齋藤孝の影響力 ふり返り366日【08/6/4-3】
学者というのは,孤独な環境でも仕事ができる人ではないと勤まらない職業でしょう。
本を1冊書くというだけでも,壮絶な「1人の戦い」が繰り広げられているものだと想像できます。
齋藤孝はここのところTVを通しての露出があるようですが,きっとどこかで「もったいない時間を過ごしているな」と感じていると思います。
ゲストがTVで発言できる「意見や考えのまとまり」はたかが知れています。いかに短く気のきいたコメントが言えるかが勝負で,台本がないケースではどきどきものでしょう。
教育の現場で働いている私のような人間は,少し子どもと会わないだけでも,あるいは,ちょっと授業の間隔があくと,言い知れない禁断症状が襲ってきます。
原稿を書くために1週間とか缶詰になる,なんて考えられません。
また,テレビの本番に備えて1時間前に局に入る,なんてことも考えられません。
まあ,その「待ち時間」の中でも次の本の構想などを考えているのかもしれませんが。
一年前から,学者が教育現場への影響力をもてるようになるまでのプロセスをながめてみたい気がしています。
08/6/4 齋藤孝をネットの世界に引き込む目的齋藤孝をネットの世界に引き込むために、辛口の意見を続けようと思います。
引用は、「私塾のすすめ」からです。
齋藤孝は自分が梅田望夫とともに「見晴らしのいい場所」にいると「はじめに」で書いていますが、私から見れば、雲がかかってばかりいる山の頂上付近にいるわけで、そこから落とされてくるものは下で受け止められますが、決して出所が見えない。
「僕は大学の空間ではオープンなのですが」とありますが、大学の空間自体は閉鎖空間ですから、家の中ではいきいきしている内弁慶と一緒です。
梅田氏が「斎藤さんが『福沢諭吉と自分が似ている』というのを、過去の無限ともいうべき人物の中から、書物を通して見つけ出されたわけですが、ウェブは、現在の生身の人間の中から探すことができる道具だと思うんですよ。」と語っていますが、これは本当に痛烈な批判でしょう。
これに対して齋藤は、なるほどと同意しつつ、学級の人数が少なかったり、固定化しているので「あこがれ」を共感する人を見つけるのは難しいといって議論をかわして逃げています。そしてだから「いじめが起きやすい」ととんでもない方向に話が向かってしまっています。編集者のチェックもれでしょう。
この本は、随所に考えの相違があったことは、主に梅田氏の「基本的には同じ」という表現の繰り返しによって想像できます。
それこそ基本的には、齋藤孝は閉じた空間が好き。本が好き。自分で読み取ったものに価値を感じる。過去にやられてきたことを再現し、繰り返すことが好き。「無理やり」が好き。 梅田望夫は開かれた空間が好き。人から寄せられる有用な情報が好き。そして人がやったことは、もう自分はしたくなくなる。新しいものにチャレンジしたくなる。
どうにか議論が進んでいったのは、両者がプロジェクトのリーダーに欠かせない資質が「情熱」と「没頭」であることを信じ抜いているからでしょう。
志向性の共同体を主体的に集まってくるメンバーだけでなくて、たまたまそこにいる人、いやいやそこにいさせられている人に対しても、「ポジティブな空気」の発生によって、何とか同じ志向性をもたせられないか。
特に公教育はそこが課題になっているわけで、齋藤孝をそこまで引きずりおろしたいわけです。
無志向性の共同体の改革には、情熱をもったリーダーが必要です。
私塾にこもらないで、オープンな世界に入って下さることを期待しています。
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