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カテゴリー「学習の評価」の505件の記事

「任せながら鍛える」のではなく「鍛えながら任せる」?

 教育の世界には,「言葉遊び」で戯れ合う暇な人たちがいる。

 「任せながら鍛える」のではなく,これからは「鍛えながら任せる」ことが大切だ,などと主張している人がいた。

 両者の違いは何だろうか。後者は「任せる」ことに主眼をおく,という意味だろうか。

 教師が課題を与えておいて,「任せる」も何もない。子どもは「やらされている」だけである。
 
 「任せながら鍛える」ときの「鍛える」方法とは何だろう。結局「任せてはいない」のではないか。

 「任せる」も「鍛える」も,教師の側の姿勢・態度である。

 「任せる」ことの価値が,何となく「鍛える」ことの価値よりも高く思える。

 ただそれだけのことでは,何の意味もない。だから「言葉遊び」だと言っている。

 事実や関係性を読み解く能力がついていないのに,自分がいいなと思う姿を子どもが見せただけで安心してしまう教師が増えるのだけは阻止すべきだろう。

 子ども自身が重要な課題を見つけ出すまで試行錯誤させることには意義がある。

 これが「任せている」状態というのだろうか。見方を変えれば,課題発見力を「鍛えている」状態になる。

 こういう「言葉遊び」や, 

 「子どもの誰一人も不幸にしない」などという自分勝手な願いではなく,

 「子どもの思考力・表現力を高める授業をしたい」という具体的な願いをもった教師がいるとする。

 「思考力」が数値化できるとしたら,10もっていた子どもを12にしたり,
 
 3もっていた子どもを4にしたりすることが「高める」という言葉の意味である。

 ただ,残念ながら,「思考力」の数値化は難しい。

 「表現力」はある程度,測定することができるかもしれないが,「思考力」は「量」的なものではなく,「質」が問われる能力である。

 言葉では表現できない子どもに,イメージできていることを絵で表現させたことがあるが,

 そこで初めて「かなりの思考力がもっていた」ことがわかったことがある。

 「思考」したことを「表現」する方法は様々であるが,子どもの特質に応じた方法を考えておかなければならない。

 教師が子どもに課題を与えるときは,その解決の方法を「任せる」のではなく,

 選択肢を与えて「選ばせる」ことが必要な場面がある。

 「思考」させるときに,教師がどこまで具体的な指示を出すかも,様々な要因によって変わってくる。

 時間に余裕がないときは,「~が~であることを発見するために,2つの資料を比べてみなさい」

 というところを,子ども自身に発見すべきことを気づかせるために,
 
 単純に「比べてみなさい」と言ったり,「2つの資料を見てみなさい」と言ったりする。

 では,「~が~であることを発見した」生徒は「思考力が高まった」と言えるかというと,そう簡単には判断できない。

 もともともっていた思考力を活用しただけなのかもしれないから。

 一斉授業はテクニック次第でどうにでもなる,とほざいている連中がいるが,

 教育はそんなに簡単な仕事ではない。

 教師は学習状況を授業の中で把握して,子どもの活動の種類を調整することが求められる。

 当たり前のことだが,個々の学習状況を把握するためには,個々の生徒の学習状況が把握できる場面をつくらなければならない。

 教師の中には,生徒が話し合いをしている場面を「学習状況」として把握しようとする人がいるが,

 「協働性を高める」ことがねらいならそれでよいとしても,

 「個々の思考力を高める」ためには,個々が今どのような状況にあるかが把握できないといけない。

 だからテストのときはもちろん,「だれともかかわらないで一人で活動する場面」が授業では絶対に必要なのである。

 子どもが4人1組で教え合わされて,わかったつもりにさせられるような授業をしてはならない。

 これほど当たり前のことが理解できない指導者がついてしまう教師や教育実習生と子どもたちは本当の気の毒である。 

 価値認識を重視するあまりに,事実認識や関係認識がおろそかにされている学校現場は,要するに「思考力を奪う」場所になっているのである。

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動いたり話したりしていないと「学んでいない」と考える人たちがつくる落とし穴

 人間は,自分の頭脳を本当にしっかりと使っているとき,どんな状態になると思いますか?

 ものを考えているときに,だれかが無神経に話しかけてきたら,どう感じるでしょうか?

