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カテゴリー「宮城谷昌光」の28件の記事

組織と呼べる条件は?

いまや戦いは個人戦ではなく,組織戦であり,組織の機能を発揮させることを重視すべきであり,軍制が古びた楚軍は参考にならない。

参考 「楽毅」第四巻(宮城谷昌光著)新潮文庫
260頁

 教師の失敗-54
   組織的な動きができない

 教師の組織力の強さや弱さは,「荒れた学校」に
足を運ぶとすぐわかります。
 結束を固めて立て直しを図ろうとしているか,教師
が無気力・無抵抗主義をとっているかを肌で感じる
ことができます。
 こうも表情に乏しい人間がいるのかと驚くほど,
生活指導無責任主義をとっている人,ただ笑顔だけ
守ろうとする人,親父ギャグでおどけているだけの
人もいます。
 行事運営や学年経営など,組織的に動くのが得意
な場面もあるのですが,力量の差が歴然としてしまう
ため,自ら控えめにしてしまう人もいます。

 組織力を発揮させるために,行政側では管理職に
リーダー論をたたきこもうとしますが,リーダーを経験
したことがない人に,リーダーとしての動きを期待した
り,リーダーづくりを任せたりするのは無理な話です。

 優秀なリーダーがいれば苦労しない話ですが,組
織力はリーダーがいなければ発揮できないものかと
いえば,そうでもありません。

 今,教育現場に強く求められているのは,学力向
上を実現するための学校の組織力です。
 みんなが納得して決めたことを,みんなで守るだけ
でよくなることもあります。
 授業開始の時間には教室にいること,寝ている子
はおこすこと,忘れ物に注意すること,形成的評価
を適宜行うこと(年に数回のテストの結果で「もっと
勉強しろ」とは言わない)。

 これこれの方針だけはすべての教師が実行して
いますと胸をはっている学校に,子どもは通わせ
たいです。

誤認が確信に変わるとき

会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。

参考 「奇貨居くべし 黄河編」(宮城谷昌光著)
中公文庫 59頁


 教師の失敗-40
  誤認を確信に変えてしまう

 学力には量的に測れるものと、測れないものが
あります。教師にはそんなことはよくわかっていま
すが、子どもは、テストの結果のように数値化され
たもので自分の価値が測られていると思ってしまう
ものです。

 何でもないことのようですが、テストを返されるとき
の一瞬の空気で、教師が自分をどう評価しているか
感じ取ることが生徒にはできることがあります。

 成績優秀者への教師のわずかな笑み、そうでない
ものへの無表情等。

 テスト返却時という1対1のわずかな時間で、たとえ
50点の生徒にも光っている部分を認めて成長への
期待感を伝えてあげられる教師であれば、「点数が
すべてでない」ことをわからせることができるかもしれ
ません。

 「点数がすべて」「結果がすべて」だということを
確信させてしまうような人が、もてはやされていると
いう現状もありますが。

同音「多義」語が多い教育の用語

奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。

参考「歴史の活力」(宮城谷昌光著)文春文庫
195頁(「正しい生き方の知恵」より)


  教師の失敗-35
   意味上の共通語をもてないがゆえの
  すれ違いが多い

 引用の文章と意味のずれがあるかもしれません
が、教師仲間、教師と保護者等の間でかわされる
会話の中で、同じ言葉でありながら、意味の広がり
や深さが異なる次元で使われているものがたくさん
あります。
 たとえば、「学び」や「学び合い」。このような名詞
化された語句はくせものです。
 小学校ほど、「ふれあい」「ひびきあい」などの語
感はよいけれどそれがどんな意味をもった言葉な
のかはっきりしないものがあふれています。

 教師の場合は、過去に読んだ本やその著者、
自分の研究や研修の内容等によって、簡単な言葉
ほどその意味の異なり、言葉の使い方が大きく
異なるものがあります。
 ですから相手の言葉の用法のくせを見抜けないと、
議論がかみ合いません。
 教師が大人数で研修をすると、往々にしてこういう
事態になります。
 少人数でもかみ合わないことがあるので、まずは
意味の捉え方の違いから理解し合うことが大切です。

 「学力」とは何か、「学力低下」は本当か、本当なら
どんな「学力」が低下しているのか、低下していない
「学力」はあるのか。
 もし学力向上をうたっている学校であれば、少なく
ともだれに聞いても同じ答えをしてもらいたいもので
すね。・・・しかし、みんながみんな勝手な感想を抱
いて、勝手に教育を行っている学校がほとんどでし
ょうけれど・・・。

 ただ「学力」なら、それをどのようにして測った結果
であるかによって、ある程度はその「学力」が指す
ものがわかります。
 少なくとも教師が保護者等に対して情報を提供す
るときは、理にかなった根拠を示してほしいものです。
 
 抽象的であいまいな言葉を頻繁に使う教師ほど、
その指導力については要注意かもしれません。

文字の軽さと現実の重さ

小説を書きつづける人は、文字空間の軽みと人生空間の重みとの間隙に苦しむことがあるかもしれない。が、独創は身近な空間をみつめることで得られることは、先人や古人が口をすっぱくしていったことであり、そこを経て、書くことが苦しみから楽しみにかわった瞬間、その小説は他人が読んでも楽しいものに映るという、独自な存在位置を得たことになる。

