カテゴリー「いじめ問題」の4件の記事

涙の抗議は本当に効果的だったのか?

 模擬授業の研修命令を出されるなどした私立学校の教師が裁判で戦っている様子がTV番組で特集され,おおむね「学校の塾化」「企業論理による教師の切り捨て」を批判するような内容に仕上がっていることがわかりました。

 予想が当たらないことを願ってTVを見続けていると,残念なことに「涙の抗議」がクライマックスに持ってこられていました。

 教師にとって最も情けないのが「同情を買う」行為ではないかと思っていたのですが・・・。

 その追い打ちになっていたのが,大学教授の「学校の果たす教育的機能というのは,学力向上だけではない・・・」というコメントでした。

 さらに,「教え子」の方が「金八先生のようだった」というコメントを出したあたりは,ほとんど「やらせ」のような印象がありました。
 ちなみに,「金八先生」に教科の指導力があったかどうかは,番組を視聴している限りでは全く判断がつきません。

 シナリオがほとんど予想と合ってしまうと,どうしても「真実なのかどうか」という疑いの目になってしまいます。

 「授業は下手でも生徒の気持ちが分かる先生」が求められるのは,「授業は上手くても生徒の気持ちを理解しようとしない先生」ばかりがいる環境であり,「授業が上手で生徒の気持ちがよく分かる先生」の中では,仕事がやりにくいことは確かでしょう。

 裁判の争点は,「本当に授業力・指導力に課題があったのか」というところに必ずかかってくるでしょう。

 そこではどのような判断が下されるのかに興味があります。

 裁判所の判断次第では,立場が危うくなる人が増える恐れがあるからです。

 「授業を担当させず,研修=指導力向上のために模擬授業を継続させた学校側の判断は不適切だとはいえない,ただし,その間,メンタルケアを含めて,資質・能力の向上について適切な指導が十分に行われていなかったことは確かであり,学校側に責任が全くないとはいえない」なんていういかにも日本風な判断が目に浮かぶようですが・・・。

 番組の中で最も感動したのは,現職の教師が「進学校への移行」について反対論があったことを告白したり,「教師切り捨ての姿勢がある」と経営側を面と向かって批判されたことです。こういうことがはっきり堂々と言えるくらい指導力がある教師が求められているのでしょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

体罰の議論から逃げないことが大切

文月さんコメントありがとうございます。
 以下の内容,ご紹介の記事に書き込ませていただきました。 
 
 

学校のなかには,どんなときでも体罰を加えるというわけではないが,ある限度を超えた問題を子どもが犯し,反省の色がないとき,他人のせいにしているときなど,「ここぞ」というときに体罰を使って怖れられているような教師がいます。
 同僚の教師たちはこのような教師の存在をありがたがる・・・というのは「体罰」が抑止力になって,子どもが問題行動を起こさない・・・そういう図式になっているところがまだあるのではないかと思います。
 このような学校では「体罰」を推奨しているわけではないのですが,「」のような「最終兵器」として「体罰」を温存しているのです。
 体罰撲滅のみちは,単純にはいきません。
 体罰を絶対にしない・・・というのは大前提なのですが,学校はそう言いきれるための戦略を練る必要があります。
 内部告発制度,連帯責任制度・・・のような後ろ向きの政策ではなく・・・です。

 
 法令違反となり,懲戒をうけることも覚悟のうえで,なぜ教師は体罰に訴えるのか。

 それは,それがどのように支持されているのか。なぜ容認されるのか。

 その仕組みを理解しなければいけないのですが,この問題は「いじめ」と似たところがあると思われます。

 「やってはいけない」ことは頭では分かっているが,「やってしまう」。

 様々な人が様々な考えを発表すること,そして意見交換をすること,あるときは厳しい批判合戦になったとしても,決して逃げず,多少横道にそれたとしても,それたことを理由に逃げない・・・そんな場が学校・地域・家庭で確保されなければなりません。

 そういう場がなければ始まらない話であり,そういう場から逃げてしまう人間をどう食い止めるのか,これも大切な戦略になります。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
にほんブログ村

| | コメント (1) | トラックバック (0)

いじめを単純化して考えたい心性を生む新KEGARE思想 ふり返り366日【08/5/16】

[いじめ] ブログ村キーワード

 いじめの問題を,あくまでも「子ども社会の問題」と捉えてしまうような教師は,自分自身や教師集団の課題に目を向けない典型的な逆コンピテンシーの持ち主であると判断できます。

 今の若い教師や教育実習に来る大学生と話をしていると,いじめをしてきたわけでも,受けてきたわけでもない傍観者としての長い経験を感じさせる言動にふれることができます。

