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カテゴリー「社会科」の391件の記事

前事務次官の「武士の一分」

 日本の政治は明治維新や占領期の変革を経ても,結局江戸時代と何も変わっていないような気がしています。

 国民がだめだから,こうなっているという見方もできるでしょうが,

 批判的精神が「うざいもの」とされる流れは,これからも変わっていかないかもしれません。

 日本の政治に最も必要なのは,正しいものは正しい,間違っているものは間違っていると堂々と言える人間の存在です。

 前事務次官は,辞めたことで言えるようになったようですが,

 きっと現職のときも,言いたいことはたくさんあったのでしょう。

 現職のときに言わなければ意味がないわけですが,

 私の場合も,行政にいたときは,「トップにかける迷惑」ではなく,「関係する多くの人々にかかる迷惑」を気にして,言いたいことは言えませんでした。

 「上の意向だから」・・・政治にかかわらず,どこの世界でも反論を認めない決まり文句が使われています。

 文書の存在がはっきりしたわけで,ここまで化けの皮が剥がれても,誤魔化し続けようとする姿を忘れてはなりません。

 同じことが何度繰り返されれば,国民の目は覚めるのでしょう。

 今回のことに限らず・・・ここ,重要なので繰り返します・・・今回のことに限らず,

 行政のあり方は,ゆがめられていたのです。

 前事務次官が会見で述べたように,

>これ以上、行政のあり方をゆがめてはいけない

 この意味を考えるヒントは,戦前にあります。

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見えていないものがそこにある

 子どもっぽい集団のいじめと,そうでない集団のいじめの区別を見誤ると,とんでもないことになる。

 子どもたちの世界では,リアルのミサイル発射よりも,見えない消耗戦が続いているものである。

 教師が一生懸命になって「見よう」「見届けよう」としているものに対して,

 子どもたちは敏感である。

 それがプラスに働くのは,中学生といってもほとんど小学生に近い子ども集団に限られるだろう。

 教師が一生懸命になっても「見えない」ものを子どもたちは共有しており,

 そこで騙されている教師が多いことを肌で感じている。

 くれぐれも,調子にのって「いじめられっ子の活躍」を表に出されないように。

 成功体験が一人の人生を変えることは大いにあり得るが,

 それが教師の力によるものであっては,子どもはいずれ路頭に迷うことになるだろう。

 初任者研修で,小学校の教師たちによる,いじめ解決に向けてのロールプレイングの指導をしたことがある。

 「平和ボケ」したストーリーをぶった切りにしたことの意味が,経験を通してわかった教師はどのくらいいるだろう。


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教育と政治的「排除」

 自分に対して「悪口」を言うような人間は,どんどん「排除」する。

 「排除」というキーワードが最もわかりやすいタイムリーの国は,アメリカである。

 政治と教育の関係は,韓国に関するニュースを見ているととてもわかりやすい。

 日本については,教育基本法が改正されたのは,どの内閣のときだったか。

 学習指導要領の質が大きく変わろうとしているのは,現内閣である。

 どういうつながりがあるのか。

 それをわからずに,次の学習指導要領の性格を語ることはできない。

 この現内閣のもとで「編集」される学習指導要領にかかわっている人がどういう人を確かめると,

 どういう人が「排除」されているか,なぜ「排除」されたのかに気づけるだろう。

 「見捨てる」という話法は,そもそも「拾ってやる」「助けてやる」という意識がある対象に使うものである。

 「地面に落ちているもの」ではなく,自分の足で立っている対象は,

 「見捨てる」ではなく,「排除する」という行動様式になる。

 教育が政治の道具になっている国の「民主化レベル」の世界ランキングはどのくらいなのだろうか。


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悪いのは「失言」ではなく,「認識」

 問題なのは,「失言」ではなく,大臣としてあるまじき「認識」や「思想」である。

 これは,「政権の緩み」などではない。

 「大臣の認識は,政権の認識である」と明言するわけにいかない政権の問題である。

 もちろん,「認識」を「表明」したことも問題である。

 この国には「言霊」が生きているという「認識」があり,

 古代から続くものを大切にしている「文化」がある。

 大地震はいつどこで起きるかわからない。

 責任追及も大事だが,震災対応,防災のレベルを引き上げることを優先すべきである。
 

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アメリカ・中国・韓国と日本

