カテゴリー「教育改革」の14件の記事

帝国海軍と陸軍による観点別評価の延命

 日本の学校教育における「評価」の改革については,やはり「黒船来航」が必要なのでしょうか。あるいは,「原爆」級のものか。

 観点別評価については,行政は帝国海軍,学校現場の一部は帝国陸軍の発想でまだ「終わり」が見えません。

「100ページの1文」(09/08/15)より

 「どこが悪いのか知らせようともしない」これまでの通知表を克服することがはっきりと打ち出され,家庭に対する説明責任を果たすために目標準拠評価を採用している。

 教育評価と言えば,相対評価絶対評価目標準拠評価),個人内評価自己評価・・・さまざまな評価が実践され,研究され,子どもたちや親に手渡されてきましたが,その研究をすればするほど,教育指導・教育実践の貧しさが際立ってくる,そういう教育の矛盾した面が露呈してしまうのが「教育評価」です。

 教育評価は,指導の改善のためだ,と明言している論者もいるようですが,とすれば柱は評価ではなく,指導です。

 1969年に「通信簿論争」というのがあったそうですが,それをやる前に,毎日の学習をどう見直していくべきかが議論されるべきでした。

 「見えない学力」「測れない学力」への挑戦が続いているようですが,それらはたいてい「見える学力」「測れる学力」が低い子どもたちへの配慮として行われているようなものです。

 評価ではなく励ましで,あるいは自己反省ですむものを,そしてもっと他に使うべき時間をあえてさいて,「評価」に力を入れることが,どんな意味があったのか,残念ながら「教育評価」の歴史には失敗への検証というのがありません。
 「教育評価」に歴史がある・・・と語るほど,その研究に意味があったのかどうか,それが本書を通して最も問われるべきときなのでしょう。

 
人物で綴る戦後教育評価の歴史

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「いい学校」「いい会社」の意味 ふり返り366日【08/6/14-2】/1婦○児主義

 「学習」というものが生活の中にどう位置付いていくのか,「学習意欲」はその見通しがたった段階で高まるものではないでしょうか。

 「いい学校に進学し」「いい会社に就職し」・・・という発想が本物の学習意欲を高めることにならないのは仕方がないとして,一方で,本物の「いい学校」は本物の「学習」とは何かを気付かせてくれるし,本物の「いい会社」は,非常に質が高い「学習」の習慣を身に付けさせてくれるかもしれない・・・それが,あながち「いい学校」「いい会社」に進むための準備的な「学習」の動機付けになり得ないとも言えない・・・・そういう気もします。

 だいたい,「学習」の本当の意味は個性的なものかもしれませんし,それに気付くのはずっと後になってから,ということもあり得ます。

 伊能忠敬などの例を引くまでもなく,「学習」への動機,達成への意欲は年齢を重ねてから芽生えたり成長したりすることもあるでしょう。

 問題は,そのような「学習」への価値観について,まだ「学習」とは何かもわかっていないような子どものそれと,子どもがとる態度については,だれが責任を負うべきなのか,ということです。

 「子どもの自己責任だ」と教師の側が言い切れば,それは「単なる責任逃れ」と受け止められるばかりでなく,まさにその通りの行動を容認するきっかけにもなってしまう。

 では,「それは教師の側の責任だ」と言い切れば,子どもの教育に最も責任を負うべきなのは親だろう,という反論が待っている。

 ということは,教師の側には,親が子どもの教育への責任を負いやすいような条件を整える,そういう役割が考えられるということになります。

 そして,経済的に恵まれた家庭の子どもほどその条件が有利だということになれば,公立学校の使命は自然と導き出されることになります。

 ただ問題は,公立学校がそれを最も実現しにくい条件を同時に抱えているということでしょう。
 この問題を克服するためには,新しい「公立」らしさを追究するしかありません。

 そういう「学習」が今,教育界には最も求められています。

 まず手始めは,「右肩上がり」の時代ではなくなり,「給料が下がる」時代になったことを利用して,打てる手を迅速に打つべきでしょう。

08/6/14 プロの教師と生徒のプロで創る授業 その2 未来の学習の指定席  プロは、余裕を感じさせます。  急がず、慌てずに行える明確な指示。  間を効果的に使った発問。  生徒からの意外な質問への対応。  急な予定の変更への落ち着いた対応。  生徒が動き出すまでの「待ち」の姿勢。  教師の余裕は、生徒たちの余裕によってさらに広がりと深みが増します。  余裕のある生徒は、いつ、何を、どのくらいの時間で処理できるか、あらかじめ整理できます。だから取りかかりから慌てません。適度なペースを守ることができます。  余裕のある生徒は、ノートも余裕をもって取ります。  時間的なずれの余裕。後で書くべきこと、調べるべきことを忘れません。  ノートの空間的な余裕も持たせます。  ノートに書いたことは、その時間の学習内容のすべてかもしれませんが、その学習の内容のすべてではありません。何がそこからさらに学べるか、空白が想像力と創造力を保障してくれます。未来の学習の指定席がそこにあります。  余裕のある教師の下では、本当のゆとりの教育が行われます。  それがプロと教師と生徒のプロがつくる授業の基本です。

