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カテゴリー「「ゆとり教育」」の160件の記事

「働き方改革」の前に必要な「学び方改革」

 新聞には中立・公正原則はない。

 表現の自由に基づき,独自の主張を展開できる。

 だから,政権に近かろうが,政権批判を重視しようが,新聞社の自由である。

 私たちは,歴史教育を受けることで,戦時中の政府と新聞社の関係,新聞が嘘の報道を続けていたことを知ることができる。

 政権に近い新聞を読むメリットは何だろうか。

 総理大臣の考えがわかりやすく説明されていることか。

 政権しか知らない特ダネを早く,たくさん知ることができることか。

 どのような「学び方」をすることが,私たちの人生を豊かにしてくれるのだろう。

 
 学校現場で進めなければならないのは,「学び方改革」である。

 今までに,成功したことがある「教育改革」はあるのだろうか。

 東京都の場合は,受験倍率が少しだけ上がったり,東大合格者が増えたりすることを

 「改革の成果」としてカウントしようとしているが,

 「頭の良い子」をたくさん確保して,その子たちの成果がどう出ようが,「私には関係ない」という教師や子ども,学校が多ければ,やはり「教育改革」とは呼べないだろう。

 「大コケ」の「教育改革」と言えば,「生きる力」(今日,たまたま発見したのだが,日中戦争が起こった1937年2月の東京朝日新聞の一面に,「生きる力」というキャッチフレーズが使われた雑誌の宣伝が載っていた)を育もうとした約20年前の改革である。

 次なる「大コケ」の最有力候補は,「主体的・対話的で深い学び」をキャッチコピーとした次の学習指導要領だろうか。

 「自分一人ではなく,何人かで力を合わせて何かをつくりあげる」という「学び方」がいつの間にか紛れ込んできて,「カンニングのすすめ」が教育現場に広がる恐れがある。

 自分の頭ではなく,人が考えたことを写すだけで,わかったりふり,できたふりにする子どもが大量に発生する危険性がある。

 「学び方改革」でこういう子どもが増えると,やがて,どのような「働き方」が目立つようになるか,想像するだけでも寒気がする。

 「働き方改革」とは,だれの何のための改革なのか。

 ある人が嘆いていた。

 「働き方改革」についてのわけのわからない議論の時間がなければ,

 もっといい仕事がたくさんできるのに・・・。

 「話し合い」だけで何も得られない「学び方」を変えなければ,まともな「働き方」などできるわけがない。

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義務教育でアクティブ・ラーニングに取り組ませる目的

 学習指導要領の改訂によって,「主体的・対話的で深い学び」の実現が求められているが,

 これは従来,観点別で評価していた関心・意欲・態度,資料活用の技能と思考・判断・表現,知識・理解という学力の3つの面について,

 「量」はそのままで「質」を高めよ,という話である。

 今まで「量」をこなしても,それが身についていなかった。

 だから,学習の「質」を高め,身につく「量」も増やせ,という方が趣旨に近いかもしれない。

 学習の「質」が高まってこなかった背景には,「観点別学習状況の評価」の存在があった。

 私がこれまでこのブログで何度も指摘してきたように,

 「観点別の評価」というのは,学力の総体を見るものではないために,

 「関心・意欲・態度」を授業中に発言した回数や提出物を出した回数で評価するなど,目標とは無縁のいい加減な評価がまかり通っていた現状があった。

 今後,4観点が3観点に変わるのだろうが,同じ過ちが繰り返されるおそれがある。

 センター試験のように,穴埋め問題ができたことをもって「知識・理解」がなされているという恐ろしく適当な評価をしてきた教員にとって,アクティブ・ラーニングがどんな学習か想像もつかないかもしれないが,

 あることがらをこれらの資料を使って2~3の観点から説明せよ,という「目標に照らして本来そうあるべき学習内容と方法」を課題として与えてきて,1つの課題に対する解答を各観点から評価できていた教員にとっては,「今まで通り」で何の問題もないのである。

