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カテゴリー「内田樹」の43件の記事

教員採用試験で必ず問われる中学校社会・高等学校地歴・公民の問題

 平成28年度に入ると,3度目の出題になるかもしれません。

 平成26年1月に,中学校学習指導要領解説と高等学校学習指導要領解説の一部改訂についての通知文が文科省から出されました。

 目的は,以下の通りです。

>我が国の領土に関する教育や自然災害における関係機関の役割等に関する教育の一層の充実を図るため

 改訂の内容は以下の2つで,対象となるのは中学校社会と高等学校地理歴史・公民です。

>(1) 領土に関する教育の充実について

>(2) 自然災害における関係機関の役割等に関する教育の充実について

 中学校社会の地理的分野では,

>竹島について,我が国の固有の領土であることや韓国によって不法に占拠されていること,韓国に対して累次にわたり抗議を行っていること等を扱うことを明記

>尖閣諸島については,我が国の固有の領土であり,また現に我が国がこれを有効に支配しており,解決すべき領有権の問題は存在していないこと等を理解させることを明記

 中学校社会の歴史的分野では,

>明治期に我が国が国際法上正当な根拠に基づき竹島,尖閣諸島を正式に領土に編入した経緯に触れることを明記

 中学校社会の公民的分野では,

>北方領土や竹島に関し未解決の問題が残されていることや,現状に至る経緯,我が国が正当に主張している立場,我が国が平和的な手段による解決に向けて努力していることを理解させることを明記

>尖閣諸島については,現状に至る経緯,我が国の正当な立場,解決すべき領有権の問題は存在していないことを理解させることを明記

 国家の主張を「理解させるべき教育内容として具体的に指示」した事例は,かつてあったでしょうか。

 教師の立場は,あくまでも「国際社会に生きる平和で民主的な国家・社会の形成者を育成すること」であり,

 「日本への国土愛が強すぎて,平和的でなく,民主的でもない国家や社会をめざす人」にすることを避けることです。

 ですから社会科の教育目標には,「諸資料に基づいて多面的・多角的に考察」することの大切さが示されているわけです。

 授業では,北方領土問題に対するロシアの主張,竹島に対する韓国の主張,尖閣諸島に対する中国の主張をふまえた上で,日本政府の見解の根拠が理解できるようにする教材なり授業展開なりが求められます。

 平成28年度,つまりこの春に中学校に新入学する生徒は,新しい教科書を手にします。

 高校生は平成29年度になります。

 新しい教科書では,領土に関する記述が増しているはずですが,教師になるべき人が領土に関する知識を欠いていてはまずいですね。

 ですから私が社会科や地理歴史・公民科の面接官なら,必ず聞いてみることにすると思います。

 尖閣諸島をめぐる中国の動きと日本政府の見解について,簡単に説明してみてください。このことを授業で扱うときに,あなたならどのような教材を使いたいですか?


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内田樹が「いじめ」の先に見ているもの

 AERAに掲載された6年半分の内田樹のコラムを

 まとめた本が出版されている。

 グローバリストへの痛烈な批判は,今読んでも

 新鮮である。ただ,世の中はほとんど変化していない。

 マスメディアの宿命に対するコメントも辛辣である。

>「広い射程」でとらえると,「新しい」と見える出来事の多くは「過去の亡霊」「借り物の言葉」「古い衣装」の再使用であることが知れるからである。

 マルクスの引用らしいが。

 さて,ここでは読書編で紹介した「いじめ」に関する内容を

 転載しておきたい。

 「いじめ」は学校だけで起こる特殊な問題行動

 ではないことは,多くの人が知っているはずである。

********************

 内田樹による「いじめ」の定義は広いものです。

 マスコミによる「学校たたき」も,「いじめ」の一種となります。

>「いじめ」は精神的に未熟な人に固有の現象である。

 (『内田樹の大市民講座』朝日新聞出版より)

