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カテゴリー「学習の評価」の530件の記事

後悔しない・後悔させないための教育

 子どもたちの「命の守り方」。

 教員研修では絶対に必要な内容の一つである。

 部活動の帰りに体調を崩した子どもの命が失われた事件。

 教師は「息をしている」という理由から、適切な処置をしなかったのではないかと報道されている。

 「死戦期呼吸」という言葉を知らない人は、すぐにでも救命のための講習を受けてほしい。

 AEDは、心臓の状態を判断してくれて、自動的に電気ショックが必要かどうかを教えてくれる機械でもある。

 このことを知らなかった教師は、すぐにでも機能だけは勉強しておいてほしい。

 海や山で今年も多くの命が失われている。

 救えたはずの命が救えずに後悔しないよう、常に学んでいたい。

 死なずにすんだはずの自分の命が失われたら、後悔のしようがない。

 子どもたちにも、後悔をさせないための教育を進めるべきだろう。

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「失敗から立ち直ったつもり」の誤解が最大の失敗

 「失敗から学ぶ」系の本を読んでいて,たまに見つかるのが,

 「失敗に気づいて改善した後に出てきた失敗に気づけていない」ことがわかってしまう話である。

 結局,「点数至上主義」になってしまっている実践ほど痛いものはない。

 もともと「点数至上主義」だったのだから,何も進歩していない,という証拠にもなってしまっている。

 「結果が出てれば,理解されるはずだ」というご都合主義というか,批判回避主義も失敗の原因であるが,

 こういうタイプの失敗原因は,直しようがない。

 「点数がとれれば,成果が出たことになると言える」と思うのは,

 教育の実態がわかっていない,教育行政にいる教育の素人たちだけである。

 すでに教育の世界では,「そういうテストで点数がとれたところで意味がない」ことが常識になっている。

 社会の要請に応えられない教育なのに,意味のない要請をしてきて満足してしまう人間が一部にいることが失敗を生む背景となっている。

 子どもたちが全員そろってお互いのレベルを下げまくっている実践がどういうものか,もう少しだけ実践が有名になってくれば,一般の人たちにもわかってもらえるようになるだろう。

 塾で勉強している子どもたちのおかげで,みんなができる気になったという教育実践は,いずれ,塾の宣伝にしか役に立たなくなっていくだろう。

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「結果を出すためには何でもする」哀しき学校現場

 全国学力調査の「成績」を上げるために,過去問をたくさん解かせたり,各自治体で似たようなテストを実施することが当たり前になってきたようだ。

 このテストのために,本来行われるべき教育ができなくなっていることはみんなスルーして,とにかく「結果を出す」ためにみんなで邁進している。

 学力面だけではない。

 体力テストの結果が芳しくないから,テストの本実施の時期を少しでも遅らせようとする自治体もあるようだ。

 「体力テスト」の種目の練習をする,という学校まであるらしい。

 結果至上主義は,こういう弊害を学校現場にもたらしている。

 このことの何が問題かがわかっていない人間は教育委員会の事務局にもいないはずだが,

 「数字がすべて」という「宗教」は,行政の世界にもずいぶんと浸透しているようだ。

 すべてが劣化に向かっていく社会で,まともな神経を何とか保って,子どもを成長させてあげることができるのは,やはり現場しかないのだが・・・。

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成功したことにしなければならない仕事に求められる「自分に嘘をつかない」力

 教育にも政治にも,「目に見える成果」が求められる時代になった。

 「すぐに成果が出ない政策」に価値がおかれないようになると,

 「すぐに成果が出たことにできる政策」ばかりを宣伝することになる。

 また,「成果が出たことにする」という習慣がついていく。

 「成果が出ていないもの」「成果が疑わしいもの」「成果が不十分なもの」への真摯な態度が失われていく。

 「改善」「改善」「改善」・・・しかないのだが,

 「計画のずさんさ」を指摘されたくない人たちは,問題に目を向けず,とにかく「成功している」と強弁するための材料を探してしまう。

 広範囲で大規模な「地盤沈下」が起こったときには遅い。

 本当のチェック機能を果たせる人が,組織から閉め出されることは,組織にとって損失だったということに気づいたときには遅い。

 いずれ,前を向いても後ろを向いても,右や左を見ても嘘つきだらけ,というある時代の日本に後戻りしていたことに気づいたときには遅い。

 失敗に気づけることに価値をおく教育を捨てないことで,同じような価値を大事にする政治を守っていける国になることにつながってほしい。

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やはり,「一人も見捨てない」という言葉の正しい意味は,「俺以外の人間が見捨ててきた子どもは,俺は一人も見捨てない」という意味だった