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昭和の家庭史トリビア?【第59問】 
 昭和11年(1936年)の話です。
 ドイツのナチス党大会で,ヒトラーが「1婦○児主義」を強調したそうです。○にあてはまる子どもの数は?
 ① 5
 ② 6
 ③ 7

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 【第58問の解答
 ②の28歳(27.9歳)でした。妻は23.9歳。

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「真剣さを感じない」感性 ふり返り366日【08/6/5-1】/昭和10年のデータ

 中学校の生徒指導(ここでは問題行動への指導という意味)は相当に気をつかって行うのが一般的になっています。
 「昔の感覚」を信じての指導では,なかなかうまくいかなくなっていることを,第一線の教師たちは感じ取っていることでしょう。

 多くの教師は,自分が生徒だった頃までイメージをさかのぼってしまうこともあり,生徒指導では必ず一度は大きな失敗をしてしまうものです。

 昔,よく言われていたことに,「本気で叱ってくれたことに感謝する」と感じてくれる生徒が多かった,ということがあります。(もちろん,今もそういう生徒はいるでしょうが)

 ここでの「本気で」という言葉の意味は,「仕事だから」とか「きまりだから」という態度ではなくて,「その生徒のためを思って」とか,「学校の伝統を守るため」とか,生徒が「筋が通っている」と実感できるもの,ということです。
 
 「真剣さ」が伝わる指導,というのは,場合によっては,ほとんど経験せずに生きてきた人もいるでしょう。

 ですから何が「本気」で「真剣」なのか,どこで線引きできるのか,という問いが生まれてしまうかもしれませんが,これこそ「感性」によるものです。

 「感じない感性」というものもあるわけです。

 こういうとき,指導は完全な空回りになるので,空しいというか惨めなものです。

 「本気」のよさが取り戻せる学校づくり,というのも,案外「改革」の決め手になるかもしれません。

08/6/5 「本気」でチャレンジしよう!

 ブログを通してお知り合いになれた、Z会のTさんのブログの記事、あなたにとって「本気」とは?には子どもたちにもぜひ読んでもらいたい内容(引用・・・FaithホールディングスのHPから)がありました。
 6つの「本気」、穴埋め問題にしてみますが答えがわかるでしょうか。

 1.本気とは“言葉”ではなく“(  )”である。
 2.本気とは“明日”ではなく“(  )”始めることである。
 3.本気とは“始める”ことではなく“(  )”ことである。
 4.本気とは“独りよがり”ではなく相手を動かす“(  )”である。
 5.本気とは“(  )のため”ではなく“(  )のため”である。
 6.本気とは“何かを得る”ではなく“何かを(  )”ことである。

 ①は、どんなリーダーに人はついていくか、考えてみて下さい。
 ②は、いつも言われていることですね。
 ③は、「続ける」よりもっと強い言葉です。
 ④も、リーダーにとって大切な資質です。
 ⑤と⑥は、組織と個人、どちらが優先されるのでしょうか。自分の責任を逃れるための言動にならないようにするためには、⑤と⑥にそれぞれ何が入ればいいのでしょう。
 ⑦は奥が深い話かも。普通、人の努力というものは、何かを得るためにしていると考えられます。
 しかし、あるレベルまで達すると、⑦が大事になります。
 ⑦ができない私などは、今、こんなことに時間を費やしています。

昭和10年(1935年)のデータ
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○北海道北見のハッカ生産が世界市場の7割を占める。
○明治神宮体育大会のマラソンで,孫基禎が2時間26分42秒の世界最高記録。
○警視庁が紙芝居の内容・業者の統制に乗り出す。東京の紙芝居業者は約2500人。
○幼稚園児の好むおやつの順位。1位:ビスケット,2位:おかき,3位:せんべい。
○佐渡金山,新しい採金法で採金率が40%から85%に。
○米式蹴球(アメリカン・フットボール)の第1戦が東京・明治神宮外苑で行われ,横浜選抜が在日外国人チームを26-0で破る。
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前提を見誤った制度 ふり返り366日【08/6/1-2】/「大名家」は生き続ける

 学校評価にはほとんど関心を示さず,人事考課制度については過剰なほどの反応をし,観点別学習状況評価については,おとなしく従って多大な労力を費やしている,このギャップの原因はどこにあるかと言えば,簡単な話で,人事考課だけは自分に直接的にかかわってくる評価だからでしょう。
 
 マクロに見れば効果が高そうな制度でも,個々の人間が自分の利害に執着するミクロの世界ではよくない結果を招く,そういう話はどこにでも転がっています。前提を見誤った制度はうまく機能しません。

 教育の評価については,傍目から判断して「いい指導」を行えば必ず「いい成果」が得られるものではないため,評価そのものは空しい面がありますが,それを正面から受け止めることが,本当のいい意味での「いい指導」に前進するエネルギーになるわけです。

