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カテゴリー「学力向上」の788件の記事

現場の教師にしかできない仕事

 先日,学校公開週間に私の最初の勤務校を訪問する機会があった。

 21年ぶりの訪問である。校舎はほとんど変わっておらず,校長先生は廊下のタイルが剥がれまくっていることを気にされていた。

 各教室とも,30人くらいの教室で,これでも少人数とは言えないはずだが,

 40人学級で10年以上仕事をしている身からすると,

 「いろいろなことができそうだな」という感触も得られたが,

 「少し寂しそうだな」という印象を強く受けた。

 私の妹の長女の学級をのぞくことはできなかったが,廊下を歩いていると,昔とあまり変わらない挨拶の習慣は定着していてよい印象だった。

 初任者として6年間お世話になったこの学校の周辺には,いろいろな意味で本当にお世話になった方々がいる。

 正門から歩いて50mくらいのところにある花屋さんに挨拶にうかがった。

 ご夫婦はお元気で,私の顔も覚えていて下さった。

 さすがにこのお店まで私の大きな声が届いていたとは思えないが,地域を歩くと恥ずかしい気にさせられたことも思い出した。

 当時は,伝統があり,一定の評判がある地域の学校は,「○○区の学習院」と呼ばれていた。

 高校に進学し,出身中学校名を自己紹介ですると,それだけで一目置かれる経験をして,初めて中学校に誇りを持てた,という卒業生もいるらしいが,多くの在校生は胸を張って日々を過ごしていた気がする。それは,教師たちも同じであった。もちろん,それをプレッシャーに感じる人がいたり,生活指導で苦労しないですむ,と手を抜いたりする人もいた。とにかくありとあらゆる教師のタイプ(管理職も含めて)をそこで知ることができた経験は行政に入ったときにも役に立ったと思う。

 とてもよい環境で仕事ができたからか,たった2年で教育の仕事を放棄した人の気持ちはわからない。

 いわゆる「良い学校」の勤務中に辞めるのであれば,まだ「本当の志が別にあるのだな」という気にもなるのだが,

 「暴走族を相手に私は頑張った」などと粋がっても,結局は底辺校に嫌気がさしたんだな,と思われても仕方がない辞め方をした人の気持ちはわからない。やる気のある人の採用枠を1つ増やしてくれたことの意義は大きいけれど。

 授業の評価をあれこれとすることは,簡単なことである。

 100時間分くらいの40人の子どもの言葉をすべて拾い出して,それぞれの子どもの成長を考える作業は,研究だけで飯が食える暇な人にしかできない。

 現場の教師は,授業はもちろん,休み時間や放課後の時間も含めて,教室の40人に限らず,ありとあらゆる場面で子どもたちの言葉に晒され続ける。人間のコミュニケーションは,録音可能な「音声言語」に限ったものではないことはだれでもわかることだろう。その言葉を口にしたときの表情,周囲にだれがいたか,どのくらいの大きさの声か,普段の話し方とどう違っていたか,それらすべてが大切な情報である。

 教育の現場に年間200日くらい居続けなければ,そういう情報は手に入らないのである。

 もちろん,絶対に聞き逃してはいけない言葉,見過ごしてはならない表情というものがある。

 それを聞き逃さない,見過ごさないのはセンスも必要かもしれないが,

 センスがなければ経験でカバーするしかない。

 「一人も見捨てない」という表現は,人によって捉え方がまちまちな言葉である。

 親ならまだしも,不特定多数の人のために尽くす医師や教師,政治家などが,軽々しく口にするべきではない言葉だと私は考えている。

 どうしても,「私が担当している患者に限って」「私が担任しているクラスの子どもに限って」「私を支持してくれる人に限って」という条件が必要になってきたり,実際にそうなってしまったりする言葉である。

