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カテゴリー「歴史学習」の296件の記事

9月27日 100年違い

 日本では,今から100年前の9月27日に,初めて女性が自動車の運転免許を取得したらしい。

 9月27日は女性ドライバーの日とされている。

 サウジアラビアでは,26日に国王が女性の自動車の運転を認めるよう法改正する指示を出したようだ。

 女性の地位向上に力を入れるようになった背景は何だろう。

 原油価格の低迷が今後数年続けば,財政状況が大変なことになるのがわかっているらしい。その危機感の影響だろうか。

 勇気ある女性の訴えが功を奏したのだろうか。

 小学6年生も学ぶ友好国に,とてつもない差別があったことを,このニュースで初めて知った人も多いだろう。

 第一次世界大戦中に,社会進出にともなって女性の地位が向上した国は多い。

 その後,100年を経て,行政のトップに女性が選ばれる日がいよいよ来るのだろうか。

 ある番組のインタビューの最後で,「インシャラー」と口にしたその発音がなぜか耳に残っている。

 野党の再編がわずかな期間で急速に進みそうである。

 「風」だけを読んで「人気者」にあやかろうとする怪しげな人たちがうようよしているのも気になるが,

 「何でもあり」の方がむしろ,国民の政治への関心が高まるかもしれない。

 もし違う人が「インシャラー」と言ったら,どんな反応が集まっただろう。

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9月22日 犠牲にするものが変化した

 今年の横浜市のカーフリーデーは秋分の日とされているが,フランスでは毎年9月22日と決まっているらしい。

 中国の北京などのように,ナンバープレートの数字で車を利用できる曜日を制限するのも知恵の一つかもしれないが,環境問題に取り組む姿勢をどのような形で示すかは,それぞれの地域の工夫次第だろう。

 日本が「公害大国」と呼ばれたとき,いくつかの条件が重なって都市の生活環境は悪化してしまった。

 ○政府(行政)は生活環境よりも経済成長を優先させる政策をとっていた。

 ○環境への負荷が大きい重化学工業が急発展しており,しかも人口が多い臨海部の地域に工場が集中していった。

 ○企業は利益を最優先し,環境悪化を防ぐための取り組みをしなかった。

 ○高速道路などが整備され,鉄道に加えて自動車の利用が増えていった。

 ○大量消費・大量廃棄の時代になっていた。

 人々が「我慢するもの」が変化してしまった様子を,私は子ども時代に見てきたように思う。

 「便利」であることの方が,「不自由」であることより価値が高い。

 しかし,犠牲にするのは「欲」という精神的なものではなく,「健康な体」という実体を伴うものになった。

 そういう時期を過ごした人でも,平均寿命はのびているのだから,「豊かさ」信仰はなくなることはないだろう。

 環境への関心を,全世代が高められるような工夫はできないだろうか。

 肉体的な苦痛には耐えられるが,精神的な苦痛に耐えられなくなった人間が行き着き先はどんな世界だろう。

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9月21日 国際平和デーと国連総会での既視感

 国際連盟で演説を終えた松岡洋右が議場から去る様子を,授業では動画で生徒に見せていた。

 トランプ大統領の演説が始まる前(始まってから?)に,北朝鮮の国連大使が議場を出て行った様子が報道された。

 国際的な機関に背を向けた国に待っているものは何だろう。

 トランプ大統領の演説には,「おまけ」がついていた。

 北朝鮮の拉致問題にふれてくれたことを,日本側はとても歓迎しているようだ。

 「ロケットマン」と揶揄された側が,次に起こす行動は何だろう。
 
 私が読んだ新聞はどれも扱いが小さかった(1面ではふれていないものもあった)が,「完全な破壊」という言葉が見出しに使われていたのは日本経済新聞である。ヨーロッパの国々が対話に動き出すとの記事もあった。

