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カテゴリー「「ゆとり教育」」の155件の記事

大学の「教職課程」の意味の軽さ

 教員養成課程で免許取得に必要な科目の「履修漏れ」が発覚した大学がある。

 期間は10年間。

 今年の4年生は80人いるらしいが,単純に計算すると800人が未履修の状態で免許を取得したということだろうか。

 免許を取得した卒業生(現場の教師になっている者も含めて?)への補講を検討しているらしい。

 記事によれば,大学や文科省の見解として,「履修漏れ」があっても(補講を受ければ?)免許は取り消されないという。

 私の違和感の一つ目は,「履修漏れ」という言葉である。

 何だか学生の方が悪いような言葉の響きである。

 実際には,カリキュラム作成・運営上のミスではないのか?

 カリキュラム編成能力がない大学の認可取り消しという処分は下らないのか?

 違和感の二つ目は,授業内容に関することである。

 「地理学では特定の地域しか授業内容に盛り込まれていないなど,未履修の分野が生じていた」とあるが,

 そもそもすべての地域の地誌を履修しないと免許が取得できないという仕組みも知らなかった。
 
 私もそんな授業は受けた記憶がない。

 大学教員の専門の幅は非常に狭いので,「すべての地域の地誌」がカバーできる人など存在しないだろう。

 
 「履修漏れ」発覚の経緯の方を知りたい。

 「この地理の先生,南アメリカのこと,何も知らないみたい」という生徒から訴えが原因か?

 大学ごとの学生の学力を最もよく知りうるのは,採用試験を実施している都道府県教委である。

 「この大学の学生は,地理の点数がいつも低い」というのが,履修漏れがばれた原因か?


 大学に対して,文科省から一斉に調査がまわっていくだろう。

 同じような理由の「未履修」など,そこらじゅうでいくらでも見つかるはずである。

 実際の教師に聞き取り調査してみるという方法もある。

 
 最終的には,「大学での教職課程の学習にはほとんど意味がない」という結論に落ち着くことが考えられる。

 大学のHPには,「瑕疵の程度は軽度」とある。

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指導力不足教員が教職大学院で「生まれ変わる」ことは可能か?

 「優秀な教師」と呼ばれるようになる資質能力を向上させることが,大学や大学院に可能だろうか?

 もしこういう質問を,「優秀な教師」と考えられている人たち,たとえば人事考課でAをとっている人たちにしたら,どのような答えが返ってくるだろう。

 優秀な教師が,大学院で学び直して,さらにその資質能力を伸ばすことは可能かもしれない。

 「雑用」をやらされて,「こきつかわれる」立場をもう一度経験することで,

 理解と愛情のある「こきつかい方」ができるようになるという「教育効果」も大きいだろう。

 ただ,進む大学によっては,「学ぶこと」よりも「教えてあげること」の方が多くなってしまうかもしれない。

 そもそも「教え方」の勉強をしてこなかった大学のセンセイたちから,社会環境が異なる海外のガクシャの理論を紹介されたところで,日本の学習指導要領の枠内では実現不可能なことだったら意味がなく,むしろ「ジムカタ」に転職した方が「教育のコウジョウ」に貢献できるかもしれないわけである。

 もし,教師としての資質能力に明らかに欠ける学生や教師が,大学や大学院で学ぶことで,将来「優秀な教師」とよばれるようになる力は身につくのだろうか。

 ある大学のセンセイにこれに近い質問をしたところの答えは,

 「学生が多すぎてわからない」というものだった。

 そもそも学生自体の能力を大学のセンセイは把握できていないわけである。

 現場の教師をつとめたことがないかつとめてもすぐに辞めてしまったような大学のセンセイには,そもそも「教師としての適性があるかないか」が判断できないわけである。

 こういう大学のセンセイたちが「学習のヒョウカ」のことを教えるのだから,資質能力が高まるどころの話ではない。

 「教職大学院」がもてあまし気味になりはじめていることが,一部の学校に出された調査からうかがえる。

 始める前からわかっていることに気づけないで始めてしまうということ自体が問題なのである。

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「主体的に人に頼る」態度を育成したい?