 でも,そうであるならば,文字通りの「一人も見捨てない」状態にはなっていない。

 では,「少人数に限った集団の人間を一人も見捨てない」と言い換えたときはどうだろう。

 私は,「見捨てられない対象になった子ども」の身になってみると,

 「そいつを見捨てると自分たちが損するから」という論理で世話になり続けることに耐えられるのだろうか,という疑問がわいてくる。

 「この課題,あの子にはできないだろうな。だから,私が教えてあげないと・・・」という発想で,ちらちら見られ続けることになる。

 「全員ができるようになる課題」に意味があるかどうかは別として,子どもは容易に「わかったふり」「できたふり」をするようになることが予想される。

 「深い学びをするつもりはない」そうだから,「わかったつもり」のまま,全生徒が放置される教室では,学習指導要領の総則に反する教育をしていることになる。

 本当の意味での「一人も見捨てない」を成就したいのであれば,当然のことだが,文科省に対して反旗を翻さなければならないはずである。それをしないで「一人も見捨てない」は絵に描いた餅に過ぎないだろう。


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「あんたは本当にそれができるようになると思っているのか?」

 私は指導主事を経験して,自分がとても恵まれた環境にいられたことに感謝している。

 まだ十数年前は,指導主事を「教育委員会の犬」として露骨に嫌悪できる教員たちがいた。

 指導主事というものは,「お上」の考えをただ伝達したり押しつけてきたりするような人間であり,自分たち教員のことなどこれっぽっちもわかっていない,という印象を持たれていた。

 人間というのは,嫌われた状態から入り,相手の誤解を解くことで,一気に距離を縮めることができる。

 そのおかげで,小学校の研修会に継続的に参加させてもらう機会を得ることもできた。とても貴重な経験だった。

 今の指導主事さんたちはどうだろう。

 呼ばれなくなったら終わりだが,ただ呼んでもらうだけでもダメである。

 私は,文科省の教科調査官とか,大学のセンセイたちは気の毒だと思う。

 おそらく,研究会や研修会で厳しい質問攻めに合う経験など,ほとんどできないのではないか。

 一方的な伝達や講演と,当たり障りのない質疑応答では,お互いの距離が縮まることは難しい。

 私はある全国大会で「質問しないで」と会長さんから命じられたことがある。

 タテ社会では,偉い人のメンツをつぶすと,偉い人を呼んだ人のメンツもつぶすことになる。

 だから意見を言いたい相手以外の人に配慮しなければならないような場では,私も発言は控えるつもりだった。

 しかし,教育に関する大きな研究会の場では,「できないものはできない」

 「むしろこっちをできるようにするべきだ」などといった議論ができるようにならないといけない。

 「ああそうですか」「はいはい,善処いたします」・・・結局何もできませんでした・・・ではダメなのだ。

 指導主事の場合は,恨みを買っている教育委員会がバックにあり,

 欲求不満が全部こっちにまわってくる。

 だから,指導主事は,立場で物を言ってくる人間ではなく,子どもの成長を基本において物を言ってくる人間だということを,自分自身の教員生活の経験を1割,答申や法令等からの言葉を8割,そしてその場にいる子どもや教師にとって何が最善かを自分なりに考えたことを1割,といった割合で話すことが求められる。

