判断力・表現力」は向上したのか?

 答えはNOである。そう簡単に「思考力・判断力・表現力」は向上しない。

 私の娘の小学校は,「基礎・基本の徹底」を図るためか,毎日かなりの量の宿題が出される。

 これをやったところで,「思考力・判断力・表現力」はそう簡単に向上しない。

 というよりも,時間だけかけて忍耐力があればできてしまうような大量の課題のために,

 じっくりと考えて深く調べたりする時間がとれずに困っている。

 公立の小中学校では,今でもそういうレベルなのだ。

 次期学習指導要領が実施されるときには小学校は卒業しているが,

 私が危惧しているのは,本来,学校で学ぶべき基礎・基本を家庭に押しつけ,

 学校では教師の手のかからない「話し合い」だの「教え合い」だの「発表会」などで時間だけが費やされていくことである。


 「学ぶ意欲」を子どもに持たせることは大切であるが,簡単にできることではない。


 大人だったら,自分の会社の社員たちが「働く意欲」をすぐに高められる方法を考えてほしい。

 それと同じことが学校でもできるだろうか?


 だれもが簡単に意欲を高められるような内容は,私の想像では「長続きしないもの」である。

 「熱しやすく冷めやすい」という言葉は,だれかの教育方法にすぐに飛びつき,やがてやめていく,そういう教師たちにはぴったりの言葉だろう。

 子どもたちには,「そう簡単に高められない」が,一度火がつくと,なかなか消えない,そういう「持続力」のある意欲をもたせるような授業を教師が実践しなければならないのである。

 「アクティブ・ラーニング」とは,「教師の授業づくりのための学び」という大方針なのであれば,支持したい言葉だが,ただの「協働的」「対話的」な学びで子どもの「思考力・判断力・表現力」がつくと思ったら大間違いである。

 少ない時間数でも,学び方が学べるような教育を受けてきたはずの「ゆとり世代」に欠けていたものは何か?

 多くの時間をさき,たくさんの内容にふれる機会を与えられた「詰め込み世代」に欠けていたものは何か?

 
 前者も後者も,実は「最も強い」はずの部分が「実は全く強くなっていなかった」ことが弱点だったのである。

 次期学習指導要領では,「実はどうでもよかった部分」を「どうにかしようとして,結局何も得られずに終わる」という最悪のパターンに陥らないようにしたい。


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評価の方針の発表によって,道徳科の問題点が明確に ~ついでに,道徳科の評価の話の前に,国語科の評価が必要

 「特別の教科 道徳」の指導方法・評価等についての報告が公開されているが,

 句点の打ち方や文の構成の仕方がおかしいものが目立つ。

 
 その「概要」に,こんな1文がある。

>(道徳の)評価に当たっては,児童生徒が一年間書きためた感想文をファイルしたり,1回1回の授業の中で全ての児童生徒について評価を意識して変容を見取るのは難しいため,年間35時間の授業という長い期間で見取ったりするなどの工夫が必要。


 もちろん,「児童生徒が書きためた感想文をファイルすること」は難しいことではない。

 文の構造は,Aをしたり,Bをしたりするなどの工夫が必要という内容。

 Bの中に,「1回1回の授業で変容を見取るのは難しいため(にBをする)」という修飾語が入ってしまっている。

 
 ファイルするのは児童生徒が行えばよいから,「工夫」することでもない。

 年間35時間の授業全体を通して評価を行うために,

 児童生徒が書いた1年分の感想文を参考にしよう,というだけの話である。

 国語が苦手な人がまとめた文だろうか。あまり笑えない。 

 そもそも道徳の授業は国語の授業の出来損ないみたいなものが多いが,

 文科省が発表するものがこの程度だから仕方ないか。


 では,語順をかえればそれでよいかというと,そうでもない。

 道徳科の評価の最大の課題が見えてきた。

 道徳科の評価は,あくまでも「道徳科の授業内で」という雰囲気が漂っている。

 
 しかし,道徳的価値の理解を自分自身との関わりの中で深めているかどうかを判断できる多くの場面は,

 日常的な学校生活の中であり,ものによっては,それでも困難である。

 
 35時間あっても,道徳の内容は22個あるから,1度きりの内容については「35時間」で変容が評価できない。


 「特別の教科 道徳」の導入は,これまで学校の教育活動全体を通して実践してきた道徳教育を,

 「道徳科の授業」内に「矮小化」「限定化」「固定化」していく危険性が高い。

 
 道徳の評価から,改めてよくわかった問題点である。


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「言語活動の充実」を改訂の柱にした現行学習指導要領の実施状況のどこがどのようにダメだったのかを明らかにしなければ,次期学習指導要領でも同じ結果しか待っていない

