カテゴリー「歴史学習」の124件の記事

教師にあこがれる子どもが多い国の特徴とは? ふり返り366日【08/8/4】/昭和20年に始まったもの

 教師が子どもにとって、あこがれの職業になる国にはどのような共通点・特徴があるのでしょうか。

 どなたかご存じの方に教えていただきたいものです。

 日本には、「教師なんかにあこがれているようでは、たいした人間ではないな」と認識する教師が少なくないのではないかと思われます。

 私も教師になりたてのころは、いわゆるデモシカ教師からだったでしょうか、「どうして教師なんかになったの?」と聞かれたことがありました。

 幕末のころ、吉田松陰に影響を受けた人間のうち、吉田松陰のような「先生」になろうとしていた人はどのくらいいたのでしょうか。また、吉田松陰のような「人間」になりたいと思った人はどうでしょうか。

 いずれにせよ、人材獲得・人材づくりのためになりふりかまわぬ政策をとる自治体も登場している昨今です。

 私のいた自治体では、「指導力不足」の教師が増えるとともに、「こんな人間を獲得した教育委員会はどうかしている」という見方をする教師も増えているようですが、現場が採用したい人と、教育委員会が採用する人のギャップをどう埋めていくかについては、それにかかわることによって負担が増すのではないかと鋭い嗅覚をきかせている現場が動かないので、なかなか改善は難しそうです。

08/8/4 教職志願者を増やす方法とは?  ある新聞のコラムで、「教職志願者が減ったのは、教師が夏休みに休めなくなったからだ」と書いている人がいてびっくりしました。このコラムは筆者の好きなように書かせている(編集の手が加わっていない)ようで、ときどきとんでもない偏見が飛び出します(通常は自分の実践の正しさの強調)。  たしかに、私が初任者のころは、プール(水泳)指導の担当者を決めるのに四苦八苦していた記憶があり、考えてみるとその理由は、プール(水泳)監督をして責任を持たされるのが嫌というより、単純に学校に来たくない(来ない)教師がいたからだったような気がします。  休みがないとは言っても、毎日8時間ずっと部活動や会議をしているわけではないので、授業の準備や研修がいくらでもでき、かつ、年休を取ろうと思えば実際に取れる期間があるのですが、最近は「夏休みでも休みがない」という宣伝をしたがる教師が多いようです。  「楽をしているわけではない」ということが言いたいのだと思いますが、過密スケジュールで塾の講習と部活動を両立させている生徒と比べると、明らかに学期中よりは楽になっているのはたしかでしょう。  勤務時間中に趣味の歴史小説を読んでいても、社会科の教師なら「研究と修養のため」という理由がついてしまいます。  さて、本題は「教職志願者を増やす方法」です。  昔は、本当に「夏休みが40日も取れるから」という理由で教師になった人がいたのでしょうか?  教師の子どもが教師を目指すことが少なくないようですが、そういう人が、「自分の子どものころ、随分家にいて、一緒に遊んでくれた」という記憶があり、「私の子どものためにそうしたい」と思ったりしているのでしょうか。  一般の公務員よりも給料が高い、そういうことが一定の志願者数を支えているのでしょうか。  そうすると、教師の給与水準をもう少し上げると、志願者が今より増えるのでしょうか。  いずれにせよ、私が考えている「教職志願者数を増やす方法」は、単純なことで、大学時代までに、「教職につきたい」という願望を強く持ってもらうようにすること、これに尽きます。  そして、そのために重要なのは、早ければ児童・生徒の段階から、この仕事への魅力を実感してもらうことです。  それは、教師自身が、日々やりがいを持って仕事にのぞむ授業を楽しそうに行うなど)とか、この仕事をしていてよかった、という気持ちを児童・生徒に伝えるとか、さまざまな方法があります。  教師の場合は、自分の能力の向上、自分の成長だけでなく、子どもの能力が向上し、成長してくれることも「仕事の報酬」になります。  「お金ではない」報酬で心が満たされる職業は他にもたくさんあるのでしょうが、教師の場合はこれが格別で、行政では事務方から教育長になったような人が、教員系の人によくこう言うのです。  「卒業した後も、相手がどんなに偉くなっても、いつまでたっても先生、先生と慕われるのがうらやましい。」  後者の報酬が教師ならではのものであり、子どもに「恩義」「感謝」の気持ちが生まれることで、卒業後も「教え子」と「世話になった先生」という関係が続くことになります。  教えた当時の自分の年齢を超えた「教え子」たちに、当時の教育への暖かい批判を浴びたりするのが年中行事になっている教師も少なくないでしょう。  教職志望の人たちにがあるとすると、「どうしてそんなたいへんな職業につかなければならないんだ」「もっと出世できて高収入が得られる仕事の方がいいんじゃないか」と反対する親の存在でしょうか。  教師になってからも、「組合に入らないといじめられるんじゃないか」とか、「親からいろんな要求をつきつけられてまいってるんじゃないか」「結婚相手を探す暇はあるのか」などと心配をかけます。  そんな親を安心させる方法も、日々やりがいを持って仕事にのぞむことしかありません。  卒業させるごとに増えていく「色紙」や「感謝のことば」などを見て、徐々に安心させていくことができていくのでしょう。  大学の教職課程に欠けていることが何かは多くの方が実感できるのではないでしょうか。  蛇足ながら、都道府県の教員採用試験の倍率をいかに上げるか。  その答えも同じであるとすると、現職の教師の役割も非常に大きいものになっていきます。

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昭和20年(1945年)がスタートのもの
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
○タンパク源として、ヘビ・カエル・ネズミも食用に。
○北村サヨ、山口県で天照皇大神宮教(踊る宗教)を開く。
○JIS規格スタート。
○スイスのローレックス社が、日付が瞬間的に変わる腕クロノメーターを開発。
○プレハブ住宅が登場。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

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家庭が稼停・過低・下底に・・・ ふり返り366日【08/8/3】/昭和20年に禁止されたもの

 社会を覆う大きな「望ましいとは思えない」空気とは何でしょうか。

 「結婚しても必ずしも子どもを持つ必要はない」と考える人が、とても多くなっているようです。

 根拠とセットで調査してほしいものですが、そうではないので理由や背景は憶測でしか語れません。

 子どもがいる家庭は「稼停」。稼ぎが停滞するから?

