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カテゴリー「教育改革」の1744件の記事

「道徳があるからやってんだろ」と詰られる子どもたち

 行動の規範を教える方法は様々あるが,昔からさまざまな「形から入る教育」があった。

 その「形」には,「挨拶の仕方」のように,理想型というか定型を直接的に教え込むタイプのものもあれば,

 「茶道」「武道」のように,「応用をきかせるため」に教えるものもある。

 ブランド品を着せるだけで,着ている人間は立派になる,と考える人はいないだろうが,

 「形」から入る教育には,明らかな失敗事例が多発するため,摩擦も増える。

 「柔道」の世界では,指導者レベルの人間が犯した罪が,「柔道」そのものの価値を大粉砕してしまったようだ。

 「武道」をやってもこんなにひどい人間になるのもいるんだ,という共通認識ができたことは貴重だったのかもしれない。

 教育の世界では,そもそも「道徳」という時間(これからは「特別な教科」)が存在すること自体が,摩擦の原因になることは,義務教育の教師ならだれでもわかることだろう。

 家庭環境が荒れた子どもの中には,「教師が気に入るような真面目な行動」が大嫌いで,周囲の子どもが

 別に当たり前のように行動していても,「あいつは教師の気に入られるような行動をしている」と邪推し,

 からかったり,暴力をふるったりするのが出てくる。

 中には,本当に「良い子のふりをしなければならない」苦痛に耐える必要があるのが「道徳」である。

 教育というのは,本来,こういう「邪推」が一切生まれない環境でできることが理想であるが,進路がからむ中学校だと,ただでさえ「教師」と「子ども」の関係は「お互いに嘘が必要」になってくる。そこへ最大の癌の「道徳」がのしかかってくる。

 あいつ,ボランティア活動を熱心にやっているが,あれは「奉仕の精神」の評価ねらいだな。

 学校に内緒でやってるんなら,評価できるのに・・・・。

 「なぜ評価してはいけないのか」がわからない連中たちと教育の話をするのは疲れる。

 「勘違いされたくない」という純粋な子どもの心を最も強力に邪魔している「道徳」。

 「道徳」の次に問題になってくるのは,「どこどこ小学校」などという学校の「看板」である。

 他の地域からわざわざバスで通学しにきて,「うるさい」「邪魔だ」と迷惑扱いされている子どもに

 ブランド品を着せて,どうにかしようとする,という発想は「道徳」以下だが。

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小学校における学級崩壊要因の拡大に備えて

 教育改革が「改悪」に過ぎない最もわかりやすい例が,小学校における英語の必修化である。

 小学校教員の「ナマの声」も届くようになった。

 「せっかく苦手な英語に縁のない仕事につけると思ったのに・・・」

 小学生の子どもを持つ身としては,各学校に,「最も英語の指導に自信がない教師」の授業を公開していただきたい。中途半端な力量で自信満々にやっているものの,発音がひどい教師の英語を聞き続けるのは酷である。

 それよりも自信なさげ,申し訳なさげに,とてもじゃないが中学校の英語科の教師に見せられたものではない,ただの遊びのような授業を突きつけられる方が,「いかに時間を無駄にしているか」を実感することができる。

 実践力が低い教員の授業を参観することで,どこにどのような問題が潜んでいるのかを明確にすることができる。どこのだれがこんな学習指導要領をつくったのか,と国民の怒りを一つにまとめることも可能だろう。

 小学校の学級崩壊の要因には様々なものがあるが,

 とにかく授業がつまらない,という子どもの悩みが根本にあるように思う。

 指導力のない教員は,「楽しい授業」をしなければならない,と焦る。

 しかし,「学び」がなく「遊び」にすぎない授業はすぐに飽きられて,すぐに崩壊に向かうのである。

 子どもだって,「バカにされていた」ことがわかるのだ。

 楽しい授業ができる教師のおかげで,とんだとばっちりをうけている,という悩み方もあり得るが,子どもが「わかる喜び」を実感できない以上は,机に縛り付けておくことはそもそも困難であろう。

 子どもはいくらでも立ち歩いて構わない,という学習形態が存在してしまうのも無理はない。

 英語の授業が始まることで,小学校に学校崩壊要因が加わることとなる。

 どのような対策が取れるだろうか。

 保護者の方では,英語の塾に通わせるという短絡的な発想が蔓延するだろう。
 
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「何何の仕方」改革が失敗する理由

 「働き方改革」は,今後上手に進めることができるでしょうか。

 教育の世界では,「~の仕方」という言葉が出てくるとき,現場ではたいてい成果が出せずに終わっています。

 「生きる力」が登場したとき,「学び方を学べる」総合的な学習の時間が始まりましたが,今,どうなっていますか?

