カテゴリー「学習の評価」の6件の記事

帝国海軍と陸軍による観点別評価の延命

 日本の学校教育における「評価」の改革については,やはり「黒船来航」が必要なのでしょうか。あるいは,「原爆」級のものか。

 観点別評価については,行政は帝国海軍,学校現場の一部は帝国陸軍の発想でまだ「終わり」が見えません。

「100ページの1文」(09/08/15)より

 「どこが悪いのか知らせようともしない」これまでの通知表を克服することがはっきりと打ち出され,家庭に対する説明責任を果たすために目標準拠評価を採用している。

 教育評価と言えば,相対評価絶対評価目標準拠評価),個人内評価自己評価・・・さまざまな評価が実践され,研究され,子どもたちや親に手渡されてきましたが,その研究をすればするほど,教育指導・教育実践の貧しさが際立ってくる,そういう教育の矛盾した面が露呈してしまうのが「教育評価」です。

 教育評価は,指導の改善のためだ,と明言している論者もいるようですが,とすれば柱は評価ではなく,指導です。

 1969年に「通信簿論争」というのがあったそうですが,それをやる前に,毎日の学習をどう見直していくべきかが議論されるべきでした。

 「見えない学力」「測れない学力」への挑戦が続いているようですが,それらはたいてい「見える学力」「測れる学力」が低い子どもたちへの配慮として行われているようなものです。

 評価ではなく励ましで,あるいは自己反省ですむものを,そしてもっと他に使うべき時間をあえてさいて,「評価」に力を入れることが,どんな意味があったのか,残念ながら「教育評価」の歴史には失敗への検証というのがありません。
 「教育評価」に歴史がある・・・と語るほど,その研究に意味があったのかどうか,それが本書を通して最も問われるべきときなのでしょう。

 
人物で綴る戦後教育評価の歴史

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公立中高一貫校の入学選抜の問題点

 公立中高一貫校の問題点を昨日のTV番組で取り上げていたのを,家で録画してくれていたので,目を通してみました。

 ゲストの雑談の中で,6年間メンバーが固定化すると,人間関係で問題があったときにつらいこと,中学校卒業時に,みんながさまざまな進路に分かれていくことを知るだけでも,人間的に成長できるが,中高一貫ではそれが難しいことなどがふれられていました。

 そしてメインのテーマは,受験(適性検査による入学選抜)倍率が高くなり,私立中学校と同じような競争=塾にたよらざるを得ないことがおこっている,そして,それは経済格差を反映するものになり,結局私立の実態と変わらないことになる,そういうものでした。

 公立の入試選抜なので内申点の比重が高いところでは,小学校の評定で「3」ではなく「2」があるだけでかなり合格には不利になり,学校での学習をがんばるという点ではよいのでしょうが,問題は,適性検査に対応できるかどうか。

 公立中高一貫校につとめている先生にお聞きすると,やはり塾で訓練をしてきている子どもは強い,という話でしたので,公立中進学のための塾通いが今後も増え,「ゆとり」どころではない,ということになりそうです。

 ただし,そもそも「ゆとり」自体が目的ではなく,「ゆとりのなかで~の力をつける」ことが目的なので,「~の力」がついていないことには話にならないのですが,「高得点をとるコツ」を知っているか知らないかはかなり合否に影響しそうで,特に国語力,表現力を磨いておく必要があるようです。

 小学校のカリキュラムの中で,このような力をしっかり身に付け,中高一貫校入試に十分対応できる学力をつけること=学習指導要領どおりの力を身に付けさせることを「ウリ」にした学校が今後増えてきてもおかしくないのですが,その成果を競う状況になってしまうと,今度は「評定の不正操作」の問題が浮上してしまいます。

 公立中学校では「成績一覧表」というのを作成する義務があるので,このような不正は防げますが,今のところ,小学校の評定にこのしばりはありません。

 担任が何を書くかで入試の重大な資料が決まってしまいますので,この部分を受験生,家庭,学校,受験校で透明に把握できるような仕組みが今後求められることでしょう。

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観点別評価への観点別評価

 ちょっと古いですが,文科省が実施した平成15年度の「学校教育に関する意識調査」によれば,現行の評価制度は,子ども一人一人をよく見るようになったものの,子どもの成長がこれまで以上に見えるようになったとはいえない,そういう結果が出ていました。

 現行制度への観点別評価を実施するとすれば,関心・意欲・態度は向上したが,その他の能力・技能面は横ばい
 そんなところでしょうか。

 よく見るようになったのに,成長が見えにくくなってしまった原因を探らなければなりません。

 考えてみれば,おかしな話です。

 子どもの何をよく見るようになったのか?そのために逆に見えなくしてしまっているものは何か?

