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カテゴリー「齋藤孝」の20件の記事

齋藤孝の影響力 ふり返り366日【08/6/4-3】

 学者というのは,孤独な環境でも仕事ができる人ではないと勤まらない職業でしょう。

 本を1冊書くというだけでも,壮絶な「1人の戦い」が繰り広げられているものだと想像できます。

 齋藤孝はここのところTVを通しての露出があるようですが,きっとどこかで「もったいない時間を過ごしているな」と感じていると思います。

 ゲストがTVで発言できる「意見や考えのまとまり」はたかが知れています。いかに短く気のきいたコメントが言えるかが勝負で,台本がないケースではどきどきものでしょう。

 教育の現場で働いている私のような人間は,少し子どもと会わないだけでも,あるいは,ちょっと授業の間隔があくと,言い知れない禁断症状が襲ってきます。

 原稿を書くために1週間とか缶詰になる,なんて考えられません。

 また,テレビの本番に備えて1時間前に局に入る,なんてことも考えられません。

 まあ,その「待ち時間」の中でも次の本の構想などを考えているのかもしれませんが。

 一年前から,学者が教育現場への影響力をもてるようになるまでのプロセスをながめてみたい気がしています。

08/6/4 齋藤孝をネットの世界に引き込む目的

 齋藤孝をネットの世界に引き込むために、辛口の意見を続けようと思います。
 引用は、「私塾のすすめ」からです。
 齋藤孝は自分が梅田望夫とともに「見晴らしのいい場所」にいると「はじめに」で書いていますが、私から見れば、雲がかかってばかりいる山の頂上付近にいるわけで、そこから落とされてくるものは下で受け止められますが、決して出所が見えない。
 「僕は大学の空間ではオープンなのですが」とありますが、大学の空間自体は閉鎖空間ですから、家の中ではいきいきしている内弁慶と一緒です。
 梅田氏が「斎藤さんが『福沢諭吉と自分が似ている』というのを、過去の無限ともいうべき人物の中から、書物を通して見つけ出されたわけですが、ウェブは、現在の生身の人間の中から探すことができる道具だと思うんですよ。」と語っていますが、これは本当に痛烈な批判でしょう。
 これに対して齋藤は、なるほどと同意しつつ、学級の人数が少なかったり、固定化しているので「あこがれ」を共感する人を見つけるのは難しいといって議論をかわして逃げています。そしてだから「いじめが起きやすい」ととんでもない方向に話が向かってしまっています。編集者のチェックもれでしょう。
 この本は、随所に考えの相違があったことは、主に梅田氏の「基本的には同じ」という表現の繰り返しによって想像できます。
 それこそ基本的には、齋藤孝は閉じた空間が好き。本が好き。自分で読み取ったものに価値を感じる。過去にやられてきたことを再現し、繰り返すことが好き。「無理やり」が好き。 梅田望夫は開かれた空間が好き。人から寄せられる有用な情報が好き。そして人がやったことは、もう自分はしたくなくなる。新しいものにチャレンジしたくなる。
 どうにか議論が進んでいったのは、両者がプロジェクトのリーダーに欠かせない資質が「情熱」と「没頭」であることを信じ抜いているからでしょう。
 志向性の共同体を主体的に集まってくるメンバーだけでなくて、たまたまそこにいる人、いやいやそこにいさせられている人に対しても、「ポジティブな空気」の発生によって、何とか同じ志向性をもたせられないか。
 特に公教育はそこが課題になっているわけで、齋藤孝をそこまで引きずりおろしたいわけです。
 無志向性の共同体の改革には、情熱をもったリーダーが必要です。
 私塾にこもらないで、オープンな世界に入って下さることを期待しています。

内田樹・齋藤孝・苅谷剛彦の共通点

[教育現場] ブログ村キーワード

 「街場の教育論」の著者、内田樹は著書出版を契機に教育現場の講演会に参加しているようですが、最近のブログの記事「費用対効果教育」を読んでも、結局、齋藤孝や苅谷剛彦と同じような「大学」という閉じられた空間で生活している人ならではの狭い思考に陥っているようです。

