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カテゴリー「藤田晋」の19件の記事

ネガティブに考え,ポジティブにオリジナルをつくる仕事術

 藤田晋の語るサイバーエージェントの行動規範の一つに,「ネガティブに考え,ポジティブに生む」というのがあるそうです。

 新しい企画には「勢い」が大事です。しかし,ポジティブに考えながら「舞い上がっている状況」になっては,大きな失敗を生むかも知れない。

 ダメ出しは,「本当に顧客のためになっているのか」を考え抜いた上での判断だそうです。

 教師の場合も,指導案にしろ,テスト問題づくりにしろ,ポジティブに考えるのは禁物です。

 「これで,できるに違いない」という発想は,とにかく捨て去るべきです。

 「こういう法則がある。これでできるはずだ」などとは思わないことです。

 「この問題で,今の実力をおおむねはかることは可能だろうか」と常に問うべきです。

 「どうしてそんなに後ろ向きに考えるのか」と言われるほど,「ダメなケース」を想定することで,たいてい,指導案には「幅」と「奥行き」が生まれてきます。

 教師が「ポジティブに動き回れる広い空間」を手に入れることができるのです。

 教育実習では,その「幅」の広さと「奥行き」の深さを実感してもらうのがねらいです。

 授業づくりをとことんやった,という自覚を持てることが,教師になる以前の段階では非常に大事です。

 ここを通り過ぎないと,だれかが「いい方法」などと呼んだものにすぐ飛びつくような安易な教師になってしまう。

 教師が「劇的に変わる」きっかけは,「人の本から知った」ではなく,自らの体験に基づいて「分かった」と言える経験にこそあるのです。

 「マネすればいい」という発想は,捨てること。

 オリジナルなものをつくっていこうする=当然,失敗もあり得ますが=ポジティブさこそが,若い教師には求められています。

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「仕事術」によって創造力が奪われる

 こうすれば仕事はうまくいく,というアドバイスのもとで,「だれでもできる」のは,ルーティンワークです。

 教員の事務処理や学級指導ならまだしも,授業にまでこれを取り入れようとする人間が,小学校には多い。

 「多忙感をなくしたい」

 という意欲ばかりが強くて,「充実した仕事がしたい」「クリエイティブな子どもを育てたい」という気持ちに乏しいと,どうしても「楽をしよう」という低い意識の人間になってしまう。

 藤田晋の「成長論」(日経BP社),「規則やルーティンは発想の敵と考える」では,次のようなことが述べられています。

 日々のルーティンワークも創造的な発想の妨げになることを覚えておきましょう。人間には,目の前にルーティンの仕事があると,その対処を優先する性質があると言います。その都度,「こなした」という充実感や安心感が得られ,仕事をした気になるからです。

 小学校の授業を参観していると,「仕事をした気になっている」教師が目につきます。

 次々にやってくる教科の指導を「こなす」発想の教師には,なかなか「子どもに力をつけさせる」という発想をする余裕はないようです。

 だから,ただ話し合わせてそれをまとめて終わり,という授業が,特に研究授業などで多く見かけられます。

 以前に,特に若い教師は,とにかくいろいろ試行錯誤してみて,そこから得られる自分なりの仕事のやり方を見つけていくことが大事だと書きましたが,何年たってもあっぷあっぷの人には,外から仕事はまわってきませんから,安心してあっぷあっぷしていてくれればよいのです。

 それが,いつの間には目の前の子どものことではなく,「外のこと」の方が忙しくなって,あっぷあっぷし始める教師がいます(実は私もそうでした。でも命令でしたからやむを得ず。それで,行政の世界に入る決心をしたのです)。そういう人は,どれだけ収入が下がろうとも,現場の教師をやめて「ママ」になるか物書きになることをお勧めしたいです。

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藤田晋の成長学・教師編43 将来、教育界を支える人間はどこにいる?

 セオリー№43 将来あなたを助けてくれる後輩を育てよう

 教師にとって、教え子が教師を目指し、教職につくことは、どのくらい喜べることでしょうか。

 同じ職場で働くというチャンスは普通の教師にはないのですが、私の勤務校にはそういう「組み合わせ」の教師がいます。

 専門の教科まで同じということになると、指導力の方まで気になってしまいますが、普通の学校の教師という職業は、同じ教師を育てる職業ではないので、「同じような指導法」「同じスキル」「同じ教材」で授業を行うということもめったにあるわけではありません。また、だれもが「多くの教師たち」から学ぶわけで、それだけ「教師たちの仕事・影響」の重層性というのが認識できます。

 ただ、どの学校でも、目の前にいる子どものだれもが「教師にはならない」「教師にはなりたくない」と思ってしまっているようでは、将来、日本から教師はいなくなってしまいます。

