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カテゴリー「社会科」の401件の記事

「倫理」「モラル」軽視の「商売重視志向(嗜好?)」が教育の世界にも定着している

 原子力発電の割合を20%程度まで引き上げたい政府に対し,「倫理」を盾にして反対している人たちの説得力は,今ひとつパワーに欠けている印象がある。

 神社の御朱印帳がネットオークションで転売されたことに対して,神社側が怒っている,というニュースを目にすることができた。

 「商売の倫理」という言葉があるのかどうか知らないが,「自由な取引」と「モラル」の価値を対比させて考えさせることができるよい題材(題材にすること自体は,神様にも許してもらえると思うが・・・)である。

 中学生からは,「足が不自由で神社に参拝できない人にとって,ネットで入手できる仕組みは必要だ」という声が聞こえてきそうである。

 神社参拝に対して個人が抱く「ありがたみ」の違いは,大人と子どもを比べても,あるいは子どもだけでも受験の前とそうでない時期を比べても,個人差がとても大きいだろうが,「ありがたみ」を感じる人が少なくなればなるほど,「自由な取引」の方が大切な価値として認識されやすくなりそうである。

 教育の世界でも,「なんでこんな程度の研究会に3000円とか4000円とか払う必要があるのか」と憤慨したくなる中学校,高校の教員がいる一方,大学や小学校の教員はむしろ「こんなに安いお金でいい話が聞けるんだからありがたく思え」なんていう態度でふんぞり返っている。

 大学のセンセイを講師に呼んだ場合,安くても2万円くらいはかかり,人によっては5万円くれないと行かない,などと公言しているのもいて,そういう人間の財布を潤すために主催者は金額を決めなければならなくなっているのである。

 お金を出したくない人は行かなければよいわけだから,「自由な取引」はいつでもどこでも成立する。

 「商売の倫理」が「教育の倫理」に勝つ時代に即した「教育方法」を熱心に広めてようとしている人がいるのも,致し方ないことなのだろうか。

 「こんな教育を続けていたら,お前の教え子達の大部分は将来,仕事につけないぞ」という脅迫を受けるために,どうして大切なお金と時間を手放していくのか,私には全く理解できないのだが。

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すでに「深い学び」への関心が高まっている

 「主体的・協働的な学び」に関する実践や研究は,これまで数十年かけて積み上げられていました。

 一方,「深い学び」の方は,そもそも英語で表現できる概念なのか?という疑問が湧くほど,欧米教育制度輸入専門学者には説明不可能なものになっており,現場では戸惑いがあります。

 学習指導要領解説が公開されていますので,「改訂の基本方針」の

>③「主体的・対話的で深い学び」の実現に向けた授業改善の推進

 の項目を読んでもらえれば,「深い学び」を登場させている理由がわかります。

深い学び(ここにはカギ括弧が必要でしょう。出版されるときは訂正されると思います。)の鍵として「見方・考え方」を働かせることが重要になること。各教科等の「見方・考え方」は,「どのような視点で物事を捉え,どのような考え方で思考していくのか」というその教科等ならではの物事を捉える視点や考え方である。各教科等を学ぶ本質的な意義の中核をなすものであり,教科等の学習と社会をつなぐものであることから,児童生徒が学習や人生において「見方・考え方」を自在に働かせることができるようにすることにこそ,教師の専門性が発揮されることが求められていること。

 要は,「深い学び」はできない,としている学習の方法,考え方が生き残れない時代になった,ということです。

 研修に見えたある先生から,「深い学びとはどんなものだと思われますか」と問われたときに,

 文部科学省的には,上の内容ですよ,とお示ししたあと,

 私の本心は,「そもそも深くなければ学びではない」「人間そのものが深い存在だ」という趣旨のことをお伝えいたしました。

 10冊とか20冊程度の本を読んだだけで教育ができるのであれば,資格試験など必要ありません。

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「バレたところだけ,小出しに謝る」ことの意味を道徳教育の目から考えてみよう