 「話しをしながら考える」ことができる人間など,ごくわずかです。

 残念ながら,教育の世界には,もともと「座学」が大嫌いな人がいて,子どもが歩き回ったり話したりしているだけで,嬉しくなってしまう人がいます。

 小学校だけかと思いきや,高校の授業ですら,見当外れの意見が出ても,「ああ,自分の考えをもつことができていて素晴しい」と感動してしまう人がいる。

 事実認識も関係認識も誤っているのに,たまたま評価者(学校では教師)がもっている価値認識と重なっただけで,よしとされてしまう仕組みが世の中にはあるのです。

 だから,多くの人間が「騙される側」「利用される側」に陥っていく。

 子どもが勝手に動くことも話すことも放置して,結局何もわかっていない状態に子どもが陥っていくのを気にせずにすませられてしまう人が教師になったら,学校はどうなっていくのでしょう。

 価値認識を最優先させて,事実認識や関係認識をしっかり育てない国だから,先の戦争が防げなかったのではないでしょうか。

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学校内での「生き方」を本で学んでいる同僚がいるのは「気持ち悪い」ことではないか?

 「オレが教えた方法で上手くいかないのは,お前たちのコミュニケーション能力が足りないからだ」という本音がそのまま本になって出版されているらしい。

 そこには,校長のタイプ別対処法とか,保護者への説明法とかが書いてあるようだが,こういうノウハウ本を読んで「職場での生き方」を考えている教員を信用しようとする人がいるものだろうか。

 かつて,想定外で区長に当選してしまった人間が,政治上の判断をつねに政党に問い合わせていたことが暴露されたことがあった。その政党は,天皇制の廃止や自衛隊の解消をめざしているところといえばわかるだろうが,民主主義の恐ろしい側面が垣間見える。議会とうまくやっていくには,どうしたらいいか?議会の支持者は少数だから,うまくいかないことは最初からわかっていた。


 衝突を避けることを考えろ,という教えと,

 衝突が起こっても,正しい道を貫け,という教えはどちらが大切か?

 教師が誤った道をいっているのに衝突が起こらない学校ほど危険なところはない。

 

 コミュケーション能力がない教員にタイプを見定められる校長も気の毒だが,何よりもやるせないのは同僚たちだろう。横のつながりがない学校にいる教師は本当に不幸ではあるが,その解決策が「本に頼る」世界は終わっている。

 わかったつもりになっている人間の言葉を読んで,自分もわかったつもりになるのが,教育の世界では最も危険なことである。

 それほど学校では教師たちの横のつながりが失われているのだろうか。

 昔も書いたことだが,教員の多くは「できるだけ評判のいい学校」に異動したがる。

 「いい学校に異動させてくれる校長がいい校長だ」なんていう校長評価が蔓延している。

 残念ながら,人事を決めているのは校長ではない。

 校長がもっている人事権は,ダメな教員を外に出すことだけである。

 そんな当たり前のことも知らない教員が,校長を評価できるわけがない。

 
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義務教育でアクティブ・ラーニングに取り組ませる目的

 学習指導要領の改訂によって,「主体的・対話的で深い学び」の実現が求められているが,

 これは従来,観点別で評価していた関心・意欲・態度,資料活用の技能と思考・判断・表現,知識・理解という学力の3つの面について,

 「量」はそのままで「質」を高めよ,という話である。

 今まで「量」をこなしても,それが身についていなかった。

 だから,学習の「質」を高め,身につく「量」も増やせ,という方が趣旨に近いかもしれない。

 学習の「質」が高まってこなかった背景には,「観点別学習状況の評価」の存在があった。

 私がこれまでこのブログで何度も指摘してきたように,

 「観点別の評価」というのは,学力の総体を見るものではないために,

 「関心・意欲・態度」を授業中に発言した回数や提出物を出した回数で評価するなど,目標とは無縁のいい加減な評価がまかり通っていた現状があった。

 今後,4観点が3観点に変わるのだろうが,同じ過ちが繰り返されるおそれがある。

 センター試験のように,穴埋め問題ができたことをもって「知識・理解」がなされているという恐ろしく適当な評価をしてきた教員にとって,アクティブ・ラーニングがどんな学習か想像もつかないかもしれないが,

 あることがらをこれらの資料を使って2~3の観点から説明せよ,という「目標に照らして本来そうあるべき学習内容と方法」を課題として与えてきて,1つの課題に対する解答を各観点から評価できていた教員にとっては,「今まで通り」で何の問題もないのである。

 「深い学び」についてイメージできない人は,まずは自分の大学での卒業論文を想定してみる。

 卒論で「深い学び」をした経験させてもらえなかった大学の卒業生は,教員として採用するべきではないだろう。

 もちろん,教育実習に毛が生えた程度の実践をして,単純に「みんなで正解できました」「これでみんな理解できました」などという報告をしただけの大学生も,教員にしてはならない。

