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カテゴリー「ブログネタ」の1147件の記事

理想に走り,現実を軽視するか,現実を最優先し,理想を忘れるか

 労働の見直しにしろ,教育の改革にしろ,理想を求めていって,必ずぶつかるのが「現実の壁」である。

 教育の理想は,結局似たり寄ったりである。 

 現実を軽視したり,無視したりして,無理矢理に理想を通そうとすると,恐ろしい結果を招くことになる。

 1,2年間くらい,子どもを犠牲にして,やってまともな教育ができるようになったら,異動になる。

 これを繰り返していても,学校現場には犠牲者しか残らない。

 逆に,現実問題を優先しすぎると,いつの間にか理想などは忘れ去られる。

 教科書にある程度の内容を,全員でおおむね理解した,と言えるレベルに定着させたいなどという「理想」を掲げる人間に,「教育の理想」があるとは到底思えない。

 「働き方改革」についても,日本は生産性を向上させることがまだ理想のイメージになっていないようである。

 「事故を防ぐこと」「苦情を言われないこと」「失敗の責任をとらされないこと」が理想像になっている人間たちから,仕事を奪い返すことが最も重要なことだと思われる。


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英語達者な先生に習っても英語の成績が向上しない理由

 「平成28年度 英語教育実施状況調査の結果」が公開されている。

 報道で注目されているのは,「英語達者な先生に習っても,英語の成績が高くなるとは限らない」というごくごく当たり前の結果だが,公開されているデータから読み取れるのは,それだけではない。

 調査では,以下のような数値の推移が公表されているが,これらは「英語力向上」の原動力となりうると考えられているはずの内容である。

>「CAN-DOリスト」形式よる学習到達目標を設定している学校の割合

>授業における生徒の英語による言語活動時間の割合が高い学校の割合

>「話すこと」や「書くこと」における「外国語表現の能力」を評価するためのスピーキングやライティング等のパフォーマンステストを実施している学校の割合

>英語担当教員のうち、英検、TOEFL、TOEICなどの英語能力に関する資格・検定試験により、CEFR B2レベル相当以上のスコア等を取得している者の割合

>海外にある学校や研修施設等へ通った留学経験がある英語担当教員の割合

>授業において、教員が発話の半分以上を英語で行っている」学校の割合

 これらのデータと,生徒の英語能力向上との間に相関関係が見られない,というのが分析結果なのである。

 ▼平成28年度 英語教育実施状況調査(中学校)の結果より

Eigo01

Eigo02

Eigo03

 3つのグラフのうち,視覚でだまそうとしているのが3番目であることはわかるだろうか。

 3番目のデータを,1番目か2番目のグラフ上で表現すれば,ほとんど変化していないことがわかる。

 「もっとALTの時間を増やさなければ」と思わせたいのである。

 様々なデータの中で「痛い」のは,2番目の「CAN-DOリスト」形式による学習到達目標の設定等の状況だろう。

 これだけ大幅な改善・・・というより,「行政指導の結果」だろうが・・・が見えているのに,「英語力の向上」にはほとんど結びついていない。


 まさか,日本の英語教育の質が,英語教師の「英語力の低さ」や「英語の教え方のまずさ」が原因だと本気で信じている人はいないだろう。

 日本人は英語を「話す」「聞く」能力で,国際標準とは言えないから,特に「話す」「聞く」能力の高い英語教師を増やそうとしたい気持ちはわからないでもない。

 しかし,ALTを活用した授業を中心にしてしまえば,「話す」「聞く」能力が本当に高まるのかと言えば,限界があることくらい,教員でなくてもわかることだろう。

 ICT機器の活用状況もおまけのように調査に付け加えられているが,たとえばiPadの無料アプリを使って発音のチェックを行っていくなどの個別学習による効果は出てくると考えられるが,テストという場でしか評価されない,あるいはテストの場でしか使わない,そういう能力を本気で高めようとする生徒がどれくらい確保できるかが疑問であることに気づかなければならない。

 小学校の英語教科化によって,「英語が嫌いな子ども」が増えるとも予想される中,今後も日本の「英語教育」は迷走するばかりだろう。行政が手を打っても,効果がついてこないのが露骨に示されてしまっているから。