 9月21日は国際平和デー。「世界の停戦と非暴力の日」に,当てつけのように行動を起こしてくるかもしれない。

 子どもたちにとっても,ニュースに関心が高まるきっかけとなった。

 不倫だの何だのというニュースより,大事な日本と世界の未来の話に耳を傾けられる大人が増えてほしい。

 子どもは大人の背中を見て育つ。

 北朝鮮の国連大使が置かれている立場に心を寄せる余裕もほしい。

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9月20日 「空の日」に「ご都合主義」を考える

 なぜ9月20日が「空の日」になったのかを調べてみると,12月19日でもよかったはず,という出来事が見つかる。

 しかし,風の強い冬よりも,彼岸前のよい時期が選ばれたようである。

 こういうのを「ご都合主義」と呼んでいいのかどうかわからないが,最初に飛行した人からすれば,「おいしいところを持って行かれた」というひがみを覚えるかもしれない。

 土日が寒くなったからかどうかわからないが,コンビニでは「おでん」ののぼりを掲げて集客に励もうとしている。

 ここ2日間は気温も高くなったから,たいして売れていないのではないかと心配になるが,

 彼岸も過ぎれば「待ち遠しさ」に負けて秋のおでんに消費者は飛びつくのだろうか。

 季節を先取りして,というより,季節感を失わせて,消費意欲を高めさせるというのは,古典的な広告手法である。

 消費者は,生産・販売側の都合に合わせてマインドを左右される。

 空に浮かぶ雲のように,ただぼんやり浮いているだけか,風で流されやすいのが消費者だということか。

 空を見上げて思い浮かぶものが,近くの国が飛ばすミサイルだなんて物騒な世の中である。

 性根の座った国が生き残るのか,指導者がころころ替わる「ご都合主義」の国が生き残るのか。

 答えを教えてくれるのは,「天」か,「地」か,「人」か。

 どこをとっても予断を許さない状況にある。

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9月18日 複雑な関係を理解する意欲を高める教材

 9月18日というと,すぐに思い浮かべるのは柳条湖事件である。

 南満州鉄道の線路爆破を,関東軍は中国軍による犯行と発表した。

 関東軍の謀略だったこの爆破の規模は,ごくごく小さなものだったらしい。

 当初の実行予定は9月27日だったが,情報がもれ,上層部からの牽制も受けていたので,

 作戦遂行を早めたということである。 

 歴史の授業では,当時,中国と満州の貿易がさかんになっていた資料も提示する。

 歴史の学習では,早いうちから,だれがだれと戦おうとして,だれとだれが止めようとしていたのかを認識させるようにしておきたい。
 
 国と国が戦っているわけではない戦争もある,という概念が必要である。

 武力で得た権益は,武力で守らなければならないという当時の「常識」も知っておくべきだろう。

 事件後,すぐに国際連盟に提訴されたが,重要案件として扱われなかったらしい。

 蔣介石は,中国共産党と戦っていた。日本政府は不拡大方針を発表した。

 人と人との関係は,非常に複雑である。

 多様性が高ければ,それで争いが起こらなくなるわけではない。

 多様性を認める寛容な心が育まれていなければならない。

 ある人は,ある人を悪人だと主張している。その根拠はこうである。

 一方,悪人だと主張されている人は,ある人の方が悪いと主張している。その根拠はこうである。

 第三者から見ると,こっちの方が悪い。その根拠はこうである。

 学校では,日常生活の中で,最後に「寛容」を得るための壮絶な「対立」の繰り返しが経験できる。

 もちろん,そこで「体罰」や「暴力」が入ってくると,「悪さ」だけが増幅して,「寛容の精神」からどんどん離れていってしまう。

 複雑な人間社会の様々な関係性を理解するために,シリア問題などもよい教材になるだろう。


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政治の世界で目立つ「ダメリーダー」の教育効果

 朝のニュース番組から,世界の政治の動きに関する報道が途切れることがないのは,

 主にTさんとKさんとAさんのおかげである。

 発言が二転三転し,「ああ,これがホンネなんだな」とだれでにもわかってしまう指導者もいれば,

 一貫して「自分のせいではない」と言い張る指導者もいれば,

 「弱い犬ほどよく・・・」という諺がピッタリの指導者もいる。

 3人の指導者には,他のだれかが代わりにやっていけるわけではない,という無類の強さを持っているのが共通点である。
 
 その強さの源泉は,失敗したことにあるのではなく,実績そのものにある,というリーダーもいる。

 報道では耳にできないが,Aさんがどんな仕事をしているかは,HPでしっかり報告されているから,どこかのニュース番組ではぜひ取り上げてほしい。何も,これを取り上げたから,「体制べったり」というわけではない。報道は,やはり偏りが大きすぎて,「何かもっと大事なニュースが報じられていないのでは」という危惧を国民は抱いていると思われる。

 さて,3人のうちの2人は,「支持率」と「不支持率」が示されながら批判されているので,

 ほとんど「メッタ撃ち」の状態にある。

 「支持率100%」の指導者の行き先は,歴史を学んでいるほとんどの人が知っているのだが,

 多くの人は「とばっちりが来ないか」という心配をしているわけである。

 テレビのニュース報道の特色は,「情報を送り出す側と,情報を受け取る側の双方が正義の側」という「印象操作」をしっかりと行っていることにある。

 「悪」の部分をクローズアップすることで,「そういう人たちが身近にいないでほしい」という欲求を高めてくれる。

 超優秀な反面教師をつとめているのは,もちろんリーダーだけではないが。

 だれかのおかげで,部下を恫喝したり,生徒を怒鳴ったりできる上司や教師は激減するだろう。

 その場面を録音されていて,ネットに流されでもしたら・・・。

 これはダメなことですよね,という確認があっという間に何千,何万という人たちを対象にしてできてしまう時代である。テレビではさらにケタが違う(だからいまだに日本ではテレビ広告が消えない)。

