カテゴリー「齋藤孝」の19件の記事

齋藤孝の影響力 ふり返り366日【08/6/4-3】

 学者というのは,孤独な環境でも仕事ができる人ではないと勤まらない職業でしょう。

 本を1冊書くというだけでも,壮絶な「1人の戦い」が繰り広げられているものだと想像できます。

 齋藤孝はここのところTVを通しての露出があるようですが,きっとどこかで「もったいない時間を過ごしているな」と感じていると思います。

 ゲストがTVで発言できる「意見や考えのまとまり」はたかが知れています。いかに短く気のきいたコメントが言えるかが勝負で,台本がないケースではどきどきものでしょう。

 教育の現場で働いている私のような人間は,少し子どもと会わないだけでも,あるいは,ちょっと授業の間隔があくと,言い知れない禁断症状が襲ってきます。

 原稿を書くために1週間とか缶詰になる,なんて考えられません。

 また,テレビの本番に備えて1時間前に局に入る,なんてことも考えられません。

 まあ,その「待ち時間」の中でも次の本の構想などを考えているのかもしれませんが。

 一年前から,学者が教育現場への影響力をもてるようになるまでのプロセスをながめてみたい気がしています。

08/6/4 齋藤孝をネットの世界に引き込む目的

 齋藤孝をネットの世界に引き込むために、辛口の意見を続けようと思います。
 引用は、「私塾のすすめ」からです。
 齋藤孝は自分が梅田望夫とともに「見晴らしのいい場所」にいると「はじめに」で書いていますが、私から見れば、雲がかかってばかりいる山の頂上付近にいるわけで、そこから落とされてくるものは下で受け止められますが、決して出所が見えない。
 「僕は大学の空間ではオープンなのですが」とありますが、大学の空間自体は閉鎖空間ですから、家の中ではいきいきしている内弁慶と一緒です。
 梅田氏が「斎藤さんが『福沢諭吉と自分が似ている』というのを、過去の無限ともいうべき人物の中から、書物を通して見つけ出されたわけですが、ウェブは、現在の生身の人間の中から探すことができる道具だと思うんですよ。」と語っていますが、これは本当に痛烈な批判でしょう。
 これに対して齋藤は、なるほどと同意しつつ、学級の人数が少なかったり、固定化しているので「あこがれ」を共感する人を見つけるのは難しいといって議論をかわして逃げています。そしてだから「いじめが起きやすい」ととんでもない方向に話が向かってしまっています。編集者のチェックもれでしょう。
 この本は、随所に考えの相違があったことは、主に梅田氏の「基本的には同じ」という表現の繰り返しによって想像できます。
 それこそ基本的には、齋藤孝は閉じた空間が好き。本が好き。自分で読み取ったものに価値を感じる。過去にやられてきたことを再現し、繰り返すことが好き。「無理やり」が好き。 梅田望夫は開かれた空間が好き。人から寄せられる有用な情報が好き。そして人がやったことは、もう自分はしたくなくなる。新しいものにチャレンジしたくなる。
 どうにか議論が進んでいったのは、両者がプロジェクトのリーダーに欠かせない資質が「情熱」と「没頭」であることを信じ抜いているからでしょう。
 志向性の共同体を主体的に集まってくるメンバーだけでなくて、たまたまそこにいる人、いやいやそこにいさせられている人に対しても、「ポジティブな空気」の発生によって、何とか同じ志向性をもたせられないか。
 特に公教育はそこが課題になっているわけで、齋藤孝をそこまで引きずりおろしたいわけです。
 無志向性の共同体の改革には、情熱をもったリーダーが必要です。
 私塾にこもらないで、オープンな世界に入って下さることを期待しています。

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齋藤孝「教育力」から教師の「逆コンピテンシー」を読むーその17 自己の再構成 

 習慣の奴隷になっていないか?
 (逆コンピテンシーその17 経験にこだわる・・・「成果統合力」「情報活用力」などに課題)
 失敗例では,「47:知識に縛られて・・・,49:苦労したものへのこだわり・・・。52:おさめるべきをすて・・・」に関連があります。
 公立学校には「異動」がつきものですが,中にはその頻度が高い(一つの学校で勤務する期間が短い)教師がいます。教師の側から希望する異動理由には,「管理職と合わない」「学校のやり方が自分に合わない」「荒れているからいやだ」「駅から遠い」「自宅から遠い」「交通が不便」「問題をおこした」などがあります。
 行政は,優秀な教師を集中させて「エリート校」を作るということをしない(最近の都立の入試問題自校作成校や一貫教育校,研究拠点になる学校では違うでしょうが)はずなので,公立にはいろいろな教師が働いています。「そこが公立のよいところだ」と自慢したい人もいるでしょう。
 私は公立で異動があることの最大のメリットは,学校ごとの優れた指導方法,教育技術が異動によって広まり,知恵が共有化され,学校がよりよい方向に改善されていくことだと考えます。だから教師や管理職の異動によって,荒れた学校の再建が可能になるのです。ただし,逆もあります。
 かつて,「落ち着いた学校に来られてよかった。少しのんびりさせてもらう」と言った教師がいました。冗談かと思ったら本気でした。
 すべての教師が気を抜かず,手を抜かず,生徒に目をしっかりかけているので「落ち着いた学校」であったはずなのに,その学校の雲行きはどんどん怪しくなってきました。その原因は言うまでもありません。
 一般の方は(子どもを学校に通わせている保護者の方にとっても),学校といったらその中のシステムはだいたい同じものだとお思いになるかもしれませんが,これは都道府県,区市町村,学校の規模,年齢構成,地域の特色などによって,不二家と山崎パンどころか,他業種の会社くらい違う習慣が見られるのです。
 たとえば生徒指導の方針。外部評価も含めた学校評価の方法。会議の仕方。その回数。その時間の確保の仕方。朝の打ち合わせの仕方。日直の仕事とまわし方。・・・教科の指導でも,東京都は免許を持たない教科を教えることはありませんが,専門外の教科を教える地域もあるようです。通知表は学校ごとに様式が自由。保護者会の回数。懇親会のやり方。校長室の位置と大きさ(悲しいことに職員室から離れた校舎の片隅の小さい倉庫のようなところもあります)。
 異動した教師が一番戸惑うかもしれないのは,生徒指導の方針や,会議の方法の違いです。
 最適な方法がとられていたのに変更して失敗する。最適な方法を実践できる教師がいるのに習慣を変えずに成功しそこなう。それぞれこの逆のパターンにすべきなのですが・・・。
 