 それはその通りかもしれませんが,精神的に未熟とは

言えない人の中にも,「それらしい立場」になってしまった

そのときに,「成熟」ではなく「未熟」に逆戻りしてしまう

傾向があることは多くの方がご存じでしょう。

>反論も反撃もすることのできない人間を,猫がネズミをいたぶるように,じりじり追い詰めることから嗜虐的な快感を引き出している人間の顔を私たちはよく見知っている。それは「級友をいじめている子供」の顔である。私自身は「管理責任はどうなっているんだ」と大学に怒鳴り込んできた「クレーマー親」たちの表情のうちに繰り返し同じものを見た。

 私の場合は,ごく一部ですが,教育委員会の事務局の

「偉い人たち」からこの臭いを嗅いだことがありました。

 「それらしい立場」の人たちには,「組織の存続のため」という

大きな使命があったからかもしれないのですが,その「組織」

のメンバーに自分が入っているか,そうでないかを考えれば,

 「いじめ」とは「仲間はずし」という明確な目的をもった行動

であると定義することもできそうです。

 共同体の内部でお互いに「仲間はずし」をし合っているような

人間が,最後にどのような立場になっていくのか。

 共同体はどうなっていくのか。

 「いじめ」はいじめられた個人の救済が最優先となってしまう

ので,その先に見るべきものが何かを忘れないようにしたいものです。

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内田樹による「東大の評価」~それはひがみか?強力な自虐か?

 大学教育は・・・特に独立行政法人となった,国立大学は・・・・

 今,「文部科学省附属大学」になろうとしています。

 その「最優等生」の定義もさまざまあるでしょうが,

 一般的な国民が思い浮かべられるのは「東京大学」でしょう。

 その東大に関する内田樹風の嫌味が,以下のようなものです。

>たしかに東大は「他の誰かがルールを決めてしまったゲーム

 に後から参加して,そこで高いスコアを取る」ための知的技術

 の教育機関としてはすぐれた戦績を残してきた。けれども

 「誰もそこでゲームができると思っていなかったフィールド

 でゲームを始める」タイプの知性を生み出すことについては

 ほとんど見るべき成果を残していない。

 (『内田樹の市民大学講座』朝日新聞出版より)

 「前者すらできない大学はどうなるのか」というより,

 「後者ができるからどうなるか」はだれにもわからない

 わけですが,もともと引用した箇所は,「世界標準」を追い

 求めようとする人間を批判しているコラムの一部ですから,

 本当に言いたいことは別にあると考える必要はあります。

 秋入学という「世界標準」を考え出した東大に,他大学が

 「迷惑な話だ」と本音で思っていることは,別に大学関係者

 ではなくてもわかります。

 グローバル化に「順応しよう」という意識ではなく,

 グローバル化の「新しい波をつくろう」という意識をもって

 ほしいのは,ほかでもない,大学という「知の頂点」にある

 教育・研究機関です。

 できるだけはやく,「省の附属物」の地位から抜け出て

 ほしいと思います。

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内田樹の『憂国論』と教育 ~その1 アンサング・ヒーロー~

 ようやく普通の本を手に取って読める時間的な余裕ができました。何か月ぶりかのことです。

 『街場の憂国論』(内田樹著,晶文社)のあとがきに,内田樹が生涯かかえていた「危機感」のことが簡単に説明されています。

 日本の行く末に関する「危機感」と,私が抱いている一つの学校の明日,来週,来月,来年への「危機感」とはスケールが違いすぎるかもしれませんが,「警句」として頂戴できる言葉が見つかり次第,ここに記録しておこう,というのがこのブログ記事(シリーズ)の趣旨です。本の帯に「天下の暴論」とある通り,鵜呑みにすることができない内容については,もちろん批判を加えながら,まとめていきたいと思います。

******************

 原発事故を例に,「事故が起こったら大変なことになる」のは分かっていても,事故が起こらない状態がずーっと続くと,「たぶん事故は起こらない」というようなムードが高まってくる。

