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カテゴリー「歴史学習」の290件の記事

新聞による「印象操作」の逆効果

 首相と昵懇の間柄にある人物が起こした問題への関心は低く,敵対する人物への関心は高い。

 「政治の透明化」を果たそうとすると,「守秘義務違反」に問われて処罰されてしまう国を民主化するためにはどうしたらよいのか。

 首相が国会で「この新聞を読めばわかる」と名指しした特定の新聞社のおかげで,「印象操作」と相手を非難する人間を支持している側の方が,よほど「印象操作」をしている「印象」が国民の間に広がろうとしている。

 新聞社のこうしたとてもわかりやすい態度が,強すぎる政権の「流れ」を変えるきっかけになるかどうか。

 大金を使って選手を集めても全く成果が出せない弱すぎる巨人のように,報道機関が見切られる日は来るだろうか。

 新聞社内でも,「忖度」の問題を報道する側が「忖度」の主体となってどうするのか?という疑問を持っている人がいるに違いないし,

 「前川の乱」が「文科省の乱」に,そして「反内閣府連合」に発展しそうな雰囲気も感じられる。

 日本がいつの間にかどこかの国にそっくりになっていることに多くの国民が気づいたときには,手遅れになっているかもしれない。

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「離脱」が「離脱」を生む

 私は文部科学省が進める教育政策への協力から「離脱」しました。

 「離脱」の本当の理由はここでは書けません。

 私がある事実を知ったのはなぜか,だれから知ったのかがわかってしまうからです。

 学習指導要領の解説が公表されれば,わかることかもしれませんが。

 「文部科学省からの依頼が断れるのはあなたの学校だけだ」とも言われましたが,私の学校にはもうそんな力はありません。表向きの理由は,「校務に支障が出るから」ですが,平日毎日16時間働けば,支障は防げました。

 また,私が加わろうが加わらずにいようが,たいした貢献もできないことがわかっているからでもあります。

 「離脱」することで「良心」が守られるという満足感も得られます。

 
 パリ協定「離脱」を表明したトランプ政権から「離脱」した助言者たちは,今,どのような思いでいるのだろうか。

 私とは違って,「離脱」の意味が非常に大きい人たちだったのではないだろうか。

 
 国際社会に背を向け始めたアメリカと同じように「危ない」状態になっている国があります。

 報道の自由が脅かされているのは,他国の話ではありません。

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安倍政権に訪れる正真正銘の危機

 学校をめぐる問題は,政権を覆すほどのものではないと私は感じています。

 もちろん,見る人から見れば,「終わったな」という印象ですが,代役が不在なので「終わらない」のです。

 たとえ,「行政の常識」「権力者の周辺の忖度」が明らかになったとしても,それは大昔からそうだったわけで,安倍政権が開き直って「昔からそうだったじゃないか!」とキレても,「そうだよね」と共感してしまう人までいる可能性があります。

 「前川の乱」についても,残念ながら「決勝点」にはならないでしょう。

 教育への政治の影響が大きくなっているのは,みんな知っていることですし,今回の学習指導要領改訂は,2006年の第一次安倍内閣のときの教育基本法改正の流れをくんだものですから・・・。

 ただ,新たに報道されたある事件は,今までとは比較にならないくらいの問題を抱えていると思われます。

 代役なしでも痛手になる問題です。

 ですから,よく考えると,今朝は報道されるでしょうが,その続報が続くかどうかは疑問です。

 女性票を一気に失うようなこの問題は,

 人気に陰りが見え始めていた小池さん側にとっては台風並みの「追い風」になる可能性があります。

 総理に最も近いとされる人物のスキャンダルが,命取りになるという私の予想は当たるかどうか。

 霞ヶ関への信頼が失墜しても,何とかなるかもしれませんが,

 警察への信頼が失墜するような事態は,決して国民が許さないでしょう。

 「お友達から攻めるしかないのは情けない」という「対抗勢力」のやり方への批判はごもっともですが,

 警察権力と首相官邸との関係に対する疑念の広がりは,軽視できないのではないでしょうか。

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「アカデミアの世界」からこのブログへ投げかけられた言葉とは?

