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カテゴリー「いじめ問題」の332件の記事

LINEのメッセージ「送信取消」機能は「いじめ」の証拠隠しを可能にするか

 小さな「村」の中のたわいもない諍いが,

 つながっている外の世界に容易に拡散され,

 面白がられる時代になっている。

 仲間であって仲間でない子,仲間でないのに仲間になる子,

 そのときそのときの雰囲気に同調したり反発したりする子,

 カメレオンのように立場を変える子どもたち。

 一瞬だけ,悪口や誹謗中傷を送信し,すぐに取り消して,

 気づかれるか気づかれずにすむかのスリルを楽しむ子どもたちの姿が

 目に浮かぶ。

 学校では一言も会話をかわさない生徒同士だと,教師としては

 「全くつながりがない」と勘違いしてしまう。その子どもたちが,

 一緒になって別の子どもを「効率的に」いじめている場合,

 気づくことが遅れ,対応も後手にまわりやすい。

 もともと悪用がいくらでも可能な道具に,

 善意のための機能が加えられることで,さらに悪用しやすくなる,

 世の中こんなことばかりの繰り返しである。

 いじめられる子どもはよりいじめられやすく,

 いじめる子はよりいじめやすくなる世の中にあって,

 教師の仕事は困難を極めている。

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「いじめ=32万件」はまだまだ少ない数字だろう

 自らの命を絶つ人をできるだけ減らしたい。小中学生は特に。

 社会で注目されやすいのは,「いじめ」が原因とされる子どもの自殺である。

 社会や学校,家庭でも,「いじめ」に対する関心はますます高まっていると言えるだろう。
 
 文科省が「いじめ」に該当するトラブルの定義を拡大していることもあって,

 2016年のいじめ認知件数が前年比43.8%増となった。

 言葉の定義を途中で変えると,統計から変化や推移を読み取ることができなくなっていくが,それはそれで一向にかまわない。

 どうせ全部を報告している暇がないのだから。

 さて,道徳の教科化のせいで,ますますいじめが増えていく,と予測している教育学者はどのくらいいるだろうか? 

 子どもの目を見ない教師が,子どもが何を学んだのかわからないのは当然である。
 

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「お友達」を増やすことだけで満足していたら,学校に来る意味がない

 学校時代にできた友人と長く関係を持ち続けている人も多いだろう。

 「学校は,友達をつくるところ」という宣伝も,間違いではない。

 教育のねらいや有効性を宣伝するとき,基本的に「良いこと」「気持ちが安らぐこと」「ためになること」が前面に出て,「反対意見」はないことが普通である。

 しかし,学校という社会にいて,いつもだれかから守られている,いつも同じような趣味や考えの人と一緒にいる,いつも自分の生活に満足している,・・・そういう状況の中で,人は人として成長できるのだろうか。

 実社会に出て,「あれっ? こんなはずじゃないのに・・・」と不平不満を訴える人が多いのはなぜだろう。

 自分自身の弱さや未成熟に目が向かなくなっている人たちに,「再教育」の場は訪れにくい。

 「学校にいても,だれも私を守ってくれない」「みんなと自分は違う考えで,友達もできず,孤立している」「勉強ができないのに,だれも私に教えてくれない」状況の子どもは成長できるのか?と批判したくなる人もいるだろうが,子どもとは,多かれ少なかれ,基本的にそういう不安や不満を抱くものである。

