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カテゴリー「社会科」の372件の記事

人よりも言葉を愛する人にしないために

 心を育てる教育というのは,重要なのだが,「教える」のは難しい。
 
 うまい具合に「育ってくる」ことを望みたいところである。

 「私は,忘れられた人たちのことを忘れない」

 とてもいい言葉である。今,放映中の池上彰さんの番組で紹介されている。

 だれが語った言葉だろう。

 「忘れられた人々」とは,

 鉄鋼業や自動車産業の不振で工業が「錆びついた地域」=ラストベルトの労働者のことである。

 この言葉によって,「忘れられた」と表現した人々から指示を集めることができたのが新大統領である。

 人は,当然のことだが,人から大切に扱われることを望んでいる。

 たった一つの言葉でも,感動したり満足したりできるのが人間だから,

 人を大切にしていることを示したければ,そういう「言葉」を使うようにする,というのが一つの方法である。

 グローバル化が進む社会では,やはりこういう「言葉」が使えるようになることは大切である。

 ただ・・・。

 日本には,「軽々しい言葉」を「軽率」に語ることを慎む文化がある。

 目の前にいない人への優しい言葉を語ることより,

 目の前にいる人に対する優しい行動をとれることを重視したい。

 教員になろうとする人が,教員に向いているかどうかを判断できるのはだれだろう。

 目の前にいない子どものことをどんな言葉で語ろうとも,

 目の前に子どもがいる場で何もできない人を現場においていても意味はない。

 「人よりも言葉を大事にしようとしている」教育をめざしている人はいないだろうか。


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中学校社会科の新学習指導要領案を考える―その1 地理的分野の目標(2)

 では,2月14日に公開された甘くない贈り物の分析を真面目にしていきたい。

 まずは社会の地理的分野の目標(2)の内容から。

 ポイントは太字の部分。

>地理に関わる事象の意味や意義,特色や相互の関連を,位置や分布場所人間と自然環境との相互依存関係空間的相互依存作用地域などに着目して,多面的・多角的に考察したり,地理的な課題の解決に向けて公正に選択・判断したりする力,思考・判断したことを説明したり,それらを基に議論したりする力を養う。

 地理の専門家でなければ,「空間」と「場所」と「地域」の違いを説明できない。

 文部科学省は,13歳と14歳の子どもたちに,地理学の中心的概念を習得させる教育をさせたいようだ。

 1 位置や分布(「位置と分布」にしなかったのは,何か意味があるのだろうか)

 2 場所

 3 人間と自然環境との相互依存関係

 4 空間的相互依存作用

 5 地域

 この5つは,国際地理学連合の地理教育委員会が1992年に出した「地理教育国際憲章」から引用されたものである。

 英文の「地理教育国際憲章」をIGUのホームページからダウンロードして読んだところ,いくつか気になった点があった。

 Some of the central concepts of geographical studies として挙げられているのが上の5つだが,英語では,次のように表現される。

 1 Location and distribution

 2 Place

 3 People-Environment Relationships

 4 Spatial Interaction

 5 Region

 お気づきになると思うが,日本語訳が気になるのは,

 「Relationship」が「相互依存関係」,「Spatial Interaction」が「空間的相互依存作用」になっていることである。

 中山修一さんという地理教育委員会委員の翻訳が,公式文書として扱われているので仕方がないかもしれないが,「相互依存関係」は「相互の関係のうちの主なもの」とは言えるだろうが,依存関係以外の関係もある。「影響を及ぼし合う」ことを「依存」と呼ぶのが地理の世界なのだろうか。

 「インタラクティブ」という言葉が「双方向の」とか「対話的な」いう意味で少しずつ日本語化していることもあって,「インタラクション」を相互依存作用と訳するのは適切ではないと思われる。

 学習指導要領で示す用語にするためには,地理学者に今一度,再考をしてもらった方がよいのではないか。

 公式文書では,たとえば「地域」の部分で,

>Regions are dynamic in both space and time.

