ウェブページ

最近のトラックバック

本の検索・注文


  • サーチする:
    Amazon.co.jp のロゴ

カテゴリー「いじめ問題」の311件の記事

日本人は多文化共生に耐えられない?

 日本人は多文化共生に耐えられない・・・

 ある東大名誉教授の社会学者が新聞で展開していた主張である。

 ツイッターなどで,「信じられない」という反応が多く寄せられているらしい。

 「仲間を後ろから槍で突きさすような発言」という趣旨の言葉もあった。

 人口減少社会に「移民」という切り札を使うことは,不可能だ,という理解があるようだ。

 反論の理由として挙げられている,多文化共生で生きている人々が実際にいる,そういう地域がある,ということをご存じないはずはない。

 努力している人々の足を引っ張るタイプのガクシャは少なくはないだろう。

 教育の世界では,優秀な教師たちを「見下す」ための「理念」を吹聴し,「等しく貧しい学力をつける」ことに専念させようとしているセンセイとその「同志」もいる。

 「平等に貧しくなろう」

 こういう考え方にすがらないと生きていけないほど日本が落ちぶれる前に,何とかしたいと思っているのは,私だけではないと信じたい。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ 

子どもを輝かせるための仕事を教える教職課程の科目とは?

 教師の仕事は,子どもを輝かせるためにある。

 子どもが子どもを輝かせるための力をつけさせることも教師の仕事である。

 勘違いしている教師は,いつも同じ子どもが同じような条件で輝くためのお膳立てだけをしている。

 自ら輝きを発している子どもと,それに照らされているだけの子どもの区別がつかない人がときどきいる。
 
 自分ではなく,仲間を輝かせることができる子どもを育てるにはどうしたらよいか。

 様々な場面で,様々な子どもにリーダーとしての自覚を持たせることが最善の教育方法である。

 様々な子どもにリーダーとしての自覚を芽生えさせ,行動を起こさせるための手がかりを与えるのは,

 教師自身のリーダーシップである。それも,一人の教師だけのリーダーシップではなく,子ども同士と同じように,

 教師同士が,一定の役割を分担し合って,それぞれが活躍している姿を見せる必要がある。

 中学校に子どもが進学すると,小学校では見たことも聞いたこともなく,全く想像できなかった教師集団のチームワークを目の当たりにすることができるようになる。

 日本の学校では,「学年」という集団のもつ教育力が際立っているものである。

 その「教育力」は,ときに「破壊力」を発揮してしまう場合もあるが,そういうときこそ「教育力」に転嫁できる最大のチャンスとなる。

 こういう話を大学生にしてみたと仮定してみよう。

 キョトンとしている学生や意味不明で怪訝そうな学生と,そうではない学生に議論させてみたい。

 「学年」の教育力とは何か。

 教師の集団のチームの基本は,「学年」である。
 
 これがチームとして機能していなかった学校に所属していた学生たちには,将来,教師になったときに,なぜそれが大切なのかを理解させてあげなければならない。

 さて,こういう話を教えてくれる教職課程の科目とは,どういうものなのだろう。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

極細の屋台骨が折れた日本の教育界

 国立大学を縛り上げていた文科省が,

 私立大学に対して想定問答集まで与えて,省ぐるみで国家公務員法に違反する行為を行っていたことは,

 日本の何を象徴しているのだろうか。

 利己的な国家公務員とそのOBが,教育も道徳も無価値に見える社会に日本を変質させようとするねらいは何か。

 いじめの聞き取り調査では,口裏合わせをさせないような機動的な調査が求められるが,

 これからは,文科省の人事課というお役所の人たちが行っていた方法を真似るケースが増えていくのだろうか。

 行政の人間なら,それも霞ヶ関の人間なら,絶対に口にできない言葉があったはずである。

 「法律をよく知らなかった」

 「自分の行為が法令に違反しているとは思わなかった」

 という言い訳ができる官庁が,日本にあったとは驚きである。文科省レベルなら仕方がない,とは言えない。

 もしそれで事務次官などという地位につき,8000万円もの退職金を手に入れて「もらい逃げ」することができるとしたら,

 日本はもはや法治国家ではなくなってしまう。

 立場を利用して甘い汁を吸う人間がいるのは,もちろん日本だけではない。

 お隣の国との共通性が滲み出てくるような出来事であった。

 骨が折れ曲がったテントをそのまま露出しておくのか,どうか。

 穴の空いた天井から,どのような景色が見えているのだろうか。

 国家公務員が法令を守らない国の政府が語れる道徳や正義とは何か。

 拷問は「効果がある」と発言する新大統領がいる国と一緒に自滅しないですむ進路を探ってもらいたい。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