参考 齋藤孝「教育力」(岩波新書) 192頁より
「習慣を変えねばいけないときに対応できない人が落ちていくのだ(注・・・小学校から中学校に進学した子どもで,テストに対応できないことを例に)。だから逆にいうと,ある新しいところに入っても,そこの習慣によって自分を新しく再構成することができればよい。リストラクション―リストラといっても,クビという意味ではなくて再構造化―,つまり構造化をもう一度行う。習慣を組み替えることによってその状況に対応していく,それが人間に必要な適応能力なのだ。状況が変わっているのに,かつての習慣にのみとらわれていて,その習慣を変えることができないと滅びていく,ということだ。」

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齋藤孝「教育力」から教師の「逆コンピテンシー」を読むーその16 自分への評価の目

 「評価」アレルギーをなくせるか?
 (逆コンピテンシーその16 主観優先である・・・「自己変革力」「戦略立案力」などに課題)
 失敗例では,「29:計画や評価のない実践を教育と勘違い・・・」に関連があります。
 「評価」と聞いて,成功体験の多い人,実力があると自覚(誤解?)している人の場合はプラスのイメージの方が強い一方,聞くだけでジンマシンが出てしまうような人もいるようです。
 評価というのは目標があって,それを達成しようとする実践があって初めて成立するものです。目標を自分の責任できちんと立てたものなら,実践に対する評価というのは,実践を改善して,より目標への到達度を高めるためにも必要なステップですよね。PDCAサイクルは,サイクルであることに意義があるので,「評価」だけ,「実践」だけが存在するわけではありません。
 以下の引用中の「若者」を「教師」に置き換えてみたらいかがでしょう。

参考 齋藤孝「教育力」(岩波新書) 170頁より
「現在,『主観優先(好き嫌い優先)で別にいいじゃん』という人が増えてきてしまっている。その事態に社会全体が非常に手を焼いているが,そういう態度は勉強から逃避してしまった場合に起こりやすいことなのだ。勉強は客観性,多角的視点を非常に重んじるからだ。
 自分の好き嫌いにかかわらず,間違いは間違い。それを常に突きつけられることが大切なのだ。自分のものの見方が否定される。だが,その自己否定がいやなものだから,自分を試される場に身を置かない傾向が起きてくる。そうすると,ほとんど試されることのない,『勝手に決めつけ癖』を持った若者が仕上がってしまう。」

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齋藤孝「教育力」から教師の「逆コンピテンシー」を読むーその15 評価の目

 信号が届いたという信号
(逆コンピテンシーその15 公平でない評価をしてしまう・・・「対人指導力」「対人関係力」などに課題)
 失敗例では,「43:目を合わせる自信がないことがわかってしまう。」に関連があります。
 研究授業を参観すると,生徒の発言を名票か何かにチェックしている教師を見かけることがあります。これは,発言回数やその内容を記録し,評価に生かそうとする目的だと考えられますが,ここでの課題を齋藤孝が端的に指摘している箇所があります(下記参照)。
 「観点別評価」というのが導入されてから,教師を悩ませているものの一つに,「関心・意欲・態度」の評価というのがあります。その趣旨については,国立教育政策研究所が平成14年に出している「評価規準の作成,評価方法の工夫改善のための参考資料」で示されているので,一般の人も知ることができますが,一部の教師が学習に臨む意欲や態度と勘違いしてしまっており,挙手や発言の回数を評価の材料にしている事例があります。現場では「のりじゅん」と呼んでいる評価規準は,ある意味では授業での目標のようなものですが,それを達成させることは教師の義務であるのに,達成できないことを子どものせいにしてしまう。目標を個人内では達成してしまっているのに,「手を挙げて発言しない」「手を挙げたが他の人が答えてしまった」せいで評価されなかったり,達成していないのに手を挙げただけで達成したことになったしまったりという問題がおこっています。
 まず誤りを正すことが先決です。
 ちなみに,「もとじゅん」と呼んでいる「評価基準」とは,ここまでできれば十分満足(A)=その手前ならおおむね満足(B)などと,A,B,Cの基準を決めるもので,こうして出された4つの観点別の評価を合わせたものが,「評定」(1~5)となるしくみが,「絶対評価」というものです。
 手を挙げる回数などという相対的なもので評価されている生徒はいないでしょうか。

参考 齋藤孝「教育力」(岩波新書) 158頁より
「教師には何人もの子どもたちから,同時にいろんなアプローチがくるケースがある。いろいろな子どもがいっぺんに発言する。誰かを指名する。私も小学校時代に経験があるが,そのときに,指名してもらえなかった何人かは,案外くじけるのだ。「ではわかった人,手を挙げてください」という場合も,何人も手を挙げているのに,指されるのは一人。それ以外の子はがっかりする。その軽い失望感が授業の中で何回もくり返される。そのときに先生が子どもの目を見て,「ああ,君はわかっているね。君がわかっていることを,教師である私は理解しているよ」というメッセージを送れば,その子は別に発表しなくても満足するだろう。」