 かなりの数の子どもたちにとって,「テスト以外に英語能力を活用できる場がない」ことが能力を高めにくい原因であり,現在のように教員の能力や教え方ではなく,子どもがもともともっている能力・・・こつこつ学習に取り組む真面目さなど・・・との相関が高い教科の切なさが垣間見えるニュースであった。

 「英語は筋トレだ!」と説く人もいる。

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「一斉授業」の展開のバリエーション

 なぜ45分とか50分の一斉授業において,一定時間,教師が話をしなければならないのか。

 それは,生徒に「学習」をさせるためである。

 生徒が「学習」に取り組むためには,頭の中を「アクティブ」な状態にしなければならない。

 生徒の頭の中が「アクティブ」な状態になるためには,「なぜこの問題を考える必要があるのか」「なぜこの問題を考える価値があるのか」を実感させないといけない。

 「そんなことは無理だ」と諦めているのは,「子どもを見捨てている」教師である。

 「一人も見捨てない」などという綺麗事を言いながら,「大勢を見捨てている」罪悪感に駆られない人間は教師ではない。

 「主体的に学ぶ」姿勢を持たせるためには,教師主導の「導入」や「展開」が必要なのである。

 「展開」の仕方は様々である。

 指導案では,「展開1」「展開2」「展開3」などと,発問や理解の深まりとともに,学習のスタイルも変化する場合がある。

 ペアで議論したり,4人1組で話し合ったりする場面もあるだろうし,1人の発言をもとに,多くの生徒が意見交換をする場面もあるだろう。

 いつの間にか,「学級自治会」みたいになることもある。

 これも「一斉授業」である。

 理解が不十分な子どもに寄ってたかって理解させようとする子どもたちに,「それでお前たちが得ができるんだ」なんて「説得」している教師が実在するとすれば,恐ろしい限りである。

 文科省は,「自分で考えればもう少しで答えが出たのに,他の子に解き方を教えられて悲しい思いをした」というケースも,「いじめ」と認定するという見解を出していることを覚えておいてほしい。

 「一斉授業」に対する理解も技能も不十分なまま,子どもたちを「放し飼い」にする教師を断罪できるのはだれだろう。

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大学評価・学位授与機構からの訪問

 大学評価・学位授与機構という組織からこのブログへのアクセスがあった。
 
 何をどう間違えて迷い込んでしまったのかと思ってみたが,私のブログは,教員の評価に関することも記事にしている。
 
 教員の評価について,最も厳しい基準を設けているのは,私が自分自身に対して使っているコンピテンシーモデルである。これを他人に押しつけようとは思わないが,私がもし管理職になってしまっていたら,泣く人がたくさん生まれたかもしれない。

 大学評価・学位授与機構とは,どういうものなのか,確かめてみたら,平成25年度には人件費だけで数億円が使われている組織だということがわかった。

 
 Aという大学とZという大学があったとする。

 Aは偏差値65以上でないと入学できない。

 Zは偏差値40以下でも入れる。

 この2つの大学が出している「学位」の質が,同じものであると考える人はいないだろう。

 もちろん,Z大学の質が低いと断言しているわけではないが,「卒論」を読んでチェックするだけでわかるはずである。

 ある地方大学のセンセイは,Zなんていう大学は潰せと主張しているが,そもそも大学進学率の高さを見れば,日本の大学の「学位」がいかにチープなものかは容易に想像がつくというものである。

 理系ではデータ改竄とかコピペとかいろいろな不正な論文が見つけやすいかもしれないが,文系ではそもそも私のような人間でも論文の査読をしているくらいだから,・・・・これくらいにしておこう。

 評価というのは,いくらでも「作文」で良く見せたり悪い部分を隠したりができるものである。

 だから,「ここを見られるのが一番キツイ」という部分を大学ごとにしっかりと見破って,「事前の準備を一切させない抜き打ち評価」を行うのがベストではないかと思われる。

 事前に情報が漏れないように,「再就職」は一切禁止とするか,情報漏洩の罪を強烈に重くしておく。

 かつて,T大臣がある大学の認可を取り消そうとしたことがあったが,これからは,1つ増やすときには2つ潰すとか,「交付金・補助金を減らす努力」をしてみるのも大事だろう。

