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カテゴリー「教育改革」の1756件の記事

日本でアクティブ・ラーニングが知識注入型に陥る理由

 日本の「主体的・対話的な学び」と呼んでいるものが,結局は「知識注入型」に陥ってしまう理由は,学校における「同調圧力の強さ」にあります。

 地方のある大学附属の授業を参観しました。

 アクティブ・ラーニング風を装っていますが,ワークシートが導く先は画一的で,同じような答えが書かれるだけです。

 「こういう学習では確かな知識が身に付かない」「評価はどうするのか」という批判があることを想定した,「アリバイづくり」としてのワークシートやそもそもの指導計画があるのです。

 学校文化がそうだからかもしれませんが,「異質な答え」が出てくる余地がありません。

 そして,社会科教育をしている人間としては,絶対に素通りさせてはいけないはずの教材がそこにあるのに,放置されたままになっています。ワークシートで問われていないからです。

 「問い」「疑問」を子どもが発する空気がない場所では,同調性はますます高まるばかりで,「真の協調性」は身につかないのです。

 「真の協調性」とは,異なる意見や異質な考え方を持っている人ともうまくやっていく力のことです。

 「同調圧力」は「玉砕戦」を産み出し,「真の協調性」は対話による戦争回避を産み出すのです。

 日本の学校には,そもそも「真の協調性」が養える土台がないのと,つくろうとする意思もないのです。

 アメフトやレスリングで起こっている事態を,単に「監督」「指導者」の責任としてすますことはできないのです。

 研究授業で最も醜く見えたのは,「教師の想定している答えを忖度して答える子どもの態度」です。

 これを私は「逆コンピテンシー」と呼んでいます。

 教科書を使ってやるような,下手くそな道徳授業を思い浮かべてもらうとよくわかると思います。

 子どもから「自分と異なる考え」を引き出すわけでもなく,子ども間で「そこは違うだろう!」とツッコミを入れ合う環境を作るわけでもなく,ただひたすらワークシートに効率良く文字を埋めていく作業を見ているのはつらいのです。

 『学び合い』で,塾で知識や技能を身につけてしまっている子どもが,そうでない子どもに先生の代わりに知識を注入していく姿を見ても,本当に「この世の終わり」を感じます。

 アクティブ・ラーニングでは,「言葉」や「図」などを駆使して意見を交換しあいます。

 「死んだ言葉」と「生きた言葉」の違いにできるだけ早く気づいてほしいものです。

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高校のゴールが見えていないので中学校の移行措置もやりにくい

 今回の指導要領への移行は,いろんな意味ですでに「失敗」である。

 高校から小学校に向けての串を無理やり刺したのもそうだし,もし高校から刺していくのであれば,高校の改訂を先にすべきだった。

 手当が必要だったのは高校教育(もとはと言えば,大学教育)なのだから,高校を最初に改訂してしまえばよかった。

 しかし,新しい指導要領への移行は下から進んで,「古くてダメ」とされる指導要領で学ぶ子どもと新しい指導要領で学ぶ子どもが綺麗に区別できるように設計されていたから,今回も小学校から移行が始まっているのである。

 地理総合も歴史総合も「総合」なのだから,新科目というより,統合・再編されてできるもののはずである。

 ただ,指導要領の趣旨から言うと,どっちも「テーマ学習」(資料集で言えば,特設ページに当たるもの)しかできなくなるわけで,「学力低下」は最初からはっきりしている。また10年も経たないうちに「見直し」が始まって,「ゆとり」から「詰め込み」に揺り戻しが来るのだろう。

 中学校にしろ高校にしろ,「思考・判断・表現」の活動がまともにできるのは,3割から4割の生徒だと思ってよいだろう。グループ活動をさせれば,1班に1人はできる生徒がいるから,全体として成立しているように見えるかもしれない。

 小学校と同じで,「成立しているように見える」ことを重視するのが「アクティブ・ラーニング」だと考えれば,高校の小学校化が進んでいくだろう。動きの中心になっている人の前職を辿っていけば,納得できる話である。

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『学び合い』とESBZ( the Evangelische Schule Berlin Zentrum )の違い

