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カテゴリー「ブログネタ」の1232件の記事

「功を焦る子ども」に成長が阻害される「弱者たち」

 教室に,「強者」と「弱者」のはっきり・くっきりした区別が見て取れる。

 「強者」は得意げに,「救ってやってる」オーラを全開にし,

 「弱者」は控えめに,「救ってもらっている」オーラに浸っている。

 一斉授業でも,教師のコントロールのきかない,KYの「強者」は同じような「侵略者」となるが,

 「弱者」「弱者」とバカにされている子どもたちの成長をじっくりと待つ姿勢が維持できる。

 「弱者」が成長の糧とするのは何だろう。

 それは,自分自身の努力による課題の克服であり,

 「強者」の「お情け」「身勝手な侵略」ではない。

 「一人も見捨てない」という原則から外れないために,

 徹底的に「弱者」をいたぶる子どもたち。

 「これで俺も得ができるし,お前にも損にはならないだろう」という理屈。

 こういう光景に疑問をもたない教師たちが増えないことを祈りたい。

 優れた教師が育成できない大学がドツボにはまったままなら,

 自然と淘汰されてくれるに違いない。

 下らないこんな記事が4500個目の節目の記事になってしまった。

 優れた教師に出会うことがなかった人は,残念ながら,教師には向かないことがよくわかる。

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道徳教育をまともにやると,教員の立場がなくなる

 道徳教育は,手を抜いてやった方がよい,というのは教員としての経験則である。

 もし私が道徳教育を真剣にやったら,いくつか好ましくない問題が発生する。

 子どもたちは,「大人(教員)こそが道徳的でない」ことをよく知っている。

 差別はいけない,と言っている大人(教員)は,平気で差別をしているではないか。

 「~のくせに」という言葉は,差別意識の表れである。

 「子どものくせに」「中学生のくせに」「成績が悪いくせに」「よく遅刻するくせに」「忘れ物をよくするくせに」「授業中,寝ているくせに」などといった感情を,子どもはとても敏感に教員から読み取っている。

 子どもたちができていないことの大部分は,大人(教員)自身もできていない。

 自分よりも道徳的な課題を抱えているのは,「~~先生」だな,というのがわかってしまう。

 最も効果的な道徳教育は,子どもが教師の立場になり,教師たちが子どもの座席に座って「餌食」になることだろう。

 「あなたにとっての崇高な理想とは何ですか?」

 大人(教員)として,どういう答えを先生(子ども)にお返しすることができるだろう。

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あの子どもは自分が見捨てた? 思い上がりもいい加減にしたまえ

 学校の教員には,「友達」がいない・・・。

 どこかの学者に調査してもらいたいテーマである。

 基本的に,「一匹狼」的な生き方をしている。

 自らそれを選択している人もいるし,結果としてそうなってしまう人もいる。

 だれかに頼って生きようとしている教員は,やれ,仕事が多いとか,教材研究する時間がないとかブツブツ言っているが,実際には大事な仕事は何一つ任されず,自分勝手で見当外れの子ども理解が原因で,子どもたちともコミュニケーションがとれない。友達をつくろうにもできないタイプの人間である。

 思い込みが激しいと,「全部,俺のせいだった」と勝手に悩み,現場から逃走していく。

 「友達がつくれない」タイプの教師に,なぜ人のために尽くし続けることができる人と,尽くしきってもだめだったと勝手に判断し,辞めていく人間がいるのか。

 一人一人の子どもを信用できるかどうかの違いではないか。

 自分自身が親や教師から見捨てられた経験や実感がないくせに,教師の立場として「一人も見捨ててはならない」と誇大妄想するのは,怪しげな宗教やダメな道徳教育に嫌気がさしている人間の側からすると,胡散臭いものにしか見えないだろう。