 なかなかチャンスはないのでしょうが、文科省キャリアが実験しているように、公立中学校の現場で一年間実際に教えてみる、という体験をされるともっと違った角度から発信ができるような気がします。

 3人とも、他の十数人から三四十人という「同僚」と同じ子どもを教育している姿というのを、どうも想像することができません。

 大学や大学院における「学力不足」に悩まされていることはひしひしと伝わってきますし、学校現場と同じように「事務」=「雑用」を嫌い、「経営」の側の行動は理解できない、そういうスタンスは相似形であると思います。

 苅谷剛彦を除く二人の本は、現場の教師が読んでもおもしろいのでしょうが、齋藤孝の方はそのテンションの高さに年輩の教師はついていけないでしょうし、内田樹の方は、大学教育のあり方への不満がベースになっているので、これを読んでも公立学校の教師が「勇気づけられる」かどうかは疑問です。
 
 「教育は放っておくのが一番よい」という内田樹に対しては、「教育は、どのような立場の人間からも放っておけない現状が多すぎる」現場の声が今後、届いていくことを期待しています。

齋藤孝「教育力」から教師の「逆コンピテンシー」を読むーその17 自己の再構成 

 習慣の奴隷になっていないか?
 (逆コンピテンシーその17 経験にこだわる・・・「成果統合力」「情報活用力」などに課題)
 失敗例では,「47:知識に縛られて・・・,49:苦労したものへのこだわり・・・。52:おさめるべきをすて・・・」に関連があります。
 公立学校には「異動」がつきものですが,中にはその頻度が高い(一つの学校で勤務する期間が短い)教師がいます。教師の側から希望する異動理由には,「管理職と合わない」「学校のやり方が自分に合わない」「荒れているからいやだ」「駅から遠い」「自宅から遠い」「交通が不便」「問題をおこした」などがあります。
 行政は,優秀な教師を集中させて「エリート校」を作るということをしない(最近の都立の入試問題自校作成校や一貫教育校,研究拠点になる学校では違うでしょうが)はずなので,公立にはいろいろな教師が働いています。「そこが公立のよいところだ」と自慢したい人もいるでしょう。
 私は公立で異動があることの最大のメリットは,学校ごとの優れた指導方法,教育技術が異動によって広まり,知恵が共有化され,学校がよりよい方向に改善されていくことだと考えます。だから教師や管理職の異動によって,荒れた学校の再建が可能になるのです。ただし,逆もあります。
 かつて,「落ち着いた学校に来られてよかった。少しのんびりさせてもらう」と言った教師がいました。冗談かと思ったら本気でした。
 すべての教師が気を抜かず,手を抜かず,生徒に目をしっかりかけているので「落ち着いた学校」であったはずなのに,その学校の雲行きはどんどん怪しくなってきました。その原因は言うまでもありません。
 一般の方は(子どもを学校に通わせている保護者の方にとっても),学校といったらその中のシステムはだいたい同じものだとお思いになるかもしれませんが,これは都道府県,区市町村,学校の規模,年齢構成,地域の特色などによって,不二家と山崎パンどころか,他業種の会社くらい違う習慣が見られるのです。
 たとえば生徒指導の方針。外部評価も含めた学校評価の方法。会議の仕方。その回数。その時間の確保の仕方。朝の打ち合わせの仕方。日直の仕事とまわし方。・・・教科の指導でも,東京都は免許を持たない教科を教えることはありませんが,専門外の教科を教える地域もあるようです。通知表は学校ごとに様式が自由。保護者会の回数。懇親会のやり方。校長室の位置と大きさ(悲しいことに職員室から離れた校舎の片隅の小さい倉庫のようなところもあります)。
 異動した教師が一番戸惑うかもしれないのは,生徒指導の方針や,会議の方法の違いです。
 最適な方法がとられていたのに変更して失敗する。最適な方法を実践できる教師がいるのに習慣を変えずに成功しそこなう。それぞれこの逆のパターンにすべきなのですが・・・。
 