 の1文が「地域は,空間的にも時間的にも躍動的なものである」と訳されているが,

 dynamicという単語は,日本語の「ダイナミック」ほど大げさなものではなく,

 日本語で「動態的」という表現が用いられていることを念頭に置いた方がよい。

 現行の学習指導要領の解説では,日本の諸地域学習について,

>それぞれの地域の特色ある事象を中核として,それを他の事象と有機的に関連付けて,地域的特色を動態的にとらえさせることとした

 と示している。

  単なる地誌的知識の習得に陥らないように,たとえば産業を中核とした考察では,

>地域に果たす産業の役割やその動向は他の事象との関連で変化するものであることなどについて考える

 学習ですでに行われている(はずである)。

 「相互依存関係」とか「相互依存作用」という言い方を使うと,誤解を招くというよりは,多面的・多角的な考察ができないおそれがあると考えられる・・・というのが,第1点目の指摘である。
 
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中学校社会科の新学習指導要領案を考える―その0 教科目標と「天下り」先の確保

 冒頭から蛇足になってしまうが,以下に示した社会科の新しい教科目標で,「グローバル化する」という言葉が「国際社会」を修飾していることと,そこで「主体的に生きる」人間を育成する,という文脈になっていることが気になる。

>社会的な見方・考え方を働かせ,課題を追究したり解決したりする活動を通して,広い視野に立ち,グローバル化する国際社会に主体的に生きる平和で民主的な国家及び社会の形成者に必要な公民としての資質・能力の基礎を次のとおり育成することを目指す。

 グローバル化する国際社会を「アメリカ帝国主義におおわれた世界」と解釈すると,そこで「主体的に生きる日本人」というのは,ジョーク以外の何物でもない。

 グローバル化に抵抗する勢力が増えつつある国際社会で,「グローバル化する国際社会」という言い回しは,いかにも時代遅れというか,「まだそこなの?」という印象が強い。

 グローバル化という言葉がないことによって,「国際社会に主体的に生きる」ことの意義の重要性が認識できる目標であったのに・・・・。

 補助金というエサをちらつかせながらグローバル化対応を大学に迫り,天下り先を巧妙に確保するどこかの省庁の「主体性」のことが,嫌に頭にちらつく。 


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ポジティヴシンキングもほどほどに

 明るい未来像だけを描くようにコントロールされた人々が,いよいよ地獄を見る日が近づいているように思える。

 地獄が目の前に迫っているのに,絶対に自分は地獄に堕ちないですむと信じ切っている人に,危険を察知する能力を与えるのは不可能である。

 遠いところにある危険ばかりを煽り立てて,目の前の危機はなかったことにする神経でも,生きていける国の最後の望みとは何だろう。

 地獄への階段を用意したのは,自分の国以外の人間や異教徒たちだと開き直る姿が目に浮かぶようである。

 歴史の浅い国だからといって軽蔑するわけではないが,楽観的すぎる単純な生き方は,本当に心配になる。

 敵対勢力の攻勢が甘いとき,それは自滅を待てばすむという分析に基づく判断かもしれないと想像してみてもらいたい。

 
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全世界が賞揚すべきある指導者の言葉

 ある指導者が,「人権侵害行為を禁止する」というような趣旨の指示をしていたことが,報道されている。

 別に,「自分自身はどうなのだ」という,だれでもわかっている批判的な言葉を表明する必要はない。

 ただ,その発言自体の素晴らしさ(当たり前さ)を,賞賛することが可能なすべての指導者は,賞賛すべきである。

 今まで世界からほとんど賞賛させることがなかった国が,その対象になることはすばらしい。

 指導者が「藁をもつかむ」状態になる前に,国民の意識が変わることが望まれる。

 怒りの矛先転嫁にも限界がある。


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告示される前から失敗することがわかっている学習指導要領改訂のねらいとは