 よい方向に前進するためのエネルギーが得られるような「評価」は,本当は子ども自身が最も求めているものなのでしょう。

 だれに指導されるかによって,評価も大きくぶれるような教育を見直す契機が,入試や学力調査をまたなければならないといったところが悲しいものです。

08/6/1 評価の質の低さは指導力の質の低さと同じ

 学校評価の考え方についての批判をもとにコメントした文章がありますので、ここでも紹介させていただきます。
 内容の趣旨は、これまでに述べてきたものとほとんど変わりません。

 私も現場の一教員としての立場から申し上げさせていただくと、もし学校評価の項目に問題があると考えれば、当然のことながら検討してもらうでしょう。
 人手不足の教育委員会はそこまで手がまわらず、学校の自律性に任せている部分が大きいですが、外部評価が機能することによっても健全化は望めます。
 「学校評価の項目に関する学校間格差とPDCAサイクルの実態」などの研究プロジェクトを実行してもらえると、学校評価の質も高まるでしょう。
 「学校評価の質を高めることにより、学校教育の問題点を改善しやすくすること」は、教務主任レベルの職務目標にもなります。
 もし個人の評価を高めるため、学校全体の指導力の向上を果たさない教師がいれば、それは学校全体の目標に反しているという意味で、その教師の評価は低くなるでしょう。
 しかし、その教師が指導で高い成果が出ている部分については、出ていない教師より評価が高いのは当たり前のことです。
 個人名はあげませんが、「すごい授業」をすると有名なある先生が、学校全体の動きにほとんどかかわらず、講師に招かれるので出張ばかりしていた、ときには生徒も自習になるのでビデオばかり見せられていた時期がある、という例もあります。
 有名人はこのパターンが多い
 さて、こういうプロジェクトがあったとき、一部には「学校評価の質を高める」のが目的になってしまって、「より良い教育」という本来の目的の達成がおろそかになる、という主張をする人がいますが、これは、日本国憲法の原則にしたがってさえいれば何でもうまくいくと勘違いして、さまざまな法令のことに目が向かないというパターンと同じです。
 さらに、この法律や命令は憲法の趣旨に反していると(自分が)判断して、遵守しないような行動をとる人までいる。
 ある一つの目的を達成するには、個別に達成すべき具体的なことがたくさん設定できるので、それぞれについての達成目標が必要になるのです。
 「学力を向上させる」という目標もその一つですが、それを達成するにはさらに達成すべき課題がたくさんできる
 一つ一つの目標を達成することが、大きな目的を果たすことにつながるのであって、小さい目標を果たすことが目的になることは、大きな目的は果たすために欠かせないことです。
 「より良い教育が目的です」と言われても、何をいつどのようにするのか、どうだったのか、答えられないと、改善も何もできないのです。
 「競争」や「評価」を低い次元にとどめているのは教師の戦略性・論理性の欠如によるもので、この部分については常に生き残る努力をしている企業から学べることが多い。
 抽象的なことばかり主張して生きていけるのは、大学の先生くらいでしょう。
 もちろん、教師が企業とは異なる教育のコンピテンシーもあります。それらを明示していければ、より信頼性が高まることは言うまでもありません。

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昭和の家庭史トリビア?【第37問】 
 昭和8年(1933年)の話です。
 この年,加賀・前田藩の子孫前田利建と黒田藩の子孫黒田政子が結婚しました。このとき,政子の婚礼家具が多く,運び込むのに相当の時間がかかったそうです。どのくらいの時間がかかったのでしょう。
 ① まる1日
 ② 3日
 ③ 1週間

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 【第36問の解答
 ①の三原山でした。東京市が心中防止相談所を開設し,悲恋による自殺防止が図られるようになったそうです。

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市民意識の欠如のモデルは公立学校にある?

 毎日jpに「勝間和代のクロストーク ~みんなの経済会議~」というコーナーがあり,6月には「公立学校に地域コミュニティー委員会設置を」というテーマで様々なコメントが寄せられていました。

 教育委員会の職員,PTA関係者はもちろん,公立学校の教師たちにもぜひとも読んでもらいたいコメントばかりです。

 129のコメントの多くは豊かな経験に裏付けられたものが多く,圧倒されるボリュームです。

 投票の結果は,

 賛成18.4%
 だいたい賛成26.3%
 どちらかといえば反対23.7%
 反対31.6%

ということでした。

 ベストアンサーに選ばれた方が問題にしていた「日本は官主導が多すぎる」こと,かといって自分たちで問題を解決しようと動くかというと,そうでもないこと,「日本人の宗教観,国家観とも密接に関係している」が,「日本人には自らを社会の一員だとする意識」はあっても,「社会は自ら創造するものであり、自ら支えていかねばならないという市民意識がとても希薄」であることは,確かなことです。