参考 齋藤孝「教育力」(岩波新書) 192頁より
「習慣を変えねばいけないときに対応できない人が落ちていくのだ(注・・・小学校から中学校に進学した子どもで,テストに対応できないことを例に)。だから逆にいうと,ある新しいところに入っても,そこの習慣によって自分を新しく再構成することができればよい。リストラクション―リストラといっても,クビという意味ではなくて再構造化―,つまり構造化をもう一度行う。習慣を組み替えることによってその状況に対応していく,それが人間に必要な適応能力なのだ。状況が変わっているのに,かつての習慣にのみとらわれていて,その習慣を変えることができないと滅びていく,ということだ。」

齋藤孝「教育力」から教師の「逆コンピテンシー」を読むーその16 自分への評価の目

 「評価」アレルギーをなくせるか?
 (逆コンピテンシーその16 主観優先である・・・「自己変革力」「戦略立案力」などに課題)
 失敗例では,「29:計画や評価のない実践を教育と勘違い・・・」に関連があります。
 「評価」と聞いて,成功体験の多い人,実力があると自覚(誤解?)している人の場合はプラスのイメージの方が強い一方,聞くだけでジンマシンが出てしまうような人もいるようです。
 評価というのは目標があって,それを達成しようとする実践があって初めて成立するものです。目標を自分の責任できちんと立てたものなら,実践に対する評価というのは,実践を改善して,より目標への到達度を高めるためにも必要なステップですよね。PDCAサイクルは,サイクルであることに意義があるので,「評価」だけ,「実践」だけが存在するわけではありません。
 以下の引用中の「若者」を「教師」に置き換えてみたらいかがでしょう。

参考 齋藤孝「教育力」(岩波新書) 170頁より
「現在,『主観優先(好き嫌い優先)で別にいいじゃん』という人が増えてきてしまっている。その事態に社会全体が非常に手を焼いているが,そういう態度は勉強から逃避してしまった場合に起こりやすいことなのだ。勉強は客観性,多角的視点を非常に重んじるからだ。
 自分の好き嫌いにかかわらず,間違いは間違い。それを常に突きつけられることが大切なのだ。自分のものの見方が否定される。だが,その自己否定がいやなものだから,自分を試される場に身を置かない傾向が起きてくる。そうすると,ほとんど試されることのない,『勝手に決めつけ癖』を持った若者が仕上がってしまう。」

齋藤孝「教育力」から教師の「逆コンピテンシー」を読むーその15 評価の目

 信号が届いたという信号
(逆コンピテンシーその15 公平でない評価をしてしまう・・・「対人指導力」「対人関係力」などに課題)
 失敗例では,「43:目を合わせる自信がないことがわかってしまう。」に関連があります。
 研究授業を参観すると,生徒の発言を名票か何かにチェックしている教師を見かけることがあります。これは,発言回数やその内容を記録し,評価に生かそうとする目的だと考えられますが,ここでの課題を齋藤孝が端的に指摘している箇所があります(下記参照)。
 「観点別評価」というのが導入されてから,教師を悩ませているものの一つに,「関心・意欲・態度」の評価というのがあります。その趣旨については,国立教育政策研究所が平成14年に出している「評価規準の作成,評価方法の工夫改善のための参考資料」で示されているので,一般の人も知ることができますが,一部の教師が学習に臨む意欲や態度と勘違いしてしまっており,挙手や発言の回数を評価の材料にしている事例があります。現場では「のりじゅん」と呼んでいる評価規準は,ある意味では授業での目標のようなものですが,それを達成させることは教師の義務であるのに,達成できないことを子どものせいにしてしまう。目標を個人内では達成してしまっているのに,「手を挙げて発言しない」「手を挙げたが他の人が答えてしまった」せいで評価されなかったり,達成していないのに手を挙げただけで達成したことになったしまったりという問題がおこっています。
 まず誤りを正すことが先決です。
 ちなみに,「もとじゅん」と呼んでいる「評価基準」とは,ここまでできれば十分満足(A)=その手前ならおおむね満足(B)などと,A,B,Cの基準を決めるもので,こうして出された4つの観点別の評価を合わせたものが,「評定」(1~5)となるしくみが,「絶対評価」というものです。
 手を挙げる回数などという相対的なもので評価されている生徒はいないでしょうか。