 仕事術的には,決して社内・部内で「人に頼る」という方法が一概に悪いとは言えない。

 「頼り上手」は自分の時間を浮かせるのはもちろん,他の人の能力を向上させたり,人間関係をより円滑にできる手段にもなる。

 ただ,それが「いつでもどこでも何歳でも」では困る。

 同年齢の集団で「常に人に頼る」ことができる安心感がある環境も悪いものではないが,

 「助けてくれる人がいないと何もできない」状態が続いてしまうのはよくない。

 「子どもが主体的に・・・・」という言葉を教師たちは好んで使うが,

 「主体的に人任せにする」人間をつくっても平気でいられる人たちがいるのは困りものである。

 自分たち自身がまさに「それ」に当たるわけであるが,

 この底なし沼からは簡単に脱出はできないようである。

 「主体的にサボる」子どもに待ったをかけるのは,だれの仕事なのか?

 「親が悪い」と常に「他人のせい」にしていないと気が済まない教師たちにつける薬はないのか?

 何だかんだ言ってかろうじてもった小学校時代の次には,中学校における悲惨な学校生活が待っている。

 教師の監視のもとではなく,自分たちなりに「小さな目標設定」「自力での実行」「協働での実行」「自力での評価(ふり返り)」「協働的な評価(ふり返り)」というルーティンをこなし,「教師による評価」を適宜もらってより中身のある「目標設定」「実行」「ふり返り」を繰り返しながら成長できる仕組みをつくってもらうことが,学級,学年,学校への切なる願いである。

 
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「負の効果が大きい評価」の研究

 見かけ上の「知識」を活用する能力がつかないまま,上級校に進学していったり,社会に出て行ったりする人が増えている。

 だから,「21世紀型能力」の育成が求められるようになった。

 「21世紀型能力」を育てようと思ったら,あらかじめ枠が決まった「評価」などをしている場合ではない。

 そもそも「21世紀型能力」の目標が達成されていない授業を繰り返しているから,「知識」は単なる見かけ上のものになり,それが活用できない子どもが増えているのである。

 今までの「思考力・判断力・表現力」の根拠になった資料を徹底的に再点検していただきたい。

 「そんなもので,思考力をはかっていたのか!」と憤る保護者がどんどん増えてほしい。

 ぜひとも,これまで時間ばかりかけて無駄だった「評価」に関する「負の効果」の研究をする学者が出てきてほしい。

 効率よく知識を得るような授業で実力がついている錯覚に陥っている人間を,教師にしてはならない。


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【データから考える教育-7】 子どもの自立への不安

 子どもが自立できるか不安である,と考えている親(子どもが小1~高3)はほぼ半数。

 ベネッセ教育総合研究所が2015年7~8月に行った調査の結果である。

 学年別で見ると,どこでも男子の保護者が女子の保護者を上回っている。

 では,「自立できない」と考えている理由は何だろうか。
 
 「整理整頓・片付け」が57%で最多。

 「家庭学習の習慣」が39%。

 「友達との関わり」が38%。

 そのほか,「家庭の経済状況」,「学校の宿題」,「心の成長や性格」,「進路・学校選び」,「ゲームの仕方」などが不安要因としてあがっている。

 (日本経済新聞2016年4月4日の記事より)

