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カテゴリー「学力向上」の756件の記事

人よりも言葉を愛する人にしないために

 心を育てる教育というのは,重要なのだが,「教える」のは難しい。
 
 うまい具合に「育ってくる」ことを望みたいところである。

 「私は,忘れられた人たちのことを忘れない」

 とてもいい言葉である。今,放映中の池上彰さんの番組で紹介されている。

 だれが語った言葉だろう。

 「忘れられた人々」とは,

 鉄鋼業や自動車産業の不振で工業が「錆びついた地域」=ラストベルトの労働者のことである。

 この言葉によって,「忘れられた」と表現した人々から指示を集めることができたのが新大統領である。

 人は,当然のことだが,人から大切に扱われることを望んでいる。

 たった一つの言葉でも,感動したり満足したりできるのが人間だから,

 人を大切にしていることを示したければ,そういう「言葉」を使うようにする,というのが一つの方法である。

 グローバル化が進む社会では,やはりこういう「言葉」が使えるようになることは大切である。

 ただ・・・。

 日本には,「軽々しい言葉」を「軽率」に語ることを慎む文化がある。

 目の前にいない人への優しい言葉を語ることより,

 目の前にいる人に対する優しい行動をとれることを重視したい。

 教員になろうとする人が,教員に向いているかどうかを判断できるのはだれだろう。

 目の前にいない子どものことをどんな言葉で語ろうとも,

 目の前に子どもがいる場で何もできない人を現場においていても意味はない。

 「人よりも言葉を大事にしようとしている」教育をめざしている人はいないだろうか。


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暗礁に乗り上げてどうにもならなくなる高大接続問題

 センター試験は廃止することになっているが,よくよく考えてみれば,足切り用のテストなのに,それ以上の手間がかかるような無駄など,できればみんな省いてしまいたいと思っていることだろう。

 単純な知識のみで解ける問題を入試で出している大学への補助金を出さなくすればよいだけの話なのに。

 高大の接続を真面目に考えることは,文科省の再就職斡旋に象徴されるように,もともと意味のないことだと思えば,考えるのもばかばかしい。そこら中に天下っているOBたちの指示通り動く「天下り待ち」の人間には何もできないというわけである。

 賢く経済力のある親は,子どもを大学まで一貫で上げられる有名校にどんどん入学させている。

 小学校を設置したある学校では,低学力のままの子どもを進学させなければならない問題で頭を抱えているそうだが,寄付金をたくさんもらった子どもに限ってはOK,というわけにもいかないので,みんな上に上がっていくことになる。経営上は,何も困らない。

 私立大学の,いかにも「落とすため」の試験問題を見るたびに,こんな金儲けのための道具に規制をかけることくらい,たった文書1枚で=ほとんど税金コストゼロ円でできるはずなのに・・・と哀しく思う。

 1人の答案の審査に10人くらいが1時間かかわるのなら,たとえ3万円かかっても,時給3000円の仕事として納得してもらえるはずである。そういう問題を出題すればよいのだ。

 一体何の専門家である大学のセンセイが,高大接続を軌道に乗せようとしているのか?


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大学のセンセイに,公立学校の管理職を経験させてあげる機会を!