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齋藤孝「教育力」から教師の「逆コンピテンシー」を読むーその14 時間の扱い方  

 教師は時間や期限を守っているか?
 (逆コンピテンシーその14 時間にルーズである,効率を重視しない・・・「効率追求力」などに課題)
 失敗例では,「30:環境の作り手は教師・・・。」に関連があります。
 「時間を大切にしよう」「時間を守ろう」は,多くの学校で必ず月間や週間の生活目標に掲げられるもので,逆に言えば徹底が難しい(守られにくい)ことの一つです。廊下にそんなスローガンが貼ってある学校というのは,生徒がふだんから時間を守っていないことを宣伝しているようなものです。
 社会に出ると「時間を守らない」「期限を守らない」ことで信用を失い,仕事をなくす恐れもあるので,学校教育で徹底してしつけるべきことだというのは,だれも異論のないところでしょう。
 さて,教師の方は,時間や期限をきちんと守っているでしょうか。
 校内の会議は,必ず時間通りに始まるでしょうか。私は,開始時間を守らない教師を絶対に信用しません。「生活指導で遅れました・・・」と平気な顔で言いますが,会議の開始時刻に合わせて指導というのは行うべきで,緊急の場合には少なくとも一度は出席者に断ってから続けるものです。時間にルーズな教師は,たいてい多忙な教師ではないのです。多忙な教師ほど,時間効率を重視しなければ仕事が終わらないため,仕事の重要度,適時性,緊急性を総合的に判断し,優先順位を決めて行動しているのです。一部の教師の怠慢によって,貴重な時間が失われるのは許されることではありません。
 授業の開始時刻は守っているでしょうか。チャイムが鳴り始めてから職員室や準備室を出ている教師はいないでしょうか。中学校では,教室移動や着替えなどもあって,生徒は授業遅刻に注意しなければなりませんが,荒れている学校では,体育の後の授業は必ず開始が遅れたり,チャイムがなっても教師が来るまで遊んでいるという状況が見られます。
 私は授業と授業の間の(ほとんどの中学校では10分間)時間を,「休み時間」とは言わせず,「(次の授業への)準備時間」と呼んでいましたが,チャイムは授業の開始の合図であって,着席を始める合図ではないことを分からせるのはたいへんでした。
 事務関係の書類を,提出期限までに出しているでしょうか。・・・
 きりがありませんが,教師は環境の作り手であることを肝に銘じる必要があると思います。
 
参考 齋藤孝「教育力」(岩波新書) 123頁より
「私は,実はストップウォッチを持たずに授業をするのは犯罪だ,と思っているぐらいなのだ。簡単に言うと,「人の時間を何だと思っているのだ」ということである。私の授業では,「次の作業は一分半」といったら一分半で切る。そうやっていくと,ふつうは授業の三倍は密度が濃くできる。ストップウォッチを使えば,誰でもそうなる。教育界では,「効率の良さ」があまりにも軽視されている。このことに私は強い怒りを感じている。」

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齋藤孝「教育力」から教師の「逆コンピテンシー」を読むーその13  二つの時間を生きる

 生徒との対話,教材との対話を両立させる
 (逆コンピテンシーその13 目的意識をもたせることができない・・・「戦略遂行力」などに課題)
 失敗例では,「42:独り言で子どもの思考放棄をさそう。」に関連があります。
 ☆☆☆失敗例については,HP版でご覧になれます☆☆☆
 授業では,「いま,いったい何のやめに何をやっているのか,を常にはっきりさせる習慣をつける」ことが必要です。教師はよく集中力を高めたり,気分転換を図るために『脱線』という手法を使います(生徒の発言から脱線させることもある)が,もとの位置に戻るとき,あえて教師自ら本題を示さずに,「あれ,何の話をしていたんだっけ」と質問して,脱線箇所にバックさせる(あるいは脱線を逆にたどっていく)という方法があります。これによって,生徒に目的意識を自覚させることができます。
 参考で引用した箇所に関連して言うと,教師は生徒との対話を楽しみながら,教材との対話を忘れないようにする必要があります。授業はつねに教師と教材のティームティーチングであり,教材と生徒,生徒と生徒,生徒と教師とのティームラーニングです。

参考 齋藤孝「教育力」(岩波新書) 104,105頁より
「対話においては,―そして授業においても―いくつかの見通しを持つことが必要だ。相手と対話しているわけだが,頭の中では意識を常に二つの線路の上に走らせるようにする。一つの線路は,相手(生徒たち)と一体化している感じ。そこで一緒の時間を生きている感じである。もう一つの線路では列車は少し先を走っているのだ。先に置き石がないか,などを見ておく。そして,こっちへ行ってはだめなのだなどと,あとの電車に指示を送るのだ。それを私は『二つの時間を生きる』という具合に表現する。」
「複線的な意識で二つの時間を同時に生きることが,授業を展開させていく上で大事である。」

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齋藤孝「教育力」から教師の「逆コンピテンシー」を読むーその12 優れた試験問題