********************

 子どもが将来,自立できるかどうか「不安」に思ってくれる保護者が多いのはありがたい。

 「不安を感じない」保護者は,大きく2つのタイプに分けられると考えられる。

 十分な教育をほどこしており,学校の成績もまずまずよいので,本当に不安を感じていない保護者。

 本当は不安を感じてもらわないと困るのに,根拠のない楽観で余裕のある?保護者。

 世の中には,不安をあおることが自分の収入源になる人たちがいる。

 「人間の不安心理寄生虫」とでも呼ぶべき仕事がお金になるくらいだから,

 将来も「仕事が皆無になる」心配はないだろう。

 
 将来を生き抜く力をつけるために,アクティブ・ラーニングをどんどん推進させようというムードが高まっている。

 教科書レベルの内容が理解できてお互いに満足しているような「協働性」では,格差は開くばかりである。

 公立学校の現場の教師は,絶対にだまされてはいけない。

 何が子どもたちによって最善の教育かを常に問い続けることができる教師でありたい。

 教育はその場その場で常に現在進行形の取り組みである。

 教育の成果が「死蔵」されてしまる理由もそこにある。

 「変わり続ける力」と「守り続ける力」を両方合わせ持つ柔軟性がほしい。

 
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「一人も見捨てない」という本物の使命感を身にまとうまでに経験すべきこと

 タイトルは,こういう風に言い方を換えてもいいかもしれません。

 「一人も見捨てない」という本物の使命感を身にまとうことができるようになるには,どのような経験を積まなければならないか?

 もし,中途半端な覚悟で中途半端な教育を行った場合,子どもの身に降りかかる不幸はどれほど深刻なものになるのか?

 子どもたちには,「口だけの人間」かそうでないかを,瞬間的に見抜く能力が備わっています。

 大人にはわからない,子どもならではの能力かもしれません。

 いきなり目の前の大人が,「一人も見捨てない」という原則を全員が守ること,と宣言した瞬間に,子どもたちの目は「怪しい人」を見る目に変わるかもしれません。

 そもそも,自分も含め,「できないままにしておかない」という圧力を教師が加えてくることを,子どもたちは嫌がります。

 「全員ができてしまう課題」で全員が満足できるのは,小学校低学年くらいまででしょう。

 「一人も見捨てない」ことを子どもに強制する「教育方法」「教育理念」が登場したのはなぜでしょうか。

 
 「一人も見捨てない」ことを強く心に誓って,教育実践を行っている教師も多いはずですが,

 なぜそういう教師たちが,「お前の授業では,子どもは見捨てられた状態になっている」と言われなければならないのか。

 「一人も見捨てない」という気持ちがどれだけ高まるか,教師としての使命感がどれだけ質的に向上できるかは,それぞれの教師の実践,行動,経験次第です。

 一番わかりやすい「経験」は,「失敗」です。

 「無力感」「自己肯定感の喪失」「人間不信」・・・こうしたところからスタートできれば,「一人も見捨てない」という強い信念をもてるようになるかもしれません。

 もう少し付け加えるとしたら,どういう教師に教育を受けてきたかが,どういう教師になれるかを大きく左右することもあります。

 理屈っぽい教師に育てられた人の多くは,きっと自分も理屈っぽくなっている面があるはずです。

 目の前にいる人に「圧力」を感じさせる教師に出会った人のうち,その「圧力」に抵抗感がなかった人は,きっと子どもに「圧力」をかけて思い通りに動かそうとする教師になるでしょう。

