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カテゴリー「学習の評価」の539件の記事

どのレベルの生徒に合わせて授業をしますか?

 私は社会科の教師だからか,「どのレベルの生徒」という質問を受けたときに,「何のレベルの話?」と聞き返さずにはいられない。

 「コミュニケーション能力のレベル?」

 「知能指数のレベル?」

 「社会科の知識レベル?」

 「思考力とか,資料活用力のレベル?」

 「親しさのレベル?」

 「実際についている役職のレベル?」

 授業では,非常に多くの問いかけが子どもに対してなされるが,その難易度は一定ではない。

 様々なレベルの子どもに向かって,様々なレベルの問いを投げかける。

 答えが言えない子どもにとって,その問いは意味がないと捉えるのは,

 「今日は,これができるようになりましょう」などと子どもに指示する下らない教育のレベルの話だろう。

 「授業中にはできるようになっても,家に帰ったらできなくなる」ようなことを学校で延々とやっていても意味はない。

 問いとその応答のやりとりを通して,コミュニーション能力を向上させていく。

 知識はどういう風に使われることで,意味を持って行くか自覚させていく。

 「思考力」とは,ただ「考える」という漠然とした頭の働きではないことに気づかせる。

 Aさんは共通点から大事なことを読み取った。Bさんは因果関係から本質に迫ってきた。

 Cさんは・・・。多くの発言がさまざまなレベルの子どもにとって,参考になっていく。

 対話を通して,それぞれのレベルの子どもに合っていく,それが「授業」である。

 今時の「教育学者」は,こんな当たり前のことを学生たちに語ることができないのだろうか?

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「功を焦る子ども」に成長が阻害される「弱者たち」

 教室に,「強者」と「弱者」のはっきり・くっきりした区別が見て取れる。

 「強者」は得意げに,「救ってやってる」オーラを全開にし,

 「弱者」は控えめに,「救ってもらっている」オーラに浸っている。

 一斉授業でも,教師のコントロールのきかない,KYの「強者」は同じような「侵略者」となるが,

 「弱者」「弱者」とバカにされている子どもたちの成長をじっくりと待つ姿勢が維持できる。

 「弱者」が成長の糧とするのは何だろう。

 それは,自分自身の努力による課題の克服であり,

 「強者」の「お情け」「身勝手な侵略」ではない。

 「一人も見捨てない」という原則から外れないために,

 徹底的に「弱者」をいたぶる子どもたち。

 「これで俺も得ができるし,お前にも損にはならないだろう」という理屈。

 こういう光景に疑問をもたない教師たちが増えないことを祈りたい。

 優れた教師が育成できない大学がドツボにはまったままなら,

 自然と淘汰されてくれるに違いない。

 下らないこんな記事が4500個目の節目の記事になってしまった。

 優れた教師に出会うことがなかった人は,残念ながら,教師には向かないことがよくわかる。

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9月14日 食いしばる力をつける教育

 我慢させる,辛抱させる,耐えさせるなどという「教育」などあるのか?というのが今の世の中だろう。

 精神的な苦痛を子どもが感じることをすべてさけるような環境・・・つまり,家庭のような場所に学校をしてしまったら,どうなるのだろう。

 「パワハラだ」「ブラックだ」と騒ぐ新入社員が増えるのだろうか。

 すぐ離職する若者が今よりも増えるのだろうか。

 若い教師にそういう経験をさせたら,パワハラだ,と言われる学校になったら,教育はどうなるのだろう。

 演劇の世界の「常識」も,変わってきているようだ。

 国会議員の事務所も。

 踏ん張る価値のある場所,食いしばって粘る価値のある場所がたとえ学校だけになったとしても,そういう機会を子どもから奪うことは許されないのではないか。

 私自身の学校生活をふり返るとつらいことも多かったが,そこで歯を食いしばることができたから,今があるという実感が強い。

 社会に出た卒業生たちから聞くのも全く同じような話ばかりである。

 上手くいかないことが,世の中にはたくさんある。

 自分だけの力ではできないことが,世の中ではたくさんある。

 一方で,自分の力で何とかできることも,人に助けさせる方針を持つ教育もあるようだが,こういうお節介が人の邪魔をする世の中をつくって「生きる力」を奪っていこうとする教師が増えないことを望みたい。
 
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9月13日 世界法の日に考える「法の支配」

 「深い学びなど必要ない」と主張している大学のセンセイに習った人たちは,教員採用試験ではちゃんと「建前」を述べて,得点を稼ぐのだろうか。それとも,大学の「学び」を生かして,試験官に喧嘩を売るのだろうか。