 さて,機構の本来の業務とは無関係かもしれないが,私は教員免許取得の条件が,大学によって違いすぎることは大きな問題だと考えている。

 大学の授業やテストも問題かもしれないが,最大の問題は,教育実習校で,現場の教師が評価の責任を持っていることである。

 評価は本当に難しい。評価が適正に行われているかどうかを確かめるための,

 「大学評価・学位授与機構」評価機構も必要なのかもしれない。


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論文作成と授業づくりの違い

 論文には,基本的な構成がある。

 結論がわからない状態で論文を書き始めることはまずないだろう。

 授業案も同様に,この時間ではこのようなことを理解させたい,という「結論」がもとになって,導入や展開を考えるのが普通である。

 導入・展開・まとめという授業の構成の中で,「まとめ」のイメージがあるから,導入の教材を工夫することができる。

 ただ,学習で大切なことは何を考えると,論文を書くことよりも,研究の過程でどのような良質の試行錯誤ができたかが重要であることは言うまでもない。

 研究のきっかけが何であったのか,実は論文を読むよりも,その話を聞いた方が,他人にとっては参考になることが多い。

 ゴールをあらかじめ提示してしまう授業が,その教科が扱う事象の興味・関心を高めるかと言えば,決してそんなことはないのではないか。

 さすがに公開授業では難しいかもしれないが,授業というのは多くの場合,「脱線」があるものだ。

 この「脱線」こそが,たとえば研究活動ならば意外な大発見に結びつき,よい業績をもたらすものになることが多いのではないか。

 教師が設定したゴールに向かってひたすら邁進させるタイプの一般的な授業が,多くの生徒にとって「つまらない」と感じられてしまうのも,生徒なりに「学習の本質」がわかっているからではないだろうか。

 結論よりも,まずは「導入」を工夫してみる。そうすると,子どもたちは,(教師の)思いも寄らない方向へと思考を働かせてくれて,「主体的な学び」が成立する。そんな授業を心がけていたい。


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NHKドラマ『精霊の守り人』が守れなかったもの

 いつの間にか,『精霊の守り人』シーズン2が最終回を迎えていたらしい(見逃してしまった)。

 視聴率も6%と低かったようで,気の毒に主演女優の「大爆死作」という穏やかではないコメントが寄せられている。

 主演女優にとって,『精霊』が『悪霊』になりかねない事態だという。

 最初のシリーズを家族が楽しみに視聴していたので,少し間があいて始まったシーズン2も何度か見ていたが,ストーリーがつまらないために誰も見なくなってしまった。

 ミスマッチは,ストーリーの壮大さとアクション(戦い)のショボさだけにあるわけではない。

 ゲームで言えば,「クソゲー」と子どもがゴミ箱に捨てかねない出来だったのではないか。
 
 お金がかかっているのはわかるが,すべてにわたって中途半端であり,「視聴料泥棒」と叫びたくなるほどだった。

 ドラマ制作現場の実態を関係者から直接聞いたこともあるし,記者による取材の内容も読んだことがあるが,今の「政治」の流れによって,もし「労働時間」のことであーだこーだ言われたら,何もいいものはできてこないような気がする。

 教師には「手当」がないので「残業」という仕事の種類はないが,人から頼まれなくても遅くまで学校に残り,生徒のノートにコメントを書いて励まそうとしている教師,次の日の教材を準備している教師,学級・学年だよりをつくっている教師などが一定数いる。

 こういう先生を「さっさと帰宅してください」と言いかねない管理職が生まれてきそうで恐い。

 寝ている時間以外はほとんどすべて勤務時間という生活を送っている教師への逆風は,教育の仕事を根っこから腐らせかねない威力をもっている。

 やる気のある人たちの気持ちをくじく政策が,なぜ実行されようとしているかの理由はわかる。

 若者の自殺というのは,とても痛ましい最悪の結果だった。

 しかし・・・。

 世の中には,「こうやって仕事をすれば,勤務時間が終わってすぐに帰宅できますよ」なんていう,明らかに勤務時間外につくった本を出版しているセンセイもいるが,そんな時間があれば,どうして子どものめんどうを見ようと思わないのか?という反撃を加えることもできない空気になってきた。