 義務教育でアクティブ・ラーニングに取り組ませる目的は,

 一言で表現すれば,「わかっていない,という自分の状況がわかるようにしてあげること」である。

 成果至上主義は教育の世界にも蔓延しているから,

 「わかったつもりの人間」が隅から隅まであふれ出している。

 「わかったつもりの人間」を大量生産しているのは,A4用紙たかだか数十枚程度の文字数で,「これで授業は劇的に変わる」などと宣伝している暇人たちのせいでもある。

 現状のどこが問題かがわかっていないような人間も増えているが,それは

 「アクティブ・ラーニング」がこの国の教育の常識ではなかったからである。

 「本を読めばできるようになる」などと考えている人間がいるとしたら,まさに

 「アクティブ・ラーニングとは縁がなかった」という証拠になる。

 主体的・対話的で深い学びを子どもにさせてあげようとするならば,

 まずは校内研修でそういう「学び」を経験してみるべきだろう。

 呼んだ講師を評価するときの大事な視点は,

 「わかったつもりになった自分がバカだった」と思えるかどうかである。

 「よくわかった」などと「わかったふり人間」を増やしただけだったら,研修は意味がなかったと考えてよい。

 いきなり隣の教員と握手させたり,肩をたたき合うような暇つぶしをする講師が来たら,まずは怪しいと思った方がよい。

 データをたくさん示し始めて,「科学的ですよ」なんていう雰囲気を充満させる講師も同様である。

 将来の子どもの危機を煽るような人間も同様である。

 「似非アクティブ・ラーニング」は,必ずこうした「目くらまし」から始まる。

 歴史や伝統がない国のアクティブ・ラーニングが,

 歴史も伝統もある国のアクティブ・ラーニングのパクリでは,

 どう考えてもアクティブ・ラーニングにはなり得ない。

 自分たちで工夫すること。

 教師が工夫すること。子どもが工夫できる余地を与えること。

 それが義務教育でアクティブ・ラーニングに取り組ませる目的である。


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人のコンプレックスを利用した商売

 だれもがコンプレックスを抱いて生活を送っている。

 容姿について,仕事の能力について,人間関係に作り方について・・・

 商売をする人から見れば,とてもおいしいマーケットである。

 こうした「コンプレックス市場」は,教育業界においても存在する。

 その勧誘の言葉がえげつない。

 コンプレックスを何かの商品で覆い隠そうとしても,

 教育の場合はすぐに馬脚を現すことになる。

 人と人とがぶつかり合うことが,成長の糧になるのであって,

 仲良しこよしでコンプレックスが解消されるわけではない。

 安易な教育観や,「データに基づく」などとされる教育方法のいい加減さを暴く方法は簡単である。

 自らのコンプレックスに自分の力で立ち向かっていく勇気のない人間には,成長はない。

 そういうことを教師は子どもに伝えなければならないのに,

 自分の方から進んで逃げているような人間は,

 必ず周囲に同じことを指向させるような悪影響を及ぼす。

 授業がうまくいかないから,

 生活指導がうまくいかないから,

 ああ,これに頼れば何とかなりそうだ・・・

 こういうコンプレックスビジネスに騙されている暇があったら,

 とことん子どもたちと格闘すべきである。

 教育実習のたった3週間は,「自分との戦い」であって,

 「逃げ道」づくりの場ではない。

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子どもは教師を選べないが,教師は子どもを選び直せる

 学級経営や授業づくりに行き詰まって,自称・成功者たちが開く,3000円くらいが相場の有料のセミナーに参加したことがある教師は多いかもしれない。

 小学生たちは,学校教育の求めるレベルに照らしてみると,基本的に優秀で,真面目で,向上心にあふれているから,教師が自分の方に問題があるのではないか,と疑ってかかる姿勢は非常に正しい。

 教育の世界でいう「七五三」とは,小中高における子どもの平均的な学習到達度を指す。

 私が知っているデータに基づいて言えば,中の「五割」は当たっているが,小においては「八割以上」を達成している学級も少なくない。その程度のレベルしか想定されていないのが今の小学校である。(だから学力上位層・・・最近は,公立の中高一貫校を目指す子どもが一定数いるために,裾野が広がり始めている・・・は競って進学塾に通い,中学受験を目指すわけである。)