 「深い学び」についてイメージできない人は,まずは自分の大学での卒業論文を想定してみる。

 卒論で「深い学び」をした経験させてもらえなかった大学の卒業生は,教員として採用するべきではないだろう。

 もちろん,教育実習に毛が生えた程度の実践をして,単純に「みんなで正解できました」「これでみんな理解できました」などという報告をしただけの大学生も,教員にしてはならない。

 義務教育でアクティブ・ラーニングに取り組ませる目的は,

 一言で表現すれば,「わかっていない,という自分の状況がわかるようにしてあげること」である。

 成果至上主義は教育の世界にも蔓延しているから,

 「わかったつもりの人間」が隅から隅まであふれ出している。

 「わかったつもりの人間」を大量生産しているのは,A4用紙たかだか数十枚程度の文字数で,「これで授業は劇的に変わる」などと宣伝している暇人たちのせいでもある。

 現状のどこが問題かがわかっていないような人間も増えているが,それは

 「アクティブ・ラーニング」がこの国の教育の常識ではなかったからである。

 「本を読めばできるようになる」などと考えている人間がいるとしたら,まさに

 「アクティブ・ラーニングとは縁がなかった」という証拠になる。

 主体的・対話的で深い学びを子どもにさせてあげようとするならば,

 まずは校内研修でそういう「学び」を経験してみるべきだろう。

 呼んだ講師を評価するときの大事な視点は,

 「わかったつもりになった自分がバカだった」と思えるかどうかである。

 「よくわかった」などと「わかったふり人間」を増やしただけだったら,研修は意味がなかったと考えてよい。

 いきなり隣の教員と握手させたり,肩をたたき合うような暇つぶしをする講師が来たら,まずは怪しいと思った方がよい。

 データをたくさん示し始めて,「科学的ですよ」なんていう雰囲気を充満させる講師も同様である。

 将来の子どもの危機を煽るような人間も同様である。

 「似非アクティブ・ラーニング」は,必ずこうした「目くらまし」から始まる。

 歴史や伝統がない国のアクティブ・ラーニングが,

 歴史も伝統もある国のアクティブ・ラーニングのパクリでは,

 どう考えてもアクティブ・ラーニングにはなり得ない。

 自分たちで工夫すること。

 教師が工夫すること。子どもが工夫できる余地を与えること。

 それが義務教育でアクティブ・ラーニングに取り組ませる目的である。


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中学校の先生は,同時にいくつの仕事を進めているか

 学校の先生には,給料にわずかですが調整手当がついてしまっているために,日常的な「残業」という概念は存在しません。

 だから長時間勤務が常態化する,という考え方があるのはうなずけます。

 ごくわずかな調整手当分も「労働なしでもらえる」ように,必死に勤務時間内で仕事を終えて帰ろうとするツワモノが出てくるのはその反動でしょうか。

 教師の「責任」が重いのは当たり前で,公務員=全体の奉仕者としての自覚と能力がない人は,採用されていないはずですので,大部分の教師は「使命感」「責任感」をもって勤務時間が過ぎても「やるべきこと」をやり終えるために学校に残っているのです。だれかの体調が悪いときは,その仕事を喜んで肩代わりし,だれかが心に変調をきたした場合は,一度学校の外で食事をしながら励ましたりしてから,また職場に戻って仕事を続けるのです。

 「責任」は重いけど,学校内でしなければならない「仕事」は少ない,というのは校長だけに限ったことで,副校長を頂点に,とにかくたくさん「仕事」があります。一般的な教師が4月に行っている仕事を書き出すと,どれくらいの量になるでしょうか。

 仕事の種類だけを書き出してみても,次のようなジャンルがあります。どれか1つだけやっていればよい,というわけではなく,基本的にはすべての教師がかかわらなければならない仕事です。