 テレビの「視聴率」にあたる数字が,もし教師にとっての「学力検査の得点」だったとしたら・・・。

 一定の得点をとらせている(ほとんど塾のおかげということは置いておき)教師が,堂々と,さっさと家に帰る姿を想像するだけで吐き気を催すと同時に,

 なかなか得点が伸びないなか,あの手この手で子どもたちのやる気を引き出そうと努力している教師が「早く帰れ」というプレッシャーを受けることにも,我慢ができない。

 管理職に昇進しない方がよい,刑事ドラマの刑事さんのような教師が現場にいることをわかってほしいと思う。


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嘘をつかなければならない子どもと大人

 正しいことを主張するときには,相手を傷つけないようにすることに留意すべきである。

 教師を長くやっていると,「正義感」がいかに人を傷つけるかがわかるようになってくる。

 年はとっても,経験が浅い教師は,「信頼感」が失われたことに我を忘れ,たたみかけるように「正しさ」を追い求める愚を犯してしまう。

 なぜその子ども(大人)は,嘘をつかなければならないのか。

 なぜそのような状況に追い込まれているのか。

 教師には,想像力が必要である。

 「正義感」だけで教師は「教育」を行うことはできない。

 お互いに「信頼感」がある関係でこそ,対話が成り立つ。

 「信頼感」と「正義感」が両立しないケースでは,どこまで「教師」であり続けられるかが大事である。

 嘘をつく子ども(大人)は,相手の「疑惑の目」には,非常に敏感に反応する。

 過剰反応は,さらなる「嘘」を重ねるという結果だけでなく,

 相手の悪口をこれでもかと言い続ける醜態を招く恐れもある。

 それは完全なる自己崩壊の始まりであり,自己の矛盾に気づけないレベルに達すると,「教育」ではなく「治療」の対象となってしまう。

 「教育」も広い意味では「治療」なのかもしれないが,教師と子ども,人間と人間は「対話」が続く限り,「治療」も可能になり,何より「自己治療」「自己教育」への望みをつなぐことができる。


 教員採用試験の論文で,「嘘をついている子どもにどのように接するか」という課題が与えられたら,どのように指導の原理や方法,具体的な言葉かけ,評価のあり方を述べていきますか。 


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「入試問題が変わる」という安直な発想

 「入試が変わるから学校での学習が変わる」などと安易に語っているのは,おそらく「学習の質を変える」ほどのインパクトのある試験問題をつくったことのない人たちだろう。

 採点基準を厳格に定めなければならない入学者選抜試験では,想定外の正解が出てこないような出題に限られてしまう。

 私が学校の定期考査で行っているように,生徒の答案を集めて全部読んでから,採点基準を決めるようなテストは入試では実施できない。

 私の場合は,解説の時間に生徒の意見を聞き,採点基準を改める場合すらある。そのために,返却する答案はすべてコピーをとっておき,得点が変わった場合は,該当するすべての生徒に説明するとともに,なぜどのような答えの得点が変わったか,具体例を示すプリントを配布している。
 
 制限時間が決まっているテストでは,自分の言いたいこと,考えていたことをすべて答案に書き尽くすことができない生徒もいる。そういう生徒から,レポートを提出させて,評価に加味する場合もある。

 「テストの点数絶対主義」を排除できるこうした学校現場での定期考査と,入学試験とは全く質が異なるものである。

 「知識がいらない」ような問題では,そもそも学校の授業を真面目に受ける意味もないと考えてしまう生徒が出てきてしまうから,当然,良質な知識を活用して,与えられた資料から必要な情報を取り出しながら思考し,表現させるような問題をつくることになる。

 しかし,「良質な知識」とはあくまでも教科書に取り上げられているような内容に限られてくるから,やはり教科書の内容はしっかりと理解しなければならない。

 だから,どんな対話的な授業をしようが,理解していなければ意味がないことに変わりはなく,多くの教師は教科書が網羅できるような授業を行い続けることになるだろう。

 では,「主体的・対話的で深い学び」を行うことは,不可能なのか?