 中高に比べて,小学生に達成感を持たせることは容易いことである。

 百マス計算をやらせるだけで,生き生きしてしまう子どもはいくらでもいた(今もやっているのだろうか?)。

 そんな時間はもったいない,ということに気づき始めると,今度はアクティブ・ラーニングだ,と目先を変える。

 何を試してみても,どうもしっくりこない。流行の先端ばかりを追い求めて,結局は単純に自分が勉強不足であり経験不足であって,同じ学校の教師たちから学ぶ姿勢がないばかりでなく,子どもを見ることすらできていなかった自分に気づく。

 学校という建物の中で間借りをしているヨソモノに過ぎない自分から担任が交代するだけで,子どもたちががらっと変わる,学級崩壊がぴたっと止まる様子を目前にした教師たちは,とりあえず異動させてもらって,次なるチャンスに備える,という選択が可能である。

 子どもは,教師を選べないが,教師は,子どもを選び直すことができる。

 親と教師の違いがここにある。

 教師たちは,いったいどれくらいの子どもたちを見捨ててきたのだろう。


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「自負」の塊たちとの確執

 「自負」をもっていない人間が生き残れない世界があるというのは理解できる。

 しかし,教育の世界こそ,「自負」を脱ぎ捨てられる人間でないと,見るべきものが視界に入らないまま終わってしまう。

 自分が見たいものしか見ず,聞きたいことしか聞かないようにする人間に,教育を語る資格はない。

 自分に都合のいいように,言うことを聞かない人間や言うことをきく人間の話を持ち出して,お山の大将ぶる醜悪な姿は,必ず教え子たちに伝染する。物理的な距離の近い遠いが重要なのではない。

 実は私自身は,こういう「自負」の塊のような上司と直に接したことはほとんどない。

 本で読んでその薄っぺらな教育観にあきれる人たちは多いが,そのおかげで,直に会って話を聞こうと思う気になることはない。

 ここ数年,何を学んできたのかわからない大学院生たちの面倒を見ることがあって,「自負」の塊が伝染したかのような,教員採用試験には決して合格できないであろう,「教育の研究者」たちに辟易とさせられている。

 人間が人間を育てるのが教育である。その影響は計り知れない。

 大学院生たちが見ようとしているのは,はじめから,自分たちの成果だけである。

 教育で見るべきものとは,子どもたちの表面的でだれの目にもうつっている活動ではない。

 黙っているときに伝わってくる願いであり,離れたところにいて伝わってくる思いである。

 子離れできない親が,最も子どもが自分を必要とするときに限ってそばにいないのと同じように,教師が子どもを困らせるのはその距離感である。

 自分たちの成果しか頭にないような人間たちに,子どもは変えられないし,最も私が危惧するのは,子どもにそういう利己的な人間たちの精神が伝染することである。

 「私の言う通りにすれば,みんな得ができる」という話法で丸め込む,商人すら小馬鹿にしたような私共(わたくしども)空間の主に,教育の世界が汚染されるのは忍びない。

 私の仕事はそういう人間の「自負」を打ち砕くことにある。

 学校や子ども,家庭のありとあらゆる実態に迫っている教師たちにとって,そことの距離が完全に離れてしまっている人間たちの「実証」だの「研究」だのはお荷物でしかない。

 自分に都合のよいデータだけで語るのはまだしも,議論をするときに最も核心的な問題点を論じる自由を与えないことこそが,「教育の研究者」を代表するいい加減な姿勢である。

 お荷物がもっと重たいお荷物を育てて学校現場に送り込んできてくれることで,やりがいのある仕事がまた増える。

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走っていると見えないものが,歩いてみると見えてくる

 「走る教育」,「歩く教育」という2つの言葉を並べてみると,どのような対比が見えてくるだろうか。

 一人の教師に目を向けてみると,私の場合は,40歳代までは「走る教師」だった。

 今は,「歩く教師」になっている。

 大きな怪我をして,あるいは,体重が重くなりすぎて,物理的に走れなくなったという意味も含んでいるが,「走れなくなった」というより「走らなくなった」と表現する方がよいかもしれない。

 もちろん超短期で考えると,「走る」こともある。

 ただ,かつてはいつも「走り続け」ていて,時々「猛ダッシュする」という感じだった。

 今では,基本的に「歩き続けて」いる。

 もしかしたら,生徒が「見える」ようになったことで「歩いている」ように感じているのかもしれないが・・・。

 「一緒に走らない仲間」や「ついてこれない子ども」が増えていることが,「歩く」姿勢を重視させているという気もする。

 とても単純に考えると,「歩く」ときは視野が広くなり,よそ見もしやすくなるが,「走る」ときは,視野が狭くなり,よそ見もしにくい状況で,急には止まれない,などいった欠点が多かった。