 自分は群れていないくせに,子どもがダメなのは群れていないからだと勘違いして,

 群れていることで人はどうにか成長していくことができると誤解していることもおかしな話である。

 普通の教師から見て,「おいここ,すごい変な空気だな」と思える場があるとする。

 相手が「変な空気感」を抱いていることが読めない人間に,子どもや教師を育てることはできないだろう。

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9月6日 苦労の日のメンタル強化指導

 学校は毎日が苦労の連続である。

 一昨日も「黒」,昨日も「黒」,今日は何とか「灰色」くらいですんだと思うと明日は「黒」。

 せっかく苦労して採用試験に受かったのに,「こんなはずじゃない」とすぐに辞めてしまう若者がいてもおかしくはない。

 続けたら続けたで苦労は続く。

 はじめのうちは子どもが大変だと思っていたら,いつの間にか管理職が大変であることに気づき,

 10年,20年とたっていくと,同僚や行政が大変であることに気づく。

 自分自身の家族も・・・。

 こんな脅し文句で怯えている場合ではない。

 人間は苦労を乗り越えてこそ成長する生き物である。

 苦労を楽しむ方法はさまざまなである。

 仲間と一緒に苦労すること。

 苦労の先に,自分で「ご褒美」を用意しておくこと。

 苦労に耐えるメンタルは,苦労を耐えながらでしか鍛えられない。

 苦労は毎日あって当たり前のこと。

 それが教育や共育の日々である。

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もう新学習指導要領が発表された後なので,遅いかもしれないが・・・

 委員が集められて,ある程度の方向性が決められているものに「権威」をもたせ,実行に向けて動いていく・・・教育の世界に限らないパターンだと思いますが,この「委員会」が出す結論の中に,「委員の具体的提案」がどれくらい含まれているものなのか,議事録を分析して数値を出したことがある人はいるでしょうか。

 つまり,「いてもいなくても意味はなかった」という人はどのくらいいるものでしょうか。

 まだ日本では「沈黙は金」みたいな文化があるので,本当はそこで「待った」をかけなければいけないのに,太平洋戦争開戦時のようにできなかった,ということはないでしょうか。

 新学習指導要領の総則を読んでみましょう。

 教師がどのくらいの責務を負っているか(負わされているか)がよくわかります。

 「働き方改革」に関する会議という,新教育課程の検討とは別路線から来ている提言の中に,「教師の役割が本当にわかっているのか?」と疑問に思ってしまうのが紛れているのは,やはり「センスが別」の人たちがつくっているからでしょう。

 教員の働き方改革などは「かっこだけですませよう」と思っている人も少なくないでしょう。

 以前の記事でも書いたように,教育現場というのは,そもそも「きりのない場所」なんです。

 40人のクラスの担任をしている私のような教員には,道徳にしろ教科の授業にしろ特別活動にしろ総合的な学習の時間の指導にしろ,学年経営にかかわることにしろ,学級経営にかかわることにしろ,分掌にかかわることにしろ,研修にかかわることにしろ,現状でも「時間が十分にある」とは言えません。

 全く逆に,手を抜こうと思えば,いくらでも抜ける場所でもあります。

 学校現場の人はよく知っていますよ。

 本当に忙しい人は,「忙しい」なんて言っているような暇な時間はありません。

 「いじめ」に対して毅然とした態度をとり,「心の安らかさ」を維持しようとしたら,「働き方改革」の会議で「他の人にやってもらったら?」などと提案されているもののほとんどから目を離せないのが学校というところです。

 「いじめ」への対応が,教員やスクールカウンセラーなどの「一応の専門家」以外の方に,どのくらい期待できるでしょうか。 

 第三者を間に挟むと,結局,聞き取りの時間が余分に必要になり,かつ,事実関係がつかみにくくなる。

 なかなか「人任せ」にできないのが教育の仕事です。

 ある方々は,大胆にも授業そのものを教室の中にいる成績上位の2割の子どもに任せてしまうという行動に出ているようですが,「働き方改革」と「教育改悪」が同時に進行していく可能性があることは,これから危惧すべきことでしょう。

 繰り返します。新学習指導要領の総則の解説を読みましょう。

 教師に何が求められているかがよくわかります。

 「働き方改革」の方が重要なのであれば,総則の作り直しが必要です。

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大学生は「子ども」ではないか?