 タイトルが長すぎですが,言いたいことはこの一文に尽きます。


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デジタル教科書の使用が招く学力低下

 私が考えるデジタル教科書の大きな欠点は次の2つである。

 両方とも,電子書籍の欠点と同じである。

 まずは,画面が小さいこと。

 もちろん,タブレットでは指先の操作だけで「拡大」することができるが,拡大すると見える範囲は狭くなってしまう。

 もう1つは,ページをパラパラっとめくりながら,「ここを読みたい」というところにすぐに飛べないこと。

 教科の中には,「他の単元のページに飛ぶ」必要がないものもあるかもしれないが,

 電子辞書と紙の本の辞書との違いのように,必要がない場所も「通過」しながら目に入っている方が,「調べる」活動として優れていると思われる。

 社会科の地理や歴史では,他の地域,他の時代との共通点や相違点を探そうとするとき,1ページ1ページめくるのではなく,20ページごとに内容を比べるなどという作業が必要になったりする。紙の本でないと難しい。

 
 紙の本にも欠点はある。

 大きい,重い,お金がかかる。

 しかし,電気を使わずに読むことができる。


 デジタル教科書の本格的使用が始まると,子どもたちは

 「ノートに書く」という基本的な作業をしなくなるのではないか,という心配がある。


 タブレットの画面上で,「なんとくわかった気になる」だけで,実際には理解しておらず,どんどん授業が進んでいく,という事態も考えられるだろう。

 「ノートに書く」作業を通して,自分がわかっているかわかっていないか,考えることができているかどうかが自分でも判断できるが,電子書籍の利用で,「わかったつもりになる」子どもが増えてしまうことを心配している。


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次期学習指導要領で「大量生産」される「落ちこぼれ」

 先日,授業参観にやって来た教育実習を控えた大学生は,あることに衝撃を受けていた。

 教師が発言している間に,どんどん生徒から疑問なりアイデアなり意見なりが飛び出していく。

 自分の学校時代は,教師の発言中,生徒が口出しすることは御法度だったと。

 もちろん,そういう場面も必要だろうが,社会科のように教師が話す時間が多い教科では,生徒からの言葉による反応を禁止してしまうと,本当に受け身の学習になってしまう。

 ちょっとでもひっかかる言葉に出会ったら,仮に自分一人に限られるかもしれないような疑問でも,すぐに教師に質問できる,そういう環境がないと,一斉授業は死んでしまう。

 
 次期学習指導要領に向けて,徐々に見えてきたものがある。

 どのような「資質・能力」を身につけるかを重視する,

 コンテンツベースからコンピテンシーベースの授業への転換がその柱である。

 
 そうすると,穴埋めにする言葉をみんなで探しているような『学び合い』では,全く通用しない評価が待っていることになる。


 ごくごくわかりやすく表現すれば,コンテンツベースではないから,

 今までの「1問1答式」ではなく,「論述問題」「資料活用問題」など,文章で記述する問題がメインとなる。

 要は,正答率が高くても3~5割だった「応用問題」がテストの中心になるということだ。


 今までは,どんな子どもでも「これと,これと,これを覚えておけば半分くらいの点数がとれる」世界だったが,

 これからは,「こういうことと,こういうことと,こういうことができるようにならないと点数がとれない」世界に入っていくわけである。

 私のイメージでは,2割くらいの子どもは学力が伸びていくが,下の3~5割は全く対応できないような学習が待っていることになる。

 新しいタイプの「落ちこぼれ」が大量に生まれていくことになろう。
 
 知識もなければ思考力もあるかないかわからない。

 
 新しい大学入試では,運不運が左右する。

 たまたま自分が追究していたテーマにあたると,すごくできるかもしれないが,

 全く予想外のテーマにあたると,応用力がない生徒は太刀打ちできない。

 
 具体的な「現場対応不可能性」が,これから明らかになっていくだろう。


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本日の都立高校入試(社会科)の記述問題について ~近江の大津・坂本の馬借とアフリカの森林減少~

