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カテゴリー「言語活動の充実」の178件の記事

寝た子を起こす教育

 「寝た子を起こす」とは,せっかく収拾がついたのに蒸し返したりするなどの余計なことをして,再びもめたり問題を起こしたりすることのたとえである。教育の世界では,性教育などを例に,潜んでいる欲望が刺激されてよからぬ行動を引き起こすことのたとえにも使われてる。

 ことわざや慣用句を使い慣れない若い人たちがこの言葉を聞くと,「退屈しない授業」「集中して学べる授業」という意味にとられるかもしれない。

 私の場合は,それらのどれにも当たらない意味での「寝た子を起こす教育」の姿を思い描く。

 子どもたちが使っていない能力を発揮できる教育,といったニュアンスである。

 子どもたちがその資質や能力を遺憾なく発揮できるのは,得意なスポーツや学習をしているときだろう。

 ただ,学校には「できないことをできるようにする」という「使命」が与えられているせいで,最初は「できない」ことが前提の学習が多い。「できない」「わからない」ものは,「先生に教えてもらうしかない」という発想になりがちで,どうしても学校での子どもたちの姿勢は「受け身」になる。

 偉いガクシャさんたちは,この「受け身」の姿勢が問題なんだといって,自分の大学でもアクティブ・ラーニングを進めなければと焦っているはず(そもそも大学で求められた学びを下級校に押しつけるだけの人もいるだろうが)である。しかし,コンテンツ重視からコンピテンシー重視へと姿勢をシフトさせる度胸がなかった文科省(これは「ゆとり」失敗の後遺症)が,「コンピテンシーっぽい香りのする見方・考え方を働かせる主体的,対話的で深い学び」を導入してお茶を濁そうとしたときに,待ったをかけなかった。この罪は決して軽くない。子どもは基本的に「寝かせたままでよい」という発想でしかないから,黙認したのだろう。

 「深い学び」は放棄してしまうことを堂々と宣言する『学び合い』のような,度胸のいる実践ができる人は少ない。

 コンピテンシーとは,そもそもが優秀で好成績を残している人がもつ行動特性のことである。

 主体的で対話的だから優秀になったのではなく,優秀だから主体的で対話的な手法もとり,深い学びもできるのだ。

 100%の子どもに保障できないことを押しつけるカリキュラムがスタンダードとして扱われ,力がつかなくても卒業させるという仕組みには,どう考えても正当な「整合性」がない。

 「なぜ学ぶのか」もしっかり考えさせることができる教育を選択しないことも,大きな罪である。

 子どもたちが使わせられずに眠らされたままになり,やがて腐ってなくなっていく「思考力」とはどのようなタイプのものだろうか。それほど難しい質問ではないはずである。古いタイプの学校を消すために何ができるかを考えている。

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日本語は筆の力が物を言う

 新しい社会人には,「コミュニケーション能力」が強く求められている。ということは,現役の社会人から見て,新人たちには「コミュニケーション能力に欠けている」という認識があるということである。

 学校現場のせいにされるかもしれないが,「ホウレンソウ」は子どもたちにも常に求めているところである。

 クラスであったこと,検討中の行事への取組など,自主的に進めていることのうち,担任やクラス全体で共通認識を持っていた方がよいことは,「帰りの会」で報告したり,連絡したり,相談したりする習慣をつけている。

 口頭で伝えるだけで,メモを取らないと,その内容が残らない。だから学級日誌にホウレンソウの内容はしっかりと記述もさせている。「記録」の習慣も学校教育ではつけさせている。

 ホウレンソウを欠かさず行うというコミュニーション能力も大切かもしれないが,そもそも伝えるべき内容を把握していなければ,コミュニケーションも何もない。

 どう伝えるかよりも,何を伝えるかの方が大事である。

 その「何」に当たることが,学習の場面では,頭の中にではなく,本(教科書や資料集を含む)やインターネットで検索されたもの,教師が配った教材にあるのが学校というところである。