 「不登校ゼロ」「いじめゼロ」を実現する,といって,過剰に子どもたちを防衛した結果が,「不登校たくさん」「いじめ件数増加」なのではないか。

 「学校にいても,だれも私を守ってくれない」わけではなかった。「私を守ってくれている人の存在に気づけない自分」がいたことに気づいた。

 「みんなと自分は違う考え」だから友達ができないわけではなかった。「私が違う考えへの興味や関心を持てなかった」のが悪いことだと気づいた。

 「勉強ができない私」は,それを「教えてくれない人」のせいにして,「自分ができるはずの努力をしていなかった」ことに気づいた。

 こういう「気づき」のために,学校は存在する。

 「一人も見捨てない」という教師の願いが,結果として「最も見捨ててはいけない子どもに最大の不利益を与えていた」ことに気づける教育者が増えてほしい。

 「学力調査の結果がよくなる」ことで安心や満足を与えようとしている人間がいかに胡散臭いか,「教育者」ならだれでもわかるだろう。

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9月7日 苦難の日のココロの教育強化

 9月=苦月という見方もいい加減にしてくれ,と怒られそうですが,学校の生徒の自殺者が増える時期でもあるようで,教師としては最大限の警戒とケアが必要になります。

 9月7日は「クリーナーの日」だそうで,ゴミがたまったココロをクリーニングする方法を教えてもらいたいという人も多いかもしれません。

 ココロを根っこから返るためには,持続力が低い「感動の言葉」だけではだめで,本人の行動が伴っていくことが大事です。だから,9月に入っても学校では耳タコになるほどの「習慣づけ」に関する指導が大切になります。

 よく6月は時間に注意した行動を呼びかけますが,9月は夏休み中に忘れてしまった行動原則をしっかりと呼び戻すために,時間を大切にする意義をあらためて確認する必要があります。

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制裁よりも大切なこと

 学校で生徒が問題行動を起こすと,決まって「制裁を与えないと気がすまない」タイプの教員が登場する。

 20年以上前は一瞬で終わる体罰でけりがついたのかもしれないが,今ではそうはいかない。

 体罰がだめなら,それ以外の方法で何とか制裁を与えたい。

 ただ,できそうな制裁が見当たらないから,イライライライラして,ブツブツ言っている。

 今は対教師暴力をするにも勇気がいるから,かなり挑発的な行動にでる教員が増えている。

 簡単な話だが,状況は悪い方にしか向かわない。

 当たり前の話だが,制裁よりも大切なことがある。

 自分自身に,自分がやったことに対して,正面から向き合わせること。

 これがとても難しい。制裁は簡単にできるが,教育はそう簡単にはいかない。

 制裁よりも,対話の継続。

 対話ができない教師が増えているから,制裁だのみの人間を減らすことが難しい。


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もう新学習指導要領が発表された後なので,遅いかもしれないが・・・

 委員が集められて,ある程度の方向性が決められているものに「権威」をもたせ,実行に向けて動いていく・・・教育の世界に限らないパターンだと思いますが,この「委員会」が出す結論の中に,「委員の具体的提案」がどれくらい含まれているものなのか,議事録を分析して数値を出したことがある人はいるでしょうか。

 つまり,「いてもいなくても意味はなかった」という人はどのくらいいるものでしょうか。

 まだ日本では「沈黙は金」みたいな文化があるので,本当はそこで「待った」をかけなければいけないのに,太平洋戦争開戦時のようにできなかった,ということはないでしょうか。

 新学習指導要領の総則を読んでみましょう。

 教師がどのくらいの責務を負っているか(負わされているか)がよくわかります。

 「働き方改革」に関する会議という,新教育課程の検討とは別路線から来ている提言の中に,「教師の役割が本当にわかっているのか?」と疑問に思ってしまうのが紛れているのは,やはり「センスが別」の人たちがつくっているからでしょう。

 教員の働き方改革などは「かっこだけですませよう」と思っている人も少なくないでしょう。

 以前の記事でも書いたように,教育現場というのは,そもそも「きりのない場所」なんです。

 40人のクラスの担任をしている私のような教員には,道徳にしろ教科の授業にしろ特別活動にしろ総合的な学習の時間の指導にしろ,学年経営にかかわることにしろ,学級経営にかかわることにしろ,分掌にかかわることにしろ,研修にかかわることにしろ,現状でも「時間が十分にある」とは言えません。