 検討すべき課題でしょう。

 態度がよくなるだけでも,外見上は教師に対する信頼感は向上するかもしれませんが,態度がよくなったのに能力が向上していないのは・・・?

 負担感は,評価対象の子どもの数が少ない(評価項目数は多い)小学校よりも,その逆の中学校の方が重い。当たり前の話ですが。

 文科省での評価の見直しでは,「教師の負担を減らすこと」にも重点が置かれることになるでしょう。

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学力の把握に適した教科書づくり ふり返り366日【08/5/13】

[小中学校] ブログ村キーワード

 穴埋めプリントばかりやらせている教師が,「どうしたら考える力を身につけさせることができるだろう」という疑問をもっているとしたら,それはガス欠の自動車が「なぜ走らないのだろう」と不思議がっているのと同じことです。

 「子どもの学力をどのように把握したらいいのか」という問いを突き詰めていくと,結局は「どのような指導が学力の把握に最も適しているのか」というところまで到達します。
 
 「学力の把握」に適している指導とは,子どもがその学力を発揮できる指導のことです。

 子どもがその学力を発揮し,教師がその学力を把握できることとは,つまり子どもが教師や他の子どもに対してアウトプットする場面があるということです。

 今までの授業の中で,50分(45分)の授業の中で,子どもが40人いるとして,子どもがアウトプットしている時間はのべ何分くらいになるのでしょうか。1人当たりに換算すると,どうでしょうか。

 「教科書を音読すること」をアウトプットの時間に入れるかどうかは難しい問題ですが,こういう時間を入れないと,1人当たりののべ時間はものすごく少ないものになりそうです。

 そこで,子どもにアウトプットさせることが自然にできる教科書というものの提供がのぞまれるところです。

 私は,市販のワークほどではないにしても,子どもが直接書き込めるような教科書を提案したいところです。イメージはやや「心のノート」に近いものがあります。

 1年間終わったら,ポイと捨ててしまうような「軽い」ものではなく,その成果をずっしりと感じ取れるような「重たい」教科書。教科書代を倍にする程度の予算を確保するのは難しいことではないでしょう。

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08/5/13 社会科教師の逆コンピテンシー その12 新しい教科書モデル

 第12回は、「戦略創造力(④戦略のC創造力)」がテーマです。
 地理や歴史を学ぶとき、あなたは「考えること」「覚えること」「調べること」「自分の考えを述べること」のうちでは、どれを最も重視しますか。
 最も時間を費やしているのはどれですか。
 ・・・という質問を生徒にしたとき、どんな答えが返ってくるでしょう。教師ならどうでしょう。
 生徒のそれぞれの解答に対して、「先生は、そのことについてどのような材料をどのような方法で提供してくれますか」と聞いた場合はどうでしょう。
 知識や理解を中心に、私立大学の入試問題のような穴埋めプリントで教えている教師と生徒との間には、一定の信頼関係が生まれて安定しています。
 穴埋めのところを覚えれば、テストでいい点がとれる

 現行の学習指導要領は、このような社会科教育では目標に掲げる資質は身に付かないので、内容に大きな工夫を加えましたが、結果は失敗に終わろうとしています。
 教師の逆コンピテンシーが、学習指導要領ではなく、生徒・保護者側のニーズに沿っているという理由でコンピテンシーになってしまっている。

 基本的に、教師の教え方を改善させる教育が難しいことは、研修や研究会を飽きるほど見ている自分は強く実感していますが、役所にいるだけの人には理解できないのです。

 では、養成や選抜の段階で・・・という話になりますが、こちらは大学生が受けてきた教育が近すぎて、何が求められているのかを実感するところまでが遠い道のりになっています。