 そういう日本人の問題点を改善しようとして,改正したのが教育基本法学校教育法であるわけです(やはり官主導?)。

 新しい学習指導要領が出されましたが,文科省には「教える例を教えて」という問い合わせが多いようです。

 こういう教師たちの姿勢が問題であることは言うまでもないのですが,教師も公務員の側であることを考えると,公務員サイドでもっと情報の共有化や原則の理解を深めてもよいのではないかと,普通の人なら思うでしょう。

 確かにそうですが,「学校社会を自ら創造する」「学校は学校の教師が中心になって支える」「地域の学校として人々の信頼を得られるような教育空間とする」などという強い意思が見られることが,結果が出る条件なのに,何でも「教えてもらおう」という態度で「上」を見てしまう・・・・。

 今,官の方は「ばらまき」をやめ,「やる気とアイデアがある個人や団体」を支援するという大きな方向性を築いています。これを「差別的」と批判する人もいるようですが,差別化しないと結果としてはバラマキになってしまい,すぐに財源はなくなります。

 「金をくれ」「人をくれ」「アイデアをくれ」といっている連中に,教育の創造は果たせないでしょう。地方の自立などとは程遠い,日本社会の現状の縮図が学校社会にあるのかもしれません。

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昭和の家庭史トリビア?【第6問】 
 昭和2年(1927年)の話です。この年は,年末ですが日本発の地下鉄が開通しました(上野・浅草間)。また,大正天皇崩御で,元日に配達される年賀状の数が激減しました。(前年の3595万2246通から282万638通へ)
 さて,問題です。この年に流行した,フミナイン・玄華・ペトロールハーン液といえば,何の薬?
 ① 水虫薬
 ② 下痢止め
 ③ 毛生え薬

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 【第5問の解答
 ① 銀座・松屋からだそうです。

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次世代教育のヒント ~子どもと教師の組織の融合~

 教育現場の人間が教育施策を批判するときに一番「痛い」ところは,実は子どもを直接的に指導する自分自身が子どもの教育に対して「絶大な影響力」をもっているにもかかわらず,その「影響力に対する影響力」をかたくなに排除しようとするように見られてしまうこと(実際にはほとんどその通りになっていること)でしょう。

 早い話が,「勝手にやらせてくれ」「放っておいてくれ」というのが最もわかりやすい主張です。「私共空間」絶対主義思想です。

 こういうやり方で,人間関係が固定化したり,こじれた関係まで固定化する小学校学級王国出身の哀れな子どもたちは,進学する中学校によっては,その負の遺産に苦しめられながら悩ましい3年間を送ることになります。

 この対極にあるのは,「勝手に手を抜かれたり余計なところに力を入れられたりすると困る」「より質の高い教育を望む」という保護者の主張です。本来は,これが普通の「公共空間」の功利主義的な思想です。

 そして,本来は保護者よりにあっていいはずの「新聞」が,「保護者世代」ではなく,「団塊教師世代」の方が読者が多くなってしまっているせいか,「教師を擁護する」記事づくりに精を出している現実。

 「両面外交」の典型のような仕事をしていることがよくわかる団塊世代管理職の教育ブログを読んでも,「よりよい教育を望む子どもや親の顔が全く見えてきません。

 ・・・教育界に政策批判の「カリスマ」がなかなか登場しないことは,ある面ではとてもいいことながら,別の側面から見ると,教育政策に対しては,何年たっても全く変わらない,黴が生えたような一面的な批判ばかりしか出されないというのは情けない話です。

 一人の教師がもっている「権力」の,子どもにとっての絶対的な強さ,影響力の大きさをカモフラージュしようとする動きへの疑念をいよいよしっかりもつべき時代になってきました。

 子どもにとって「本物の力」をつけるために欠かせない次世代の教育上の最も重要な施策上のテーマは,「子どもと教師の組織化」「子どもと教師の各組織の融合」にこそあると私は考えています(詳しくはまたいずれ記事にします)。

 次世代は,行政が,とか,教師が,とか,政治家が,とかではなく,子どもと教師が(ここに保護者が加われば文句なし)一緒になって教育を語れる「新しい学校」づくりを進めていくべきでしょう。

 その学校では,子どもと教師が様々な活動を通して,自らの力で互いに「所属意識」を高めていけることが成長の鍵となるでしょう。

 「所属意識」を持てない「批判専門」の人間をときには排除しなければならない状況も生まれるでしょうが,そういう「嫌な思い」をお互いにしなくてすむように,「よりよい教育」を求めて,互いに批判し合いながら所属意識が高まり,その高まりの中でさらに対案を持ち寄って批判し合える関係を築ける教師になりたいものです。

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抵抗勢力の頑強さ

 授業改善学校改善は,例外なくすべての教師や学校が取り組むべき課題です。
 
 しかし,教師の犯罪行為をはじめとした多くの問題は,「改善という段階以前の問題」として学校にのしかかってきています。

 授業改善や学校改善に取り組む前の段階で,たとえば次年度の組合の「役付き」「学校代表」をだれにするのかで紛糾して時間が無駄になるという,役員立候補者が出ないで抽選で決まってしまうようなPTA保護者会のような実態を見せている学校すらあるでしょう。