 今度は,「見方・考え方」を働かせる学習が始まろうとしていますが,小学生が教科ごとにそれらを働かせることは可能だと思いますか? 

 高校の教育や授業を改善させる目的で,小学校から続く串を用意したのでしょうが,小学校でそれが機能するでしょうか?

 内容を語る力がなくなったときに,人間は何かの「方法」に頼ろうとします。

 教養が失われたときに,人間は何かの「手段」に頼れば何とかなると考えます。

 お粗末な内容のオンパレードによって,「方法」や「手段」が「戦犯」になることがわかっている教育改革。

 学校現場は,「働き方」の問題ももちろんあるでしょうが,「仕事の質」を問わずして,「方法」で何かが解決すると思ってしまう人こそが,「改革されるべき存在」なのです。

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消された学校像~完コピをつくるなら,どこがモデル校に?

 時事通信社の「内外教育」とはどんなものか,管理職以外の先生方にはわからないかもしれない。

 私も,指導主事時代にしか読んだことがなかったものだった。

 たまたま,事務室の机の上にあったので,表紙のコラムを久しぶりに読んでみた。

 校種は別だが,私と同じ教科の指導主事の先輩で,文科省にも長くいらした先生の愚痴が書かれていた。

 平たく表現すれば,「学習指導要領」の質が変わったことを嘆いておられる。

 大学の先生の仕事は,文科省の主張の完コピをするだけになったから,存在意義もないことに気づかれたのだろう。

 全国学力調査の余波なのか,政権の性格が世の中全体にコピーされ始めているのか,理想の学校像というか,学校づくりの大原則,基本方針が変化してきている。

 かつては当たり前だった,学校づくりにかける大切な思いが,消されているのである。

 コラムには,私が「必ず失敗する新学習指導要領」と評価している根拠と同じような内容が書かれていた。

 主体性を求めているくせに,時間はもちろん,内容から方法まで,完全にがんじがらめにする新学習指導要領は,「お上に黙って従う=主体的な態度」という支離滅裂な精神構造を鉄筋コンクリートで固めるようなものである。

 思考停止を強いている人間に,「多面的・多角的な見方・考え方」など育てられるはずもない。

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現実的な教育内容や教育方法の議論がなぜ小学校や高校では役に立たないか

 小学校の教育内容にいちいち目くじらを立てる人は少ない。きりがないからでもあるし,学力を向上したければ,学校以外に頼れるところがたくさんあるからである。

 高校の教育内容にいちいち目くじらを立てる人も少ない。義務教育ではないし,学力が輪切りになっている高校では,Aという進学校で通じる話がEという生活指導困難校では通用しない(逆もある)からでもあるが,一番大きい理由は小学校と同じ。学力面では,高校の教師よりも頼りになる人が外にいくらでもいるからである。

 それなりの経済力がある家庭の場合は,学力向上を学校以外の教育産業にまかせることが可能である。

 小学校や高校を対象とした教育内容や教育方法の議論は,どれだけなされようが,主たる教材である教科書に寄りかかって学習を進めるような教師がいるうちは,ほとんど意味をもたないことは,大部分の学校が証明してしまっている。

 中学校の場合はどうだろう。中学校は中途半端な宙づり状態にある教育現場である。

 小学校や高校との最大の違いは,学校の成績が,進学にそれなりに大きな影響を及ぼす点にある。

 中学受験や大学受験との非常に大きな違いを高校受験が持っている。

 だから,教師や生徒は授業で手を抜くことはできない。教師が気まぐれにアクティブ・ラーニング風の授業をしたら,それに合わせてあげないといけないし,細かい知識ばかり問うような定期考査問題をつくってきたら,しっかり対応しないとよい成績が残せなくなる。

 都立高校は学力検査と調査書点(いわゆる内申点)の比率を7:3にしてしまったが,これまでは普通科の大部分が5:5の比率だったのである。

 「下級校の学習の成果を踏まえた進学指導」が成立する余地がかつては大きかったし,調査書点と実力の相関関係が怪しくなってきている今でも,中学校の成績がきちんと使われる場になっている。