 私は通勤途中,ある人物の警護にあたっているSPと毎日すれ違っているのですが,「問題なんて,起こるわけないだろう」と本気で思っています。

 しかし,「問題は起こらない」などと言うことはできない。

 「問題は起こらない」でほしいという強い願望によって,

 「問題を起こさない」ことができる,と考えている人もいるでしょうが,自然災害を例にとってもわかるように,「願望」でそれを防ぐことはできません。

 こんな当たり前のことに神経が鈍くなってしまう理由が,「何も起こらない状態が続くこと」にある。
 
 世の中には,「ほんのわずかな気づかいで防ぐことができたはず」の事故がたくさん起こっています。

******************
 
 学校の教育現場でも,似たような状況がある。

 「今の状態のこの学校が,荒れるはずない」

 「毎日来ているあの生徒が,急に不登校になるはずがない」

 「私たちの学校に,不審者が侵入して生徒に危害を加えることなんてない」

 ・・・みんな「願望」にすぎません。

 問題が実際に発生する学校というのは,それが「願望」だけで終わってしまって,

 「問題を起こさないための手立て」を講じていないケースが多い。

 もちろん,どんな手立てを講じたとしても,予想できない事態が起こることによって,問題の発生を防げないこともあります。しかし,あらかじめ打っていた手によって,被害が最小限に抑えられたり(減災),事後の対応がスムーズで,問題の解決に時間がかからない,というメリットは当然あるのです。

 私がはっとさせられた,あとがきの文章を引用します。

******************

 陰徳を積むよりは,実際に危機が起きてから,華やかな働きをお見せして,それに相応しい報奨を受け取る方が「得だ」というふうに考える人,リスクを未然に防いで「歌われずに」終わるより,リスクが現実化したあとに「歌われる」チャンスを手に入れる方がクレバーだと考える人,そういう人が能力の高い人の中に増えてきている。


 堤防の「蟻の穴」に誰も小石を詰めようとしない社会,それを「リスク社会」と呼ぶのだろうと思います。僕たちが直面しているのは,そういうタイプの危機です。

******************

 学校現場にも,そういう教師はいないでしょうか。

 明らかに問題が発生しそうなクラスがある。子どもがいる。

 それを何も指摘しない。問題が現実化していないのに,それを担任の教師に伝えるのは

 「失礼だから」。

 危機を伝えて,問題が発生しなかったときに,

 「だから言ったでしょ」なんて非難されることが嫌だから。

 でも,実際に問題は起こる。

 問題になるのがわかっていた人のうち,指導力のある人は,

 それなりに問題を収束させることができる。

 そして,そのときに,初めて評価される。

 「アンサング・ヒーロー(歌われざる英雄)」とは,現実の問題を解決した人ではなく,

 問題を起こさないように陰の働きをしていた人のことを言うそうですが,

 たしかに,業績として評価しやすいのは,現実の問題が起こった後に,それを解決した人です。

 事前に問題の発生を予知し,その発生を防いだ人の働きは「見えにくい」ために,なかなか評価されない。

 評価されないことはしない。

 そういう人間が増えていくことへの危惧を内田樹は抱いている,ということです。

 特に国を動かす力のある人たちの基本スタンスがこういう「自己の利益を最大限にする」方法に偏っていったら,防げる問題が防げなくなる可能性が高くなるのですから,本当に問題だと思います。

 それをそのまま教育現場にもあてはめることが可能かというと,そうではない,というのが私の考えです。

 教師の場合,たとえ人事考課があったとしても,たとえばAが3分の1,Bが3分の1,Cが3分の1だったら大騒ぎするかもしれませんが,ほとんどの人間がBである場合は,「業績評価」の心配はほとんどしません。

