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カテゴリー「歴史学習」の278件の記事

人よりも言葉を愛する人にしないために

 心を育てる教育というのは,重要なのだが,「教える」のは難しい。
 
 うまい具合に「育ってくる」ことを望みたいところである。

 「私は,忘れられた人たちのことを忘れない」

 とてもいい言葉である。今,放映中の池上彰さんの番組で紹介されている。

 だれが語った言葉だろう。

 「忘れられた人々」とは,

 鉄鋼業や自動車産業の不振で工業が「錆びついた地域」=ラストベルトの労働者のことである。

 この言葉によって,「忘れられた」と表現した人々から指示を集めることができたのが新大統領である。

 人は,当然のことだが,人から大切に扱われることを望んでいる。

 たった一つの言葉でも,感動したり満足したりできるのが人間だから,

 人を大切にしていることを示したければ,そういう「言葉」を使うようにする,というのが一つの方法である。

 グローバル化が進む社会では,やはりこういう「言葉」が使えるようになることは大切である。

 ただ・・・。

 日本には,「軽々しい言葉」を「軽率」に語ることを慎む文化がある。

 目の前にいない人への優しい言葉を語ることより,

 目の前にいる人に対する優しい行動をとれることを重視したい。

 教員になろうとする人が,教員に向いているかどうかを判断できるのはだれだろう。

 目の前にいない子どものことをどんな言葉で語ろうとも,

 目の前に子どもがいる場で何もできない人を現場においていても意味はない。

 「人よりも言葉を大事にしようとしている」教育をめざしている人はいないだろうか。


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ポジティヴシンキングもほどほどに

 明るい未来像だけを描くようにコントロールされた人々が,いよいよ地獄を見る日が近づいているように思える。

 地獄が目の前に迫っているのに,絶対に自分は地獄に堕ちないですむと信じ切っている人に,危険を察知する能力を与えるのは不可能である。

 遠いところにある危険ばかりを煽り立てて,目の前の危機はなかったことにする神経でも,生きていける国の最後の望みとは何だろう。

 地獄への階段を用意したのは,自分の国以外の人間や異教徒たちだと開き直る姿が目に浮かぶようである。

 歴史の浅い国だからといって軽蔑するわけではないが,楽観的すぎる単純な生き方は,本当に心配になる。

 敵対勢力の攻勢が甘いとき,それは自滅を待てばすむという分析に基づく判断かもしれないと想像してみてもらいたい。

 
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全世界が賞揚すべきある指導者の言葉

 ある指導者が,「人権侵害行為を禁止する」というような趣旨の指示をしていたことが,報道されている。

 別に,「自分自身はどうなのだ」という,だれでもわかっている批判的な言葉を表明する必要はない。

 ただ,その発言自体の素晴らしさ(当たり前さ)を,賞賛することが可能なすべての指導者は,賞賛すべきである。

 今まで世界からほとんど賞賛させることがなかった国が,その対象になることはすばらしい。

 指導者が「藁をもつかむ」状態になる前に,国民の意識が変わることが望まれる。

 怒りの矛先転嫁にも限界がある。


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告示される前から失敗することがわかっている学習指導要領改訂のねらいとは

 学習指導要領の改訂は,およそ10年サイクルで行われる。

 10年は長そうに見える期間だが,改訂のスケジュールを考えると,10年が最短のサイクルである。

 新学習指導要領実施→実施状況の調査→中教審の審議→指導要領作成→教科書作成→教科書検定→教科書採択

 間もなく告示される次の学習指導要領は,中教審ワーキンググループの議論やそのまとめがHPに掲載されており,ほぼその全貌がわかっている。

 「アクティブ・ラーニング」がキーワードになっているが,要は小中学校でがんばってきた授業改革を,制度上は義務教育ではない,高校にも拡大していくことがねらいである。

 一言で表現してしまえば,日本では実質的にほぼ義務教育化している高校の教育改革がねらいだということである。

 歴史などは,私立大学入試の穴埋め問題を見ただけで,本当に意味のない勉強を強いている高校の課題が明白である。

 高校の授業がこんな状態なのは,大学入試に備えるためだ,という言い逃れがあるため,大学入試を変える,というのがセットの条件になった。

 大学入試が変わるのだから,高校の授業も変わらなければならないのだと。

 小学校や中学校レベルの「話し合い活動」をすれば,許してやる。もちろん,力がつくかどうかは知らないけど。

 というストーリーだが,この流れのばからしさは,塾関係者が(受験を控えた中高の教員も)一番良くわかっている。

 そもそも「大学入試を変える」ことなど,そう簡単にはできない。

 問題作成を経験したことがある人など,ごく一部かもしれないが,その分析や対策をしてきた塾関係者はよくわかっていると思われる。

 どんな問題を出すにしろ,できる生徒はできるし,できない生徒はできない,というのが「常識」である。

 そして,「思考力・判断力・表現力」を測るための問題で,採点に客観性や信頼性が担保できるものなどは,学校の定期考査ですら難しいことも「常識」である。

 合否の判定材料になる大学入試などで,答えがいくつもあるような問題を出題することなどはできない。

 採点方法やその結果で大もめにもめるような入試では,入試業務だけで1年が終わってしまう。

 つまり,告示される前から,高校の授業が確実に失敗することがわかっている学習指導要領の恩恵を最も受けるのはどこかと言えば・・・・学習指導要領に縛られずに教えられる塾・予備校などの教育産業である。

