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カテゴリー「苅谷剛彦」の4件の記事

日本人の大多数が「英語嫌い」になるシナリオ

 週刊東洋経済で,『経済を見る眼』というタイトルのコラムなのだが,なぜか「英語ができない日本人」という題で英語教育の問題点を述べた苅谷剛彦氏(英オックスフォード大学教授)。

 苅谷氏によれば,英語を母語とする人々にとって,日本語は最も習得困難な言語の一つとのこと。

 逆も真なり,と主張している。

 小さいときから英語を学べば,もう少しできるようになるだろう,という簡単な話ではないことは,

 幼児のころから英語教材に親しませた割に,中学校,高校での英語の成績は芳しくなく,結局,今は英語といっさい縁のない仕事をしている子どもをもつ親なら痛いほどわかっているはずである。

 中学校の英語教師の不安感,というより,先行して英語教育を熱心にはじめている小学生たちが進学してくる中学校教師が現実的に困っていることとは,

>英語嫌いになった状態で進学してくる

 という問題である。

 現状では,まだ「中学校での初めての教科」として,それなりの「期待」「希望」「あこがれ」「興味」をもって,英語を学習しようとする中学校の新入生は多い。

 しかし,小学校の授業でドロップアウトしてしまうと,それから取り戻すことは困難だろう。

 日本人の大多数が「英語嫌い」になっていく綿密なシナリオづくりがこれから始まる。

 これで得する人間はだれか。

 文化的コンプレックスによって,だれがだれを操ることが可能になるのか。

 まだ「戦後」から脱却できない日本の教育の典型的な姿に見える。

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「教材」から「教財」へ 「学習材」から「学習財」へ

[研修] ブログ村キーワード

 以下、Z会寺西さんのブログへコメントさせていただいた内容を再構成して掲載します。

 寺西さんは、教育再生会議などが提言する「ポジティブリスト」の問題点を取りあげていました。

 このブログでも、苅谷剛彦がそれについてネガティブに捉えていることを紹介したことがありました。

 私の場合は、ポジティブリストあくまでもポジティブに捉えていこうとする考え方をとっています。

 だいたい、教育再生会議のようなものは、構成員も含め、会議の性質上、その提言がポジティブリストになるのは避けられないことでしょう。

 ただ、すべて突拍子もないようなものではないですね。平凡なものです。

 予算の会計年度ごと、9月始まりに移行する、などといったレベルの大胆さはありません。

 私は、財界だけではなくて、様々な立場の社会人が教育への関心を高めつつあるという「ポジティブ」な受け止め方をしています。

 もちろん私にもその中には、小学校英語など、「これはいかがなものか」と思えるものもあります。

 ただ、教師の側では、このような社会からの要請に対して、その優先順位をしっかり示せる学校ごとの「経営力」「企画力」「指導力」「見極め力」は求められてしかりだと考えています。

 コミュニケーションの取り方が下手で、国語の指導も満足にできない教師に英語活動を頑張らせても意味がないように、教師一人一人の能力の見極めも重要になってきます。

 各学校では、毎年きちんとテーマを定めて研修を行うのが普通ですが、総花的にやるタイプの学校の教育力はたいてい低く、一つのテーマ、例えば「IT機器の活用」でじっくり全員が研究授業に取り組むような学校は教師の指導力が高くなっていく傾向があります。

 教育の場合、優先順位を決め、あることに力を入れたとき、カットしたことによるデメリットより、その他の面にも良い影響が及び、状況が好転するきっかけになるというメリットが目立つケースが多々あります。

 何でもやろうとする企業、やらせようとする経営者を寺西さんは批判されていますが、それはその通りです。

 では、どんなことに重点を置いて、研修をしたり、教育活動を展開したらよいのか。

 あるいは、重点をおくべきところははっきりしているのだが、そこに注力していこうという全教師の「やる気」をおこさせるにはどうしたらいいのか。

 子どもだけではなく、教師にも、何かを特に「学びたい」と思わせる「教師用教材」が必要になってくるのかもしれません。

 子どもだけでなく、大人にとっても、学習向け刺激剤(刺激「材」?)というのは必要です。

 それで学ぶスイッチが入ったとしたら、「」から「」へ、社会的な財産、「教財」「学習財」になるでしょう。

 *個人的には、「教育財政」という用語が略して「教財」などと使われていることに少し不満が・・・

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内田樹・齋藤孝・苅谷剛彦の共通点

[教育現場] ブログ村キーワード

 「街場の教育論」の著者、内田樹は著書出版を契機に教育現場の講演会に参加しているようですが、最近のブログの記事「費用対効果教育」を読んでも、結局、齋藤孝や苅谷剛彦と同じような「大学」という閉じられた空間で生活している人ならではの狭い思考に陥っているようです。