 それらから自分なりにつかみとった内容を,まずは自分の手を使って書く。

 たったこれだけで学力は向上させられるのだが,教師が子どもの言葉を聞きながら黒板に書いてしまったり(黒板に書くと生徒は「写す」だけで終わってしまう),言葉のやりとりだけで終わってしまうから,雄弁なのにテストができない,という子どもが増えてしまう。

 先週末に,雑誌のセミナーに参加し,講演後に御礼を伝えた記者の方が,教員であることがわかる私の名刺をご覧になって,「話すのが上手でなくて」と恐縮されていた。内容に集中していた私には,「伝え方の上手・下手」などは全く関心の外にあった。

 かつて,ある大学の教授が学会の全体会で講演したときは,伝え方のお粗末さに辟易とさせられたが,内容がわかりきったものであることや,そもそも「文字が小さすぎて見えないプレゼン」で話していたから,「わかっている自分だけで満足しているダメな教師」の典型としか見えなかった。

 それに対して,地道な取材に基づいてとても興味深い記事をつくっていらっしゃった記者の方に対しては,敬意しかない。

 日本語は,筆の力が物を言う言語であることを改めて認識すると同時に,「音声言語」である外国語の学習がなぜ苦手なのか,「会話」を重視する外国語の教育がなぜ失敗するのかがよくわかった。

 繰り返しになるが,「話す聞く」ではなく,「読み書き」を重視した小学校の英語教育で成功している地域がある。

 学習指導要領からの逸脱によって,よりよい成果が導かれる場合,教育委員会としては板挟みになるわけだが,良識のある教育長ならむしろ成果がある方をナショナルカリキュラムにすることを提言するだろう。

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授業では,「わかったつもりになっている子ども」を罠にはめることも大事

 公立の小中学校レベルの授業だと,すでに塾とか通信教育での学習で「履修済み」の内容が扱われたりして,一部の子ども(地域によっては大部分の子ども)にとって「わかっていること」を繰り返しているだけの場面が増えてきます。

 当然,教師は,まだわかっていない子どもをわかっている状態に変えるために授業をしますから,単純な発想しかできない人は,「わかっている子どもに教師役になってもらう」という姑息な手段に訴えようとします。

 ただ,まだわかっていない子どもが「わかった!」という快感が得られる手前で答えを言ってしまうなど,「手加減を知らない」「自分の優位性を示したい」のがやはり子どもらしいところですから,「わからない」状態にある子どもが,「わかる」プロセスを通してせっかくの「成功体験」が得られる機会が無駄になってしまうことが多いのです。

 だから,「わかっている子どもがいるんだから,任せてしまえ」というのはあまりにも乱暴というかいい加減な態度なので,絶対にやめてほしいのです。

 これからの学習指導で「主体的・対話的な深い学び」を子どもに実感させるために,いい方法があります。

 「わかったつもり」になっている子どもに「本当のことはわかっていなかった」と思わせ,「わからない」子どもの方が「本当のことがわかりやすい」立場にいたことを実感させるのです。

 「わかったつもりになって人に説明することが,いかに恐ろしいことか」を実感させれば,授業に集中しやすい環境がつくれるでしょう。

 以前どこかで紹介したかもしれませんが,聖徳太子(厩戸王)の政策を蘇我馬子が苦々しく思っているように描いている漫画と,誇らしく思っているように描いている漫画があります。漫画にも,レベルの違いがあるのです。

 どうして蘇我馬子の反応が違うのか。どっちが正しいのか。

 小学校レベルの授業では,「聖徳太子の政治」というタイトルが成立していますが,今,そういうタイトル自体が成立しないような解釈が一般化してきています(残念ながら,一番売れている中学校の教科書も,そういう小見出しがついてしまっていますが)。

 なぜ聖徳太子が,朝廷のあった場所からかなり離れた斑鳩に拠点を置いたのか?

