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カテゴリー「野球」の64件の記事

12月4日 データ分析で野球が変わった

 12月4日は日本の近代統計調査の先駆者である杉亨二さんが亡くなった日である。

 総務省統計局のHPにその一生が紹介されている。

 統計データは,持っているだけでは意味がない。

 それをどう活用するかが重要である。

 2015年にMLBで始まったデータ分析が,わずか2年で結実したらしい。

 ホームラン数が異常な増え方をした2017年は,

 いわゆる「飛ぶボール」のせいだろうと勝手に予想していたが,

 どうやら「フライボール革命」が起こっていたということである。

 来年の日本でも起こるかどうかはわからないが,

 打球の速度と角度によってホームランになるかならないかが明確に

 示されることで,数字を意識したバッティングに変わったそうである。

 データ革命によるMLBの進化が,日本にも影響を及ぼすかどうか。

 データ野球と言えば,かつては野村監督やその指導を直に受けていた古田捕手をすぐに連想するのだが・・・。

 数学者や統計学者が活躍する場が,野球を始めとしたスポーツの世界に広がっていくのだろうか。

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真っ赤な甲子園球場

 広島が2年連続でリーグ優勝を甲子園球場で決めた。

 練習量で他球団をしのぐとされる若手中心の広島には,3連覇,4連覇の可能性もあると考えられる。

 絶対的なエースが退団しても,強さに変わりはなかった。

 中心選手が怪我で離脱しても,むしろチームは強くなっていった。

 敵地での胴上げだからやや控えめな感じの選手たちを,3塁側からレフトスタンドを埋め尽くしたファンは大喜びで見つめていた。

 阪神ファンからは,ライトスタンドや1塁側に広島のユニフォームを着て座っている「勘違いファン」に憤りを感じている,とか,球場近くの電車では,敵のユニフォームを脱ぐのが礼儀だ,という指摘もあるようだが,観戦中は敵同士でも,勝負がついた後は相手への敬意を忘れない,というスポーツマンシップを大切にしていただきたい。

 多くのプロ野球選手にとって,甲子園球場は特別な場所である。

 本拠地とはまた別の嬉しさがあると思われる。

 クライマックスシリーズをまた楽しみに待っていたい。

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不信感は能力を低下させる~日本シリーズ第6戦でカープが負けた理由~

 人間のパフォーマンスを低下させる原因になる要素はたくさんある。

 そのうちの一つが「不信感」であることを,今日の日本シリーズ第6戦で実感することができた。

 広島カープの選手たちには,主審のボール・ストライクの判定に不満があった。

 特に私が感じたのは,本来は「スイング」と見なされ「ストライク」になるはずのファイターズの選手の「ハーフスイング」が,「ボール」と判定されることが多かったことである。

 攻撃時のバッターからも,守備時のバッテリーなどからも,判定への不服の声はベンチ内でもあがっていたに違いない。

 試合終盤で主審から選手のクレームに対する注意がなされたこともあったが,こうした「不満」「不信」は,バッティングにも,ピッチングにもマイナス方向に強く働いていたように思う。

 「不満」「不信」によって集中力を欠いたことが,広島カープの敗因ではなかったか。


 「野球は2アウトから」とはよく言ったものだが,2アウトランナーなしからの猛攻撃は,

 「ピッチャー返し」というセンター方向を狙った基本通りの打撃ができたファイターズの選手たちの能力の高さが発揮された場面でもあるが,ピッチャーの投げているボールが甘かったというのも原因の一つである。

 ピッチャーは,際どい投球を「ボール」と判定されてしまうと,フォアボールを怖れて甘い球が多くなってしまう場合がある。

 主審に対する「不信」「不満」が高まりながらの投球は,本来発揮されるべき微妙なコントロールも狂わせてしまう。
 
 

 4対4の同点に追いついた後,広島カープの押せ押せムードは最高潮になり,選手はもちろんファンの多くが逆転を確信していたはずだが,ショートゴロゲッツーがその流れを止めてしまった。

 6点差に開いてしまった後の打撃のパフォーマンスは,完全に崩壊。

 
 「野球選手は紳士たれ」「判定への不満を表に出すな」という言葉は,単なるマナーだけのため,と思わせてしまうものかもしれない。

 判定への不満は,自分のパフォーマンスを低下させる原因になる。

 だから,おかしな判定も「そういうものだったのだ」と素直に受け入れ,「次の場面」への集中力をさらに高めることを重視すべきである。

 不平や不満ばかりしか書いていない人の文章のパフォーマンスが,何年も同じことの繰り返しで全く進歩していないことの理由もよくわかった。


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調子の落ちた高給取りをどんどん試合に出して給料ダウンを狙う?