 では,「どうすればよいのか」という答えは,どこかに示されているのだろうか。

 リーダーのその言葉ではダメなら,他の言葉があるのか。

 Tさんの場合は,どうやらその「他の言葉」を言わされた後に,ホンネが出てしまったようなのだが・・・。

 Aさんの場合は,「自分が指示したことはない」というのは正しい言葉かもしれないのだが,「指示した」「指示しない」という事実が大事な国ではないことは,自分自身が一番よくわかっているはずである。

 「自分が考えていることがすべて正しいと認識する」反知性主義の動きを止める力はどこにあるのだろう。

 このまま「正義の味方」のつもりでいると,「正義の見方」がわからなくなってしまうのではないか。

 ある政党からは,どんどん人が抜けていっている。

 こういう政党ほど,「再起不能」という言葉がぴったりくる党はないように思われる。

 大小,様々な組織の「危機」を気楽に眺めているうちに,自分の首を自分でしめていた,なんてことにならないよう,足もとの危機に注意を払うべきことを胸に刻んでおきたい。

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新聞による「印象操作」の逆効果

 首相と昵懇の間柄にある人物が起こした問題への関心は低く,敵対する人物への関心は高い。

 「政治の透明化」を果たそうとすると,「守秘義務違反」に問われて処罰されてしまう国を民主化するためにはどうしたらよいのか。

 首相が国会で「この新聞を読めばわかる」と名指しした特定の新聞社のおかげで,「印象操作」と相手を非難する人間を支持している側の方が,よほど「印象操作」をしている「印象」が国民の間に広がろうとしている。

 新聞社のこうしたとてもわかりやすい態度が,強すぎる政権の「流れ」を変えるきっかけになるかどうか。

 大金を使って選手を集めても全く成果が出せない弱すぎる巨人のように,報道機関が見切られる日は来るだろうか。

 新聞社内でも,「忖度」の問題を報道する側が「忖度」の主体となってどうするのか?という疑問を持っている人がいるに違いないし,

 「前川の乱」が「文科省の乱」に,そして「反内閣府連合」に発展しそうな雰囲気も感じられる。

 日本がいつの間にかどこかの国にそっくりになっていることに多くの国民が気づいたときには,手遅れになっているかもしれない。

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「離脱」が「離脱」を生む

 私は文部科学省が進める教育政策への協力から「離脱」しました。

 「離脱」の本当の理由はここでは書けません。

 私がある事実を知ったのはなぜか,だれから知ったのかがわかってしまうからです。

 学習指導要領の解説が公表されれば,わかることかもしれませんが。

 「文部科学省からの依頼が断れるのはあなたの学校だけだ」とも言われましたが,私の学校にはもうそんな力はありません。表向きの理由は,「校務に支障が出るから」ですが,平日毎日16時間働けば,支障は防げました。

 また,私が加わろうが加わらずにいようが,たいした貢献もできないことがわかっているからでもあります。

 「離脱」することで「良心」が守られるという満足感も得られます。

 
 パリ協定「離脱」を表明したトランプ政権から「離脱」した助言者たちは,今,どのような思いでいるのだろうか。

 私とは違って,「離脱」の意味が非常に大きい人たちだったのではないだろうか。

 
 国際社会に背を向け始めたアメリカと同じように「危ない」状態になっている国があります。

 報道の自由が脅かされているのは,他国の話ではありません。

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安倍政権に訪れる正真正銘の危機

 学校をめぐる問題は,政権を覆すほどのものではないと私は感じています。

 もちろん,見る人から見れば,「終わったな」という印象ですが,代役が不在なので「終わらない」のです。

 たとえ,「行政の常識」「権力者の周辺の忖度」が明らかになったとしても,それは大昔からそうだったわけで,安倍政権が開き直って「昔からそうだったじゃないか!」とキレても,「そうだよね」と共感してしまう人までいる可能性があります。

 「前川の乱」についても,残念ながら「決勝点」にはならないでしょう。

 教育への政治の影響が大きくなっているのは,みんな知っていることですし,今回の学習指導要領改訂は,2006年の第一次安倍内閣のときの教育基本法改正の流れをくんだものですから・・・。

 ただ,新たに報道されたある事件は,今までとは比較にならないくらいの問題を抱えていると思われます。

 代役なしでも痛手になる問題です。

 ですから,よく考えると,今朝は報道されるでしょうが,その続報が続くかどうかは疑問です。

 女性票を一気に失うようなこの問題は,

 人気に陰りが見え始めていた小池さん側にとっては台風並みの「追い風」になる可能性があります。

 総理に最も近いとされる人物のスキャンダルが,命取りになるという私の予想は当たるかどうか。

 霞ヶ関への信頼が失墜しても,何とかなるかもしれませんが,

 警察への信頼が失墜するような事態は,決して国民が許さないでしょう。

 「お友達から攻めるしかないのは情けない」という「対抗勢力」のやり方への批判はごもっともですが,

 警察権力と首相官邸との関係に対する疑念の広がりは,軽視できないのではないでしょうか。

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「アカデミアの世界」からこのブログへ投げかけられた言葉とは?