 全く逆に,手を抜こうと思えば,いくらでも抜ける場所でもあります。

 学校現場の人はよく知っていますよ。

 本当に忙しい人は,「忙しい」なんて言っているような暇な時間はありません。

 「いじめ」に対して毅然とした態度をとり,「心の安らかさ」を維持しようとしたら,「働き方改革」の会議で「他の人にやってもらったら?」などと提案されているもののほとんどから目を離せないのが学校というところです。

 「いじめ」への対応が,教員やスクールカウンセラーなどの「一応の専門家」以外の方に,どのくらい期待できるでしょうか。 

 第三者を間に挟むと,結局,聞き取りの時間が余分に必要になり,かつ,事実関係がつかみにくくなる。

 なかなか「人任せ」にできないのが教育の仕事です。

 ある方々は,大胆にも授業そのものを教室の中にいる成績上位の2割の子どもに任せてしまうという行動に出ているようですが,「働き方改革」と「教育改悪」が同時に進行していく可能性があることは,これから危惧すべきことでしょう。

 繰り返します。新学習指導要領の総則の解説を読みましょう。

 教師に何が求められているかがよくわかります。

 「働き方改革」の方が重要なのであれば,総則の作り直しが必要です。

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つぶし役の必要性

 行き過ぎた生活指導が引き起こす問題が多く指摘されるようになっているが,

 生活指導が成立していない学校から上がってくる小学校7年生を何とかまっとうな中学生に育てるためには,たとえば,うそを平気でつき通すような習慣だけは消してあげるような「つぶす」指導が必要になってくる。

 行き過ぎた生活指導とは,子どもそのものをつぶしてしまうものを言う。

 「今の子どもたちはみんな弱い」という先入観があるために,

 多くの学校では,「及び腰の生活指導」やそもそも指導をする意欲も能力もない教師の存在が問題になっていることだろう。

 だから成長するきっかけ,自分を見つめるきっかけを得られないまま上級校に進学していく子どもが多くなっている。

 学校,学年には,「つぶし役」の教師が必要である。

 人間にではなく,行為に対して怒っていると子どもに理解させるのが「つぶし役」の役割である。

 悲しいことは,人間ごと否定してかかるセンセイがどこにも一定数存在してしまうことで,

 生活指導を傍観して,後で評論家のように偉そうなことを言ったり,

 指導の尻馬に乗ったようなかたちで余計な言葉を子どもに投げつけたりすると,

 せっかくの指導も台無しになってしまう。

 生活指導を行うときには,自分はもちろん,教師たちの特性の把握が不可欠である。

 フォロー役がいない場合は,「つぶす指導」をあきらめざるを得なくなるときもある。

 「つぶす指導」で傷つけられた自尊心を修復し,むしろ自尊心を回復させたり,生成させたりすることができる教師は欠かせない。

 学級担任とのかかわりが中心である小学校では,こういうチームプレーがやりにくいから,どうしても「個人」で完結するような指導のマニュアルばかりがはやっている。

 もちろん,一人で「つぶす指導」から「自尊心を生成させる指導」までを完結させられる教師が大勢いればよいのだが,それが難しいことは,かつて日本で当たり前のようにあった「家族」のドラマを見ればわかりやすいだろう。