長子・中間子・末っ子,一人っ子の特質

 トップアスリートに末っ子が多いというのは,どこかで聞いたことがある。

 一人っ子が増え,兄弟姉妹がいても一人だけ(つまり子どもが二人)という家族ばかりになっていくと,「末っ子」という分類自体がなくなっていくと思われるが,

 次のような兄弟姉妹の「価値観」などの分析?が紹介されている記事(週刊朝日)を読んだ。

>長子は,やるべきことをやる

>末子は,やれそうなことをやる

>中間子は,みんながやらないことをやる

>一人っ子は,やりたいことだけやる

 なるほど,と思えるのは,だからこそ,・・・と思い当たる事例が多いからだろう。

 歴代首相の約半数が中間子だというのも,なるほどと思える。

 「注意される・叱られる」とき,どうなるか。

>長子は,「自分が悪かった」と反省する

>末子は,「自分のせいじゃない」と開き直る

>中間子は,「なんで自分だけ」といじける

>一人っ子は,「……!」とパニックになる

 教育現場での事例を集めると,同じような分析結果が出てくるかもしれない。

 人間関係をうまく機能させるための一言は・・・

>長子には「頼りにしてます」

>中間子には「あなたしかいない」

>一人っ子には「やり方は任せるよ」

>末子には「これが終われば○○だよ」。

 学校にも,放っておかれる方が大好きなのと,放っておかれると怒り出す子がいる。

 自分はどうでもいいが,先生が人によって扱いを変えることが嫌いな子もいる。

 いずれにせよ,教育というのは「面倒臭い」ものだからこそ,面白いとも思えるし,

 かかわりたくない,とも思えるものである。

 かかわりたくない,と思ってしまうのは,どういう人だろう。

 末っ子や一人っ子で先生になっている人がいたら,会ってみたい。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ 