 「こんな簡単な方法で,一人も見捨てないという教育をしたことになるよ」・・・・言葉だけに乗っかって,子どもを「見捨てていないつもり」になることだけはやめましょう。


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自分にとって都合のよい情報だけを提供する人たち

 人は,自分が見たいと思うだけを見ようとする傾向がある。

 人は,自分が見たいと思わないものを,見ようとしない傾向がある。

 やってはいけないことは,これを人に強いることである。

 「こうすれば,うまくいきますよ」という宣伝をしたい人は,

 「うまくいく理由」「うまくいった事例」「うまくいったように見えるデータ」ばかりを集めて宣伝してくる。

 「成功」例にむらがって同じことをしようとする人たちが大失敗を犯す原因がここにある。

 新しいことにチャレンジして成功する人と失敗する人の違いはここにあると考えられる。

 教育の世界では,そもそも簡単に「成功」は得られないし,

 「成功」したように見える「学校での今」が,子どもの将来にとって本当に役立っていくとは限らない。

 「未来の成功保証」など,だれにもできない。

 一人一人の子どもにしっかりと向き合って,現在の条件の範囲で,教師はできる限りのことをするのみである。

 「一人で全員を見ること,全部をすることをするのは無理だ」というのは当たり前である。

 しかし,100%が無理だから,0%でいいという,ONかOFFかしかない発想の人に,教師はつとまらない。

 ある子どもへの教師の影響度が80で,別の子どもは20かもしれない。

 影響を受けやすい子ども,そうでない子ども,

 影響を受けたがる子ども,そうでない子ども,さまざまである。

 子どもたちは同級生たちからも,さまざまな影響を受けて生きている。

 しかし,高校より中学校,中学校より小学校の方が,

 教師の影響力は大きくなる。教科担任制ではない小学校について理由を説明する必要はないだろう。

 小学校段階で,大人に対する信頼感をもてずに育った子どもがどれほどの不幸を背負うことになるのか,想像できる人はいるだろうか。

 失敗のリスクが非常に大きい教育の「理論」なり「方法」の実践が,教育現場にもたらす影響が次第に大きくなっていくことが懸念される。

 資質・能力の三本の柱のどれが欠けても人間は自力で立てない。

 「科学技術がどれかを補う」という幻想を,人間の資質・能力の世界に容易にあてはめようとするのは要注意人物だ。


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望ましくない調査結果は公表されない

 調査というのは,第三者機関が実施してこそ意味がある。

 お金をもらって仕事をする人たちが「第三者機関」である場合は,お金の出所がどこかという点が,重要である。

 教育に関しては,ぜひとも文科省以外の機関が予算をとって・・・・たとえば財務省本体が予算を割いて・・・・調査を実施するべきである。

 次期学習指導要領では,いわゆるアクティブ・ラーニングの実施が重視されるのだろうが,

 アクティブ・ラーニングをやっていません,という学校が,

 たくさんやりました,という学校よりも,学力を高めたという調査結果が得られることで,何を変えることができるだろう。

 35人以上いるクラスの方が,10人程度しかいないクラスよりも学力が向上しやすい,という調査結果が得られることで,何を変えることができるだろうか。

 「学習方法を変えない方が望ましい」という調査結果を私はあまり見たことがない。

 「学習方法を変えた方がよい」という意見に説得力を与える調査結果は見たことがあるが,

 「学習方法を変えた結果,本当に学力が向上した」という証拠は本来示しにくいものである。

 ただ担任が交代しただけで劇的に学力が向上してしまう場合も(その逆も)ある。

 制度をいじることで,学力を高めることは困難である。

 せめて,「こうしたら継続的に学力が向上した」という学校から意見を集約して,それを広めればいいのではないか,とだれでも考えつくことだろうが,

 「学力向上モデル校」の学力が継続的に向上できるわけではない。

 教員が異動するだけで,がらっと変わってしまうことはいくらでもある。

 要は,制度をいじったくらいで学力が向上するのなら,どこかのだれかが勝手にやっている,という話。

 公立学校の,特に高校の教員の多くは,私立学校との格差が拡大することを恐れているだろう。

 センター試験のかわりのテストが変わっても,私立大学の入試が変わらなければ,今のままの方が得だから。

 私立学校としての脅威とは,補助金カットをちらつかせて,文科省が教育内容に介入してくる恐れがあるということ。

 私立学校に子どもを通わせる,一定水準以下の年収の家庭にお金をばらまくという国の政策は,

 私立学校にとってはおいしいようで,実は生命維持装置の電源を握られる恐れがあることを忘れてはならない。

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近い将来,日本の教科書を翻訳して(昔の)日本風に教えている海外の教育を日本がマネする日が来る