 現大統領を支持しているアメリカの人々の子どもたちは,大統領の発言をどのように受け止めているのだろうか。

 Aさんは,BさんがCさんたちのことをこう言っていた,と語った。

 こういう話法が原因で,学校現場でも多くのトラブルが発生している。

 Cさんたちは,Bさんに確かめることをせず,あるいは確かめることができず,

 Bさんへの嫌悪を強めていく。

 Bさんは,Aさんへの嫌悪を高める。

 Aさんは,もともとCさんのことを何とも思っていない。

 振り回される周囲の人たち。

 人間は,人を振り回したり,人に振り回されたりするのが好きな生き物かとも思ってしまう。

 さて,舞台は学校ではなく,国際社会である。

 発言の影響は,すぐに出るものと,少しだけ後に出るものと,しばらくたってから出るものがある。

 私が心配しているのは,発言を耳にした子どもが大人になる時期の話である。

 日清・日露戦争に勝ったとき,まだ幼かった子どもたちが起こしたのは何だったか。

 日本も決して「部外者」ではあり得ない。


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静岡市の人口減少に見る地方都市の未来像

 読売新聞が昨日配信したニュースによれば,

>静岡市の今月1日時点の推計人口が69万9421人となり、政令市の指定の目安「人口70万人」を割り込んだことがわかった

 とのこと。

 静岡県の県庁所在地・静岡市の印象は,

 「静岡駅周辺の道路が混み過ぎて不便である」くらいのものだったが,

 東京や名古屋に人をとられている状況を知ると,この地盤沈下の流れは止められないだろうという感じがしている。

 全国の「城下町」には,同じような「衰退」の運命が待ち受けていることだろう。

 静岡市には,大企業が少ない,という特徴があるらしい。

 不便なところにある静岡大学の存在意義とか,もろもろの課題が追い打ちをかけるように襲ってくるだろう。

 「東京」や「名古屋」の生産性を向上させることに貢献することで,

 「おこぼれ」をもらう運命を選択するのか,どうか。

 肝腎の「東京」や「名古屋」の現状すら,満足できる状況にはない,というアナリストもいる。

 静岡市がとってくるであろう対策に注目しておきたい。


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日本が守るべきものは何だろうか

 日本は何を,誰のために,守っていくべきなのだろう。

 テロの標的として自ら進んで名乗り出なければならないほど,関係を守りたい国があるのだろうか。

 世界では,さまざまな理由で命の危険に晒されている人たちがいる。

 日本丸ごとその「仲間入り」を果たしていくことが,政府の役割ではないはずである。

 新聞も報じなくなったとき,その次に起こる出来事を,歴史は例示してくれている。

 オブラートに包んだ中に入った情報まで,ちょっかいを出される時代になったのだろうか。


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北陸地方では常識的な?「防災教育」

 ある高校生が,「雷の多い年は豊作になる」と言い伝えを実証するための実験を行ったことがニュースになっています(産経新聞)。

 私の勤務している中学校では,1年生の一部が必ず田植え体験をしている関係で,よく次のような話をします。 

 以下の文章は,JAみな穂のHPからの引用です。

****************

 雷は稲妻とも呼びます。雷は稲が結実し始める夏の時期に多く発生することから、古来より稲は雷によって結実すると信じられていました。雷が稲を孕(はら)ませると考えられ、雷を稲の夫(つま)稲夫(いなずま)と呼ぶようになりました。昔は「夫」も「妻」も夫婦や恋人が相手を呼ぶ言葉で、「つま」に妻が当てられたことから稲夫→稲妻と呼ぶようになりました。

 そのため雷が多い年は豊作になると信じられてきたのです。
 
 また雷を「神鳴り」とも書くように昔から雷は神の仕業と考えられてきました。雷を「いかづち」とも読むのは荒々しい様子を表す「厳(いか)し」に大蛇(おろち)や蛟(みずち)などで神や霊を表す「ち」を「づ」現代かなづかいの「の」で繋げたものです。

****************

 このHPには,北陸地方が雷多発地帯であることも示されていました。

 北陸各県では,「雷が発生したときの安全対策」の教育もしっかりと行われているのかもしれません。

 
 実際に田んぼに雷が落ちると,どんな現象が起こっているのでしょうか。

 高校生が行った実験によれば,放電した水は,通常の水よりも窒素を多く含んでいたとのこと。

 そうすると,人為的に放電を起こしていき,水分中の窒素量を増やすことで,収穫量の増加が見込めるようになるのでしょうか。

 ただ,長く放電しすぎるのもいけないようです。

 
 各地に残されている様々な伝承は,経験則を示しているものも多いのでしょうが,現在では,それらの科学的根拠を解明している人たちも多いはずです(そういう本を昔読んだ記憶があります)。

