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カテゴリー「学習指導要領」の554件の記事

なぜ新しい学習指導要領が失敗に終わることがわかっているか

 新しい情報は,やはり自分の足で稼がないと,なかなか入手できないものです。

 今回の指導要領改訂にかかわった人物が表舞台に出てくるようになったようなのですが,そのおかげで,人物の表に出にくい経歴を知る立場の人が現れ,情報を得ることができました。

 私の予想が当たっていたようです。

 教育の話題というのは,なかなかニュースとして扱う価値がないようで,すでに公開されている情報の中に,さまざまな矛盾があるのに,だれもそれを追及しようとはしていないようです。

 大学の先生などは,それだけ官庁の力を恐れる環境に置かれ始めたということなのかもしれません。

 批判できない大学人の存在価値はないような気もしますが,時代は国家総動員体制に移行しているようです。

 なぜ新しい学習指導要領が失敗に終わることがわかっているのか。

 今までの失敗とは,また質の異なる失敗が起こることが目に見えています。

 教育の理念というか理論の骨格に当たる部分を語れる大学の先生がおらず,

 教育方法とか教育評価という,本筋とは別の,内容についての専門性がないセンセイの声しか拾えない環境にあることも,失敗に終わることに気づけない原因かもしれません。

 成功体験のない人たちなのですが,なぜか失敗感覚というものもない。

 「資質・能力」=「学力」という図式の意味をきちんと説明できるセンセイはいるでしょうか?

 小学生と高校生が同じような「見方・考え方」に閉じ込められる「教科」に存在意義はあるでしょうか?

 「教科」を解体することが,新しい学習指導要領の隠された本当のねらいである,というのなら,よく理解できます。
 
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現実的な教育内容や教育方法の議論がなぜ小学校や高校では役に立たないか

 小学校の教育内容にいちいち目くじらを立てる人は少ない。きりがないからでもあるし,学力を向上したければ,学校以外に頼れるところがたくさんあるからである。

 高校の教育内容にいちいち目くじらを立てる人も少ない。義務教育ではないし,学力が輪切りになっている高校では,Aという進学校で通じる話がEという生活指導困難校では通用しない(逆もある)からでもあるが,一番大きい理由は小学校と同じ。学力面では,高校の教師よりも頼りになる人が外にいくらでもいるからである。

 それなりの経済力がある家庭の場合は,学力向上を学校以外の教育産業にまかせることが可能である。

 小学校や高校を対象とした教育内容や教育方法の議論は,どれだけなされようが,主たる教材である教科書に寄りかかって学習を進めるような教師がいるうちは,ほとんど意味をもたないことは,大部分の学校が証明してしまっている。

 中学校の場合はどうだろう。中学校は中途半端な宙づり状態にある教育現場である。

 小学校や高校との最大の違いは,学校の成績が,進学にそれなりに大きな影響を及ぼす点にある。

 中学受験や大学受験との非常に大きな違いを高校受験が持っている。

 だから,教師や生徒は授業で手を抜くことはできない。教師が気まぐれにアクティブ・ラーニング風の授業をしたら,それに合わせてあげないといけないし,細かい知識ばかり問うような定期考査問題をつくってきたら,しっかり対応しないとよい成績が残せなくなる。

 都立高校は学力検査と調査書点(いわゆる内申点)の比率を7:3にしてしまったが,これまでは普通科の大部分が5:5の比率だったのである。

 「下級校の学習の成果を踏まえた進学指導」が成立する余地がかつては大きかったし,調査書点と実力の相関関係が怪しくなってきている今でも,中学校の成績がきちんと使われる場になっている。

 要は,中学校で通用する教育内容や教育方法の議論がなければ意味がないということと,中学校で通用しない教育内容や方法では意味がないということである。

 小学校や高校の実践ばかり集めても,「ああ,そういうことができていいね」と他人事で終わってしまう。

 どんな脚色をしても,バレずにすむのが小学校や高校である。

 捏造すればたちどころにバレるのが中学校であり,だから実践例が少ないのだろう。

 「地理総合」や「歴史総合」がどんな代物になるか,中学校側の目から見ていると,

 「大学の先生が中心になって考えると,ろくなことにならない」ことを証明するための実験をしているように見える。

 中学校教師の目から見れば,

 「これは何とかなる」

 「これでは中学校の繰り返しだ」

 「それでは小学校よりもレベルが低くなる」

 「これは無理だろう」

 などと生徒の実態を踏まえた感想がいくらでも出せる。

 義務教育でもないし未履修問題のような誤魔化し方ができる教育機関に期待することは実はほとんどないのだが,小中高のつながりを意識させる学習指導要領に変わっていくので,黙ってはいられない。