 傍観者の中には,自分が「KEGARE」にふれたくないために,「なかったことにする」という「得意技」を使う人間もいます。

 犯罪のKEGAREも時間が経てば忘れ去られるだろうと考えていた京都教育大の中枢も同じことです。

 教師の中には,「いじめた側を処罰する」ことで指導したつもりになってしまうような人間が少なくありません。

 これは,「いじめ指導」という「ふれたくないKEGARE」を早くはらってしまおうとする姿勢に他なりません。

 「いじめは絶対に許さない」という姿勢を子どもにみせ続ける指導は,常にKEGAREをまとうような指導でもあります。

 いじめる側の人間が自分自身の心に負っていく深い傷に気付く指導,気付かせる指導が求められています。

 単純な厳罰化の発想をしている教師たちに,いじめ問題の根本的な解決を追究する考えが浮かぶことは決してないでしょう。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
にほんブログ村
 

08/5/16
「いじめ」と新KEGARE思想

 教育の現場で感じる新種の「KEGARE」意識として、「教師からの指導を受けて不快な気分になること」があげられます。

 このKEGAREをはらうには、「逆ギレする」「無視する」「親に教師を攻撃させる」「他人のせいにする」などという手段があります。

 自力救済系の「はらい」は、「笑われただけでキレる」ような中世の時代の日本人を思わせます。

 他には、「自分の思い通りにならない」というKEGAREもあります。

 これをはらうには、「キレる」「他人を攻撃する」という攻撃的な方法と、「逃げる」「自ら命を絶つ」などの後ろ向きな方法があります。

 「荒れた学校」の時代には、圧倒的に攻撃的な方法が多かったのですが、最近は消極的な態度の方に重点が移ってきています

 「いじめ」という現象がやっかいなのは、同質でない(のが当然なのですが)他人自分の思い通りにならない他人に「KEGARE」を感じ、攻撃を加えて「はらおう」とするのですが、相手が自分の都合のいいようにならない場合、「KEGARE」がさらに増していくことです。
 いじめた側は、相手の「KEGARE」をはらってあげようとしているだけなので、罪悪感がない

 いじめられた側は、自分が「KEGARE」ていることを認めたくないので、初期は「いじめられていること」を認めようとしない
 そして事態が深刻になり、相手から攻撃を受け続け、積もり積もった「KEGARE」が、自分自身の「KEGARE」許容範囲を超えたとき、重大な問題がおこる。

 「いじめ」の問題の根が深い理由は、「新KERGAR思想」にある、というのが私の仮説です。
 では、その解決法ですが、この種の「KEGARE」は存在を否定せずに、教師が指導によって「はらう」しか方法がありません。そのためにはまず、教師自身の「KEGARE」をなくしたいものです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「いじめ」と新KEGARE思想

 教育の現場で感じる新種の「KEGARE」意識として、「教師からの指導を受けて不快な気分になること」があげられます。
 このKEGAREをはらうには、「逆ギレする」「無視する」「親に教師を攻撃させる」「他人のせいにする」などという手段があります。
 自力救済系の「はらい」は、「笑われただけでキレる」ような中世の時代の日本人を思わせます。
 他には、「自分の思い通りにならない」というKEGAREもあります。
 これをはらうには、「キレる」「他人を攻撃する」という攻撃的な方法と、「逃げる」「自ら命を絶つ」などの後ろ向きな方法があります。
 「荒れた学校」の時代には、圧倒的に攻撃的な方法が多かったのですが、最近は消極的な態度の方に重点が移ってきています。
 「いじめ」という現象がやっかいなのは、同質でない(のが当然なのですが)他人、自分の思い通りにならない他人に「KEGARE」を感じ、攻撃を加えて「はらおう」とするのですが、相手が自分の都合のいいようにならない場合、「KEGARE」がさらに増していくことです。
 いじめた側は、相手の「KEGARE」をはらってあげようとしているだけなので、罪悪感がない
 いじめられた側は、自分が「KEGARE」ていることを認めたくないので、初期は「いじめられていること」を認めようとしない
 そして事態が深刻になり、相手から攻撃を受け続け、積もり積もった「KEGARE」が、自分自身の「KEGARE」許容範囲を超えたとき、重大な問題がおこる。
 「いじめ」の問題の根が深い理由は、「新KERGAR思想」にある、というのが私の仮説です。
 では、その解決法ですが、この種の「KEGARE」は存在を否定せずに、教師が指導によって「はらう」しか方法がありません。そのためにはまず、教師自身の「KEGARE」をなくしたいものです。
にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ

| | コメント (0) | トラックバック (0)