 「歩く」と,「走る教師」もよく見えてくる。

 それが危なっかしく見えるようになると,教師としては「晩年」を迎えるということだろうか。

 行政にいたころは,基本的に「立ち止まっている」状態だった。

 「立ち止まっている人」や「後ろ向きに走っている人」を見る機会も行政では多かった。

 「見える」ということが,いかにつらいものであるかということもよくわかった。

 もしかしたら,嫌なものを見ないですむために「走り続けた」のかもしれない。

 それでも,行政に比べれば,学校現場は,いたって健全なところである。


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北陸地方では常識的な?「防災教育」

 ある高校生が,「雷の多い年は豊作になる」と言い伝えを実証するための実験を行ったことがニュースになっています(産経新聞)。

 私の勤務している中学校では,1年生の一部が必ず田植え体験をしている関係で,よく次のような話をします。 

 以下の文章は,JAみな穂のHPからの引用です。

****************

 雷は稲妻とも呼びます。雷は稲が結実し始める夏の時期に多く発生することから、古来より稲は雷によって結実すると信じられていました。雷が稲を孕(はら)ませると考えられ、雷を稲の夫(つま)稲夫(いなずま)と呼ぶようになりました。昔は「夫」も「妻」も夫婦や恋人が相手を呼ぶ言葉で、「つま」に妻が当てられたことから稲夫→稲妻と呼ぶようになりました。

 そのため雷が多い年は豊作になると信じられてきたのです。
 
 また雷を「神鳴り」とも書くように昔から雷は神の仕業と考えられてきました。雷を「いかづち」とも読むのは荒々しい様子を表す「厳(いか)し」に大蛇(おろち)や蛟(みずち)などで神や霊を表す「ち」を「づ」現代かなづかいの「の」で繋げたものです。

****************

 このHPには,北陸地方が雷多発地帯であることも示されていました。

 北陸各県では,「雷が発生したときの安全対策」の教育もしっかりと行われているのかもしれません。

 
 実際に田んぼに雷が落ちると,どんな現象が起こっているのでしょうか。

 高校生が行った実験によれば,放電した水は,通常の水よりも窒素を多く含んでいたとのこと。

 そうすると,人為的に放電を起こしていき,水分中の窒素量を増やすことで,収穫量の増加が見込めるようになるのでしょうか。

 ただ,長く放電しすぎるのもいけないようです。

 
 各地に残されている様々な伝承は,経験則を示しているものも多いのでしょうが,現在では,それらの科学的根拠を解明している人たちも多いはずです(そういう本を昔読んだ記憶があります)。

 今回の高校生のような実験・検証を行う研究が,「総合的な学習の時間」の基本スタイルになっていくことを期待したいものです。

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「一斉授業」の展開のバリエーション

 なぜ45分とか50分の一斉授業において,一定時間,教師が話をしなければならないのか。

 それは,生徒に「学習」をさせるためである。

 生徒が「学習」に取り組むためには,頭の中を「アクティブ」な状態にしなければならない。

 生徒の頭の中が「アクティブ」な状態になるためには,「なぜこの問題を考える必要があるのか」「なぜこの問題を考える価値があるのか」を実感させないといけない。

 「そんなことは無理だ」と諦めているのは,「子どもを見捨てている」教師である。

 「一人も見捨てない」などという綺麗事を言いながら,「大勢を見捨てている」罪悪感に駆られない人間は教師ではない。

 「主体的に学ぶ」姿勢を持たせるためには,教師主導の「導入」や「展開」が必要なのである。

 「展開」の仕方は様々である。

 指導案では,「展開1」「展開2」「展開3」などと,発問や理解の深まりとともに,学習のスタイルも変化する場合がある。

 ペアで議論したり,4人1組で話し合ったりする場面もあるだろうし,1人の発言をもとに,多くの生徒が意見交換をする場面もあるだろう。

 いつの間にか,「学級自治会」みたいになることもある。

 これも「一斉授業」である。

 理解が不十分な子どもに寄ってたかって理解させようとする子どもたちに,「それでお前たちが得ができるんだ」なんて「説得」している教師が実在するとすれば,恐ろしい限りである。

 文科省は,「自分で考えればもう少しで答えが出たのに,他の子に解き方を教えられて悲しい思いをした」というケースも,「いじめ」と認定するという見解を出していることを覚えておいてほしい。

 「一斉授業」に対する理解も技能も不十分なまま,子どもたちを「放し飼い」にする教師を断罪できるのはだれだろう。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より