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カテゴリー「学校評価」の500件の記事

「主幹教諭」の使い捨てが始まっている

 管理職と一般の教諭の間に,「主幹教諭」という立場がある。

 管理職のなり手がいないように,

 将来の管理職に近い立場としての「主幹教諭」のなり手もいなくなっていくだろう。

 本人の強い意思というより,管理職への「主幹教諭のなり手を増やせ」という強い要請がもとになり,管理職によって「主幹教諭」に勧められたからなった人が多いのではないか。

 なったきっかけはどうであるにせよ,「主幹教諭」に課せられる任務は決して軽いものではない。

 当然,「主幹教諭」としてのつとめを果たしていない,と断罪される人が増えていく。

 「お前は役に立たない」とまでは言われないだろうが,

 「他の学校でスキルを磨いたらどうか」などと言われて,異動させられる人が増えていくだろう。

 そして,異動先で能力が認められなければ,またすぐに次の学校に移らされる。

 単純に「行政職」としてとらえたら,「主幹教諭転がし」が,本人のためになる場合ももちろんある。

 ただ,管理職の養成方法としての「主幹教諭」育成にも,私は限界があると思っている。

 私は3年間の教育委員会での勤務を通して,現場の教師の大変さに改めて気づかされた。

 現場では,子どもだけではなく(子どもだけでも恐ろしく大変だが,以前に増して子どもとセットで大変な親も増えている),教員たちという,子どもの以上に大変な「指導」対象を抱えているのである。

 「指導」とは,問題行動を起こした教員への注意,という意味ではない。

 十分に高い能力をもった教員の能力をさらに伸ばすための働きかけも重要な「指導」である。

 まだまだ自分を磨くのに時間がかかる,そういう学校現場で,
 
 教師として不完全な自分が,他の教師の(もちろん自分よりキャリアが長い教師も含めて)「指導」を担うのは,大きな負担になるだろう。

 学校内で閉塞状況に陥った主幹教諭が異動させられることは,心理的重圧から逃れる手段として一時的な効果があるかもしれないが,それを繰り返すことで,教師として最も重要なものが得られないまま終わってしまうのではないか,と私は危惧している。

 その気持ちの表れが,標題の「使い捨て」という言葉になった。


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子どもを輝かせるための仕事を教える教職課程の科目とは?

 教師の仕事は,子どもを輝かせるためにある。

 子どもが子どもを輝かせるための力をつけさせることも教師の仕事である。

 勘違いしている教師は,いつも同じ子どもが同じような条件で輝くためのお膳立てだけをしている。

 自ら輝きを発している子どもと,それに照らされているだけの子どもの区別がつかない人がときどきいる。
 
 自分ではなく,仲間を輝かせることができる子どもを育てるにはどうしたらよいか。

 様々な場面で,様々な子どもにリーダーとしての自覚を持たせることが最善の教育方法である。

 様々な子どもにリーダーとしての自覚を芽生えさせ,行動を起こさせるための手がかりを与えるのは,

 教師自身のリーダーシップである。それも,一人の教師だけのリーダーシップではなく,子ども同士と同じように,

 教師同士が,一定の役割を分担し合って,それぞれが活躍している姿を見せる必要がある。

 中学校に子どもが進学すると,小学校では見たことも聞いたこともなく,全く想像できなかった教師集団のチームワークを目の当たりにすることができるようになる。

 日本の学校では,「学年」という集団のもつ教育力が際立っているものである。

 その「教育力」は,ときに「破壊力」を発揮してしまう場合もあるが,そういうときこそ「教育力」に転嫁できる最大のチャンスとなる。

 こういう話を大学生にしてみたと仮定してみよう。

 キョトンとしている学生や意味不明で怪訝そうな学生と,そうではない学生に議論させてみたい。

 「学年」の教育力とは何か。

 教師の集団のチームの基本は,「学年」である。
 
 これがチームとして機能していなかった学校に所属していた学生たちには,将来,教師になったときに,なぜそれが大切なのかを理解させてあげなければならない。

 さて,こういう話を教えてくれる教職課程の科目とは,どういうものなのだろう。


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暗礁に乗り上げてどうにもならなくなる高大接続問題

 センター試験は廃止することになっているが,よくよく考えてみれば,足切り用のテストなのに,それ以上の手間がかかるような無駄など,できればみんな省いてしまいたいと思っていることだろう。