 それが次の段階に考えさせることで,聖徳太子の死後,何が起こったのか?

 小学生にもこの辺までふれておいてくれると,「権力争い」の構図の捉え方の基礎が身に付く感じがしますね。

 もちろん,「高校生レベルが深い学びなんだ」というわけではありません。

 小学生にでも,「蘇我氏の実力」をどう捉えるべきか,深く考えることは不可能ではないでしょう。

 「善」と「悪」に簡単に分けて人間や歴史を語るような態度では,「深い学び」は絶対に不可能です。


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すでに「深い学び」への関心が高まっている

 「主体的・協働的な学び」に関する実践や研究は,これまで数十年かけて積み上げられていました。

 一方,「深い学び」の方は,そもそも英語で表現できる概念なのか?という疑問が湧くほど,欧米教育制度輸入専門学者には説明不可能なものになっており,現場では戸惑いがあります。

 学習指導要領解説が公開されていますので,「改訂の基本方針」の

>③「主体的・対話的で深い学び」の実現に向けた授業改善の推進

 の項目を読んでもらえれば,「深い学び」を登場させている理由がわかります。

深い学び(ここにはカギ括弧が必要でしょう。出版されるときは訂正されると思います。)の鍵として「見方・考え方」を働かせることが重要になること。各教科等の「見方・考え方」は,「どのような視点で物事を捉え,どのような考え方で思考していくのか」というその教科等ならではの物事を捉える視点や考え方である。各教科等を学ぶ本質的な意義の中核をなすものであり,教科等の学習と社会をつなぐものであることから,児童生徒が学習や人生において「見方・考え方」を自在に働かせることができるようにすることにこそ,教師の専門性が発揮されることが求められていること。

 要は,「深い学び」はできない,としている学習の方法,考え方が生き残れない時代になった,ということです。

 研修に見えたある先生から,「深い学びとはどんなものだと思われますか」と問われたときに,

 文部科学省的には,上の内容ですよ,とお示ししたあと,

 私の本心は,「そもそも深くなければ学びではない」「人間そのものが深い存在だ」という趣旨のことをお伝えいたしました。

 10冊とか20冊程度の本を読んだだけで教育ができるのであれば,資格試験など必要ありません。

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教科独自の「見方・考え方」を働かせて「深い学び」を実現させようという考え方自体が,「教科」にこだわり,タコツボ型大学教師たちの既得権益を守ろうとする,硬直的で一面的な「見方・考え方」しかできないことを示している

 最近,コンピテンシーは「21世紀に求められる大切な資質・能力」という意味合いなり文脈で語られることが多くなったが,このブログで10年以上前から紹介しているように,もともとは「企業で高い業績を残している人に多く見られる行動特性」を意味する言葉である。

 21世紀には,組織ではなく個人の仕事で高い業績を残せる仕事も多くなっていくから,コンピテンシーのすべてを身に付ける必要はなくなっていくだろうが,やはり「基礎」の部分ができていて,さらにその上をいくために何が必要かを示しているのがコンピテンシーである。

 いまやコンピテンシーといえば,「資質・能力」に読みかえられて基礎の基礎をも含む概念になりつつあるから,何でもありになってしまった。

 コンピテンシーの中核として,「思考力」が挙げられるのは当然である。客観的で科学的なデータをたくさん集めて,根拠をしっかり示し,明確な論理で説明できる人は,信頼性も高くなるから高い業績を残すことが期待できる。

 ただ,それだけでは足りないことに多くの人が気づいている。

 教科独自の「見方・考え方」を働かせて「深い学び」を実現させようという考え方自体が,「教科」にこだわり,タコツボ型大学教師たちの既得権益を守ろうとする,硬直的で一面的な「見方・考え方」しかできないことを示している。