 今回の高校生のような実験・検証を行う研究が,「総合的な学習の時間」の基本スタイルになっていくことを期待したいものです。

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国立大学法人のある先生からのご質問ですが・・・

 これでもかと繰り返される現役の教師たちによる犯罪行為の報道。

 報道されるものが全部ではないところが哀しいところです。

 あるニュースで,バレーボールの強豪校の教師が・・・・と報じられていました。

 バレー部は何の関係もないのに,「~で有名な学校」というところにニュースバリュー(?)があるので,私も危うくバレー部の顧問がか?と誤解しそうになりました。

 江戸川区立の小学校教師は,強制わいせつ容疑で逮捕されました。

 ネットでは,SNSなどから判明したのでしょうか,本人の出身高校と出身大学が示されています。

 芸人さんに迷惑をかけている,なんていう指摘もあるようですが,子どもをこういう人間の魔の手から救う方法はないのでしょうか。今後,「男性の担任だけはやめてほしい」なんていう要望が女児の保護者から寄せられることが増えるかもしれません。

 これだけ多くの逮捕者が出ると,人事部の人間でなくても,どこの大学の出身者が危ない,という情報まで流れ出すかもしれません。

 さて,実名でこのブログにご質問をいただいた大学の先生がいらっしゃるのですが,後でご迷惑がかかるといけないと思い,非表示にさせていただきました。
 
 まずは,真っ当な大学の先生ならば,こんな低俗な匿名ブログの世界に足を踏み入れないようにすべきだと思います。実名で公開されている方は基本的に信頼できると思いますが,私のようなアウトローには近づかない方がよいかと・・・。

 ただ,私の記事が,翻訳された書名による検索で上位に来てしまうので,やはり気にはなってしまいますね。

 申し訳なく思います。

 その記事の中で,先生が書かれたある雑誌の原稿の内容が間違っていた,という指摘をしていました。

 その雑誌も原稿段階のプリントもすでに手元にはないので,どんな内容だったかわからないのですが,それほど歴史に詳しくなくてもわかるようなレベルの間違いだったと思います。

 同じ大学にいらっしゃる,歴史を専攻された先生にお聞きいただければ,すぐにご指摘していただけると思います。


 それにしても,文科省の植民地みたいになっている国立大学では,さぞやお仕事がやりにくいことでしょう。

 では私立大学ならばどうかと言えば,こっちも補助金獲得のために天下りを受け入れるのに躍起になっているようで,「再就職自粛」が長引けば,「先に取ったもの勝ち」になりかねない状況ですね。

 「主権者教育」なんていう,国民をバカにしたことをやろうとしている人たちの言いなりになるうちに,主権者の感覚とか大学の自治意識などを失っていき,どこかの国と同じような末路をたどりそうで悲しくなります。

 天下り先斡旋業務が最重要任務だった官僚も,どこか憎めないところがあるのは,この国はまだ「法治国家」のレベルに達していない,ということと,「世襲」や「コネ」が威力をもつ「文化」があるからでしょうか。

 数値目標を達成することしか頭にない人たちばかりなら,たとえば投票率を上げたければ,芸能人を総動員して,投票所に投票券をもってきたら必ず握手できる仕組みにすればよいわけです。

 ただ,裁判員裁判のDVDに出演していた女優が覚醒剤でつかまったように,芸能関係特有のリスクも高いわけですが・・・。
 
 何のお答えにもなっておらず,申し訳ございません。

 本拠地(?)の方でご活躍になれる日が来ることをお祈り申し上げております。


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論文作成と授業づくりの違い

 論文には,基本的な構成がある。

 結論がわからない状態で論文を書き始めることはまずないだろう。

 授業案も同様に,この時間ではこのようなことを理解させたい,という「結論」がもとになって,導入や展開を考えるのが普通である。

 導入・展開・まとめという授業の構成の中で,「まとめ」のイメージがあるから,導入の教材を工夫することができる。

 ただ,学習で大切なことは何を考えると,論文を書くことよりも,研究の過程でどのような良質の試行錯誤ができたかが重要であることは言うまでもない。

 研究のきっかけが何であったのか,実は論文を読むよりも,その話を聞いた方が,他人にとっては参考になることが多い。

 ゴールをあらかじめ提示してしまう授業が,その教科が扱う事象の興味・関心を高めるかと言えば,決してそんなことはないのではないか。

 さすがに公開授業では難しいかもしれないが,授業というのは多くの場合,「脱線」があるものだ。

 この「脱線」こそが,たとえば研究活動ならば意外な大発見に結びつき,よい業績をもたらすものになることが多いのではないか。

 教師が設定したゴールに向かってひたすら邁進させるタイプの一般的な授業が,多くの生徒にとって「つまらない」と感じられてしまうのも,生徒なりに「学習の本質」がわかっているからではないだろうか。

 結論よりも,まずは「導入」を工夫してみる。そうすると,子どもたちは,(教師の)思いも寄らない方向へと思考を働かせてくれて,「主体的な学び」が成立する。そんな授業を心がけていたい。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より