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カテゴリー「歴史学習」の284件の記事

アメリカ・中国・韓国と日本

 現大統領を支持しているアメリカの人々の子どもたちは,大統領の発言をどのように受け止めているのだろうか。

 Aさんは,BさんがCさんたちのことをこう言っていた,と語った。

 こういう話法が原因で,学校現場でも多くのトラブルが発生している。

 Cさんたちは,Bさんに確かめることをせず,あるいは確かめることができず,

 Bさんへの嫌悪を強めていく。

 Bさんは,Aさんへの嫌悪を高める。

 Aさんは,もともとCさんのことを何とも思っていない。

 振り回される周囲の人たち。

 人間は,人を振り回したり,人に振り回されたりするのが好きな生き物かとも思ってしまう。

 さて,舞台は学校ではなく,国際社会である。

 発言の影響は,すぐに出るものと,少しだけ後に出るものと,しばらくたってから出るものがある。

 私が心配しているのは,発言を耳にした子どもが大人になる時期の話である。

 日清・日露戦争に勝ったとき,まだ幼かった子どもたちが起こしたのは何だったか。

 日本も決して「部外者」ではあり得ない。


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日本が守るべきものは何だろうか

 日本は何を,誰のために,守っていくべきなのだろう。

 テロの標的として自ら進んで名乗り出なければならないほど,関係を守りたい国があるのだろうか。

 世界では,さまざまな理由で命の危険に晒されている人たちがいる。

 日本丸ごとその「仲間入り」を果たしていくことが,政府の役割ではないはずである。

 新聞も報じなくなったとき,その次に起こる出来事を,歴史は例示してくれている。

 オブラートに包んだ中に入った情報まで,ちょっかいを出される時代になったのだろうか。


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国立大学法人のある先生からのご質問ですが・・・

 これでもかと繰り返される現役の教師たちによる犯罪行為の報道。

 報道されるものが全部ではないところが哀しいところです。

 あるニュースで,バレーボールの強豪校の教師が・・・・と報じられていました。

 バレー部は何の関係もないのに,「~で有名な学校」というところにニュースバリュー(?)があるので,私も危うくバレー部の顧問がか?と誤解しそうになりました。

 江戸川区立の小学校教師は,強制わいせつ容疑で逮捕されました。

 ネットでは,SNSなどから判明したのでしょうか,本人の出身高校と出身大学が示されています。

 芸人さんに迷惑をかけている,なんていう指摘もあるようですが,子どもをこういう人間の魔の手から救う方法はないのでしょうか。今後,「男性の担任だけはやめてほしい」なんていう要望が女児の保護者から寄せられることが増えるかもしれません。

 これだけ多くの逮捕者が出ると,人事部の人間でなくても,どこの大学の出身者が危ない,という情報まで流れ出すかもしれません。

 さて,実名でこのブログにご質問をいただいた大学の先生がいらっしゃるのですが,後でご迷惑がかかるといけないと思い,非表示にさせていただきました。
 
 まずは,真っ当な大学の先生ならば,こんな低俗な匿名ブログの世界に足を踏み入れないようにすべきだと思います。実名で公開されている方は基本的に信頼できると思いますが,私のようなアウトローには近づかない方がよいかと・・・。

 ただ,私の記事が,翻訳された書名による検索で上位に来てしまうので,やはり気にはなってしまいますね。

 申し訳なく思います。

 その記事の中で,先生が書かれたある雑誌の原稿の内容が間違っていた,という指摘をしていました。

 その雑誌も原稿段階のプリントもすでに手元にはないので,どんな内容だったかわからないのですが,それほど歴史に詳しくなくてもわかるようなレベルの間違いだったと思います。

 同じ大学にいらっしゃる,歴史を専攻された先生にお聞きいただければ,すぐにご指摘していただけると思います。


 それにしても,文科省の植民地みたいになっている国立大学では,さぞやお仕事がやりにくいことでしょう。

 では私立大学ならばどうかと言えば,こっちも補助金獲得のために天下りを受け入れるのに躍起になっているようで,「再就職自粛」が長引けば,「先に取ったもの勝ち」になりかねない状況ですね。

 「主権者教育」なんていう,国民をバカにしたことをやろうとしている人たちの言いなりになるうちに,主権者の感覚とか大学の自治意識などを失っていき,どこかの国と同じような末路をたどりそうで悲しくなります。

 天下り先斡旋業務が最重要任務だった官僚も,どこか憎めないところがあるのは,この国はまだ「法治国家」のレベルに達していない,ということと,「世襲」や「コネ」が威力をもつ「文化」があるからでしょうか。