 「あんたは本当にそれができるようになると思っているのか?」
 
 という投げかけに対して,「今も昔も,できてますよ」と答えられる立場こそが「最強」なのである。

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足に鎖でつながれた重りの捉え方

 子どもがわくわくしながら本当の乗り気で取り組む課題を評価する方法がある。

 同じ設定の作業を,人の力を借りないでやらせること。

 「人の力を借りながらやるべきこと」と,

 「人の力を借りずにやるべきこと」の区別を『学び合い』はどのようにしているのだろう。

 その選択も子どもを信頼して任せているのだろうか。

 『学び合い』が楽しいだけなのか,

 楽しみながら学習をして様々な能力を習得しているのかがわかるテストをどんどん開発してほしい。

 「子どもだまし」の指導案をたくさん見せられて,辟易している『学び合い』である。

 子どもをだませるのも,せいぜい小3くらいまでか。

 指導力のない教師が行う一斉授業を参観していると,

 子どもたちの足に鎖でつながれた重りが見えてくる。

 やはり同じように,「子どもだましの課題」に「全体主義的精神」で取り組まされている子どもたちの足にも,同じようなものが見えてくる。

 教師の仕事は,子どもの足から重りをはずしてあげることではないか。

 もちろん,それは「自由に立ち歩かせる」ことに限った話ではない。

 「開放感にあふれた一斉授業」というものに,一生出会うことなく学校を去らなければならない人がいるのは本当に気の毒なことである。

 たった1年で挫折して,「本を読んで学んだ」と紹介している人たちの言葉が,ほとんどみんな同じである。

 まるでだれかのなりすましブログのように。

 本当に現場を知っている人間と,現場を想像して書いている人間が語る現場は全く違うことがわかっていないらしい。

 重りを鎖でとりつけられた人たちが苦しみから解放されている姿が逆にとても痛々しい。


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「自由」を強制する目的とは?

 ひめゆり隊だった女性が,米軍の攻撃中に,日本軍から突然「自由」を指示されたという話を伝えているそうだ。

 社会学者の見田宗介さんが,現代思想2016年9月号で「これを本当に自由のいうのか」「どこに行ってもよい,と指示されるだけでは,現実的には自由であることにはならない」「希望がないところに現実的,実際的な自由はない」と指摘していることも紹介されている。

 教室で子どもたちに課題を与えた後,動き回ったり人と協力したりして,自由に解決・達成できるチャンスを与え,その教育効果に期待を寄せる人たちがいる(なぜか,10人以下の学級では成果がでないそうである)。

 無責任な日本軍との違いはどこにあるのだろうか。

 「すべての子どもがわかるようになる」という現実的な希望があることだろうか。

 「教師が教えるより,子どもが教え合う方が効果が高い」という実際の成果があることだろうか。

 希望が見えることはよいことではあるが,実際の教育現場には,とても大きな「壁」がある。

 それは「時間が限られていること」であり,「習得すべき内容がとても多いこと」である。

 「自由」を与えるということは,「自己責任」を追わせるということとイコールである。

 「保護」しているように見えないのは,「保護すること」が目的ではなく,

 「だれか一人ができない責任を自分たち全員で背負えるようにすること」が目的なのであって,

 「自分たち」の中に「教師」が入ってこないところがミソである。

 「跳び箱」をたくさん跳ばせたい。

 教師が一人しかいない一斉授業では,なかなか子どもが回数をこなせない。

 だから,子どもに子どもを監督させる。

 もし,「全員が跳べるようになること」を課題とし,

 無理をして跳び箱から落下して首の骨を折る事故を起こしたら,

 無理をした子どもや補助していた子どもはどうなるのだろうか。

 当然だが,精神的に「重い責任」を負わせられることになるだろう。

 『学び合い』では,「先生,ここは教えて下さい」という子どもの希望にはどのように対処するのだろう。

 「教えて下さい」と言ってきた子どもにだけ教えて,他のことをしていた子どもには教えないのだろうか。

 一端「自由」を認めた集団に対して,教師が統制しにかかるのは難しいし,統制するのであれば,はじめから「自由」には何の意味があるのか,という疑問を子どもが持ちかねないという問題もある。