 現在の教育システムは早く崩壊した方がよい,と主張する大学のセンセイがいます。

 退職が近づくにつれ,嫌気が指している今の大学やその同僚たちへの悪態の口数も,さらに増えてくるのでしょう。

 成績が上位2割と下位2割の子どもに,今の教育システムは対応していない。

 だから,崩壊してしまえ。

 この薬は,6割の人にしか効果がないから,捨ててしまえ。

 その代わりに,今まで薬が効かなかった4割の人に,もっと運動をさせろ。

 薬は使わない。

 ・・・薬をたとえに使うと,どこか「良さそうな感じ」もしてきますね。医療費の削減を大前提に考えるのであれば,6割の人を救ってきたものを廃棄して,救われなかった人たちには「自己責任」を押しつけてしまうという方法がとても魅力的に感じます。

 教育研究の専門家が怠ってきたというか,能力がなくて開発できなかったのは,

 「お金をかけて教育の成果を出す」という仕組みの提案です。

 タブレットを導入すれば,成績が上がる,などというのはただの幻想ですし,
 
 電子黒板を使えるのが,限られた教師の限られた授業では,意味をなさないでしょう。

 私が使ってみた感想から言えば,電子教科書も,今のシステムでは,現場ではほとんど機能しないでしょう。

 なぜなら,電子教科書は教師が使うことを前提に作られているからです。

 子どもが使うことを前提として電子教科書を作らないのは,なぜでしょうか。

 教科書会社の生命が脅かされるからでしょうか。

 紙の教科書は貸し出し方式にして,学校に備え付けにする。

 電子化された教科書に,アンダーラインを引いたり,自分で問題集化してしまったり,課題の答えを記入していったりするなど,「学習履歴」の電子データが逐一集まる仕組みをつくれば,本人確認さえしっかりできていれば,評価の手間も相当省けます。

 しかし,そういう提案を実現できる力のある政治家がいない。

 教員養成の仕事をしている人たちがやっていることは何でしょう。

 教材作成能力が鍛えられない教員養成系大学を出ても,現場の教師として役に立たないのです。

 社会学のまとめのプレゼンを頑張った人,歴史学の現地調査のレポートを上手に仕上げた人,統計学の課題を毎時間きちんとこなしていた人たちが,現場で活躍できるのです。

 これからの教育はこうでなくてはならない,一斉授業はこうだからだめだ,なんていう理想論を延々と一斉授業で聞いてきただけの人間は,現場では本当に役に立たないのです。

 私がかかわってきた優秀な教師たちはなぜか,教育学部以外の学部の出身の人ばかりです。

 そして,逆に,この人,ダメだな,現場では使いものにならないな,と感じる大学のセンセイは,みんな,教育学部の出身の人ばかりです。

 教育学部というところに,本質的な問題があることは,私の個人的な感覚からは明らかすぎることで,実はその世界に入って検証することが可能なチャンスがあったのですが,今ではそれが実現できないかったことにほっとしている次第です。関係者の方には,多大なご迷惑をおかけいたしました。心よりお詫び申し上げます。


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観点別評価の「C」とは,「努力を要する」という意味で,評定の「1」とは,「一層の努力を要する」という意味です。

 通知表(学期の終わりに,担任の先生から手渡される,子ども本人や保護者に向けての学習や生活に関する「評価」の「お知らせ」)の記載は,あくまでも「仮」のもの。

 「本物」は,学年が終わるときに作成される「指導要録」である。

 学期の途中では,まだ学習指導要領に示された目標と内容の「一部」しか実施していないわけだから,「途中経過」としての「評価」や「評定」が知らされるわけである。

 評定の「1」については,どのようなメッセージが込められているのか。

 数字が気になるのなら,「一層の努力を要する」と言葉で表現してあげればよい。

 「一層の努力を要する」必要があることに気づけない子どもはいないから,納得するしかないだろう。

 この「評定」は,「観点別学習状況の評価」をもとにつけられることになっており,

 すべての観点で「C」=「努力を要する」という評価がついた場合には,

 評定は「2」=「努力を要する」か,「1」=「一層の努力を要する」のどちらかとなる。

 保護者に理解が得られにくいのは,すべて「A」なのに「5」がつかないケース。
 
 「A」はあくまでも「4」という評定と同じ意味の評価(「十分満足」)だということが理解されにくい。

 だから「4」をつけたい生徒には,わざわざどれか1つの観点だけ「B」にしてしまうという学校もある。

 こういう「措置」は「苦情を避けるため」だけのものであって,もし本当だったら「不正な操作」である。

 こうした評価や評定の説明は,入学時や,学期の始めに保護者と子ども本人の両方に伝えておくのがよいだろう。

 中学校の全課程を修了したときに示される「評価」や「評定」は実は存在しないの(第3学年の「評価」「評定」として出されるのみ)だが,各学年の推移を見れば,だいたいわかる。