 プロ球団の経営者にとって,頭が痛いのは選手の給料UPである。

 長期高額契約を結んだ選手に限って成績が悪かったりすると,「経営判断ミス」と評価される。

 セリーグでは広島カープが早々と優勝を決めてしまったため,

 「消化試合」が多くなってしまった。

 2位をキープしたい巨人だが,リリーフ陣が崩壊している。

 せっかくの先発投手の勝ち星をフイにしてしまうわけだから,

 「給料ダウン」は自分以外の選手にも波及する。

 こうして「悪い成績」が増えれば増えるほど,経営の側にとっては「助かる」話である・・・

 と考えられなくもないのだが,ファンが離れて収入が減ったら元も子もない。

 試合に出れば,活躍するチャンスが存在するわけだから,プロなら結果を残してナンボではある。

 しかし,素人が見ても調子が悪い選手を交代させないのは,特別な理由があると思ってしまう。

 資金に余裕のあるが勝てない球団ほど,人気が下がってしまう可能性があることを忘れないでほしい。


 さて,こうした「経営陣のいじわる」が本当に存在するとしたら,どういう企業に見られるのだろう。

 ありえないほどの重圧を与えて失敗させ,リストラするというケースはないのだろうか。

 
 公務員の緊張感のなさには辟易することもあるが,生き残りをかけた企業の厳しい人事管理は想像の枠を超えている。

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バックアップ(カバー)の大切さ

 野球の守備では,「バックアップ(カバーリング)」をすることが基本の1つである。

 たとえば,ランナーが1塁にいたとき,ライト前にヒットが飛んだとする。

 ランナーが3塁に走り,送球がライトから3塁に送られる可能性があるから,このときピッチャーは,3塁側のファールグラウンドまで走ってバックアップをしなければならない。

 イチローの2シーズンぶり,前回のエラーから395回,ノーエラーできていた守備機会でのエラーが記録された原因は,ピッチャーがバックアップに入っていなかったことが原因である。