 とにかく多くの教師たちは,「人から命令されること」が嫌いです。

 たとえ形の上でも,「自分たちが自主的に行っている」ような研究でないと,やる気になりません

 しかし,だからといって,自主的にすべての学校や教師がやる気になるわけではないのは,組合の役員決めなどでも見られるし,そもそも授業等で「自ら学び自ら考える」子どもを育成する難しさを知っている自分たちが一番よく分かっているはずなのです。

 組合の話は置いておくとして,授業改善などは,行政からの要請があろうとなかろうと,常に必要なのです。

 そこに子どもたちの「満足できない」学習状況,生活状況がある限り。

 ただ,「抵抗勢力」の強さに打ち勝てるほどの人材が,管理職を含めて学校にそろっているかどうか。

 多くの学校では難しいでしょう。

 だから結果として,改善の姿勢や実行や実績が不十分であることを理由に「差をつける」ことが行われることになるのです。

 「子どもを差別するな」と言う前に,自分たちがすべきことをすればよいのですが,身分が保障されている公務員を動かすのは,本当に難しいものです。

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失敗はどのように繰り返されるか ふり返り366日【08/2/19-1】

 さすがに総合の時間に百ます計算をしているような小学校はないと思いますが,各学校によって,総合の時間の取り組みは千差万別でしょう。

 「効果がすぐ見えない教育よりも,すぐ力がつくことが実感できる教育を」という要請は,子どもや保護者の側からだけのものなのか。
 教師自身もそんな浅い教育を求めていたのではないか。

 新教育課程への移行の前に,しっかりふり返っておかなければならないことであり,そうでなければまた同じような「失敗」が繰り返されることになるでしょう。
 教師の指導力がおいつかない,だから子どもは乗ってこない,余計に教師の徒労感ばかりがつのる・・・そんな悪循環は絶っておくべきであり,教師は常に自分の指導力の向上に努めていなければなりません。

08/2/19 日経新聞 「総合の敗因」?

 総合的な学習の時間が削減されることを、多くの教師はのぞんでいる。これは理解できます。
 特に中学校では、教科の専門性で食べてきた人々が、「課題解決力の育成」という新たな課題をせまられ、自分自身が特に高い関心をもっているわけではない人権、環境、国際理解、福祉などに指導者やコーディネーターとしてかかわらなければならないのは、負担感だけが重くのしかかってくるだからその負担を少しでも減らしてほしいというのが、多くの教師の本音でしょう。
 ですが残念なのは、専門教科のない小学校教師の多くもそれを望んでいるということです。
 「創造的な仕事」ができる機会を奪われても、負担が減るのだから反対しない、という感覚。
 たとえ仕事に負担感があっても、それを打ち消してくれるのが「創造」「自発」「創意工夫」の取り組みではないかと思うのですが、能力も体力もないのが、現場の実状だということです。
 これを総合が「敗れた」、文科省と現場との間で学力観の共有が不十分だったと表現する記者の言わんとするところが、結局は現行の指導要領が悪かったとしか読み取れないことが問題なわけです。
 文科省と現場もそうですが、文科省と新聞社の学力観の共有がほしいところです。
 そうしないと、いつまでたっても新聞から正しい情報が入手できません。
 昨日の記事で紹介されている総合の先進校、研究推進校の取り組みを見て、「うちの学校の子どもにはできない」と感想をもつ教師はいないのです。ただ、うちの学校の教師には指導できない、ということです。
 公立学校で、学校間格差をなくそうとしたら、先進校の取り組みをやめさせなければならない
 総合で成果を上げた学校と、上げていない学校の学力の格差はどれだけ開いたのか、それとも開いていないのか。総合の時間に、計算や漢字の練習をしていた学校がどのくらいあるのか。
 そういうことの検証が必要なのでは。

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「不易」と「流行」は必ずセットで

 教育改革を推進しようとする立場の人は,「不易流行」の「流行」に重点を,それに反対しようとする人は,「不易」に重点をおいて持論を転換しようとしがちです。

 しかし,そもそもこの「不易流行」は,「不易を知らざれば基立ちがたく,流行を知らざれば風新たならず」がもとですから,両者の根本は一つ,という「教訓」として捉えていくことも大事です。

 芭蕉が「不易」にあたる「人の心を打つもの」を,俳諧という「流行」に沿った「新しい手法や手段」の工夫によって表現しようとしたことを念頭においておく必要があります。

 不易ばかりを「大切だ」という立場の人たちには,古いやり方を強引に「これが正しいのだから」とおしつけるような教育観をもっているイメージがつきまといます。

 もちろん,「流行」の中に「不易」の要素を見ようとしない人たちが,ただの「新しもの好きにすぎない」「飽きっぽい人」というイメージに覆われるケースもあるでしょう。

 社会や状況の変化によって,今までにはない概念の「不易」が「流行」で生み出されたり,「流行」の中で「不易」が見直されながら,人や社会は成長・発展していくものなのでしょう。