 ある教育産業のHPに,各学校に対する生徒や保護者による多面的な評価が掲載されている。

 私の学校の場合は,各項目について高い評価を得ているが,「学習」についての評価が低い。理由は,「受験に役に立たないことをしているから」。

 おっしゃる通りである。ただ,これから告示される学習指導要領の趣旨にぴったりの教育を100年以上続けている。

 中学校も高校も,どことの比較かはわからないが,通塾率が高くなるというデータも紹介されている。

 別に,塾に通う生徒が多いことを「失敗」だと言いたいわけではない。

 最も簡単に予想できることは,高校での「授業崩壊」「学級崩壊」が増加することである。
  
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もはや「アメリカ」は「アメリカ」ではない

 もはや現在のアメリカは,昨年までのアメリカではない。

 アメリカ人が一番よくわかっていることだろう。

 アメリカの報道番組は,新大統領の動向に関するニュースで持ちきりのようである。

 政権ヨイショ的な番組ばかりになったとしたら,

 いよいよ「戦時体制」に入ったと考えた方がよいかもしれない。

 これから,1930年代の歴史を学ぶべき機会が増えていくことになると思われる。

 いつの時代のどこの国でも,いい方向を目指していたはずが,いつの間にか全く逆の悪い方向に進んでしまったということがよく起こる。最大の原因は,「利己的な思考に基づく一方的な判断」にあった。

 日本では,「多面的・多角的なものの見方・考え方」を機能させて,自由や人権,平和を守るための教育を進めてきた。

 内政にかかわる問題への口出しはしない,という「お行儀のよい態度」と,

 絶対的な価値であったはずの自由や人権を大切にしない人間への批判ができる態度と,

 どちらが「正しい」のだろうか。

 気づいたときに,右を見ても,左を見ても,同じ国しかなかった,という状態になるまで,あと何年,いや,あと何ヶ月だろう。

 文部科学省など見ていると,実は,日本も同じような状態になってしまっているのだろうか。


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直葬・0葬 VS 永遠葬

 中学生の担任である私が明日もし死亡し,葬儀は行わない,としたらどのようなことになるだろう。
 
 死んでも悲しんでもらえないのはつらい,という話ではない。

 日経電子版で読んだコラムには,今,日本では,通夜も告別式も行わずに遺体を火葬場に直行させ焼却する「直葬」が増えており,それをさらに進め,遺体を焼いた後,遺灰を持ち帰らず捨てる「0葬」を勧める人がいることが紹介されていた。