 要は,中学校で通用する教育内容や教育方法の議論がなければ意味がないということと,中学校で通用しない教育内容や方法では意味がないということである。

 小学校や高校の実践ばかり集めても,「ああ,そういうことができていいね」と他人事で終わってしまう。

 どんな脚色をしても,バレずにすむのが小学校や高校である。

 捏造すればたちどころにバレるのが中学校であり,だから実践例が少ないのだろう。

 「地理総合」や「歴史総合」がどんな代物になるか,中学校側の目から見ていると,

 「大学の先生が中心になって考えると,ろくなことにならない」ことを証明するための実験をしているように見える。

 中学校教師の目から見れば,

 「これは何とかなる」

 「これでは中学校の繰り返しだ」

 「それでは小学校よりもレベルが低くなる」

 「これは無理だろう」

 などと生徒の実態を踏まえた感想がいくらでも出せる。

 義務教育でもないし未履修問題のような誤魔化し方ができる教育機関に期待することは実はほとんどないのだが,小中高のつながりを意識させる学習指導要領に変わっていくので,黙ってはいられない。

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日本の教育に欠けている「適時的で適正な評価」の発想

 日本の中等教育には,学習の評価を適時的に児童生徒に返す習慣というか制度がありません。

 小学校のときは,ノートや作品に必ずコメントが添えられて返却されましたが,「評価」というよりは「励まし」みたいなもので,「よろしい」だけで終わるときもたくさんありました。担任の先生はそれほど暇ではないし,30人の子ども全員にコメントをつけて返すのは難しいのだろうと子どもながらに思っていました。

 中学校の場合は,教科で担当する生徒数は100人を軽く超えるようになりますから,作品やノートにコメントを記していくことはなかなか困難です。

 かつて,私が「四段階の評価」の重要性を雑誌で発表したときに,北海道の中学校の先生に目をつけていただきましたが,制度は変わらないままで,申し訳なく思っています。日本の教育行政には,適時的で適正な評価を行わせようとする気はないのです。

 今日は,アメリカの学校から帰国していた教え子からいろんなことを学び,考えさせられました。

 論文の準備のために相談にやって来たのですが,質問がとてもシャープで,端的に答えられないもどかしさが募りました。アメリカの教育の成果がとてもよく見えた気がしました。

 今までに受けてきた講座,今受けている講座の成績が一覧で分かるようになっているサイトを見せてもらいましたが,素晴しい仕組みだと思いました。レポートの点数も,すぐに反映される仕組みがあり,宿題等はメールで送られることもあるようです。

 こうした適時的な評価をいつでもどこでも見られるような仕組みは,日本にはありません。

 アメリカでも,中には友達に宿題をやってもらう子もいるようですが,バレたらアウトだそうです。

 成績が悪い場合も学校をやめさせられるという厳しい環境は,日本では考えられません。

 教師1人が担当する児童生徒数が非常に多く,教師がただ情報を垂れ流しておけば仕事が成立する日本と比べて,教え子の学校では,教師が的確な評価を適時的にすべての受け持ち生徒に送れるくらい,余裕があるようです。もちろん,質問にはメールでも答えてもらえるそうですし,教師と生徒のつながりも強いようですね。

 日本の教育の良さは,大量生産だから,「安い」こと。それだけだったら哀しすぎます。

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鉄道トラブルと学校教育の劣化の共通点

 ここ10年,教育実習生の資質能力の低下,劣化が順調に?進んでいることを実感している。

 こういう実習生たちのうちの何%かが現場の教師になっていく。

 昔だったら,「教師は現場で育てられる」ことが常識であり,本当に成長させることができたのだが,現場は現場で問題を抱えている。

 その問題とは,トラブルを相次いで発生させている鉄道会社と同じ構造的な問題であることがわかった。

 構造的な問題とは,職員の年齢構成上の問題である。修正不可能な問題である。

 JRでは,民営化された時期に新規採用を抑制した影響で,45~49歳の社員が極端に少なくなっている。

 働き盛りのベテランの人数が少なくなっているのは,学校現場も同じ。

 学校現場では,やる気はないが能力がある人,やる気はあるが能力がない人たちが教育管理職に登用されるようになっており,貴重な前線のベテランが減らされている。

 大学での教育は役に立たないから,OJTが機能しなくなったら,学校は終わりである。

 学校にはもともと,ベテランでも「お荷物」がいて,こちらにとられるエネルギーも大量に要するところに,若い教師たちを育てる労力も大変なものだった。一般企業だったら,窓際に追いやることで現場での実害を防ぐことができるのだろうが,学校ではそれは難しい。ベテランの尻ぬぐいと若い教師の教育の両方を担える人の絶対数が足りない。