 子どもがいる家庭は「過低」。過去最低の「暗い未来」しか見えないから?

 子どもがいる家庭は「下底」。教育費がかかり、もともと収入が低ければ、苦しい生活になるのが目に見えているから?

 子どもがいる家庭には、幸せの「過程」が味わえるのに・・・。

08/8/3 「弱さ」が最強の「武器」になる社会  「守り」ではなく「攻め」の精神科医・・・と区別することがあるとしたら、その代表として、中嶋聡(『「心の傷」は言ったもん勝ち』新潮新書の著者)、香山リカ(『うつ病が日本を滅ぼす!?』創出版の著者)の二人が挙げられると思います(たまたまその2冊の本を読んだというだけの理由ですが)。  2冊の書名からも明らかなように、二人が危惧している社会への共通の問題意識があります。  香山リカは、  
今の30代、40代が『われもわれも』とばかりに“心の病気”を訴え始めているように見える。そして、この状態が続くと、どこかで企業のモラルや社員の士気が一挙に崩壊し、それが社会にも深刻な影響を与えるのではないか、と半ば本気に思っているのだ。
   
自尊心が強く自分幻想も大きく、他人からの評価には傷つきやすく、落ち込んだかと思うと時には攻撃的になることもある人たちが、ちょっとした挫折をきっかけとして、少し耐えて乗り越えようとすることもなく、次々と「私、うつ病です」と戦線離脱していくと、会社も役所もそのうち成り立たなくなるのではないか。 (以上、「あとがきにかえて」から抜粋)
   中嶋聡は、  
人一倍努力して、少しでも自分を向上させる。そしてその結果、少しでも世の中の役に立つような仕事をする。そのことの価値を疑う人は、ほとんどいませんでした。しかし現在では、そのような考え方は、ださく、格好悪いことのように受けとめる人が多いようです。
 
被害者の立場の極端化を許しうるような、ある共通の構造があることを指摘しています。そしてそのような構造にもとづいて、訴えさせすれば被害者の主張がそのまま認められ、加害者とされた人が一方的に断罪されてしまう現代社会のありかたを、「被害者帝国主義」と名づけました。  「時代が変わった」と人はよく言います。それは、仕方のないことなのでしょうか。変わってしまった価値観は、すべて受け入れ、適応していかなくてはならないものなのでしょうか。 (以上、「はじめに」から抜粋)
 昔なら「弱い」立場だった人が、これからは、その「弱さ」を武器とすることで「最強」の存在になってしまう。  香山リカが当惑している最近のうつ病患者は、かつては考えることができないほどある意味ではタフで、強い自己愛や万能感をもった人たちだそうです。  企業のジレンマは、「弱い」人を守るためには、競争力の低下は絶対に避けなければならない。しかし、「弱さ」を容認すると、競争力が低下し、「弱い」人を守れなくなる・・・。  ある経営者は、「ゆっくり休みながらやりなさい」と言うと、若者は本当に休んでしまうので、最近はあえて「とにかく辛抱してがんばりなさい」と言うことにしているそうです。  しかし、「しっかりしろ」「がんばれ」はうつ病の人への禁句になっている・・・。  香山リカの場合は、自分は「戦後民主主義教育」と「80年代的サブカルチャー」をよりどころとする人間だと言っています。  「80年代原理主義者」とよばれて批判された経験がある彼女の価値観とは、
自由、平等、反権力が何より重要 オトナよりコドモ 強いものより弱いもの 金儲けより人助け 多数派より少数派 構築より解体 管理より自律 整理より混沌 体系的より散発的
などというもので、「ああ自分にもあてはまる」という人も多いでしょう。  その香山リカの違和感を、どう捉えたらいいのか。    中嶋聡の場合は、「被害者帝国主義」という造語からもわかるように、やや過激です。  「タイミングのよい体罰は容認する」という、「○×式」ではない、あいまいな部分を残すことに重きをおこうとしていることに特徴がありますが、反発される方も多いでしょう。  私が二人に注目したのは、自分も感じている近年の「問題行動」や「家庭の対応」の質の変化の問題を考えるヒントになると考えたからです。  「ギャンブル依存症は病気なんだから!」と非常に強い態度に出る人。こういう保護者への対応はどのようにしたらいいのか。  「~のせい」にする能力が非常に高まっている生徒。なかなか納得させられないで困るケースもありました。  時間をおいて少し考えてみようと思います。

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昭和20年に廃止・中止・禁止されたもの。
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 ○警官の夏の白服は敵機の目標になるということで、夏の盛りでも黒服に。
 ○GHQ,チャンバラ映画を軍国主義的として上映禁止に。
 ○国史、修身、地理の授業を停止。
 ○学校での神道教育を禁止。
 ○弁当を持参できない子どもが続出し、午後の授業は中止に。
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繰り返される世代的特徴? ふり返り366日【08/8/2-2】/昭和20年のブーム

 すべての子どもに同じように成長のチャンスを与えたい・・・・。

 親の立場ではなかなかこういう発想はできないのかもしれません。
 「自分の子どもに不利」という情報には非常に敏感でしょうが。
 あるいは「自分の子どもだけに有利」という情報。