 「金の卵」がそこにいるかもしれない・・・そういう意識で子どもの夢を育てたいものです。

藤田晋の成長学・教師編42 叱ることができる教師

 セオリー№42 部下はもっと叱ってもらいたがっている

 叱り方にもセオリーがある・・・と言われてしまうと、そもそも叱られた経験も、人を叱った経験もなく教師になったような人は、どんな場面でも叱ることを躊躇してしまうことになりかねません。

 しかし、これだけは忘れてはならない、ということは、叱るべきタイミングを逃すと、次に叱るときは非常に成果が得にくくなるということです。

 教師の中には、普段は叱らないのに、他の教師が近くにいるときに限って叱る・・・「自分は叱れる人間だ」ということを他の教師にアピールしたいだけ・・・ということがばれてしまう人がいます。

 また逆に、いつも叱ってばかりの教師もいます。「他にすることはないのか」と思われるほど叱ることを繰り返すのは、よほど根性がないとできないことかもしれませんが、こういう人が、卒業した後も教え子から慕われる存在になっていたりします。

 藤田社長の言葉から、「叱る」行為の留意点になるものを拾い出すと・・・・

 組織のため、部下のために、愛情をもって・・・という前提を忘れない

 感情的にならない
 
 叱る理由を明確に

 叱った後、暗い雰囲気にならないように

 自ら改善案を出す

 叱った後、「君ならできる」という前向きな一言を忘れない

 部員全員に対して言っていることを忘れず、全体の前で叱る場合もある

 成長意欲のある人間ほど、自分の悪い点や課題点を論理的に教えてもらいたがっている

藤田晋の成長学・教師編41 簡単な課題なら最高の評価はBどまり

 セオリー№41 部下を盛大かつ頻繁に褒めよう

 褒めることが人間の活動のエネルギーをどのくらい高める効果があるのか・・・・。

 定量的に調べることもできそうなこの話題については、「順位を基準にしたもの」「絶対的な価値をもとにしたもの」に分けて考えることが必要でしょうか。

 順位がつくと、当然1位で褒められる人はうれしいものです。3位までは「メダル獲得」圏のイメージがあるのでやはりうれしい。8位までは「入賞」のイメージでしょうか。

 20人いる集団で15位まで表彰するのもおかしな話ですが、10位までならどうか・・・。

 相対的な比較というのは線引きでいつも迷うことになります。

 教師として子どもを褒める場合には、「個人内評価」が基本でしょう。

 どこがどのように成長したのか・・・どこがどのように人から認められるようになったのか・・・・。

 そう考えると、「絶対的な価値」について、基準を設けて評価分けするということの難しさや課題が見えてきます。

 100mを10秒で走る人と、20秒で走る人では、12秒という結果になったときに行う「評価」は変わってくるでしょう。

 「のびしろ」を用意しておかない評価というものにも問題性を感じます。

 課題によってAのレベルが変わるというのもおかしい。

 簡単な課題については、どんなにがんばっても「B」どまりになることが望ましいと思われることはありませんか?

藤田晋の成長学・教師編40 お付き合いと未来の展望

 セオリー№40 接待・会食を侮ってはいけない

 アルコールが飲めないという事情で、個人的には、書き飛ばしたい項目ですが、教師のために一言。

 「お付き合い」というのは、「本音では一緒にいたくはないが、一緒にいないというのもまずいにで、一緒にいる」というニュアンスで使われる言葉です。

 あるいは、「プライベートなら絶対ごめんだが、仕事だから一緒にいる」という感じでしょうか。

 「一緒にいたくない」というのが直接的に伝わってしまっては、「お付き合いしない」より具合が悪いので、「お付き合いする」ときは悩むものです。

 こういうとき、もし自分の立場が年下だったとしたら、もう「あきらめる」しかないのか・・・。

 私の解決イメージは、「自分が逆の立場だったら・・・数年後か十数年後、自分のような人間を相手に会食などをするとき、自分はどのように振る舞っているのだろう・・・困っている相手の立場を考えているだろうか・・・」という想像をめぐらすというものです。

 そう考えると案外、「お付き合い」から学べること、築ける関係、深める交流などがあるのではないか・・・と思えるようになるのでは?

藤田晋の成長学・教師編39 生徒指導の手抜き

 セオリー№39 交渉で“褒め殺し”は怪しまれるだけ

 会話中にやたらとうなずく人を怪しめ・・・これは「褒められ病」の人たちには理解しがたい教訓かもしれません。

 「常に認めてもらっていないと気がすまない」子どもや大人が増えたのはなぜでしょうか。

 それは「罠にはまる」自分が面白いからでしょうか・・・?