○教務関係(防災,安全指導を含む)

○生活指導関係(いじめ対策,ネチケット関係を含む)

○研修・研究関係(研究発表,初任者研修,免許更新講習などを含む)

○学校行事(宿泊行事も含む)関係

○部活動関係

○教科指導関係

○道徳指導関係

○総合的な学習の時間の指導関係

○学年経営関係

○学級経営関係

○保護者会関係

 4月には,これらすべての年間計画が頭に入った状態で仕事を始めなければなりませんが,新しいメンバーが加わってから決められる内容もあるので,「プラン」づくりと「アクション」が同時に進められる状態にあるのが4月です。

 始業式と入学式が始まるまでの5日間くらいで,すべての準備を整えるのは至難の業です。4月当初に,今年度のように土日が入ってしまうと地獄になります。

 学校の先生にあてはまる「5月病」は,怒濤のような4月過ぎて,連休を迎え,少し気が緩んだあとに再び「仕事の山」に襲われる恐怖心が原因になることも考えられます。

 ある程度,経験年数を重ねてくると,外部の委員を引き受ける機会も多くなるでしょう。

 仕事はさらに増えるわけですが,学校の外の仕事をする方が逆に息抜きになっていい,という考え方もできます。

 仕事量の「見える化」の研究をしてみようと思ったこともありますが,恐ろしい個人差が表面化してしまうと,新たな給与体系の創出につながりかねず,やめました。

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理解するよりも誤解する人が多い教育論

 「アドラー心理学」は,理解する人よりも,誤解する人の方が多いだろう,とアドラー自身が語っているそうです。

 中教審の答申で,「生きる力」というキーワードは何とセットで使われていたか,よく理解している人は,どれくらいいるでしょうか。

 「ゆとり」教育とは,何のために,どんな方法で実現しようとしたか,ご存じでしょうか。

 もしこのことを知っていたら,現在の公立中高一貫校がどれだけ「約束違反」の代物か,理解できるはずです。

 「アクティブ・ラーニング」という,流行になりそうで,なりきれずに消えていこうとしているキーワードがあります。

 今,「アクティブ・ラーニング」という言葉を使い,調子に乗って本を出したり,雑誌で特集をしたりした出版社や著者は,みんなバカにされていますが,どうしてこんなことになったのでしょう。

 指導要領という法令に匹敵するものには,こんな「いかがわしい」言葉が使われないことは,はじめからわかっていたことですが,流行を追うことだけが得意で,中身の理解がほとんどできない人たちが多いのは,何も教育の世界に限った話ではないでしょう。

 「主体的・対話的で深い学び」と言い換えたところで,自分自身がその経験をしたことがない人に,いきなり「そういう原理原則で実践しろ」と言われても,困ってしまうか,どさくさに紛れて,「それっぽい」ことを導入してお茶を濁すかしかありません。

 人は,自分の都合のよいように解釈することが得意です。

 「話し合い」活動を多く取り入れていた教師が,「私は昔からアクティブ・ラーニングを実践していた!」と得意になることくらいは,「可愛い」もの。

 自分にとって都合の悪いことには,耳を貸さない。

 特に,人の「生き方」に関することにふれる教育や心理学は,

 「オレ様の理論」をもつことが優先されやすく,現場の教師などと違って,

 特にそこにしか存在理由がない人たちにとっては,「オレ様の理論」を守ることが死活問題になるわけです。

 実践者が全教員の1000分の1に満たなくても,「全国でこんなに広まっている!」と宣伝しなければならない背景には,こんな事情があります。

 しかし,現場における教育という仕事は,他人の「理論」にかまっている余裕はありません。

 現場の状況というのは,常に流動的です。

 教育について,あり得ない「前提条件」をつきつけられて,目の前の状況に対応できずに苦しんでいる教師には,「被害者」でもあるという面もありますが,事態が収拾できなければ,「指導力不足教員」という烙印を押され,教員としての残りの人生は,その「称号」を背負ったまま,学校をたらい回しにされる運命になります。