 読書編の各記事をお読みいただいた方はすでにご存じかと思いますが,次の言葉はつい最近,教員養成系の国立大学という「アカデミアの世界」の方から私宛のメールやブログのコメントでいただいたものです。私の側は匿名で記事を公開しておりますので,先方のお名前も伏せておきます。

>貴公のような「犬クソ」教師

>貴公があまり頭が良くないことは十分に承知

>学問的な作法に成(ママ)れていない素人さん

>貴公の批判は極めてどうでも良いこと(些細な事)

>国語力を鍛えなおしてはいかが

>アカデミアの世界に慣れてらっしゃらない

>(雑誌に原稿を書くのは)ブログで自慰行為するのとは違う
  (以上の回答は、貴公のブログに掲載してもらって構いませんよ)

 「貴公」という言葉をあまり聞いたことがなかったので,調べてみたら,「貴様(キサマ)」という言葉のニュアンスに近いのでしょうか。同輩か下の人間に向かって使う言葉のようです。

 また,「犬クソ」教師とは,どういう意味なのでしょうか。

 ただの「クソ」教師ではなく,「犬」の「クソ」にすることで,さらに下のランクに位置付けられるということでしょうか。

 学習指導要領の趣旨に沿って=国の言いなりになって,カリキュラムを編成する教師だから「犬」なのでしょうか?(そう解釈するとちょっとだけほっとできますね・・・)

 ただ残念ながら,文部科学省(国立教育政策研究所)の仕事に10年以上携わってきたものの,今回の指導要領に関するご協力の依頼は校務に支障があったためお断りしておりますので,「犬」とは呼べないでしょうね。

 「頭があまり良くない」とのご指摘ですが,その根拠が,ご自分が原稿に引用した他人の授業への批判は,自分への批判の材料には当たらない,というものでした。これ,本当に正しい主張でしょうか。原稿に引用したのは,ご自分の主張を述べるためであり,選択して引用した時点で,引用した側にも責任が生じるという私の主張は当然のことではないでしょうか。

 別に「私の頭は良くないわけではない」と言いたいわけではありませんが・・・。

 アカデミズムの世界の慣習はわかりませんが,私が学校の授業で扱う教材(たとえば新聞記事)とその内容に対して,「どうしてこんな教材を使ったのだ」と問われたら,私自身が責任をもってお答えしたいと考えています。

 私が「アカデミアの世界に慣れていない」と主張することの根拠は,

>頁制限のある明治図書の原稿において、貴公が問題にすることを踏まえて書いていたら私が書きたい別のことを書けなくなってただ室町時代のことについて書いて終わり・・・になる

 とのことでしたが,「書きたい別のこと」のために,「室町時代のこと」がいい加減になってもかまわない,それに対する批判は極めてどうでも良いこと,というのがもしアカデミアの世界の常識だとしてら,そんな世界は私たち現場の教師たちには全く縁がなくてけっこうですし,教師の価値観を押しつけられる子どもたちにとっても迷惑なだけの存在に思えてしまいます。

 この先生の主張は,要するに「歴史認識」のうち,大事なのは「事実認識」や「関係認識」より「価値認識」である,ということに尽きるのではないでしょうか。

 ご自身のHPで,訳書について,次のように述べていらっしゃいます。

>共感理解も、新聞づくりのような活動主義も、文脈次第では意味のある歴史の学びを子どもたちに保証するし、歴史学のディシプリンに即した分析型の歴史学習であっても、文脈やアプローチの仕方次第では、思ったほどの効果を持たない。

 これは,裏返すと,

>新聞づくりのような活動主義では,共感理解はできるかもしれないが,ほとんど意味のない歴史の丸写しで終わってしまうおそれがある。歴史学のディシプリンに即した分析型の歴史学習は,共感理解を促すような文脈やアプローチの仕方によって,より効果的に意味のある歴史の学びとなる。

 要は,文脈やアプローチ次第でどうにでもなるわけですね。

 後者は,少なくとも,共通の「事実認識」や「関係認識」を育てることになりますが,前者では,下手をすると誤った「事実認識」や「関係認識」のもとに,とんでもない「価値認識」を導く結果になりかねません。

 今のある国の政治家が,まさにその「とんでもない」本道を行っているかのような気がします。「経済がよくなればそれでよい」「自国に利益があればそれでよい」という価値認識などは,まさに教育の成果かもしれませんね。


