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カテゴリー「学校評価」の532件の記事

教師の成長力を奪う力

 教育の世界では昔から,「大学における教員養成の限界」が問題になっている。

 「教育学部の学生の資質能力に課題がある」のは企業だけでなく教育現場も同じことで,

 教育実習に挨拶に来るとき,「教育学部でごめんなさい」とお詫びから入ってくるのが通例になっていることが印象的である。

 私は「教育学部」というところで学生の能力が潰されているのではないかと危惧している教員の1人だが,その根の深さは昔からなので,すぐに改善することは難しいだろう。人間を育てるのは人間なのである。

 
 少子化による学校の小規模化に伴って,適正規模に満たない学校が増え,

 「職場における教員の能力開発の限界」も問題になっており,それだけ余計に

 「現場で使えない若い教師が多くなっている」ことが学校の重荷になっている。


 こういう学校の窮状につけ込んで,教師の成長力を奪う実践が広がっていくことへの懸念もある。

 私は組合には入らなかったが,仮に入ったとしても,組合の体質には絶対に染まらなかっただろうし,

 すぐに抜けていたと思われる。

 今,学校を侵食しているのは,新しいタイプの組合体質を浸透させようとする「革命家」たちである。

 間違いなく,教師の成長力は奪われる。

 教員研修はお遊戯会レベルとなり,「仲良しこよし」が増えるだけだが,

 表向きは,「同僚性が高まった」などと宣伝される。

 浸食率は0.1%にも満たないレベルだろうが,1000校に1校でも子どもたちが犠牲になるのは心が痛む。 

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成長をとめないために

 先日,大学の学生さんたちに私の授業を参観していただいた。

 私が免許講習講習などでお世話になった先生のご依頼を受けて,今年度2度目の参観だった。

 「よい授業とは何か」を考えるのがテーマだったそうで,そんな依頼をよく受けたなと呆れられるかもしれないが,文科省とくだらない本を出している出版社以外からのお願いには全力で応えたいと思っている。今年は経済産業省と厚生労働省の方とのつながりもできて,「違法天下り大量発生官庁」が存在しなくても,教育が成立することが証明できるように頑張りたい。

 授業50分,質疑応答40分だけのかかわりであったが,自分にとって,子どもにとって,学生さんたちにとっての課題を改めて考えることができるので,とても充実した時間になった。以下は,先生からいただいたお言葉への私の返信の内容である。都合により,一部改変してある。

******************

いつも過分なお褒めの言葉をいただきまして,恐縮至極に存じます。

○○大学のプロジェクトでも「○○の教員の卓越した指導力を生かした・・・」
などという研究がありましたが,自分たちのことを「卓越した」などと
思い上がるのもいい加減にしろと感じますし,
「よい授業」を自分の実践を通して語ろうとすることも,
教育者の態度としていかがなものかと思ったりもしています。

私が長年問題に思っていることは,授業をしていて,いつも自分の感覚で
「あっという間に50分が過ぎてしまう」ということです。
生徒とのやりとりに集中しているからそうなるのかもしれませんが,
生徒自身が自分の時間を授業内でしっかり使うことができていない証拠に
なっているのが現状です。
 
「よい授業」として必要な要素を自分なりに整理し,その優先順位を考えて,
その順位に沿った発問,作業時間の確保も含めた時間配分,まとめなどが
できているかを検証していく必要が私自身にもかなりあるかと思います。

40人それぞれが伸ばすべき能力にも違いがあり,1人に対する声かけや
突発的な対話に時間が割かれる傾向が強いのも私の授業の課題に
なっています。

学生の皆さんからの質問に対しては,その学生さん独自の関心や課題意識に
沿った形でお答えする努力をしたつもりですが,お一人お一人の特性や能力に
ついての理解もほとんどない状態ですから,質問から類推するしかなく,
見当違いの方向の答えになってしまったかもしれません。もしそういう方が
いらっしゃいましたら,再度返答の機会を頂戴できればありがたいです。
生徒理解が授業の基本になっていることと同じですね。
 
エネルギーミックスと同じで,「最適解」は必ず何かの犠牲を伴っています。
最も優れた発電方法があれば,100%それにすればいいだけの話です。
 
授業もそれと同じで,何かを重視すれば,必ず何かが犠牲になる。
犠牲を少なくすれば,何も重視していないように見えることもあるし,
重点を絞れば犠牲が大きくなっていく。
「見方・考え方」を働かせる授業に重点をおけば,おそらく学力下位の
子どもたちは犠牲者になります。そうさせないための方法がたとえば
今回お渡ししたワークシートなのですが,まだまだ開発途上です。
 