 だから,わざわざ「問題発生後の高パフォーマンス」をねらって,その前には何もしない,ということは教育現場では起こりません。

 そもそも壊れた機械を修理するようなかたちで「問題発生後の高パフォーマンス」が発揮できる教師などほとんどいません。

 私の一番の心配は,

 「危機感すら抱けない」教師たちの存在です。

 当たり前のことですが,教師にも

 「アンサング・ヒーロー」はたくさんいます。

 たった一言だけの言葉かけや,教師のわずかなしぐさ(うなずきなど)が,生徒を救うこともある。

 いい学校というのは,「顕彰されない英雄」だらけの学校なのです。

 そういう行動規範が学校現場で教師から生徒へと受け継がれること,それが学校に,教師に求められている使命であると感じられました。

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内田樹とDさんのダメな共通点

 二人がそっくりなところがある。

 たとえば,他の人間がどう考えているかが見えていないところ。

 見えていない,というより,見る気がないという方がしっくりくる。

 内田樹はそういう点で開き直っていることを自分で認めているが,

 もう一人は自分がどうなっているか,自分で理解できない。そこは相違点である。

 共通点の2つ目は,自分がその立場にはない人間のことを批判していることである。

 内田樹は「制度の問題」だとしているが,自分にそれを変える力がないのはわかっている。

 もう一人は,もとはその立場にいたことを語っているが,その語っている内容から,

 「制度の問題」以前のところに問題があることをばらしている。そこは相違点である。

 共通点の3つ目は,自分がどうにかしようと考えていないことである。

 一人は,どうにかしようとしたつもりなのはわかっているが,それが逆効果にすぎなかった。

 それなのに,自分がダメなことがわかっていないから,無力感を覚えていることはない。

 両者ともに,私たち現場の教師から見れば,ただの無責任人間にしか見えない。

 共通点の4つ目は,「金」の話(と結びつけること)が好きなことである。

 一人は,書くことで「金」になることはないが,

 内田樹は,自分が批判している教育の成果が自分そのものであることを「金」の話を通して語ってくれている。

 5つ目は,これが最大にして最悪の共通点なのだが,

 「ダメな学校」「ダメな教師」は少しだけ知っているようだが,

 現実の「まもとな学校」「まともな教師」の姿が思い浮かべられないことである。

 内田樹が「今の教育でこんな人間は生まれようがない」なんて言っている人間が,たくさん生まれている。

 内田樹の場合は,自分自身もそうだったのに,

 教師を「まともな職業」とそもそもみなしていないので,

 「学校教育の終わり」のような記事が書ける。

 教育に関する内田樹の文章は,観念先行型でリアリティに欠ける。

 それは自分自身がよくわかっているが,

 もう一人の場合は,それがわかっていない。

 両者ともに,とても気の毒に思う。

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内田樹流の体罰問題へのアプローチ

 内田樹は,橋下市長を批判することに強い使命感を抱いているようで,

 体罰問題も,それに対する橋下市長の動きを批判するためのネタとして使っているわけである。

 
>生徒の自殺は,政治的水準では,教育現場への強権的干渉を正当化する「千載一遇の好機」として功利的に活用されようとしている。

 としているが,こういう

>「ひとの痛み弱みを功利的に利用して成果を上げる」技術の有効性を信じているという点

 では,内田樹も同じことである。


 橋下市長が本心で考えていることは,おそらく内田樹もわかっていると思われる。

 しかし,それが「わからないふり」をして,いかに橋下市長がやろうとしていることが「おかしいことか」を延々と書いている。

 体罰問題を,橋下批判という「使命」を果たすために「功利的に利用」しているわけである。

 大事なのは,次のように述べているとおり,体罰が有効であるという考え方をどう「やっつけるか」だ。

>批評的に対象化すべきなのは「処罰の恐怖のもとで人間はその限界を超えて、オーバーアチーブを達成する」という人間観そのものだと私は思う。

 これについて,どうお考えなのか,発表されるのを楽しみにしたいところであるが,

 「体罰」よりももっと「怖い処罰」も学校にはあるわけで,それが子どもに与える影響がどうなのかも,私たち現場の教師は検証しなければならない。

 「体罰」だけが,問題ではないことに,もう少し早く気づくべきだった。

 教師が生徒を「脅す技術」の解明を急いでほしい。


 
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内田樹の『街場の文体論』と教師の言葉

 この本で紹介されているような,「どこに行くかわからない」授業を,本当は学校の教師もしたいのだと思います。

 したくても,他に教えなければならないことがあるから,できない教師。

 したくても,能力的に無理なので,できない教師。

 もちろん,全くの指導案どおりに授業をしなければ気が済まない教師も,いるでしょう。

 冗談まで毎年同じ,という人もいますね。

 自分がどういう教師にあてはまるか,知りたい方は,ご自分の能力のことは完全に脇に置いておいて,この内田樹の本を通読されることをおすすめします。

 たとえ,「教えなければならないこと」を「教える」のだとしても,そこに「何がこめられることが大事か」という,ごくごく当たり前のことが,あらためて自覚できるようになると思います。