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歴史用語半減による「ゆとり」が生むもの

 高校の日本史や世界史を「用語を覚える科目」としてきた高校や大学の教員たちが,教科書の用語を減らすための案を作成したという。2つの点でナンセンスである。

 1つは,結局用語を減らしたところで,「少なくなった用語を覚える科目」に変わることはなく,試験も「暗記問題」を出すことが前提になっている。なぜ義務教育の「ゆとり教育」という名の「ゆるみ教育」を繰り返そうとしているのか。

 もう1つは,そもそも教科書の内容をすべて教えなければ,受験のときに生徒が困るという強迫観念が捨て去れない限り,授業や試験の改善などあり得ない,ということである。

 歴史の人物名や事件名などは,それらを覚えたり,それらの事実を知るためだけにあるのではない。

 歴史学習は,さまざまな事象の関係,関連を考えるためにある。

 取り上げられる事柄が限定されることによって,さまざまな「気づき」のチャンスが失われていく。

 「多ければ多いほどよい」とは言わないが,実際に資料集を活用している高校なら,教科書ではなく資料集を実質上「主たる教材」として授業をする教員も出てくる可能性があるだろう。20年前と同じワークシートで授業をしている教員にとっては,関係のない話かもしれないが。

 そもそも「用語削減策」は,「受験生がテストでいい点をとるために不利な科目を敬遠することを避けるため」に出されたようなものだろう。

 客を増やすために当たりの確率を高める娯楽産業のような対応である。

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教師の成長力を奪う力

 教育の世界では昔から,「大学における教員養成の限界」が問題になっている。

 「教育学部の学生の資質能力に課題がある」のは企業だけでなく教育現場も同じことで,

 教育実習に挨拶に来るとき,「教育学部でごめんなさい」とお詫びから入ってくるのが通例になっていることが印象的である。

 私は「教育学部」というところで学生の能力が潰されているのではないかと危惧している教員の1人だが,その根の深さは昔からなので,すぐに改善することは難しいだろう。人間を育てるのは人間なのである。

 
 少子化による学校の小規模化に伴って,適正規模に満たない学校が増え,

 「職場における教員の能力開発の限界」も問題になっており,それだけ余計に

 「現場で使えない若い教師が多くなっている」ことが学校の重荷になっている。


 こういう学校の窮状につけ込んで,教師の成長力を奪う実践が広がっていくことへの懸念もある。

 私は組合には入らなかったが,仮に入ったとしても,組合の体質には絶対に染まらなかっただろうし,

 すぐに抜けていたと思われる。

 今,学校を侵食しているのは,新しいタイプの組合体質を浸透させようとする「革命家」たちである。

 間違いなく,教師の成長力は奪われる。

 教員研修はお遊戯会レベルとなり,「仲良しこよし」が増えるだけだが,

 表向きは,「同僚性が高まった」などと宣伝される。

 浸食率は0.1%にも満たないレベルだろうが,1000校に1校でも子どもたちが犠牲になるのは心が痛む。 

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成長をとめないために

 先日,大学の学生さんたちに私の授業を参観していただいた。

 私が免許講習講習などでお世話になった先生のご依頼を受けて,今年度2度目の参観だった。

 「よい授業とは何か」を考えるのがテーマだったそうで,そんな依頼をよく受けたなと呆れられるかもしれないが,文科省とくだらない本を出している出版社以外からのお願いには全力で応えたいと思っている。今年は経済産業省と厚生労働省の方とのつながりもできて,「違法天下り大量発生官庁」が存在しなくても,教育が成立することが証明できるように頑張りたい。

 授業50分,質疑応答40分だけのかかわりであったが,自分にとって,子どもにとって,学生さんたちにとっての課題を改めて考えることができるので,とても充実した時間になった。以下は,先生からいただいたお言葉への私の返信の内容である。都合により,一部改変してある。

******************

いつも過分なお褒めの言葉をいただきまして,恐縮至極に存じます。

○○大学のプロジェクトでも「○○の教員の卓越した指導力を生かした・・・」
などという研究がありましたが,自分たちのことを「卓越した」などと
思い上がるのもいい加減にしろと感じますし,
「よい授業」を自分の実践を通して語ろうとすることも,
教育者の態度としていかがなものかと思ったりもしています。

私が長年問題に思っていることは,授業をしていて,いつも自分の感覚で
「あっという間に50分が過ぎてしまう」ということです。
生徒とのやりとりに集中しているからそうなるのかもしれませんが,
生徒自身が自分の時間を授業内でしっかり使うことができていない証拠に
なっているのが現状です。
 
