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カテゴリー「社会科教師の逆コンピテンシー」の94件の記事

「聖徳太子」を「厩戸王」と呼ばせない圧力の正体

 社会科教育というジャンルがあるが,ここでご活躍のセンセイ方の中には,政治学や経済学,地理学や歴史学といった「学問」へのアンテナが高くはない方もいらっしゃるが,さすがに「聖徳太子」という呼称を続けていくのはまずいだろうと思っているはずである。

 「指導の継続性」という観点から言えば,大学や高校で「聖徳太子」と表現すればバカにされてしまうので,中学生だけではなく小学生にも「本来の呼称」を教えていくのが妥当だと考えられる。

 だから,次期指導要領の改訂案でもそうなっていた。

 しかし,「指導の継続性」という言葉を,「低いレベルをそのまま維持する」という発想でとらえる人たちの考えがパブリックコメントに寄せられ,文科省はそうした「わがまま」に従う意向であることが報じられている。

 私ははじめ,次期学習指導要領案に反対したのは,「厩戸王」ではなく,「厩戸皇子」と紹介していた教科書会社の人ではないかと思っていた。

 教科書会社としては,他社でしかも1社しか使われていなかった用語に統一されることは不本意であり,次の教科書採択への影響もあると感じたのではないかと。

 だが,文科省が,教科書会社の意見を聞いて,方針を変えるとは考えられない。

 さすがに教科書会社に天下りしている人はいないのではないかと思う。

 変更の理由が,「指導の継続性に問題」「子どもが混乱する」だけで通るわけがない。

 「指導の継続性」と言えば,今回の改訂の目玉は,高校段階へと発展的に成長していく資質能力像を描き出しているという特徴にある。

 だから,「小学校でこういう名前で呼んでいたから,中学校でもそのままでいく」という発想は次期指導要領にはないのである。

 最初に述べたように,「高校ではこう呼ぶのだから,小中学校でもそうする」というのが「指導の継続性」というより「指導の一貫性」が通っている姿である。

 ということは,「厩戸王という歴史学で一般的な呼称を教科書レベルでは使うことをやめる」という方向転換の理由は,「跳ね返すことができない圧力が加わったから」であると考えざるを得ない。

 ただ,こういういざこざがあったおかげで,「なぜ聖徳太子と呼ばれるようになったか」「なぜ厩戸王と呼ばせたくない人たちがいるのか」を考えさせるきっかけになる。

 これは「歴史との対話」はもちろん,「現代社会において,様々な主張をする団体がいること」を理解させることにもつながっていく。

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学習指導要領に「竹島・尖閣は領土」と明記することの意味

 領土をめぐる対立は,戦争の代表的な原因の一つであった。

 日本は,憲法で「戦争放棄」をうたっているので,戦争は起こらない,と断言できる人はいないはずである。

 中韓を刺激する「異なる歴史意識の教育」は,外交的な戦略の一つなのかもしれないが,

 「道徳的」には,そういう国と同じように起こしている「不正」を素知らぬ顔で行い続け,

 国家公務員法に背いていることを誤魔化す想定問答までつくっていた文部科学省が発表するというのは,
 
 本当に笑えない話である。

 学習指導要領に日本の領土を明記することに,どのような意味があるのか。

 報道されている記事にあるように,今でも学習指導要領解説には示されており,

 教科書にもすでに記載されている。

 しかし,学習指導要領解説には法的拘束力がなく,教科書は「主たる教材」に過ぎない。

 法的拘束力のある学習指導要領に明記することで,

 「学習指導要領に反する領土教育をした教師」を処罰することができるようになる。

 これが最大の狙いである。

 「アクティブ・ラーニング」バブルのおかげで,共産主義的な考え方の教師が,資本主義社会を否定したくなる人間を育てるための教育を行いやすくなっている。

 自由主義,資本主義が「悪」である,という共通認識の広がりは,できたら避けていきたい。

 トップが遊びのために組合費を使うような教職員組合の組織率の低下は今後も続いていくと思われるが,だからといって,「公務員の特権」が世の中で一番大事だ,という認識をもつ人間が増えないとは限らない。

 省の「天下り先」の確保と拡大,利権拡大という組織のための政策をやっていることが見え見えでも,

 失ってはいけないものがある。

 一人一人の教員の良心である。

 「お前たちは将来,低賃金労働者になるんだから,深い学びなどする必要はない」と主張するような大学のセンセイの方を向く教師たちを増やさないことも大切だ。


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地理的誤謬と歴史的誤謬の共通点とは?(教員採用試験対策)