 「不易」はあらかじめそこにある明白なもの,それ以上のものはないもの,固定的なものとして,それを追求していくような態度を失ってしまっては,結局,本質的な「不易」を知らないまま,自分も成長せず,人も成長させられず,終わってしまいます。 

 より人間や社会の本質に近いイメージの不易を追求していくために,刻々と変わる社会や状況=流行から目をそらしていてはいけません

 「改革」「改善」への意欲というものが,人間の「不易」の一部であるという側面を忘れてはいないでしょうか。

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「これからの時代」のことを考える必要がない?教師たち

[教師] ブログ村キーワード

 教育の現場に入ってから,「どうして年配の教師たちはこんなに新しいことが嫌いなのだろう」と実感したことがたびたびありました。

 自治活動がさかんな学校を卒業した私は,きちんと筋さえ通っていれば,教師たちは生徒の言い分を聞いてくれるし,やりたいことをやらせてくれる,そんな感覚がしみついていました。

 しかし,自分が教師になってから,身近にいる教師というのは,新しいことの導入にいたって消極的で,自分のやり方とか,先例とか,そういう「過去のもの」を大事にして,変化させないことに力を注いでいる,そんな風に見えました。

 「不易」の価値を知るなど,教師としての経験を重ねていくうちに,その理由がよく分かったこともありましたが,「変化しないこと」は楽なことであり,惰性で流れていくので負担がかからない,そういう方に重い価値を置いている人が少なくないこともよくわかってきました。

 学習指導要領の改訂に際しても,そもそもその変化の内容を知ろうとしない人がいるのにはびっくりしました。

 授業時数が減ったのに,以前と全く同じ授業しかしないので,当然,全部が終わらなくなる。

 年間指導計画というものがつくられていない時代もあったのです。

 そういう時代と比べると,今は少しはましになったのでしょうか。

 改訂された学習指導要領の内容に興味がない教師が多いということは,さらにその先,これからの時代を生きる子どもにはどのような力が特に必要となってくるか?などということには,関心も何もないのでしょう。

 「これからの時代」云々は,教育の世界だけの話ではありません。その読みを誤れば未来がなくなる世界もあれば,国や世界レベルでも問われるべき課題です。

 教育の世界では,「公共の精神」の大切さなど,不易のはずなのに「公」のものになっていなかったものもあるなど,「不易」の実態すらはっきりしていません

 現実としての社会の変化のスピードは非常に早く,親が経験はおろか想像したこともないことを子どもが当たり前のようにしていたり社会に出たら雇用のかたちが変わってきたりと,「同じことを経験してきただれかに教えてもらえる安心感」が薄れてきているのが現代の特色であるといえます。

 「これからの時代」は,実はそれほど先のことではなく,「今,変わりつつあるこの時代」も含めてのイメージとして捉えるべきであり,だからこそ「何が今後大切なのか」をしっかり議論すべきことが大事なのでしょう。

 そこで,「先のことは分からない」ではなく,その変化を想定してもなお,「このことが大切だ」と言い切れる力が学校には必要なわけです。

 今後は,公務員ですら,「今までと同じことをしていればいい」という立場の人間ではなくなっていくでしょう。

 「未来のことは分からないのだからだれのどんな言葉も信じない」というのも一つの生き方でしょうし,「今までのままでいい」という判断を下すのはいっこうにかまわないのですが,それを新しい苦労をしないですむ自分への言い訳と捉えられずにすむほど教師は信頼されている存在ではないでしょう

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「教材」から「教財」へ 「学習材」から「学習財」へ

[研修] ブログ村キーワード

 以下、Z会寺西さんのブログへコメントさせていただいた内容を再構成して掲載します。

 寺西さんは、教育再生会議などが提言する「ポジティブリスト」の問題点を取りあげていました。

 このブログでも、苅谷剛彦がそれについてネガティブに捉えていることを紹介したことがありました。

 私の場合は、ポジティブリストあくまでもポジティブに捉えていこうとする考え方をとっています。

 だいたい、教育再生会議のようなものは、構成員も含め、会議の性質上、その提言がポジティブリストになるのは避けられないことでしょう。

 ただ、すべて突拍子もないようなものではないですね。平凡なものです。

 予算の会計年度ごと、9月始まりに移行する、などといったレベルの大胆さはありません。

 私は、財界だけではなくて、様々な立場の社会人が教育への関心を高めつつあるという「ポジティブ」な受け止め方をしています。

 もちろん私にもその中には、小学校英語など、「これはいかがなものか」と思えるものもあります。

 ただ、教師の側では、このような社会からの要請に対して、その優先順位をしっかり示せる学校ごとの「経営力」「企画力」「指導力」「見極め力」は求められてしかりだと考えています。