 檻の中での「自由」に反旗を翻すことは,小学生はおろか,大人でも難しいだろう。


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「これだから,今の指導主事はダメなんだよね」

 東京都の場合,指導主事になるには「教育管理職選考」にパスしなければならない。

 平成28年度は,受験者数450人,最終合格者数418人。

 倍率1.1倍。四捨五入しないと,1.07655・・・倍となる。

 私のように,自ら希望したわけではないのに受験させられて,合格した人も少なくないだろう。

 「これだから,今の指導主事はダメ」と言いたいわけではない。

 418人すべてが指導主事になるわけではもちろんない。

 制度が始まったときは,「ジョブローテーション」をしながら,

 教育の「ゼネラリスト」を育成する,というお題目だった。

 しかし,10数年前,私もそうだったが,指導主事しか経験できない人もいたし,

 行政を経験できない人もいた。

 「指導主事は,講師として学校に呼ぶ価値がなくなった」という声は,10年以上前から言われていたことである。

 教科指導の実績がないことだけでなく,やはり「専門性」が高くないことがネックになっていたようだ。

 小学校では,指導主事より「カリスマ教師」の方が需要が高い。

 どうして自分の学級がある平日なのに,講師として外に出続けられるのか不思議なくらい,人気のある人もいる。

 「専門性」の高さで言えば,大学のセンセイがよいか,となると,これが全くそうでもない。

 大学のセンセイの中には浮き世離れしすぎている人がいて,役に立たない大学の授業を思い出させられて嫌な気持ちになるだけで終わる研修会もある。

 また,大学のセンセイがとても実践的な内容を示しても,それを教師が理解できるレベルにないという問題も深刻になっている。

 教員免許更新講習はなくてもよいという人もいるが,なければ困る,という人が増えている現状も知っておくべきだろう。

 最近,教育学部出身の若い教師や,大学の教育学部のセンセイが,教育内容ではなく教育方法にこだわり,現場を混乱させているのも気がかりではある。「アクティブ・ラーニングをやらなければならない」と焦らされているのは,「それでしか活躍できない人たち」が熱心に仕事をしているからである。

 文科省は,わざわざ「慌てふためくな」と通達してきているが,そもそも学習指導要領が示す内容は高度すぎて,それを実現させる教育を受けてこないで教師になった人が増えている中,「やってこなかったこと」を「やれていることにしなければならない」と焦る学校が増えるのもいたしかたない。

 実際の学校がどうなっているのか,調査によって実態を把握している国立教育政策研究所は,公開すべきデータをすべて公開しているのか,その責任を問われるべき立場にいる。

 さて,指導主事の話が脱線してしまっているが,

 「これだから,今の指導主事はダメなんだよね」という声が大きくなっているのは,

 「指導主事が萎縮していること」にも原因があると考えられる。

 それは,文科省の教科調査官も同じである。

 ある道徳の調査官が,「道徳の22の項目をすべてやっている,と言っている学校は怪しい」と発言していたそうだが,そういうことが言える人が非常に少なくなっているのではないか。

 何事にも,「トップの意向を忖度して動く」という行動原理が染み付いてきている気がする。

 「この人は,本心でこれを言っているのだろうか」

 「自分が言っていることの意味が本当に理解できているのだろうか」

 と疑われないように強がる指導主事の姿だけは,目にしたくはない。


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伝える技術に溺れるよりも,真摯な話しベタであれ

 このタイトルは,NIKKEI STYLEの出世ナビ「スタンフォード 最強の授業」というシリーズで,ある先生が語っている言葉である。

 「真摯な態度」は教えられないが,「伝える技術」ならある程度は教えることができる。

 だから教育の世界でも,「伝える技術」を伝えようとする人たちが少なくない。

 しかし,日本には,「伝える技術」を超えて,「伝わる」ものがある。

 「教師が教えなくてすむ教育理念」に飛びつく「教材研究をしたくない教師」「教えることが下手な教師」が近くにいれば,すぐにわかるだろう。

 主語だけでなく,目的語までが省けてしまう日本語の特性を持ち出すまでもなく,

 本来は「伝わってほしくないもの」までが「伝わってしまう」のが日本におけるコミュニケーションの特徴である。

 もちろん,日本以外の国に「以心伝心」などあり得ない,と言いたいわけではない。

 日本に長くいなくても,帰国子女が日本の学校の居づらさを感じることができるのは,特定の感情が容易に「伝わってしまう」ほど,言葉以上の「空気」が人間関係を支配できる国だからである。

 日本人が外国で暮らすときは,この「空気」の呪縛から解き放たれるが,逆に,「空気」は読むものではなく,「つくる」ものになっていく。「伝えないと始まらない」のがコミュニケーションの基本だから,「伝える技術」を学ばないと困る人も多いだろう。