 本日行われた東京都立高校の記述式の入試問題について,気づいたことをメモしておく。

 歴史では,中世における大津と坂本の馬借が果たした役割を,地図と2つの資料をもとに述べるものであった。

 問題文に「大津と坂本で活動した馬借」とあるが,馬借は言うまでもなく運送業者だから,

 「大津と坂本を拠点として活動した」とか,「大津と坂本に住んでいた」とした方が適切だっただろう。

 正答例は,「主に琵琶湖の水上路を利用して,」から始まっているが,

 「水上路を利用」したのは馬借ではないから,「利用して」の後ろの読点はない方がよかったかもしれない。

 この問題は,「馬借の役割」を問うよりも,
 
 「大津や坂本」が物流の拠点になっていた理由を問う方が,「考える」きっかけができただろう。

 地図がなくても正答できてしまう点が最も気になる点である。

 また,教科書等では「馬借たちが起こした一揆」が紹介されているため,「一揆を起こした」と解答した生徒がいたと考えられるが,これは減点対象となるのだろうか。

 高校ごとに採点基準は定めてよいので,聞いてみたい点である。


 もう1つ。アフリカ州の森林面積の減少と農地面積の変化を人口の増加と結びつけて答えさせた問題だが,

 正答例は,次のように示されている。

 「森林面積は減少し,農地面積は増加した。その理由は,人口の増加に伴い,食料等を増産するために森林を伐採し農地にしたから。」

 前半はグラフを読み取っただけだから間違いない。

 問題は後半である。

 アフリカの人口増加は,食料生産の増加を上回る勢いである。

 食料が増加したから人口が増加しているというわけではない。

 実際,食料の輸入も増えている。

 森林の減少の原因はさまざまだが,アフリカの森林伐採は,薪にするための木材をとるためと,木材を輸出にまわすために減少している。

 いも類は火を通さないと食べられないため,人口増加に伴って煮炊き用の薪が大量に必要になっている。

 伐採した森林がみんな農地になっているかのように読める答えはいかがなものか。
 
 さらに,教科書では輸出用農産物で外貨を稼ぐというアフリカの農業の特色も説明されている。

 増えた農地のうち,アフリカの人々の胃袋を満たすためのものがどれくらいあるのか,疑問である。

 
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「コミュニケーション能力だけ」が高い子どもが増えたその先は・・・

 言語活動を充実させることが重要だ,という言われ方をしたときに,

 やれ「話し合い」だ「学び合い」だと騒いでいた人たちも,

 「言語活動を充実させる」ことのねらいをきちんと見極めて,思考力や判断力,表現力を高めていかなければならない,なぜなら試験にも実際の仕事にも,こういう力がついていないと危ないからだ,

 と目が覚めて,

 「ただ子ども同士でやらせておけばよいものではない」ことに気づき始めている。

 
 「コミュニケーション能力を向上させることが大事だ」と言われたときに,

 「振り込め詐欺技術の高度化が進みそうだ」と揶揄してくれた人たちがいたが,

 これから,「口だけが達者」な子どもが増えていったときの反動が私は心配である。

 
 その1つは「道徳教育の充実」だが,これは「道徳の教科化」が決まってもはや先行きが怪しいことが明らかになっている。

 「嘘でも良い言葉を発したもの勝ち」「嘘をついた方が得をする」という空気が蔓延しない対策を立てなければならない。

 あとの1つは「教育内容の充実」で,振り子現象の1つである。いわゆるグローバル社会に対応した教養主義が求められていくことになろう。

 しかし,こちらの解決方法もなかなかに難しい。

 「知識基盤社会」だと言いながら,「知識」が疎かであることに社会は涵養である。

 大学のセンセイまでもが(自己防衛のためだとも考えられるが)知識はすぐに陳腐化するものだ,と「知識重視」を唱える人を批判し,「知識詰め込み教育はよくない」などと言い出すが,大学を卒業しても教科書レベルの知識がない教師がいることへの責任を完全に放棄している。

 こういう大学を卒業して教員免許を取得してしまった人が教師になってしまった場合は,ICTに頼るしかなくなってしまう。

 多くの国や地域の学校教育というのは,能力は異なるものの,年齢は同じである子ども集団が同じ内容を学ぶところである。

 同じ年齢であることを優先する結果,簡単に言えば「お友達」同士の会話が生活の中心となる場所が学校である。

 しかし,「お友達」同士の会話ができるようになれば,「コミュニケーション能力が高まった」と言えるわけではないことは,学校のセンセイでなくてもわかる話である。
 
 中学校や高校の場合,部活動に入っていれば,先輩や後輩,顧問の先生,対戦相手の生徒や顧問の先生などとのかかわりが生まれる。

 挨拶程度の内容から,技術的な面でのアドバイス,お互いの課題の確認など,コミュニケーションの内容は多岐にわたってくる。

 ただ教科の内容を消化させているだけの普通の教科教育では,身につかせることが困難な力がある。

 お互い同士,「わかりあえる」ことが前提の授業では,必死に「わからせよう」とする心や努力そのものの価値が下がってしまう。

 「わかりあえない困難さ」を乗り越えるタイプのコミュニケーション能力を育成するのは,教科学習の中では難しいのである。

 グローバル化が進む社会に対応できる子どもを,1人の担任が40人の同年齢の子どもに対峙する学校社会で育成することがどの程度で可能なのか。

 「コミュニケーション能力だけ」が高い子どもが増えてきたときの,次のことを考えておくべきだろう。
 
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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より