 鉄道会社の場合はさしあたって,たとえば新幹線の脱線事故が起こる前に,少なくとも異常を感知したときには安全点検を徹底させるなど,指導を徹底させればよい。職員が異常に気づくこともできない場合は,乗客を頼るしかない。

 学校の場合は,今でもあるのだが,子どもや保護者から教員の問題を訴えることができる場を充実させる必要があるだろう。
 
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ネガティブ・ケイパビリティ~解決困難な問題に正対し続けられる資質能力

 また小難しいカタカナ語が出てきたなと反発される向きもあろうが,

 「ネガティブ・ケイパビリティ」は日本語に訳しにくいことこの上ない。

 しかしこの「能力」を重視せずにはいられない人々がこれから増えていくはずなので,あえて訳さないというのも一つの方法である。どう解釈したらイメージがしやすいか。

 ネガティブはポジティブの反対語だから,「消極的」「否定的」が真っ先に思い浮かぶかもしれないが,

 「プラスとマイナスのマイナスの方」「正と負の負の方」というのがここでは一番ピッタリくる。

 ポジティブ・シンキングを「プラス思考」というのに対し,ネガティブ・シンキングを「マイナス思考」と呼んでいるように。 

 次に,ケイパビリティという言葉だが,

 経営学や防衛産業で使われている「手腕」「能力」「性能」という意味で,

 単語ではアビリティ(これも「能力」)の前に「cap」がついているものである。

 「able」と「capable」という単語の意味はほぼ同じようだが,

 「capable」の方には「受け入れる余地がある」という意味で使える。

 「capacity」(能力,最大限の収容能力,包容力,度量)という単語に

 やや近いイメージだろうか。

 つまり,「ネガティブ・ケイパビリティ」とは私なりに直訳すると

 「負の事象を受け入れる力」が一番イメージに合っている。

 だれがどのような意味で使い始めた言葉なのかというと,帚木蓬生さんの著書によれば,詩人のキーツがシェイクスピアに備わっていた能力だと指摘していたこととして紹介されている。


>どうにも答えの出ない,どうにも対処しようのない事態に耐える能力

>性急に証明や理由を求めずに,不確実さや不思議さ,懐疑の中にいることができる能力

>(詩人がアイデンティティを必死に模索する中で,物事の本質に到達する前の)宙吊り状態を支える力

>不確かさの中で事態や情況を持ちこたえ,不思議さや疑いの中にいる能力

>対象の本質に深く迫る方法であり,相手が人間なら,相手を本当に思いやる共感に至る手立て

>〈問題〉を性急に措定せず,生半可な意味づけや知識でもって,未解決の問題にせっかちに帳尻を合わせず,宙ぶらりんの状態を持ちこたえる(能力)

>(学校教育や職業教育では)問題が生じれば,的確かつ迅速に対処する能力が養成されるが,ネガティブ・ケイパビリティは,その裏返しの能力です。論理を離れた,どのようにも決められない,宙ぶらりんの状態を回避せず,耐え抜く能力です


 キーツが文学・芸術の領域でその有益さを示したネガティブ・ケイパビリティを精神療法の場においても必須の要素だと考えたのがビオンという精神科医,精神分析医であった。


>ネガティブ・ケイパビリティを保持しつつ,治療者と患者との出会いを支え続けることによって,人と人との素朴な,生身の交流が生じるのだとビオンは説きました

>(ビオンは同じく,精神分析医も,患者との間で起こる現象,言葉に対して,同じ能力が養成されると主張したのです。つまり,)不可思議さ,神秘,疑念をそのまま持ち続け,性急な事実や理由を求めないという態度


 ビオンが抱いていたとされる危惧は,そのまま教育者,企業の経営者などにもあてはまることと考えられる。


>精神分析学には膨大な知見と理論の蓄積があります。若い分析家たちはその学習と理論の応用ばかりにかまけて,目の前の患者との生身の対話をおろそかにしがちです。患者の言葉で自分を豊かにするのではなく,精神分析学の知識で患者を診,理論をあてはめて患者を理解しようとするのです。これは本末転倒です。