 コミュニケーションの取り方が下手で、国語の指導も満足にできない教師に英語活動を頑張らせても意味がないように、教師一人一人の能力の見極めも重要になってきます。

 各学校では、毎年きちんとテーマを定めて研修を行うのが普通ですが、総花的にやるタイプの学校の教育力はたいてい低く、一つのテーマ、例えば「IT機器の活用」でじっくり全員が研究授業に取り組むような学校は教師の指導力が高くなっていく傾向があります。

 教育の場合、優先順位を決め、あることに力を入れたとき、カットしたことによるデメリットより、その他の面にも良い影響が及び、状況が好転するきっかけになるというメリットが目立つケースが多々あります。

 何でもやろうとする企業、やらせようとする経営者を寺西さんは批判されていますが、それはその通りです。

 では、どんなことに重点を置いて、研修をしたり、教育活動を展開したらよいのか。

 あるいは、重点をおくべきところははっきりしているのだが、そこに注力していこうという全教師の「やる気」をおこさせるにはどうしたらいいのか。

 子どもだけではなく、教師にも、何かを特に「学びたい」と思わせる「教師用教材」が必要になってくるのかもしれません。

 子どもだけでなく、大人にとっても、学習向け刺激剤(刺激「材」?)というのは必要です。

 それで学ぶスイッチが入ったとしたら、「」から「」へ、社会的な財産、「教財」「学習財」になるでしょう。

 *個人的には、「教育財政」という用語が略して「教財」などと使われていることに少し不満が・・・

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定期考査の概念の転換 ふり返り366日【08/2/17-1】

 一人一人の学習の理解度や到達度、進度などをふまえる指導の工夫をしたとしても、「定期考査」というのは、一律、全員が同じ時期に、同じ問題を、同じ時間で解くテストであり、その結果によって子どもの能力の一部を測定するための「平等」な機会ということになります。

 ただ、入試でも、障がいの内容や程度によって、試験時間の延長や、文字を大きく印刷し直したものを使うなどの簡単な配慮がとられることは可能である、このような「違い」は「能力に応じた平等性」ということになるのでしょう。試験の内容や解答がもれるおそれがあるため、日程をずらすような配慮は取りにくいので、当日の工夫次第ということです。

 「障がい」の内容が多様化し、その程度も様々なものであるため、将来的には、全員一律の試験時間というのが見直しされる可能性はあるでしょう。

 明らかに理解度、到達度が異なる結果にばらつきがあることが想定されているような「定期考査」自体にどのような意味があるのか、そのような見直しも始まってくるかもしれません。

 私の場合は、定期考査は授業の一環であり(だから授業時間をさいて実施する)、授業との違いは、生徒が私=授業者の代理としての「考査問題」に個別に向き合ってもらう、という点にあります。

 もし可能であれば、テストだけでなくアンケート調査も含めて時間をとってもらい、少し長めの「学習のまとめ」やさらに追究したい課題を整理するための時間にしてもらいたいものです。

 定期考査の内容については、活用・探究的なものを中心として、習得に関するものはより短いスパンで日常的に実施する方が学力はつくでしょう。

 イメージとしては、大手中学進学塾の「週例テスト」のようなものです。

 将来的には、「土曜日はいつもテスト」というタイプの学校があらわれてもおかしくありません。

08/2/17
定期考査の廃止が教育を変え、入試を変える?

 小学生が中学校に進学した後、まず最初の試練にあたるのは「定期考査」でしょうか。
 2~3日間を使って、テストだけの日になります。
 テスト1週間前は部活動等が禁止になり、「テスト勉強期間」となる。
 980時間の確保のために、テストを2日にするとか、3日目の午後は授業をするとか、2期制にするとか、3学期制の学校は1学期中間考査をなくすとか、学校ごとに工夫はされていると思います。
 ただし、「定期考査」を廃止している学校はほとんどないでしょう。
 新しい指導要領で「詰め込み」教育が復活すると危惧している方がいらっしゃったとします。
 その方は、「定期考査」ほど「詰め込み」教育の象徴的なものはないと理解していらっしゃるでしょうか。
 「ゆとり教育」を推奨していた方。「定期考査」の廃止を校内で訴えたことはあるでしょうか。
 「定期考査」をなくしたら、「子どもが勉強しなくなり、学力低下に拍車がかかる」と思われる方。
 評価の場面、子どもが勉強する場面がなくなるわけではありません。いつ生徒たちは勉強し、教師はいつ評価したらいいのでしょうか。
 「定期考査」前の一週間だけ、勉強すればいいのですか。それで学力は向上しましたか。
 「定期考査」を廃止する意義。それは何でしょうか。
 学習指導要領改訂の時期は、大きな改革を実施する最高のタイミングです。

