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カテゴリー「学習の評価」の494件の記事

「入試問題が変わる」という安直な発想

 「入試が変わるから学校での学習が変わる」などと安易に語っているのは,おそらく「学習の質を変える」ほどのインパクトのある試験問題をつくったことのない人たちだろう。

 採点基準を厳格に定めなければならない入学者選抜試験では,想定外の正解が出てこないような出題に限られてしまう。

 私が学校の定期考査で行っているように,生徒の答案を集めて全部読んでから,採点基準を決めるようなテストは入試では実施できない。

 私の場合は,解説の時間に生徒の意見を聞き,採点基準を改める場合すらある。そのために,返却する答案はすべてコピーをとっておき,得点が変わった場合は,該当するすべての生徒に説明するとともに,なぜどのような答えの得点が変わったか,具体例を示すプリントを配布している。
 
 制限時間が決まっているテストでは,自分の言いたいこと,考えていたことをすべて答案に書き尽くすことができない生徒もいる。そういう生徒から,レポートを提出させて,評価に加味する場合もある。

 「テストの点数絶対主義」を排除できるこうした学校現場での定期考査と,入学試験とは全く質が異なるものである。

 「知識がいらない」ような問題では,そもそも学校の授業を真面目に受ける意味もないと考えてしまう生徒が出てきてしまうから,当然,良質な知識を活用して,与えられた資料から必要な情報を取り出しながら思考し,表現させるような問題をつくることになる。

 しかし,「良質な知識」とはあくまでも教科書に取り上げられているような内容に限られてくるから,やはり教科書の内容はしっかりと理解しなければならない。

 だから,どんな対話的な授業をしようが,理解していなければ意味がないことに変わりはなく,多くの教師は教科書が網羅できるような授業を行い続けることになるだろう。

 では,「主体的・対話的で深い学び」を行うことは,不可能なのか?

 そんなことはない。全国各地から,「工夫された定期考査問題例」を集めてみて,精選した問題を公開してみたらどうか。

 「良質な問題」とはどういうものか,その定義を対話的に考えてみたらどうか。

 「この問題は,教科書を読まずに,授業も受けずに答えられてしまうからまずい」とか,

 「この問題は,結局この知識だけがあれば解けてしまうので,まずい」など,ありとあらゆる批判を集めて,「良問」をつくるコツを磨いていける場をつくってみたらどうか。

 すでに初めている自治体があれば,素晴しい。

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「聖徳太子」を「厩戸王」と呼ばせない圧力の正体

 社会科教育というジャンルがあるが,ここでご活躍のセンセイ方の中には,政治学や経済学,地理学や歴史学といった「学問」へのアンテナが高くはない方もいらっしゃるが,さすがに「聖徳太子」という呼称を続けていくのはまずいだろうと思っているはずである。

 「指導の継続性」という観点から言えば,大学や高校で「聖徳太子」と表現すればバカにされてしまうので,中学生だけではなく小学生にも「本来の呼称」を教えていくのが妥当だと考えられる。

 だから,次期指導要領の改訂案でもそうなっていた。

 しかし,「指導の継続性」という言葉を,「低いレベルをそのまま維持する」という発想でとらえる人たちの考えがパブリックコメントに寄せられ,文科省はそうした「わがまま」に従う意向であることが報じられている。

 私ははじめ,次期学習指導要領案に反対したのは,「厩戸王」ではなく,「厩戸皇子」と紹介していた教科書会社の人ではないかと思っていた。

 教科書会社としては,他社でしかも1社しか使われていなかった用語に統一されることは不本意であり,次の教科書採択への影響もあると感じたのではないかと。

 だが,文科省が,教科書会社の意見を聞いて,方針を変えるとは考えられない。

 さすがに教科書会社に天下りしている人はいないのではないかと思う。

 変更の理由が,「指導の継続性に問題」「子どもが混乱する」だけで通るわけがない。

 「指導の継続性」と言えば,今回の改訂の目玉は,高校段階へと発展的に成長していく資質能力像を描き出しているという特徴にある。

 だから,「小学校でこういう名前で呼んでいたから,中学校でもそのままでいく」という発想は次期指導要領にはないのである。

 最初に述べたように,「高校ではこう呼ぶのだから,小中学校でもそうする」というのが「指導の継続性」というより「指導の一貫性」が通っている姿である。

 ということは,「厩戸王という歴史学で一般的な呼称を教科書レベルでは使うことをやめる」という方向転換の理由は,「跳ね返すことができない圧力が加わったから」であると考えざるを得ない。