 だれかのミスは,だれかのカバーで帳消しにすることができる,それは野球の世界だけとは限らない。

 生活指導の場面では,若い教師がやりがちなミスがある。

 先日も,部活動の試合でたまたま目にすることができた。他校での話だから,クビを突っ込めないのが歯がゆかったが,適切なカバーがなされたことを祈っている。

 同じ学校の中で問題があった場合は,教師はチームで動ける。

 「協働」の大切さというのは,こういう「危機的状況」への対応場面で,かつ,成果を残せることで,実感できるものである。

 残念ながら,「カバーリング」が望めない場面が教師にはある。

 学習指導でのミスを把握できる人が,TTや公開授業などでなければだれもないのが教員の世界である。

 アクティブ・ラーニングの宣伝をしている授業の動画で,歴史を学んでいる人ならわかるはずの「誤り」を発見した。
  
 子どもの誤った事実認識を,教師が「それは誤っている」と指摘でないような授業が続くとどうなるか。

 責任は,「だって,だれだれさんが教えてくれたのがこれだから」と,教えてくれた生徒のせいになるのか。

 学習指導における教師の責任の重さは,相当のものであり,だからこそ,継続的な研修・研究が欠かせないのである。

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明らかな誤審を「不可解判定」と呼ぶ遠慮

 甲子園で審判をつとめる方々のご苦労に関する記事を書いたばかりだから,

 私も「誤審」と糾弾するには気が引けるが,こういう「ミス」は

 これから甲子園をめざす生徒や子どもたちにとって,決してプラスにはならないと考えられる。

 
 クロスプレーのように想像しやすい流れの中で起こるミスジャッジはよく起きるが,

 挟殺プレーなど突発的に起きる不規則な動きをめぐる判定も,困難がつきものである。

 
 私は何を望みたいかというと,ミスジャッジに関しては,得点を入れるなど,「得をしてしまったチームからの自己申告」を促してほしい。

 ミスジャッジで「もうけた!」などという感性があってはならないのである。

 塁を離れた選手がタッチをされているのにアウトにならないようでは,競技が成立しなくなる。

 
 「野球の神様」などといってあがめる必要はないが,こういう「もうけ」を許さない精神を養ってこその「高校野球」ではないか。

 オリンピックの柔道では,ある国の選手がオリンピック精神と柔道の精神の両方を踏みにじることをしたそうだ。

 現地で「スポーツパーソンシップ」の大切さを説くことができる人はだれだろう。

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高校野球・女子マネージャーの安全確保

 ネット上のニュースで,甲子園球場での練習中,グラウンドに出てノッカーの補助をしていた女子マネージャーが注意を受けた(退場を指示された)ことが話題になっている。

 女子高校生の中には,男子高校生よりも動体視力がよく,身体能力も高い生徒がいるかもしれない。

 だから,「女子部員がグラウンドに立てないのはおかしい」という批判は十二分に成り立つ。

 私自身は,始球式でアイドルがマウンドに立つことはもちろん,グラウンドに足を踏み入れること自体が許せない「時代錯誤」人間である。

 相撲の世界と同一視しているわけではないが,こういう「差別意識」の根は深く,発言の場もないし,あっても発言はしないから,何を考えているか他人に知られることはない。


 もし私が監督でシートノックをしているときに,女子マネが近くにいたら,ボールが当たらないか常に気にしていなければならなくなるだろう。正直,「気が散る」ということ。ルールで禁止してくれるとありがたい。


 試合前のシートノックでは,できれば「ボールボーイ」の立ち入りを許可してほしい。

 ベンチに入れなかった選手が,いつもは一緒に練習している選手たちと同じグラウンドに立てるチャンスになる。

 
 ボールを拾う,ノッカーに渡す,こういう動作全てを含んで野球というスポーツは成立している。

 転がっているボールを「女子マネに拾わせる」ようなチームにはしたくない。 

 私が女子マネの写真を見て第一に感じたのは,「なぜヘルメットをかぶっていないのか」だった。

 これは問題外である。

 ネットの記事では,「目はどう守るのか」と指摘していたが,そこまで気になるのなら,主審やキャッチャーがつけるマスクを着用すればよい。

 
 野球の試合は,ベンチ内もかなり危険である。

 私もファールボールが右腕を直撃して,きれいなアザができたことがある。

 
 
 スポーツには,具体的にどのような危険があるのか,予め知る機会があれば,

 柔道や剣道,水泳の死亡事故も減らせるのではないか。

 
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高校野球の審判員の高齢化問題

 週刊東洋経済の高校野球に関する記事の中に,審判員の方々について書かれたものがあった。

 高校野球の審判員は,甲子園大会の試合でも,報酬は出ない(旅費や雑費のみ)そうだ。

 ボランティア活動である。

 審判員の方は,平日の試合でも仕事の休みをとって引き受けられる,

 自営業や公務員,郵便局員,農協職員などが多いという。

 最近の問題は,やはり高齢化で,40歳代以上がそのまま10歳年をとると,審判が足りなくなることになりそうである。

 最近,部活動の顧問のなり手が少なかったり,負担が大きかったりすることを国会がとりあげ,

 報酬(手当)を出そうとしているらしいが,教員に報酬などいらない。

 審判は立派な「仕事」である。こちらに報酬(手当)が払える仕組みを整えるべきである。

 

 年間80試合も審判をつとめたことがある市の職員の方は,土日がつぶれたそうである。

 教員の部活指導と同じで,どう考えても,「好きだからこそできる」活動に他ならない。

 私は高校,大学,その後,部活動の顧問や草野球などで野球にかかわってきて,

 審判員の方には,感謝というより決定的なミスジャッジの不満をぶつけたくてもぶつけられない複雑な心境があり,自分自身が審判をするのもあまり好きではなかった。

 ただ,インタビューに応えた審判員の方の話の中に,気持ちが通じ合う部分が見つかって,少し見方が変わりそうである。

 
 中学生や高校生の野球の審判は,ただの「判定員」であってはならない。

 青少年の「指導者」の一人である。

 審判の世界の世代交代も,よいかたちで実現される仕組みの整備を願う。


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マエケンの成功要因~一流の条件とは?