 そんなことはない。全国各地から,「工夫された定期考査問題例」を集めてみて,精選した問題を公開してみたらどうか。

 「良質な問題」とはどういうものか,その定義を対話的に考えてみたらどうか。

 「この問題は,教科書を読まずに,授業も受けずに答えられてしまうからまずい」とか,

 「この問題は,結局この知識だけがあれば解けてしまうので,まずい」など,ありとあらゆる批判を集めて,「良問」をつくるコツを磨いていける場をつくってみたらどうか。

 すでに初めている自治体があれば,素晴しい。

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嘘がつけない人の言い逃れの仕方

 今まで何百人の子どもの生活指導をしてきただろう。
 
 重たい問題でも100人を超えている。

 こういう子どもを相手にし続けていると,嘘をついているかどうか,たいていは見破れるようになってくる。

 中には嘘なのだが真実っぽい話をする子どももいて,逆にバレやすかったりもする。

 問題行動を繰り返す子どもの中には,親の教育のおかげか,本人の性格かはわからないが,嘘がつけない子どももいる。

 こういう子どもの共通点は,「僕はやっていません」とは絶対に言わないことである。

 「やったのはあなたですか」という質問に,「はい」「いいえ」では答えない。

 「だれかの妄想だ」

 「証拠はないはずだ」

 「ぼくがやったと言っているやつは嘘つきだ」

 これですでにバレている。


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「聖徳太子」を「厩戸王」と呼ばせない圧力の正体

 社会科教育というジャンルがあるが,ここでご活躍のセンセイ方の中には,政治学や経済学,地理学や歴史学といった「学問」へのアンテナが高くはない方もいらっしゃるが,さすがに「聖徳太子」という呼称を続けていくのはまずいだろうと思っているはずである。

 「指導の継続性」という観点から言えば,大学や高校で「聖徳太子」と表現すればバカにされてしまうので,中学生だけではなく小学生にも「本来の呼称」を教えていくのが妥当だと考えられる。

 だから,次期指導要領の改訂案でもそうなっていた。

 しかし,「指導の継続性」という言葉を,「低いレベルをそのまま維持する」という発想でとらえる人たちの考えがパブリックコメントに寄せられ,文科省はそうした「わがまま」に従う意向であることが報じられている。

 私ははじめ,次期学習指導要領案に反対したのは,「厩戸王」ではなく,「厩戸皇子」と紹介していた教科書会社の人ではないかと思っていた。

 教科書会社としては,他社でしかも1社しか使われていなかった用語に統一されることは不本意であり,次の教科書採択への影響もあると感じたのではないかと。

 だが,文科省が,教科書会社の意見を聞いて,方針を変えるとは考えられない。

 さすがに教科書会社に天下りしている人はいないのではないかと思う。

 変更の理由が,「指導の継続性に問題」「子どもが混乱する」だけで通るわけがない。

 「指導の継続性」と言えば,今回の改訂の目玉は,高校段階へと発展的に成長していく資質能力像を描き出しているという特徴にある。

 だから,「小学校でこういう名前で呼んでいたから,中学校でもそのままでいく」という発想は次期指導要領にはないのである。

 最初に述べたように,「高校ではこう呼ぶのだから,小中学校でもそうする」というのが「指導の継続性」というより「指導の一貫性」が通っている姿である。

 ということは,「厩戸王という歴史学で一般的な呼称を教科書レベルでは使うことをやめる」という方向転換の理由は,「跳ね返すことができない圧力が加わったから」であると考えざるを得ない。

 ただ,こういういざこざがあったおかげで,「なぜ聖徳太子と呼ばれるようになったか」「なぜ厩戸王と呼ばせたくない人たちがいるのか」を考えさせるきっかけになる。

 これは「歴史との対話」はもちろん,「現代社会において,様々な主張をする団体がいること」を理解させることにもつながっていく。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より