 読書編で紹介したアクティブ・ラーニングの評価に関する本の内容は,ひどすぎるというレベルを超えていた。

 小中高の教員の言葉が紹介されているが,それは「実践報告」ではなく,「信仰の表明」にすぎない。

 各教科の特質などには何の興味もない著者が,どこにでも通用すると勘違いし,ところかまわず垂れ流している持論が並べられているだけである。

 そもそも,アクティブ・ラーニングを行わない限り,その評価はできないはずである。

 最も肝腎な「深い学び」をあきらめているわけだから,せいぜい「アクティブ・プレーイング」があるにすぎない。

 今,昭和22年~30年頃の教育改革の議論を読んでいるが,今とほとんど変わらない話が繰り広げられている。

 教育の世界では,70年間,ほとんど進歩らしい進歩はないと見なしてよいだろう。

 今よりはるかに「国際理解」も可能だっただろうし,教師自身がしっかり学ばなければ教育できないカリキュラムが編成されていたように思う。

 教育に関する議論の劣化は,どうしてここまで進んでしまったのだろうか。

 授業の中だけの子どもの姿を誇大にとらえて,研究した気になっている人たちが劣化を伴いながら再生産されてきただけにすぎないようだ。

 教育を研究している大学のセンセイは,一度はどこかの公立学校の管理職をつとめることを義務にしたらどうだろうか。

 理念を好きなだけ具現化できる環境を用意してあげることが,ろくでもない理念を拡散させているという問題に気づく最後の手段ではないだろうか。

 理論で学校は変わるのか,それとも人柄で決まるのかも,試してみていただきたい。

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「継続」こそが使命なり

 読書編でご紹介した木下斉著『地方創生大全』に,地域活性化の真のあり方が示されています。

>成功と失敗を繰り返しながら,それでも決定的な失敗をせずに,どうにか上昇気流をつくり出していく日々の取り組みこそ,地域活性化のリアルです。

 この言葉には,どのような「物語」への不満が示されているのでしょうか。

 深くはふれませんが,「一時的な成功では意味がない」ことは,どなたでもご理解いただけることでしょう。

 ただ,世の中は,「目の前の,しかも,数値で表せる成果」ばかりを重視する行政の人間たちによって,大いに狂わされています。

 教育も,地方創生も,全く同じ図式で,「好転」はおろか「悪化」の原因を招いているともいえる「政策」が実行に移され続けています。

 メディアがわざわざ取り上げるような「成功物語」が,「継続性」を保障できているものなのか,本当はそういうチェック機能こそメディアが果たすべき役割なのに,「珍しいことをしているから,取り上げよう」という

 単発的

 虫食い的

 なニュースの取り上げ方をしているものだから,

 「ああいうことをしないといけないのだ」という誤解も招いてしまっている。

>地域の新たな取り組みに強硬に反対する地元の有力者

>成功したことによって妬みを持つ住民

>地方独自の成功に乗じて自らの実績をあげるためにモデル事業予算を売り込む役人

 こうした欲望の渦の中で,地道な努力をしている人をメディアが取り上げることはないでしょう。

 本当の意味での,

 継続性のある「成功」を支えるどころか,

 それを妨害する役割を果たしているものが何であり,

 「失敗」を乗り越えながら「成功」を模索する教育現場や地方を支えることができるものが何なのか,

 こういう問題意識を持ってくれる,「本当の政治家」の出現が待ち遠しいものです。


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子どもの学力は「おしゃべり」では向上せず,「対話」でこそ向上する

 授業で子どもが話し合い活動に熱中している場面を想定してみよう。

 教師が聞き逃せない言葉の一つは,内容に関するキーワードがどのように使われているかであるが,

 話し合いそのものがうまく進んでいるかどうかを確かめる手がかりはどこにあるのか。

 それは,「接続詞」の使い方である。

 小学校では,発表・発言のルールといった文脈で,こういう言葉から始める,という事例が黒板のヨコに大きな字で掲示しているところもあった。

 小学校くらいで丁寧に指導されていると,中学校では話し合いがスムーズになる。


 接続詞は,論理系,整理系,理解系,展開系に分けられる(『「接続詞」の技術』石黒圭著,実務教育出版)。

 論理系は順接と逆説,
 
 整理系は並列と対比と列挙,

 理解系は換言,例示,補足,

 展開系は転換と結論。

 「だから」「でも」しか会話に出てこないグループは,話し合いが上手に進んでいないことを示唆しているから,こういう活動を何時間していても,学力は向上しない。

 このようなケースが多いから,学校の授業は,教師が「進行役」となり,「話し合い」にはあまり時間をかけないことが得策となる。

 ただし,その方が学力を向上させることができると言い切るためには,

 教師の方が適切な接続詞を使い,導入→展開→まとめという一般的な授業全体の流れがしっかりできていることが条件となる。

 もちろん,話し合いを中心に転換する授業を構想するのはかまわない。

 AとBどちらに賛成か?という課題が与えられたとする。
 
 冒頭は,順接の接続詞を多用させて,AとBそれぞれの特色を理解させる。

 A(B)は,そのおかけで~となる。A(B)にすれば,~になる。ただ,~ということもある。

 「論理」で頭を使うことで,「理解」しているかどうかがわかる言葉が話せるようになる。

 Aが~のは,つまり,・・・。むしろBは・・・。たとえば・・・。実際に・・・。なぜなら・・・。

 「理解」できたところで,「整理」してみる。

 Aは~であるのに対し,Bは~である。AもBも,~である。Aについては第一に~が課題,Bは・・・。

 最後に,というわけでAはBより・・・。いずれにしても,・・・・。

 さらに「そもそも」という回帰的な転換が見られるとおもしろい。


 こうした「話し合い」活動ができれば,すぐに「レポート」にまとめることができるようになる。

 わかりやすい「レポート」が作れるようになるためには,教師が「レポート」にまとめられるような指導の過程を普段から示してくれている必要があるだろう。
 
 教師が子どもとの会話の中で,まずは多様な接続詞を駆使して子どもの発想を広げ,理解を深めることを意図した指導を繰り返し,子どもにも似たような口癖ができることをねらっていく。


 それから?