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「自分を変える」ことは容易なことではない

 私が学校現場から行政にうつり,そして行政の世界から「抜け出した」一つの理由は,

 「自分が正しいとは思っていないことを,学校現場にお願いすること」が精神的に苦痛だったからです。

 そこには,「変えられない自分」がいた,ということでしょう。

 学校現場に戻って,改めて感じたことは,「ここでも嘘つきがたくさんいる」ということでした。

 著書や論文で堂々と嘘を書くのは当たり前。

 「人を変える」ために,必死に極端で大げさな話を振りまき,危機感を煽る。

 「一部を切り取っての説明なのに,それが全部に当てはまるような錯覚を与える」ようなインチキ商売の手法が,教育の世界でもまかり通っていることは驚きです。

 「人を変えるのは難しいが,自分を変えることは簡単」という言葉を,

 「人を変えようとしている人」が使う理由はわかりますよね。

 「自分を変えること」だって,ものすごく難しいものです。

 ただ,詐欺師という「商売」が成り立つのは,「自分を変えられてしまう人」が一定以上いることを示しています。

 魂胆見え見えの嘘つきに騙される人は,別の意味で「自分を変えること」が必要です。

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女性の機嫌の直し方

 女性の「ヒステリー」(これはもう死語?)にはどう対処したらいいのか,穏やかな女性とばかり接してきた人にはわからない話かもしれません。

 そういう意味では,脳科学に頼るのもいいですが,経験が物を言う場合もあります。

 ラジオで『女の機嫌の直し方』という本が話題になっていて,その要旨が一部紹介されているのを読みました。

 女性が読むと,少しムッとするような内容かもしれません。

 この著者の方は,ご自分の近くに「機嫌が悪い女性」がいつもいることにストレスを感じているタイプなのではないかと思ってしまいます。

 「機嫌が悪い女性」を思い浮かべることが難しい方は,まずは,

 母親が子どもを前にして機嫌を悪くする理由を想像してみてもらえばよいかもしれません。

 言うことを聞かない子どもに対して機嫌が悪くなっていることもあるのですが,

 それを増幅させて,「機嫌が悪い」と見た目でわかる,あるいは暴言を吐くレベルまでいってしまうのは,

 「共感してくれる人がその場にいない」ことが大きな原因です。

 その場に人が(父親が)いるのに,自分の機嫌の悪さを感じ取って共感してくれないと判断される場合は,さらに気分を悪化させる原因になります。

 小中学生の女子の会話を聞いていると・・・・話の中身を聞かなくても,様子を見ていると・・・・お互いに共感し合える関係にあることが,友達の条件のような雰囲気が漂っています。

 「でも,あんたにもこれこれこういう理由で問題があるよ」などと論理的に迫ってくる人は,仲間の輪に入れてもらえません。

 だから,言葉で納得させようとする下手くそな道徳の授業を繰り返すと,子どもにますますストレスがたまり,いじめや問題行動を起こしやすくする原因になるのです。

 すぐに機嫌を損ねる女性教師の扱いをとてもよく心得ている子どもたちがいることを何年か前に知りました。

 先輩からきちんと「技」を伝授されて,「無駄な時間を省く」工夫をしている子どもたちがいるのです。

 その技とは・・・。子どもを守るために秘密にしておきます。

 「女性脳」とか「男性脳」という命名は,本当に正しいのでしょうか。

 著者は女性のようなので,「女性は自分の理解したいように理解する」というご自分の理論をご自分で証明されているとすると・・・。


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挨拶をさせられている子どもたちが痛々しい

 「挨拶運動」という取り組みをしている学校や,

 「挨拶をしよう」というスローガンを掲げている学校がある。

 中学校で歴史を教えている私には,「国民精神総動員運動」を連想させられる。

 「挨拶」をすることを生徒に呼びかけるのはかまわない。

 「挨拶」をしてほしい人が,自分から「挨拶」をすればよいわけだから。

 ただ,日本の道徳教育には,「儒教」の精神が紛れ込んでおり,「挨拶」は上下関係を基本にした「型」を強要される傾向もある。

 「お客様」に対する「挨拶」と,仮にも人間性の尊さを教える教育の場での「挨拶」は区別して考えるべきことだろう。

 「お客様」に対する「挨拶」をみっちりと仕込まれている客室乗務員のトレーニング風景を想像してみてほしい。

 あれを学校でやられたら,「人間性の尊さ」どころの話ではない。

 「人間性」や「人格」を無視した教育が,「道徳」という名のもとで大手を振って歩くことに,強い危惧を感じている。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より