 自分の理論を取り入れてくれる教師を「同志」などと呼んで,「敵」を増やし続けている人間が守っているのは,「子どもの未来」や「あるべき教師」ではなく,・・・。

 さまざまな教育論は,きちんと理解され,実践されるとこういう良い効果があります,という宣伝だけではなく,こういう誤解も受けやすく,もしその誤解のもとで実践されると,こういう問題が起こりえます,という注意喚起も必要なのです。

 教師が,教壇に立つ前に,習得してあるはずの「理論」とは何でしょうか。

 教員免許を取得した時点で,習得しているはずの「理論」とは?

 教員採用試験に合格した時点で,習得していると見なされている「理論」とは?

 教育現場では,「理論」をどうこうと批判する以前に,教師になる時点では身についていなければならないはずのことが,大いに欠落しているという致命的な大問題があることを,証明してくれた本があるので驚きました。
 
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小学校による子どもの違い

 私は中学校の教師だが,小学生6年生を相手に授業をしたことが2度ほどある。

 1つ目の小学校では,中学生より賢いのではないか,と思えるほど輝いていた。

 テンポもよく,何より意欲が非常に高い。活動がとても活発で,無駄がない。

 2つ目の小学校では,全く逆で,時間が非常に遅く流れていく感じだった。
 
 テンポが合わない理由があとでよくわかった。

 いつもすぐに発言するような子どもが,黙っていたのだ。

 答えがわかっているのに黙るわけではなく,わからないから答えられないだけだった。

 いつもと質問の難易度が異なる。

 中学校の教師による授業だから,戸惑うのは当然かもしれない。

 ただ,残念なのは,能力が高い子どもがわかっているのにもかかわらず,

 発言をしなかったことである。

 私は子どものノートを見ながら授業していたので,ある子どもが書き出していた優れた意見を紹介するなどした。

 これは,教室ではタブーだったに違いない。

 能力の高い子どもの答えを先に出してはならない,という暗黙のルールがあったからだろうか。

 後者の学校は,全国から先生方が集まってくる小学校であり,

 前者の学校は,一般的な公立小学校である。

 教育は,学校によって,とても大きく異なっていてよい。

 学級によって,暗黙のルールが異なることもあってよい。

 ただ,「見世物」としての学習を続けていくと,結局のところ,学力はあまり向上しないことが証明されている。

 子どもをそっくり入れ替えてみる,という実践をどこかでやってくれないだろうか。

 授業は,教師の力によって大きく左右するものである,という仮説が証明されるだろう。

 それはいけない,「ハズレ」に当たるのは困る,という声もあるだろうが。

 深い思考に入れない子どもが増えている原因は何だろうか。
 
 この主な原因は,深い思考に入れる子どもが増えていることにあるのかもしれない。

 教育は,格差を拡大するために行われている,という言葉に心当たりがある人は多いのではないだろうか。

 格差を拡大しないようにするための教育をすれば,どうなるか。

 言うまでもないだろう。歴史は繰り返している。


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大学の「教職課程」の意味の軽さ

 教員養成課程で免許取得に必要な科目の「履修漏れ」が発覚した大学がある。

 期間は10年間。

 今年の4年生は80人いるらしいが,単純に計算すると800人が未履修の状態で免許を取得したということだろうか。

 免許を取得した卒業生(現場の教師になっている者も含めて?)への補講を検討しているらしい。

 記事によれば,大学や文科省の見解として,「履修漏れ」があっても(補講を受ければ?)免許は取り消されないという。

 私の違和感の一つ目は,「履修漏れ」という言葉である。

 何だか学生の方が悪いような言葉の響きである。

 実際には,カリキュラム作成・運営上のミスではないのか?

 カリキュラム編成能力がない大学の認可取り消しという処分は下らないのか?