「時間」という尺度において教育の骨格をなしている授業については,
そういう悩ましい問題があり,「よい授業」にも,「正解」は存在しない。
それでも少しでも「よりよい授業」に取り組もうとする態度を教員が
もっていれば,必ずそういう態度は子どもたちによい影響を与えていく,
と信じて研鑽を積んでいく必要がある,とまとめようとしても・・・・
今の時代,こういう言葉も「逃げ」と受け止められる可能性もあり,
教員養成は難しい時代だとつくづく感じます。

「よい授業とは何か」という種類の問いに真剣に向き合い,
考え抜こうとすればするほど,どんどん「何が正解かがわからなくなっていく」
おそれがありますが,それでもあきらめずに問い続けていける力を授業では
育てたいと考えています。

今回,しっかり自分自身の課題に向き合う機会を与えて下さった
○○先生と学生の皆さんには心から感謝しています。

******************

 わいわい子どもたちが楽しそうに学んでいるように見える「授業」がいかに子どもたちの可能性をつぶしてしまっているかについては,中学校の教育実践がないとわからないかもしれません。

 「エビデンス」を求められて,だれでもできるようなテストの点数を挙げているような人間に,教育を語る資格はないのです。

 大学の先生もおっしゃっていましたが,今回の学生さんたちは,皆さん教育実習を終えた方々だったので,私が言いたいことがとてもよく伝わっていたようでした。 

 自著の営業マンに騙されないよう,注意しましょう。

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最低限の教育の場の確保を!

 ある東京の小学校が,学級崩壊をきっかけに騒然としている。

 「保護者はだれでも教室に入ってよい」という段階から,さらに

 近隣の小学校から教員を派遣してもらって,正常化に向けた努力がなされているらしい。

 小学校は女性教員の割合が高く,産休代替の担任の先生に習う確率が高い。

 嘘みたいな本当の話で,小学校の6年間で半分以上,産休代替の担任の先生に習った子どももいる。

 東京都では,低倍率のもとの小学校教員の大量採用の衝撃が,現場を直撃しているうえに,産休代替にあてられる人も足りなくなっている。

 若い女性の担任がいなくなったと思ったら,60歳に近いおじさんがやって来たら,それだけで泣いてしまう小学生もいるだろう(決して悪い経験ではないと思うが)。

 保護者にとって,学力向上などは二の次でよい。学力向上は塾が頼りである。

 子どものクラスの生活が成立しているかどうか(この意味は,子どもが教室の中にいるだけで成立する)が心配で仕方がない。

 小学校では,病気休暇をとって学校を離れる若い教師が増えてきているようだ。

 ある校長先生から聞いた話だと,どうやら職員室が地獄になっている学校が多いらしい。

 だれが若い教師をいじめるかはご想像にお任せする。私の予想は当たっていた。

 教室に入っても地獄,職員室に戻っても地獄,家しかまともな場所がない人は,どうやって生きていったらよいのか。

 免許だけとったが採用試験に合格していない人をこき使うのもいいが,そろそろ行政が本腰を入れて対処すべき時期に来ているのではないか。

 管理職試験を受ける人がいないという問題より,まずは子どものために最低限の教育の場を確保してほしい。
 
 
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「怒鳴り殺し」の生活指導

 ある大学の教育学部の先生も,学生を怒鳴ることがある,と耳にしたが,いずれ

 「怒鳴る」=「大きな声で叱責する」ことの禁止令が出されるかもしれない。

 私は耳障りな大声で話す,ある大学のセンセイが大嫌いだが,自分は怒鳴ることがなかったかと言われると,そんなことはない。

 ただ,怒鳴る相手とタイミングを間違えることはないようにしていた。

 ある時期から,友達が怒鳴られることに耐えられないような子どもが増えてきて,使いどころに困るようになっている。

 そもそも大きな声を聞いたことがない子どもには,衝撃が強すぎるようだ。

 家でも学校でも怒鳴り声に慣れてきた身としては,まるで別世界の子どもたちに別の形で愛情を示す必要に迫られている状態である。

 強い叱責によって子どもが精神的に追い詰められてしまうことがあることは,教師ならだれでもわかっていることだろう。

 小学校の職員室で私が担任の先生に怒鳴られているときは,私の無実をだれも証明してくれず,助けてもくれなかったが,自分が中学校の教員になると,いろんな人が進んでフォロー役にまわってきてくれるものだということがよくわかった。それで調子に乗って生徒を厳しく叱ることもあった。もちろん,自分がフォロー役にまわることもある。