小さな「違い」には敏感で,大きな「違い」には鈍感な人たち

 大きな「違い」には鈍感で,小さな「違い」にはとても敏感な人たちがいる。

 「違い」が大きすぎると,「比べる」という思考が停止してしまう。

 一方,小さい「違い」の方は,思考や感覚がフル回転し,「とても気になる存在」になる。

 「細かいところに気がつく」習性が,発達に多大な影響を及ぼした産業もあるだろう。

 大きい「違い」の方はスルーできてしまうことで,余計なトラブルを避けることができていたと言える面もあるだろう。

 ただ,時代は大きく変わっている。

 今までスルーしてきた大きな「違い」に目を向け,どうでもよい小さな「違い」にこだわらない性質をもつ人が増えていかないと,つぶれてしまうところはないか。

 たとえば学校現場。

 学校教育に関しては,どんなことをスルーしてきたか。

 たとえば「異常に多い1クラスの人数」。義務教育だけではなく,大学も同じである。

 「こんな状態では,教育効果は測定できない」という声をほとんど聞かないのは,

 外国とまともに比較する気がなかったからだろう。

 どんな細かいことにこだわってきたか。

 観点別学習状況の評価である。

 A(十分満足)とB(おおむね満足)の違いはどこにあるのか。

 この説明を,たとえばある単元の学習について,同じ県のすべての市の中学校教師たちが同じようにできるわけがない。

 しかし,同じようにできることが前提となって使われているのが高校入試の内申点である。

 様々な学習場面,活動場面があったはずである。

 それをAとBにきちんと分ける根拠を,すべての教師がもっているとは思えないし,

 その基準が同じであるとは思えない。

 そんな議論は完全にスルーされてきた。

 でないと,「入試に公平性がない」ことになってしまうからである。

 「できていることにする」という発想が,ここでだけ許される理由は単純であるが,

 「全員が困る」ことには目を向けない,という無責任さがさまざまな不幸を招いてきたことにそろそろ気づくべきではないか。

  
にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ 

政権支持率の決定要因に見る「危機」

 アメリカでの新政権誕生によって,国際政治から目が離せなくなった。

 大人だけでなく子どもも政治に関心を持ってくれるきっかけになり,教育関係者としては悪い気だけがしているわけではない。

 トッド氏が「マルクスが喜んでいる」といった趣旨の発言をしていたが,

 多くの政権が「経済」を動かすこと=「政治」を動かすことという図式で「支持率」を獲得・維持する仕組みになっている。

 アメリカだけの話ではない。

 日本では,「経済」を動かすことを最優先した結果,どのような事態を引き起こしたか,

 まだ「記憶に新しい」と言える範囲の歴史から説明できる。

 「収入は減っても,平和が維持できる方がよい」と国民を説得できる政治家は皆無だろう。

 少数者だが高額所得者でそう願っている国民もどれだけ存在しているだろうか。

 収入減+仕事量増加で苦しい思いをしている国民のうち,

 どれだけの人が「平和」を望んでくれるだろう。

 
 参考:日刊大衆 安倍総理が「師・小泉純一郎」を超える日(2017年01月08日 11時00分)

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ 

イジメドッキリは,いじめを助長するきっかけになるか

 低俗な内容を中心としたテレビ番組が,国民の生活にどのような悪影響を及ぼしているのか,

 まともな研究をしている人はいないだろう。

 高尚な内容を扱っているはずの学校での道徳教育が,国民の生活にどのような好影響を及ぼしているのかを

 実証的に研究することも不可能である。

 テレビで低俗な内容のバラエティー番組の視聴を禁止され,道徳の学習を熱心に行っている生徒がいじめをしていることもあるだろうし,道徳の授業など聞いてもいないし参加もしていない生徒が,バラエティー番組を見て日頃の鬱憤や不満を笑い飛ばすことで解消し,結果として人には迷惑をかけない生活を送っていることもある。

 何が悪い,何が良い,と一方的に決めつけて対策を講じても,そもそもの「前提」が間違っていたら,かえってマイナスの効果が拡大する恐れもある。

 
 バラエティー番組の中でも,視聴率が稼げる内容の代表格として「ドッキリ」がある。

 視聴者側も基本的には「やらせ」=台本通りにやっているのだろうと思いながら見ている訳だが,

 それだと「刺激が足りない」「本当の切迫感がない」という理由からか,

 騙す側が本気になって演じる「ドッキリ」もある。

 芸能人の先輩が後輩に強烈なパワハラ,職場イジメを敢行する。

 騙す側は,「台本に従っている」わけだから,職務遂行に専念しているだけだと申し開きができる。

 ただ,騙される側が本当の台本を手に取ってない,という前提で公開されている番組では,

 「それらしいリアクション」が放送される。

 騙される側が,「相手は本気ではなかった」「台本通りのフィクションだった」と後で知ってほっとして何事もなく終わっていくのが「イジメドッキリ」なのだが,

 「イジメ」られて苦しんでいる人の姿を見て喜ぶ人のための演出が,

 それを見た子どもたちの心に何を育てていくのかを考えておかなければならない。

 ~イジメドッキリは,いじめを助長するきっかけになるか~

 ~子どもが学校でイジメドッキリを行った場合,いじめとして認定することはできるか~

 ~ドッキリ(一時的に相手を騙して苦痛を与え,すぐにウソだったとその場で明かして安心させること)はいじめに当たるか~

 現在,いじめの定義は「いじめ防止対策推進法」で以下のように示されている。

*****************

 児童生徒に対して、当該児童生徒が在籍する学校(※)に在籍している等当該児童生徒と一定の人的関係にある他の児童生徒が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものを含む。)であって、当該行為の対象となった児童生徒が心身の苦痛を感じているもの

 ※小学校、中学校、高等学校、中等教育学校及び特別支援学校(幼稚部を除く。)