 うまくそのあたりの気持ちをくすぐりながら、子どもを勧誘する教育産業。

 親は、自分が「不利だった」という記憶を深いところで抱いていて、その「借りを返そう」としているのか・・・。

 時代のサイクルのまわり方として、「繰り返される世代的特徴がある」という仮説は検証できるでしょうか。

 今、学校での暴力事件が増えているようですが、ちょうど今の親の世代も同じでしたね。

08/8/2 歴史は繰り返すのか?  岡潔の『春風夏雨』の中の一節です。
ここに一人の非行少年があると思ってほしい。これを治すことがどんなにむずかしくても、治せるかどうかわからなくても、ぜひ治さなければならない。めいめいが勝手なまねをしてよいというのではなく、だれ一人として踏みにじられることのないようにというのが民主主義の本義なのだから。  なるべく親たちと先生たちの手で治してほしい。一人を治してみて、どんなに治しにくいか、実際にわかったら、そして人々がそれを聞き知ったら、それを重ねていくうちに、だんだんいまのように心を軽視しないようになるだろう。
 ・・・童心の時期の家庭的環境に起因する非行少年に対しては、人の持つ最高のものである愛と誠実を以て、長期間にわたって接し続けるほかないのではなかろうか。・・・心の病は肉体の病よりも遙かに治しにくいと昔からいわれており、もし本当に病んでしまっていたら、・・・絶えざる細心の注意と、強靱な意志を以て、長期間にわたって徐々に治してゆくほかなかろうと思われる。また、これは癖であって、癖はもう治ったかと思っていると、またしても出る。そしてその頻度がだんだん減っていって治ってゆくというものなのだから、・・・
 もし教える内容量の多い「詰め込み教育」が子どもの非行や問題行動に強い影響を与えていたとしたら、移行期以後、量が増えるこれからの学習指導要領下では、またこれらの問題が頻発することになるでしょう。  ちょうど、校内暴力がピークだったころの人たちが、学齢期の保護者になっています。  加害者になってしまった親、被害者だった経験がある親、嵐が過ぎるのをじっと耐えていた親、・・・さまざまな立場の親が、今の子どもたちを家庭で守っているわけです。  当時と今では学校環境のどこが最も異なっているかというと、当時は大量採用の教師たちが若手だった。そして今は、教師の高年齢化が進んでいる。当時の若手の先生方は、あと数年で現場を去ろうとしている。  体罰は即、処分につながる可能性が高くなっている。  子どもの数はかなり減少している。  当時はインターネットもなかった。  コンピュータも普及していなかった。  では社会は・・・  環境の変化をどう評価するかは、また何年かたってからでないと難しいかもしれません。  しかし、当時よりも10年先が読みにくくなっていることは確かかもしれない。  犬の寿命が人間の7分の1くらいであることから、変化の激しい社会で使われる言葉に「ドッグイヤー」があります。  梅田望夫が書いていた記事によると、インターネットのサービスの黎明期から現在まで、ドッグイヤーではちょうど100年がたとうとしている、ということでした。  この間に、教育の何がどのように変わったのでしょう。  何をどれだけ残し、何をどれだけ削ったり増やしたりして、どんな新しい課題に取り組めばよいのでしょう。  社会の大きな変化への対応力、がキーワードになっています。

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昭和20年(1945年)のブーム・流行・流行語
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○東京・大塚で鉄兜を鍋に変える町工場が大繁盛。1個11円。
○『日米会話手帖』(誠文堂新光社)が発行され、400万部の大ベストセラーに。
○天然痘・発疹チフスが全国に蔓延。
○来日したアメリカ人女性の真似をして、口紅の化粧がはやる。ネックレス・ブローチ・ブレスレットなども普及。
○東京・日本橋の三越で、座り机(46円)や食卓(180円)が飛ぶように売れる。
★流行語「本土決戦」「一億玉砕」「ピカドン」「一億総懺悔」
    「進駐軍」「ギブ・ミー・チョコレート」「結婚とは何ぞや」
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高等教育における「嘆き」「ぼやき」の世界 ふり返り366日【08/8/2】/第109問

 教育の質の向上には、教育を受ける側、学ぶ側の質の向上が必要だ・・・このような主張が、大学教師などからさかんに発せられます。

 内田樹の場合は、ブログでも、その記事をベースに出版している本でも、この趣旨の内容を繰り返し述べています。

 「専門家が国を滅ぼす」という主張をしていたのはだれでしょうか。

 高校教師にも同じような傾向があることは、ブロガーの記事を読むとよく分かります。

 大学教師や高校教師が偉そうにしていて、学生たちは遊んでばかりいる。

 コミュニケーションが非常に乏しい「死んだ世界」がそこにあります。

 それに対して、義務教育に携わる教師からは、そういう類の発信は少ない。
 
 「学ぼうとする姿勢」がない学生からの「これを学んで何の役に立つの?」という反応にあきれる態度は、あきれる態度をとることで自分の優位を見せつけることになるのは確かなのですが、すぐに出される例としての「気付き」の教訓は、基本的にもともと優れた知力を持っている人が無知に気付くというパターンのもので、それはとてもじゃありませんが義務教育では起こりにくい題材なわけです。

 学びの本質に気付かないから学べないのではなく、学ばないので学びの本質に気付けないのです。

 ですから、学ばないことを放置しないのが学校の役割であって、そのための苦労は想像を絶するものです。

 フィンランドのように「よき納税者を育てる」という打算的なものを全面に出して、「品位のない国」と批判されるのも嫌いな日本は、あくまでも正攻法で「意欲開拓」の研究に邁進しています。ただ残念なのは、そんなことをされなくても意欲が十分ある人が意欲を高める方法を考えていることです。