 日本が海外の教育のマネをして,「改革だ」と騒いでいることを,いつか寂しくふり返る日が来るのだろうか。

 グローバル化など変化する社会に対応できる子どもを育てるために,

 海外の教育のマネをする日本。

 日本のかつての教育が,最大の効果を発揮するすることを,海外の学校が証明しようとしている現状を知っている人はどのくらいいるだろうか。

 海外のマネが大好きな日本人が,将来,かつての日本の教育のマネを始めたとき,

 本当の学力向上が達成できるようになるなどという話は,ただの幻想であってほしい。


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「ゆとり教育」と「詰め込み教育」のいいところではなく問題点だけが際立ってくる次期学習指導要領

 学習指導要領を10年くらいの間隔で改訂するときに,「なぜ改訂するのか」と問われたら,「そのときまでの課題を克服するためだ」としか答えようがないだろう。

 ただの「ノリ」「勢い」「ムード」で「次期学習指導要領」の改訂の柱が決まることはない・・・・はずである。

 しかし,「改訂の柱」に据えようとしているのは,ごくわずかな期間の流行が背景になっている例もある。

 現行の学習指導要領の「改訂の柱」とは,「言語活動の充実」だった。

 今,教育現場で「言語活動を充実させましょう」などと言っている人はほとんどいないだろう。

 「言語活動」などといった「当たり前すぎる言葉」は,「死語」に近づいている。


 「言語活動の充実」をさせた結果,「思考力・判断力・表現力」は向上したのか?

 答えはNOである。そう簡単に「思考力・判断力・表現力」は向上しない。

 私の娘の小学校は,「基礎・基本の徹底」を図るためか,毎日かなりの量の宿題が出される。

 これをやったところで,「思考力・判断力・表現力」はそう簡単に向上しない。

 というよりも,時間だけかけて忍耐力があればできてしまうような大量の課題のために,

 じっくりと考えて深く調べたりする時間がとれずに困っている。

 公立の小中学校では,今でもそういうレベルなのだ。

 次期学習指導要領が実施されるときには小学校は卒業しているが,

 私が危惧しているのは,本来,学校で学ぶべき基礎・基本を家庭に押しつけ,

 学校では教師の手のかからない「話し合い」だの「教え合い」だの「発表会」などで時間だけが費やされていくことである。


 「学ぶ意欲」を子どもに持たせることは大切であるが,簡単にできることではない。


 大人だったら,自分の会社の社員たちが「働く意欲」をすぐに高められる方法を考えてほしい。

 それと同じことが学校でもできるだろうか?


 だれもが簡単に意欲を高められるような内容は,私の想像では「長続きしないもの」である。

 「熱しやすく冷めやすい」という言葉は,だれかの教育方法にすぐに飛びつき,やがてやめていく,そういう教師たちにはぴったりの言葉だろう。

 子どもたちには,「そう簡単に高められない」が,一度火がつくと,なかなか消えない,そういう「持続力」のある意欲をもたせるような授業を教師が実践しなければならないのである。

 「アクティブ・ラーニング」とは,「教師の授業づくりのための学び」という大方針なのであれば,支持したい言葉だが,ただの「協働的」「対話的」な学びで子どもの「思考力・判断力・表現力」がつくと思ったら大間違いである。

 少ない時間数でも,学び方が学べるような教育を受けてきたはずの「ゆとり世代」に欠けていたものは何か?

 多くの時間をさき,たくさんの内容にふれる機会を与えられた「詰め込み世代」に欠けていたものは何か?

 
 前者も後者も,実は「最も強い」はずの部分が「実は全く強くなっていなかった」ことが弱点だったのである。

 次期学習指導要領では,「実はどうでもよかった部分」を「どうにかしようとして,結局何も得られずに終わる」という最悪のパターンに陥らないようにしたい。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より