*****************

 文科省では,算数の問題を解いている途中で,もう少しで解けそうだったのに,隣の席の子どもが解き方を教えてしまった場合でも,「いじめ」は成立すると説明している。

 それは,答えを教えられた生徒が「心身の苦痛を感じた」場合である。

 この法律では,「教師は生徒をいじめることはできない」ことも示している。

 いじめは児童生徒が行う行為だと定義しているから。

 教師から言われた言葉で傷ついても何にもならないが,

 子どもから言われた言葉で傷ついたらいじめになる。

 「いじめ防止対策推進法」ができたことによって,「いじめ」の定義は最大限に広がっている。

 「行為」には「行為しないこと」も含まれるだろう。

 学校を休んだ日に,友達が明日の授業連絡をしてくれなかった。

 これもいじめである。無視された,と子どもが訴えれば。

 学校でもしイジメドッキリを行ったら,紛れもなくいじめである。

 ドッキリの対象として選ばれた時点で,「いじめ」の対象として選ばれた,と考えなければならない。

 いじめを直接的な題材とした道徳のアクティブラーニングを行っていったときに,

 前提としておかなければならない知識がたくさんある。

 道徳の授業を推進する場合は,保護者も納得できるような基礎資料をあらかじめ提示し,家庭での議論もしっかり行った上で,学校での「話し合い」活動を展開する必要があるだろうが,そのときの「話し合い」の内容によっては「親が学校に乗り込んでくる」場合も考えられるだろう。

 「乗り込んできてくれること」を想定した指導案,その後の学校としての組織的対応の事前検討案というのも必要だろう。

 「道徳教育には,学校全体で取り組みます」と言った場合に,学校がしなければならない仕事のイメージの一つである。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ 

疑問に思う力を損なわない教育

 日本では,「質問をする」のはたいてい教師の仕事で,「質問に答える」のは子どもの役割である。

 そうでないと,教師は子どもが理解しているかどうかがわからない。

 問題と答えを与えて,子どもたちが好き勝手にまとめあげ,はい,理解できましたね,などという授業をしてしまう無責任な教師は日本では少数派だろう。

 ただ,最近は,「質問をする」能力がない教師が増えていて,手元の指導書に頼りきる,というケースが多いかもしれない。

 質問もしないで説明だけで終わる,という大学のような講義スタイルは,小中高の学習指導要領という法的なしばりをもつ「ルールブック」では認められない方法である。

 教師の「質問をする」力はどこで養われるのか?

 私が担当している教育実習生は,毎年同じような壁に突き当たる。

 それは,生徒への「質問」(教育現場の業界用語では,「発問」という)の内容を考えることである。

 「源頼朝は,どうして京都ではなく,鎌倉に拠点を置いたのだろう」

 こういう「質問」を考える教育実習生は,あまりいない。

 「考えたこともない」という学生もいるし,

 「三方を山で囲まれているから」と答える学生もいる。

 日本には,攻めにくい地形の場所はいくらでもあるから,それは答えにはなっていない。

 この問いの答えは,簡単なようで,実は奥が深いものである。

 実習生には,自分が答えるためというより,本当に「疑問」に感じられる「質問」はどのようなものかを感じ取ってもらうために,次々に問いを投げかける。

 「鎌倉幕府が成立した」と考えられた時期に,どのようなことが起こったか?

 幕府ができたから奥州藤原氏を滅ぼすことができたのか,

 奥州藤原氏を滅ぼすことができたから幕府が成立できたのか?

 そのどちらでもないのか?
  
 年表をたどりながら,では,明治時代になって「鎌倉幕府」と呼ばれるようになったものは,

 いつの時点で成立したのだろう?と考えることに意味はあるのか?

 ・・・・・・

 「考える」とは,どういうことなのか?