08/8/2 教員採用の望ましいあり方について  大分県の教員採用汚職事件を受けて、政府の教育再生懇談会(座長、安西祐一郎慶応塾長)がまとめた緊急提言の中に、教員採用・昇任プロセスの透明化を図るため、試験問題の公開を行うなどが盛り込まれたそうです。  また、教育委員会の閉鎖性を解消するため、事務局幹部職員に教員出身者以外からの積極登用などを訴えているようです。  政治的には正しい判断なのかもしれませんが、現実には多くの困難と新しい問題が浮上しそうです。  まず、試験問題についてですが、採用試験の問題分析を行った経験から言うと、全国的に「問題の質が低い」ことは明らかです。古い大学入試問題のパクリのようなものまであります。  場合によっては、「こんな程度の問題で採用を決めているのか」「この程度の問題ができると教職につけてしまうのか」という批判が新たに浮上するおそれがあります。  また、当然採点基準の問題が出てきて、自由に伸び伸び書ける論文ほど採点が難しくなり、結果として、見え見えのことばかりしか問えない問題が増えて、そういう問題しかつくれない教師をどんどんつくりだしていくことになります。  私の考える解決策は、教員免許の有無では資質・能力の適性はほとんどわからないので、司法試験や医師国家試験のようなタイプの資格試験を1次として導入し、各自治体が面接等を中心とした2次試験を行うようにすればよいのではないでしょうか。地方公務員としての身分の問題などがあり、難しいのはわかりますが、各自治体で採用試験をつくるコストというのは日本全体で見れば無駄のような気がしています(外部に委託している自治体もあります)。   次の事務局幹部職員の教員出身者以外からの積極登用もけっこうなのですが、結局は問題をつくったり教育の専門的なことに関する判断をするのは教員系の人間です。  そもそも事務方の採用に教員採用汚職のようなケースがあるかないか、調べないでも予想はつきます。  ペーパーで点をとる能力はなくても、地元を愛する心があればOKなんて理屈は、「わたくしども空間」重視の日本ならありがちなことでしょう。  「緊急提言」というものは所詮この程度のレベルのものです。  教員採用についての意見は、過去にも書いておりましたが、改めてまとめてみようと思います。  子どもの立場で考えると、「裏金でなった先生?ああ、でも、自分の力で受かったかもしれない先生より、100倍授業はわかりやすく、生徒思いでみんな大好きだったのに・・・」なんてコメントが聞かれる恐れがあることは、封印したいのですがどうしても出てきてしまうかもしれません。  不正は不正としてきちんと裁かれるべきことは言うまでもありません。  現場に立つチャンスをたった1年間でも失った人の無念さは痛いほどよくわかります。  しかし、充電期間が増えたことは、きっと後の子どものためになっていくと思います。  教師になりたい人は、素直に応援(ヤジも含む)したいです。

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昭和の家庭史トリビア?【第109問】 
 昭和20年(1945年)の話です。
 この頃、倉敷レーヨン(クラレ)がプレハブ住宅をつくり出しました。これは、どんな技術を生かして誕生したものでしょうか。
 ① 飛行機の翼
 ② 飛行機のプロペラ
 ③ 船のスクリュー

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 【第108問の解答
 ①の70%でした。供出実績は予定量の23%にとどまったようです。

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落ちる子どもを育てる教育 ふり返り366日【08/8/1-2】/第108問

 リーダーには、その組織の性格にももちろん左右されますが、様々なタイプが存在します。

 小学校では「リーダー」役を固定化しない傾向があるようで、そういうところでストレスをためてきたリーダー候補は中学校でとても積極的に活動します。

 理想は「リーダー」選出が民主的に行われること・・・そのためには「必ずリーダーになれないリーダー候補」が複数いることが必要になります。

 教師として大事なのは、「リーダー」をつくることよりも、「リーダー候補で終わるリーダー候補」を育てることです。

 「弱い子ども」は、「選ばれなかったときのショックが大きいと予想」して、「立候補しない」ことを選択してしまうおそれがあります。また、実際に「選ばれなかった」ことで、大きなショックを受けることもあります。

 これがバネになる子どもと、「根絶やし」になる子どももいます。

 もう一つ、教師としての重要な役割は、より望ましいリーダーを選出できる子どもの育成です。

 これも難しいのですが、だいたいその成果で、「道徳」の教育力は測れるのでしょう。

08/8/1 望ましいリーダーの特徴  リーダーシップに関連する著作は非常にたくさんありますが、「望ましいリーダーの特徴」について複数回答による調査をした結果、次のような順(回答率が高い順)になった(長期間の調査で、上位の項目にはあまり変動がない)という事例が紹介されている本(中谷彪著「信頼と合意の教育的リーダーシップ」晃洋書房)がありました。 正直 前向き姿勢 有能であること 人を鼓舞すること 聡明(知的) 公正 寛容 応援してくれる 率直 信頼できる 協力的 決然とした 想像力に富んだ 大望がある 勇気がある 思いやりがある (以下略)  アメリカ合衆国を中心に、6大陸の国々での調査を集計したものだそうですが、国別の特徴別順位を比べてみると、興味深い点が見つかります。  それは、「望ましいリーダーの特徴」として「正直」を選んだ人が、他国と比べて日本はダントツに低いということです。  原典にあたってみないと、その分の回答がどこにまわったかわからないのですが(もしかしたら「思いやり」か?)、アジア諸国と共通して低いものもある一方で、日本は「正直」であることを「望ましいリーダーの特徴」として選ぶ人が少ないことは非常に目立ちます。  逆に考えると、欧米諸国などは「正直でない」「嘘をつく」リーダーが多いこと、日本では基本的に「正直」であることは当たり前のこと、などのことからくる回答結果なのかもしれませんが。  「有能であること」や「前向きな姿勢」はどの地域の国でも回答率が高い。  また、「人を鼓舞する」ことは、アジア地域がアメリカやカナダ、オーストラリアより低い(日本はその中でも最低)。  この後半の傾向については、私の場合は何となく納得してしまいます。  これらの「特徴」(=「長所」)は、何も企業のリーダーに限らず、日本の学校経営者にも、そして教師自身にも止められるべき資質であるとも考えられます。  「人を鼓舞する」「応援する」リーダーや教師は好ましいことは確かですが、問題はそれを行う「タイミング」と「」です。  以前ご紹介した林壮一著「アメリカ下層教育現場」(光文社新書)では、著書が受けたアメリカのユース・メンターリング(「若者への助言・指導」)のプログラムでインストラクターが示した「状況に応じて使い分ける20種類の褒め方」というのが紹介されていました。  こういう言葉がぽんぽん飛び出している教育現場って日本ではあまり想定できません。  しかし、当然、こういう表現があることを学んで、本当に言われて相手がうれしく感じるとき、効果が大きいタイミングというのをねらって言えることは大事なことだと思います。  英語の方がニュアンスが通じやすいと思いますが、訳語で紹介されているので半分くらいを抜粋します。 「素敵だね!」 「素晴らしい考えだ」 「いい仕事をしたね」 「キミがその仕事を出来るって、こちらは分かっているよ」 「トライし続ければ、必ずやり遂げられるさ」 「まさに、その通りだね!」 「キミがどうやって、それをやったのか僕にも見せてくれるかな?」 「それこそが、進む道だね」 「僕はキミを誇りに思うよ」 「完璧だ!」  「立派だ!」    管理職試験や教員採用の面接で、特定の状況を説明した後、何と言ってどのように褒めるかを演じてもらうような選考内容があってもいいかもしれませんね。