 「すべての子どもに伝わる言葉」とは何か。

 あなたなら,どんな答えを想像しますか。

 私たち教師は,どのような「鉱脈」をもっているのでしょう。

 目に見えるものを追い求めすぎて,何も見えないままで終わる教師にはなりたくないものです。

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わかりやすい物語が日本を滅ぼす(上)

 少し長くなりますが,『どんどん沈む日本をそれでも愛せますか?』(内田樹・高橋源一郎/ロッキング・オン)の「まえがき」から,SIGHT編集長でこの本のインタヴュアーの渋谷陽一さんの言葉を引用させていただきます。

*****************

 変えようとは思うのだが,どう変えたらよいかわからない。その方法も,ヴィジョンも見えない。それが今,多くの人の共有する閉塞感ではないだろうか。だから,それに対応する「こうしたらいい」というわかりやすい物語は,政治の現場やメディアなどあちこちで流通し,人気を集めたり,集めなかったりしている。そして,恐ろしいことに,人気を集めている物語のほとんどが,新しい右肩上がりの幻想を語っているものである。(中略)

 前述のように,今,人気を集める多くの物語が,喉越しのよさと口当たりのよさを売り物にしているのに対し,この内田・高橋両氏の語る思想は,一見,かなり商品性が低いように見える。しかし,僕は音楽評論家として仕事をしてきた人間だが,ポップ・ミュージックに付き合って50年,最終的に勝つのは,苦く喉越しの悪いリアルだということを知っている。

*****************

 勝ち負けを考えてブログの記事を書いているわけではありませんが,

 「苦く喉越しの悪いリアル」から目をそらすのは,一日でも,一秒でも早い方がよいでしょう。

 今までは,教師たちの「喉越しの悪い苦い現実」を見て見ぬふりをしてきた子どもたち。親たち。そして同僚の教師たち。教育委員会の人間たち。

 「悪さの宣伝」になりそうなことを,徹底的に避けてきた,管理職たち。

 「危機への対応」の観念を全く持っていない,管理職たち。

 「問題を起こしてくれた方が,やめさせるきっかけになるからいい」と思って,放置している管理職たち。

 若い教師の活躍の芽をつむ元管理職たち。

 何も,「変わる必要はないのです。

 「見なかったもの」を「見る」ようにすれば,それでよいのです。

 いじめの件で,教育界の「隠蔽体質」がまた明らかになりました。

 「見ようとしない」ことは,教育の放棄にあたります。

 しかし,「問題を見ようとしない体質」

 「自分たちの過ちを認めようとしない体質」の純度がほとんど100%になっている人を,

 どう変えるか・・・・・これは本当に難しい課題です。


 最初に挙げた本の内容にはいっさいふれませんが,内田樹と高橋源一郎がどこかdolceさんという人と似ているところがある・・・・・ということに私は気づかされました・・・・ある人物評を述べている,ごく一部のところでですが・・・・とだけ書かせていただきます。


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1つの質問に,1分以上話し続けたら,不採用ですよ

 「匿名」様が学校の教員になられるのであれば,コメントを読ませていただく限り,特別支援学校が一番向いているかもしれませんね。

 けっこう戦えるときは戦えるし,協力し合うときは,協力し合う。

 そういう待ったなしのぶつかり合いの中で,人間が本来もっているエネルギーを引き出すことが可能になります。

 何より,組合人間もそうでない人間も,子どもたちからものすごく多くのことを「共に」学び取ることができます。

 子どもからエネルギーをもらって育つのが教師という職業なのですね。


 しかし,いただいたコメントから,トンデモ教師や組合への嫌悪感は多大なものをお持ちのよう(それは,私と全く同じ境遇だということ)ですが,そういう人と実際には一緒に仕事をしなければいけないとき,毎日,面と向かって

 お前の授業はでたらめだ!

