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カテゴリー「社会科教師の逆コンピテンシー」の101件の記事

ありえない課題設定・・・EUが1つの国?

 四国のある県で行われた中学校社会科の全国大会の授業内容を報告してくれる研究会に参加した。

 自分の目を疑う「発問(追究課題)」がプリントにあった。

 「イギリスのEU離脱後も,EUは1つの国としての統合を目指すべきか。EU大統領の立場で考えよう!」

 1つの国としての統合?

 第三帝国をつくらせたいの?

 「中学校1年生には,どうせ『国家』の概念など存在しないのだから,誤魔化せるだろう」と思っているのだろうか。

 少し古いが外務省のHPの『わかる!国際情勢』に,2009年に発効したEUのリスボン条約の要点がまとめられている。そこでは,民族や言語が多様なEU諸国の統合が,いかに難しいものであるかがにじみ出ている。

 社会的認識力をおろそかにした・・・というより事実誤認に基づく授業は,社会的判断力を誤らせる結果になる,そういう主張を失敗を通してしたいのだと解釈するのが妥当だろう。

 ついでにもう一つ。

 「四国新幹線の開通によって,中国・四国地方の産業は発展するだろうか」

 すでに新幹線が通っている中国地方がなぜ考察の対象に入ってしまっているのか?

 EUの方の学習課題もそうだが,未来予測ができるほどの社会認識力を育ててあるのか?

 疑問しか出てこない。

 EUにしろ,日本の諸地域の学習にしろ,中1にしては視点が高すぎる。

 視点を高く設定できるのは,幅広い視野を持てるようになった後の話である。

 幅広い視野とは,少なくとも足もとが見えている状態を言う。

 実際の授業では,足もとが見えている生徒の発言はあったらしい。

 教師が地に足がついていない。

 両者とも,地理的分野の学習ではなく,公民的分野の学習になってしまっている。

 あと2年間,子どもたちにはじっくりと社会科を学んでもらった上で,判断してもらいたい課題だろう。

 さらに付け加えると,歴史的分野の授業は,小学校の人物学習になってしまっていたらしい。

 中学校で人物を扱う場合は,少なくとも2人の働きを対比させながら学習するのが効果的である。

 学習指導要領実施状況調査の結果が黙殺されている結果,起こっている事態だと考えればよい。

 「多面的・多角的に考える」ことがなぜ重要かがわかっていない。

 維新期を扱うなら,なおさらであるし,田沼政治を扱うなら,松平定信という恰好の比較対象がある。

 事前にアドバイスできる人がいなかったのだろうか。

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歴史用語半減による「ゆとり」が生むもの

 高校の日本史や世界史を「用語を覚える科目」としてきた高校や大学の教員たちが,教科書の用語を減らすための案を作成したという。2つの点でナンセンスである。

 1つは,結局用語を減らしたところで,「少なくなった用語を覚える科目」に変わることはなく,試験も「暗記問題」を出すことが前提になっている。なぜ義務教育の「ゆとり教育」という名の「ゆるみ教育」を繰り返そうとしているのか。

 もう1つは,そもそも教科書の内容をすべて教えなければ,受験のときに生徒が困るという強迫観念が捨て去れない限り,授業や試験の改善などあり得ない,ということである。

 歴史の人物名や事件名などは,それらを覚えたり,それらの事実を知るためだけにあるのではない。

 歴史学習は,さまざまな事象の関係,関連を考えるためにある。

 取り上げられる事柄が限定されることによって,さまざまな「気づき」のチャンスが失われていく。

 「多ければ多いほどよい」とは言わないが,実際に資料集を活用している高校なら,教科書ではなく資料集を実質上「主たる教材」として授業をする教員も出てくる可能性があるだろう。20年前と同じワークシートで授業をしている教員にとっては,関係のない話かもしれないが。

 そもそも「用語削減策」は,「受験生がテストでいい点をとるために不利な科目を敬遠することを避けるため」に出されたようなものだろう。

 客を増やすために当たりの確率を高める娯楽産業のような対応である。

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アメリカの反知性主義を輸入した人たち

 教育を自分が理解したいように理解し,反対の意見に聞く耳を持たず,自分だけが正しいと主張したがる人間が,やけに増えてきたと思えるようになったのはなぜだろうか。

 学習指導要領のように,ごった煮にしすぎて,内部が矛盾だらけ,という問題のある国家指針も問題だが,それが誤っていることと,自分の考えが正しいこととは関係がないのに,「オレの言うことが正しい」ことを威張るためにこの話を持ち出す人がいる。

 こういう人の出現の背景にあるのは,アメリカの反知性主義である。

 過去を否定するのが大好きな連中が,過去にあった議論と全く同じような主張をして調子に乗っている。

 何か新しいことを言っているつもりになっているのだが,どこにも新しさが感じられない人が大勢存在することが理解できないのだろう。自分が知っていること,経験していることがとても少ないからである。

 日本にこういう人たちがうようよし出す前に,真面目に教育のことを考えてくれる人が絶滅しないよう,願っていたい。

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選挙が違憲だと,国民審査が機能しなくなる?