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少人数の学級編成を可能にする?「Lサイズ机」効果

 公立・私立を問わず、すべての学校の中で、最も天板(?というのでしょうか)の面積が大きな机を生徒が使っている学校はどこでしょうか。

 学校が購入している普通の机は、おそらく多くの人が、「いろいろな本を広げて授業を受けるのには小さかった(せまかった)」という実感をお持ちではないでしょうか。

 普通の机は、掃除のときなどに持ち運んだり、重ねたりすること、あるいは教室の広さを想定して最も適したサイズということで決まっているのでしょう。

 中学校でも教科書のサイズが大きくなり、たとえば社会科では教科書と資料集、地図帳とノートなどを同時に開いて見ることは不可能になっています。

 もしもの話ですが、児童・生徒の机の大きさが、今より一回り大きなものの方が、学習の効率・能率が向上し、学力がより高く身に付くようになったと証明されたら、教室のサイズは変更できませんから、大きな机を人数分おくために、40人より少ない学級編成を実現させる根拠になりますね。

 あるいは、オープンスペースの学校(教室の壁がない)を見学して「いい空間だなあ」と実感したのは、廊下にあたるような空間に、数人の会議や模造紙を広げて書くなどの作業ができる大きな机(周囲に数人が座れる大きさ)が置いてあることでした。

 通常の教室内に、そのような大型の机があるイメージは、だれも持っていないと思いますが、極少人数の学校ではそれが可能でしょう。

 黒板などは使わずに、小回りのきくホワイトボードで十分かもしれません。

 学校という学習空間を、生徒の立場から、見直す機会があるとよいですね。

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文科省キャリアの現場研修

 教育関係者のブログでは,文科省キャリアの現場研修については袋叩き状態のようですが,私は素直に喜んでいいと思います。現場の課題を体感させ,本当に必要な改革を立案してもらうために。
 ただ,こういう研修自体が失敗に終わるケースも想定しておく必要があります。
その1 現場が組織として機能していない場合(そのことに気付くことだけが成果となってしまう)
 私は行政に3年間いたので,一部の現場教師の行政嫌いは痛いほど肌で感じてきました。
 行政マンというのは,基本的には法令や中教審答申などを守り,それを忠実に実行したり,理念の実現に向けて努力しているだけなのですが,それに批判的な人は,法令や答申を出した人にではなく,それを実施するのが仕事である行政マンに不満をぶつけます。虫が入った料理を運んでしまった店員は,客に苦情を言われれば謝らなければなりませんが,文科省キャリアは少なくとも虫ではないでしょう。
 教師も法令を守り,各学校の教育課程を着実に実施する主体であるという意味で,全く同じ「全体の奉仕者」としての公務員なのですが,「現場に立っていなければ教育者ではない」みたいな風土もあり,テレビに出たりする「教育評論家」は馬鹿にされています。文科省キャリアは「お前は教師じゃない。教育実習生の延長版程度だ」として扱われるかもしれません。
 1年しかいないことがわかっていても,初任者と同じように教えなければいけないことが山のようにあるでしょう。それを,「どうせ1年しかいないのだから」と言って教えなかったり,仕事を与えなかったりしたら,「教育の課題」は体感できません。また,キャリアの目で見た学校改革の提言を受け入れようとする懐の広さがなければ,学校がよくなるチャンスも失います。
その2 授業そのものが上手すぎる場合(後から教える教師がやりにくくなる問題)
 教育現場は初めてとはいっても,文部科学省が調査等によって把握している現場の実態は理解しているはずなので,知識としては初任者をはるかに上回るものをもっていると考えられます。
 教科としては出身が法学部とか教育学部であることを考えれば,社会科が多いでしょうか。行政経験を踏まえた人の社会科の授業というのは魅力が感じられます。
 1年目の人にあまり上手すぎる授業をされるのは,ベテラン教師にとっては痛恨の極みです。教育実習生を毎年大勢受け入れている私の経験からわかることは,若い教師の授業の力というのは,大方が「自分がどういう授業を受けてきたか」で決まります。
その3 学校全体として教育実践がうまくいきすぎている場合
 個人的な意見としては,日本の教育行政が第一に取り組むべきことは,クラスの人数を減らすことです。欧米から教育視察にくる外国人がまず驚くのは,1学級の子どもの数が多いことです。
 極小規模校の子どもの成績が特段いいわけではないことからわかるように,クラスの人数を減らせば教育の効果が上がるというわけではありません。教師の力量が高ければ,10人でも40人でも力は同じようにつけさせられるのです。ただ,その逆の場合は,被害者が40人より10人の方が少なくなります。
 40人学級で成功している学校を知ってしまうと,改革が難しくなります。
その4 「失敗」を「失敗」と言われたくない教師が多い場合
その5 「評価」アレルギーの教師が多い場合
 受け入れ学校が,「将来の日本の教育行政を担う人材」を教育するという気概を持てるかどうか。そこが成功と失敗のわかれ道でしょうか。 

参考 齋藤孝「教育力」(岩波新書) 202頁より
「会社の中で上司になった場合,部下をうまく評価してリードしていく,そのリーダーシップ自体がその人の仕事力なのだから,部下がうまく育たなければ上に立つ人間としての評価は上がらない。そういう意味では教育的なセンス・能力,教育力というものが,一般の会社でも常に要求されるわけだ。」
 
 

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