 私が読んだことがある『学び合い』の薄っぺらい本の中で,ESBZの解説がされているものはなかった。

 ESBZを知ったのは,『ティール組織~マネジメントの常識を覆す次世代型組織の出現』(英治出版)を手にとったからだ。

 「ティール組織」を知って驚いたのは,私の職場が昔からそういう組織だったからということもあるが,私がそういう組織づくりを生徒にさせていたからでもある。

 ESBZのイメージは,創立理念の中で主張されている子ども観を読めば分かる。

子どもは一人一人が個性的な存在で,だれもがほかの人に貢献できる才能を持ち,全員が人として価値があり,評価され,必要とされている


 学校に入ると,創立理念が単なるお題目ではなく,子どもたち自身の体や姿勢,態度の中に現れているように見える,という。

子どもたちは自分の学習について全責任を負い,何事も自分で学ぶか,互いに教え合っている。大人はたいてい助言者兼コーチであって,従来の学校教育での教師としての役割は,必要なときだけ果たす。子どもたちを励まし,子どもたちの相談に乗り,ほめたたえ,意見や感想を述べ,異議を唱える。しかし,学びの最終責任は間違いなく生徒の側にある。

>教室では七年生から九年生までが一緒に学ぶ。子どもたちは「学習者」と「先生」の立場が常に切り替わる。特に学年が上の生徒は学年が下の子どもの面倒を見るようになる(こうすることで上級生は昔に習ったことを復習できるという利点がある)。

>どのクラスにも自閉症の子や,軽度か重度までの学習障害の子どもがいる。

>どの生徒も日誌を持っていて,日々の成果を記録している。しかも,完全に野放しということではない。学年度末の時点で生徒に求められている明確な期待水準がある。

 私の勤務している学校では・・・というより,日本の普通の公教育の場合,上記のような学習を教科で指導することには無理がある。無理を承知で「一斉授業よりまし」という理由で実施しようとしているのが『学び合い』である。「生徒は見捨ててもいい」と自分たちだけが願っており,自分たちだけがよい方法を知っているなどと傲慢な態度で現場に立つ人間がいるのは困りものである。

 組織を育てるには,学校の場合,学校行事や部活動が一番である。私の学校では「セルフマネジメント」の精神を「自治」をキーワードに徹底的に叩き込んでいるのだが,そういう「組織」づくりが今,注目を集めているというのはうれしいことである。

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「読み・書き」が十分でないから「話す・聞く」ができないだけ

 ある自治体の小学校英語で,「書く指導」を重視したら,英語が好きになる子どもが増えたという「実績」が上がっている。今後,「小学生の英語嫌い」を減らす上で,重要な鍵になる「実績」だろう。

 英語の「話す・聞く」ができないのは,「読み・書き」を十分に指導せずに,「話す・聞く」を重視する失敗を犯しているからではないか,という説得力の高い主張をしている人がいる。

 発音が異なれば,相手に伝わらない,という「緻密主義」の英語教育家たちには,ぜひ「伝える意思」「聞く努力」の大切さをバラエティ番組から学んでほしい。

 人間は,書かれたものを読んで理解できることを話し,正確な相手の意図をつかむために,話し方を「見る」ことも通して聞いて理解する生き物である。

 所謂「座学」「受け身の姿勢の授業」として「一斉授業」が批判されることがあるが,実はこの「一斉授業」こそ,「主体性を発揮できる重要な時間である」ことを認識し,行動している生徒が,どんどん優秀になっていくことに多くの教師は気づけないままである。

 もちろん,大学のセンセイが大きな講義室でやるような,下手くそな「一斉授業」ではダメである。

 センセイの話を「聞く」。

 板書を「写す」。

 その2つしかない授業なら,「本を読んで時間を過ごす方がまし」である。

 「一斉授業」では,「考える意味や価値があるどのような発問がなされるか」が鍵となる。

 その発問に答えるために必要な「教材」として教科書が主に使われるのだろうが,教科書は「答え」そのものが書かれてしまっている場合もあり,そういうときは「プリント」にして配布したり,映像をモニターなどに映す必要がある。

 「一斉授業」で生徒に伝えたいのは教師の「意図」である。

 わざわざ黒板に書かないとわからないような「意図」ではなく,聞いて理解してもらえるような「意図」はいくらでもある。それが伝わる「一斉授業」は,いくらでもアクティブなものになる。