 行政主導のカリキュラムマネジメントの典型的な失敗例である。

 「思考力」の分野でも,従来型の「アナリシス」重視から「アナロジー」重視へのシフトが欠かせないのは,高いレベルというより異なった次元の能力が求められるようになっている。

 霞ヶ関に寄せ集まって,「銀座で山を買う」式の行動に出ていることに,気づけない人が多いことが気の毒である。

 「総合的な学習の時間」が破綻している今,現場に余裕がないことくらい,だれでもわかる。

 子どもの主体性や意欲を最大限に発揮できるはずの「総合的な学習の時間」に,「学力向上」のための算数のドリルをやっているようでは全くの無意味である。

 「総合的な学習の時間」の意義を語れる「人材」がいないから,時数削減は当然の成り行きだろう。


 「大学入試が変われば,教育が変わる」という考え方の安易さにも,そろそろ気づく必要があるだろう。

 分析によって「評価」が可能だった能力から,そもそも簡単に「評価」なんてできないくらいの創造性の高さが求められているわけだが,それを「大学入試」などという「主観性」を排除すべき場で導入するのは無理なのである。

 「理由は説明できないが,この論文を気に入った採点官が多かったから合格」と言える仕組みが整えば,大学入試問題は変えられる。

 教育現場での評価はより「主観的」で「独善的」でかまわない。なぜなら,各学校での独自のカリキュラムがあり,目標としている能力が異なるから。・・・・というくらいの教育観の変化が求められているのが今の社会である。

 今の「絶対評価」は,指導の中身が伴っていないにもかかわらず,学習指導要領に示された目標に準拠したかたちの評価になっているから,そもそも信頼性に乏しいものであることは明らかである。そこに信頼性があれば,「入学試験」でわざわざ学力を測定する意味はない。

 画一化された入学試験がなぜ大切かと言えば,それは学校ごとの評価があてにならないからである。

 しかし,「あてにならない」ことは正しいのだが,本来は主体性を発揮している学校ごとの指導の重点が異なるのだから,「あてにしてはいけない」という発想で入学試験を用意しなければならない。

 新しい学習指導要領が本当の意味でのコンピテンシーを育てるものになるかどうかは,各学校のカリキュラムがより創造的で自由度が高いものになっているかどうかで判断できるだろう。


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「ゆとり教育」と「詰め込み教育」のいいところではなく問題点だけが際立ってくる次期学習指導要領

 学習指導要領を10年くらいの間隔で改訂するときに,「なぜ改訂するのか」と問われたら,「そのときまでの課題を克服するためだ」としか答えようがないだろう。

 ただの「ノリ」「勢い」「ムード」で「次期学習指導要領」の改訂の柱が決まることはない・・・・はずである。

 しかし,「改訂の柱」に据えようとしているのは,ごくわずかな期間の流行が背景になっている例もある。

 現行の学習指導要領の「改訂の柱」とは,「言語活動の充実」だった。

 今,教育現場で「言語活動を充実させましょう」などと言っている人はほとんどいないだろう。

 「言語活動」などといった「当たり前すぎる言葉」は,「死語」に近づいている。


 「言語活動の充実」をさせた結果,「思考力・判断力・表現力」は向上したのか?

 答えはNOである。そう簡単に「思考力・判断力・表現力」は向上しない。

 私の娘の小学校は,「基礎・基本の徹底」を図るためか,毎日かなりの量の宿題が出される。

 これをやったところで,「思考力・判断力・表現力」はそう簡単に向上しない。

 というよりも,時間だけかけて忍耐力があればできてしまうような大量の課題のために,

 じっくりと考えて深く調べたりする時間がとれずに困っている。

 公立の小中学校では,今でもそういうレベルなのだ。

 次期学習指導要領が実施されるときには小学校は卒業しているが,

 私が危惧しているのは,本来,学校で学ぶべき基礎・基本を家庭に押しつけ,

 学校では教師の手のかからない「話し合い」だの「教え合い」だの「発表会」などで時間だけが費やされていくことである。


 「学ぶ意欲」を子どもに持たせることは大切であるが,簡単にできることではない。


 大人だったら,自分の会社の社員たちが「働く意欲」をすぐに高められる方法を考えてほしい。

 それと同じことが学校でもできるだろうか?