 プロ野球解説者・宮本慎也氏によれば,ドジャース・前田投手のここまでの活躍の要因は,

 「対応力の高さ」にあるということである。

 投球フォームを大リーグのマウンドに合わせて変えているらしい。

 「変化し続けることができるかどうかが,一流の条件」ということだが,

 一度成功をつかんだ人間が,そのときのスタイルに固執しやすいことを考えれば,

 「一流」と呼べる人がなかなかいないことに納得してしまう。

 考えてみれば,学校教育の世界では,

 「一流の教師」という呼ばれ方をあまり耳にしたことがない。

 「超一流大学」とか「三流大学」とかいう言葉はあるが,

 「一流の教授」という言葉はあるのだろうか。


 公立の教師たちには「異動」があるが,

 「異動」してきてしばらくは,「私の学校では」などと,まだ前年度までの勤務校の一員であるかのような「物言い」をする人がたまにいる。

 そして,現在の勤務校を「この学校は」と呼ぶ。

 「流れ」に逆らうような「浮いた」存在になってしまう教師がいる。


 私が教師たちの公共観念の乏しさを紹介する事例の1つになっている。

 言葉が長くなってしまうから,省いてしまうという言語感覚もあるのだろうが,

 「私たちの」ではなく「私の」になりやすい癖は,簡単には抜けないようである。

 「アワ」と「マイ」の区別がつかないのは,複数形にすることが面倒だという日本語の特質に由来するものかどうかはわからないが,「私たちの学校では」はどんどん短くなり,

 やがて「うちでは」という言い方になる。

 家も学校も同じくくり。


 「一流」という言葉を改めてながめてみると,

 なぜ「流れ」という文字が使われているのか,「流れ」という文字が使われている意味は何か,

 という問いが立てられる。


 大きな流れには逆らわず,うまく流れに乗ることができ,そして決して流されることのない,

 そういう人間のイメージをつくっておきたい。


 進んで変化を選ぶことができる「強い自分」を育てる学校をつくるのは,

 「一流の教師」たちの存在が欠かせない。

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「教えたがり病」に効く薬はない?

 教師になる人の多くが,「教えることで,子どもができるようになり,輝いていく」という変化を目の当たりにできることを動機にして,教師の道を選んでいるはずだと私は勝手に思っている。

 だから,『学び合い』を導入して教師の生きがいを感じられるのは,定年間際くらいにならないと絶対に無理だろうなと本気で考えている。

 現場に長い間いると,「教え方が下手」な教師は子どもから尊敬されることはないのだが,下手に教師が教えていない方が,子どもがしっかりと育っている実感をもつ場合もある。

 もちろん,「しっかり教えられていないから,この状態なのだな」とがっかりすることの方が多いのだが。

 何をどこまで教えて,どこから先は教えない方がよいのか。

 教師になったらぶつかる大きな壁であろう。

 子どもたちは個人差が大きいのは当然として,小学校から上がってくる人数が多ければ,「集団差」も非常に大きい。

 だから学習指導にしろ,生活指導にしろ,「これが正解」という指導法はないというのが正しい理解であろう。

 
 先日,私が監督をつとめる中学校のチームが都道府県大会に出場することが決まった。

 私が試合中に気になり,試合後はもっと気にかかっていたのは,自分のチームではなく,相手のチームのピッチャーの癖である。

 ストレートもカーブも申し分ないピッチャーだったが,コントロールが定まらない。

 試合序盤で投球数が50球をこえるほどであった。

 こちらは「できるだけたくさんボールを投げさせること」を攻撃の第一目標に掲げていたので,その作戦通りに試合は進み,ストレートの伸びがなくなってきた試合後半に長打が出て逆転勝利をあげることができた。


 試合終了後も,グラウンドの使用可能時間が余っていたので,コーチの指導を受けてピッチング練習を繰り返していたが,私の目から見て,修正すべき点は1つしかなかった。

 それを伝えてあげるかどうか迷ったあげく,夏のブロック大会で当たるかもしれない,という気持ちもあり,何も言わずにグラウンドを去ることにした。

 私は専門委員でもないし,やっとのことでつかんだ都道府県大会への切符だったが,才能のある子どもの実力は伸ばしてあげたい,という気持ちはとても強い。

 自分のチームの選手には気づいたことをその都度告げているが,そもそも簡単に直せる癖はない。

 できないことはそう簡単にできるようにはならないものである。

 だからできるようになるまで同じことを繰り返し繰り返し話していく。


 相手のピッチャーに私が思ったことを告げても,急にコントロールが定まるとは限らない。

 一度限りのアドバイスでは効果はないかもしれない。

 しかし,コーチから受けているアドバイスは,私の考えているものとは真逆に見えた。

 
 もちろん,コーチの指導のめあてが私とは真逆なのかもしれない。

 中学校レベルでの大成ではなく,高校での成長を視野に入れて教えているのかもしれない。


 たった1つの「気づき」で,私のチームではなく,彼のチームが都道府県大会に進出できたかもしれないと思うと,何だか落ち着かないというのは,教師の性だろうか。

 
 相手校の昨年度までの校長先生は,私が初任の中学校に同期で異動されてきた方だった。

 今でも年賀状で近況を教えて下さる先生で,さぞかしがっかりされていると思われる。

 もし次回対戦できたら,「欠点のない」状態のピッチャーを打ち崩して勝利したい。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より