「よい授業」として必要な要素を自分なりに整理し,その優先順位を考えて,
その順位に沿った発問,作業時間の確保も含めた時間配分,まとめなどが
できているかを検証していく必要が私自身にもかなりあるかと思います。

40人それぞれが伸ばすべき能力にも違いがあり,1人に対する声かけや
突発的な対話に時間が割かれる傾向が強いのも私の授業の課題に
なっています。

学生の皆さんからの質問に対しては,その学生さん独自の関心や課題意識に
沿った形でお答えする努力をしたつもりですが,お一人お一人の特性や能力に
ついての理解もほとんどない状態ですから,質問から類推するしかなく,
見当違いの方向の答えになってしまったかもしれません。もしそういう方が
いらっしゃいましたら,再度返答の機会を頂戴できればありがたいです。
生徒理解が授業の基本になっていることと同じですね。
 
エネルギーミックスと同じで,「最適解」は必ず何かの犠牲を伴っています。
最も優れた発電方法があれば,100%それにすればいいだけの話です。
 
授業もそれと同じで,何かを重視すれば,必ず何かが犠牲になる。
犠牲を少なくすれば,何も重視していないように見えることもあるし,
重点を絞れば犠牲が大きくなっていく。
「見方・考え方」を働かせる授業に重点をおけば,おそらく学力下位の
子どもたちは犠牲者になります。そうさせないための方法がたとえば
今回お渡ししたワークシートなのですが,まだまだ開発途上です。
 
「時間」という尺度において教育の骨格をなしている授業については,
そういう悩ましい問題があり,「よい授業」にも,「正解」は存在しない。
それでも少しでも「よりよい授業」に取り組もうとする態度を教員が
もっていれば,必ずそういう態度は子どもたちによい影響を与えていく,
と信じて研鑽を積んでいく必要がある,とまとめようとしても・・・・
今の時代,こういう言葉も「逃げ」と受け止められる可能性もあり,
教員養成は難しい時代だとつくづく感じます。

「よい授業とは何か」という種類の問いに真剣に向き合い,
考え抜こうとすればするほど,どんどん「何が正解かがわからなくなっていく」
おそれがありますが,それでもあきらめずに問い続けていける力を授業では
育てたいと考えています。

今回,しっかり自分自身の課題に向き合う機会を与えて下さった
○○先生と学生の皆さんには心から感謝しています。

******************

 わいわい子どもたちが楽しそうに学んでいるように見える「授業」がいかに子どもたちの可能性をつぶしてしまっているかについては,中学校の教育実践がないとわからないかもしれません。

 「エビデンス」を求められて,だれでもできるようなテストの点数を挙げているような人間に,教育を語る資格はないのです。

 大学の先生もおっしゃっていましたが,今回の学生さんたちは,皆さん教育実習を終えた方々だったので,私が言いたいことがとてもよく伝わっていたようでした。 

 自著の営業マンに騙されないよう,注意しましょう。

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普遍性,汎用性があると誤解する「研究者」たち

 「ある場面」で身に付けた能力が,別の場面でも生かされた,と気づくとき,「ある場面」で能力を身に付けておいてよかったと思う・・・こういう経験ができるのは,ごく狭い世界で生きている人たち・・・わかりやすく言えば,研究だけしていれば,実践をしなくても給料がもらえる人たちに限ったことかもしれません。

 小中学校のレベルだと,子どもたちは,授業で勉強したことが,そのまま試験に出されて「できた」と言える,そんな世界に過ぎません。ただ,研究者たちにとっては,それではつまらない。

 ある人の本や主張を読んで,とても強く感じることになりました。

 昔の研究者には,そういうタイプの人はいなかった。

 おそらく,「そんなことを言えば,みんなにバカにされる」ことがわかっていたからです。

 最近は,「バカにする」人が少なくなってしまったためか,

 あるいは「バカにする」人が大事な会議に呼ばれなくなってしまったためか,

 研究者というより事務方が「バカな主張」を平気で通せる世の中になってしまいました。

 その集大成が新しい学習指導要領です。

 研究させられている学校の授業を見て,一定数の人は悟ることができたはずです。

 「これでは間違いなく失敗するな」と。
 
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小学校の授業を参考にする高校教師

 小学校の授業を参観したいと思う高校の教師がいたとしたら,極めて有望な人材だと思われる。

 大学の教育学部などには,元小学校教師だった先生がけっこうたくさんいる。

 とても立派な指導案や板書計画をつくれる人が多いので,こういう先生に習うと,「実践的」な力がつけられることが期待できる。

 大学の先生の専門性は非常に狭い世界に限ったものだから,一人に多くのことを期待してはならないのだが,教師になろうとする人が最も頼りにできるのは,現場で長く勤め上げた人であろうことは,想像のとおりで間違ってはいない。ただ,大学の先生になれるような小学校の教師は,百校とかに1人いるかいないかくらいの割合だろう。そういう先生のようになれと言われても,そう簡単にはいかないのも当然である。