参考 齋藤孝「教育力」(岩波新書) 158頁より
「教師には何人もの子どもたちから,同時にいろんなアプローチがくるケースがある。いろいろな子どもがいっぺんに発言する。誰かを指名する。私も小学校時代に経験があるが,そのときに,指名してもらえなかった何人かは,案外くじけるのだ。「ではわかった人,手を挙げてください」という場合も,何人も手を挙げているのに,指されるのは一人。それ以外の子はがっかりする。その軽い失望感が授業の中で何回もくり返される。そのときに先生が子どもの目を見て,「ああ,君はわかっているね。君がわかっていることを,教師である私は理解しているよ」というメッセージを送れば,その子は別に発表しなくても満足するだろう。」

齋藤孝「教育力」から教師の「逆コンピテンシー」を読むーその14 時間の扱い方  

 教師は時間や期限を守っているか?
 (逆コンピテンシーその14 時間にルーズである,効率を重視しない・・・「効率追求力」などに課題)
 失敗例では,「30:環境の作り手は教師・・・。」に関連があります。
 「時間を大切にしよう」「時間を守ろう」は,多くの学校で必ず月間や週間の生活目標に掲げられるもので,逆に言えば徹底が難しい(守られにくい)ことの一つです。廊下にそんなスローガンが貼ってある学校というのは,生徒がふだんから時間を守っていないことを宣伝しているようなものです。
 社会に出ると「時間を守らない」「期限を守らない」ことで信用を失い,仕事をなくす恐れもあるので,学校教育で徹底してしつけるべきことだというのは,だれも異論のないところでしょう。
 さて,教師の方は,時間や期限をきちんと守っているでしょうか。
 校内の会議は,必ず時間通りに始まるでしょうか。私は,開始時間を守らない教師を絶対に信用しません。「生活指導で遅れました・・・」と平気な顔で言いますが,会議の開始時刻に合わせて指導というのは行うべきで,緊急の場合には少なくとも一度は出席者に断ってから続けるものです。時間にルーズな教師は,たいてい多忙な教師ではないのです。多忙な教師ほど,時間効率を重視しなければ仕事が終わらないため,仕事の重要度,適時性,緊急性を総合的に判断し,優先順位を決めて行動しているのです。一部の教師の怠慢によって,貴重な時間が失われるのは許されることではありません。
 授業の開始時刻は守っているでしょうか。チャイムが鳴り始めてから職員室や準備室を出ている教師はいないでしょうか。中学校では,教室移動や着替えなどもあって,生徒は授業遅刻に注意しなければなりませんが,荒れている学校では,体育の後の授業は必ず開始が遅れたり,チャイムがなっても教師が来るまで遊んでいるという状況が見られます。
 私は授業と授業の間の(ほとんどの中学校では10分間)時間を,「休み時間」とは言わせず,「(次の授業への)準備時間」と呼んでいましたが,チャイムは授業の開始の合図であって,着席を始める合図ではないことを分からせるのはたいへんでした。
 事務関係の書類を,提出期限までに出しているでしょうか。・・・
 きりがありませんが,教師は環境の作り手であることを肝に銘じる必要があると思います。
 
参考 齋藤孝「教育力」(岩波新書) 123頁より
「私は,実はストップウォッチを持たずに授業をするのは犯罪だ,と思っているぐらいなのだ。簡単に言うと,「人の時間を何だと思っているのだ」ということである。私の授業では,「次の作業は一分半」といったら一分半で切る。そうやっていくと,ふつうは授業の三倍は密度が濃くできる。ストップウォッチを使えば,誰でもそうなる。教育界では,「効率の良さ」があまりにも軽視されている。このことに私は強い怒りを感じている。」