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昭和の家庭史トリビア?【第108問】 
 昭和20年(1945年)の話です。
 この年は、米の収穫量が587万tと、大正・昭和期最大の凶作となり、食糧危機が深刻化しました。米の収穫量は前年比ではおよそ何%だったでしょうか。
 ① 70%
 ② 50%
 ③ 30%

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 【第107問の解答
 ③のタケノコ生活でした。

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「自分らしさ」の呪縛 ふり返り366日【08/8/1】/第107問

 「自分らしさ」という言葉が、「わがままな人間に認められる個性」であるという実感をもっている人は少ないでしょう。

 「人からも理解されるその人らしさ」ではなく、「人から理解される必要のない」自分らしさになってしまっている現状を食い止められるのは、学校現場なら教師やクラスメイト、職場なら管理職や同僚、家庭なら親や兄弟、親戚といったところでしょう。

 学校で行われる、「将来、どんな職業に就きたいと思いますか」というアンケート項目の中に、「自分らしさが生かせる仕事」というものを入れると、これを選ぶ子どもが非常に多くなる傾向があります。

 これは、「自分らしさ」が何なのか分かっていない子どもたちにとってみれば、結局「どんな職業に就きたいか分からない」と答えていることと同じです。

 学校や社会では、「協調性」が大事だと思わせられる生活を送りながら、「自分らしさ」を大事にというプレッシャーをかけられている面がありますが、「協調性」は「同調」していれば傍目には障害がない一方、「自分らしさ」は「同調」や「協調」とは全く違う・・・という固定観念が邪魔をしていると考えることもできます。

 そもそも、「~らしさ」という言葉自体が何かの型にはめてしまうような指向性のあるものですから、「自分らしい」という言葉そのものが大きな矛盾を抱えているとも言えます。

 「小学生らしい小学生」
 「中学生らしい中学生」
 「高校生らしい高校生」
 「大学生らしい大学生」
 「社会人らしい社会人」
 「先生らしい先生」

・・・って、それぞれどんな人のことを指すのでしょうか。

08/8/1 個性に共感できる子どもと教師  岡潔の『対話 人間の建設』の一節から、個性への共感について考えてみたいと思います。  
各人一人一人、個性はみな違います。それでいて、いいものには普遍的に共感する。個性はみなちがっているが、他の個性に共感するという普遍的な働きをもっている。それが個人の本質だと思いますが、そういう不思議な事実は厳然としてある。それがほんとうの意味の個人の尊厳と思うのですけれども、個人のものを正しく出そうと思ったら、そっくりそのままでないと、出しようがないと思います。・・・・そういういろいろな個性に共感がもてるというのは、不思議ですが、そうなっていると思います。個性的なものを出してくればくるほど、共感がもちやすいのです。
 子どものことで言えば、「いいものに素直に共感することができる力」には欠けている部分があるのではないか、というのが多くの教師の印象でしょう。  個性に共感する普遍性を育てる(こういう対象は普遍性とは言わない?)ために、さまざまな方策が工夫されても、プロセスの中では多くの葛藤や対立があり、一見すると結果として失敗したように見えることもあります。  しかし、それが成功への第一歩になっていたことに、後から気付くこともある。  また、今の生徒たちは「空気を必死で読む」ために、個性を「正しく出せていない」(そっくりそのままの個性ではなく、飾ったり本質をぼかしたりした表現になってしまう?)ことが、共感を得にくい原因になっているのではないか、という気もします。  クラスによっては、うまくいっているようでも、そっくりそのままでない見せかけの個性を尊重するため、共感を欠いたドライな人間関係が固定化しているところがある。  だから多少の衝突は覚悟の上で、その人の「いいもの」を探したり、自ら「いいもの」を追求していける人になってほしい。人それぞれ、きっとその人にしか出せない「いいもの」があるはずである。人に共感できる人になることが、人から共感される人になることにもつながる。  そのいうメッセージを込めた指導の事例を過去にご紹介いたしました。  教師にも、同僚に対して、管理職に対して、このような姿勢を持つことが求められている、というのが一貫した私の考えです。  一人一人の教師の「いいもの」を共感し合える教師集団の力は、はかりしれない偉大なものになるはずです。  たまたまコンピテンシーディクショナリーを作ってくれた教師がいましたが、これは今でも私の宝物になっています。