 良問によって教科のすごみを伝えているか 
 (逆コンピテンシーその12 自分がつけさせた力を問う問題が作れない・・・「対人指導力」などに課題)
 失敗例では,「3:表面的な評価」などに関連があります。
 良問とは,生徒の身につけた力を存分に引き出せるもので,かつ,まだ到達していない領域へのあこがれを喚起できるテスト問題のことです。
 地元の塾などでは,学校の定期考査問題をストックし,データベース化して生徒に練習させるのに使うので,同じ問題は出せません。しかし,毎年全く新しい問題を出すというわけにいかないので,試験用の教材とテスト用の教材を使い分けるなど,教師には多くの「ひきだし」「ストック」が必要になります。
 教師の教科指導へのこだわりや指導力を評価する最良の方法は,定期考査をチェックすることです。問題の質で授業の質もわかります。
 ほとんど覚えているだけで答えられるような問題をテストで主題している教師が,「思考判断」「資料活用」などの観点別評価をまともにやっているはずがありません。
 齋藤孝が紹介しているように,私も論述問題を出題した後,評価の基準を授業で話し合いで決めさせ,事例として配布した数人の解答と自分の解答の採点をさせたことがあります(例:「中世の日本は一つの国家といえたのだろうか」)。「国とは何かをどう定義したか」「中世の社会の特徴を適切に述べられたか」「定義と特徴を関連づけて説明しているか」など,客観的な評価項目が完成し,「力を補充し伸ばすことにも結びつく」復習も実現できました。
 「テストは復習が大事」は学力向上の絶対法則ですが,「復習しろ」というだけでは始まらないので,別解の検討や学習の深化が図れるように,採点後に配布する解答・解説集に補充問題等をのせることも効果的です。

参考 齋藤孝「教育力」(岩波新書) 93頁,100頁より
「テストは,その生徒の能力をはかったり,個人差をつけて選別したりするための必要悪である―などというちっぽけな考えを持って試験問題をつくってはいけない。その試験問題を通してその教科のすごみを伝えてやろう,というぐらいでないといけないのだ。」
「子どもには教壇に立たせるだけでなく,採点をやらせることも大事である。採点者になる。あるいは問題作成者になる。これが,ある意味では教育の中でもっとも効果的なやり方なのだ。」

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齋藤孝「教育力」から教師の「逆コンピテンシー」を読むーその11 クリエイティブな関係

 関係の力を信じ,伸ばすことにこだわりを持っているか
 (逆コンピテンシーその11 能力にこだわり伸ばすことにはこだわらない・・・「対人変革力」「成果追求力」などに課題)
 失敗例では,「18:長所が引き出せない」「53:普通の子どもといってしまう。」に関連があります。
 教師個人の能力の優劣というより,固定化しているスタイルの問題といった方が適切かもしれませんが,授業のあり方というのは,本当にさまざまなタイプがあります。
 私が考案した授業の分析方法のひとつに,生徒が行っている活動を,「興味をもつ」「読む・聞く」「考える」「まとめる」「調べる」「書く・描く」「理解する」「つくる」「話し合う」「発表する」「振り返る」「生かす」という12の項目から評価し,それぞれにどのような成果が見られたかを判断するというものがあります。(指導要領では4つの観点ですが,生徒が自ら自己評価できるような簡易な項目に分けてあります。なお,総合的な学習の時間では,これらの活動を,学習テーマの特性に応じて自ら構成していくことを目標としました。)
 学級崩壊状態は別として,最もレベルの低い授業というのは,生徒が「読む・聞く」「書く・描く」だけで50分が終わってしまうものです。よく教師が「わかりやすいまとめ」を板書して,生徒がノートにそれを写すことがありますが,「理解する」成果を残せない生徒の多くは,ただ「写している(書く・描く)」だけで,自ら「考え」て「まとめる」わけではないために,学習に主体性が乏しく,力がつかないままになります。
 齋藤孝は「話し合い」などを重視していますが,教師はさまざまな方法を試して,「あの子はもともと学力が低いから,私の話にはついてこれない」と投げてしまうのをやめるべきです。
 
参考 齋藤孝「教育力」(岩波新書) 72,73頁より
「たとえば,二人一組になってずっと話していたり,ディスカッションしたり,お互いにチェックし合ったりしている中で伸びていく力がある。これで両方が伸びていく場合は,その二人にそれぞれ個別に才能があったという言い方もできるけれども,そういう関係性がクリエイティブであったと言うほうが当たっているだろう。」
「関係をクリエイティブにできるかどうか,というところに教師の力量が問われるのである。才能のある個人は伸びていく,才能のない人は伸びない―これだと教師の力量はそれほど大きな意味をもたない。才能のある人というのは,教えられなくても伸びていく人だ。」

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齋藤孝「教育力」から教師の「逆コンピテンシー」を読むーその10 研究者的な態度

生徒が教師に求める「ぎりぎりのところ」とは?
 (逆コンピテンシーその10 新しいことにチャレンジしない・・・「戦略遂行力」「情報追求力」などに課題)
 失敗例では,「27:内容で勝負できない。」「28:実態からの出発ができない。」に関連があります。
 私が「研究者的な先生」と聞いてまず連想するのは,「他人と同じことをしない,オリジナルを追求する教師」です。しかし,一般的な現場では,「いい評判の実践をまず真似してみよう」と言って,百ます計算や朝の読書など,同じことをやろうとします。成功例ももちろん多く,そういう本の出版に情熱を傾けている教師もいます。
 気をつけなければいけないことは,子どもというのは,物まねやパクリはすぐに見破り,教師への尊敬や信頼,期待を失うことがあるということです。ある料理のかくし味に塩を入れるのが最適だからといって,別の料理にも塩が使えるとは限らないように,物まねには限界があります。
 せめて教師には,「あの子どもたちにはあの指導が効果的であった。私の受け持つ子どもはこうだからこういう味つけもしてみよう」など,プラスアルファをする意欲がほしいものです。 