 ただ,こういういざこざがあったおかげで,「なぜ聖徳太子と呼ばれるようになったか」「なぜ厩戸王と呼ばせたくない人たちがいるのか」を考えさせるきっかけになる。

 これは「歴史との対話」はもちろん,「現代社会において,様々な主張をする団体がいること」を理解させることにもつながっていく。

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アクティブ・ラーニングを導入していない国の方が,問題解決能力調査の結果に優れている理由

 「詰め込み型の学習」とは何か。

 たとえば,百人一首をすべて暗記すること。

 これは「詰め込み型の学習」だろうか。

 授業で先生が50分しゃべり続けている。

 生徒がノートにひたすら内容をメモしている。

 これも「詰め込み型の学習」だろうか。

 私の考えはこうである。

 「学習」とは,そもそも「主体的なもの」である。

 実は,「教師が話をしている内容に耳を傾ける」こと自体が,かなり「主体的な態度」なのである。

 なぜなら,「寝ている」「話を聞かない」「自分で好きな本を読む」ことも可能だからである。

 もちろん,「自分で好きな本を読む」という行為も主体的な態度である。


 筑駒出身の企業人がどこかに書いていたが,授業を聞いている生徒は2~3割だったらしい(もちろん,聞いていないようで大事な部分は聞き分けている人はもっと多かったものと想像できるが)。

 他の生徒は,自分で別の教科の問題集を解いていたり,将棋の研究をしていたりと,「積極的に(授業とは別の)学習に取り組んでいた」のだ。

 では,授業を熱心に聞いて,メモをとる態度は,「主体的」とは言えないのか?

 もう一つ念のために付け加えておきたいことは,「主体的」に学んだところで,必ずしも知識や理解が定着したり,思考力や表現力がつくとは限らない,ということである。

 
 「学習」で大事なのは,「教材」「学習内容」の量と質である。

 豊富な教材や学習内容にふれた子どもの方が,そうではない子どもよりも優れた問題解決能力を発揮できるのは,なぜだろうか。

 日本の公立小学校では,昔から問題解決型の学習が行われてきており,

 こういう学習(アクティブ・ラーニング)を行ってきた子どもとは,中学校に進学しても,

 問題解決的学習への意欲や態度は一定の水準を保てている。

 しかし,その成果が出ているかと言われたら,疑問が残る。

 中学校で問題解決能力を発揮している子どもたちの多くは,中学受験を経験するなどして,より多くの教材にふれる機会があった子どもたちである。
 
 そもそも,問題解決能力を発揮している子どもは,「詰め込み学習」をしてきたという自覚があまりない。

 「詰め込み」されたものは,「取り出し」がしにくい。
 
 奥の方に入って出てこなくなるものがあるイメージだが,「主体的」に学ぶ子どもの中には,
 
 多くの引き出しにきちんと整理したり,大きな引き出しの中に小分けの仕切りをつくったりして,

 「取り出し」が容易になる仕組みができている子どももいる。

 
 多くの教材・学習内容を与えるだけでなく,その有機的なつながりを意識させるという「指導の工夫」がなされた「一斉学習」があるからこそ,日本の中等教育の一定水準は確保されてきたのである。

 中等教育の「初等教育化」を防ぐ意味でも,タイトルの言葉を書いたメモを職員室の掲示板にでも貼っておいていただきたい。


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「教育」が国の足を引っ張る時代

 これも歴代政権が,「教育」を軽視し続けてきたツケだろうか。

 よりによって,現政権を利用してのし上がろうとした教育関係者が,現政権を潰す爆弾を背負って野党に接近しようとしている。

 野党といっても,今の日本に長期政権が維持できる党は存在しないから,またしばらく前の「年ごとに首相がかわる」時期に戻っていくのだろうか。

 しばらくぶりに,政治が安定するかと思われていた日本だが,他人の足の引っ張る仕事を延々と続けている国会の様子を見ていると,「教育」の失敗はこうやって形になっていくものなのだとつくづく思い知らされる。