 子どもや保護者の社会科(に限らないかもしれませんが)学習に求める目標=テストでいい点を取ることに、教師が合わせた形というのが、多くの社会科の授業の主流になっていることでしょう。

 教師は子どもに知識が身に付かないことに、大きな危機感、恐怖心を持っていて(それがないと自分の存在意義が否定されると自覚する)、「学び方」「調べ方」「考え方」を身に付けさせることは二の次になっています。

 しかし、そのような背景で教師が子どもに身に付けさせようとやっきになっているのは実は「知識」ではなくて、一種の「条件反射」のようなものでしょう。

 本当にその内容(知識)を身に付けさせたいと強く思っているのかどうか、毎時間の内容に照らして考えてみてはどうでしょう。まさか教師が、これは受験に出そうだからという理由だけで、教えている(こういうのは「教える」ことではなくて「与えている」とでも表現すべきなのでしょうか)情報はないでしょうか。

 「本物の知識を伝えたいのだが、子どもや保護者のニーズがネックになっている」というのなら、ニーズの方向性を変えることで、教師の「教えがい」も変えることができるはずです。

 まずは、定期考査問題を見直したいものです。
 文部科学省に求められる次なる取り組みとして考えられることは何でしょうか。
 学力調査的な問題を一般から多く募集して吟味し、「いい問題」を公開して中学生に解かせてみること。公開しないものを学校に提供して、定期考査に活用させること。
 学習指導要領に基づく指導の「評価」に切り込む施策が必要で、少しでも「目標準拠評価」の信頼性の担保になるものを提供すべきでしょう。
 教科書は無償でも、おそらくほとんどの学校では問題集や資料集などの教材を買わせているはずです。
 「義務教育は無償」という原則を、教材にまで広げるべきかもしれません。ということは、「問題集一体型の教科書」という新しいスタンダードが見えてきます。

試験問題】 定期考査の問題で、生徒の保護者から「習っていない問題が出された」という苦情が寄せられたとき、あなたならどのような話をして保護者と生徒を納得させることができますか。
(余談ですが、ある小学校で、学校では学習していない問題を担任が出題し、「塾で習って知っている人が多いからいいだろう」と言ったという話を聞きました。公立小学校の恐ろしさの一面をまた見ることになりました。)

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子どもを直撃する教師の「評価観」の隔たり

[高校受験] ブログ村キーワード

 評価の問題について,「学校教育を考える」というブログにおかしな主張が紹介されていたのですが,私のコメントが書込み禁止になっているので,こちらでその問題点をご紹介しようと思います。

 受験生がいらっしゃる保護者の方にも,学校が作成する「指導要録」というものの存在をよく理解していただきたいと思います。

 上記のブログでは,

>目標なり規準なりが設定されていない事柄については,評価できない
>児童生徒は,教師が予め予期した範囲でのパフォーマンスを求められており,
>その範囲を超えてしまった場合は,たとえそれが優れたものであっても,評価対象とはならない

>教育目標などを離れて一人の人間として児童生徒を見る場合,児童生徒の思いがけない「よさ」を認めることになる。むろん,これは評価とは普通呼ばない。

という「評価の問題」が紹介されているのですが,この記事の内容について,「理想は常識人」さんが以下のように批判していました。
 
 

「指導要録」を作成したことがある教師なら、「総合所見及び指導上参考となる諸事項」として、生徒の成長の状況を総合的にとらえ、以下のような事項などを記入した経験があるはずです(中学校を場合を例に)。

○各教科や総合的な学習の時間の学習に関する所見
○特別活動に関する事実及び所見
○行動に関する所見
○進路指導に関する事項
○生徒の特徴・特技,学校内外における奉仕活動,表彰を受けた行為や活動,知能,学力等について標準化された検査の結果など指導上参考となる諸事項
○生徒の成長の状況にかかわる総合的な所見

 これらの記入に際しては、生徒の優れている点や長所、進歩の状況などを取り上げることが基本となるよう留意することが望まれています。
 したがって、記事中の「目標なり規準なりが設定されていない事柄については,評価できない」「児童生徒は,教師が予め予期した範囲でのパフォーマンスを求められており,その範囲を超えてしまった場合は,たとえそれが優れたものであっても,評価対象とはならない」という話は、虚偽の内容です。