 KAKE,KAKE,と報道で連呼されているお名前だが,

 そもそもこの問題は,だれとだれの問題なのか。

 総理とその友人との間の問題ではない。

 ようやく,「当事者の顔」がはっきりと見えてきた。

 小中学生にも「隠蔽」という言葉の意味が理解できるようになったと考えてよい。

 バレたところまでは,謝る。

 謝るべきポイントを,「文書があったこと」だけにしぼる様子などは,

 いじめや問題行動の事情を聞き取りしているときの,ずるがしこい中学生と姿が重なって見える。

 道徳教育の全く逆をひた走っている人たちが痛々しいほどである。

 「圧力」の分かりやすい構図を示した文書も出てきた。

 内閣府に文科省が牙をむいた形になったが,これも前事務次官のおかげだろう。

 官僚側ではなく,政権側の人間の攻撃がことごとく不発に終わっているのは,

 正義が見極められる国民の質の高さのおかげだろう。

 
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規制緩和がもたらした地獄の世界

 TBSの報道特集で「運送屋さん」の大変な事情を知りました。

 草野球で一緒のチームにいた元自衛官や,二校目の学校で強い思い出に残る生徒の保護者が長距離トラック運転手さんだったことを思い出しました。

 「送料無料」につられてついついネットで買い物をしてしまう自分を戒めたくなるような内容でもありました。

 規制緩和は,国土交通省から言えば,「安くて便利になったんだから,いいじゃないか。国民のためになっている」という話になりますが,

 お互いに首を絞め合う結果になっている「運送屋さん」たちの立場で考えてみたら・・・。

 私は社会科の教材集めのために,車の長距離運転をすることがありますが,高速道路でもやはり神経を使って疲れます。
 
 激しい価格競争にさらされている運送業界では,運転手に高速料金の制限を設けて,一般道を走らざるを得ない状況をつくっているところもあることを知りました。

 長時間労働は「死」「事故」と隣り合わせの状況も生み出します。

 今日の報道特集では,「水屋さん」と呼ばれる,中間業者というか,「帰りの荷物を探してくれる人」の存在を知りました。「事故が怖いから,運転をやめ,水屋になったのかもしれない」という人もいました。

 運び手がいなくて困っている人と,荷物なしで運転する無駄を避けたい人をつなぎ「Win-WinーWin」の関係をつくるのが「水屋さん」ですが,この仕事の存在が配送料金のさらなる低下を招いているとも言えます。

 中学校の教師の私は,「水屋さん」というと教務部の時間割担当の仕事を思い出します。

 だれかの出張がわかっているときは,時間割を事前に変更できますが,当日の朝になって欠勤になるのがわかると,空き時間の先生から順番に当たっていき,「自習」にならないように時間割を急いで組み替えるのです。

 空き時間がある中学校の教師でも,たいていの時間は「予定」が入っています。

 生徒のノートや日記のチェックとコメント記入,次の授業のプリントの印刷,報告書の作成,会議の資料づくり,欠席の生徒への連絡,保健室にいる生徒の様子のチェック,などなど。

 だからお願いする側は,人から嫌われないタイプの教員でないとできません。

 調整能力が高い教員でないと,「いけません」「ダメです」と断れ続けて終わってしまう。

 もちろん,こういうときは同じ教科の教員や,同じ学年の教員がフォローするのも普通のことなのですが。

 話を戻します。

 「便利な世の中になった」ことを知ることも大切。

 ただ,「それは,何と引き替えに?」と問う姿勢を育てることも大切でしょう。

 運送業だけの問題ではないはずです。

 「一人も見捨てない」なんて抽象的な信念ではなく,

 「重要な問題は一つも見逃さない」という実践的な態度が必要なのが教育現場です。


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新聞による「印象操作」の逆効果

 首相と昵懇の間柄にある人物が起こした問題への関心は低く,敵対する人物への関心は高い。

 「政治の透明化」を果たそうとすると,「守秘義務違反」に問われて処罰されてしまう国を民主化するためにはどうしたらよいのか。

 首相が国会で「この新聞を読めばわかる」と名指しした特定の新聞社のおかげで,「印象操作」と相手を非難する人間を支持している側の方が,よほど「印象操作」をしている「印象」が国民の間に広がろうとしている。