 アナクロニズムは,現在を過去の中へ持ち込む時間的な誤謬の錯覚によって起こるものです。

 これを「歴史的誤謬」と表現するとすれば,「地理的誤謬」とはどのようなことを指すのでしょうか。

 小学校社会科の教員採用試験の問題です。

 地理的なものの見方や考え方,歴史的なものの見方や考え方を,小学校段階から中学校,高校へと発展させていく構想ができあがっています。

 小学校段階では,地理的にも歴史的にも複合的な誤謬が子どもの中に形作られていく可能性があります。

 たとえばそれは何でしょう?

 地理的誤謬と歴史的誤謬の共通点とは何でしょうか?

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高校地理には人材がいない?

 高校では,どうやら「地理総合」が必修になりそうなのだが,学校現場では,

 「地理総合」を高度な専門性と高い意欲をもって教えられそうな教師が少ないことが危惧されている。

 地理学科を卒業して教師になっている人が少ないことが大問題であると・・・。

 本当にそうなのか?

 私は地理学ではなく日本史が専門だったが,教職の単位をとるために,地理関係の講義もたくさん受けた。

 骨は折れたが英語でアメリカの人文地理を学んだときには,一挙両得の気分になったことを覚えている。

 地震研究所の先生方による講義も受けていたから,自然地理もそれなりに理解できた。

 もちろん歴史関係の単位もたくさんとったが,私の場合,卒論のテーマになるような内容は,高校の教科書などには1行も触れられていないものであり,大学での専攻がそのまま高校や中学校での教育に使えるかというと,そういうわけではない。

 地理学科を卒業すると,それだけで高校の地理が教えられる,という論理は,単純には理解できない。

 歴史学科を卒業しても,それだけで高校の歴史を教えられるとは言えないはずだからである。

 弁護士さんが裁判関係の模擬授業を学校現場でやってみると,授業は教育実習生よりも下手くそだということが起きる。それはなぜか。

 授業は,自分が知っていることを子どもに伝えればすむような話のものではないからである。

 教師に求められる教科の専門性というのは,簡単に言うと,教科書に掲げられているタイトルの内容を,教科書本文は見ずに,いくつかの参考図書から整理して自分なりに説明できるような力があるということである。

 もっと言えば,教師の仕事とは,教科書の内容の解説をすることではなく,教科書の本文には書かれていない「おもしろい内容」を,生徒がいくつかの資料を使って調べたり考えたりしながら,「やはり教科書に書かれている内容は重要なのだな」と気づかせることができるように導いてあげることである。

 何を専門にしてこようが,大事なのは,その人が「おもしろい素材」を探し出し,「考えるきっかけ」をつかむ習慣を身につけているかどうかである。

 だから,地理総合だろうが,歴史総合だろうが,(私は個人的には「地歴総合」という学び方をさせたいものだが)教科書ベースではないもので,どれだけおもしろい授業が構成できるかが大切なのである。

 地理の人たちの心配を聞いていると,その地理の人たちがとても心配になるような話になっている,ということである。
 

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「観点別評価」ではなく,「観点融合型評価」の実施へ

 先日,ある社会科の授業を参観された先生から,唖然とするような実態をお聞きする機会があった。

 授業の流れは,次のようなものである。

 教科書を読む。

 課題が与えられる。

 グループで話し合い,答えを書く。

 先生は,どのグループもすばらしい文章で答えがまとめられていたので,すごいと思ったそうだが,よく読むとみんな同じ答えだったそうだ。

 なぜか。

 どのグループも,教科書の文章を丸写ししていた。

 ・・・・これは,断じて社会科の授業ではない。

 地図を用いない地理の授業はない,というのがその先生の主張だが,問題はそれどころではない。

 国語の授業も似たようなことが行われている気がした。

 なぜグループになるかというと,おそらく「みんなで答えを探した方が,全員が探し終わるのが早くなる」からだろう。

 これが『学び合い』の「実践本」で読んだ授業のレベルである。

 社会科の教師には,何の専門性も求められていない。

 教科書があれば,だれでもできる授業である。

 
 こういう授業が行われている背景には,とにかく「全員ができなければならない」とか「毎時間,評価をつけなければならない」「計画通りに授業を進めなければならない」というプレッシャーがあるからだろう。