 単純な知識のみで解ける問題を入試で出している大学への補助金を出さなくすればよいだけの話なのに。

 高大の接続を真面目に考えることは,文科省の再就職斡旋に象徴されるように,もともと意味のないことだと思えば,考えるのもばかばかしい。そこら中に天下っているOBたちの指示通り動く「天下り待ち」の人間には何もできないというわけである。

 賢く経済力のある親は,子どもを大学まで一貫で上げられる有名校にどんどん入学させている。

 小学校を設置したある学校では,低学力のままの子どもを進学させなければならない問題で頭を抱えているそうだが,寄付金をたくさんもらった子どもに限ってはOK,というわけにもいかないので,みんな上に上がっていくことになる。経営上は,何も困らない。

 私立大学の,いかにも「落とすため」の試験問題を見るたびに,こんな金儲けのための道具に規制をかけることくらい,たった文書1枚で=ほとんど税金コストゼロ円でできるはずなのに・・・と哀しく思う。

 1人の答案の審査に10人くらいが1時間かかわるのなら,たとえ3万円かかっても,時給3000円の仕事として納得してもらえるはずである。そういう問題を出題すればよいのだ。

 一体何の専門家である大学のセンセイが,高大接続を軌道に乗せようとしているのか?


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「継続」こそが使命なり

 読書編でご紹介した木下斉著『地方創生大全』に,地域活性化の真のあり方が示されています。

>成功と失敗を繰り返しながら,それでも決定的な失敗をせずに,どうにか上昇気流をつくり出していく日々の取り組みこそ,地域活性化のリアルです。

 この言葉には,どのような「物語」への不満が示されているのでしょうか。

 深くはふれませんが,「一時的な成功では意味がない」ことは,どなたでもご理解いただけることでしょう。

 ただ,世の中は,「目の前の,しかも,数値で表せる成果」ばかりを重視する行政の人間たちによって,大いに狂わされています。

 教育も,地方創生も,全く同じ図式で,「好転」はおろか「悪化」の原因を招いているともいえる「政策」が実行に移され続けています。

 メディアがわざわざ取り上げるような「成功物語」が,「継続性」を保障できているものなのか,本当はそういうチェック機能こそメディアが果たすべき役割なのに,「珍しいことをしているから,取り上げよう」という

