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カテゴリー「学力向上」の774件の記事

ニューヨークの公立中学校事情

 産経新聞のニューヨーク駐在編集委員の方が週刊ダイヤモンドに寄せている

 「小学生はつらいよ」の記事を読んだ。

 日本でも全国学力調査がいまだに行われているが,

 ニューヨークの場合は,小学生の「統一テスト」の結果が進路を大きく左右するらしい。

 日本もいずれ,同じようなことになるのだろうか。

 評判の良い学校に入るのに,学校選択自由制の地域では定員を超えると抽選が行われるが,やがて「能力次第」という仕組みに変わる可能性もある。

 私の娘は,今年も,何の「コピー」か知らないが,全国学力調査の「練習問題」を解かされた上で,本番を迎えていた。

 日本では,小学生の学力調査の結果は,進路には直接影響せず,教員の方の評価に影響を及ぼしている。

 子どもが餌食になる日も遠くないような気がする。

 モノ真似が大好きな日本人が多いおかげで,就職先のない高学歴アルバイターの出番が増えてくるのだろう。

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理想に走り,現実を軽視するか,現実を最優先し,理想を忘れるか

 労働の見直しにしろ,教育の改革にしろ,理想を求めていって,必ずぶつかるのが「現実の壁」である。

 教育の理想は,結局似たり寄ったりである。 

 現実を軽視したり,無視したりして,無理矢理に理想を通そうとすると,恐ろしい結果を招くことになる。

 1,2年間くらい,子どもを犠牲にして,やってまともな教育ができるようになったら,異動になる。

 これを繰り返していても,学校現場には犠牲者しか残らない。

 逆に,現実問題を優先しすぎると,いつの間にか理想などは忘れ去られる。

 教科書にある程度の内容を,全員でおおむね理解した,と言えるレベルに定着させたいなどという「理想」を掲げる人間に,「教育の理想」があるとは到底思えない。

 「働き方改革」についても,日本は生産性を向上させることがまだ理想のイメージになっていないようである。

 「事故を防ぐこと」「苦情を言われないこと」「失敗の責任をとらされないこと」が理想像になっている人間たちから,仕事を奪い返すことが最も重要なことだと思われる。


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走っていると見えないものが,歩いてみると見えてくる

 「走る教育」,「歩く教育」という2つの言葉を並べてみると,どのような対比が見えてくるだろうか。

 一人の教師に目を向けてみると,私の場合は,40歳代までは「走る教師」だった。

 今は,「歩く教師」になっている。

 大きな怪我をして,あるいは,体重が重くなりすぎて,物理的に走れなくなったという意味も含んでいるが,「走れなくなった」というより「走らなくなった」と表現する方がよいかもしれない。

 もちろん超短期で考えると,「走る」こともある。

 ただ,かつてはいつも「走り続け」ていて,時々「猛ダッシュする」という感じだった。

 今では,基本的に「歩き続けて」いる。

 もしかしたら,生徒が「見える」ようになったことで「歩いている」ように感じているのかもしれないが・・・。

 「一緒に走らない仲間」や「ついてこれない子ども」が増えていることが,「歩く」姿勢を重視させているという気もする。

 とても単純に考えると,「歩く」ときは視野が広くなり,よそ見もしやすくなるが,「走る」ときは,視野が狭くなり,よそ見もしにくい状況で,急には止まれない,などいった欠点が多かった。

 「歩く」と,「走る教師」もよく見えてくる。

 それが危なっかしく見えるようになると,教師としては「晩年」を迎えるということだろうか。

 行政にいたころは,基本的に「立ち止まっている」状態だった。

 「立ち止まっている人」や「後ろ向きに走っている人」を見る機会も行政では多かった。

 「見える」ということが,いかにつらいものであるかということもよくわかった。

 もしかしたら,嫌なものを見ないですむために「走り続けた」のかもしれない。

 それでも,行政に比べれば,学校現場は,いたって健全なところである。


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導入からでは本題がわからない授業が面白い

 本時のめあて・・・なんていう内容を板書してしまい,「今日,やることはこんなことか」とがっかりさせた経験がある先生はいませんか?

 えっ・・・私はまず学習のめあてを書くことから始めなさい,と教わったのですが・・・。

 ・・・もちろん,私も本時のテーマをいきなり書くところから始める授業も行っています。

 私が聞いているのは,「がっかりさせた経験があるか,ないか」ということです。

 たとえば,算数の授業で,「小数の足し算」と板書されて,気持ちが盛り上がる子どもっていますかね?