 学習指導要領の改訂は,およそ10年サイクルで行われる。

 10年は長そうに見える期間だが,改訂のスケジュールを考えると,10年が最短のサイクルである。

 新学習指導要領実施→実施状況の調査→中教審の審議→指導要領作成→教科書作成→教科書検定→教科書採択

 間もなく告示される次の学習指導要領は,中教審ワーキンググループの議論やそのまとめがHPに掲載されており,ほぼその全貌がわかっている。

 「アクティブ・ラーニング」がキーワードになっているが,要は小中学校でがんばってきた授業改革を,制度上は義務教育ではない,高校にも拡大していくことがねらいである。

 一言で表現してしまえば,日本では実質的にほぼ義務教育化している高校の教育改革がねらいだということである。

 歴史などは,私立大学入試の穴埋め問題を見ただけで,本当に意味のない勉強を強いている高校の課題が明白である。

 高校の授業がこんな状態なのは,大学入試に備えるためだ,という言い逃れがあるため,大学入試を変える,というのがセットの条件になった。

 大学入試が変わるのだから,高校の授業も変わらなければならないのだと。

 小学校や中学校レベルの「話し合い活動」をすれば,許してやる。もちろん,力がつくかどうかは知らないけど。

 というストーリーだが,この流れのばからしさは,塾関係者が(受験を控えた中高の教員も)一番良くわかっている。

 そもそも「大学入試を変える」ことなど,そう簡単にはできない。

 問題作成を経験したことがある人など,ごく一部かもしれないが,その分析や対策をしてきた塾関係者はよくわかっていると思われる。

 どんな問題を出すにしろ,できる生徒はできるし,できない生徒はできない,というのが「常識」である。

 そして,「思考力・判断力・表現力」を測るための問題で,採点に客観性や信頼性が担保できるものなどは,学校の定期考査ですら難しいことも「常識」である。

 合否の判定材料になる大学入試などで,答えがいくつもあるような問題を出題することなどはできない。

 採点方法やその結果で大もめにもめるような入試では,入試業務だけで1年が終わってしまう。

 つまり,告示される前から,高校の授業が確実に失敗することがわかっている学習指導要領の恩恵を最も受けるのはどこかと言えば・・・・学習指導要領に縛られずに教えられる塾・予備校などの教育産業である。

 ある教育産業のHPに,各学校に対する生徒や保護者による多面的な評価が掲載されている。

 私の学校の場合は,各項目について高い評価を得ているが,「学習」についての評価が低い。理由は,「受験に役に立たないことをしているから」。

 おっしゃる通りである。ただ,これから告示される学習指導要領の趣旨にぴったりの教育を100年以上続けている。

 中学校も高校も,どことの比較かはわからないが,通塾率が高くなるというデータも紹介されている。

 別に,塾に通う生徒が多いことを「失敗」だと言いたいわけではない。

 最も簡単に予想できることは,高校での「授業崩壊」「学級崩壊」が増加することである。
  
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もはや「アメリカ」は「アメリカ」ではない

 もはや現在のアメリカは,昨年までのアメリカではない。

 アメリカ人が一番よくわかっていることだろう。

 アメリカの報道番組は,新大統領の動向に関するニュースで持ちきりのようである。

 政権ヨイショ的な番組ばかりになったとしたら,

 いよいよ「戦時体制」に入ったと考えた方がよいかもしれない。

 これから,1930年代の歴史を学ぶべき機会が増えていくことになると思われる。

 いつの時代のどこの国でも,いい方向を目指していたはずが,いつの間にか全く逆の悪い方向に進んでしまったということがよく起こる。最大の原因は,「利己的な思考に基づく一方的な判断」にあった。

 日本では,「多面的・多角的なものの見方・考え方」を機能させて,自由や人権,平和を守るための教育を進めてきた。

 内政にかかわる問題への口出しはしない,という「お行儀のよい態度」と,

 絶対的な価値であったはずの自由や人権を大切にしない人間への批判ができる態度と,

 どちらが「正しい」のだろうか。

 気づいたときに,右を見ても,左を見ても,同じ国しかなかった,という状態になるまで,あと何年,いや,あと何ヶ月だろう。

 文部科学省など見ていると,実は,日本も同じような状態になってしまっているのだろうか。


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「Don’t be Evil」の方が,「Do the Right Thing」より良い