 単発的

 虫食い的

 なニュースの取り上げ方をしているものだから,

 「ああいうことをしないといけないのだ」という誤解も招いてしまっている。

>地域の新たな取り組みに強硬に反対する地元の有力者

>成功したことによって妬みを持つ住民

>地方独自の成功に乗じて自らの実績をあげるためにモデル事業予算を売り込む役人

 こうした欲望の渦の中で,地道な努力をしている人をメディアが取り上げることはないでしょう。

 本当の意味での,

 継続性のある「成功」を支えるどころか,

 それを妨害する役割を果たしているものが何であり,

 「失敗」を乗り越えながら「成功」を模索する教育現場や地方を支えることができるものが何なのか,

 こういう問題意識を持ってくれる,「本当の政治家」の出現が待ち遠しいものです。


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「仕事をさせていただいている」という感覚の消滅

 社会には,「本職」とは別の「仕事」が忙しいものの,

 しっかりと「本職」のつとめも果たしている人たちがたくさんいる。

 学校でPTA活動に参加してくださる保護者がその例である。

 一方で,「本職」がろくにつとめられないばかりでなく,

 「本職」以外のことに全くタッチしようとしない人たちもいる。

 学校関係者では例を挙げるまでもないだろう。

 学校の教師が今まで果たしてきた役割が,

 「間違っている」という人間がいるが,

 現場にいる公務員の中で,自分の権利のことばかり考えて,

 奉仕しなければならない対象のことをおろそかにできる人間はごく一部であると信じたい。

 学校の教師が恵まれているのは,「本職」以外にしなければならない「仕事」も,

 基本的にはすべて直接的に子どものためになることが多いことである。

 社会一般の多くの人が果たしている「本職」以外の「仕事」が,必ずしもそういうものばかりであるとは限らない。

 教師は,だれもが就ける職業ではない。
 
 就くのが難しいというのは,採用試験の壁があるという理由だけではない。

 私から見れば,ほとんど意味のない単位を大学で大量にとらなければ資格がとれない不幸なシステムができあがっているのが現状である。

 苦労して現場に入った人間たちが,・・・「本職」にあたること以外にタッチしたくない・・・勤務時間が終わったら,さっさと帰りたい・・・などと言い出す元凶は,「本職」以外で金を稼いでいる人間がうようよいる大学にあると確信している。

 ろくでもない将来像を若者に植え付けて,子どもたちだけでなく,若い教師がまともに成長できる芽も摘み取ろうとしている,「兼業万歳」の大学の人間をどうにかしてほしい。 

 公務員の中で,「仕事をさせていただいている」という感覚が欠如した教師が見せる態度ほど醜いものはない。

 奉仕の精神を失った同僚と,自分と自分の子どもの権利ばかりを主張する保護者たちに囲まれる苦労を想像してみてもらいたい。


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教師の影響力を過大評価する人・過小評価する人

 教師の影響力を過大評価するのは,自意識過剰な教師自身と,子どもの挫折の責任を教師になすりつけたい大きな子どもである。

 一方で,教師の影響力を過小評価するのは,優秀な人材に恵まれない学校現場と教員養成機関である。

 影響力に低下傾向があるのは,致し方ない。

 しかし,「そもそも教師の側に影響力はない」というのはウソだろう。

 もともと勉強が嫌いで,今も嫌いな人なら仕方がないが,

 教師の影響で好きになった教科がある,という人に,私の言うことは伝わるだろうか。

 そもそも,人は人からさまざまな影響を受けながら,変わっていく存在ではないのか。

 親はもちろん,出会ったすべての人が,何かしらのかたちで人の心の中に生きていないだろうか。

 もちろん,他人に大きく期待しすぎること,依存しすぎることはよくない。

 しかし,教師に期待や依存ができない環境というのは,酷すぎないか。

 教師と子どもとの間で生まれようとするものを,頭から拒絶する人に,教育を語る資格はあるのか。

 最近,「他人の脳を利用してその場をやり過ごす能力に長けた子どもが増えた」という実感をもっている教師はいないだろうか。

 自分が愚かなタネをまいていることに,気づけない教育関係者がいることがおそろしい。

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イジメドッキリは,いじめを助長するきっかけになるか

 低俗な内容を中心としたテレビ番組が,国民の生活にどのような悪影響を及ぼしているのか,

 まともな研究をしている人はいないだろう。

 高尚な内容を扱っているはずの学校での道徳教育が,国民の生活にどのような好影響を及ぼしているのかを

 実証的に研究することも不可能である。

 テレビで低俗な内容のバラエティー番組の視聴を禁止され,道徳の学習を熱心に行っている生徒がいじめをしていることもあるだろうし,道徳の授業など聞いてもいないし参加もしていない生徒が,バラエティー番組を見て日頃の鬱憤や不満を笑い飛ばすことで解消し,結果として人には迷惑をかけない生活を送っていることもある。