 たとえば?

 具体的には?

 第一に,・・・第二に,・・・,

 だとすると・・・どうなる?

 そのくせ,~は・・・・?

 だからといって,・・・

 要するに・・・?

 ちなみに・・・

 ところで・・・

 どちらにしても,・・・・

 
 一度,授業のどのタイミングでどのような接続詞をどれくらい使っているか,ビデオで検証してみてもよいだろう。


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カンニングの習慣がつく『学び合い』

 日常的に,友達から答えを教えてもらって理解する習慣がついた子どもは,試験のときに落ち着かなくなります。

 私の学校でも,カンニングと疑われても仕方がない目の動きをする中学校1年生が,最初の定期考査で何人か「摘発」されます。

 さすがに次の定期考査ではそういう生徒は減っていきますが,どうしても「直せない」子どもがいる。

 まわりが気になって気になって仕方がない。

 もしかしたら,勉強とはいつもだれかと一緒にしゃべりながら行うこと,という習慣が染み付いてしまっているのかもしれません。

 小学校(の担任)によっては,カンニングが公認されてしまっていたところもあるらしい。

 無理もないですね。

 大学入試で「携帯電話を持ち込み可にしたらどうだろう」と提案しているセンセイの影響を受けてしまったのがいるようですから。

 さすがに会話は禁止にするとしても,問題を写真で撮影して,頭の良い人に解いてもらい,解答を送信してもらえれば,よい点が狙えてしまいます。

 要は,正解が出せる人とどれだけの人脈をもっているかが評価の分かれ道になる,ということですね。

 学校は寄生虫として生きる道を教える場所ではありません。

 『学び合い』はテストで点数が高くなることが売りのようですが,その理由がよくわかりました。

 「政治闘争」があったり,多くの人から相手にされない理由も。

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テストの点数を高めるための「価値ある情報」とは?

 「テストで点数がとれる勉強の方法を教えてほしい」と言われた場合,

 学校として組織的な取り組みをしていると,

 「担任によって指導が異なる」という批判を避けることができる。

 私の学校では,テストの後に「誤答分析」をさせている。

 テストの点数が比較的高い子どもの「誤答分析」で書かれている言葉は,

 得点力を向上させるための情報の宝庫である。

 「記憶があいまいだった」

 「覚えていなかった」

 というレベルの言葉では,

 「もっとしっかり覚えよう」という自覚しかでてこない。

 「授業の話に夢中になって,ノートにメモをするのを忘れた」

 という言葉も,
 
 「ノートをしっかりとろう」というアドバイスでは役に立たない。

 たとえば,問題には,「ひっかけ」というジャンルに分類できるものがある。

 西郷隆盛が出ているから,この絵は「薩長同盟に関係がある」といった反応は,

 授業でするのはかまわないが,「よく見れば,向かい合っているのは勝海舟だ」

 ということがわかれば,江戸無血開城という出来事に結びついている。

 「~にひっかかった」という反省ができるレベルの子どもの言葉にふれていくことで,

 「ひっかかりもしない」レベルの子どもの意識が変わっていく。

 同じように×をもらった問題でも,

 自分と他の人では質が異なっているかもしれない・・・・

 つまり,テストは本当は1題4点で0点か4点かという結果の違いになるが,

 実際には2点か3点分の知識がある人はいる。

 まずは2点分の知識がなければ,4点にはたどりつけない・・・

 こういう考え方が少しずつ勉強の方法を変えていくことを期待したい。

 資料1と資料2からわかることを説明せよ,

 という指示なのに,資料1から読みとったことしか書かない(書けない)場合,

 資料2のここが結びつかなかった,ということに気づけることが,

 正解に近づく第一歩である。

 学校側としては,各教科で,「誤答分析」の「分析」を研究してもらえると,

 「指導法」改善に結びつく情報がたくさん得られるだろう。

 テスト結果を見ながら学び合っている生徒たちの様子が見られる研究授業をしてみたい。


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「入試制度改革」は「教育改革」とセットでなければ成立しない