参考 齋藤孝「教育力」(岩波新書) 67頁,69頁より
「単に唯々諾々と聞く姿勢ではなくて,一つのことをいろいろな面から見ることができる力,この視点移動力を子どもたちに身につけさせたい。そのためには教師自身に,そのように問題を掘り返して,新たな角度から見る習慣がほしい。それが研究者的な態度ということになる。」
「教師の研究者的視点が生きている授業では,生徒たちはいま,この先生が工夫して,新しい解釈で臨もうとしていることがわかる。そういう試みは研究授業で発表されることが多い。その場合,ほかの学校の先生も大勢見に来るから,先生自身も緊張している。学会の発表のようなものだ。そうなると生徒もほうも「ああ,この先生はぎりぎりのところでやっているな」と思うものだから,一所懸命に協力しようとする。すると協力しようとしているうちに,理解が深まる。」

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齋藤孝「教育力」から教師の「逆コンピテンシー」を読むーその9 段取り力

 教師に必要な科学的精神
 (逆コンピテンシーその9 失敗する勇気と機会が少ない・・・「自己変革力」「論理追求力」などに課題)
 失敗例では,「9:頭を使えと指図してしまう。」などに関連があります。自信をもって堂々と失敗している人を見ると,失敗を指摘されないで年数だけたってしまった気の毒さを実感します。
 段取り力の最大の発揮場所は,1時間1時間の授業です。研究授業という場では,授業者は必ず「指導案」というものをつくり,参観者はこれを参考にしながら授業を分析し,意見交換を行います。この「指導案」を見ると,段取り力(戦略立案力にも近い)が如実にわかります。
 研究授業は本来,授業を科学的に分析し,多くの失敗を洗い出して,互いの教訓とするものです。私の経験では,小学校ではわりと鋭い意見が飛び交って,協議そのものに意味がありますが,中学校の校内研究では教科の専門家に対して苦言や疑問を呈するのは失礼と考えてしまうのか,授業者へのご機嫌とりか生徒の低学力への嘆きの共感で終わってしまいがちです。ですから教科別に行われる研究会が大事なのですが,全中学校教員の中で,たとえば10名以上の参観者がいる研究授業を年に1回必ず実行している人は何人いるでしょうか。そういう研究授業を参観している人は何人でしょうか。初任者研修の他に10年経験者研修が始まり,法律の縛りによって絶対に行わなければいけない教員を除いて,1年に1回も研究授業をやらない人は何%くらいいるでしょうか。
 よく初任者のころ,授業はたくさん見てもらって,若いうちにたくさん恥をかいておけと言われました。暗黙のうちに,ベテランになったら恥はかけないぞという常識を知らされたわけですが,ベテランこそわかりやすい失敗をたくさん犯しているもので,そういう意味で,「師範授業」はたいへん役に立つのです。
 「教育力」では,エジソンの電球のフィラメント研究で,多くの失敗を「それが駄目だということがわかった,という意味で成功であると考える」意味についてふれています。
 生活指導関係の著書が多い(と私が勝手に思っているだけかもしれませんが)家本芳郎の「挑戦!教育実践練習問題」(ひまわり社)は,齋藤孝の段取り力の問題集として,笑える本です。
 「教室の窓の開け方」「授業中寝ている子の起こし方」など,堂々と多くの失敗例を紹介しています。


参考 齋藤孝「教育力」(岩波新書) 63頁より
「まずい料理の理由はいろいろあるに違いない。あまりいろいろありすぎて,直しようがないとする。その場合,『まず,こことここは言うとおりにしてごらん。その上で,塩加減だけはおまえに任せるよ』と言って,それでまずかったら,それはおまえの塩加減が悪いんだということになる。それと同じことだ。まずこういう進歩のある科学的,合理的なものの考え方というものを,学ばせなければいけないのである。」

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齋藤孝「教育力」から教師の「逆コンピテンシー」を読むーその8 真似る力

 教育力のある教師は教師も育てる
 逆コンピテンシーその8 ・・・「成果統合力」などに課題)
 失敗例では,「19:活かすよろこびを与えていない」「38:優れた実践を眠らせてしまう」に関連があります。
 人事考課により,教員の昇給に差がつけられるようになっています。昇給がぐっと早まったり昇給停止になる人は,ごくごくわずかですが,いい先生のやる気を引き出すため,だめな先生に気合いを入れるために必要だと管理する側の人はいいます。東京都の場合は,自己申告による能力開発とセットになっているので,評価が一方的に決められるものでなく,年間最低3回は評価する管理職と面接して意見交換や指導が行われます。
 私が提起している教師のコンピテンシーモデルは,そもそもそのような人事考課をスムーズに進めるためのもので,トラブル防止の想定がたくさんあります。
 たとえば,成果主義的な評価の導入に反対する人に多い意見として,「教員間の仲がギクシャクする」というものがあります。この人はすでに「戦略立案力」「戦略創造力」に課題があるのすが,「ではギクシャクしない方法を考えてください」と言ってしまうと喧嘩になるかもしれないので,「成果統合力」を特に重視する職務目標を考えてもらうのです。
 ごくまれに力のある教師同士が仲が悪く,つまり「対人関係力」が低レベルで,自分の優れた指導力を新任の先生や異動してきた先生に伝えられない人がいます。この場合はちょっと話が複雑になりますが,要はすべてのコンピテンシーで100%完璧な人というのは,まずいないのです。
 いたとしたら,だれもが認めるわけですから,その人の昇給が早まったとしても文句はでないでしょう。
 「成果統合力」は,チームでの成果を志向するわけで,それは学年でも分掌でもプロジェクトチームでも,成果は関係した教師が共有できます。
 コンピテンシーモデルのいいところは,成果のアップの連鎖が想定できることで,学校改革が加速化するきっかけになるところです。
 人事考課は,現場の管理職の立場で言うと,「いい先生」と「だめな先生」に分けるための制度ではなく,力のある先生に課題のある先生の力をアップさせる「対人指導力」「対人変革力」「成果統合力」「効率調整(組織効率極大化)力」を強く要求するところに力点をおくべきなのです。
 能力に課題があることを自覚している教師には,「真似る力」と上達の技化が求められるわけです。