 違和感の二つ目は,授業内容に関することである。

 「地理学では特定の地域しか授業内容に盛り込まれていないなど,未履修の分野が生じていた」とあるが,

 そもそもすべての地域の地誌を履修しないと免許が取得できないという仕組みも知らなかった。
 
 私もそんな授業は受けた記憶がない。

 大学教員の専門の幅は非常に狭いので,「すべての地域の地誌」がカバーできる人など存在しないだろう。

 
 「履修漏れ」発覚の経緯の方を知りたい。

 「この地理の先生,南アメリカのこと,何も知らないみたい」という生徒から訴えが原因か?

 大学ごとの学生の学力を最もよく知りうるのは,採用試験を実施している都道府県教委である。

 「この大学の学生は,地理の点数がいつも低い」というのが,履修漏れがばれた原因か?


 大学に対して,文科省から一斉に調査がまわっていくだろう。

 同じような理由の「未履修」など,そこらじゅうでいくらでも見つかるはずである。

 実際の教師に聞き取り調査してみるという方法もある。

 
 最終的には,「大学での教職課程の学習にはほとんど意味がない」という結論に落ち着くことが考えられる。

 大学のHPには,「瑕疵の程度は軽度」とある。

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指導力不足教員が教職大学院で「生まれ変わる」ことは可能か?

 「優秀な教師」と呼ばれるようになる資質能力を向上させることが,大学や大学院に可能だろうか?

 もしこういう質問を,「優秀な教師」と考えられている人たち,たとえば人事考課でAをとっている人たちにしたら,どのような答えが返ってくるだろう。

 優秀な教師が,大学院で学び直して,さらにその資質能力を伸ばすことは可能かもしれない。

 「雑用」をやらされて,「こきつかわれる」立場をもう一度経験することで,

 理解と愛情のある「こきつかい方」ができるようになるという「教育効果」も大きいだろう。

 ただ,進む大学によっては,「学ぶこと」よりも「教えてあげること」の方が多くなってしまうかもしれない。

 そもそも「教え方」の勉強をしてこなかった大学のセンセイたちから,社会環境が異なる海外のガクシャの理論を紹介されたところで,日本の学習指導要領の枠内では実現不可能なことだったら意味がなく,むしろ「ジムカタ」に転職した方が「教育のコウジョウ」に貢献できるかもしれないわけである。

 もし,教師としての資質能力に明らかに欠ける学生や教師が,大学や大学院で学ぶことで,将来「優秀な教師」とよばれるようになる力は身につくのだろうか。

 ある大学のセンセイにこれに近い質問をしたところの答えは,

 「学生が多すぎてわからない」というものだった。

 そもそも学生自体の能力を大学のセンセイは把握できていないわけである。

 現場の教師をつとめたことがないかつとめてもすぐに辞めてしまったような大学のセンセイには,そもそも「教師としての適性があるかないか」が判断できないわけである。

 こういう大学のセンセイたちが「学習のヒョウカ」のことを教えるのだから,資質能力が高まるどころの話ではない。

 「教職大学院」がもてあまし気味になりはじめていることが,一部の学校に出された調査からうかがえる。

 始める前からわかっていることに気づけないで始めてしまうということ自体が問題なのである。

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「主体的に人に頼る」態度を育成したい?

 仕事術的には,決して社内・部内で「人に頼る」という方法が一概に悪いとは言えない。

 「頼り上手」は自分の時間を浮かせるのはもちろん,他の人の能力を向上させたり,人間関係をより円滑にできる手段にもなる。

 ただ,それが「いつでもどこでも何歳でも」では困る。

 同年齢の集団で「常に人に頼る」ことができる安心感がある環境も悪いものではないが,

 「助けてくれる人がいないと何もできない」状態が続いてしまうのはよくない。

 「子どもが主体的に・・・・」という言葉を教師たちは好んで使うが,

 「主体的に人任せにする」人間をつくっても平気でいられる人たちがいるのは困りものである。

 自分たち自身がまさに「それ」に当たるわけであるが,

 この底なし沼からは簡単に脱出はできないようである。

 「主体的にサボる」子どもに待ったをかけるのは,だれの仕事なのか?