 宗教教育をしてはならない日本で,葬儀をめぐる議論を教育の場でさせることは難しいかもしれない。

 ただ,「生命の尊さ」「人間の尊厳」などの道徳的価値を理解させるためには,素通りできない話題である。

 「葬儀」の場合には,「儀式」の意義を考えさせることもできる。

 「形式」があるものを,単に「形式的だ」といって批判する人間を増やさないために,

 日本の教育では,「社会的事象」の「意味」や「意義」を考えさせる,という指導上の留意点がある。

 「入学式」や「卒業式」を,一定の流れに沿って,厳粛に行うことの意味と,

 「葬儀」を行うことの意味の共通点と相違点を考えさせる授業を実践すると,子どもたちにどのような思いが芽生えるだろうか。

 物心ついてから初めて親族や関係者の葬儀に参列した子どもはどのような思いをもつだろう。

 私の娘は,いつも可愛がってくれた祖父が亡くなり,火葬になる前に,

 「どうして焼いちゃうの」と泣いていた。

 こういう場を経験できない子どもが増えていくことが,今後予想される。

 日本に限らないかもしれないが,「節目」を大切にし,「区切り」を通過することによって,

 新しい何かを生み出し続けるとともに,永く変わらない何かを創り出すことの意味を,

 教員ですらわかっていないものがいる。

 学習指導要領を読んでいないから,わかっていないのだ,という意味ではない。

 読んでもわからないだろう,と思われる教員がいるのである。

 教員ですらそうなのだから,社会に同じような人々が増えていくのも当然かもしれない。

 できたら私のときは,葬儀を行ってもらい,「区切れ目」としてほしいものである。

 
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学習指導要領に「竹島・尖閣は領土」と明記することの意味

 領土をめぐる対立は,戦争の代表的な原因の一つであった。

 日本は,憲法で「戦争放棄」をうたっているので,戦争は起こらない,と断言できる人はいないはずである。

 中韓を刺激する「異なる歴史意識の教育」は,外交的な戦略の一つなのかもしれないが,

 「道徳的」には,そういう国と同じように起こしている「不正」を素知らぬ顔で行い続け,

 国家公務員法に背いていることを誤魔化す想定問答までつくっていた文部科学省が発表するというのは,
 
 本当に笑えない話である。

 学習指導要領に日本の領土を明記することに,どのような意味があるのか。

 報道されている記事にあるように,今でも学習指導要領解説には示されており,

 教科書にもすでに記載されている。

 しかし,学習指導要領解説には法的拘束力がなく,教科書は「主たる教材」に過ぎない。

 法的拘束力のある学習指導要領に明記することで,

 「学習指導要領に反する領土教育をした教師」を処罰することができるようになる。

 これが最大の狙いである。

 「アクティブ・ラーニング」バブルのおかげで,共産主義的な考え方の教師が,資本主義社会を否定したくなる人間を育てるための教育を行いやすくなっている。

 自由主義,資本主義が「悪」である,という共通認識の広がりは,できたら避けていきたい。

 トップが遊びのために組合費を使うような教職員組合の組織率の低下は今後も続いていくと思われるが,だからといって,「公務員の特権」が世の中で一番大事だ,という認識をもつ人間が増えないとは限らない。

 省の「天下り先」の確保と拡大,利権拡大という組織のための政策をやっていることが見え見えでも,

 失ってはいけないものがある。

 一人一人の教員の良心である。

 「お前たちは将来,低賃金労働者になるんだから,深い学びなどする必要はない」と主張するような大学のセンセイの方を向く教師たちを増やさないことも大切だ。


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長子・中間子・末っ子,一人っ子の特質

 トップアスリートに末っ子が多いというのは,どこかで聞いたことがある。

 一人っ子が増え,兄弟姉妹がいても一人だけ(つまり子どもが二人)という家族ばかりになっていくと,「末っ子」という分類自体がなくなっていくと思われるが,

 次のような兄弟姉妹の「価値観」などの分析?が紹介されている記事(週刊朝日)を読んだ。

>長子は,やるべきことをやる

>末子は,やれそうなことをやる

>中間子は,みんながやらないことをやる

>一人っ子は,やりたいことだけやる

 なるほど,と思えるのは,だからこそ,・・・と思い当たる事例が多いからだろう。

 歴代首相の約半数が中間子だというのも,なるほどと思える。

 「注意される・叱られる」とき,どうなるか。

>長子は,「自分が悪かった」と反省する

>末子は,「自分のせいじゃない」と開き直る

>中間子は,「なんで自分だけ」といじける

>一人っ子は,「……!」とパニックになる

 教育現場での事例を集めると,同じような分析結果が出てくるかもしれない。

 人間関係をうまく機能させるための一言は・・・

>長子には「頼りにしてます」

>中間子には「あなたしかいない」

>一人っ子には「やり方は任せるよ」

>末子には「これが終われば○○だよ」。

 学校にも,放っておかれる方が大好きなのと,放っておかれると怒り出す子がいる。

 自分はどうでもいいが,先生が人によって扱いを変えることが嫌いな子もいる。

 いずれにせよ,教育というのは「面倒臭い」ものだからこそ,面白いとも思えるし,

 かかわりたくない,とも思えるものである。

 かかわりたくない,と思ってしまうのは,どういう人だろう。

 末っ子や一人っ子で先生になっている人がいたら,会ってみたい。

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妖怪がいなくても問題ないセンター試験問題

 次の文から,正しいものを2つ選びなさい。

a 家庭電化製品が普及していく時期には,スーパーマーケットが各地に広がり,消費や生活の変化が進んだ。

b 電化製品が普及しはじめた頃,日本の国内産業は空洞化に悩まされていた。

c バブル経済の時期には,株価が高騰した。

d 企業が減量経営につとめた高度成長期には,ロボットの技術の導入が進められた。

 bとdの誤りにすぐに気づくから,簡単な問題である。

 上記の内容だけで,3点がとれる。

 妖怪漫画が使われていることには,何の意味もない。

 今年の日本史Aの問題が,ニュースで取り上げられた理由は,「妖怪」が登場したからである。

 こういうのは,ただの紙の無駄といってよい。

 ニュースでは,「妖怪なんていなくても解けてしまう」ことを取り上げるべきだろう。


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政権支持率の決定要因に見る「危機」

 アメリカでの新政権誕生によって,国際政治から目が離せなくなった。

 大人だけでなく子どもも政治に関心を持ってくれるきっかけになり,教育関係者としては悪い気だけがしているわけではない。

 トッド氏が「マルクスが喜んでいる」といった趣旨の発言をしていたが,

 多くの政権が「経済」を動かすこと=「政治」を動かすことという図式で「支持率」を獲得・維持する仕組みになっている。

 アメリカだけの話ではない。

 日本では,「経済」を動かすことを最優先した結果,どのような事態を引き起こしたか,

 まだ「記憶に新しい」と言える範囲の歴史から説明できる。

 「収入は減っても,平和が維持できる方がよい」と国民を説得できる政治家は皆無だろう。

 少数者だが高額所得者でそう願っている国民もどれだけ存在しているだろうか。

 収入減+仕事量増加で苦しい思いをしている国民のうち,

 どれだけの人が「平和」を望んでくれるだろう。

 
 参考:日刊大衆 安倍総理が「師・小泉純一郎」を超える日(2017年01月08日 11時00分)

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より