 私はもう50も過ぎていますが,完全なるテレビ世代です。

 これから学校に通う子どもは,親がテレビ世代であるだけでなく,生まれたときからスマホやタブレットがあるような世代です。

 こういう世代の人間に,いきなり「小数の足し算」を学びますよ,なんて言っても,「めんどくせーなー」なんて思われてしまいかねません。

 授業でいえば,タイトルの付け方を工夫して,ある程度進んだところで,ああ,このタイトルは,こんな意味があったんだと気づくような,そんな「遊び」が必要です。

 だから,小数の足し算では,「ずれたら大変!」なんていう板書から始めても,いいのではないでしょうか?

 戦前の教育を受けた人でも,「之字運動」なんて言われても,何の意味かわからないと思いますが,

 授業の導入の仕方の参考になるものですよ,と言われたら,どういう想像ができるでしょうか。

 「つい入ってしまいたくなるようなお店のような導入」とは,どのような工夫がなされた授業のことでしょうか。

 『書く力』(朝日新書)を参考に,考えてみました。

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北陸地方では常識的な?「防災教育」

 ある高校生が,「雷の多い年は豊作になる」と言い伝えを実証するための実験を行ったことがニュースになっています(産経新聞)。

 私の勤務している中学校では,1年生の一部が必ず田植え体験をしている関係で,よく次のような話をします。 

 以下の文章は,JAみな穂のHPからの引用です。

****************

 雷は稲妻とも呼びます。雷は稲が結実し始める夏の時期に多く発生することから、古来より稲は雷によって結実すると信じられていました。雷が稲を孕(はら)ませると考えられ、雷を稲の夫(つま)稲夫(いなずま)と呼ぶようになりました。昔は「夫」も「妻」も夫婦や恋人が相手を呼ぶ言葉で、「つま」に妻が当てられたことから稲夫→稲妻と呼ぶようになりました。

 そのため雷が多い年は豊作になると信じられてきたのです。
 
 また雷を「神鳴り」とも書くように昔から雷は神の仕業と考えられてきました。雷を「いかづち」とも読むのは荒々しい様子を表す「厳(いか)し」に大蛇(おろち)や蛟(みずち)などで神や霊を表す「ち」を「づ」現代かなづかいの「の」で繋げたものです。

****************

 このHPには,北陸地方が雷多発地帯であることも示されていました。

 北陸各県では,「雷が発生したときの安全対策」の教育もしっかりと行われているのかもしれません。

 
 実際に田んぼに雷が落ちると,どんな現象が起こっているのでしょうか。

 高校生が行った実験によれば,放電した水は,通常の水よりも窒素を多く含んでいたとのこと。

 そうすると,人為的に放電を起こしていき,水分中の窒素量を増やすことで,収穫量の増加が見込めるようになるのでしょうか。

 ただ,長く放電しすぎるのもいけないようです。

 
 各地に残されている様々な伝承は,経験則を示しているものも多いのでしょうが,現在では,それらの科学的根拠を解明している人たちも多いはずです(そういう本を昔読んだ記憶があります)。

 今回の高校生のような実験・検証を行う研究が,「総合的な学習の時間」の基本スタイルになっていくことを期待したいものです。

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「一斉授業」の展開のバリエーション

 なぜ45分とか50分の一斉授業において,一定時間,教師が話をしなければならないのか。

 それは,生徒に「学習」をさせるためである。

 生徒が「学習」に取り組むためには,頭の中を「アクティブ」な状態にしなければならない。

 生徒の頭の中が「アクティブ」な状態になるためには,「なぜこの問題を考える必要があるのか」「なぜこの問題を考える価値があるのか」を実感させないといけない。

 「そんなことは無理だ」と諦めているのは,「子どもを見捨てている」教師である。

 「一人も見捨てない」などという綺麗事を言いながら,「大勢を見捨てている」罪悪感に駆られない人間は教師ではない。

 「主体的に学ぶ」姿勢を持たせるためには,教師主導の「導入」や「展開」が必要なのである。

 「展開」の仕方は様々である。

 指導案では,「展開1」「展開2」「展開3」などと,発問や理解の深まりとともに,学習のスタイルも変化する場合がある。

 ペアで議論したり,4人1組で話し合ったりする場面もあるだろうし,1人の発言をもとに,多くの生徒が意見交換をする場面もあるだろう。

 いつの間にか,「学級自治会」みたいになることもある。

 これも「一斉授業」である。

 理解が不十分な子どもに寄ってたかって理解させようとする子どもたちに,「それでお前たちが得ができるんだ」なんて「説得」している教師が実在するとすれば,恐ろしい限りである。

 文科省は,「自分で考えればもう少しで答えが出たのに,他の子に解き方を教えられて悲しい思いをした」というケースも,「いじめ」と認定するという見解を出していることを覚えておいてほしい。