 その評価も,「観点別」に行うことで,かろうじて,「おおむね満足」を全員にあげられるという程度のものである。

 「観点別評価」というのは,学力の要素をばらばらにして,あたかも別々のものとして評価できるような錯覚に陥らせた仕組みである。

 学力の要素はばらばらなものではなく,互いに密接に結びついている。

 だから,「観点別」に評価しようとすると,「この穴埋めができているんだから,知識があると判断できる」などという「知識・理解」のイメージが成立してしまうのだが,そんな知識の中には,授業が終わって何時間か何日間か何週間かたてば,みんな忘れてしまうようなレベルのものがたくさん混じっている。

 「観点融合型評価」を実施する,ということになれば,学習指導自体が「本当の学力」をつけるためのものになり,上記の授業スタイルなど成立しないことが明らかになる。 

 一日も早く,「観点融合型評価」が標準的になる日が来ることを望む。


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「よき市民を育成する」「よき主権者を育成する」という発想の誤り

 よき市民・・・たとえば「選挙に出かける」・・・であることからの退却(投票率の低下など)が,

 民主主義の危機の原因であるのではなく,

 むしろ民主主義の危機がもたらした結果である・・・・・。

 こういう解釈ができることは,現実の「政治」の問題を見れば,簡単に理解できることである。

 市民は,民主主義から自ら退却するのではなく,

 「押し出される」ようにして離れている・・・・

 その「押し出す」力とは,具体的にどのようなものか?

>よりよき民主主義を得るためによりよき市民が必要である,などと提案するのではなく,むしろ,よりよき市民となるためにはよりよき民主主義を必要とする,と提案したい。(ガート・ビースタの翻訳本『民主主義を学習する』(勁草書房)より)

 シティズンシップ教育や道徳教育のあり方が,民主主義から将来の市民たちを「押し出す」ものになってしまわないように,訳者のみなさんには「よき市民」としての役割を果たしていただきたいです。


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「持っていること」が弱点になる教師の課題

 社会科で「子どものためになった」と思える授業と,そうではない授業の違いで,とてもわかりやすい例が,

 「問いをどちらが出したにしろ,教師が答えを出してしまったか,子どもが自らそれを見出したか」というものです。

 知識を持っていると,人間は,子どもが教師の質問にはい!はい!と言って答えようとするように,

 「自分が知識を持っていることを相手にわかってもらいたくなる」欲求にかられるようです。

 「先生は,知識を子どもに授ける存在」だと思って教師になる人は少なくなく,そういう意識はストレートに授業に反映されます。

 『学び合い』は,その可能性を閉ざせる手段となりますが,

 「知識を獲得する方法」は何も「人に聞く」ことだけとは限りません。

 というより,「人に聞く」以外の「知識を獲得する方法」を教えられないまま,大人になってしまう子どもは不幸です。

 「低所得層の人間が餓死を免れるには,他人に頼るしかないだろう」という『学び合い』教祖の発言は,親として自分の子どもに語るなら許されるかもしれませんが,教育者として不特定多数の子どもに語りかけるのは最低な行為です。

 教師が,「答えを知らないまま授業に臨める指導案」を教育実習生に作ってもらい,実践もしてもらいました。

 この学習のどこにどのような意味があったのかを語ることは,教師にしかできません。

 子どもの「メタ認知」能力を育てることは,教師の仕事です。

 「どんな答えが出てくるか,ワクワクしている」教師や仲間に子どもが語りかけ,適切な助言なり,意外な反論なりをかわしているような活動を,『真の学び合い』と命名したいと思います。


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「持っていないことを武器に」という勇気づけ

 国際会議に参加されていたアメリカの社会科教育学者リンダ・レヴスティクさんに,次のような質問をさせてもらいました。

 「若い先生方は,自分たちの知識が不足していることに,大きな不安感,コンプレックス,劣等感を感じています。こういう先生方には,どのようなアドバイスをしてあげることができるでしょうか」

 レヴスティク先生の答えは,私が教育実習の学生に伝えているいつもの言葉と同じでした。

 「知識が不足していることを武器にしよう」。

 その自覚は,「学び続ける」意欲の原動力になる。

 子どもと一緒に課題を追究していこうとする動機になる。

 はじめから知識がいっぱいに詰まっている人はいない。

 その「使い方」こそが問題で,授業が自分の知識の披露で終わってしまったら,それは子どもにとっては迷惑な話かもしれない。

 知識・・・自分なりの言葉で表現できるようになるようなもの・・・とは,ここに書いてあるからとか,黒板を写してあるからとか,そういうことで身につくものではない。

 子どもたちがどのように「本物の知識」を習得していってくれるのか,どうしたらそれが可能なのか,そういうことに関心があることが,教師としての資質の1つである・・・・。