 むしろ政権側が,「教育勅語」への関心を高めるための演出として取り組んでいるプロセスの話だとしたら,したたかさも感じるが,現在の歴史教育のレベルでは,「教育勅語」への肯定的な評価を定着させるのは不可能だろう。

 「教育」で足を引っ張られ,「教育」で息の根を止められる国では,「教育」による国の未来像は描きようもない。


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理解するよりも誤解する人が多い教育論

 「アドラー心理学」は,理解する人よりも,誤解する人の方が多いだろう,とアドラー自身が語っているそうです。

 中教審の答申で,「生きる力」というキーワードは何とセットで使われていたか,よく理解している人は,どれくらいいるでしょうか。

 「ゆとり」教育とは,何のために,どんな方法で実現しようとしたか,ご存じでしょうか。

 もしこのことを知っていたら,現在の公立中高一貫校がどれだけ「約束違反」の代物か,理解できるはずです。

 「アクティブ・ラーニング」という,流行になりそうで,なりきれずに消えていこうとしているキーワードがあります。

 今,「アクティブ・ラーニング」という言葉を使い,調子に乗って本を出したり,雑誌で特集をしたりした出版社や著者は,みんなバカにされていますが,どうしてこんなことになったのでしょう。

 指導要領という法令に匹敵するものには,こんな「いかがわしい」言葉が使われないことは,はじめからわかっていたことですが,流行を追うことだけが得意で,中身の理解がほとんどできない人たちが多いのは,何も教育の世界に限った話ではないでしょう。

 「主体的・対話的で深い学び」と言い換えたところで,自分自身がその経験をしたことがない人に,いきなり「そういう原理原則で実践しろ」と言われても,困ってしまうか,どさくさに紛れて,「それっぽい」ことを導入してお茶を濁すかしかありません。

 人は,自分の都合のよいように解釈することが得意です。

 「話し合い」活動を多く取り入れていた教師が,「私は昔からアクティブ・ラーニングを実践していた!」と得意になることくらいは,「可愛い」もの。

 自分にとって都合の悪いことには,耳を貸さない。

 特に,人の「生き方」に関することにふれる教育や心理学は,

 「オレ様の理論」をもつことが優先されやすく,現場の教師などと違って,

 特にそこにしか存在理由がない人たちにとっては,「オレ様の理論」を守ることが死活問題になるわけです。

 実践者が全教員の1000分の1に満たなくても,「全国でこんなに広まっている!」と宣伝しなければならない背景には,こんな事情があります。

 しかし,現場における教育という仕事は,他人の「理論」にかまっている余裕はありません。

 現場の状況というのは,常に流動的です。

 教育について,あり得ない「前提条件」をつきつけられて,目の前の状況に対応できずに苦しんでいる教師には,「被害者」でもあるという面もありますが,事態が収拾できなければ,「指導力不足教員」という烙印を押され,教員としての残りの人生は,その「称号」を背負ったまま,学校をたらい回しにされる運命になります。

 自分の理論を取り入れてくれる教師を「同志」などと呼んで,「敵」を増やし続けている人間が守っているのは,「子どもの未来」や「あるべき教師」ではなく,・・・。

 さまざまな教育論は,きちんと理解され,実践されるとこういう良い効果があります,という宣伝だけではなく,こういう誤解も受けやすく,もしその誤解のもとで実践されると,こういう問題が起こりえます,という注意喚起も必要なのです。

 教師が,教壇に立つ前に,習得してあるはずの「理論」とは何でしょうか。

 教員免許を取得した時点で,習得しているはずの「理論」とは?

 教員採用試験に合格した時点で,習得していると見なされている「理論」とは?