 むしろ,「話し合い」をしているときの方が,アクティブにならない,という事例を突きつけないと,わからない人がいるかもしれないが,授業で失敗することが可能な教師には通じる話だろう。

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中1ギャップを考える前提としての小中ギャップ

 小学生の娘の運動会に出かけてきた。

 危険な組体操が排除され,娘は「幼稚園のお遊戯に似てきた」と酷評していたが,楽しそうに演技する小学校最後の姿を目に焼き付けることができた。

 小学校と中学校の違いは様々あるが,小学校には6,7歳児がいるというのが最大の違いといっていいだろう。

 小学生たちは,自分も含めて6年間も6,7歳児と一緒に生活していたのが,中学校に上がるとやたらと体が大きいお兄さん,お姉さんしかいない世界に身を置くこととなる。

 運動会も,迫力が違う。運動が苦手な娘は,体育会系の中学校には適応できないだろう。

 さて,「行事精選」「教員の働き方改革」「危険防止」という流れの中,運動会ですら,変化しようとしてきている。

 そもそも運動会の歴史をさかのぼれば,「戦争」との関係が密接であった。

 「平和」の時代の運動会でも,行進あり,組体操あり,騎馬戦や棒倒しあり,と何ら変わっていない学校もあるだろう。自衛隊や警察に人材を送り込むためには,これらをなくすわけにはいかない,などと声高に言う人はいないだろうが。しかし「銃剣道」が武道の一つとして学習指導要領に明記されるような時代である。「平和とは,たまたま戦争がない時期のことを指す」という歴史観によるものだろうか。

 さて,話は小中ギャップの問題である。

 つい先日も書いたが,小中連携校,小中一貫校の多くがうまく機能していない。

 小学校や中学校における「慣習」をそのまま両者が維持しようとしているからだろうが,まず何を差し置いても,小学校と中学校の先生では「免許が異なる」ことを忘れてはならない。

 たとえが適切かどうかわからないが,バイクの免許があるからといって,自動車を運転してもよいとはならない。

 小中の最大の違いとは何か。教科指導の専門性のことか?そうではない。

 小学生と中学生はそもそも年齢が違うのである。今は死語になったようだが,「発達段階」が異なるのだ。

 学習指導要領を読むと,小学生を対象にして作られた小学校向けの文章が,そのまま中学校にも当てはめられているものが多い。こういうつくりだから,小中連携を大事にする背景はわかるが,小中連携を進めていくには,まずは中学校学習指導要領をしっかりと作り直さなければならない。小学校の延長では通用しない部分がどこで,通用する部分はどこか。通用する部分から連携はできるのだが,通用しない部分では新しく中学校用をつくるのが先だろう。

 小学生は,基本的に先生の言うことをよく聞いてくれるのがよくわかった。

 全体指導は小学校1年生のときに受けたものを,そのまま6年生でも受けて懐かしく思いながらよく従っている。

 しかし,その全体指導は中学生には通じない。

 なぜなのか?

 子どもに「実力」がついてきているからである。

 中1に入ってすぐに,「実力」がつき,それを発揮している上級生を見ているからである。

 小中一貫校では,まず何を先に進めるべきか,「今まであるものをつかう」のはやめて,「今,必要なものをつくる」ことから始めるべきだろう。

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「浮世の憂さのはらし場所」としての教育改革

 教育改革に必要なことは,「当たり前のことが当たり前にできるようする」ための地道な努力しかない。

 教育行政は,地道な努力に対する途切れのない支援に注力すべきなのに,

 中央では「看板のかけ替え」によって,「改革したことにする」だけの繰り返しがあるのみである。

 学習指導要領の改訂があるタイミングで,どういう人物が研究発表会等での講演会に呼ばれているかを眺めてみるだけでよくわかる。

 なぜその人物が,過去のタイミングで登場の出番がなかったのか。なぜ今はあるのか。

 それを考えるだけで,「改革の意味」と「どういう失敗で終わるか」がわかる。

 「その人の講演を聞いても意味がない」ことがわかった場合,「努力して下さい」ですまされるのか?