 それが教育実習期間に最も「考える」課題である。
 

 自分が答えを知らない質問を生徒にするのが怖い,という気持ちもわかる。

 正解を導くことよりも,生徒が疑問に感じ,その真相を知りたいと思うような課題がなければ,

 学習が面白いとは思えないことは,学生もよくわかっている。

 学生たちは,自分が実は何もわかっていないことにまずは戸惑い,

 結局は,自分がわかったことだけを授業を扱おうとする。

 実習生自身が,こういう授業を大学まで受けてきた「成果」が,指導しなければそのまま実習の授業に反映される。

 
 外山滋比古先生は,著書『考えるとはどういうことか』(集英社インターナショナル)で,次のようなことを述べている。

 頭では地動説を受け入れていても,いまでも「日が昇る」「日が沈む」という言い方をやめようとしない・・・日常生活では天動説的な感覚を持って暮らしている・・・と。

 学校の授業でも,地球ではなくて太陽がまわり続けている。

 答えが決まっているものをせっせと「理解する」ことを主眼とし,子ども「全員」が無事に答えにたどり着かせることで多少の満足感を覚えている教育理念が,「天動説」の典型的な例である。
 

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

1+1+1+1+1=100

 東京メトロ丸ノ内線を長年利用していると,年に1回くらい,後楽園駅で驚くほどの人数の女性が下車するところを目撃してきた。

 年齢層が非常に幅広い場合は,SMAPのコンサートが開かれていることが多かった。

 目を輝かせて地下鉄をあとにする中高年の姿が忘れられない。

 ファンの方にとっては,「解散」の寂しさは,言葉では表現できないほどだろう。

 「忘れたくない」存在のSMAPだろうが,

 過去の様々な姿の中で,多くのファンが最も記憶から「消し去りたい」と思っているのは,

 生放送での「謝罪」場面ではなかろうか。

 私は教師だから,子どもの「謝罪」をたくさん見てきたが,

 実際に「謝罪」の気持ちを持っているどうかくらい,おそらくは教師でなくてもすぐにわかる。

 いい歳をした大人が,「ごめんなさい」をした後で「やっぱりダメでした」というオチをつけてしまったのだから,カッコ悪すぎる。

 「謝罪」の気持ちがなくても,「謝罪」の言葉を口にすれば,

 「謝罪」が成立したことになるのは,日本が「言霊」の国だからかもしれない。

 個性が異なる5人が1つの集団として機能するSMAPは,「日本型の和」の象徴だったのではないか。

 SMAPを数式で表わすと,1+1+1+1+1=100 になる。

 取り替えや組み替えがきくアイドルグループも日本らしい気がするが,

 お互いにライバルというわけでもなく,それほど仲が良さそうでもない5人が,独特の空気感をもって接している姿を見ることはなくなるのは寂しい気がする。

 「解散」というより「離陸失敗による空中分解」という形容ができるような終わり方だったことが,

 ファンにとっては何よりも後味が悪いものだろう。


 ファンではない私が複雑な気分でいるのは,

 SMAPを「利用」していたのはだれだろう,という問いの答えが見つからないからである。

 
にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

学校生活調査の「教師用」が配布された

 一部の教師が「事務作業が多い」と文句を言っているらしいが,

 「忙しい」から「ミスをしても仕方がない」というわけにはいかない。

 昨日,学校から「学校生活調査の結果」が配布されたが,封筒を開けてみたら,

 「教師用」の方が入っていた。

 私の子どもは「要支援対象」なのだそうだ。

 「授業がつまらない」という感想をもらしているらしい。

 この理由は親ならよくわかるが,ここではふれないでおく。

 私のような「教師」を職としている人間にとっては,「こっちの方がありがたい」と思う資料だが,

 これを見てショックを受ける保護者は多いだろう。

 取り返しのつかないケースにつながる場合も考えられる。

 小学校に問い合わせをしてみたら,「休日でいません」とのこと。

 中学校ならこの連休でだれもいないということはあり得ないが,

 ここが小学校らしいところである。

 ニュースになるほどの「価値」がある話ではないかもしれないが,

 月曜日から教育委員会も含めて大忙しとなろう。

 回収はどうやって行うのか。

 私が管理職なら,担任に一軒一軒まわって謝罪しながら回収するように指示する。

 「この程度」の不祥事はいくらでも起きるのが公立小学校というところだとあきらめるしかないのだろうか。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

より以前の記事一覧

2017年2月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28        
無料ブログはココログ

宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より