 数値目標を達成することしか頭にない人たちばかりなら,たとえば投票率を上げたければ,芸能人を総動員して,投票所に投票券をもってきたら必ず握手できる仕組みにすればよいわけです。

 ただ,裁判員裁判のDVDに出演していた女優が覚醒剤でつかまったように,芸能関係特有のリスクも高いわけですが・・・。
 
 何のお答えにもなっておらず,申し訳ございません。

 本拠地(?)の方でご活躍になれる日が来ることをお祈り申し上げております。


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「聖徳太子」を「厩戸王」と呼ばせない圧力の正体

 社会科教育というジャンルがあるが,ここでご活躍のセンセイ方の中には,政治学や経済学,地理学や歴史学といった「学問」へのアンテナが高くはない方もいらっしゃるが,さすがに「聖徳太子」という呼称を続けていくのはまずいだろうと思っているはずである。

 「指導の継続性」という観点から言えば,大学や高校で「聖徳太子」と表現すればバカにされてしまうので,中学生だけではなく小学生にも「本来の呼称」を教えていくのが妥当だと考えられる。

 だから,次期指導要領の改訂案でもそうなっていた。

 しかし,「指導の継続性」という言葉を,「低いレベルをそのまま維持する」という発想でとらえる人たちの考えがパブリックコメントに寄せられ,文科省はそうした「わがまま」に従う意向であることが報じられている。

 私ははじめ,次期学習指導要領案に反対したのは,「厩戸王」ではなく,「厩戸皇子」と紹介していた教科書会社の人ではないかと思っていた。

 教科書会社としては,他社でしかも1社しか使われていなかった用語に統一されることは不本意であり,次の教科書採択への影響もあると感じたのではないかと。

 だが,文科省が,教科書会社の意見を聞いて,方針を変えるとは考えられない。

 さすがに教科書会社に天下りしている人はいないのではないかと思う。

 変更の理由が,「指導の継続性に問題」「子どもが混乱する」だけで通るわけがない。

 「指導の継続性」と言えば,今回の改訂の目玉は,高校段階へと発展的に成長していく資質能力像を描き出しているという特徴にある。

 だから,「小学校でこういう名前で呼んでいたから,中学校でもそのままでいく」という発想は次期指導要領にはないのである。

 最初に述べたように,「高校ではこう呼ぶのだから,小中学校でもそうする」というのが「指導の継続性」というより「指導の一貫性」が通っている姿である。

 ということは,「厩戸王という歴史学で一般的な呼称を教科書レベルでは使うことをやめる」という方向転換の理由は,「跳ね返すことができない圧力が加わったから」であると考えざるを得ない。

 ただ,こういういざこざがあったおかげで,「なぜ聖徳太子と呼ばれるようになったか」「なぜ厩戸王と呼ばせたくない人たちがいるのか」を考えさせるきっかけになる。

 これは「歴史との対話」はもちろん,「現代社会において,様々な主張をする団体がいること」を理解させることにもつながっていく。

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道具化される「天皇の権威」

 日本のはじまりとはいつのことか?

 日本独自の紀年法に,神武天皇=初代天皇が即位したとされる年(西暦で言えば紀元前660年)を元年とする「皇紀」というものがある。「皇紀」の正式名称は「神武天皇即位紀元」といい,「神武暦」「皇暦(すめらこよみ)」などともいう。「皇紀」が公的な暦として制定されたのは明治5年(1872)で,太陽暦が採用された年でもあった。

 今年は皇紀2677年に当たるが,社会での一般的な生活では,この数え方を目にすることはない。

 政治権力を持とうとする者にとって,その「権威」をどのように確保するかは切実な課題である。

 中国にならって,日本で「元号」が使われ始めたのは,西暦645年(皇紀1305年)のことであった。

 (まだ「日本」という「国号」もなかったことに注意しなければならないが)

 「大化の改新」とよばれる一連の政治改革で重要だったことの一つは,蘇我氏を滅ぼすことであった。

 「明治維新」では言うまでもなく,江戸幕府の滅亡から始まっている。

 「皇紀」の制定のタイミングを見ても,政治的権威をもつための手段として,「時間」の支配が重要だったことが想像できる。

 日本以外の国で,「独立宣言文」に日本の「皇紀」が使われていた国があった。

 植民地支配を受けていた国が抱える様々な課題を考えるきっかけになる「教材」である。

 「元号」の使用開始と比べると,「皇紀」の制定の理由については,政治権力をもとうする人の立場が異なり,「天皇自身が権威を高める」ことでなく,「天皇の権威を利用する」ことが目的だったと考えられる。