 教育出版から出されている冊子に,意味不明な社会科の授業の実践が掲載されていた。

 「選挙が違憲だと何が問題なのか?」

 という問いを立て,子どもがこう答えていく授業が,「批判的思考力を高める」ことになるという。

 「国会議員を選ぶ過程に,憲法違反があったとしたらどうなるか?」

 「選ばれた国会議員が違憲状態で選ばれたことになってしまう」

 「この影響は,立法だけだろうか?」

 「国会は,内閣総理大臣を指名するので,指名された国会議員も違憲状態で選ばれたことになってしまう」(???)

 「内閣は,最高裁判所長官を指名するので,そこにも問題が拡大する。」(????)

 「裁判所は違憲審査ができるが,国会や内閣が機能しなくなることも問題である。」(?????)

 「国民は,国民審査で最高裁判所の裁判官を審査する権利を持っているが,それが十分に機能しているかわからないことも問題である」(??????)

 こうして,

 「一票の格差」は,「三権すべてに関わる問題であり,さらには現代の民主政治を揺るがす問題であるという認識に変容させることができる」という。

 国会や内閣までは理解できなくはないが,なぜ違憲判決を出した裁判所や,最高裁判所の裁判官を審査する国民までが「問題視」されなければならないのか,全くわからない。

 よくこんな文章が原稿になって公開されているなと驚いてしまう。

 教育出版という会社は,教科書をつくっているところであるが,こういう原稿のチェック機能は働かないのだろうか?

 「選挙が違憲だと何が問題か」を考えるとき,たとえば安保法制に反対していた人々が,「そもそも違憲状態で選ばれた国会議員に立法資格なし」と主張していたことを思い出させる。こういう主張を生徒がするならまだわからないでもない。

 一方で,「一票の格差」を本当になくしてしまった選挙区になったら,どんな課題があるのかも考えさせるべきだろう。

 「きちんとした選挙制度」とは,単純に一票の格差が規定以下の選挙のことであって,地方の議員はどんどん少なくなってよい,という捉え方でよいのかどうか。

 教室内でだれからも疑問や反対意見が出されるわけでもなく,論理的なつながりや実際の政治の諸問題にふれることなく,AがだめならBもだめ,BがだめならCもだめ・・・などと生徒の発言を誘導するかのような授業では,「生徒自らが,よりよい社会を築くために考えていけるようにする」ことは不可能である。

 あまりに酷すぎて,悲しい気持ちになる。

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「アカデミアの世界」からこのブログへ投げかけられた言葉とは?

 読書編の各記事をお読みいただいた方はすでにご存じかと思いますが,次の言葉はつい最近,教員養成系の国立大学という「アカデミアの世界」の方から私宛のメールやブログのコメントでいただいたものです。私の側は匿名で記事を公開しておりますので,先方のお名前も伏せておきます。

>貴公のような「犬クソ」教師

>貴公があまり頭が良くないことは十分に承知

>学問的な作法に成(ママ)れていない素人さん

>貴公の批判は極めてどうでも良いこと(些細な事)

>国語力を鍛えなおしてはいかが

>アカデミアの世界に慣れてらっしゃらない

>(雑誌に原稿を書くのは)ブログで自慰行為するのとは違う
  (以上の回答は、貴公のブログに掲載してもらって構いませんよ)

 「貴公」という言葉をあまり聞いたことがなかったので,調べてみたら,「貴様(キサマ)」という言葉のニュアンスに近いのでしょうか。同輩か下の人間に向かって使う言葉のようです。

 また,「犬クソ」教師とは,どういう意味なのでしょうか。

 ただの「クソ」教師ではなく,「犬」の「クソ」にすることで,さらに下のランクに位置付けられるということでしょうか。

 学習指導要領の趣旨に沿って=国の言いなりになって,カリキュラムを編成する教師だから「犬」なのでしょうか?(そう解釈するとちょっとだけほっとできますね・・・)

 ただ残念ながら,文部科学省(国立教育政策研究所)の仕事に10年以上携わってきたものの,今回の指導要領に関するご協力の依頼は校務に支障があったためお断りしておりますので,「犬」とは呼べないでしょうね。