 何が悪い,何が良い,と一方的に決めつけて対策を講じても,そもそもの「前提」が間違っていたら,かえってマイナスの効果が拡大する恐れもある。

 
 バラエティー番組の中でも,視聴率が稼げる内容の代表格として「ドッキリ」がある。

 視聴者側も基本的には「やらせ」=台本通りにやっているのだろうと思いながら見ている訳だが,

 それだと「刺激が足りない」「本当の切迫感がない」という理由からか,

 騙す側が本気になって演じる「ドッキリ」もある。

 芸能人の先輩が後輩に強烈なパワハラ,職場イジメを敢行する。

 騙す側は,「台本に従っている」わけだから,職務遂行に専念しているだけだと申し開きができる。

 ただ,騙される側が本当の台本を手に取ってない,という前提で公開されている番組では,

 「それらしいリアクション」が放送される。

 騙される側が,「相手は本気ではなかった」「台本通りのフィクションだった」と後で知ってほっとして何事もなく終わっていくのが「イジメドッキリ」なのだが,

 「イジメ」られて苦しんでいる人の姿を見て喜ぶ人のための演出が,

 それを見た子どもたちの心に何を育てていくのかを考えておかなければならない。

 ~イジメドッキリは,いじめを助長するきっかけになるか~

 ~子どもが学校でイジメドッキリを行った場合,いじめとして認定することはできるか~

 ~ドッキリ(一時的に相手を騙して苦痛を与え,すぐにウソだったとその場で明かして安心させること)はいじめに当たるか~

 現在,いじめの定義は「いじめ防止対策推進法」で以下のように示されている。

*****************

 児童生徒に対して、当該児童生徒が在籍する学校(※)に在籍している等当該児童生徒と一定の人的関係にある他の児童生徒が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものを含む。)であって、当該行為の対象となった児童生徒が心身の苦痛を感じているもの

 ※小学校、中学校、高等学校、中等教育学校及び特別支援学校(幼稚部を除く。)

*****************

 文科省では,算数の問題を解いている途中で,もう少しで解けそうだったのに,隣の席の子どもが解き方を教えてしまった場合でも,「いじめ」は成立すると説明している。

 それは,答えを教えられた生徒が「心身の苦痛を感じた」場合である。

 この法律では,「教師は生徒をいじめることはできない」ことも示している。

 いじめは児童生徒が行う行為だと定義しているから。

 教師から言われた言葉で傷ついても何にもならないが,

 子どもから言われた言葉で傷ついたらいじめになる。

 「いじめ防止対策推進法」ができたことによって,「いじめ」の定義は最大限に広がっている。

 「行為」には「行為しないこと」も含まれるだろう。

 学校を休んだ日に,友達が明日の授業連絡をしてくれなかった。

 これもいじめである。無視された,と子どもが訴えれば。

 学校でもしイジメドッキリを行ったら,紛れもなくいじめである。

 ドッキリの対象として選ばれた時点で,「いじめ」の対象として選ばれた,と考えなければならない。

 いじめを直接的な題材とした道徳のアクティブラーニングを行っていったときに,

 前提としておかなければならない知識がたくさんある。

 道徳の授業を推進する場合は,保護者も納得できるような基礎資料をあらかじめ提示し,家庭での議論もしっかり行った上で,学校での「話し合い」活動を展開する必要があるだろうが,そのときの「話し合い」の内容によっては「親が学校に乗り込んでくる」場合も考えられるだろう。

 「乗り込んできてくれること」を想定した指導案,その後の学校としての組織的対応の事前検討案というのも必要だろう。

 「道徳教育には,学校全体で取り組みます」と言った場合に,学校がしなければならない仕事のイメージの一つである。

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感情移入を武器にする教育

 「感情移入」とは,文学の世界では,自然物など「非情」の世界へ人間感情を持ち込むことを指している。

 「主観の導入」を捉える上で,とても重要な概念であるようだ。

 単なる「錯覚」に過ぎないと切り捨てるのではなく,人間にしかできない,人間の原始的機能の本質につながるものとして捉えることで,AIの進化にも影響を及ぼす武器になるかもしれない。

 

 外山滋比古先生は,アナクロニズム,地理的誤謬,感情移入を包括する概念として,

 「コンテクスチュアル・ファラシー(『場』の錯覚)」という言葉を挙げている。

 3つに共通するのは,

>第一の条件が,理解者と対象との間にコンテクストのずれが認められること

>第二の条件は,二つのコンテクスト間の理解伝達が十分に行われにくいという印象を与えることである。さらに,それを解消するにあたって,理解者側のコンテクストの主観的要素が対象のコンテクストへもち込まれる・・・これが第三の条件である