 しかし,その技術がいかに優れていようと,本心から「伝えたいもの」「伝える価値があると信じているもの」がなければ意味はないわけである。

 タイトルに示した記事は,そういう趣旨の内容だった。

 一方で,真摯な態度でも「話しベタ」では全く通用しない職業もある。

 政治家や行政マンなどである。

 「本心で話しているわけではないな」と強く感じる政治家が増えてきた。

 私が経験した指導主事という職業もそうだが,決して「本心」を明かしてはならない場面も少なくない。

 しかし,「本心」から語らない人間を信用できる人はいないわけである。

 だからいかにも「本心」から語っているように見せかけられるかが,政治家や行政マンの才能と判断される。

 地獄に落ちて舌を引っこ抜かれる因果な商売だが,「秩序を守るための嘘」がまかり通る社会を変えるためにはどうしたらよいのだろうか。

 地位を失ってでも,「本当のことを言う」ことの素晴らしさに感銘できるのが,ドラマなどフィクションの場に限られていることが悲しい。どれだけ多くの人が,こういうドラマを見て,自分を慰めているのだろうか。

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「任せながら鍛える」のではなく「鍛えながら任せる」?

 教育の世界には,「言葉遊び」で戯れ合う暇な人たちがいる。

 「任せながら鍛える」のではなく,これからは「鍛えながら任せる」ことが大切だ,などと主張している人がいた。

 両者の違いは何だろうか。後者は「任せる」ことに主眼をおく,という意味だろうか。

 教師が課題を与えておいて,「任せる」も何もない。子どもは「やらされている」だけである。
 
 「任せながら鍛える」ときの「鍛える」方法とは何だろう。結局「任せてはいない」のではないか。

 「任せる」も「鍛える」も,教師の側の姿勢・態度である。

 「任せる」ことの価値が,何となく「鍛える」ことの価値よりも高く思える。

 ただそれだけのことでは,何の意味もない。だから「言葉遊び」だと言っている。

 事実や関係性を読み解く能力がついていないのに,自分がいいなと思う姿を子どもが見せただけで安心してしまう教師が増えるのだけは阻止すべきだろう。

 子ども自身が重要な課題を見つけ出すまで試行錯誤させることには意義がある。

 これが「任せている」状態というのだろうか。見方を変えれば,課題発見力を「鍛えている」状態になる。

 こういう「言葉遊び」や, 

 「子どもの誰一人も不幸にしない」などという自分勝手な願いではなく,

 「子どもの思考力・表現力を高める授業をしたい」という具体的な願いをもった教師がいるとする。

 「思考力」が数値化できるとしたら,10もっていた子どもを12にしたり,
 
 3もっていた子どもを4にしたりすることが「高める」という言葉の意味である。

 ただ,残念ながら,「思考力」の数値化は難しい。

 「表現力」はある程度,測定することができるかもしれないが,「思考力」は「量」的なものではなく,「質」が問われる能力である。

 言葉では表現できない子どもに,イメージできていることを絵で表現させたことがあるが,

 そこで初めて「かなりの思考力がもっていた」ことがわかったことがある。

 「思考」したことを「表現」する方法は様々であるが,子どもの特質に応じた方法を考えておかなければならない。

 教師が子どもに課題を与えるときは,その解決の方法を「任せる」のではなく,

 選択肢を与えて「選ばせる」ことが必要な場面がある。

 「思考」させるときに,教師がどこまで具体的な指示を出すかも,様々な要因によって変わってくる。

 時間に余裕がないときは,「~が~であることを発見するために,2つの資料を比べてみなさい」

 というところを,子ども自身に発見すべきことを気づかせるために,
 
 単純に「比べてみなさい」と言ったり,「2つの資料を見てみなさい」と言ったりする。

 では,「~が~であることを発見した」生徒は「思考力が高まった」と言えるかというと,そう簡単には判断できない。

 もともともっていた思考力を活用しただけなのかもしれないから。

 一斉授業はテクニック次第でどうにでもなる,とほざいている連中がいるが,

 教育はそんなに簡単な仕事ではない。

 教師は学習状況を授業の中で把握して,子どもの活動の種類を調整することが求められる。