 教師の中で、子どもの言うことを「受容的に聞こう」として・・・というかそういうジェスチャーを子どもに示そうとする目的で、やたらにうなずく人がいますが、鋭い子どもなら、すぐに見抜いてしまいます。

 「この先生、その場がよければそれでいいのだな・・・」

 意味のない「ご機嫌取り」のうなずきは、「打算的」というより、「手抜き」であるというのが藤田社長の考え方です。

藤田晋の成長学・教師編38 反応を促す表情を向ける教師

 セオリー№38 プレゼンでは相手に話をさせよう

 教師が毎日行っているプレゼンは、授業です。

 最大のコツは、子どもがどのくらい突っ込みを入れられるかどうか。

 小学校ではさすがに少数派でしょうが、中学校・高校では教師による一方通行の「講義」が多いと必ず批判されますので、見た目でそれを回避するには、子どもが突っ込んでくる雰囲気をしっかりつくることです。

 (外見上は一方通行の「講義」でも、聞き手の頭がフル回転しているものもありますので、一概に「講義形式」が悪いとは言えません)

 授業は、子どもと会話しながら進めていくもの・・・そういう実感がもてるかどうかが、教師にとっては成長の鍵になるのでしょう。

 子どもに、「何かの反応をしてほしそうな顔を向ける」ことが教師にできるかどうか。

 教育実習生が指導案を書くときなど、藤田社長のこんなコメントを読ませてあげたいものです。

 資料を熱心に書けば書くほど、確実性が減ったり、説明一辺倒になってしまう危険があります。資料は添え物程度と思い、説明だけでなく、相手の話を聞くことに力を入れてプレゼンするのが、成功への近道です。

藤田晋の成長学・教師編37 学習の大切さを分からせる道具

 セオリー№37 目的がぶれなければ交渉は負けない

 なぜ学習は大切なのか,子どもに聞かれたとき,目で見て分かりやすい説明用のツールをもっているという教師はどれくらいいるでしょうか。

 もし「学習の大切さを子どもに分からせたい」「なぜ学ぶ必要があるのかに気付かせたい」という「目的意識」をしっかりと持っている教師ならば,それを達成するための手段をもっていてしかるべきでしょう。

 これが,単なる自分の体験とか,「いずれ分かる」という言い方で逃げているようでは,「学ぶ先輩」としての教師はそこに存在しないことになります。

 そのツールを利用して,本当は10段階のレベルがあって,3のレベルでもいいのに,人によって,場面によっては5とか7のレベルまで要求してしまうことも可能です。

 それは「交渉術」の一つでもあり,小さいステップを積み重ねていくうちに高いレベルの要求に応えさせることが可能になる・・・そういう教師を目指していきたいものです。

藤田晋の成長学・教師編36 学年集団の情報の管制官

 セオリー№36 ブログの伝播力の高さを活用しよう

 藤田社長は会社でブログ事業を展開しているわけで、いかに使い勝手がよいものをつくるかということに関心を持っていたと思います。

 ただ、今は他社との差別化を図るために、人によっては「なくてもよい」機能が増えて、利用者の棲み分けが進みつつあるようです。

 教師の中には、仕事のことではなく家族のことを中心に・・・つまり、家庭人としての立場でつくっている人もいれば、純粋に教育のことについて私見を述べる人、その経験をもとに過去の職場のことを書く人、リアルタイムで子どもや親への文句を書く人、わざわざ「校長」とか「退職校長」という肩書きで教育とは関係のない話を書く人・・・・など、様々です。

 教師としての自己成長を促すために、「ブログ」とどうつき合っていけばよいのか、自分で「ブログ」を立ち上げるべきかどうか・・・それは、どのような「読者」を想定し、どんなメッセージを送ろうとしているのか、ということと関係があるかもしれませんが、単なる「日記帳」のかわりとして利用することも可能です。

 もし日記帳代わりに使うのであれば、「5年日記」のように、過去の自分と比べることで、自己成長を感じたり、足踏み状態であることに気付いたり、新しい目標を設定したりと、それなりに効果は期待できると思います。

 「ブログの伝播力」を教育の質的向上に結びつけるとしたら、たとえば「家庭学習課題」を定期的に示したり、提出された模範解答を公開したり、それを閲覧していた他校の教師や生徒が相乗りしてくるような実践も面白いかもしれません。
 
 公的なブログとしては、学年の数人の教師が共同で運営し「学年通信」の代わりとするものなども考えられます。若い教師はパソコンに向き合う役割になるでしょうから、これを情報収集の手段として活用することで、「管制官」のような気分が味わえるかもしれません。もちろん情報は教師からだけではなく、生徒たちからも集める必要があります。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より