 教育現場で「法の支配」という言葉を使うと,すぐに「よくないこと」というイメージを連想する教師が少なくないだろう。

 社会科の公民的分野や政治経済で学んだはずの「法の支配」という概念は,

 学校現場で惰性にまかせて教師を続けていると,いつの間にか生徒たちにとっての「校則による支配」などと同じようなレベルのものに変換されてしまうに違いない。

 採用試験のときはきちんと勉強したはずだった「教育法規」だが,管理職試験を受けようとして「学び直し」をしてみると,「こんな法律もあったのか!」などと驚くこともある。

 国際社会では,「法の支配」ではなく,「国益の支配」が主流になっているような印象があるのだが,

 学校現場でも,やはり「法の支配」ではなくて,「子どもや親の利益の実現」という目的に偏ってきている気がする。

 「未履修問題」に代表される「ルールを無視した受験重視・効率重視の学習・進路指導」を是正しようとしているのが,現在の教育改革のねらいの一つである。

 しかし,「子どもや親の利益のため」という部分を票のために議員までもが実現しようとしているので,

 学校現場の感覚ではどう考えても「それはない」というタイプの政策が浮上してきている。

 借金をして将来世代に負担を押しつけながら,「今の景気が良くなりすればそれでよい」という短期的利益誘導型の政策が,ありとあらゆる分野に一律に仕掛けられてきている。

 「法の支配」が実現しているのかどうか,チェックする機能を果たすべきなのは,どこのだれだろう。

 残念ながら,それを実行する主体が自分たちの利益ばかり考えてしまうというところが,悲しいところである。

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妄想教育に教材研究は必要ない

 妄想教育への批判は,どこから始めればよいのか,悩んでいる人がいるようです。

 そういう人やそういう人が集まっている場所には近づかない,というのが正解だと思うのですが,

 本当に出口が見えなくて困っている人たちにとっては,胡散臭いものの方が逆に「本物」に見えてくる。

 「藁をもつかむ」気持ちでいるときに,人は正常な判断が下せないものです。

 教材研究がなくても,具体的な子ども理解はなくても,信じさえすれば,成果が出せる。

 こんな妄想をいつの間にか「本物」として信じ込んでしまった人を現実世界に「取り戻す」のは骨の折れることです。

 教育の世界で教材研究を「取るに足らないもの」と信じ込んでいる人が,大きな過ちを犯したことを,このブログで具体的に紹介しました。大学に身を置きながら,「教材理解の浅さ」を露呈したその人物は,自分の過ちを認めないところや攻撃が大好きなことが「定評」になってか,「この人にだけは授業の講評をしてもらいたくない」という有名人になっているそうです。

 やがて忘れ去られる運命にある他国第一主義の人間や妄想教育の指導者は,他人の努力に価値を見出せないことが,最も「教育」から遠い位置にいる大学の「ただのガクシャ」らしいところなのです。

 人の努力を自分は認めないくせに,自分の努力を認めてくれないとすねる。

 教師が劣化している原因はお前にある,という批判に正面から応えられない。

 本を読む動機を与えてくれるのがよい教師としての資質の一つでしょう。

 批判をする前に,俺の本を読め,と本を読んでいる人に言う人とコミュニケーションをとることは困難です。

 だって,あなたが大切だと思うことは書いてあるけど,多くの人が大切だと思っていることと,食い違っていますよね,とか,あなたが書いていることは,みんなもうわかっていますよ,という問いかけに,「お前がわかっていないだけだ」と返されてしまうと,もうその人のかかわった本は読む気がしなくなるし,そもそも書いてあることが全く信用できなくなる。

 教育現場にご自分の妄想を押しつけることだけはやめてほしいのですが,「講師」に面と向かって批判できる教師は,どこかの政権内部と同じように,きっといなくなってしまっているのでしょうね・・・。

 私は組合員ではありませんが,組合のときだけ元気になっていた教師たちを懐かしく思い返しています。

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授業では,「わかったつもりになっている子ども」を罠にはめることも大事

 公立の小中学校レベルの授業だと,すでに塾とか通信教育での学習で「履修済み」の内容が扱われたりして,一部の子ども(地域によっては大部分の子ども)にとって「わかっていること」を繰り返しているだけの場面が増えてきます。

 当然,教師は,まだわかっていない子どもをわかっている状態に変えるために授業をしますから,単純な発想しかできない人は,「わかっている子どもに教師役になってもらう」という姑息な手段に訴えようとします。

 ただ,まだわかっていない子どもが「わかった!」という快感が得られる手前で答えを言ってしまうなど,「手加減を知らない」「自分の優位性を示したい」のがやはり子どもらしいところですから,「わからない」状態にある子どもが,「わかる」プロセスを通してせっかくの「成功体験」が得られる機会が無駄になってしまうことが多いのです。