 新聞社のこうしたとてもわかりやすい態度が,強すぎる政権の「流れ」を変えるきっかけになるかどうか。

 大金を使って選手を集めても全く成果が出せない弱すぎる巨人のように,報道機関が見切られる日は来るだろうか。

 新聞社内でも,「忖度」の問題を報道する側が「忖度」の主体となってどうするのか?という疑問を持っている人がいるに違いないし,

 「前川の乱」が「文科省の乱」に,そして「反内閣府連合」に発展しそうな雰囲気も感じられる。

 日本がいつの間にかどこかの国にそっくりになっていることに多くの国民が気づいたときには,手遅れになっているかもしれない。

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「離脱」が「離脱」を生む

 私は文部科学省が進める教育政策への協力から「離脱」しました。

 「離脱」の本当の理由はここでは書けません。

 私がある事実を知ったのはなぜか,だれから知ったのかがわかってしまうからです。

 学習指導要領の解説が公表されれば,わかることかもしれませんが。

 「文部科学省からの依頼が断れるのはあなたの学校だけだ」とも言われましたが,私の学校にはもうそんな力はありません。表向きの理由は,「校務に支障が出るから」ですが,平日毎日16時間働けば,支障は防げました。

 また,私が加わろうが加わらずにいようが,たいした貢献もできないことがわかっているからでもあります。

 「離脱」することで「良心」が守られるという満足感も得られます。

 
 パリ協定「離脱」を表明したトランプ政権から「離脱」した助言者たちは,今,どのような思いでいるのだろうか。

 私とは違って,「離脱」の意味が非常に大きい人たちだったのではないだろうか。

 
 国際社会に背を向け始めたアメリカと同じように「危ない」状態になっている国があります。

 報道の自由が脅かされているのは,他国の話ではありません。

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選挙が違憲だと,国民審査が機能しなくなる?

 教育出版から出されている冊子に,意味不明な社会科の授業の実践が掲載されていた。

 「選挙が違憲だと何が問題なのか?」

 という問いを立て,子どもがこう答えていく授業が,「批判的思考力を高める」ことになるという。

 「国会議員を選ぶ過程に,憲法違反があったとしたらどうなるか?」

 「選ばれた国会議員が違憲状態で選ばれたことになってしまう」

 「この影響は,立法だけだろうか?」

 「国会は,内閣総理大臣を指名するので,指名された国会議員も違憲状態で選ばれたことになってしまう」(???)

 「内閣は,最高裁判所長官を指名するので,そこにも問題が拡大する。」(????)

 「裁判所は違憲審査ができるが,国会や内閣が機能しなくなることも問題である。」(?????)

 「国民は,国民審査で最高裁判所の裁判官を審査する権利を持っているが,それが十分に機能しているかわからないことも問題である」(??????)

 こうして,

 「一票の格差」は,「三権すべてに関わる問題であり,さらには現代の民主政治を揺るがす問題であるという認識に変容させることができる」という。

 国会や内閣までは理解できなくはないが,なぜ違憲判決を出した裁判所や,最高裁判所の裁判官を審査する国民までが「問題視」されなければならないのか,全くわからない。

 よくこんな文章が原稿になって公開されているなと驚いてしまう。

 教育出版という会社は,教科書をつくっているところであるが,こういう原稿のチェック機能は働かないのだろうか?