 「一斉授業」に対する理解も技能も不十分なまま,子どもたちを「放し飼い」にする教師を断罪できるのはだれだろう。

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論文作成と授業づくりの違い

 論文には,基本的な構成がある。

 結論がわからない状態で論文を書き始めることはまずないだろう。

 授業案も同様に,この時間ではこのようなことを理解させたい,という「結論」がもとになって,導入や展開を考えるのが普通である。

 導入・展開・まとめという授業の構成の中で,「まとめ」のイメージがあるから,導入の教材を工夫することができる。

 ただ,学習で大切なことは何を考えると,論文を書くことよりも,研究の過程でどのような良質の試行錯誤ができたかが重要であることは言うまでもない。

 研究のきっかけが何であったのか,実は論文を読むよりも,その話を聞いた方が,他人にとっては参考になることが多い。

 ゴールをあらかじめ提示してしまう授業が,その教科が扱う事象の興味・関心を高めるかと言えば,決してそんなことはないのではないか。

 さすがに公開授業では難しいかもしれないが,授業というのは多くの場合,「脱線」があるものだ。

 この「脱線」こそが,たとえば研究活動ならば意外な大発見に結びつき,よい業績をもたらすものになることが多いのではないか。

 教師が設定したゴールに向かってひたすら邁進させるタイプの一般的な授業が,多くの生徒にとって「つまらない」と感じられてしまうのも,生徒なりに「学習の本質」がわかっているからではないだろうか。

 結論よりも,まずは「導入」を工夫してみる。そうすると,子どもたちは,(教師の)思いも寄らない方向へと思考を働かせてくれて,「主体的な学び」が成立する。そんな授業を心がけていたい。


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「入試問題が変わる」という安直な発想

 「入試が変わるから学校での学習が変わる」などと安易に語っているのは,おそらく「学習の質を変える」ほどのインパクトのある試験問題をつくったことのない人たちだろう。

 採点基準を厳格に定めなければならない入学者選抜試験では,想定外の正解が出てこないような出題に限られてしまう。

 私が学校の定期考査で行っているように,生徒の答案を集めて全部読んでから,採点基準を決めるようなテストは入試では実施できない。

 私の場合は,解説の時間に生徒の意見を聞き,採点基準を改める場合すらある。そのために,返却する答案はすべてコピーをとっておき,得点が変わった場合は,該当するすべての生徒に説明するとともに,なぜどのような答えの得点が変わったか,具体例を示すプリントを配布している。
 
 制限時間が決まっているテストでは,自分の言いたいこと,考えていたことをすべて答案に書き尽くすことができない生徒もいる。そういう生徒から,レポートを提出させて,評価に加味する場合もある。

 「テストの点数絶対主義」を排除できるこうした学校現場での定期考査と,入学試験とは全く質が異なるものである。

 「知識がいらない」ような問題では,そもそも学校の授業を真面目に受ける意味もないと考えてしまう生徒が出てきてしまうから,当然,良質な知識を活用して,与えられた資料から必要な情報を取り出しながら思考し,表現させるような問題をつくることになる。

 しかし,「良質な知識」とはあくまでも教科書に取り上げられているような内容に限られてくるから,やはり教科書の内容はしっかりと理解しなければならない。

 だから,どんな対話的な授業をしようが,理解していなければ意味がないことに変わりはなく,多くの教師は教科書が網羅できるような授業を行い続けることになるだろう。

 では,「主体的・対話的で深い学び」を行うことは,不可能なのか?

 そんなことはない。全国各地から,「工夫された定期考査問題例」を集めてみて,精選した問題を公開してみたらどうか。

 「良質な問題」とはどういうものか,その定義を対話的に考えてみたらどうか。

 「この問題は,教科書を読まずに,授業も受けずに答えられてしまうからまずい」とか,

 「この問題は,結局この知識だけがあれば解けてしまうので,まずい」など,ありとあらゆる批判を集めて,「良問」をつくるコツを磨いていける場をつくってみたらどうか。

 すでに初めている自治体があれば,素晴しい。

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「聖徳太子」を「厩戸王」と呼ばせない圧力の正体

 社会科教育というジャンルがあるが,ここでご活躍のセンセイ方の中には,政治学や経済学,地理学や歴史学といった「学問」へのアンテナが高くはない方もいらっしゃるが,さすがに「聖徳太子」という呼称を続けていくのはまずいだろうと思っているはずである。

 「指導の継続性」という観点から言えば,大学や高校で「聖徳太子」と表現すればバカにされてしまうので,中学生だけではなく小学生にも「本来の呼称」を教えていくのが妥当だと考えられる。

 だから,次期指導要領の改訂案でもそうなっていた。

 しかし,「指導の継続性」という言葉を,「低いレベルをそのまま維持する」という発想でとらえる人たちの考えがパブリックコメントに寄せられ,文科省はそうした「わがまま」に従う意向であることが報じられている。