 なかなかチャンスはないのでしょうが、文科省キャリアが実験しているように、公立中学校の現場で一年間実際に教えてみる、という体験をされるともっと違った角度から発信ができるような気がします。

 3人とも、他の十数人から三四十人という「同僚」と同じ子どもを教育している姿というのを、どうも想像することができません。

 大学や大学院における「学力不足」に悩まされていることはひしひしと伝わってきますし、学校現場と同じように「事務」=「雑用」を嫌い、「経営」の側の行動は理解できない、そういうスタンスは相似形であると思います。

 苅谷剛彦を除く二人の本は、現場の教師が読んでもおもしろいのでしょうが、齋藤孝の方はそのテンションの高さに年輩の教師はついていけないでしょうし、内田樹の方は、大学教育のあり方への不満がベースになっているので、これを読んでも公立学校の教師が「勇気づけられる」かどうかは疑問です。
 
 「教育は放っておくのが一番よい」という内田樹に対しては、「教育は、どのような立場の人間からも放っておけない現状が多すぎる」現場の声が今後、届いていくことを期待しています。

『欲ばり過ぎるニッポンの教育』を読んで

 苅谷剛彦と増田ユリアの対談をまとめた本ですが、齋藤孝とちがって苅谷剛彦の本の読後感がいつも悪い気がする原因が、この本でよくわかりました。まえがきやあとがきで「議論が不毛」「やめたほうがいい」という会話がなされたことが紹介されていますが、学校に対する認識のレベルがよくわかったので、読者としては決して不毛ではありませんでした。毛は生えていたが肌触りがきわめて悪い繊維といったところです。
 齋藤孝が教育学者である一方、苅谷剛彦は社会学者です。
 データにもとづいて語るわけですが、要は身も蓋もない結論になる。
 「教育の失敗」は、社会学者の立場でいうと、要するに「力のない教師にできはしないことを行政がやらせようとしたこと」「国が教育にお金をかけなかったこと」「教育力、経済力のない家庭が学校に過度の期待をしていること」が原因だそうです。
 「フィンランドの学校は、特別なことをやっているわけではない。ただ、教師は尊敬されている(力がある)。養成と研修が充実しているから。人間関係のトラブルを親は学校の責任にせず、家庭で解決しようとする。」
 で、日本は・・・?
 だからどうするという提言はいっさいない。欲ばらないであきらめろ、という「解脱観」のような印象が残ります。
 もちろん学者として優れた指摘もたくさんあり、ドッグイヤーは50個程度できています。
 著者の考えがよくわかった箇所を抜粋します。

47頁(小学校の英語教育に反対の理由) 教えられる人がいないのに何時間か入れたら、はみ出したものはどうなるんでしょう。確実にできることを犠牲にして、できないかもしれないけど入れたいものを入れようとする。どっちが重いか、はかりに掛けたときに、僕は失うものの方が重いと思う。(この論理は、総合的な学習の時間の導入についても同じ)
143頁 一定レベル以上の英語ができるようになるのは、本当に英語を必要とする人たちだけでいいという考え方もできる。
60頁 僕が教育に対して悲観的なのは、むしろ人間に対して楽観的だからかもしれない。そういう意味では、放っておいたって人間は育つよ、ってどこかで思っている。いい教育をやろうとして、どんどん悪くしているという感覚もある。
62頁 ・・・いわば引き出しの使い方のうまい人や、引き出しの数が多い人たちがやるならば、総合学習みたいな自由度の高い教育というのは成功する。でも、引き出しの少ない教師が、雑誌に書いてあるものをそのまま使ってやったら、これはうまくいくわけない。
82頁 十分なお金も、人の手当も、時間も、専門的な訓練も与えられていないのに、実に多様な問題の原因として、教育がバッシングされる。実力以上の過剰な期待をかけていることに、多くの人たちは、気づかないか、気づいていてもそのことを忘れているのか、いずれにしても、期待が裏切られるたびに、「教育の失敗」がいわれるようになる。
110頁 ・・・個別塾になればなるほど、教師の数は増えるんだから、教師の質は低くなる。 この本を読んで、元気がでる教師ってどんな教師でしょうか?

2017年6月
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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より