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前事務次官の「武士の一分」

 日本の政治は明治維新や占領期の変革を経ても,結局江戸時代と何も変わっていないような気がしています。

 国民がだめだから,こうなっているという見方もできるでしょうが,

 批判的精神が「うざいもの」とされる流れは,これからも変わっていかないかもしれません。

 日本の政治に最も必要なのは,正しいものは正しい,間違っているものは間違っていると堂々と言える人間の存在です。

 前事務次官は,辞めたことで言えるようになったようですが,

 きっと現職のときも,言いたいことはたくさんあったのでしょう。

 現職のときに言わなければ意味がないわけですが,

 私の場合も,行政にいたときは,「トップにかける迷惑」ではなく,「関係する多くの人々にかかる迷惑」を気にして,言いたいことは言えませんでした。

 「上の意向だから」・・・政治にかかわらず,どこの世界でも反論を認めない決まり文句が使われています。

 文書の存在がはっきりしたわけで,ここまで化けの皮が剥がれても,誤魔化し続けようとする姿を忘れてはなりません。

 同じことが何度繰り返されれば,国民の目は覚めるのでしょう。

 今回のことに限らず・・・ここ,重要なので繰り返します・・・今回のことに限らず,

 行政のあり方は,ゆがめられていたのです。

 前事務次官が会見で述べたように,

>これ以上、行政のあり方をゆがめてはいけない

 この意味を考えるヒントは,戦前にあります。

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教育と政治的「排除」

 自分に対して「悪口」を言うような人間は,どんどん「排除」する。

 「排除」というキーワードが最もわかりやすいタイムリーの国は,アメリカである。

 政治と教育の関係は,韓国に関するニュースを見ているととてもわかりやすい。

 日本については,教育基本法が改正されたのは,どの内閣のときだったか。

 学習指導要領の質が大きく変わろうとしているのは,現内閣である。

 どういうつながりがあるのか。

 それをわからずに,次の学習指導要領の性格を語ることはできない。

 この現内閣のもとで「編集」される学習指導要領にかかわっている人がどういう人を確かめると,

 どういう人が「排除」されているか,なぜ「排除」されたのかに気づけるだろう。

 「見捨てる」という話法は,そもそも「拾ってやる」「助けてやる」という意識がある対象に使うものである。

 「地面に落ちているもの」ではなく,自分の足で立っている対象は,

 「見捨てる」ではなく,「排除する」という行動様式になる。

 教育が政治の道具になっている国の「民主化レベル」の世界ランキングはどのくらいなのだろうか。


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アメリカ・中国・韓国と日本

 現大統領を支持しているアメリカの人々の子どもたちは,大統領の発言をどのように受け止めているのだろうか。

 Aさんは,BさんがCさんたちのことをこう言っていた,と語った。

 こういう話法が原因で,学校現場でも多くのトラブルが発生している。

 Cさんたちは,Bさんに確かめることをせず,あるいは確かめることができず,

 Bさんへの嫌悪を強めていく。

 Bさんは,Aさんへの嫌悪を高める。

 Aさんは,もともとCさんのことを何とも思っていない。

 振り回される周囲の人たち。

 人間は,人を振り回したり,人に振り回されたりするのが好きな生き物かとも思ってしまう。

 さて,舞台は学校ではなく,国際社会である。

 発言の影響は,すぐに出るものと,少しだけ後に出るものと,しばらくたってから出るものがある。

 私が心配しているのは,発言を耳にした子どもが大人になる時期の話である。

 日清・日露戦争に勝ったとき,まだ幼かった子どもたちが起こしたのは何だったか。

 日本も決して「部外者」ではあり得ない。


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日本が守るべきものは何だろうか

 日本は何を,誰のために,守っていくべきなのだろう。

 テロの標的として自ら進んで名乗り出なければならないほど,関係を守りたい国があるのだろうか。

 世界では,さまざまな理由で命の危険に晒されている人たちがいる。

 日本丸ごとその「仲間入り」を果たしていくことが,政府の役割ではないはずである。

 新聞も報じなくなったとき,その次に起こる出来事を,歴史は例示してくれている。

 オブラートに包んだ中に入った情報まで,ちょっかいを出される時代になったのだろうか。


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国立大学法人のある先生からのご質問ですが・・・

 これでもかと繰り返される現役の教師たちによる犯罪行為の報道。

 報道されるものが全部ではないところが哀しいところです。

 あるニュースで,バレーボールの強豪校の教師が・・・・と報じられていました。

 バレー部は何の関係もないのに,「~で有名な学校」というところにニュースバリュー(?)があるので,私も危うくバレー部の顧問がか?と誤解しそうになりました。

 江戸川区立の小学校教師は,強制わいせつ容疑で逮捕されました。

 ネットでは,SNSなどから判明したのでしょうか,本人の出身高校と出身大学が示されています。

 芸人さんに迷惑をかけている,なんていう指摘もあるようですが,子どもをこういう人間の魔の手から救う方法はないのでしょうか。今後,「男性の担任だけはやめてほしい」なんていう要望が女児の保護者から寄せられることが増えるかもしれません。

 これだけ多くの逮捕者が出ると,人事部の人間でなくても,どこの大学の出身者が危ない,という情報まで流れ出すかもしれません。

 さて,実名でこのブログにご質問をいただいた大学の先生がいらっしゃるのですが,後でご迷惑がかかるといけないと思い,非表示にさせていただきました。
 
 まずは,真っ当な大学の先生ならば,こんな低俗な匿名ブログの世界に足を踏み入れないようにすべきだと思います。実名で公開されている方は基本的に信頼できると思いますが,私のようなアウトローには近づかない方がよいかと・・・。