 「選挙が違憲だと何が問題か」を考えるとき,たとえば安保法制に反対していた人々が,「そもそも違憲状態で選ばれた国会議員に立法資格なし」と主張していたことを思い出させる。こういう主張を生徒がするならまだわからないでもない。

 一方で,「一票の格差」を本当になくしてしまった選挙区になったら,どんな課題があるのかも考えさせるべきだろう。

 「きちんとした選挙制度」とは,単純に一票の格差が規定以下の選挙のことであって,地方の議員はどんどん少なくなってよい,という捉え方でよいのかどうか。

 教室内でだれからも疑問や反対意見が出されるわけでもなく,論理的なつながりや実際の政治の諸問題にふれることなく,AがだめならBもだめ,BがだめならCもだめ・・・などと生徒の発言を誘導するかのような授業では,「生徒自らが,よりよい社会を築くために考えていけるようにする」ことは不可能である。

 あまりに酷すぎて,悲しい気持ちになる。

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安倍政権に訪れる正真正銘の危機

 学校をめぐる問題は,政権を覆すほどのものではないと私は感じています。

 もちろん,見る人から見れば,「終わったな」という印象ですが,代役が不在なので「終わらない」のです。

 たとえ,「行政の常識」「権力者の周辺の忖度」が明らかになったとしても,それは大昔からそうだったわけで,安倍政権が開き直って「昔からそうだったじゃないか!」とキレても,「そうだよね」と共感してしまう人までいる可能性があります。

 「前川の乱」についても,残念ながら「決勝点」にはならないでしょう。

 教育への政治の影響が大きくなっているのは,みんな知っていることですし,今回の学習指導要領改訂は,2006年の第一次安倍内閣のときの教育基本法改正の流れをくんだものですから・・・。

 ただ,新たに報道されたある事件は,今までとは比較にならないくらいの問題を抱えていると思われます。

 代役なしでも痛手になる問題です。

 ですから,よく考えると,今朝は報道されるでしょうが,その続報が続くかどうかは疑問です。

 女性票を一気に失うようなこの問題は,

 人気に陰りが見え始めていた小池さん側にとっては台風並みの「追い風」になる可能性があります。

 総理に最も近いとされる人物のスキャンダルが,命取りになるという私の予想は当たるかどうか。

 霞ヶ関への信頼が失墜しても,何とかなるかもしれませんが,

 警察への信頼が失墜するような事態は,決して国民が許さないでしょう。

 「お友達から攻めるしかないのは情けない」という「対抗勢力」のやり方への批判はごもっともですが,

 警察権力と首相官邸との関係に対する疑念の広がりは,軽視できないのではないでしょうか。

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「アカデミアの世界」からこのブログへ投げかけられた言葉とは?

 読書編の各記事をお読みいただいた方はすでにご存じかと思いますが,次の言葉はつい最近,教員養成系の国立大学という「アカデミアの世界」の方から私宛のメールやブログのコメントでいただいたものです。私の側は匿名で記事を公開しておりますので,先方のお名前も伏せておきます。

>貴公のような「犬クソ」教師

>貴公があまり頭が良くないことは十分に承知

>学問的な作法に成(ママ)れていない素人さん

>貴公の批判は極めてどうでも良いこと(些細な事)

>国語力を鍛えなおしてはいかが

>アカデミアの世界に慣れてらっしゃらない

>(雑誌に原稿を書くのは)ブログで自慰行為するのとは違う
  (以上の回答は、貴公のブログに掲載してもらって構いませんよ)

 「貴公」という言葉をあまり聞いたことがなかったので,調べてみたら,「貴様(キサマ)」という言葉のニュアンスに近いのでしょうか。同輩か下の人間に向かって使う言葉のようです。

 また,「犬クソ」教師とは,どういう意味なのでしょうか。

 ただの「クソ」教師ではなく,「犬」の「クソ」にすることで,さらに下のランクに位置付けられるということでしょうか。

 学習指導要領の趣旨に沿って=国の言いなりになって,カリキュラムを編成する教師だから「犬」なのでしょうか?(そう解釈するとちょっとだけほっとできますね・・・)

 ただ残念ながら,文部科学省(国立教育政策研究所)の仕事に10年以上携わってきたものの,今回の指導要領に関するご協力の依頼は校務に支障があったためお断りしておりますので,「犬」とは呼べないでしょうね。

 「頭があまり良くない」とのご指摘ですが,その根拠が,ご自分が原稿に引用した他人の授業への批判は,自分への批判の材料には当たらない,というものでした。これ,本当に正しい主張でしょうか。原稿に引用したのは,ご自分の主張を述べるためであり,選択して引用した時点で,引用した側にも責任が生じるという私の主張は当然のことではないでしょうか。