 私ははじめ,次期学習指導要領案に反対したのは,「厩戸王」ではなく,「厩戸皇子」と紹介していた教科書会社の人ではないかと思っていた。

 教科書会社としては,他社でしかも1社しか使われていなかった用語に統一されることは不本意であり,次の教科書採択への影響もあると感じたのではないかと。

 だが,文科省が,教科書会社の意見を聞いて,方針を変えるとは考えられない。

 さすがに教科書会社に天下りしている人はいないのではないかと思う。

 変更の理由が,「指導の継続性に問題」「子どもが混乱する」だけで通るわけがない。

 「指導の継続性」と言えば,今回の改訂の目玉は,高校段階へと発展的に成長していく資質能力像を描き出しているという特徴にある。

 だから,「小学校でこういう名前で呼んでいたから,中学校でもそのままでいく」という発想は次期指導要領にはないのである。

 最初に述べたように,「高校ではこう呼ぶのだから,小中学校でもそうする」というのが「指導の継続性」というより「指導の一貫性」が通っている姿である。

 ということは,「厩戸王という歴史学で一般的な呼称を教科書レベルでは使うことをやめる」という方向転換の理由は,「跳ね返すことができない圧力が加わったから」であると考えざるを得ない。

 ただ,こういういざこざがあったおかげで,「なぜ聖徳太子と呼ばれるようになったか」「なぜ厩戸王と呼ばせたくない人たちがいるのか」を考えさせるきっかけになる。

 これは「歴史との対話」はもちろん,「現代社会において,様々な主張をする団体がいること」を理解させることにもつながっていく。

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アクティブ・ラーニングを導入していない国の方が,問題解決能力調査の結果に優れている理由

 「詰め込み型の学習」とは何か。

 たとえば,百人一首をすべて暗記すること。

 これは「詰め込み型の学習」だろうか。

 授業で先生が50分しゃべり続けている。

 生徒がノートにひたすら内容をメモしている。

 これも「詰め込み型の学習」だろうか。

 私の考えはこうである。

 「学習」とは,そもそも「主体的なもの」である。

 実は,「教師が話をしている内容に耳を傾ける」こと自体が,かなり「主体的な態度」なのである。

 なぜなら,「寝ている」「話を聞かない」「自分で好きな本を読む」ことも可能だからである。

 もちろん,「自分で好きな本を読む」という行為も主体的な態度である。


 筑駒出身の企業人がどこかに書いていたが,授業を聞いている生徒は2~3割だったらしい(もちろん,聞いていないようで大事な部分は聞き分けている人はもっと多かったものと想像できるが)。

 他の生徒は,自分で別の教科の問題集を解いていたり,将棋の研究をしていたりと,「積極的に(授業とは別の)学習に取り組んでいた」のだ。

 では,授業を熱心に聞いて,メモをとる態度は,「主体的」とは言えないのか?

 もう一つ念のために付け加えておきたいことは,「主体的」に学んだところで,必ずしも知識や理解が定着したり,思考力や表現力がつくとは限らない,ということである。

 
 「学習」で大事なのは,「教材」「学習内容」の量と質である。

 豊富な教材や学習内容にふれた子どもの方が,そうではない子どもよりも優れた問題解決能力を発揮できるのは,なぜだろうか。

 日本の公立小学校では,昔から問題解決型の学習が行われてきており,

 こういう学習(アクティブ・ラーニング)を行ってきた子どもとは,中学校に進学しても,

 問題解決的学習への意欲や態度は一定の水準を保てている。

 しかし,その成果が出ているかと言われたら,疑問が残る。

 中学校で問題解決能力を発揮している子どもたちの多くは,中学受験を経験するなどして,より多くの教材にふれる機会があった子どもたちである。
 
 そもそも,問題解決能力を発揮している子どもは,「詰め込み学習」をしてきたという自覚があまりない。

 「詰め込み」されたものは,「取り出し」がしにくい。
 
 奥の方に入って出てこなくなるものがあるイメージだが,「主体的」に学ぶ子どもの中には,
 
 多くの引き出しにきちんと整理したり,大きな引き出しの中に小分けの仕切りをつくったりして,

 「取り出し」が容易になる仕組みができている子どももいる。

 
 多くの教材・学習内容を与えるだけでなく,その有機的なつながりを意識させるという「指導の工夫」がなされた「一斉学習」があるからこそ,日本の中等教育の一定水準は確保されてきたのである。

 中等教育の「初等教育化」を防ぐ意味でも,タイトルの言葉を書いたメモを職員室の掲示板にでも貼っておいていただきたい。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より