 日本では永く天皇の権威がそのときどきの政治権力によって守られてきたが,それは自分の権力を高める道具として利用した結果であったこともある。

 アジア太平洋戦争での「天皇の権威の道具化」は,日本の国民だけでなく,多くの人々に多大な犠牲を強いる結果となった。

 「天皇の権威」自体に敵意を向ける人もいるが,私としては「道具化」した政治権力に敵意を抱いている。

 戦後,GHQが占領政策の基盤として「天皇の権威」を利用したことで,新たな犠牲を生まずにすんだ,という面もあるので,「権威の道具化」がすべて悪いというわけでもない。

 現代では,「天皇の権威の道具化」が,今までのように「天皇の権威」自体を傷つけずにすむという保障はないという危惧を私は抱いている。

 新たな「元号」の制定をめぐる経緯を注視していたい動機がそこにある。


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昭和を生きた「厚かましき」人々

 昭和20年=1945年は,日本にとって,とてもとても大きな区切れ目となった。

 海外からは,「戦後」という時期区分の異常さを指摘する向きもあるようだが,

 それでも「戦後」は「戦後」であろう。

 太宰治の『走れメロス』が発表されたのは,いつのことか,ご存じだろうか。

 中学校の教科書に掲載されているから,あらすじを聞くだけで,内容をすぐに思い浮かべられる人も多いだろう。

 1930年代の後半から1940年代の前半にかけて,

 国民には,「国家への奉仕」が強く要請されていた。

 (『公共』という科目が生まれそうな,これからの社会と似たような時代である)

 こういう情勢下でものを書かなければならなかった時期と,

 戦後の自由で縛りのない社会の中で何でも書ける時期とを比べると,
 
 どちらの方がつらかったのだろうか。

 人間には,縛られること=一定の自由を奪われることで,

 適度な居心地の良さを感じてしまう部分がないだろうか。

 自由に耐えうる力というのは,決して軽いものではないはずである。

 自由に耐えうるたくましさを発揮した人を「厚かましい」と表現すると,

 「厚かましい」生き方をしてきた昭和の人たちが,

 「厚かましい」まま生きられる社会であった方が,

 平和が保たれるのではないか,と思う一方で,

 この「厚かましさ」のせいで,日本から子どもがいなくなるのではないか?