 ある雑誌で竹内洋氏が述べていた,教育改革を「浮世の憂さのはらし所」にしたがることに病の根がある,という指摘が印象に残っている。

 教育改革の失敗事例として紹介されている「法科大学院」は本当に痛すぎる。

 すべての学生の自己責任ですませてよいのだろうか。

 7割合格との触れ込みで入学し,高い授業料を払わされた,7割以上の不合格者たちが悪いのか。

 law school ではなく low school と揶揄されるような結果になった原因はどう分析されているのだろう。

 政策立案者が責任を負わなくてすむ仕組みを変える改革がまず必要なのではないか。

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63億円でスーパーグローバル大学の創成支援がどれだけできたのか?

 和製英語で「グローバル化」を進めようとしている文科省の姿勢を揶揄してきた人は多いだろう。

 「創成」というのは,

米欧回覧実記(1877)〈久米邦武〉四
「当時世界に於て、海軍の覇王と称するものは、英露両国の此甲鉄艦にあり、即ち米国人の創成にかかるものなり」

>薩長土肥(1889)〈小林雄七郎〉四藩政党
「維新の大業を創成したり」 〔戴復古‐訪陳与機県尉詩〕 (日本国語大辞典より)

 などと明治の頃に使われていた言葉である。

 ある大学に「創成科学」という研究分野があることを初めて知った。

 「はじめてつくる」活動には国民として応援したい。

 小田嶋隆さんが雑誌で述べていたが,

 「ユニバーシティ」の修飾語に「グローバル」がつく愚かさ,

 「グローバル」に「スーパー」という修飾語がつく恥ずかしさは,

 本物の英語が話せる人でないと気づけないらしい。

 そういうレベルの「支援」であるし,63億円がどのくらいの効力を持っているかはとても疑わしいのだが,大学が設定している成果指標を見る限り,「明治維新」と同じようなことをしている感覚におそわれる。

大学教育がその金看板としている「学術教養」に,なるほど傲慢さや非効率があるのだとしても,文科省は,学問と教育の守護者であって,学術教養を攻撃して良い立場ではない。むしろ,産業界の要請や政治の圧力から学問の独立を防衛するのが与えられた任務であるはずだ。
 もし仮に,文科省がネオリベの経営者やグローバル志向の経済人の尻馬に乗って,グローバル企業に有利な教育改革を果たそうとしているのであれば,それは正しく「売国」と言って良い所業だ。
(小田嶋隆さん『新潮45』2016年6月号より)

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職住近接の徹底をまずは教育公務員から

 つい最近,「通勤時間の無駄」に関する持論を書いたばかりだが,最近呼んだ『地域再生の失敗学』(光文社新書)で,千葉市長の熊谷さんが同じ主張を述べていらしたのが印象に残った。

 私自身は,教員になって最初の6年の職場は自宅から自転車で10分以内,次の5年は同じく自転車で15分以内(電車を使うと,駅から15分以上歩くことになる),次の2年は何と徒歩5分以内のところ(転居したので)だった。

 この13年間で,もし家から1時間程度の職場に定期券で通っていたとしたら,安く見積もって年間10万円としても130万円の税金を使ってしまっていたことになる。「そんなはした金」と思う人もいるかもしれないが,節約したいのはお金だけではなく,時間である。

 飯田泰之明治大学准教授の

東京一極集中は明らかに東京のクリエイティビティを落としています。往復で二時間前後も通勤に費やしている都市で,人と会ったり仕事以外の時間や交流を持つことは無理がある。そんな大都市はやはりダメだろうと思いますね。

 という言葉に,千葉市長も

遊びも含めて二四時間を使っている人たちと,二二時間で互角に戦え,というようなものですよね。スタートから負けている。

 と答えている。

人口が減ってきたら,生産性を上げるしかない。生産性を上げるには「早く帰りたい」と思わせるのが一番です。通勤時間が長く,生活から労働を引き剥がして,人間としての暮らしを捨てさせて人々を働かせている国の,生産効率が上がるわけがないんです。

とにかく通勤時間を短くしなければならない。職住を近接させなければいけない。それはこの国が人口減少を抑える中で,国際的な立ち位置を確保していく上で,絶対にやらなければいけないことです。