 だから,「わかっている子どもがいるんだから,任せてしまえ」というのはあまりにも乱暴というかいい加減な態度なので,絶対にやめてほしいのです。

 これからの学習指導で「主体的・対話的な深い学び」を子どもに実感させるために,いい方法があります。

 「わかったつもり」になっている子どもに「本当のことはわかっていなかった」と思わせ,「わからない」子どもの方が「本当のことがわかりやすい」立場にいたことを実感させるのです。

 「わかったつもりになって人に説明することが,いかに恐ろしいことか」を実感させれば,授業に集中しやすい環境がつくれるでしょう。

 以前どこかで紹介したかもしれませんが,聖徳太子(厩戸王)の政策を蘇我馬子が苦々しく思っているように描いている漫画と,誇らしく思っているように描いている漫画があります。漫画にも,レベルの違いがあるのです。

 どうして蘇我馬子の反応が違うのか。どっちが正しいのか。

 小学校レベルの授業では,「聖徳太子の政治」というタイトルが成立していますが,今,そういうタイトル自体が成立しないような解釈が一般化してきています(残念ながら,一番売れている中学校の教科書も,そういう小見出しがついてしまっていますが)。

 なぜ聖徳太子が,朝廷のあった場所からかなり離れた斑鳩に拠点を置いたのか?

 それが次の段階に考えさせることで,聖徳太子の死後,何が起こったのか?

 小学生にもこの辺までふれておいてくれると,「権力争い」の構図の捉え方の基礎が身に付く感じがしますね。

 もちろん,「高校生レベルが深い学びなんだ」というわけではありません。

 小学生にでも,「蘇我氏の実力」をどう捉えるべきか,深く考えることは不可能ではないでしょう。

 「善」と「悪」に簡単に分けて人間や歴史を語るような態度では,「深い学び」は絶対に不可能です。


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「わかっている子」の説明で,「わかっていない子」が理解できるようになるか?

 教師が教えるより,子どもが教えた方が,教えられる子どもは理解しやすい,と主張している人がいますが,それはときと場合によるでしょう。

 もしそういう主張が正しいのであれば,「小学3年生の勉強のよくできる人が教師をしている小学3年生のための塾」などが商業的に成立しているはずでしょう。「教えるプロ」なんていらない,という主張なんでしょうから。

 教師をしていれば・・・というより,教育心理学とか認知心理学を学べばわかることですが,

 「理解の仕方」「認識の仕方」は子どもによってまちまちです。

 「言葉で理解してしまう子ども」が,言葉のまま説明しても,

 「言葉だけでは理解できない子ども」にはわかりません。

 一斉授業をしながら,教師たちは,「いかに子どもの発言・説明を他の子どもにも理解できるようにさせてあげるか」に苦心します。手っ取り早いのは,教師が「言い換え」をしてしまうことです。

 それで理解できるきっかけになる場合もありますが,「言い換え」は説明する側の子どもができるようにしなければなりません。

 ICTなどいろいろな道具を使ったり,黒板に図を書いたり,たとえ話をもってきたりして,「変換作業を行う場」が一斉指導の中で必要なのです。

 教育実習をしているときに,大学生の実習生の発問を,生徒がわかりやすく変換して,課題を焦点化したり,具体化してから,考えや答えを述べる,という場面が出てくるように指導しておくのが,教師の役割です。

 「自分がわかっていても,相手が同じような方法でわかるとは限らない」。

 一斉授業を行って,教師である自分自身の説明や,教科書の記述を例にして,これをきちんと把握させておくことが教師には求められます。

 教師はだめだが子どもが説明すれば大丈夫なんて,簡単に言ってはいけないのです。

 「何がどうわからないかがわかるというのは,相当高いレベルのこと」ということを理解した上で,学習は進めていくものです。

 ボタンのかけ違いはあとで取り返しのつかないことになりますから,ぜひぜひ注意して下さい。

 特に,「同じレベルの仲間が多いほどいい」なんて言っている連中には警戒して下さい。

 だめな人が束になって自分たちの首を絞めるのはやめましょう。

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「一斉指導=黙って座って聞くもの」は時代おくれ

 総合的な学習の時間の指導を,学習指導要領に示されている目標をきちんと達成しようと真面目に取り組んできた人にとっては,通常の教科指導における「一斉指導」がいかに重要なものか,言うまでもないでしょう。子どもの主体性に依拠した学習では,「広げる」「まとめる」「深める」ことに多大な時間を要します。