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昭和の家庭史トリビア?【第107問】 
 昭和20年(1945年)の話です。
 敗戦後、手持ちの晴れ着・袴・コートなどを田舎や闇市で食料に換える生活が一般的になりました。このため、流行することになった言葉とは?
 ① ハダカ生活
 ② ツクシ生活
 ③ タケノコ生活

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 【第106問の解答
 ①の米(「人造米」)でした。

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小学校に回される管理職 ふり返り366日【08/7/31-2】/第105問

 公立学校の管理職のなり手が足りない・・・・。特に小学校です。

 中学校籍の管理職はまだ余っているので、どんどん小学校に回されてしまっているようです。

 教員や施設の管理のノウハウは全く同じなので、経営を苦もなくできるのは当たり前なのでしょうが、小学校で楽をするとなかなか中学校に戻る気力がなくなってしまうという問題も浮上してきそうです。

 小学校籍の教師というのは、「子どもとわいわい楽しくやっていたいから、たいしてうまみがなく、苦労ばかり増える管理職になる人がいないだろう」という言い方をよくするのですが、この発想自体がおそらく中学校籍の教師とのギャップを端的に物語っているものでしょう。

 中学校籍の教師で、「子どもとわいわい楽しく」やっているような人には、間違いなく管理職になる資質はありません。別の言い方をすると、管理職にでもなってもらわないと現場が迷惑している・・・そういうタイプの教師です。

 小学校籍でも、学級崩壊や保護者対応で本当に苦労している人もいるでしょうが、逃げ道が管理職になることであるはずもありません。

 小学校が崩れるのは、組織の問題というより、個々の教師の資質・能力の問題が原因です。ですから組織のリーダーになっても、根本的な問題は解決できません。優秀な教師を獲得できるかどうかが勝負です。副校長・教頭が「代理」で授業をするケースは全国でどのくらいあるのでしょう。

 中学校が崩れるのは、個々の教師の資質・能力の問題ももちろんありますが、組織力でカバーできるのが小学校との違いです。だから組織をコントロールするというやりがいがあるのです。

 小学校全科という仕組みを変えることが、教育の質的向上の第一歩になるかもしれません。
 ある教科の研究に熱心になって、他がおろそかになるという話は有名校でも聞かれる話です。

08/7/31 学校経営者としての5つの悩み  雑誌プレジデントの記事から、経営者が抱いている5つの悩みを学校の教育管理職にあてはめてみると、どういうことが言えるか、考えてみました。 悩み1:管理職としての能力に対する不安  「学校経営についての自分の判断は正しいのだろうか」  「学校経営について自信を失い、校内でも孤独感を募らせているが、その悩みを相談できる人がいない」 悩み2:組織運営に対する不安  「自分の(教育長の)経営理念が校内の教師たちに伝わらない」  「教師たちが主体的に動かない」 悩み3:教育の成果に関する不安  「指導に工夫を加えていっても、なかなか成果があがらない」 悩み4:人材育成に関する悩み  「主任級の人材がいない、育たない」  「異動では優秀な人材が流出し、課題がある教師が入ってくるおそれがある」 悩み5:自分自身の存在意義に対する不安  「この学校の教師たちにとって自分とは何か」  「自分はこの学校のために何ができているのか」

 問題解決は、「問い」からスタートするので、何の不安も抱いていない管理職というのは怪しいわけですが(しかし、特に校長がまとう鎧はかなり強固なものでしょう)、これらの解決のために、その当事者(管理職)以外の人たちにできることとは何でしょうか。
 雑誌記事では、「心の軍師」と呼ぶべき存在、エグゼクティブ・コーチが必要だと説いています。
 校長にとっての「心の軍師」たり得るのは、教育界ではだれでしょうか。
 行政には「指導室長」「教育課長」という教員系の中間管理職がおり、教育長をトップとする教育委員会と現場の校長のパイプ役となっていますが、この人たちは「心の軍師」にふさわしいエグゼクティブ・コーチングのノウハウをもっているでしょうか。
 これは現場の校長に聞くしかありませんが、次のようなことを校長にできる課長は、よほど胆力と実力のある人でないと難しいかもしれません。
 コーチングのポイントは、まずは校長に「自分のなりたい姿」を明確にイメージさせる。
 次に、自分の現状はどうであるかを徹底的に認知させる。
 そして、どのようにしたらギャップを埋められるのか、対話を通してしつこく追求する。
 校長自身の長所はよく分かっているはずなので、それを最大限に引き出せるように、本人に気付かせ、やる気にさせる
 操作主義の心根は捨てて、校長の成功と成長を心から願い、自分がもっている経験や技量を惜しみなく与える(が、おしつけない)。
 校長の人材育成能力、リーダーシップ、コーチング力も、これと同じことです。

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昭和の家庭史トリビア?【第105問】 
 昭和20年(1945年)の話です。
 12月31日、紅白歌合戦の前身となる番組が放送されます。この番組名とは?
 ① 紅白音楽試合
 ② 紅白音楽対戦
 ③ 紅白音楽の戦い

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 【第104問の解答
 ②の16人に1人でした。

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活気のあふれる学校 ふり返り366日【08/7/31】/第104問

 自治体が「活気のあふれる学校づくり」というのを大きなスローガンに掲げたとき、学校はどのような取り組みを優先的に行っていくことになるのでしょうか。

 小学校はそもそも活気があふれていて当たり前なのかもしれませんが・・・・。

 子どもに活気がない・・・子どもらしくない・・・。そういう小学生も最近は少なくないのでは?