参考「春秋の色」(宮城谷昌光著)講談社文庫
164頁「小説の楽しみ」より


 教師の失敗-28
  実態からの出発ができない

 学校が作成する公的なもののうち、学校を「国」
に見立てると「憲法」に当たるようなものが、「教育
課程」です。しかし、その学校の教育活動の目標
や指導方針を伝えるはずのこの「教育課程」ほど、
重みのないものはありません。

 「個に応じた指導」「ゆとりの中での特色ある教
育活動」という「文字」よりも、「規範意識の低下」
という理由で済ませている「授業不成立」という
現実の方がはるかに重いのです。
 
 もし教育課程に基づいた教育ができないので
あれば、それが成り立つための条件を教育課程
に盛り込んだらどうでしょうか。

 「授業中に教室を歩き回らない」
 「学習に使用する教科書やノートを用意する」
 「授業の開始時間に机に座っている」
 「人の話を聞く」・・・
 指導困難校で起こっている現実は、こうした
「憲法」でも提示しないとだれも見向きもして
くれないものなのかもしれません。

 しかし、もし「すべての子どもに必要最低限度
(=学習指導要領に示された内容に基づくもの)
の学力を保障する」ことを目指すなら、もっと実態
からの出発に努めなければならないと思います。

学力テスト結果に戸惑う大臣

礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。

参考「春秋の色」(宮城谷昌光著)講談社文庫
163頁「小説の楽しみ」より


 教師の失敗-27
  内容で勝負できない

 もう一年以上も前に実施された「教育課程実施
状況調査」(いわゆる学力テスト)の結果が公表
されました。
 これが「脱ゆとり教育の改善の成果だ」というの
なら、その改善は少なくとも二年前には進められ
ていたことになります。

 データに一喜一憂するのは、株価や原油価格
のようなリアルタイムの変動結果ならわかります
が、「教育の成果」を今回のような公表結果から
どうこういうのは間違っているということは、中学
生でもおそらくわかります。

 ただ、この成果が漢字の読み書きや計算のよ
うな、点数を上げるのが容易なものに教育活動
の重点がおかれすぎた結果で、本来の内容の
充実がおろそかになっているのではないかという
危惧はあります。
 
 このことは、「できない親の子どもはできない」
という失礼な実証をしている教育社会学の苅谷
剛彦東大教授も答えています。
 (本日の日経新聞)

 教育方法は真似るのが容易なのでだれでも
飛びつきますが、教育は教師の教材研究、教育
内容の吟味があってはじめて本物になります。

 「儀ありて礼なし」という教師にならないように
したいです。 

「失敗作」との謝罪はいかがなものか

日産自動車の前身をつくった鮎川義介という人は、小さいころ祖母に、ああしなさい、こうしてはだめです、などと、こまかなことはいわれずに、ただ、「おまえは、きっと偉くなる」と、いわれた。そういわれつづけていると、ああ、オレは偉くなるのだ、と自然におもわれてきて、あとでふりかえってみると、祖母は賢婦人であったと、かれはおもった。・・・(中略)・・・人は、尊敬したり好きであったりする人から、良いことをいわれると、それにむくいようとする気がはたらく。もっといえば、その人を喜ばせてあげようとする。

参考「春秋の色」(宮城谷昌光著)講談社文庫
176頁「ほめることの大事」より

 
 教師の失敗-26
  予言の自己成就を悪用してしまう

 文部科学大臣が、中学生を相手に「みなさんは
失敗作だ。次の世代では失敗しない。」と謝罪し
ました。
 この大臣は少なくとも自分の省のホームページ
に載っている学力の話は見たことがないはずです。

 「総合的な学習の時間」を切る腹のようですね。
専門の教科指導のほかに多大な時間を割いて努
力してきた教師はまたふりだしにもどされるわけ
ですね。
 教育関係者は、このところ負の予言の自己成就
を促すことに専念しているようです。宮城谷さんは
こう書いています。

人をけなすより、人をほめることが、いかにむずかしく力が要ることか。それをわかる人はすくないが、実行する人はなおさらすくない。

 私もけなす側ですが。

「学力低下世代」の逆襲をまつ

都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。 とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。

参考
「子産(下)」(宮城谷昌光著)講談社文庫
231頁


  教師の失敗-24
   目先の利益を優先する者に勝てない

 人は、思考の矩形をつくることが好きな
ようです。ステレオタイプ化といってもいい
かもしれません。「学力低下世代」という
レッテルを貼られた今の小学生から大学
生くらいまでの人たちは、これを甘んじて
受け入れざるを得ないのでしょうか。

「君たちは文科省の失敗が生んだバカ
の世代だ」と決め付けられて、うれしいわ
けがありません。
教師もこの世論?に迎合して、自分の
指導力不足、教材研究不足、児童生徒
理解不足を棚にあげて、だめだだめだと
嘆くだけで給料をもらっている者もいます。

 残念なのは、迎合集団に論理で対抗
できない「学習指導要領遵守派」がいる
ということです。

ある自治体で地域住民が学校運営に
強くかかわる仕組みが試されていますが、
教育産業を潤す結果にしか結びついて
いないようです。
学校を「塾化」する試みも無駄ではない
と思いますが、子どもたちは気の毒です。

「○○のせい」?自分の存在意義は?