 教育現場では,「理論」をどうこうと批判する以前に,教師になる時点では身についていなければならないはずのことが,大いに欠落しているという致命的な大問題があることを,証明してくれた本があるので驚きました。
 
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小学校による子どもの違い

 私は中学校の教師だが,小学生6年生を相手に授業をしたことが2度ほどある。

 1つ目の小学校では,中学生より賢いのではないか,と思えるほど輝いていた。

 テンポもよく,何より意欲が非常に高い。活動がとても活発で,無駄がない。

 2つ目の小学校では,全く逆で,時間が非常に遅く流れていく感じだった。
 
 テンポが合わない理由があとでよくわかった。

 いつもすぐに発言するような子どもが,黙っていたのだ。

 答えがわかっているのに黙るわけではなく,わからないから答えられないだけだった。

 いつもと質問の難易度が異なる。

 中学校の教師による授業だから,戸惑うのは当然かもしれない。

 ただ,残念なのは,能力が高い子どもがわかっているのにもかかわらず,

 発言をしなかったことである。

 私は子どものノートを見ながら授業していたので,ある子どもが書き出していた優れた意見を紹介するなどした。

 これは,教室ではタブーだったに違いない。

 能力の高い子どもの答えを先に出してはならない,という暗黙のルールがあったからだろうか。

 後者の学校は,全国から先生方が集まってくる小学校であり,

 前者の学校は,一般的な公立小学校である。

 教育は,学校によって,とても大きく異なっていてよい。

 学級によって,暗黙のルールが異なることもあってよい。

 ただ,「見世物」としての学習を続けていくと,結局のところ,学力はあまり向上しないことが証明されている。

 子どもをそっくり入れ替えてみる,という実践をどこかでやってくれないだろうか。

 授業は,教師の力によって大きく左右するものである,という仮説が証明されるだろう。

 それはいけない,「ハズレ」に当たるのは困る,という声もあるだろうが。

 深い思考に入れない子どもが増えている原因は何だろうか。
 
 この主な原因は,深い思考に入れる子どもが増えていることにあるのかもしれない。

 教育は,格差を拡大するために行われている,という言葉に心当たりがある人は多いのではないだろうか。

 格差を拡大しないようにするための教育をすれば,どうなるか。

 言うまでもないだろう。歴史は繰り返している。


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教師の「踏み台」にされている子どもたち

 私が学校で最も気の毒に思うのは,教師たちの「見世物」にされている子どもたちである。

 的を射ていないズレた発言などは,他の子どもたちの「餌食」になるが,獲物に食らいついた子どもを教師は嬉しそうな表情で見ている。

 生け贄になった子どもが,小学生くらいだと,まわりで何が起こっているのかよくわからない。

 「発言さえすれば,教師からいい評価がもらえる」と思い込んでいたり,

 「発言したくてしかたがないだけ」という子どもたちが,自分の「位置」に気づくのは

 高学年か中学校に進学してからということになる。

 
 最近では,「アクティブ・ラーニングを取り入れている」ことで粋がっている教師たちの「慰みもの」になっており,「ズレたまま」でなぜか答えだけはみんな同じになるというマジックに子どもまで浮かされている。

 子どもを「踏み台」にして,のし上がっている人間はどこにたくさんいる?

 子どもは教師が自由に「利用」できるものなのか?


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現場での教育という仕事は,「攻撃」の対象になった時点でアウトです