 だれもが簡単に意欲を高められるような内容は,私の想像では「長続きしないもの」である。

 「熱しやすく冷めやすい」という言葉は,だれかの教育方法にすぐに飛びつき,やがてやめていく,そういう教師たちにはぴったりの言葉だろう。

 子どもたちには,「そう簡単に高められない」が,一度火がつくと,なかなか消えない,そういう「持続力」のある意欲をもたせるような授業を教師が実践しなければならないのである。

 「アクティブ・ラーニング」とは,「教師の授業づくりのための学び」という大方針なのであれば,支持したい言葉だが,ただの「協働的」「対話的」な学びで子どもの「思考力・判断力・表現力」がつくと思ったら大間違いである。

 少ない時間数でも,学び方が学べるような教育を受けてきたはずの「ゆとり世代」に欠けていたものは何か?

 多くの時間をさき,たくさんの内容にふれる機会を与えられた「詰め込み世代」に欠けていたものは何か?

 
 前者も後者も,実は「最も強い」はずの部分が「実は全く強くなっていなかった」ことが弱点だったのである。

 次期学習指導要領では,「実はどうでもよかった部分」を「どうにかしようとして,結局何も得られずに終わる」という最悪のパターンに陥らないようにしたい。


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評価の方針の発表によって,道徳科の問題点が明確に ~ついでに,道徳科の評価の話の前に,国語科の評価が必要

 「特別の教科 道徳」の指導方法・評価等についての報告が公開されているが,

 句点の打ち方や文の構成の仕方がおかしいものが目立つ。

 
 その「概要」に,こんな1文がある。

>(道徳の)評価に当たっては,児童生徒が一年間書きためた感想文をファイルしたり,1回1回の授業の中で全ての児童生徒について評価を意識して変容を見取るのは難しいため,年間35時間の授業という長い期間で見取ったりするなどの工夫が必要。


 もちろん,「児童生徒が書きためた感想文をファイルすること」は難しいことではない。

 文の構造は,Aをしたり,Bをしたりするなどの工夫が必要という内容。

 Bの中に,「1回1回の授業で変容を見取るのは難しいため(にBをする)」という修飾語が入ってしまっている。

 
 ファイルするのは児童生徒が行えばよいから,「工夫」することでもない。

 年間35時間の授業全体を通して評価を行うために,

 児童生徒が書いた1年分の感想文を参考にしよう,というだけの話である。

 国語が苦手な人がまとめた文だろうか。あまり笑えない。 

 そもそも道徳の授業は国語の授業の出来損ないみたいなものが多いが,

 文科省が発表するものがこの程度だから仕方ないか。


 では,語順をかえればそれでよいかというと,そうでもない。

 道徳科の評価の最大の課題が見えてきた。

 道徳科の評価は,あくまでも「道徳科の授業内で」という雰囲気が漂っている。

 
 しかし,道徳的価値の理解を自分自身との関わりの中で深めているかどうかを判断できる多くの場面は,

 日常的な学校生活の中であり,ものによっては,それでも困難である。

 
 35時間あっても,道徳の内容は22個あるから,1度きりの内容については「35時間」で変容が評価できない。


 「特別の教科 道徳」の導入は,これまで学校の教育活動全体を通して実践してきた道徳教育を,

 「道徳科の授業」内に「矮小化」「限定化」「固定化」していく危険性が高い。

 
 道徳の評価から,改めてよくわかった問題点である。


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「言語活動の充実」を改訂の柱にした現行学習指導要領の実施状況のどこがどのようにダメだったのかを明らかにしなければ,次期学習指導要領でも同じ結果しか待っていない