 私がある大学の採用面接を受けたときに,面接官の方(役職名も教えていただいていましたが,失念しました)が事務的ではなく,本気で聞いてきているなと思った質問が,

 「うちの大学はどのような評価を社会から得ていると思われているか」

 という趣旨のものでした。私はだれかからその大学の評価を耳にしたことは一度もなかったのですが,まさか「耳にしたことはございません」とも答えられないので,

 「教育のナントカと呼ばれるように,とても評判はよいです」と当たり障りのないことをお答えしました。

 本心で言っていないのがバレたのか,何だか煮え切らないような反応をされていましたが,

 教育学部でそれなりに学生の質が高いことは間違いなく,かつての同僚もその出身だったので,「良い教育をされていると思います」としか答えようがありませんでした。

 ただ,小学校とは違って中高の教員採用試験にはあまり合格者が出ていないことも確かで,どこかの教員採用試験予備校のような大学ではないために,経営陣には大学の将来性に多少の不安があるのかもしれません。

 いずれにせよ,大学の大学生の扱いは,昔と比べてはるかに「丁寧」になっていることは確かでしょう。

 私から言わせれば「子ども扱い」という話ですが,

 「子ども扱い」した方が,教員になりやすいのであれば,そうした方がよいかもしれません。

 「一人も見捨てない」と息巻く人たちは,「子ども」たちを何歳まで自分たちの方法で育てようとしているのでしょうか。

 大学生だと,いくらでも見捨ててよいのでしょうか。

 採用試験に合格できないで困っている人たちが気の毒で仕方がありません。

 教育学部なんかにいて教育学とか中途半端な免許のための単位を取らされるより,教員になってからもっと役に立つ学問がいくらでもあったはずなのに・・・。

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授業では,「わかったつもりになっている子ども」を罠にはめることも大事

 公立の小中学校レベルの授業だと,すでに塾とか通信教育での学習で「履修済み」の内容が扱われたりして,一部の子ども(地域によっては大部分の子ども)にとって「わかっていること」を繰り返しているだけの場面が増えてきます。

 当然,教師は,まだわかっていない子どもをわかっている状態に変えるために授業をしますから,単純な発想しかできない人は,「わかっている子どもに教師役になってもらう」という姑息な手段に訴えようとします。

 ただ,まだわかっていない子どもが「わかった!」という快感が得られる手前で答えを言ってしまうなど,「手加減を知らない」「自分の優位性を示したい」のがやはり子どもらしいところですから,「わからない」状態にある子どもが,「わかる」プロセスを通してせっかくの「成功体験」が得られる機会が無駄になってしまうことが多いのです。

 だから,「わかっている子どもがいるんだから,任せてしまえ」というのはあまりにも乱暴というかいい加減な態度なので,絶対にやめてほしいのです。

 これからの学習指導で「主体的・対話的な深い学び」を子どもに実感させるために,いい方法があります。

 「わかったつもり」になっている子どもに「本当のことはわかっていなかった」と思わせ,「わからない」子どもの方が「本当のことがわかりやすい」立場にいたことを実感させるのです。

 「わかったつもりになって人に説明することが,いかに恐ろしいことか」を実感させれば,授業に集中しやすい環境がつくれるでしょう。

 以前どこかで紹介したかもしれませんが,聖徳太子(厩戸王)の政策を蘇我馬子が苦々しく思っているように描いている漫画と,誇らしく思っているように描いている漫画があります。漫画にも,レベルの違いがあるのです。

 どうして蘇我馬子の反応が違うのか。どっちが正しいのか。

 小学校レベルの授業では,「聖徳太子の政治」というタイトルが成立していますが,今,そういうタイトル自体が成立しないような解釈が一般化してきています(残念ながら,一番売れている中学校の教科書も,そういう小見出しがついてしまっていますが)。

 なぜ聖徳太子が,朝廷のあった場所からかなり離れた斑鳩に拠点を置いたのか?