 福井で起こったことは,当然,他の地域でも起こりうるが,フォローがなされない,あるいは機能しない原因をはっきりさせてほしい。

 これも「学力向上圧力」が生み出した悲劇ではなかろうか。

 もともともっていなかった可能性もあるが,教師から大切なものを奪うことに関して,行政は非常に積極的である。

 中学生の悲しすぎる死を無駄にしてはならない。

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9月19日 食育の日と給食大量食べ残し問題

 毎月19日は,食育基本法に基づく食育基本計画で定められた「食育の日」である。

 報道では,ある自治体での給食の大量食べ残し問題が取り上げられているが,「給食」制度には費用の問題も含めて検討すべきことがたくさんある。

 それよりも,そもそも「食育」なるものは,道徳教育と同じように,学校だけでどうにかなるようなものではない。

 朝ご飯だけでなく,晩ご飯も満足に食べられない子どもはたくさんいる。

 休日など,日本でも外食がもっと一般化すればよいのかもしれないが,

 栄養面から考えると何とも言えない。

 「食」にかける時間を十分にとれない学校と家庭。

 働き方改革よりも,もっと早く取り組むべき課題なのかもしれない。

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9月13日 世界法の日に考える「法の支配」

 「深い学びなど必要ない」と主張している大学のセンセイに習った人たちは,教員採用試験ではちゃんと「建前」を述べて,得点を稼ぐのだろうか。それとも,大学の「学び」を生かして,試験官に喧嘩を売るのだろうか。

 教育現場で「法の支配」という言葉を使うと,すぐに「よくないこと」というイメージを連想する教師が少なくないだろう。

 社会科の公民的分野や政治経済で学んだはずの「法の支配」という概念は,

 学校現場で惰性にまかせて教師を続けていると,いつの間にか生徒たちにとっての「校則による支配」などと同じようなレベルのものに変換されてしまうに違いない。

 採用試験のときはきちんと勉強したはずだった「教育法規」だが,管理職試験を受けようとして「学び直し」をしてみると,「こんな法律もあったのか!」などと驚くこともある。

 国際社会では,「法の支配」ではなく,「国益の支配」が主流になっているような印象があるのだが,

 学校現場でも,やはり「法の支配」ではなくて,「子どもや親の利益の実現」という目的に偏ってきている気がする。

 「未履修問題」に代表される「ルールを無視した受験重視・効率重視の学習・進路指導」を是正しようとしているのが,現在の教育改革のねらいの一つである。

 しかし,「子どもや親の利益のため」という部分を票のために議員までもが実現しようとしているので,

 学校現場の感覚ではどう考えても「それはない」というタイプの政策が浮上してきている。

 借金をして将来世代に負担を押しつけながら,「今の景気が良くなりすればそれでよい」という短期的利益誘導型の政策が,ありとあらゆる分野に一律に仕掛けられてきている。

 「法の支配」が実現しているのかどうか,チェックする機能を果たすべきなのは,どこのだれだろう。

 残念ながら,それを実行する主体が自分たちの利益ばかり考えてしまうというところが,悲しいところである。

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あの子どもは自分が見捨てた? 思い上がりもいい加減にしたまえ

 学校の教員には,「友達」がいない・・・。

 どこかの学者に調査してもらいたいテーマである。

 基本的に,「一匹狼」的な生き方をしている。

 自らそれを選択している人もいるし,結果としてそうなってしまう人もいる。

 だれかに頼って生きようとしている教員は,やれ,仕事が多いとか,教材研究する時間がないとかブツブツ言っているが,実際には大事な仕事は何一つ任されず,自分勝手で見当外れの子ども理解が原因で,子どもたちともコミュニケーションがとれない。友達をつくろうにもできないタイプの人間である。

 思い込みが激しいと,「全部,俺のせいだった」と勝手に悩み,現場から逃走していく。

 「友達がつくれない」タイプの教師に,なぜ人のために尽くし続けることができる人と,尽くしきってもだめだったと勝手に判断し,辞めていく人間がいるのか。

 一人一人の子どもを信用できるかどうかの違いではないか。

 自分自身が親や教師から見捨てられた経験や実感がないくせに,教師の立場として「一人も見捨ててはならない」と誇大妄想するのは,怪しげな宗教やダメな道徳教育に嫌気がさしている人間の側からすると,胡散臭いものにしか見えないだろう。