 「親が悪い」と常に「他人のせい」にしていないと気が済まない教師たちにつける薬はないのか?

 何だかんだ言ってかろうじてもった小学校時代の次には,中学校における悲惨な学校生活が待っている。

 教師の監視のもとではなく,自分たちなりに「小さな目標設定」「自力での実行」「協働での実行」「自力での評価(ふり返り)」「協働的な評価(ふり返り)」というルーティンをこなし,「教師による評価」を適宜もらってより中身のある「目標設定」「実行」「ふり返り」を繰り返しながら成長できる仕組みをつくってもらうことが,学級,学年,学校への切なる願いである。

 
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「負の効果が大きい評価」の研究

 見かけ上の「知識」を活用する能力がつかないまま,上級校に進学していったり,社会に出て行ったりする人が増えている。

 だから,「21世紀型能力」の育成が求められるようになった。

 「21世紀型能力」を育てようと思ったら,あらかじめ枠が決まった「評価」などをしている場合ではない。

 そもそも「21世紀型能力」の目標が達成されていない授業を繰り返しているから,「知識」は単なる見かけ上のものになり,それが活用できない子どもが増えているのである。

 今までの「思考力・判断力・表現力」の根拠になった資料を徹底的に再点検していただきたい。

 「そんなもので,思考力をはかっていたのか!」と憤る保護者がどんどん増えてほしい。

 ぜひとも,これまで時間ばかりかけて無駄だった「評価」に関する「負の効果」の研究をする学者が出てきてほしい。

 効率よく知識を得るような授業で実力がついている錯覚に陥っている人間を,教師にしてはならない。


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【データから考える教育-7】 子どもの自立への不安

 子どもが自立できるか不安である,と考えている親(子どもが小1~高3)はほぼ半数。

 ベネッセ教育総合研究所が2015年7~8月に行った調査の結果である。

 学年別で見ると,どこでも男子の保護者が女子の保護者を上回っている。

 では,「自立できない」と考えている理由は何だろうか。
 
 「整理整頓・片付け」が57%で最多。

 「家庭学習の習慣」が39%。

 「友達との関わり」が38%。

 そのほか,「家庭の経済状況」,「学校の宿題」,「心の成長や性格」,「進路・学校選び」,「ゲームの仕方」などが不安要因としてあがっている。

 (日本経済新聞2016年4月4日の記事より)

********************

 子どもが将来,自立できるかどうか「不安」に思ってくれる保護者が多いのはありがたい。

 「不安を感じない」保護者は,大きく2つのタイプに分けられると考えられる。

 十分な教育をほどこしており,学校の成績もまずまずよいので,本当に不安を感じていない保護者。

 本当は不安を感じてもらわないと困るのに,根拠のない楽観で余裕のある?保護者。

 世の中には,不安をあおることが自分の収入源になる人たちがいる。

 「人間の不安心理寄生虫」とでも呼ぶべき仕事がお金になるくらいだから,

 将来も「仕事が皆無になる」心配はないだろう。

 
 将来を生き抜く力をつけるために,アクティブ・ラーニングをどんどん推進させようというムードが高まっている。

 教科書レベルの内容が理解できてお互いに満足しているような「協働性」では,格差は開くばかりである。

 公立学校の現場の教師は,絶対にだまされてはいけない。

 何が子どもたちによって最善の教育かを常に問い続けることができる教師でありたい。

 教育はその場その場で常に現在進行形の取り組みである。

 教育の成果が「死蔵」されてしまる理由もそこにある。

 「変わり続ける力」と「守り続ける力」を両方合わせ持つ柔軟性がほしい。

 
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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より