 中学校教員の場合は,浮いた時間を使って学校に長くいるという選択肢をとる人が多いかもしれませんが,教育の仕事に「生産性」の概念はそもそも適していないので,「使命感にしたがって思う存分仕事をしたい」教員も応援してほしいものです。

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「振り子」の外交と学習指導要領

 新しい学習指導要領にも,当然のことだが,決して「新しくない」ことがたくさん含まれている。

 保健体育科の「銃剣道」のようにびっくりするほど「古い」ものもあれば,

 小学校のプログラミング教育のように,ディスプレイから目が離せないようにするという意味での「古い」ものもある。

 よく,「ゆとり」と「詰め込み」という対比がなされるが,学校教育の基本は「詰め込み」である。

 中学校なら50分たったら,必ず次の授業の開始のために準備を始めなければならない。

 体育の授業の後に着替えて音楽室に移動する子どもの忙しさが想像できるだろうか。

 時間によって管理される子どもに「ゆとり」など存在しない。

 それなのに・・・「主体的・対話的で深い学び」もしろ(させろ)という。

 道徳については,今までのやり方ではダメだ,という前提から「特別の教科化」が始まっている。

 「考え,議論する道徳」が必要なのだと。「パン屋ではアウトで和菓子屋ならOK」という価値観に揺さぶりをかけるような授業も可能になる。

 一方,学校には,昔から「特別」という名称がついている「特別活動」の時間もある。
 
 年間たった35時間で,学級活動から行事(儀式や宿泊行事も含む)の準備まで,時間が足りているところがあったら教えてほしい。35時間以上やっているから「特別活動」だという解釈もできる。 

 いっそのこと,数学にも英語にも,「特別の数学」とか「特別の英語」と名付けてみたらどうか。

 「すべてが特別」になって「特別」感が薄れて初めて,「そんなことで時間を浪費する公教育はおかしい」ということに気づけるはずである。

 「ダメな箇所をその場しのぎで何とかする」発想でいるから,「振り子」に例えられるのである。

 どこかの国の外交と同じである。

 世の中には,絶滅危惧種のように,そんなものに振り回されずに生き残っている学校がわずかだがある。

 だれにも気づかれないまま残しておきたいものである。

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「暗記型か思考型か」などという幼稚な比較をしているうちは,まともな教育はできない

 暗記だけ,思考だけという教育はあり得ません。

 暗記はなし,思考はする,という教育も不可能です。

 暗記ばかりで思考の場面がない,という批判があっての教育改革なのでしょうが,「させられる思考」「型にはまった思考」では意味がないので,「思考」の質も大いに問われる必要があります。

 歴史教育では,過去の出来事を主な題材としているために,だれでも「流れ」をつかむことができます。

 「流れ」のつかみ型は多種多様で,人物の決断に焦点をあてた場合,対外関係に焦点を絞った場合,経済活動との関連を重視した場合など,切り取り型によって多くのストーリーが語れるわけです。

 単純に「暗記」していたことが生かされる場合もあるし,死んだまま眠る場合もありますが,「暗記」したことがストーリーだった場合,後で別のストーリーとの類似性や相違点が見つかると,そこで「生きた知識」として活用されることになる。

 知識も何もない場所では,「思考」に生かせるものは何もないわけです。

 新しい学習指導要領風に言えば,「見方・考え方」を働かせるための「場」が必要で,それは「教科書の内容」でもいいし,教師が提示する資料でも,あるいは子どもが主体的に探してくるものでもかまわない。

 暗記型だけの学習をしたとしても,どこかでそれを活用する方法を知ることで,「思考」のための材料に変えることができますから,新しい入試では,「暗記したことを,自分なりの指標で整理し直す力」を測定する,という制度設計をすることが考えられます。

 学校でもし「自分なりの指標で整理する」時間をとってしまうと,インプットできる情報が減りますから,できあがりの質も落ちるでしょう。

 ですから学校教育には「多くを求めない」ことが,最終的には成功に結びつくのかもしれません。

 塾産業は,「量で勝つ」という「成功方程式」で合格を約束することで経営が成り立っています。

 総合的な学習の時間が趣旨通りに実施されていない学校で,「見方・考え方」を働かせる学習を保障するのは不可能でしょう。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より