 当たり前のことだが,個々の学習状況を把握するためには,個々の生徒の学習状況が把握できる場面をつくらなければならない。

 教師の中には,生徒が話し合いをしている場面を「学習状況」として把握しようとする人がいるが,

 「協働性を高める」ことがねらいならそれでよいとしても,

 「個々の思考力を高める」ためには,個々が今どのような状況にあるかが把握できないといけない。

 だからテストのときはもちろん,「だれともかかわらないで一人で活動する場面」が授業では絶対に必要なのである。

 子どもが4人1組で教え合わされて,わかったつもりにさせられるような授業をしてはならない。

 これほど当たり前のことが理解できない指導者がついてしまう教師や教育実習生と子どもたちは本当の気の毒である。 

 価値認識を重視するあまりに,事実認識や関係認識がおろそかにされている学校現場は,要するに「思考力を奪う」場所になっているのである。

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動いたり話したりしていないと「学んでいない」と考える人たちがつくる落とし穴

 人間は,自分の頭脳を本当にしっかりと使っているとき,どんな状態になると思いますか?

 ものを考えているときに,だれかが無神経に話しかけてきたら,どう感じるでしょうか?

 「話しをしながら考える」ことができる人間など,ごくわずかです。

 残念ながら,教育の世界には,もともと「座学」が大嫌いな人がいて,子どもが歩き回ったり話したりしているだけで,嬉しくなってしまう人がいます。

 小学校だけかと思いきや,高校の授業ですら,見当外れの意見が出ても,「ああ,自分の考えをもつことができていて素晴しい」と感動してしまう人がいる。

 事実認識も関係認識も誤っているのに,たまたま評価者(学校では教師)がもっている価値認識と重なっただけで,よしとされてしまう仕組みが世の中にはあるのです。

 だから,多くの人間が「騙される側」「利用される側」に陥っていく。

 子どもが勝手に動くことも話すことも放置して,結局何もわかっていない状態に子どもが陥っていくのを気にせずにすませられてしまう人が教師になったら,学校はどうなっていくのでしょう。

 価値認識を最優先させて,事実認識や関係認識をしっかり育てない国だから,先の戦争が防げなかったのではないでしょうか。

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義務教育でアクティブ・ラーニングに取り組ませる目的

 学習指導要領の改訂によって,「主体的・対話的で深い学び」の実現が求められているが,

 これは従来,観点別で評価していた関心・意欲・態度,資料活用の技能と思考・判断・表現,知識・理解という学力の3つの面について,

 「量」はそのままで「質」を高めよ,という話である。

 今まで「量」をこなしても,それが身についていなかった。

 だから,学習の「質」を高め,身につく「量」も増やせ,という方が趣旨に近いかもしれない。

 学習の「質」が高まってこなかった背景には,「観点別学習状況の評価」の存在があった。

 私がこれまでこのブログで何度も指摘してきたように,

 「観点別の評価」というのは,学力の総体を見るものではないために,

 「関心・意欲・態度」を授業中に発言した回数や提出物を出した回数で評価するなど,目標とは無縁のいい加減な評価がまかり通っていた現状があった。

 今後,4観点が3観点に変わるのだろうが,同じ過ちが繰り返されるおそれがある。

 センター試験のように,穴埋め問題ができたことをもって「知識・理解」がなされているという恐ろしく適当な評価をしてきた教員にとって,アクティブ・ラーニングがどんな学習か想像もつかないかもしれないが,

 あることがらをこれらの資料を使って2~3の観点から説明せよ,という「目標に照らして本来そうあるべき学習内容と方法」を課題として与えてきて,1つの課題に対する解答を各観点から評価できていた教員にとっては,「今まで通り」で何の問題もないのである。

 「深い学び」についてイメージできない人は,まずは自分の大学での卒業論文を想定してみる。

 卒論で「深い学び」をした経験させてもらえなかった大学の卒業生は,教員として採用するべきではないだろう。

 もちろん,教育実習に毛が生えた程度の実践をして,単純に「みんなで正解できました」「これでみんな理解できました」などという報告をしただけの大学生も,教員にしてはならない。