 教育現場ではない「遊び場」では,教育に関するどんな主張をしようが,自由です。

 「遊び場」での自己主張や,一日だけ現場を借りて行う「お遊び」は,

 たいした実害もないでしょうから。

 しかし,実際の「修羅場」=教育現場は違います。

 現場は,「攻撃」にはとても弱い場所です。

 だから,多くの管理職は「守備」重視で,そういう能力が高い人のもとでないと,危なくて仕事もしていられません。

 「指導力不足」を理由にした「攻撃」ほど扱いが難しいものはありません。

 授業規律の意義を知らない小学校の先生が,中学校に異動してきて,たいへんな苦労をしていることを直接相談されたことがありました。

 できることなら,早く小学校に戻してもらえるように,管理職にお願いした方がいいでしょう。
 
 ただ,私の学校に研修に来られる先生は,将来の管理職候補でしょうから,こういう苦労をどう乗り越えるかが大事,という見方もできますが・・・。

 地域によっては,東京都内ですら,小学生のような中学生がいる学校もあります。

 小学7年生から8年生に上がり,最後の一年で中学生になって,高校に進学していくような学校も。

 一方で,中学校に入ったときから気合いの入った「中学生」になっていく学校もある。

 極度の人間不信集団がいて,授業規律が保てない学校で,やりがいのある教育をするのは難しい,というタイプの人は,教師をやめるか,小学校の方が向いているでしょう。

 小学校でも,担任教師がある宗教の信者で,明らかにそれとわかる教育をしていたために,「攻撃」を受ける前に管理職が手を打ったこともありました。

 多くの小学生には,「抵抗能力」はあっても,「批判能力」はありません。
 
 だから,問題がばれないことも多いのですが,

 ばれたとたんに「担任を変えろ」の大合唱が始まりますから,管理職は気が気でないのです。

 公立学校には,「異動」という「最終兵器」があるので,結局,攻撃対象になる学校はローテーションする。

 「不幸な管理職」にならないことを望む一方で,そんな仕事を引き受けたくない,という人も増えるのです。

 教員の世界は狭いので,悪い噂は一瞬で広まります。

 「昔はこうだった」と陰口を言われるくらいなら,管理職なんてならない方がいい。

 小学校も中学校も,いずれ,管理職を外注する時代が来るのではないでしょうか。

 
 「攻撃」への対応のプロの養成も求められる時代です。


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人よりも言葉を愛する人にしないために

 心を育てる教育というのは,重要なのだが,「教える」のは難しい。
 
 うまい具合に「育ってくる」ことを望みたいところである。

 「私は,忘れられた人たちのことを忘れない」

 とてもいい言葉である。今,放映中の池上彰さんの番組で紹介されている。

 だれが語った言葉だろう。

 「忘れられた人々」とは,

 鉄鋼業や自動車産業の不振で工業が「錆びついた地域」=ラストベルトの労働者のことである。

 この言葉によって,「忘れられた」と表現した人々から指示を集めることができたのが新大統領である。

 人は,当然のことだが,人から大切に扱われることを望んでいる。

 たった一つの言葉でも,感動したり満足したりできるのが人間だから,

 人を大切にしていることを示したければ,そういう「言葉」を使うようにする,というのが一つの方法である。

 グローバル化が進む社会では,やはりこういう「言葉」が使えるようになることは大切である。

 ただ・・・。

 日本には,「軽々しい言葉」を「軽率」に語ることを慎む文化がある。

 目の前にいない人への優しい言葉を語ることより,

 目の前にいる人に対する優しい行動をとれることを重視したい。

 教員になろうとする人が,教員に向いているかどうかを判断できるのはだれだろう。

 目の前にいない子どものことをどんな言葉で語ろうとも,

 目の前に子どもがいる場で何もできない人を現場においていても意味はない。

 「人よりも言葉を大事にしようとしている」教育をめざしている人はいないだろうか。


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新学習指導要領でいわゆる「学力」の格差はさらに拡大する

 すでにこんなことはわかりきったことかもしれませんが,新学習指導要領が実施されてしばらくたつと,学力の格差はどんどん広がっていきます。

 好き勝手に席を移動して穴埋めプリントを完成するというレベルの「知識」や「理解」すら生まれる見込みのない授業が増える危惧も一方ではありながら,できる子どもはよりできるようになり,できない子どもはなぜできないのかを自分なりに納得させられるようになるのが,新しい学習指導要領の趣旨です。

 キーワードは「自己責任」。

 学力が低いのは,センセイのせいではありません。

 あなたのせいです。

 なぜなら,あなたには,主体的に学ぼうとする意欲がない。

 対話を重視しながら,問題を解決する努力をしていない。

 活用できる知識をもっていない。

 ・・・センセイ,どうしたらいいの?

 主体的に学びなさい。

 対話を重視して,何人かの友達と一緒に問題の解決をはかりなさい。

 活用できる知識を身につけなさい。

 ・・・どうやって?

 本当に主体性のない子どもだな・・・。

 センセイって,何のためにいるの?

 小学校のセンセイって,英語を教えるようになるんだよね。

 センセイの発音を真似していいんだよね。

 帰国子女だった隣のクラスの担任の先生の授業とかなり違うんだけど・・・。

 「学力」の格差が広がる理由は,子どものせいだけとは限らない。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より