参考 齋藤孝「教育力」(岩波新書) 49頁より
「上達ということで言うと,ある事柄がうまくなるときに,それだけがうまくなって終わりの人と,そのことを通じて上達力とでもいうべき応用の効く力が身につく人とがいる。」
「勉強や部活動を通して上達の普遍的な原則を相手に伝えるのだという意識を常に持っている人が,教育力のある人だと私は思う。」

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齋藤孝「教育力」から教師の「逆コンピテンシー」を読むーその7 学習の意味

 勉強が知的向上心を磨く砥石になっているか
 (逆コンピテンシーその7 何のための学習かを語れない・・・「成果追求力」などに課題)
 失敗例では,「14:具体的な目標を描けていない。」に関連があります。
 齋藤孝は著書「声に出して読みたい日本語」の頃から,教養主義的な立場の学者だと思っていましたが,やはり「内容重視」より「学び方重視」にしてしまった現行の学習指導要領に関しては,批判的な立場をとっているようです。
 教師の失敗例として「テストに出るから覚えなさい」式の指導はあまりにもレベルが低いために紹介しなかったと思いますが,子どもが喜んだり集中したりするため,ついついやってしまうことです。塾はそれで食べているのでしょうが,最近は塾や予備校の授業が学校には求められている・・・なんて話になっています。
 小数や分数ができない中学生を問題にするのか,1200字で1つのテーマについてまとまった文章が書けない中学生を問題にするのか,教育に関する議論というのは,どのレベルの話をしているのかがよくわからないものがあります。「書き手の価値判断も含み,個人的な経験というものもどこか行間からにじみ出るような形で,しかも知識の豊富さも示すような形で文章が書き上げられる,そういう能力がいま求められている。」(「教育力」31~32頁)という話は,相当高いレベルの話ですね。
 目標というものをどう設定するか,それがまず指導する上では重要です。
 目標を生徒にしっかり示すことができれば,いまなぜこれを覚えなければいけないのかも説明することができます。
 なお,優秀な教師は,豊かな教材を武器にして子どもに力をつけるので,「教材が知的好奇心を磨く砥石」の役割を果たすことになります。教師の役割は研ぐときの水でしょうか。

参考 齋藤孝「教育力」(岩波新書) 31頁より
「個々の知識を陸続きにするような説明の仕方が教師には求められる。教師というのは,当の知識を記憶する必要性を説得力をもって語れないといけないのだ。それは大きく言えば,「文脈力」ということになろう。」
 36頁より
「私たちの社会にとって,この知識は必要だ」と考えて,カリキュラムを組んでいるのだ。そのカリキュラムをきちんとこなすプロセスを通じて,知識とともに向上心を技化していく。これが教育の主たる役割である。」

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齋藤孝「教育力」から教師の「逆コンピテンシー」を読むーその6 教育の成果

 教育は太陽か,惑星か,それとも衛星か。
 (逆コンピテンシーその6 目先の成果を求めたがる・・・「成果」の分野などに課題)
 失敗例では,「24:目先の利益を優先するものに勝てない」に関連があります。
 現在のいわゆる「ゆとり教育世代」=「低学力世代」という公式は,文科省をはじめ,各自治体,マスコミでもすでに「定理」になってしまっているのでしょうか。
 平成10年版教育課程の目玉であった「総合的な学習の時間」の内容を知らない一般の方々も,大臣の「君たちは失敗作だ発言」を信じ,「百ます計算」のような単純な能力向上策に惚れてしまいました。
 総合の時間の創出や週5日制対応のための教科の学習時間の削減は,たしかに学習内容量のカットを意味していましたが,消化不良をなくすことにねらいがありました。「ゆとり」を目指したわけでなく,「習得率アップ」を目指したわけで,評価も相対評価でなく絶対評価に移行したことからわかるように,「すべての子に力をつける」ことがねらいでした。
 私は学習内容3割減を,「1万円のフルコースをやめて7000円のハーフコースにし,しっかり味わい十分に消化し,栄養にすること」と解釈しています。よくできる生徒の「発展的な学習」もより見やすくなり,習得が不十分な生徒の「補充学習」も力を入れられてきています。
 この指導要領は中学校では平成14年度に完全実施になりましたが,もうこれが失敗だと言いきれるのでしょうか。現行の教育課程に対する批判は,特に総合の時間に力を入れてきた教師たちには大きなダメージになります。しかしもともと自信もなく実践していたのであれば,見直すことは必要ですが。
 総合ではなく教科指導における斎藤喜博の言葉を紹介している部分があります。

参考 齋藤孝「教育力」(岩波新書) 28頁より
「成果が目に見えず,感謝されないことも当然ある。『教育という仕事ははかない』と斎藤喜博はよく言っていた。・・・中略・・・教育では,いわゆるリターン(報い)というものが,必ずしもはっきりしない。だから,『何をやったから,どのくらい見返りがある。じゃあ,このぐらい見返りがあるんだったらやります。見返りがないのだったら,やりませんよ』という,そういうギブ・アンド・テイク的な人間関係しか結べない人には向いていない仕事だといえるだろう。」
「太陽は,見返りを求めない。ひたすらエネルギーを放射し,地上の生命を生かしている。教師は太陽のようでありたい。」