 なんて言っていたら仕事にならないわけです。

 
 いろいろな意味で,一緒に「戦う」

 その中で,自分にも,相手にも,「変化」が生まれる

 こういうやり方でしか,「本当の教育」は追求できません。

 【白か黒か、全か無かという思考パターンに引きずり込まれていると思います】

 こういうご指摘を,私は「ミラー現象」と呼んでいます。

 「頑強に反抗する教師にたのもしさを感じる」という私の言葉の裏には,「それだけのエネルギーをもっている教師がかけている」ことへの嘆きがあるのです。ですから,引用されるときは,一部を抜き出すのはご法度です。

 このうしろに,何と書いてありましたか。大事なことは,そっちの方なのですね。

**********************

>相変わらず,頑強に反抗する教師にも,どこかしら,たのもしさを感じます。
これは歪んでいると思いますよ。頼もしいのではなく単に決まりやルールを守らないことで自己主張をしているに過ぎないと、冷めた目で子供たちは見ていると思います。
そういう教師に限って、授業がデタラメ、猥褻行為やりたい放題という実例ともいえる教師を自分が中学生の時実感しました。

いつの間にか白か黒か、全か無かという思考パターンに引きずり込まれていると思いますが、いかがでしょうか、一度冷静に見直してみる必要があると思います。

インパクトのある先生は必要ないと思います。

***********************

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内田樹が勧めている生存戦略

 私(教師)からの権力的,抑圧的な攻撃からの被害を最小化するためには,「熱心に授業を聞いている恭順な学生」のふりをすることこそ,諸君にとってベストの生存戦略なのである。

 権力を持つ人間の前には決して「素顔」をさらさない。これは弱い立場にある人間の自己防衛の基本である。

 だれの言葉ですか?

 と思われるかも知れませんが,これは内田樹『期間限定の思想』角川文庫の「なぜ教室で私語をしてはいけないのか」の核心的部分です。

 以下の「原則」にあてはまるのが,大学生だけとは限らないことは,他の文章などから類推することができます。

 教室における教師と学生の関係は,非対称的な関係である。
 教師が一方的にしゃべり,学生は黙ってその話を聞く,というのが基本の構図である。

 
 小学校の教師なら,そんなことは不可能だ,というでしょう。不可能だ,というより,不健全だと。

 ただ,こういう教育観を持っている内田樹を好むタイプの教師は少なくないと思われます。その理由も,だいたい想像がつきます。

 私の今日の話は,内田樹の言っていることが正しいとか誤っているとかいうことではなくて,小学校の児童は,みんなこれを無意識に実践しているのだろう,ということです。

 「熱心に授業に取り組むふりをする」こと。これが,児童たちにとって,最善の生存戦略です。

 「いい評価ねらい」の児童も,同じことをします。

 私が小学校の授業を参観をするとき,注意深く見ていたのは,授業の始まる前と後の数分間の児童の変化です。

 「きりかえ」を子どもたちはどのようにしているのかを観察していました。

 あるクラスでは,役者が「役に入る」かのような変化を見せてくれました。

 こうやって,「営業スマイル」は訓練されていくのか,と実感したのです。

 もちろん,中には「熱心に授業に取り組むふり」ができない子どももいます。

 しかし,その子は,「自分らしく」生きているのです。

 児童の「自分らしさ」はいつ,どのような場で発揮されるのか,マジメに研究したことがある人はいるかどうか分かりませんが,私の場合は「元児童」にいつでも聞けるので,「本音」が非常に言いにくかった「小学校時代」のつらさに共感することができました。

 確かに,子どもが言いたいことをみんな言うようになったら,小学校の教師は厳しいでしょうね。それを分かっている子どもは,言いたいことを言わずにがまんする。

 もっと「やさしい」児童は,「言いたいことがあると思わせない」ように努力する。

 たった一人の権力者にほとんどすべての時間が握られている小学校というところは,人間にとって大切な何かを失わせていく場所のような気がしてぞっとしました。
 
 こういうのは,「妄想」であってほしいですね。

 でも,小学校時代に「学校を休めなかった」子どもが,中学校に入ると「休めるようになる」理由がわかったような気になる方は少なくないのではないでしょうか。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より