 中等教育における教科指導は,初等教育のように「必ずどこかの教科で手抜きが行えるようになっている」ものとは違い,学習指導要領に示されている目標や内容が多く,計画的に進度を保っていかないと,「学習していない」=「評価できない」内容が出てきて(増えて)しまいます。現状でも,「思考力を育てる」ための指導と内容については十分に確保できない状況にあります。

 ですから,「一斉指導」のあり方も,子どもが黙って座って聞くもの,という固定観念は捨てていかなければなりません。授業の進度を考えるとき,「できる子」と「できない子」で到達するところが異なってくるのは当たり前のことで,そのために「A」「B」「C」という評価の指標が用意されているのです。

 多くの教師は,「できるだけCの子をなくす」ことに専念しており,「Aの子どもを増やそう」という方向の努力はしにくいようですが,「Aのレベルの子どもの考え」を全員に聞かせたり,「どうしたらAのレベルに達するのか」をわからせたりすることは重要です。

 要は,「一斉授業」の中で,子どもたちの発言がどれだけ活発になされ,それらに対して教師がいかに適切な整理,助言,補足,訂正等が行えているかが問われてくるわけです。

 「C」のレベルからなかなか抜け出せない子どもに,教師の言葉はもちろん,「A」や「B」など,様々なレベルの子どもの発言を聞かなくてもすむようにしむける教育のあり方は問題です。

 子どもが調べたことを発表→関連する質問を子どもが子どもにする→教師が補足→学習課題を教師が提示→子どもが調べて発表→さらなる疑問を発表→子どもが調べて発表→教師が補足→子どもがまとめる→教師がまとめる

 小学校ではそもそもこういう「一斉授業」が一般的であるはずですが,教師が適切な補足,課題提示,まとめなどができないことが前提の対処法で満足してはいけないのです。

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人との関係がどうとかいう前に,自分との関係を築かせることが大事

 人との関係をどういう場面でどのように築くのか。

 同級生との関係づくりは,子どもにとって,実は最も難しい課題である。

 それは,「同級生」だからである。

 同級生とのかかわりの比重が重くなればなるほど,不適応を起こす子どもが増えているのが実態ではないだろうか。

 放課後,先輩と一緒に部活動に励むことには抵抗がない子どもが,どうして同級生とだけ過ごさなければならない授業などの空間を苦手にするのか,理由を想像できない人はいるだろうか?

 教師で似た経験をするチャンスは,初任者研修をしている時期にある。

 もし,4クラスある学年の4人の担任が,全員初任者だったら(実際にはあり得ないことだが),教育活動はやりやすいか,それともやりにくいか。

 教師は「他の教師と比べられること」が常態化している毎日を,どう過ごしたいだろうか。

 1日あった課題を,放課後,毎日4人で集まって情報交換する。これを1年続けてみることを想像してほしい。

 「素晴しい経験ができる」「すごく指導力がつく」「みんな,教師になれたことを心から喜び合える」

 と自信が持てる人が,4人そろうだろうか。

 つぶれていく1人を,ほかの3人が救いきれるだろうか。

 人間は,人と対立し,協調し,喜び合い,憎しみ合い,讃え合い,生きていく。

 人と折り合いをつける力は,どうやったら育つのだろう。

 人が成長するには,大前提が必要である。

 それは,自分と折り合いをつけられるようにすることである。

 そうでないと,人間は「考える葦」ではなくなってしまう。

 教師に利用させられる葦たちが利用する葦になってしまう。

 「みんながお前のことを見捨てないぞ」というメッセージは,どういうときに必要で,

 どういうときに必要ではないかを,教師は実践を通してわかっていかなければならない。

 人間には,それぞれプライドがある。

 大学のセンセイにもあるだろうが,子どもにも子どもなりのプライドがある。

 それを傷つけることを目的とした教育で功を奏したように見えるのは,

 教師にとって都合のよい「考えない葦」に子どもがなってしまったからだろう。

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後悔しない・後悔させないための教育

 子どもたちの「命の守り方」。

 教員研修では絶対に必要な内容の一つである。

 部活動の帰りに体調を崩した子どもの命が失われた事件。

 教師は「息をしている」という理由から、適切な処置をしなかったのではないかと報道されている。

 「死戦期呼吸」という言葉を知らない人は、すぐにでも救命のための講習を受けてほしい。

 AEDは、心臓の状態を判断してくれて、自動的に電気ショックが必要かどうかを教えてくれる機械でもある。

 このことを知らなかった教師は、すぐにでも機能だけは勉強しておいてほしい。

 海や山で今年も多くの命が失われている。

 救えたはずの命が救えずに後悔しないよう、常に学んでいたい。

 死なずにすんだはずの自分の命が失われたら、後悔のしようがない。

 子どもたちにも、後悔をさせないための教育を進めるべきだろう。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より