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齋藤孝「教育力」から教師の「逆コンピテンシー」を読むーその5 余裕

 未熟な教師がベテランに勝てる理由
 (逆コンピテンシーその5 余裕がない・・・「自己展開力」「効率追求力」などに課題)
 失敗例では,「33:自分の余裕のなさを子どもに伝えてしまう。」に関連があります。
 齋藤孝の想定する教師はけっこう水準が高い(大学の教員レベル?)ためか,読んでいるとベテラン教師も油断できない箇所が見つかります。
 「教育において『新鮮さ』は決定的な重要性を持っている。」というのは,たいへん強気な表現ですね。「安定感」も否定はしていませんが,「新鮮さ」が「決定的」とまで書かれると,たしかにテレビ業界ではそうだろうなとか,いろいろ頭に思い浮かぶものはあります。私の想定する逆コンピテンシーである「余裕のなさ」は,齋藤孝によると「新鮮さ」に読み替えることができます。
 テレビなら飽きたらチャンネルを変えることができますが,生徒が授業をエスケープしたら連れ戻されることになる。そう考えると,「授業に40人を拘束できる教師の権利」というのは,強力なものです。
 保険会社の比較研究をしているサイトで,「信頼できる営業担当者の条件」として,「余裕やゆとりが感じられる人」と書かれており,なるほどと思ったことがありました。私が出会った営業の方の話は様々な点で新鮮でした。
 「新鮮さ」は,やはり未熟さよりゆとりから生じるものがベストでしょう。テレビの露出頻度が高いみのさんやさんまさん,タモリさんには「ゆとり」がありますよね。
 「ゆとり教育」は,そんなコンピテンシーを子どもに持たせるような教育を目指すべきなのでしょうか。

参考 齋藤孝「教育力」(岩波新書) 4頁より
 いわゆる「教師臭さ」は,学ぶ側の構えを鈍くさせてしまう。型どおりの教え方が染みついてしまっている,という印象を与えてしまうだけで大きなマイナスになるのだ。「決まり切った感じ」を印象として与えないようにすることが大切である。

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齋藤孝「教育力」から教師の「逆コンピテンシー」を読むーその4 発問力・多問多答へ

 教師の自問自答型から教師と生徒の多問多答型へ
 (逆コンピテンシーその4 「北風発問」・・・「戦略遂行力」「論理追求力」などに課題)
 発問力については,数多くの失敗と関連がありますが, 「42:「独り言」で子どもの思考放棄をさそう」でくわしくふれています。
 齋藤孝「教育力」では,「教育の祝祭的瞬間」として,生徒が自由な発想ですばらしい答えを生み出した例を述べていますが,私のコンピテンシーモデルでは,「太陽発問」として紹介しました。太陽発問は生徒がコートという殻を脱ぎ捨て,自分の思いや考えをオープンにしてくれるような問いで,逆に「北風発問」は,生徒の殻をきつく閉じさせてしまう問いです。
 自問自答(自分で答えを言ってしまう)レベルから多問(多ヒント,北風)一答レベル,一問一答(けっこう子ども受けするので授業のペースをつかむために使う場合がある)で満足するレベル,一問多答レベルを経て,多問多答型へと進化しなければならないということです。
 齋藤孝の他の著書に,「質問力」がありますが,これは教師向けというより社会人,インタビュアー向けです。ぜひ次は「発問力」という本を書いてほしいですね。(もうそれに類する本が出ているかもしれませんが)
 
参考 齋藤孝「教育力」(岩波新書) 19頁より
「教師の実力が問われる勝負どころは,発問力である。問いがぼんやりとした凡庸なものであるならば,生徒たちは深く考えることができない。問いを発するという行為は,実に教育者らしい行為なのである。」

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齋藤孝「教育力」から教師の「逆コンピテンシー」を読むーその3 「場」の空気

 『弓名人』のように弓を使わずに鳥を落せるか
 (逆コンピテンシーその3 友情の関係性を実現する場を提供できない・・・「対人変革力」に課題)
 失敗例のうち, 「4:葉にとらわれて根を育てない」「18:長所が引き出せない」「26:予言の自己成就の悪用」などと関連があります。
 子どもたちを学びに燃えさせるコンピテンシーをすべての教師に求めるのは酷かもしれません(齋藤孝の要求水準は,歴史上の実力者がモデルになっているだけに,相当に高い)。
 私が考えるコンピテンシーモデルの3つの次元のうち,「創造力」については,逆コンピテンシーの想定が難しいものもありますが,「自己」と「対人」という2つの基本的な分野については,理想を追求する姿勢がほしいものです。
 「緊張感のある関係の場」を作る例として,こんな事例がありました。
 ある行事の委員になった下級生が遊んでいるのを担当の先生が見つけ,「そんなに責任感がないのなら担当からはずす」と強い指導をします。しかし,自分がやりたくて臨んでいる行事の委員なので,やめさせられたくありません。生徒は「続けさせてください」と謝罪に来ます。しかしすぐには許しません。「反省文を書いた後,委員長・副委員長といっしょにまた来なさい。」と言って,いったん帰します。その後,先に委員長と副委員長を呼び,「自分たちが責任を持ちますから続けさせてやってください」と下級生をかばうように指導します。
 この指導の結果,教師と下級生の間には一時的に溝が生じますが,上級生と下級生の間には緊張関係,信頼関係が生まれます。もし下級生が問題を繰り返すようなら,その対応は上級生と担当の先生が悩みながら考えていくことになります。なお,この指導は行事の準備の初期に行うのが効果的です。
 こういう指導があると,その後,準備のときにふらっと見に行ったときの「空気」を感じるのが楽しみになります。そして,行事の後には,下級生だけでなく上級生に対しても「褒める」言葉のバリエーションが増えます。
 孫子の兵法を活用したような指導ですが,生活指導で「緊張のある場」をおわかりいただくための例として紹介しました。なお,齋藤孝「教育力」では,この「場」を学習指導のケースで説明しています。
 