 別に「私の頭は良くないわけではない」と言いたいわけではありませんが・・・。

 アカデミズムの世界の慣習はわかりませんが,私が学校の授業で扱う教材(たとえば新聞記事)とその内容に対して,「どうしてこんな教材を使ったのだ」と問われたら,私自身が責任をもってお答えしたいと考えています。

 私が「アカデミアの世界に慣れていない」と主張することの根拠は,

>頁制限のある明治図書の原稿において、貴公が問題にすることを踏まえて書いていたら私が書きたい別のことを書けなくなってただ室町時代のことについて書いて終わり・・・になる

 とのことでしたが,「書きたい別のこと」のために,「室町時代のこと」がいい加減になってもかまわない,それに対する批判は極めてどうでも良いこと,というのがもしアカデミアの世界の常識だとしてら,そんな世界は私たち現場の教師たちには全く縁がなくてけっこうですし,教師の価値観を押しつけられる子どもたちにとっても迷惑なだけの存在に思えてしまいます。

 この先生の主張は,要するに「歴史認識」のうち,大事なのは「事実認識」や「関係認識」より「価値認識」である,ということに尽きるのではないでしょうか。

 ご自身のHPで,訳書について,次のように述べていらっしゃいます。

>共感理解も、新聞づくりのような活動主義も、文脈次第では意味のある歴史の学びを子どもたちに保証するし、歴史学のディシプリンに即した分析型の歴史学習であっても、文脈やアプローチの仕方次第では、思ったほどの効果を持たない。

 これは,裏返すと,

>新聞づくりのような活動主義では,共感理解はできるかもしれないが,ほとんど意味のない歴史の丸写しで終わってしまうおそれがある。歴史学のディシプリンに即した分析型の歴史学習は,共感理解を促すような文脈やアプローチの仕方によって,より効果的に意味のある歴史の学びとなる。

 要は,文脈やアプローチ次第でどうにでもなるわけですね。

 後者は,少なくとも,共通の「事実認識」や「関係認識」を育てることになりますが,前者では,下手をすると誤った「事実認識」や「関係認識」のもとに,とんでもない「価値認識」を導く結果になりかねません。

 今のある国の政治家が,まさにその「とんでもない」本道を行っているかのような気がします。「経済がよくなればそれでよい」「自国に利益があればそれでよい」という価値認識などは,まさに教育の成果かもしれませんね。


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他人事ではない通学路暴走動画

 学校の通学路におけるトラブルは多い。

 通行人から学校に苦情が寄せられるケースも多いだろう。

 「広がって歩くのはやめなさい」と全校集会などで注意を呼びかけても,なかなか改善しにくい。

 自転車に乗っている人に対しては,

 「歩道を自転車が通行することの方が悪い」と堂々と反発する生徒もいる。

 自転車の方も,車道の左側のスペースがほとんどない道では,

 「自動車への迷惑」を考えて,歩道を行くことなる。

 だから,今度は私の「自転車への迷惑」を考えて,歩行者は道のどちらかに寄るべきだ,と考えてしまうのだろう。

 

 道路を利用する人の不満が,思いがけないかたちでネットに登場した。

 道路をかなりのスピードで走る(暴走する)車と,よけていく生徒たち。

 生徒はしっかり前を向いて歩いていたから,よける動きもスムーズだったが,

 もしふざけ合って歩いている生徒たちがいたとしたら・・・。

 死亡事故にもつながりかねない状況のように見える。


 小学校の学区域では,歩道にカラーのペンキを塗って,歩行者ゾーンと車道を分けているところもあるが,

 住宅街の中すべてにペンキを塗るのもいかがなものかと思うので,

 どうにか「お互い様」の関係を築けないものか。

 
 今回の「暴走」とネットへの投稿は,学校全体,社会全体への問題提起としても受け止めるべきだろう。

 生徒の集団に突っ込まないでくれたことに感謝するのも,おかしな話かもしれないが・・・。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より