 子どもの「元気」「活気」の源はどこにあるのだろう・・・と思われるほど圧倒されている毎日を送る小学校教師には縁のない心配事かもしれません。

 一方、中学校ではそういう元気な姿が逆に家庭の問題を映す鏡になっている場合も多く、油断ができない姿です。

 では、小中学校に共通の問題はどこにあるかと言えば、別に高齢化が主原因だと言いたいわけではありませんが、教師の「活気」です。

 私の母が中学校を選ぼうとするとき、自分の主張の決め手にしたのは、「教師たちに活気がある学校へ通わせたい」というものでした(父の決め手は進学実績です。私の決め手は、授業料でした)。

 2対1で私と母が勝利して進路が開けたわけですが、単なる「活気」ではなく、学問に対する「気迫」に圧倒されることになりました。

 生活指導の気迫なら、普通の中学校でも決して負けていなかったことでしょう。

 ついでに言えば、「遊ぶ」のも真剣という中学校に入ったことも大きな衝撃でした。

 「学び合い」という言葉をキーワードに教育を考えている方の活動を見てみると、「話し合い」等、直接的な関わりを授業等の活動に求める傾向が強いようですが、言葉をかわし合うことのない「学び」があることを体験できたことは幸せでした。

 「学びの活気」が表面的なものに過ぎない学校から脱皮するには、まず教師の目を肥やすことが必要でしょう。

08/7/31 学校の活気はどこから感じられるか?  「学校の活気」はどのようなところから感じられるか。  廊下での挨拶、休み時間の生徒の行動、放課後の部活動・・・さまざまありますが、職員室における教師たちの姿についてはいかがでしょう。  研修会の講師やPTAの役員さんなど、外部の方が職員室に入ってきたとき、すぐ近くにいるのに(挨拶や要件を聞くために)席を立たない教師がいることに心当たりはないでしょうか。  「挨拶のときは、(相手が立っていたらこちらも)席を立つ」という常識が、学校ではあまり定着していないのではないか。そんな問題提起をしている教育ブログを見かけました。   腰を浮かす動作が全くないために、「あっ、そのままでけっこうです。お仕事中に、失礼いたしました」というコメントを言うきっかけ自体がない。実は私もそういう経験をして、いつも違和感を感じていました。  「いやいや、そんな常識は学校には必要ない。学校は私企業、サービス産業ではないのだから」という意見もあるのでしょうが、来校目的を知っているはずの教師たちが、座ったままでしかも無視?しているのは寂しい気持ちがあります。  「教室ではいつも立っているから、職員室というのは座って休むところ」という考え方の教師もいるかもしれません。  「教師はフットワークのよさが勝負」などという言われ方が認知されているとしたら、まず職員室に外部の人が入ってきたら、近くの教師は立って挨拶をする(知り合いだったら遠くても立つ)、という習慣がほしいものですが、いかがでしょうか。

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昭和の家庭史トリビア?【第104問】 
 昭和20年(1945年)の話です。
 『日米会話手帖』という本が大ベストセラーになりました。日本人の何人に1人が買った計算になる?
 ① 8人に1人 
 ② 16人に1人
 ③ 32人に1人

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 【第103問の解答
 ①の350万人でした。

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公立学校の「排他的教育水域」による不利益 ふり返り366日【08/7/30】/第103問

 狭い道を2~3人が広がって歩き、向かいから人が来ても脇に寄ろうとしない。

 閉まったドアを開けて出て行くグループが、ドアを開けっ放しで去っていく。

 集団で行動するだけで「思いやりを育てることができる」と思っている人はいないでしょうが、集団やグループでの行動がより「他人や他の集団、グループのことを考えない」人間を作りやすくなっていることに気付かない人がいます。

 学校の教師集団も、ほとんどこの仕組みと同じで「排他的教育水域」を保持しています。

 利益を得るのは、教師だけです。

 11月2日号のAERAに、中高一貫校の生活指導の問題点が指摘されていました。

 以前ここでは述べたことですが、中高一貫校の生活指導のベースは高校教育にあります。基本的に「やっとけ」で教師による具体的な指導はあまり想定にありません(特に上位校は)。

 「自主・自立」をスローガンに掲げていること、教師の手がかからないことを学校説明会での売りにしている高校というのは、逆に言えば、「生徒でもっている」ことを露呈しているわけです。

 上位校・中堅校の高校教師のブログを読むと、学力・生活指導の愚痴が両方登場しますが、そこにはほとんど「これこれこういう指導をしているのに効果が上がらない」という話はありません。

 「何でできないのか分からない」ということは、そもそも「どうやって分からせることができるのかを知らない」ということと、「分からない人に分からせようとしても仕方がない、ただ志望の大学に行けないだけだ」という本音がありありと現れています。それがそういう高校教師の「常識」だから仕方がありません。「勉強は各自の能力で各自が取り組むもので(ここまでは常識)、教師はいてもいなくても大差がない」というのが世間の「非常識」であるという自覚はないのです。

 そのことに気付いて私立学校に進学させる道を選びたくなっても、経済的にゆとりがなければ希望は実現できない。

 教師が自分自身の「個人の尊厳」を未来への子どもの「尊厳」に優先させ、世間に背を向けられるシステムは、多額の企業年金にすがりつこうとする企業人と似たところがあります。
 

08/7/30
教育の大前提は覆るか?
 毛利衛が2007年9月4日の日本経済新聞「経済教室」で、科学者の目から経済学を批判する内容の記事(普遍性追求 新たな発想で~「合理的個人」脱却を 地動説的な視点、経済学も~)を書いています。
 
自然科学は、価値観のコペルニクス的な刷新を何度も経験している。経済学の進化が乏しいのは、個人の行動がきまぐれなのに、合理的個人の大前提を墨守しているからのように見える。人類が地球上で相対的な存在であることをかみしめ、経済学も「地動説」的な発想が必要だ。