 という心配もある。

 孫の世話ができる段階の世代の人たちは,どれくらいいるのだろう。

 孫世代の面倒を見ようとする人,面倒を見る余裕がある人,その幸せを願える人たちが

 いなくなり,「厚かましい老人」ばかりの国になってしまったら・・・。

 佐藤愛子著『それでもこの世は悪くなかった』(文春新書)への佐藤優のレビューを読んで,頭に思い浮かんだことを書かせてもらった。


 価値観の一変を経験した世代が,この社会に残してくれるものは何だろう。

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人よりも言葉を愛する人にしないために

 心を育てる教育というのは,重要なのだが,「教える」のは難しい。
 
 うまい具合に「育ってくる」ことを望みたいところである。

 「私は,忘れられた人たちのことを忘れない」

 とてもいい言葉である。今,放映中の池上彰さんの番組で紹介されている。

 だれが語った言葉だろう。

 「忘れられた人々」とは,

 鉄鋼業や自動車産業の不振で工業が「錆びついた地域」=ラストベルトの労働者のことである。

 この言葉によって,「忘れられた」と表現した人々から指示を集めることができたのが新大統領である。

 人は,当然のことだが,人から大切に扱われることを望んでいる。

 たった一つの言葉でも,感動したり満足したりできるのが人間だから,

 人を大切にしていることを示したければ,そういう「言葉」を使うようにする,というのが一つの方法である。

 グローバル化が進む社会では,やはりこういう「言葉」が使えるようになることは大切である。

 ただ・・・。

 日本には,「軽々しい言葉」を「軽率」に語ることを慎む文化がある。

 目の前にいない人への優しい言葉を語ることより,

 目の前にいる人に対する優しい行動をとれることを重視したい。

 教員になろうとする人が,教員に向いているかどうかを判断できるのはだれだろう。

 目の前にいない子どものことをどんな言葉で語ろうとも,

 目の前に子どもがいる場で何もできない人を現場においていても意味はない。

 「人よりも言葉を大事にしようとしている」教育をめざしている人はいないだろうか。


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ポジティヴシンキングもほどほどに

 明るい未来像だけを描くようにコントロールされた人々が,いよいよ地獄を見る日が近づいているように思える。

 地獄が目の前に迫っているのに,絶対に自分は地獄に堕ちないですむと信じ切っている人に,危険を察知する能力を与えるのは不可能である。

 遠いところにある危険ばかりを煽り立てて,目の前の危機はなかったことにする神経でも,生きていける国の最後の望みとは何だろう。

 地獄への階段を用意したのは,自分の国以外の人間や異教徒たちだと開き直る姿が目に浮かぶようである。

 歴史の浅い国だからといって軽蔑するわけではないが,楽観的すぎる単純な生き方は,本当に心配になる。

 敵対勢力の攻勢が甘いとき,それは自滅を待てばすむという分析に基づく判断かもしれないと想像してみてもらいたい。

 
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全世界が賞揚すべきある指導者の言葉

 ある指導者が,「人権侵害行為を禁止する」というような趣旨の指示をしていたことが,報道されている。

 別に,「自分自身はどうなのだ」という,だれでもわかっている批判的な言葉を表明する必要はない。

 ただ,その発言自体の素晴らしさ(当たり前さ)を,賞賛することが可能なすべての指導者は,賞賛すべきである。

 今まで世界からほとんど賞賛させることがなかった国が,その対象になることはすばらしい。

 指導者が「藁をもつかむ」状態になる前に,国民の意識が変わることが望まれる。

 怒りの矛先転嫁にも限界がある。


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告示される前から失敗することがわかっている学習指導要領改訂のねらいとは

 学習指導要領の改訂は,およそ10年サイクルで行われる。

 10年は長そうに見える期間だが,改訂のスケジュールを考えると,10年が最短のサイクルである。

 新学習指導要領実施→実施状況の調査→中教審の審議→指導要領作成→教科書作成→教科書検定→教科書採択

 間もなく告示される次の学習指導要領は,中教審ワーキンググループの議論やそのまとめがHPに掲載されており,ほぼその全貌がわかっている。

 「アクティブ・ラーニング」がキーワードになっているが,要は小中学校でがんばってきた授業改革を,制度上は義務教育ではない,高校にも拡大していくことがねらいである。

 一言で表現してしまえば,日本では実質的にほぼ義務教育化している高校の教育改革がねらいだということである。

 歴史などは,私立大学入試の穴埋め問題を見ただけで,本当に意味のない勉強を強いている高校の課題が明白である。

 高校の授業がこんな状態なのは,大学入試に備えるためだ,という言い逃れがあるため,大学入試を変える,というのがセットの条件になった。

 大学入試が変わるのだから,高校の授業も変わらなければならないのだと。

 小学校や中学校レベルの「話し合い活動」をすれば,許してやる。もちろん,力がつくかどうかは知らないけど。

 というストーリーだが,この流れのばからしさは,塾関係者が(受験を控えた中高の教員も)一番良くわかっている。

 そもそも「大学入試を変える」ことなど,そう簡単にはできない。

 問題作成を経験したことがある人など,ごく一部かもしれないが,その分析や対策をしてきた塾関係者はよくわかっていると思われる。

 どんな問題を出すにしろ,できる生徒はできるし,できない生徒はできない,というのが「常識」である。

 そして,「思考力・判断力・表現力」を測るための問題で,採点に客観性や信頼性が担保できるものなどは,学校の定期考査ですら難しいことも「常識」である。

 合否の判定材料になる大学入試などで,答えがいくつもあるような問題を出題することなどはできない。

 採点方法やその結果で大もめにもめるような入試では,入試業務だけで1年が終わってしまう。

 つまり,告示される前から,高校の授業が確実に失敗することがわかっている学習指導要領の恩恵を最も受けるのはどこかと言えば・・・・学習指導要領に縛られずに教えられる塾・予備校などの教育産業である。

 ある教育産業のHPに,各学校に対する生徒や保護者による多面的な評価が掲載されている。

 私の学校の場合は,各項目について高い評価を得ているが,「学習」についての評価が低い。理由は,「受験に役に立たないことをしているから」。

 おっしゃる通りである。ただ,これから告示される学習指導要領の趣旨にぴったりの教育を100年以上続けている。

 中学校も高校も,どことの比較かはわからないが,通塾率が高くなるというデータも紹介されている。

 別に,塾に通う生徒が多いことを「失敗」だと言いたいわけではない。

 最も簡単に予想できることは,高校での「授業崩壊」「学級崩壊」が増加することである。
  
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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より