 「頭があまり良くない」とのご指摘ですが,その根拠が,ご自分が原稿に引用した他人の授業への批判は,自分への批判の材料には当たらない,というものでした。これ,本当に正しい主張でしょうか。原稿に引用したのは,ご自分の主張を述べるためであり,選択して引用した時点で,引用した側にも責任が生じるという私の主張は当然のことではないでしょうか。

 別に「私の頭は良くないわけではない」と言いたいわけではありませんが・・・。

 アカデミズムの世界の慣習はわかりませんが,私が学校の授業で扱う教材(たとえば新聞記事)とその内容に対して,「どうしてこんな教材を使ったのだ」と問われたら,私自身が責任をもってお答えしたいと考えています。

 私が「アカデミアの世界に慣れていない」と主張することの根拠は,

>頁制限のある明治図書の原稿において、貴公が問題にすることを踏まえて書いていたら私が書きたい別のことを書けなくなってただ室町時代のことについて書いて終わり・・・になる

 とのことでしたが,「書きたい別のこと」のために,「室町時代のこと」がいい加減になってもかまわない,それに対する批判は極めてどうでも良いこと,というのがもしアカデミアの世界の常識だとしてら,そんな世界は私たち現場の教師たちには全く縁がなくてけっこうですし,教師の価値観を押しつけられる子どもたちにとっても迷惑なだけの存在に思えてしまいます。

 この先生の主張は,要するに「歴史認識」のうち,大事なのは「事実認識」や「関係認識」より「価値認識」である,ということに尽きるのではないでしょうか。

 ご自身のHPで,訳書について,次のように述べていらっしゃいます。

>共感理解も、新聞づくりのような活動主義も、文脈次第では意味のある歴史の学びを子どもたちに保証するし、歴史学のディシプリンに即した分析型の歴史学習であっても、文脈やアプローチの仕方次第では、思ったほどの効果を持たない。

 これは,裏返すと,

>新聞づくりのような活動主義では,共感理解はできるかもしれないが,ほとんど意味のない歴史の丸写しで終わってしまうおそれがある。歴史学のディシプリンに即した分析型の歴史学習は,共感理解を促すような文脈やアプローチの仕方によって,より効果的に意味のある歴史の学びとなる。

 要は,文脈やアプローチ次第でどうにでもなるわけですね。

 後者は,少なくとも,共通の「事実認識」や「関係認識」を育てることになりますが,前者では,下手をすると誤った「事実認識」や「関係認識」のもとに,とんでもない「価値認識」を導く結果になりかねません。

 今のある国の政治家が,まさにその「とんでもない」本道を行っているかのような気がします。「経済がよくなればそれでよい」「自国に利益があればそれでよい」という価値認識などは,まさに教育の成果かもしれませんね。


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教育と政治的「排除」

 自分に対して「悪口」を言うような人間は,どんどん「排除」する。

 「排除」というキーワードが最もわかりやすいタイムリーの国は,アメリカである。

 政治と教育の関係は,韓国に関するニュースを見ているととてもわかりやすい。

 日本については,教育基本法が改正されたのは,どの内閣のときだったか。

 学習指導要領の質が大きく変わろうとしているのは,現内閣である。

 どういうつながりがあるのか。

 それをわからずに,次の学習指導要領の性格を語ることはできない。

 この現内閣のもとで「編集」される学習指導要領にかかわっている人がどういう人を確かめると,

 どういう人が「排除」されているか,なぜ「排除」されたのかに気づけるだろう。

 「見捨てる」という話法は,そもそも「拾ってやる」「助けてやる」という意識がある対象に使うものである。

 「地面に落ちているもの」ではなく,自分の足で立っている対象は,

 「見捨てる」ではなく,「排除する」という行動様式になる。

 教育が政治の道具になっている国の「民主化レベル」の世界ランキングはどのくらいなのだろうか。


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悪いのは「失言」ではなく,「認識」

 問題なのは,「失言」ではなく,大臣としてあるまじき「認識」や「思想」である。

 これは,「政権の緩み」などではない。

 「大臣の認識は,政権の認識である」と明言するわけにいかない政権の問題である。

 もちろん,「認識」を「表明」したことも問題である。

 この国には「言霊」が生きているという「認識」があり,

 古代から続くものを大切にしている「文化」がある。

 大地震はいつどこで起きるかわからない。

 責任追及も大事だが,震災対応,防災のレベルを引き上げることを優先すべきである。
 

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「聖徳太子」を「厩戸王」と呼ばせない圧力の正体

 社会科教育というジャンルがあるが,ここでご活躍のセンセイ方の中には,政治学や経済学,地理学や歴史学といった「学問」へのアンテナが高くはない方もいらっしゃるが,さすがに「聖徳太子」という呼称を続けていくのはまずいだろうと思っているはずである。