人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
参考 「孟嘗君 5」(宮城谷昌光著)講談社文庫 212頁

 
 教師の失敗-23
  「失敗さかのぼりの原理」で責任逃れをする

 これも一種の教師の禁句ですが、中学校
なら「小学校が甘いから…」、高校なら「中
学校が荒れているから…」と、自己の指導
に成果が見られない場合に、責任を他に転
嫁しようとしてしまいがちです。
 精神的な自己防衛の心理システムですが、
言われた側はたまりません。
 行き着くところは家庭であり、親の子ども
時代にまでさかのぼります。

 言われた方は、必ず根にもちますから、
「連携」もうまくいかないことになります。

 教育の原点は家庭にあることくらい、だれ
でもわかっています。しかし、「学力をつける」
「同年代の人間たちとの協調性を磨く」という
のは、本来、学校でなされるべきもので、
「家庭の教育が悪いから」「入学の時点で必
要な学力水準を満たしていないから」という
失敗逃れは通用しません。

 多くの学校の教育課程には、「個に応じた
指導」という眉唾用語、あるいは「嘘」が掲げ
られています。

 ほとんどの保護者は(学校選択自由化の
地域の方でも)教育課程の内容から学校の
特色を読み取ることはしていません。(学校
にすらこれを知らない教員がいるはずです)

 「基礎・基本の徹底」は必ずしてくれるのか、
「個に応じた指導」はどの教科のどの内容で
いつどの程度、だれがしてくれるのか、など
と質問する保護者がいないため、学校はそれ
を説明する用意をしていないのが普通です。

 ・・・ということは、学校の失敗を促す責任は
保護者にもあるのでしょうか?

やったもの勝ちの法令違反

「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」

参考
「沙中の回廊(下)」(宮城谷昌光著)朝日文庫
149頁


 教師の失敗-21
  無知を利用して法令を犯す

 ある小学校の話です。新1年生は4クラスと
宣伝しておきながら、蓋を開けてみれば120人、
3クラスでした。驚くべきは、学級編制に「41人」
のクラスがあったことでした。
 (当然39人のクラスもあります)

 法令の基準を無視した行動ですが、保護者
たちはこのことに気付いていませんでした。

 子どもたちは将来、「41人もいたから学力が
つかなかったのね」と職員室で語られることに
なる可能性があります。

 39人のクラスの担任がよほど力量不足か、
指導が困難な子どもがいるか、理由はいくつも
想像できますが、こんな話は30人学級の実現
を要求している政党の議員が聞いたら大騒ぎ
です。

 なお、私は30人学級には賛成していません
(学年が31人だと15人と16人の2クラス、61
人だと20人、20人、21人の3クラスになって
しまいます。ちょっと少なすぎます。)が、法令で
決められている40人というはどう考えてもMAX
です。

 41人はありえません。

 仮に学力が定着しなかったとき、校長はどう
責任をとるのでしょうか。

 説明のしようがありません。
 あとになって、法令違反でした、なんて言えま
せん。

 では、クラス編制をやり直せばよいのかという
と、まさか入学式後に学級開きをしてようやく
慣れつつある子どもを「あなたは隣のクラスよ」
と追い出すわけにはいきませんから、これは
完全に「やったもの勝ち」「やり逃げ」です。

 教育委員会や区長は、人事部が「教員上がり
の無能経営者」と呼んでいる校長のおかげで、
議会で叩かれることになります。

 41人で学力がつかなければ凶、逆に41人
でも学力をつけられることがわかれば、30人
学級というのは完全に夢の話になり、これも
一部の人にとっては凶になります。

話下手な方が勉強になる?

知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。

参考
「青雲はるかに(上)」(宮城谷昌光著)集英社文庫
201頁


 教師の失敗-19
  「活かす」よろこびを与えていない

 話が上手な教師がいます。私も幾度となく
「楽しい」経験をさせてもらいました。生き生き
と語っている大人の姿は、とてもすがすがしい
ものです。

 教師には、「教材研究」といって、授業の素
材に磨きをかけるための準備があります。
そうやって新たに身に付けた知識や発見した
資料をもとに、いろいろ教えてくれるわけです
が、これは一面では教師にとっての学力づくり
であって、本来はそのような過程にしたがって
生徒にも学力をつける必要があります。

しかし、生徒は「結果」としての知識を提供
されるばかりで、そのプロセスを経験すること
が一般的には少なく、「テスト」にだけ生かし
て終わりになってしまいます。

それでよいと腹をくくって商売している人もい
ますが。

2017年12月
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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より