 読書編の各記事をお読みいただいた方はすでにご存じかと思いますが,次の言葉はつい最近,教員養成系の国立大学という「アカデミアの世界」の方から私宛のメールやブログのコメントでいただいたものです。私の側は匿名で記事を公開しておりますので,先方のお名前も伏せておきます。

>貴公のような「犬クソ」教師

>貴公があまり頭が良くないことは十分に承知

>学問的な作法に成(ママ)れていない素人さん

>貴公の批判は極めてどうでも良いこと(些細な事)

>国語力を鍛えなおしてはいかが

>アカデミアの世界に慣れてらっしゃらない

>(雑誌に原稿を書くのは)ブログで自慰行為するのとは違う
  (以上の回答は、貴公のブログに掲載してもらって構いませんよ)

 「貴公」という言葉をあまり聞いたことがなかったので,調べてみたら,「貴様(キサマ)」という言葉のニュアンスに近いのでしょうか。同輩か下の人間に向かって使う言葉のようです。

 また,「犬クソ」教師とは,どういう意味なのでしょうか。

 ただの「クソ」教師ではなく,「犬」の「クソ」にすることで,さらに下のランクに位置付けられるということでしょうか。

 学習指導要領の趣旨に沿って=国の言いなりになって,カリキュラムを編成する教師だから「犬」なのでしょうか?(そう解釈するとちょっとだけほっとできますね・・・)

 ただ残念ながら,文部科学省(国立教育政策研究所)の仕事に10年以上携わってきたものの,今回の指導要領に関するご協力の依頼は校務に支障があったためお断りしておりますので,「犬」とは呼べないでしょうね。

 「頭があまり良くない」とのご指摘ですが,その根拠が,ご自分が原稿に引用した他人の授業への批判は,自分への批判の材料には当たらない,というものでした。これ,本当に正しい主張でしょうか。原稿に引用したのは,ご自分の主張を述べるためであり,選択して引用した時点で,引用した側にも責任が生じるという私の主張は当然のことではないでしょうか。

 別に「私の頭は良くないわけではない」と言いたいわけではありませんが・・・。

 アカデミズムの世界の慣習はわかりませんが,私が学校の授業で扱う教材(たとえば新聞記事)とその内容に対して,「どうしてこんな教材を使ったのだ」と問われたら,私自身が責任をもってお答えしたいと考えています。

 私が「アカデミアの世界に慣れていない」と主張することの根拠は,

>頁制限のある明治図書の原稿において、貴公が問題にすることを踏まえて書いていたら私が書きたい別のことを書けなくなってただ室町時代のことについて書いて終わり・・・になる

 とのことでしたが,「書きたい別のこと」のために,「室町時代のこと」がいい加減になってもかまわない,それに対する批判は極めてどうでも良いこと,というのがもしアカデミアの世界の常識だとしてら,そんな世界は私たち現場の教師たちには全く縁がなくてけっこうですし,教師の価値観を押しつけられる子どもたちにとっても迷惑なだけの存在に思えてしまいます。

 この先生の主張は,要するに「歴史認識」のうち,大事なのは「事実認識」や「関係認識」より「価値認識」である,ということに尽きるのではないでしょうか。

 ご自身のHPで,訳書について,次のように述べていらっしゃいます。

>共感理解も、新聞づくりのような活動主義も、文脈次第では意味のある歴史の学びを子どもたちに保証するし、歴史学のディシプリンに即した分析型の歴史学習であっても、文脈やアプローチの仕方次第では、思ったほどの効果を持たない。

 これは,裏返すと,

>新聞づくりのような活動主義では,共感理解はできるかもしれないが,ほとんど意味のない歴史の丸写しで終わってしまうおそれがある。歴史学のディシプリンに即した分析型の歴史学習は,共感理解を促すような文脈やアプローチの仕方によって,より効果的に意味のある歴史の学びとなる。

 要は,文脈やアプローチ次第でどうにでもなるわけですね。

 後者は,少なくとも,共通の「事実認識」や「関係認識」を育てることになりますが,前者では,下手をすると誤った「事実認識」や「関係認識」のもとに,とんでもない「価値認識」を導く結果になりかねません。

 今のある国の政治家が,まさにその「とんでもない」本道を行っているかのような気がします。「経済がよくなればそれでよい」「自国に利益があればそれでよい」という価値認識などは,まさに教育の成果かもしれませんね。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より