 自分自身の学校生活をふり返って,子どもでも自分の「評定」がだいたいわかる,という教育をすることが,「教師」と「子ども」がつながっている学校だったという証拠になるだろう。

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評定で「1」がつく中学生はどのくらいいるのか?

 日本の義務教育のシステムは,学校に通わなくても,あるいは,学業成績が不振でも,時間がたてば自動的に「卒業」できる仕組みになっている。

 不登校生徒の場合,担任教師が献身的に授業の記録を自宅に送ったり,教科担任の何人かがノートのやりとりをしたりする場合もあろうが,学校の教師との接触を完全に断ち切ったまま卒業を迎える子どもも少なくはない。

 非常に微妙な空気が流れる,校長室での卒業式の光景は想像できるだろうか。

 1日も登校できなかった子どもが,卒業式の日だけ,他の生徒たちが下校した後に学校にやって来て,少人数での「卒業式」を実施し,校長先生から「卒業証書」を手渡される。

 通知表など,何も書くことがないものも,形式的に渡される。

 日本の教育の課題の一端を一般の方も考えさせられる一場面ではないだろうか。

 東京都が公表している12月までの5段階評定の分布を見ると,

 評定で「1」がついている生徒の割合は,おおむね3~4%程度である。
 
 墨田区のある学校は突出して「1」がついている生徒の割合が高く,多くの教科が14%前後である。

 江東区や足立区のある学校では,数学で「1」がついた生徒の割合が17%~18%台であった。

 足立区では英語で2割の生徒が「1」である学校もある。

 おそらくは,すべてが不登校の生徒ではないだろう。

 そもそも,都立高校入試に際して,不登校の生徒のうち,評価資料がない場合は,「評定不能」として提出することが可能である。

 目標に準拠した評価になってから,5段階の評定のインフレが続き,「5」はそれほど多くなくても,「4」(十分満足)の生徒の割合が高くなっている。

 だから「1」がほとんどいない学校もあるが,何がどこまで「できない」と「1」になるかの共通した明確な指標はないため,不登校でなければ「2」がつくところも少なくないだろう。

 それでも「1」がつく中学生は相当数存在している。

 学力面の裏付けがなく,高校に進学する生徒も多いため,当然,中退率も高くなっている。

 登校しているにもかかわらず,評定が「1」になっている生徒の学力を「2」や「3」に引き上げるためには,どうしたらよいのか。

 私は社会科の教師だが,ある学校で,数学と英語を夏休み中に教えてあげたことがある。

 「2」の子どもは「3」になるが,「1」の子どもはなかなか「2」のレベルに達しない。

 当日できていたことも,次の日にはできなくなっている。

 素人の良さが生かされることもあるが,子どもも含めてやはり素人にはできない仕事がある。

 成績が良い子が教えればよいのではないか,と主張する人もいる。しかし,この方が「わかったふり」を子どもがしやすくなる傾向が強くだけでなく,教える側にかかる負担が大きい。

 「1」の生徒がいる学校で,「5」がもらえる2割の生徒が大活躍し,成績を向上させることができると豪語している人もいるが,残念ながら,教育現場はそれほど甘いところではない。

 「家庭に問題がある子どもはダメだ」なんて「例外規定」を定めている人もいる。こういう人は死ぬまで閉じた空間で議論し,役に立たない本を出版していれば,それでよい。いずれだれの記憶からも消えてなくなる。

 学校現場では,改めて,学習指導要領ではどのような内容とどのような能力を身につけさせることが示されているか,しっかりと確認する作業が必須になってくる。

 今から15年ほど前,総合的な学習の時間の実施にあたり,子どもにつけさせるべき学力をしっかりと考え,子ども自身がじっくりと学べるカリキュラムを実践することができた人には,改めて説明するまでもないだろう。