 「正しい行為」の「正しさ」を認める人はだれか。

 見る位置を変えるだけで,「正しい」ことがすぐに「誤り」だったことに気づけてしまう,そんな軽い「正しさ」で人間はいつも傲慢な行動をとり続けている。

 自分にとって利益があることが「正しい」ことだ,という人間が国のトップに立つと,人々にとっては非常に迷惑である。

 「行動することがすべて」という文化のもとでは,「自分は正しい」ということを常に自分に言い聞かせて行動するので,「正しさ」の基準はいい加減なものになってしまう。

 一方の,「邪悪な行為」の「邪悪さ」は,だれにとっても非常に分かりやすい。

 程度の差があるから,たいていは,「この程度の邪悪さなら,許し得もらえるかも」という期待を込めて,遠慮がちに行動する・・・こういう文化の方が私は好きである。

 人間はそもそも邪悪な存在だ,という前提に立つと,

 「自分は正しいことをしている」と確信している人間とは怖くて付き合いにくいのが実感できる。

 ところが,人間の邪悪さに気づけない人たちは,

 「自分は正しい」という信念が強い人に,多くを委ねきってしまう。

 さて,入国管理の次の「邪悪なこと」とは何だろう。


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1930年代の政治の再来か

 中途半端な危機感では,変わろうとするよりも,変わらないまま自滅を待つ傾向があるのは何も日本人だけではないかもしれない。

 文部科学省の「天下り」の実態が示す壊滅的な反道徳的行為は,組織の廃止・再編を構想するレベルの問題ではないか。

 公務員が自ら法令を破るという行為が,憲法のどこに違反しているか,

 自らわからない人間はいない(公務員には採用されていない)はずである。

 文部科学省に見られた天下りの問題は,構図があまりにもわかりやすいものなので,社会科か道徳の教科書にでも採用しておくべき教材である。

 組織というものが,どのような仕組みで動いているのか。

 「OB」という立場を利用すると,どんなことができるのか。

 官僚というのは,何を目指して生きているのか。

 省庁というのは,それぞれどのような「利権」をもっているのか。

 省庁と企業,財団法人は,どのように結びついているのか。

 省庁は,どういう意味で,日本全体の利益を考えるための組織ではないと言えるのか。

 文部科学省の実態を見ると,よくわかる。

 これだけのことをして,どれくらい国民からの信用や信頼を失い,不信感を招いているか,わからないわけがない。

 そもそも信用などはなく,関心も持たれない省だと言ってしまえばそれまでかもしれないが,

 私たち教育関係者,子どもを学校に通わせている親の立場から言わせてもらえば,

 道徳教育や法教育を受けるべきは,まさしくトップの人間たちにほかならない。

 文科大臣は,省全体として法令遵守の意識が不足していたと認めている。

 「研修を通じて職員の意識改革を徹底する」とは,文科省自身が教員の非行に対していつも口にしていたことである。

 最も重い責任を持っているのは,だれか。

 何も語らず多額の退職金をもらって消えていくのを見過ごすことはできない。

 教員の犯罪行為ももちろん問題である。

 文部科学省が行っていたことが,どれくらい問題なのか,まともに答える責任を負う者を,逃がしてよいのか。

 1930年代の日本には,まだ軍部の主張を言論で圧倒できる帝国議会が存在していた。

 しかし,世界的に国家主義的なムードが高まり,

 国民のための民主主義が実現しつつあった「大正デモクラシー」から,

 世界の潮流に合った国家のための「昭和デモクラシー」に移行していってしまった。

 一部の人間が「甘い汁を吸える」仕組みは,何も国だけにあるわけではない。

 しかし,弱小とは言え国の機関のトップが平気で法律を破るだけでなく,

 誤魔化すための想定問答までつくって罪がなかったことにする行為をして,

 それが見逃されてしまうようでは議会など存在意義もない。

 与党からの厳しい追及もあり,内閣も動いている。

 弱小省庁だけの締め上げて終わらないことが,信頼回復の道だと信じたい。

 今こそ,1930年代の再来ではないことを政府が示すべきときである。


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日本は万全のテロ対策を講じうるか?

 トランプ政権下の軍事行動で,初の戦死者が出たという。亡くなった方のご冥福を祈りたい。

 日本では,「兵士(自衛隊員)が戦闘で亡くなる」という報道を耳にすることがなかった(訓練中の事故で亡くなる方がいるのは,知り合いもいたのでよく知っている)。

 アメリカのような国に日本がならないことを願いたい。

 しかし,今や,テロで一般人が標的になってしまう時代だから,基本的に地球規模で見れば「戦時」であると考えた方がよいだろう。

 より安全な場所に生活の場を求める人が増えていくかもしれない。

 もし日本が移民を認めるようになったら,どれだけの人が集まってしまうか,想像もできない。

 しかし日本が安全な場所だというのは,「これまではそうだった」というだけのことかもしれない。

 アメリカが「次の大規模テロ」を警戒しているのは間違いないことだろうが,行き着く先が,

 「戦争で雇用の増加を」なんていうことにならないでもらいたい。

 戦争のど素人の日本人でも,今のアメリカが危ないことはわかりきっている。

 アメリカと密な関係を保ちたい日本が,強固な同盟国という理由だけで狙われることを心配している人も多いだろう。

 テロリストに理屈は通じないが,敵意は通じる。
 
 お互いに敵意に満ちた人間が溢れる地球にならないために,日本人ができることは何だろう。

 真の「国際社会への貢献」とは何だろう。

 今こそ,いがみ合いのない世界を築くためのメッセージを発信すべきときではないのか。

 入試の直前だが,国際社会のことを学んでいる中学校3年生には,そんな「義憤」に燃えていてほしいものである。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より