 以上のような趣旨のことを、教育の世界にあてはまめてみるとどうなるか。
 
 教育の世界の大前提とは何か。
 その中の一つに、広い意味の学力を身に付けることがあることは言うまでもありません。
 そして、その学力の中には、テストで測定することができない「知的好奇心」のようなものが含まれていることも、異論のないことだと思います。
 さらに、子どもたちは、狭い意味でも広い意味でも、その時点での能力の格差はあるにしろ、「勉強はできないよりできる方がよい」という欲求を誰もが持っているもの、という前提がありました。
 これらの大前提が、揺らいだとき、教育はどのような進化をとげる可能性があるのでしょうか。
 これらの大前提が、「天動説」である、という考え方はできないでしょうか。

 そのヒントの一つを、毛利衛が経済学への批判として提供してくれています。

 人類が大きなエネルギーを扱うようになり、空気、水を含む地球資源の限界と人口爆発の下での経済活動に伴う地球環境の破局的な変化を具体的に予測できるほど科学が進んだ現在、従来の経済学を推し進めていく限り、我々の絶滅は早まっていくのみであろう。

 「個人の尊厳」より優先度を高く、重視すべきものはあるのか。あるとしたら何か。
 「持続可能な開発のための教育」実践などから学べることを、考えていきたいと思います。

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昭和の家庭史トリビア?【第103問】 
 昭和20年(1945年)の話です。
 11月1日時点での東京都の人口は?
 ① 350万人
 ② 500万人
 ③ 750万人

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 【第102問の解答
 ②のイギリス。バーチェットさんでした。

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何でもありの学校と何にもなしの地方教育行政 ふり返り366日【08/7/29-2】/第102問

 厳しい学校では、「教育的に」という言葉で「何でもあり」の状況が生まれ、一方の人材のいない自治体では、「教育的」と呼ぶにはほど遠い「何にもなし」の状況が生まれています。

 「何でもあり」も「何にもなし」も、子どもの教育の未来を照らす光のない、暗くつらく苦しいだけの現場を生んでしまいます。

 どこかに「うまくいっている」ことを自慢したがるブログがありますが、教育行政の実態をよく調べてみて下さい。何もわかっていないことは、管理職の職務に関する記述(の内容やそれ自体が皆無であること)でみんなばれてしまいます。

 文科省は昔と比べると随分風通しがよくなったように思えますが、やがて自分から風を起こそうとする勢力が周囲から担ぎ出されることになるでしょう。

 しかし、それを許してしまうのは、今の学校現場と地方教育行政の質に他なりません。

08/7/29 「ピークアウト」しない教師であるために  成果主義への反発は、「評価者への不信」と「守りの気持ち」から生まれると言います。  「評価者への不信」は、よほど管理職が人間として尊敬に値するか、人から好かれるタイプでないと、なかなか払拭するのは難しい。評価プロセスをオープンなものにすることで、信頼性を高める工夫ができますが、「嫌いな人」からの評価にはどうしても拒否反応が出てしまいます。  一方、「守りの気持ち」は、「自らがピークアウトしたと、うすうす感じている場合」に現れるものです(柴田励司著『「仕事力」のある人、ない人』PHP研究所)。  自分の実力に課題があること、その力がピークアウトしていることを、人はなかなか認めにくい。  スポーツ選手の場合には、数字がすべてを物語るわけで、「引退」のタイミングだけの問題ですが、教師の場合は、基本的に毎年給料が上がっていってしまうのに、いつか「もう自分もこの程度どまりだな」と思っていまう時期が来る人がいる。  学習すること、成長することへの意欲を失う人間になりがちなのは、教育現場の特殊な事情も背景にあります。  前掲書には、次のような話が紹介されています。  
ピークアウトは年齢的なものよりも「同じ仕事を同じ環境下で長く続けてしまう」ことで起きます。だから、「学習しなくてもなんとかなってしまう」ところに、長くいてはいけないのです。  ・・・多くの人は慣れてくると、その「楽な環境」をエンジョイしてしまい、気がつかないうちにピークアウト状態になってしまうものです。そこに、新たなリーダーによる新しい方針が出てくると、たちまち「守り」モードに入ってしまいます。悪意なく、組織の進化の足かせになります。
   今は教務主任や生活指導主任などは主幹職がつくようになっているのでだれでもはできませんが、たとえば「学年主任」になったことがないベテラン教師。  行事主任を一度もつとめたことがない教師。  研究大会等で発表をしたことが一度もない教師。  担任をもたない教師。  これらの教師の中にも、リーダーのフォローを中心に重要な役割を果たしている人がいるかもしれませんが、「いつもと違う環境」で仕事をしないと、人は「守り」モードに入りやすい。  そういう意味では「異動」は大切ですが、「異動先」でも同じようなサイクルで生活していては意味がありません。  能力開発型の人事考課は、教師を「ピークアウト状態(学習し成長する意欲を喪失した状態)」におかないためにも大きな意義を果たすことができそうです。  人事考課では評価も意識するのは仕方がないとしても、主眼はあくまでも自分の新たな目標設定であり、その目標の実現に向けての実践であり、成果と課題を見極めてさらに課題を修正したり新たな課題を発見するそのプロセスです。  このプロセスを失わない限り、教師(だけとは限りませんが)に「ピークアウト」は訪れません。    学校現場では、管理職のピークアウトは許されるのでしょうか。  それが許される現場では、学校経営や人事考課がうまくいかないのは目に見えています。

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昭和の家庭史トリビア?【第102問】 
 昭和20年(1945年)の話です。
 9月3日に広島の惨状を取材し、「ノー・モア・ヒロシマ」と打電した記者はどの国の人?
 ① アメリカ
 ② イギリス
 ③ ソ連

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 【第101問の解答
 ①の75人でした。大阪では8月60人、9月67人、10月69人でした。

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