 教員になったとき,すでに総合的な学習の時間の指導が始まっていた人にとっては,教育課程づくりの根本を学ぶ機会を用意してあげるべきである。

 自分自身が総合的な学習の時間の学習をしてきて,そのねらいとする力を身につけてから教師になった人には,改めてどういう学力が大切なのかを考え直してほしい。

 評定の「1」の「重み」は,信じられないくらい「重たい」ものになってくるはずである。

 小中連携が機能するかどうか,その意味があるかどうかも問われるべき重大な課題である。

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教師はエネルギーを誰からもらっているか

 言うまでもなく,教師は子どもたちから尽きることのないエネルギーをもらって生きています。

 教師の中に,年齢よりも若く見える人が多いのは,吸血鬼のように子どもから若さのもとになるエネルギーを吸い取っているからです。

 しかし,残念ながら,そういうエネルギーの吸収の仕方ができない教師,つまり,子どもたちとの望ましい関係が築けない教師がいます。

 「どうして先生になったの?」と真剣に考えてあげてしまいたくなりますが,子どもからエネルギーをもらえない教師は,見る見るうちにしぼんでしおれて枯れていってしまうので,その悪影響は子どもたちにも及んでいきます。

 ある人は,教師はいつも笑っているべきだと言いますが,教師はいつも笑顔でいる必要はありません。

 口元が緩むことはあるでしょうが,口は笑っていても目は笑っていない,場面場面によっては,そういう姿を見せつけるのも大人の役割です。

 ある学校が荒れ果ててどうしようもなくなったのは,注意すべき場面で教師が笑っていたのが原因だと考えられています。

 さて,夏休みに入って,元気がなくなるのも教師らしいところではないでしょうか。

 私の近くにもそういう教師が何人かいます。

 私は3年間,行政にいたのですが,その間は,エネルギーを使うだけでほとんどの時間が終わってしまいました。

 今日もある用事で役所の39階に行ったのですが,ここにあと1年か2年いたら,ミイラになっていたかもしれません。

 管理職がどことなくみんな暗く,固い雰囲気になってしまうのは,子どもとの距離が離れたからではないでしょうか。

 東京都のように,管理職の数が絶対的に足りなくなっている自治体では,子どもとの関係性が切れずに,エネルギーをもらい続けることができる仕組みが必要になってくるでしょう。

 行政が管理職を管理しようとする姿勢が強すぎれば,現状のようになることははっきりとわかっていたはずです。

 校長会や教頭会で生き生きとしていた人はいませんでした。

 残念だったのは,学校に戻っても同じような表情だった管理職がいたことです。

 抜本的な改革案をいくつか思い浮かべることができましたが,それを実現できそうなのが教育長ではなく,知事であることがとても悲しいことではあります。

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女性の機嫌の直し方

 女性の「ヒステリー」(これはもう死語?)にはどう対処したらいいのか,穏やかな女性とばかり接してきた人にはわからない話かもしれません。

 そういう意味では,脳科学に頼るのもいいですが,経験が物を言う場合もあります。

 ラジオで『女の機嫌の直し方』という本が話題になっていて,その要旨が一部紹介されているのを読みました。

 女性が読むと,少しムッとするような内容かもしれません。

 この著者の方は,ご自分の近くに「機嫌が悪い女性」がいつもいることにストレスを感じているタイプなのではないかと思ってしまいます。

 「機嫌が悪い女性」を思い浮かべることが難しい方は,まずは,

 母親が子どもを前にして機嫌を悪くする理由を想像してみてもらえばよいかもしれません。

 言うことを聞かない子どもに対して機嫌が悪くなっていることもあるのですが,

 それを増幅させて,「機嫌が悪い」と見た目でわかる,あるいは暴言を吐くレベルまでいってしまうのは,

 「共感してくれる人がその場にいない」ことが大きな原因です。

 その場に人が(父親が)いるのに,自分の機嫌の悪さを感じ取って共感してくれないと判断される場合は,さらに気分を悪化させる原因になります。

 小中学生の女子の会話を聞いていると・・・・話の中身を聞かなくても,様子を見ていると・・・・お互いに共感し合える関係にあることが,友達の条件のような雰囲気が漂っています。