 自分は群れていないくせに,子どもがダメなのは群れていないからだと勘違いして,

 群れていることで人はどうにか成長していくことができると誤解していることもおかしな話である。

 普通の教師から見て,「おいここ,すごい変な空気だな」と思える場があるとする。

 相手が「変な空気感」を抱いていることが読めない人間に,子どもや教師を育てることはできないだろう。

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9月2日 くつの日の靴指導

 靴の記念日は3月15日だそうだが,語呂によって今日は「靴の日」とされている。

 学校の靴と言えば,薄さに特徴のある「上履き」である。

 娘も週末に持って帰るが,たわしでこすってもなかなか汚れが落ちない。

 こんなに薄い靴では,災害のときは危険なのではないかと心配になるから,

 私の勤務校ではかかとが踏めない丈夫な靴が採用されている。

 かかとが踏めない靴なのだが,ご想像の通り,残念ながらかかとを潰してしまう生徒がいる。

 10年以上統計をとっているから,かかとを潰してしまう生徒はどういう生徒なのか,わかっている。

 よく,学校が荒れているか,落ち着いているかどうかは,下駄箱を見ればわかるという。

 ペラペラの上履きでは,かかとを踏んで歩いているかどうかわかりにくいが,不思議なもので,問題のある生徒がだれかはだいたいわかってしまう。

 廊下ですれ違うたびに注意しなければいけないから,

 靴の指導というのはとても憂鬱になる人もいるだろう。

 声をかけられた子どもは気まずそうに靴を履くのだが,声をかけられるためにかかとを踏んでいるのだとしたら,できればやめてもらいたい。

 「獲物」を見つけて喜んでいる私のような教師がいるせいか。

 9月1日=「悔いの日」に続き,9月2日=「苦痛の日」ではこの学期が先が思いやられてしまうが,子どもも教師も修行の場と思えば逆にありがたいことである。


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9月1日 避難訓練はだれのため?

 多くの学校で避難訓練が実施された日だと思われる。

 避難訓練は,「防災の日」にこだわる必要はないだろう,という意見もあるだろう。

 訓練は学校規模にもよるだろうが,集合(人員確認を含む)に5分程度,講話に5分程度で終わることができるから,いつでも実施することが可能である。

 ここで,教員の立場で忘れてはいけないことがある。

 「避難訓練」とは,だれのためなのか?

 「訓練」の対象はだれなのか?

 児童生徒をしっかり避難させることが,教員の仕事である。

 避難訓練は,教員の仕事分担や役割をはっきりと確認するという意味で,

 行政や管理職の立場からすれば,99%くらいは「教員のため」である。

 休み時間,部活動の時間中に避難訓練を行う場合もあるだろう。

 災害は授業中に起きるとは限らない。

 基本的には児童生徒の自主的な避難場所への移動を「訓練」することを「指導目標」とするのだろうが,あまりに固定的な「訓練」を繰り返すと,頭でできる正しい判断とは別の,誤った惰性の動きをしてしまう恐れもある。

 だから,教員による臨機応変の指導,誤った行動をとってしまった児童生徒の誘導など,課題はたくさんある。

 もめ事が起きるなら,避難訓練のときに起こった方がよい。

 大川小のように,実際の災害時にもめてもらっては困る。

 
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省庁の動き 「介入」とみるか「介護」とみるか

 今日,電車の中吊り広告を見ていて,ある雑誌の「経産省による企業経営への介入が進んでいる」という趣旨のタイトルが目に入ってきた。

 天下りの批判が強くなってきて,現役官僚の出向が増えてくると,

 文部科学省が大学を直接動かす,

 経済産業省が企業を直接動かす,

 といった図式が表面化しやすくなっていくのかもしれない。

 あるブログでは,省庁の壁を越えて,

 「経済産業省が学校を動かす」役割を果たそうとしていることが紹介されていた。

 政策の実行=予算の獲得が,だれの何のためか,見定める必要がある。

 教育という仕事は,利益を出すための企業活動と異なっているという点だけ,書いておきたい。

 大部分が人件費という世界では,「人がすべて」という特色がある。

 教師の多くは,仕事で楽をしたいと思っているわけではない。

 子どもに寄り添おうとすればするほど,子どもによりよい学校生活を送ってもらおうと思えば思うほど,

 子どもによりよい授業をしようと思えば思うほど,仕事はどんどん増えていく。

 仕事が増えて,成果が上がったら,給料が増える,というものではない。

 そういうものではないからこそ,堂々とした仕事ができる。

 仕事の省力化という発想自体が,そもそも学校現場に通用するかどうかはわからない。

 教育の仕事は,「できること」「やるべきこと」「やりたいこと」が山のようにある。

 事務仕事の一部の軽減に成功したら,やれていなかったそれらのことができるようになる。

 時間は同じでも,絶対量は増えていく。

 「生産性を向上させる」というねらいは達成できるかもしれない。

 他省庁の「介護」を受けて,本領を発揮しようと思ってくれる省庁があるだろうか。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より