 それが次の段階に考えさせることで,聖徳太子の死後,何が起こったのか?

 小学生にもこの辺までふれておいてくれると,「権力争い」の構図の捉え方の基礎が身に付く感じがしますね。

 もちろん,「高校生レベルが深い学びなんだ」というわけではありません。

 小学生にでも,「蘇我氏の実力」をどう捉えるべきか,深く考えることは不可能ではないでしょう。

 「善」と「悪」に簡単に分けて人間や歴史を語るような態度では,「深い学び」は絶対に不可能です。


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「わかっている子」の説明で,「わかっていない子」が理解できるようになるか?

 教師が教えるより,子どもが教えた方が,教えられる子どもは理解しやすい,と主張している人がいますが,それはときと場合によるでしょう。

 もしそういう主張が正しいのであれば,「小学3年生の勉強のよくできる人が教師をしている小学3年生のための塾」などが商業的に成立しているはずでしょう。「教えるプロ」なんていらない,という主張なんでしょうから。

 教師をしていれば・・・というより,教育心理学とか認知心理学を学べばわかることですが,

 「理解の仕方」「認識の仕方」は子どもによってまちまちです。

 「言葉で理解してしまう子ども」が,言葉のまま説明しても,

 「言葉だけでは理解できない子ども」にはわかりません。

 一斉授業をしながら,教師たちは,「いかに子どもの発言・説明を他の子どもにも理解できるようにさせてあげるか」に苦心します。手っ取り早いのは,教師が「言い換え」をしてしまうことです。

 それで理解できるきっかけになる場合もありますが,「言い換え」は説明する側の子どもができるようにしなければなりません。

 ICTなどいろいろな道具を使ったり,黒板に図を書いたり,たとえ話をもってきたりして,「変換作業を行う場」が一斉指導の中で必要なのです。

 教育実習をしているときに,大学生の実習生の発問を,生徒がわかりやすく変換して,課題を焦点化したり,具体化してから,考えや答えを述べる,という場面が出てくるように指導しておくのが,教師の役割です。

 「自分がわかっていても,相手が同じような方法でわかるとは限らない」。

 一斉授業を行って,教師である自分自身の説明や,教科書の記述を例にして,これをきちんと把握させておくことが教師には求められます。

 教師はだめだが子どもが説明すれば大丈夫なんて,簡単に言ってはいけないのです。

 「何がどうわからないかがわかるというのは,相当高いレベルのこと」ということを理解した上で,学習は進めていくものです。

 ボタンのかけ違いはあとで取り返しのつかないことになりますから,ぜひぜひ注意して下さい。

 特に,「同じレベルの仲間が多いほどいい」なんて言っている連中には警戒して下さい。

 だめな人が束になって自分たちの首を絞めるのはやめましょう。

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人との関係がどうとかいう前に,自分との関係を築かせることが大事

 人との関係をどういう場面でどのように築くのか。

 同級生との関係づくりは,子どもにとって,実は最も難しい課題である。

 それは,「同級生」だからである。

 同級生とのかかわりの比重が重くなればなるほど,不適応を起こす子どもが増えているのが実態ではないだろうか。

 放課後,先輩と一緒に部活動に励むことには抵抗がない子どもが,どうして同級生とだけ過ごさなければならない授業などの空間を苦手にするのか,理由を想像できない人はいるだろうか?