 なかなかこういう「勇気づけ」は簡単に成功するものではないことも,ご存じでした。

 「決めつけ」「思い込み」が激しいセンセイと,バートン先生やレヴスティク先生が本当に対照的な国際会議でした。

 「社会科教育」の本質を見極めることができたようで,有意義な2日間だったと思います。

 
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大学に巣くう制御不能の教師たち

 『学び合い』のセンセイも,ゴジラにたとえられた?センセイも,大学では「制御不能」なのだろう。

 小学校教諭のような立場ですら,「学級王国」の「おうさま」になれる。

 中学校では学年の動きが中心になるから,教師は「社会化」を求められる。

 高校では教科の責任が重くなるから,教師は「学力向上」が不可欠になる。

 大学の場合は,小学校ととても似ているかもしれない。

 小学校では子どもたち,大学では院生や学生といった「個人的にこき使える人材」がいる。

 自分が「権力」をもっていることを容易に自覚しやすい立場にあり,それが落とし穴になる。

 学会でも手がつけられないといった「定評」のあるゴジラさんは,口が悪く,気品が感じられない。

 「指導教官」は紳士に見えるが,弟子は師に似なかった。

 教員養成系大学と,教育現場の間に亀裂を走らせる元凶にだけはなってほしくない。

 悪評というのは,簡単に広がっていく。

 気の毒なのは,「教え子さん」たちである。

 国立大学法人に通う学生は,私大生と比べてもともとバランス良く高い能力をもった真面目なエリートである。

 その才能をつぶさないでほしい。

 隔世遺伝になることを期待したい。

 「価値」を対象に研究している学者が,偏った価値意識を押しつけてしまうことの問題性を,

 バートン先生たちはご著書で指摘されていたと思う。


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コモン・グッドのための歴史教育を進めるために知るべきコモン・バッド

 28,29日と,東京で開かれていた,アメリカの社会科教育学者キース・バートンさんとリンダ・レヴスティクさんを招いての国際会議に参加してきた。

 外国の大学の先生のお話をナマで聞けるチャンスは滅多にないので,会場に足を運んでみると,148ページある資料が無料でもらえた。

 資料は1ページ目から,お二人の著書名が間違ってしまっているなど,行政ではあり得ない代物だったが,発表者の方々のレジュメも印刷されており,聞く手間が省けてとてもよかった。

 『コモン・グッドのための歴史教育』という本は,取り立てて参考になる内容はなく,アメリカでも日本と同じような社会科教師の問題があるのだなということがよくわかった。

 私が気になったのは,バートンさんが今日の発表の冒頭だけでなく,しつこく末尾でも示したゴジラの写真で,その趣旨が伝わってこなかったので最後に「ゴジラの悲しみ」について質問してみたら,1954年の出来事はさすがによくご存じだった。1954年のオリジナルのゴジラ映画もご覧になっていたということで,アメリカの歴史学者にゴジラファンがいるという噂の信憑性も確かめることができた。

 文明への懐疑や社会正義を問う目的で誕生したゴジラが,映画がヒットし,大衆受けすることによって,勧善懲悪的で低俗な話のヒーローに「堕落」させられてしまったことを,私は「ゴジラの悲しみ」という言葉で表現してみたが,その意図は何とか伝わったようだ。

 オバマ大統領には,広島や長崎だけではなく,焼津にも寄っていただきたかった。

 アメリカの学者の本を翻訳する仕事はとても骨が折れるし直接役に立ちそうなことはないこともおわかりだと思うが,アカデミズムの世界では,いまだに「植民地」「占領地」としての礼儀が欠かせないことが伝わってきた。

 『コモン・グッドのための歴史教育』の訳者である大学のセンセイは,日本の学習指導要領を「反民主的」と断罪する原稿をある雑誌の8月号に寄稿されたということだ。

 私は中学校が所属する区の副読本の編集を担当したことがあるが,「為政者が見せたい事例と解釈を直接子どもに伝える」ための仕事はしていない。

 このセンセイの文章には,歴史の知識がないために,他の箇所にも明らかな誤りがあったが,実際に雑誌が出てから,出版社にそれらを指摘するメールを送ろうと考えている。

 バートン先生が,このセンセイ=ゴジラという皮肉をこめていたわけではないことを祈りたい。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より