齋藤孝「教育力」から教師の「逆コンピテンシー」を読むーその13  二つの時間を生きる

 生徒との対話,教材との対話を両立させる
 (逆コンピテンシーその13 目的意識をもたせることができない・・・「戦略遂行力」などに課題)
 失敗例では,「42:独り言で子どもの思考放棄をさそう。」に関連があります。
 ☆☆☆失敗例については,HP版でご覧になれます☆☆☆
 授業では,「いま,いったい何のやめに何をやっているのか,を常にはっきりさせる習慣をつける」ことが必要です。教師はよく集中力を高めたり,気分転換を図るために『脱線』という手法を使います(生徒の発言から脱線させることもある)が,もとの位置に戻るとき,あえて教師自ら本題を示さずに,「あれ,何の話をしていたんだっけ」と質問して,脱線箇所にバックさせる(あるいは脱線を逆にたどっていく)という方法があります。これによって,生徒に目的意識を自覚させることができます。
 参考で引用した箇所に関連して言うと,教師は生徒との対話を楽しみながら,教材との対話を忘れないようにする必要があります。授業はつねに教師と教材のティームティーチングであり,教材と生徒,生徒と生徒,生徒と教師とのティームラーニングです。

参考 齋藤孝「教育力」(岩波新書) 104,105頁より
「対話においては,―そして授業においても―いくつかの見通しを持つことが必要だ。相手と対話しているわけだが,頭の中では意識を常に二つの線路の上に走らせるようにする。一つの線路は,相手(生徒たち)と一体化している感じ。そこで一緒の時間を生きている感じである。もう一つの線路では列車は少し先を走っているのだ。先に置き石がないか,などを見ておく。そして,こっちへ行ってはだめなのだなどと,あとの電車に指示を送るのだ。それを私は『二つの時間を生きる』という具合に表現する。」
「複線的な意識で二つの時間を同時に生きることが,授業を展開させていく上で大事である。」

齋藤孝「教育力」から教師の「逆コンピテンシー」を読むーその12 優れた試験問題

 良問によって教科のすごみを伝えているか 
 (逆コンピテンシーその12 自分がつけさせた力を問う問題が作れない・・・「対人指導力」などに課題)
 失敗例では,「3:表面的な評価」などに関連があります。
 良問とは,生徒の身につけた力を存分に引き出せるもので,かつ,まだ到達していない領域へのあこがれを喚起できるテスト問題のことです。
 地元の塾などでは,学校の定期考査問題をストックし,データベース化して生徒に練習させるのに使うので,同じ問題は出せません。しかし,毎年全く新しい問題を出すというわけにいかないので,試験用の教材とテスト用の教材を使い分けるなど,教師には多くの「ひきだし」「ストック」が必要になります。
 教師の教科指導へのこだわりや指導力を評価する最良の方法は,定期考査をチェックすることです。問題の質で授業の質もわかります。
 ほとんど覚えているだけで答えられるような問題をテストで主題している教師が,「思考判断」「資料活用」などの観点別評価をまともにやっているはずがありません。
 齋藤孝が紹介しているように,私も論述問題を出題した後,評価の基準を授業で話し合いで決めさせ,事例として配布した数人の解答と自分の解答の採点をさせたことがあります(例:「中世の日本は一つの国家といえたのだろうか」)。「国とは何かをどう定義したか」「中世の社会の特徴を適切に述べられたか」「定義と特徴を関連づけて説明しているか」など,客観的な評価項目が完成し,「力を補充し伸ばすことにも結びつく」復習も実現できました。
 「テストは復習が大事」は学力向上の絶対法則ですが,「復習しろ」というだけでは始まらないので,別解の検討や学習の深化が図れるように,採点後に配布する解答・解説集に補充問題等をのせることも効果的です。

参考 齋藤孝「教育力」(岩波新書) 93頁,100頁より
「テストは,その生徒の能力をはかったり,個人差をつけて選別したりするための必要悪である―などというちっぽけな考えを持って試験問題をつくってはいけない。その試験問題を通してその教科のすごみを伝えてやろう,というぐらいでないといけないのだ。」
「子どもには教壇に立たせるだけでなく,採点をやらせることも大事である。採点者になる。あるいは問題作成者になる。これが,ある意味では教育の中でもっとも効果的なやり方なのだ。」