 日本の文化の事例にあてはめてみると,「道」を究めた人が行き着く「無の境地」というイメージに近いものだろうか。

 物事の本質を見極める上で,山の頂を想像し,「頂点」から展望が周囲に開けた状態,「ものの見方」よりもっと広い視野が持てて,焦点もあちこちに浮遊できる状態から始めるという方法も参考になった。

 帚木さんの著書には,黒井千次氏の「知り過ぎた人」という随筆の一節も紹介されている。


>それにしても,とあらためて考えざるを得なかった。謎や問いには,簡単に答えが与えられぬほうがよいのではないかと。不明のまま抱いていた謎は,それを抱く人の体温によって成長,成熟し,更に豊かな謎へと育っていくのではあるまいか。そして場合によっては,一段と深みを増した謎は,底の浅い答えよりも遙かに貴重なものを内に宿しているような気がしてならない。


 この文章が紹介されている第三章「分かりたがる脳」の最後を,帚木さんは次のように締めくくっている。


>全くそうです。ネガティブ・ケイパビリティは拙速な理解ではなく,謎を謎として興味を抱いたまま,宙ぶらりんの,どうしようもない状態を耐えぬく力です。その先には必ず発展的な深い理解が待ち受けていると確信して,耐えていく持続力を生み出すのです。


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準備体操なしで全力疾走させるような授業はアウト

 小手先の理論や先輩の実践,体験談などに頼っていては,現場で成果を出すことはできない。

 現場で相手に向き合っているのは理論や先輩ではなく,自分なのである。

 だからといって,理論や先輩の実践,体験談を知らないでよい,というわけではない。

 教育現場で起こる様々な現象について,その都度その都度,新しい自分なりの「気づき」が得られるのは,理論や実践記録,体験談を知っているからである。

 こういう話は,教師にとってあてはまるのと同じように,子どもたちにもあてはまる。

 ただ単純に上級生と同じような体験をさせただけでは,

 本当に大切な「気づき」は得られないまま終わることが多い。

 「アクティブ・ラーニングを行う」だけでは意味がないことは,実際にそういう目にあわされた人ならわかるだろう。

 そしてそういう人がこれから非常に増えてくるおそれがある。

 その裏側で,理論なり先輩からの話なりを聞いていた人だけに,成果がついてくる。

 現役引退を決めた巨人の「代走のスペシャリスト」,鈴木選手の記事を日経電子版で読んだ。

 「勝負は準備の中で決まる」

 この言葉を,これからALを実践しようとする現場の教師たちにも読んでほしい。

 「準備」するのは,教師だけではない。子どもにこそ「準備」が必要なのであり,その「準備」を大切にしてきた授業スタイルを捨てると,子どもに待っているのは何なのか,失敗して気づいてからでは遅いのである。

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歴史用語半減による「ゆとり」が生むもの

 高校の日本史や世界史を「用語を覚える科目」としてきた高校や大学の教員たちが,教科書の用語を減らすための案を作成したという。2つの点でナンセンスである。

 1つは,結局用語を減らしたところで,「少なくなった用語を覚える科目」に変わることはなく,試験も「暗記問題」を出すことが前提になっている。なぜ義務教育の「ゆとり教育」という名の「ゆるみ教育」を繰り返そうとしているのか。

 もう1つは,そもそも教科書の内容をすべて教えなければ,受験のときに生徒が困るという強迫観念が捨て去れない限り,授業や試験の改善などあり得ない,ということである。

 歴史の人物名や事件名などは,それらを覚えたり,それらの事実を知るためだけにあるのではない。

 歴史学習は,さまざまな事象の関係,関連を考えるためにある。

 取り上げられる事柄が限定されることによって,さまざまな「気づき」のチャンスが失われていく。

 「多ければ多いほどよい」とは言わないが,実際に資料集を活用している高校なら,教科書ではなく資料集を実質上「主たる教材」として授業をする教員も出てくる可能性があるだろう。20年前と同じワークシートで授業をしている教員にとっては,関係のない話かもしれないが。

 そもそも「用語削減策」は,「受験生がテストでいい点をとるために不利な科目を敬遠することを避けるため」に出されたようなものだろう。

 客を増やすために当たりの確率を高める娯楽産業のような対応である。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より