参考 齋藤孝「教育力」(岩波新書) 16頁より
「切磋琢磨という言葉どおり,お互いに磨き合う関係性を作り上げることが教育者の最も重要な仕事である。教えているだけでは本当の実力はつかない。・・・(中略)・・・肝心なのは,そうした緊張感のある関係の場を整えるということだ。」 
 18頁より
「この『場』の空気は,教師自身の人格や教養,身体から発せられるエネルギーなどに支えられている。だからこそ,教育は人間が身をもって行う営為なのだ。教師の人格的雰囲気がそのまま『場』の空気になってしまう。」

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齋藤孝「教育力」から教師の「逆コンピテンシー」を読むーその2 生徒との人間関係

 生徒と友情の関係性をもっているか?
 (逆コンピテンシーその2 場に応じた関係性が築けない・・・「対人関係力」「対人指導力」に課題)
 「7:わかったふりが見抜けない」「39:騒がしくない子どもを数に入れない」など,関連のある失敗例はたくさんあります。
 先日のインタビューで,生徒とどのような関係を持とうとしているかというような趣旨の質問には,状況や生徒の個性に応じた関係とお答えした記憶があります。
 たとえが逆にわかりにくいかもしれませんが,学校は総合病院のようなものです。教師は,受付兼,外科医兼,内科医兼,精神科医兼,レントゲン技師兼,小児科医兼・・・さまざまなケースに応じた医師を演じなければなりません。まず,受付の健康チェックが大事です。
 「筆箱がなくなってしまいました」と訴えてきた生徒がいたら,「もしかしたらいつも私をいじめているAさんたちが隠したのかもしれないけど,Aさんたちを疑うともっといじめられるかもしれないし,そもそもAさんたちから私がいじめられていることを先生は知らないし,先生にはどう相談したらいいかわからないけど,筆箱がないと授業で困るし,・・・」と心の中で思っているかもしれないことを想像できる力が必要になります。しかし,心の傷はレントゲンには映らないので,教室にいっしょに探しにいったときの他の生徒たちの反応から読み取るしかありません。
 まずできることは,一生懸命に筆箱を探すことです。警察官のような仕事ですが,ことの成り行きによっては検察官,裁判官,そして弁護人の役割を演じるケースも出てきます。
 いじめの対応の「隠れた初期指導」になっているかもしれないこのケースでは,相談を受けた教師が一連の対応の後,生徒から感謝の言葉を聞いたとき,「友達が困っていたらあなたも力になってあげよう」と一言返せば,友情の関係性を学んでもらったことになります。
 
 齋藤孝「教育力」(岩波新書)の「友情の関係性が教育の目指すところ」(4頁)の趣旨とはちょっと違った話でしたが,ご勘弁ください。

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齋藤孝「教育力」から教師の「逆コンピテンシー」を読むーその1 学び上手の教師

 教え上手である前に,学び上手であるか?
 (逆コンピテンシーその1 学ぶことが下手である・・・「自己変革力」に課題)
 55の失敗例のうち,「1:面子にこだわる」「11:経験にとらわれる」「25:批判に耳を傾けない」「37:評価されることを嫌う」でふれてきた4つに関連があります。これらは対人指導力や対人指導力,対人変革力にも強い影響をもちますから,重大な逆コンピテンシーになります。
 こんなチェック項目はいかがでしょうか。
1 今,燃えている研究内容があるか
2 自己研修の時間が充実しているか
3 ともに学ぶ仲間がいるか
4 学ぶことについて示唆を与えてくれる人がいるか
5 授業はいつも新鮮であるか

参考 齋藤孝「教育力」(岩波新書) 1頁より
「教える者がすでにあこがれの気持ちを失っている場合には,人はついてこない。」
 5~6頁より
「自分自身が本を読まず学んでいないのに,教えたがるとすれば,それは本末転倒だ。学ぶことのプロフェッショナルであるからこそ,教える側に立つことができるのだ。」
「学ぶことが楽しいことだ,と相手に本気で信じさせることが,教師のいわば使命である。自分自身が学ぶことをせずに,ある程度習い覚えた教育内容を消化するだけでは,一番肝心な『共に学び合う関係』が生まれない。」

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齋藤孝「教育力」から教師の「逆コンピテンシー」を読むー序

 齋藤孝の「教育力」(岩波新書)を読みました。これまでの著書の焼き直しかな?という不安もありましたが,「教育失敗学」の立場から言うと,齋藤孝が言う「優れた教師の力」の裏返しをまとめると,教師の「逆コンピテンシー」集になるので,なぜそういう失敗がおこるか,それを防ぐにはどうしたらいいかという研究の参考になります。
 齋藤孝が重視している教師の資質は,「学ぶ力」です。たとえばこの「逆コンピテンシー」は,能力では「学ぶ力がない」こと,資質では「学ぼうとしない」ことが挙げられます。
 今後,具体例をもとに,「教育力」をテキストにしながらまとめていきたいと思います。
 

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