 教育という仕事の難しさは,「目標」があいまいなところにある。

 「目標」があいまいだと,「指導」があやふやなものになる。

 「指導」があやふやだと,「評価」は間違いなくいい加減なものになる。

 「目標」を具体的・固定的なものにすると,「指導」があぶなくなる。

 「指導」があぶなくなると,「評価」は何かを破壊し始める。

 現状は,「目標」など関係なく,画一的で硬直的な「指導」があり,

 「評価」は機械でもできる仕組みになっている。


 これまでの教育現場では,「受験問題」という「最終ゴール」に向けて,教師でない人間でもサポートすることができたので,たとえば子どもに向かって教えた経験が一度もない人にも,「受験問題」やそれと似たような問題をつくることができた。

 今,やっと「記述の問題を導入する」などという「超低レベル」の「受験問題改革」をしようとしているくらいだから,こうした「体制」は全く変わることなく,これからもしばらくは続いていくだろう。


 本当の改革とは,上級校の「目標」設定を自由として,その目標への達成度や達成への資質能力が高まった子どもを独自に選抜できる仕組みをつくることにある。

 上級校が,上級校入学への準備を志望者がばらばらに存在する各下級校在学中から行えるような仕組みをつくることである。


 今は,下級校の評価を土台として,上級校が選抜する仕組みになっているが,これを「逆」にするのが,本当の「教育改革」である。

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「化石」となった大学ではできないこととは?・・・ミネルバ大学の「大学らしさ」

 キャンパスはない。

 豪華な研究施設もない。
 
 スポーツチームは持たない。

 ミネルバ大学が学費を安くできる理由として挙げられていることである。

 私が注目したこの大学の「すごさ」は,

 オンラインでの授業中に,最先端のテクノロジーを生かしたシステムが学生一人一人の音声を認識して,教員のパソコン画面上で発言頻度に応じて学生を色分けされるなど仕組みがあること。

 発言不足の学生を狙い撃ちして,教師が授業の理解度を測定していく。

 実は日本の教師は,教室で全く同じことができている。

 それでも,「評価」を「記録」に残すことが難しい。

 私は以前,ある企業にほぼ同じシステムの構築はできるか?と質問したことがあるが,当時は「無理だ」と言われた。それは,やはり日本語自体の難しさに原因があるらしい。

 オンライン授業では,教師が指定したグループで議論を行うこともある。

 授業を受ける学生の側が勝手に作る「仲間」では,教師が意図したい「議論のさせ方」が実現できないので,教師がグループづくりの主導権・決定権を握るのはとても重要なことである。

 同じレベルの学生のグループや,意見が異なる学生同士で議論できるグループなどを任意につくることができる。

 単位の大半を大教室の講義で終始する授業でとるような「化石」大学では,未来のリーダーは育たない,という主張には説得力がある。

 (週刊東洋経済12月24日号の特集より)

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指導力不足教員が教職大学院で「生まれ変わる」ことは可能か?

 「優秀な教師」と呼ばれるようになる資質能力を向上させることが,大学や大学院に可能だろうか?

 もしこういう質問を,「優秀な教師」と考えられている人たち,たとえば人事考課でAをとっている人たちにしたら,どのような答えが返ってくるだろう。

 優秀な教師が,大学院で学び直して,さらにその資質能力を伸ばすことは可能かもしれない。

 「雑用」をやらされて,「こきつかわれる」立場をもう一度経験することで,

 理解と愛情のある「こきつかい方」ができるようになるという「教育効果」も大きいだろう。

 ただ,進む大学によっては,「学ぶこと」よりも「教えてあげること」の方が多くなってしまうかもしれない。

 そもそも「教え方」の勉強をしてこなかった大学のセンセイたちから,社会環境が異なる海外のガクシャの理論を紹介されたところで,日本の学習指導要領の枠内では実現不可能なことだったら意味がなく,むしろ「ジムカタ」に転職した方が「教育のコウジョウ」に貢献できるかもしれないわけである。

 もし,教師としての資質能力に明らかに欠ける学生や教師が,大学や大学院で学ぶことで,将来「優秀な教師」とよばれるようになる力は身につくのだろうか。

 ある大学のセンセイにこれに近い質問をしたところの答えは,

 「学生が多すぎてわからない」というものだった。

 そもそも学生自体の能力を大学のセンセイは把握できていないわけである。

 現場の教師をつとめたことがないかつとめてもすぐに辞めてしまったような大学のセンセイには,そもそも「教師としての適性があるかないか」が判断できないわけである。

 こういう大学のセンセイたちが「学習のヒョウカ」のことを教えるのだから,資質能力が高まるどころの話ではない。

 「教職大学院」がもてあまし気味になりはじめていることが,一部の学校に出された調査からうかがえる。

 始める前からわかっていることに気づけないで始めてしまうということ自体が問題なのである。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より