 義務教育でアクティブ・ラーニングに取り組ませる目的は,

 一言で表現すれば,「わかっていない,という自分の状況がわかるようにしてあげること」である。

 成果至上主義は教育の世界にも蔓延しているから,

 「わかったつもりの人間」が隅から隅まであふれ出している。

 「わかったつもりの人間」を大量生産しているのは,A4用紙たかだか数十枚程度の文字数で,「これで授業は劇的に変わる」などと宣伝している暇人たちのせいでもある。

 現状のどこが問題かがわかっていないような人間も増えているが,それは

 「アクティブ・ラーニング」がこの国の教育の常識ではなかったからである。

 「本を読めばできるようになる」などと考えている人間がいるとしたら,まさに

 「アクティブ・ラーニングとは縁がなかった」という証拠になる。

 主体的・対話的で深い学びを子どもにさせてあげようとするならば,

 まずは校内研修でそういう「学び」を経験してみるべきだろう。

 呼んだ講師を評価するときの大事な視点は,

 「わかったつもりになった自分がバカだった」と思えるかどうかである。

 「よくわかった」などと「わかったふり人間」を増やしただけだったら,研修は意味がなかったと考えてよい。

 いきなり隣の教員と握手させたり,肩をたたき合うような暇つぶしをする講師が来たら,まずは怪しいと思った方がよい。

 データをたくさん示し始めて,「科学的ですよ」なんていう雰囲気を充満させる講師も同様である。

 将来の子どもの危機を煽るような人間も同様である。

 「似非アクティブ・ラーニング」は,必ずこうした「目くらまし」から始まる。

 歴史や伝統がない国のアクティブ・ラーニングが,

 歴史も伝統もある国のアクティブ・ラーニングのパクリでは,

 どう考えてもアクティブ・ラーニングにはなり得ない。

 自分たちで工夫すること。

 教師が工夫すること。子どもが工夫できる余地を与えること。

 それが義務教育でアクティブ・ラーニングに取り組ませる目的である。


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結果至上主義の部活動と「全員に正解させる」教育の共通点

 目標だけを最優先させる精神は,多くの問題を生む。

 結果至上主義の部活動と,「全員に正解させる」授業には,全く同じ共通点がある。

 「できない」という状態や「失敗」を認めないということである。 

 「できていない状態」「わかっていない状態」=悪という単純な発想が,いかに子どもたちの健全な成長を阻害するか,教育現場に長くいる教師だったらわかるはずだ。

 「全員ができること」「一人も置いてきぼりにしないこと」を目標にする精神至上主義の教育をすると,どういうことが起きるのか。

 子どもたちにとっては,表面上の成果とは裏腹に,激しいストレスが蓄積していく。

 このストレスは「反抗」や「不満」といったものを根っことしない分,とてもやっかいなものである。

 人間は,内面の葛藤を抱えながら,成長する生き物であり,

 その葛藤は,年齢とともに変化する。たとえば教師だったら,単純な子どもとの関係から,上司との葛藤,学年の教員との葛藤,保護者との葛藤,地域の人々との葛藤へと「移行」していく。

 いつまで経っても子どもとの関係づくりが苦手な教師がいるが,子どもの方から「戦力外通告」されている教師は,もはや無理をする必要はなく,「助けてくれる大人」との関係を良好にするように努めるべきである。

 内面の葛藤は,「科学」では容易に解消できない。

 スクールカウンセラーに相談するだけで,問題が解決できるわけではない。

 だから,人によっては,「宗教」に救いを求めるようになる。

 「宗教」の特徴は,「絶対的に正しい何か」に信頼を寄せることから始まる。

 言い換えれば,「忘れること」「何もなかったことにすること」から始めるようなものだから,

 儀式的,儀礼的な同じことの繰り返しくらいなら問題ないとしても

 (ただここを最大の問題だと考える人がいるのも当然のこと),

 教育と宗教は決して接近してはならないものだということは常識だ。

 子どもたちに対し,まだ感覚的に理解不可能な「大原則」「約束」を押しつけて,

 自分は眺めているだけできょろきょろ,うろうろしているだけの教師を見かけたら,

 どんな本を読んでいるか確かめてみるとよい。

 
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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より