齋藤孝「教育力」から教師の「逆コンピテンシー」を読むーその11 クリエイティブな関係

 関係の力を信じ,伸ばすことにこだわりを持っているか
 (逆コンピテンシーその11 能力にこだわり伸ばすことにはこだわらない・・・「対人変革力」「成果追求力」などに課題)
 失敗例では,「18:長所が引き出せない」「53:普通の子どもといってしまう。」に関連があります。
 教師個人の能力の優劣というより,固定化しているスタイルの問題といった方が適切かもしれませんが,授業のあり方というのは,本当にさまざまなタイプがあります。
 私が考案した授業の分析方法のひとつに,生徒が行っている活動を,「興味をもつ」「読む・聞く」「考える」「まとめる」「調べる」「書く・描く」「理解する」「つくる」「話し合う」「発表する」「振り返る」「生かす」という12の項目から評価し,それぞれにどのような成果が見られたかを判断するというものがあります。(指導要領では4つの観点ですが,生徒が自ら自己評価できるような簡易な項目に分けてあります。なお,総合的な学習の時間では,これらの活動を,学習テーマの特性に応じて自ら構成していくことを目標としました。)
 学級崩壊状態は別として,最もレベルの低い授業というのは,生徒が「読む・聞く」「書く・描く」だけで50分が終わってしまうものです。よく教師が「わかりやすいまとめ」を板書して,生徒がノートにそれを写すことがありますが,「理解する」成果を残せない生徒の多くは,ただ「写している(書く・描く)」だけで,自ら「考え」て「まとめる」わけではないために,学習に主体性が乏しく,力がつかないままになります。
 齋藤孝は「話し合い」などを重視していますが,教師はさまざまな方法を試して,「あの子はもともと学力が低いから,私の話にはついてこれない」と投げてしまうのをやめるべきです。
 
参考 齋藤孝「教育力」(岩波新書) 72,73頁より
「たとえば,二人一組になってずっと話していたり,ディスカッションしたり,お互いにチェックし合ったりしている中で伸びていく力がある。これで両方が伸びていく場合は,その二人にそれぞれ個別に才能があったという言い方もできるけれども,そういう関係性がクリエイティブであったと言うほうが当たっているだろう。」
「関係をクリエイティブにできるかどうか,というところに教師の力量が問われるのである。才能のある個人は伸びていく,才能のない人は伸びない―これだと教師の力量はそれほど大きな意味をもたない。才能のある人というのは,教えられなくても伸びていく人だ。」

齋藤孝「教育力」から教師の「逆コンピテンシー」を読むーその10 研究者的な態度

生徒が教師に求める「ぎりぎりのところ」とは?
 (逆コンピテンシーその10 新しいことにチャレンジしない・・・「戦略遂行力」「情報追求力」などに課題)
 失敗例では,「27:内容で勝負できない。」「28:実態からの出発ができない。」に関連があります。
 私が「研究者的な先生」と聞いてまず連想するのは,「他人と同じことをしない,オリジナルを追求する教師」です。しかし,一般的な現場では,「いい評判の実践をまず真似してみよう」と言って,百ます計算や朝の読書など,同じことをやろうとします。成功例ももちろん多く,そういう本の出版に情熱を傾けている教師もいます。
 気をつけなければいけないことは,子どもというのは,物まねやパクリはすぐに見破り,教師への尊敬や信頼,期待を失うことがあるということです。ある料理のかくし味に塩を入れるのが最適だからといって,別の料理にも塩が使えるとは限らないように,物まねには限界があります。
 せめて教師には,「あの子どもたちにはあの指導が効果的であった。私の受け持つ子どもはこうだからこういう味つけもしてみよう」など,プラスアルファをする意欲がほしいものです。 

参考 齋藤孝「教育力」(岩波新書) 67頁,69頁より
「単に唯々諾々と聞く姿勢ではなくて,一つのことをいろいろな面から見ることができる力,この視点移動力を子どもたちに身につけさせたい。そのためには教師自身に,そのように問題を掘り返して,新たな角度から見る習慣がほしい。それが研究者的な態度ということになる。」
「教師の研究者的視点が生きている授業では,生徒たちはいま,この先生が工夫して,新しい解釈で臨もうとしていることがわかる。そういう試みは研究授業で発表されることが多い。その場合,ほかの学校の先生も大勢見に来るから,先生自身も緊張している。学会の発表のようなものだ。そうなると生徒もほうも「ああ,この先生はぎりぎりのところでやっているな」と思うものだから,一所懸命に協力しようとする。すると協力しようとしているうちに,理解が深まる。」

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より