 タイトルが長すぎですが,言いたいことはこの一文に尽きます。


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デジタル教科書の使用が招く学力低下

 私が考えるデジタル教科書の大きな欠点は次の2つである。

 両方とも,電子書籍の欠点と同じである。

 まずは,画面が小さいこと。

 もちろん,タブレットでは指先の操作だけで「拡大」することができるが,拡大すると見える範囲は狭くなってしまう。

 もう1つは,ページをパラパラっとめくりながら,「ここを読みたい」というところにすぐに飛べないこと。

 教科の中には,「他の単元のページに飛ぶ」必要がないものもあるかもしれないが,

 電子辞書と紙の本の辞書との違いのように,必要がない場所も「通過」しながら目に入っている方が,「調べる」活動として優れていると思われる。

 社会科の地理や歴史では,他の地域,他の時代との共通点や相違点を探そうとするとき,1ページ1ページめくるのではなく,20ページごとに内容を比べるなどという作業が必要になったりする。紙の本でないと難しい。

 
 紙の本にも欠点はある。

 大きい,重い,お金がかかる。

 しかし,電気を使わずに読むことができる。


 デジタル教科書の本格的使用が始まると,子どもたちは

 「ノートに書く」という基本的な作業をしなくなるのではないか,という心配がある。


 タブレットの画面上で,「なんとくわかった気になる」だけで,実際には理解しておらず,どんどん授業が進んでいく,という事態も考えられるだろう。

 「ノートに書く」作業を通して,自分がわかっているかわかっていないか,考えることができているかどうかが自分でも判断できるが,電子書籍の利用で,「わかったつもりになる」子どもが増えてしまうことを心配している。


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次期学習指導要領で「大量生産」される「落ちこぼれ」

 先日,授業参観にやって来た教育実習を控えた大学生は,あることに衝撃を受けていた。

 教師が発言している間に,どんどん生徒から疑問なりアイデアなり意見なりが飛び出していく。

 自分の学校時代は,教師の発言中,生徒が口出しすることは御法度だったと。

 もちろん,そういう場面も必要だろうが,社会科のように教師が話す時間が多い教科では,生徒からの言葉による反応を禁止してしまうと,本当に受け身の学習になってしまう。

 ちょっとでもひっかかる言葉に出会ったら,仮に自分一人に限られるかもしれないような疑問でも,すぐに教師に質問できる,そういう環境がないと,一斉授業は死んでしまう。

 
 次期学習指導要領に向けて,徐々に見えてきたものがある。

 どのような「資質・能力」を身につけるかを重視する,

 コンテンツベースからコンピテンシーベースの授業への転換がその柱である。

 
 そうすると,穴埋めにする言葉をみんなで探しているような『学び合い』では,全く通用しない評価が待っていることになる。


 ごくごくわかりやすく表現すれば,コンテンツベースではないから,

 今までの「1問1答式」ではなく,「論述問題」「資料活用問題」など,文章で記述する問題がメインとなる。

 要は,正答率が高くても3~5割だった「応用問題」がテストの中心になるということだ。


 今までは,どんな子どもでも「これと,これと,これを覚えておけば半分くらいの点数がとれる」世界だったが,

 これからは,「こういうことと,こういうことと,こういうことができるようにならないと点数がとれない」世界に入っていくわけである。

 私のイメージでは,2割くらいの子どもは学力が伸びていくが,下の3~5割は全く対応できないような学習が待っていることになる。

 新しいタイプの「落ちこぼれ」が大量に生まれていくことになろう。
 
 知識もなければ思考力もあるかないかわからない。

 
 新しい大学入試では,運不運が左右する。

 たまたま自分が追究していたテーマにあたると,すごくできるかもしれないが,

 全く予想外のテーマにあたると,応用力がない生徒は太刀打ちできない。

 
 具体的な「現場対応不可能性」が,これから明らかになっていくだろう。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より