 「でも,あんたにもこれこれこういう理由で問題があるよ」などと論理的に迫ってくる人は,仲間の輪に入れてもらえません。

 だから,言葉で納得させようとする下手くそな道徳の授業を繰り返すと,子どもにますますストレスがたまり,いじめや問題行動を起こしやすくする原因になるのです。

 すぐに機嫌を損ねる女性教師の扱いをとてもよく心得ている子どもたちがいることを何年か前に知りました。

 先輩からきちんと「技」を伝授されて,「無駄な時間を省く」工夫をしている子どもたちがいるのです。

 その技とは・・・。子どもを守るために秘密にしておきます。

 「女性脳」とか「男性脳」という命名は,本当に正しいのでしょうか。

 著者は女性のようなので,「女性は自分の理解したいように理解する」というご自分の理論をご自分で証明されているとすると・・・。


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東京大学に入れなかった人間が書いている妄言

 ときどき,東京大学やそこで学ぶ学生のことを何も知らないでものを書いている人が見かけられます。

 その多くはただの妄言であり,自分の憶測を,自分がいつも言っていることの正当性を補強するために言っているだけであって,「真実」なり「実情」を知っている人間が読めば,「ああ,こいつの言っていることは嘘ばっかりだな」というのがバレてしまうのです。

 甲子園優勝監督が個人指導すれば,イチローのような選手は生まれるのか?だって・・・。

 おバカなたとえです。1年ごとに,プロ野球選手になれる人の人数と,東大に合格できる人の人数を比較してもらってもかまいません。

 イチローだって,プロになった1年目は,どんな選手だったかご存じですか?

 「育てる人はいらない」なんていう妄言は,いろいろな人に対して失礼なのです。 

 だれとは名指ししませんが,ぶろぐ村によく訪れる方,この「教育論・教育問題」に立ち寄られる方なら,妄言のぬしがだれのことか,おわかりになることでしょう。

 インターネットの掲示板のように,「同じ程度」の人が憶測だけを交換する仕組みならそれでいいと思いますが,一応,自分の名を名乗り,教育の仕事をしている,国立大学法人の関係者が,

>要領のいいやつだから東大に入れた。

>東大に入れるような子どもは,教師は何もしなくていい。ほおっておけ。

>東大に入れないレベルの人間(成績が中の上程度)には,東大に合格させられるような勉強を教えることはできない。

 なんていうことを平気で書く神経が信じられません。

 周囲にいる人間が,要領の悪いのばかりで嫌気がさしている。

 そういう人間がいくら「教える努力」をしても,無駄である,という個人的な「信念」を曲げたくない。

 そういう気持ちは理解できます。

 だからといって,いい加減なことを書いていいわけではありません。

 「お前らは頭が悪いんだから,頭がいい教師がやっているタイプの授業はするな」

 と言っているようなもの(というより,それを強要しようとしているもの)です。

 国立大学に入れるような学生は,文系でも一応,ある程度,数学ができるわけです。

 そういう学生に対しても,「お前は東大生と違って,要領が悪い。要領が悪いお前達が教えても,ろくな結果にはならない」と言うわけです。
 
 このセンセイに近づけるのは,「オレはバカだ」ということを誇りにしている殊勝な人だけということになる。

 私も,それなりに情報を集めました。

 その結果,「お前は東大生には遠く及ばない」といわれているレベルの教師が,勘違いさせられて行っている授業の多くは,子どもたちに教師の「勘違い」を伝染させています。その悪影響がいつから拡大し,常態化するかわかりませんが,それを食い止める力になっているのが,

>私にも東大に限らず,志望する大学に入れる学生を育てられる指導力を身につけることができる

 という普通の教師たちの「信念」です。

 「教える」ことへの情熱と,「学ぶ」ことへの情熱がリンクしたところに,何があるかを知りたい人が,

 「そこには何もないぞ。膨大なデータがそれを証明しているぞ」と幻滅させてくる人間に近づきたがるでしょうか。

 離れていた方が,よいでしょう。

 もちろん,「時間をかければ何となる」なんていうレベルでは,逆立ちしても東大には入れないかもしれません。

 ただ,学習指導要領に示されている目標を達成できるような授業をすれば,東大に合格するための手がかりをつかむチャンスを与えることは不可能ではないのです。

 「深い学び」を授業で展開できるような教材研究は,無駄にはならないのです。

 中学校の学習指導要領が示している歴史学習が,実は東大合格の近道であることに気づいている,東大出身ではない教師の人たちは,それなりに存在しているはずです。

 こういう教師を近づける空気を持たない大学が,いつまで存続できるかの方に私の興味はあります。

 何でも,ある制度に応募した人は,ゼロだったとか。だれの責任か,言うまでもないでしょう。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より