 「指導の継続性」という観点から言えば,大学や高校で「聖徳太子」と表現すればバカにされてしまうので,中学生だけではなく小学生にも「本来の呼称」を教えていくのが妥当だと考えられる。

 だから,次期指導要領の改訂案でもそうなっていた。

 しかし,「指導の継続性」という言葉を,「低いレベルをそのまま維持する」という発想でとらえる人たちの考えがパブリックコメントに寄せられ,文科省はそうした「わがまま」に従う意向であることが報じられている。

 私ははじめ,次期学習指導要領案に反対したのは,「厩戸王」ではなく,「厩戸皇子」と紹介していた教科書会社の人ではないかと思っていた。

 教科書会社としては,他社でしかも1社しか使われていなかった用語に統一されることは不本意であり,次の教科書採択への影響もあると感じたのではないかと。

 だが,文科省が,教科書会社の意見を聞いて,方針を変えるとは考えられない。

 さすがに教科書会社に天下りしている人はいないのではないかと思う。

 変更の理由が,「指導の継続性に問題」「子どもが混乱する」だけで通るわけがない。

 「指導の継続性」と言えば,今回の改訂の目玉は,高校段階へと発展的に成長していく資質能力像を描き出しているという特徴にある。

 だから,「小学校でこういう名前で呼んでいたから,中学校でもそのままでいく」という発想は次期指導要領にはないのである。

 最初に述べたように,「高校ではこう呼ぶのだから,小中学校でもそうする」というのが「指導の継続性」というより「指導の一貫性」が通っている姿である。

 ということは,「厩戸王という歴史学で一般的な呼称を教科書レベルでは使うことをやめる」という方向転換の理由は,「跳ね返すことができない圧力が加わったから」であると考えざるを得ない。

 ただ,こういういざこざがあったおかげで,「なぜ聖徳太子と呼ばれるようになったか」「なぜ厩戸王と呼ばせたくない人たちがいるのか」を考えさせるきっかけになる。

 これは「歴史との対話」はもちろん,「現代社会において,様々な主張をする団体がいること」を理解させることにもつながっていく。

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学習指導要領に「竹島・尖閣は領土」と明記することの意味

 領土をめぐる対立は,戦争の代表的な原因の一つであった。

 日本は,憲法で「戦争放棄」をうたっているので,戦争は起こらない,と断言できる人はいないはずである。

 中韓を刺激する「異なる歴史意識の教育」は,外交的な戦略の一つなのかもしれないが,

 「道徳的」には,そういう国と同じように起こしている「不正」を素知らぬ顔で行い続け,

 国家公務員法に背いていることを誤魔化す想定問答までつくっていた文部科学省が発表するというのは,
 
 本当に笑えない話である。

 学習指導要領に日本の領土を明記することに,どのような意味があるのか。

 報道されている記事にあるように,今でも学習指導要領解説には示されており,

 教科書にもすでに記載されている。

 しかし,学習指導要領解説には法的拘束力がなく,教科書は「主たる教材」に過ぎない。

 法的拘束力のある学習指導要領に明記することで,

 「学習指導要領に反する領土教育をした教師」を処罰することができるようになる。

 これが最大の狙いである。

 「アクティブ・ラーニング」バブルのおかげで,共産主義的な考え方の教師が,資本主義社会を否定したくなる人間を育てるための教育を行いやすくなっている。

 自由主義,資本主義が「悪」である,という共通認識の広がりは,できたら避けていきたい。

 トップが遊びのために組合費を使うような教職員組合の組織率の低下は今後も続いていくと思われるが,だからといって,「公務員の特権」が世の中で一番大事だ,という認識をもつ人間が増えないとは限らない。

 省の「天下り先」の確保と拡大,利権拡大という組織のための政策をやっていることが見え見えでも,

 失ってはいけないものがある。

 一人一人の教員の良心である。

 「お前たちは将来,低賃金労働者になるんだから,深い学びなどする必要はない」と主張するような大学のセンセイの方を向く教師たちを増やさないことも大切だ。


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地理的誤謬と歴史的誤謬の共通点とは?(教員採用試験対策)

 アナクロニズムは,現在を過去の中へ持ち込む時間的な誤謬の錯覚によって起こるものです。

 これを「歴史的誤謬」と表現するとすれば,「地理的誤謬」とはどのようなことを指すのでしょうか。

 小学校社会科の教員採用試験の問題です。

 地理的なものの見方や考え方,歴史的なものの見方や考え方を,小学校段階から中学校,高校へと発展させていく構想ができあがっています。

 小学校段階では,地理的にも歴史的にも複合的な誤謬が子どもの中に形作られていく可能性があります。

 たとえばそれは何でしょう?

 地理的誤謬と歴史的誤謬の共通点とは何でしょうか?

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より