 この批判に対して,

>あなたのコメントがとりもなおさず私のエントリーの内容の妥当性を証明してくれました。

>あなたが,「虚偽の内容」という「評価」を下すのは,あなたがそのようにしか受取ることのできない「評価」の軸,すなわち規準をもっているからに他なりません。

と反論していますが,それは「評価」の軸や規準がちがうという話ではなくて,「指導要録で評価できる」という事実を示しているだけですから,的外れな反論なのです。

>指導要録について丁寧にご説明くださっておられますが,指導要録の総合所見は,自由記述ではありますが,そこに書くべき内容は,自ずから限定されており,子どもの人となりをすべてそこに書き記すわけではありません。

 「指導要録でも評価できない」ことにしたいためか,苦し紛れの言い訳をしていますが,「評価の内容を限定するかどうかは評価者次第」なわけで,結局,この記事を作成した本人は,指導要録に子どもの「よさ」を書いたことがないことを証明してしまったかっこうになりました。

 私がこのブログで問題にしていることの一つに,このような教師に進路指導を受けた子どもと,子どものよさを最大限みとっていき,内申書等でどんどん記述していく教師に指導を受けた子どもとの間で生じる格差の問題なのです。
 そのような指導力格差をなくすために,「評価は全部なくそう」という話になることはありえないことは,言うまでもないでしょう。

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【重要提言】学力格差縮小のための評価制度設計

 「具体的で詳細な評価規準を明示してしまうと,そのことだけにとらわれて学習してしまう問題が出てくる」ということが言われます。

 最小限の学習時間で,最大限の効果を上げる効率的」な学習を進めたい人間には,評価規準(いわゆるノリジュン)があるのは助かるのです。
 さらに,どの程度できればAなのかBなのか,という「評価基準」(いわゆるモトジュン)がわかっていれば,「必要以上の努力」をしなくてよくなるので,Aになったと判断した時点で学習をやめてしまうことができるのです。

 自分の評価を上げたい生徒・・・評価が志望校に合格するための重要な資料になるとするならば,その願いを「筋が違う」ということはできません。

 しかし,「自分だけでしっかり自分のためだけに勉強して,試験でいい点をよればよい」という考え方を放置することができないのも確かです。

 そこで,習得と活用・探究を組み合わせた5段階評価にすれば,どんなにペーパーテストで高得点をとっていても(習得面では十分満足でも),それを活用・探究する場面がなければ「3にしかならない」形をつくることができることをお示ししました。

 学習の評価を「自ら学び自ら考える」生徒の育成から,「平和で民主的な国家・社会の形成者」の基礎を育てようとするより大きな目標の達成に役立つように改善していく,そういう発想が必要です。

 習得した知識・技能の活用については,「だれのために活用するのか」という視点を導入するのです。

 現在の想定では,自分の言葉で説明するとか,自分なりの解釈を加えて論述するとか,個人の能力を高めることばかりに注意が向かっていますが,「説明」や「論述」も「だれのためにするのか」という発想で考えれば,人のため,社会のため,・・・身近なところでは「同じ学習集団に所属する生徒のため,特に習得の部分が十分でない生徒のため」であると考えることもできます。

 生徒が「自分の言葉で表現する」ことの価値は,ただその生徒の中でしっかりと噛み砕かれた理解を確認できるという利点だけでなく,教科書の文章や教師の話という「大人の言語」では分からなかったことが,同じ年代の子どもの言葉でなら分かるようになるかもしれないという可能性を含むものです。

 習得が十分満足に進んだ生徒が,それが十分に進んでいない生徒に自分の知識や技能を使って習得に近づけていくような学習のイメージは,今までも様々なところで論じられてきています。
 
 自分の活用力も向上し,他の生徒の習得度も向上すれば,一挙両得です。

 かつての相対評価のように,だれかの成績が上がればだれかの成績が下がるという,ゼロサムではもちろんだめですが,絶対評価という制度も指導や規準,基準のぶれによって公正なものが作りにくいという最大の欠陥がありました。

 今後は,習得が進んだ生徒が,不十分である生徒に対して自分の成果を披露し,両者の能力・評価結果が向上していくというプラスサムな関係が学校で展開されていくことを望んでいます。
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