 合理性や正当性という点から疑われることも共通点である。

 「思い込み」という言葉で否定的に見られてしまう「理解」に対して,『場』の錯覚は,

 「文化」を大切にしようとする立場からは,あくまでも積極的な意義として語られている。


 「主体性」を育てようとしている教育の研究で,大切にしたい点は,

 「理解者」=生徒のコンテクストの主観的要素が,「教育内容」=対象のコンテクストへ持ち込まれるプロセスである。 

 今までの日本の授業研究の歴史では,45分とか50分の授業を通して,その様子を見学し,検証し,解明してきた積み重ねがあるはずである。

 大勢で正解にたどりつき,「みんなでがんばりました!」などという満足感を得て終わるような

 (昔,運動会の徒競走で,順位をつけないために全員手をつないでゴールする,なんてことをさせた学校があったようですが・・・)

 教育ではなく・・・・
 
 「主観的要素」を重視してあげることによって,何が育つのか。

 「主体性」を重視する方針を掲げるのであれば,「何が育つのか」をしっかりと語れる準備を整えておく必要がありそうです。

 「どうせ格差は埋まることはない」と諦めきった似非ガクシャに惑わされないように・・・。

 
 なお,感情移入の危険性について述べたこの2倍分の内容は削除いたしました。

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大学の「教職課程」の意味の軽さ

 教員養成課程で免許取得に必要な科目の「履修漏れ」が発覚した大学がある。

 期間は10年間。

 今年の4年生は80人いるらしいが,単純に計算すると800人が未履修の状態で免許を取得したということだろうか。

 免許を取得した卒業生(現場の教師になっている者も含めて?)への補講を検討しているらしい。

 記事によれば,大学や文科省の見解として,「履修漏れ」があっても(補講を受ければ?)免許は取り消されないという。

 私の違和感の一つ目は,「履修漏れ」という言葉である。

 何だか学生の方が悪いような言葉の響きである。

 実際には,カリキュラム作成・運営上のミスではないのか?

 カリキュラム編成能力がない大学の認可取り消しという処分は下らないのか?

 違和感の二つ目は,授業内容に関することである。

 「地理学では特定の地域しか授業内容に盛り込まれていないなど,未履修の分野が生じていた」とあるが,

 そもそもすべての地域の地誌を履修しないと免許が取得できないという仕組みも知らなかった。
 
 私もそんな授業は受けた記憶がない。

 大学教員の専門の幅は非常に狭いので,「すべての地域の地誌」がカバーできる人など存在しないだろう。

 
 「履修漏れ」発覚の経緯の方を知りたい。

 「この地理の先生,南アメリカのこと,何も知らないみたい」という生徒から訴えが原因か?

 大学ごとの学生の学力を最もよく知りうるのは,採用試験を実施している都道府県教委である。

 「この大学の学生は,地理の点数がいつも低い」というのが,履修漏れがばれた原因か?


 大学に対して,文科省から一斉に調査がまわっていくだろう。

 同じような理由の「未履修」など,そこらじゅうでいくらでも見つかるはずである。

 実際の教師に聞き取り調査してみるという方法もある。

 
 最終的には,「大学での教職課程の学習にはほとんど意味がない」という結論に落ち着くことが考えられる。

 大学のHPには,「瑕疵の程度は軽度」とある。

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学校生活調査の「教師用」が配布された

 一部の教師が「事務作業が多い」と文句を言っているらしいが,

 「忙しい」から「ミスをしても仕方がない」というわけにはいかない。

 昨日,学校から「学校生活調査の結果」が配布されたが,封筒を開けてみたら,

 「教師用」の方が入っていた。

 私の子どもは「要支援対象」なのだそうだ。

 「授業がつまらない」という感想をもらしているらしい。

 この理由は親ならよくわかるが,ここではふれないでおく。

 私のような「教師」を職としている人間にとっては,「こっちの方がありがたい」と思う資料だが,

 これを見てショックを受ける保護者は多いだろう。

 取り返しのつかないケースにつながる場合も考えられる。

 小学校に問い合わせをしてみたら,「休日でいません」とのこと。

 中学校ならこの連休でだれもいないということはあり得ないが,

 ここが小学校らしいところである。

 ニュースになるほどの「価値」がある話ではないかもしれないが,

 月曜日から教育委員会も含めて大忙しとなろう。

 回収はどうやって行うのか。

 私が管理職なら,担任に一軒一軒まわって謝罪しながら回収するように指示する。

 「この程度」の不祥事はいくらでも起きるのが公立小学校というところだとあきらめるしかないのだろうか。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より