 教師で似た経験をするチャンスは,初任者研修をしている時期にある。

 もし,4クラスある学年の4人の担任が,全員初任者だったら(実際にはあり得ないことだが),教育活動はやりやすいか,それともやりにくいか。

 教師は「他の教師と比べられること」が常態化している毎日を,どう過ごしたいだろうか。

 1日あった課題を,放課後,毎日4人で集まって情報交換する。これを1年続けてみることを想像してほしい。

 「素晴しい経験ができる」「すごく指導力がつく」「みんな,教師になれたことを心から喜び合える」

 と自信が持てる人が,4人そろうだろうか。

 つぶれていく1人を,ほかの3人が救いきれるだろうか。

 人間は,人と対立し,協調し,喜び合い,憎しみ合い,讃え合い,生きていく。

 人と折り合いをつける力は,どうやったら育つのだろう。

 人が成長するには,大前提が必要である。

 それは,自分と折り合いをつけられるようにすることである。

 そうでないと,人間は「考える葦」ではなくなってしまう。

 教師に利用させられる葦たちが利用する葦になってしまう。

 「みんながお前のことを見捨てないぞ」というメッセージは,どういうときに必要で,

 どういうときに必要ではないかを,教師は実践を通してわかっていかなければならない。

 人間には,それぞれプライドがある。

 大学のセンセイにもあるだろうが,子どもにも子どもなりのプライドがある。

 それを傷つけることを目的とした教育で功を奏したように見えるのは,

 教師にとって都合のよい「考えない葦」に子どもがなってしまったからだろう。

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主体的でも対話的でもなく,深い学びができない「学会」

 「新学習指導要領に,こう書かれているので・・・」

 こういう話し方が「恥さらし」であることに気づけない人は悲しいのだが,今,大学のセンセイですら,こんなことを言う人がいることを,昨日と今日,参加した学会で知ることになった。

 なぜ新しい学習指導要領でそれがふれられたのか。

 「そんなこと,書かれる前からやってますよ」というのが小中学校のあるべき姿である。

 なぜなら,そうでないと,「適正な観点別学習状況の評価ができる指導がなされていなかった」証拠になってしまうからである。

 小中学校では,指導はしないくせに,評価だけは一生懸命にやろうとする人が増えているのだが,本末転倒とはこのことである。

 新しい学習指導要領は,「どうしようもない高校の教育をどうにかすること」に主眼が置かれている。

 「高校の教育をどうにかするためには,大学受験をどうにかしないといけない」ということはわかっていたから,

 「どうにかする」努力は始めたが,記述式にしたら採点に時間がかかるだけでなく,結果のすべてについて開示請求が出て比較されて,採点基準に疑義が出されたらすべてが台無しになることがわかっているので,実質的にはほとんど変化のない,信頼性を重視した従来型の試験になるだけで終わることは,だれにでもわかっていることである。

 無理矢理「ものの見方・考え方」をどの教科にもあてはめ,いかにも小中高と教育がつながっているかのように見せる仕組みに最も悩まされるのは,高校普通科かもしれない。小中の基礎ができていない高校では,見方・考え方のいろはからやり直さなければならなくなる。

 小学校から見れば,中学校や高校は別世界である。

 中学校から見ると,小学校はもちろんだが,高校も別世界である。

 高校の先生が,「四観点?なにそれ?」と言うのも無理はない。

 「思考力って何?」という質問に,納得のいく説明を用意してあげた訳だが,「それで全部?」と聞かれると,「そんなことはない」としか答えようがない。

 話を元に戻すと,学会という名前のつく組織の全国大会の発表で,内容ではなく,目標やお題目や形式だけの話で終わる「実践」とは呼べない代物はどうにかしてほしい。

 今求められるのは,小中高で異なる「常識」を,「本当にそれでいいのか?」とお互いにチェックし合うことではないか。

 学会の発表を見ていると,どこかのチェック機能が全く働いていない点が気になる。

 進行役(ファシリテーターと呼べるほどの仕事ができる時間が与えられているわけではない)がせめて,一刺ししないと,勘違いする人が増殖してしまうのではないか。

 発表者を讃えるだけのレベルの人たちの集まりが「学会」だと,日本の大学は,相変わらず受験産業が提供してくれる偏差値という数値でしか評価されない時代が続くのだろう。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より