 ただ,私の記事が,翻訳された書名による検索で上位に来てしまうので,やはり気にはなってしまいますね。

 申し訳なく思います。

 その記事の中で,先生が書かれたある雑誌の原稿の内容が間違っていた,という指摘をしていました。

 その雑誌も原稿段階のプリントもすでに手元にはないので,どんな内容だったかわからないのですが,それほど歴史に詳しくなくてもわかるようなレベルの間違いだったと思います。

 同じ大学にいらっしゃる,歴史を専攻された先生にお聞きいただければ,すぐにご指摘していただけると思います。


 それにしても,文科省の植民地みたいになっている国立大学では,さぞやお仕事がやりにくいことでしょう。

 では私立大学ならばどうかと言えば,こっちも補助金獲得のために天下りを受け入れるのに躍起になっているようで,「再就職自粛」が長引けば,「先に取ったもの勝ち」になりかねない状況ですね。

 「主権者教育」なんていう,国民をバカにしたことをやろうとしている人たちの言いなりになるうちに,主権者の感覚とか大学の自治意識などを失っていき,どこかの国と同じような末路をたどりそうで悲しくなります。

 天下り先斡旋業務が最重要任務だった官僚も,どこか憎めないところがあるのは,この国はまだ「法治国家」のレベルに達していない,ということと,「世襲」や「コネ」が威力をもつ「文化」があるからでしょうか。

 数値目標を達成することしか頭にない人たちばかりなら,たとえば投票率を上げたければ,芸能人を総動員して,投票所に投票券をもってきたら必ず握手できる仕組みにすればよいわけです。

 ただ,裁判員裁判のDVDに出演していた女優が覚醒剤でつかまったように,芸能関係特有のリスクも高いわけですが・・・。
 
 何のお答えにもなっておらず,申し訳ございません。

 本拠地(?)の方でご活躍になれる日が来ることをお祈り申し上げております。


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「聖徳太子」を「厩戸王」と呼ばせない圧力の正体

 社会科教育というジャンルがあるが,ここでご活躍のセンセイ方の中には,政治学や経済学,地理学や歴史学といった「学問」へのアンテナが高くはない方もいらっしゃるが,さすがに「聖徳太子」という呼称を続けていくのはまずいだろうと思っているはずである。

 「指導の継続性」という観点から言えば,大学や高校で「聖徳太子」と表現すればバカにされてしまうので,中学生だけではなく小学生にも「本来の呼称」を教えていくのが妥当だと考えられる。

 だから,次期指導要領の改訂案でもそうなっていた。

 しかし,「指導の継続性」という言葉を,「低いレベルをそのまま維持する」という発想でとらえる人たちの考えがパブリックコメントに寄せられ,文科省はそうした「わがまま」に従う意向であることが報じられている。

 私ははじめ,次期学習指導要領案に反対したのは,「厩戸王」ではなく,「厩戸皇子」と紹介していた教科書会社の人ではないかと思っていた。

 教科書会社としては,他社でしかも1社しか使われていなかった用語に統一されることは不本意であり,次の教科書採択への影響もあると感じたのではないかと。

 だが,文科省が,教科書会社の意見を聞いて,方針を変えるとは考えられない。

 さすがに教科書会社に天下りしている人はいないのではないかと思う。

 変更の理由が,「指導の継続性に問題」「子どもが混乱する」だけで通るわけがない。

 「指導の継続性」と言えば,今回の改訂の目玉は,高校段階へと発展的に成長していく資質能力像を描き出しているという特徴にある。

 だから,「小学校でこういう名前で呼んでいたから,中学校でもそのままでいく」という発想は次期指導要領にはないのである。

 最初に述べたように,「高校ではこう呼ぶのだから,小中学校でもそうする」というのが「指導の継続性」というより「指導の一貫性」が通っている姿である。

 ということは,「厩戸王という歴史学で一般的な呼称を教科書レベルでは使うことをやめる」という方向転換の理由は,「跳ね返すことができない圧力が加わったから」であると考えざるを得ない。

 ただ,こういういざこざがあったおかげで,「なぜ聖徳太子と呼ばれるようになったか」「なぜ厩戸王と呼ばせたくない人たちがいるのか」を考えさせるきっかけになる。

 これは「歴史との対話」はもちろん,「現代社会において,様々な主張をする団体がいること」を理解させることにもつながっていく。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より