 経験の浅い高校の教師が授業を参観して最も参考になりやすいのは,小学校であろう。

 題材が簡単だから,すぐに自分なりの別のアプローチが思い浮かぶし,子どもたちは素直だからわかりやすい演技をしてくれる。

 中高との激しすぎるほどの落差を痛感すると,かえって教育困難校の教師にとっては,ハードルが下がった分,どこでつまずいた子どもがどういう辛い目に遭っているのかという共感を持とうとするきっかけにもなる。

 中学生にしろ高校生にしろ,場合によっては大学生にしろ,まるで小学生のように無邪気に課題に取り組んでくれるような教材をいくつか持っていると,今までつまらない授業をしてくれていたセンセイたちに感謝したくなる人が出てくるかもしれない。

 小学生たちが夢中になる授業で心を洗われた後,現実に戻るのはキツイかもしれないが,本当に意味のある「学び」とは何かを考えるための出発点に立つこともできるかもしれない。

 常に初心に帰れる場所を持っておくことは大事である。

 よりよい「原点」は,教師になって何年かしてから見つけ出すことになる人もいるだろう。

 私はまだ「原点」を探しているところであるが,見つけるのは退職してからになるかもしれない。

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高校「地理総合」「歴史総合」制度設計の瑕疵

 小中連携ほど難しいものはない一方で,

 中高連携は中等教育学校が従来からあるくらいだし,免許も同じなので,大した問題があるとは思っていなかった。

 が,目鼻がついてきた高校の「地理総合」や「歴史総合」の構想に致命的な欠陥があることがわかった。

 このままいけば,「瑕疵」と呼べるものになるだろう。

 それは,「地理総合」を単純に中学校の「地理的分野」との接続,

 「歴史総合」を「歴史的分野」との接続として捉える制度設計になっていることに気づいたからである。

 ここまで読んで,「当たり前だろう」「そのどこが問題なのか」と思ってしなう人には,中高連携を語る資格はない。

 地理は地理,歴史は歴史,政治経済は政治経済,と考えるのは大学のセンセイの発想である。

 「専門を外れた世界には口を出さない(出せない)」という常識があるからだろう。

 だから,地理も歴史も,教科書が「いろんな専門家が分担して書く文章」の寄せ集めにすぎないもの=「面白くない本」の代名詞になってしまうのである。

 小中学校には「社会科」がまだ生き残っている。

 その存在意義を否定するような学会(学会名を見ればわかる)もあるが,

 学会名には「社会科」が入っていても,分科会が完全に専門別になってしまっており,学会名が示すような機能を果たせなくなっているところもある。

 中学校の「社会科」にも,小学校の「社会科」にも,地理・歴史・公民(政治・経済,国際関係)という「串」がさされ,大事な中身が引き裂かれてしまうようだ。

 鰻の蒲焼きが焼き鳥のように串ごとにバラされてしまったようなイメージである。

 本当なら,中学校社会科を学び修めた子どもが高校生になり,「地歴科」で「地理総合」と「歴史総合」を学ぶのであるから,「地理総合」や「歴史総合」は中学校社会科全体と連携していないとダメなのである。

 「多面的・多角的に考える」という目標があるのに,面が減らされているので見る角度も限定される,というお粗末な結果になろうとしている。

 中学校の社会科は,地理的分野と歴史的分野を並行して学び,やや歴史が出っ張るが,最後には公民的分野を学んで高校に進学していくのである。中学校では公民的分野で一応の「仕上げ」をかけているのだ。

 だから,地理総合を単に地理的分野の延長線上としてとらえさせるようでは,「多面的に学ぶな」と宣言しているようなものである。

 歴史も同様である。

 「歴史総合」は,従来の「日本史」「世界史」という枠組みではなく,「日本と世界の歴史」として現代につながる過去を探っていくものであり,実質60時間弱の枠におさめないといけないのだが,思いの他「中学校の歴史の詳細版」に近いものになっており,生徒によっては「繰り返し感」が半端ないものになるだろう。

 「アジアの近代化がどう進んだか」というテーマを設定したとき,高校なら「日本の特殊性とアジアの他国との共通性」に目を向け,なぜそうなったのかを考えさせる単元構成が思いつく。

 もちろん,ロシアやヨーロッパ諸国,アメリカとの関係をふまえて考えないと,近代化の意味はわからなくなってしまう。

 ポイントを絞りすぎると,内容は中学校の歴史と同じ程度のものばかりになってしまうのである。

 さらに言えば,地理がわからなければ,「アジアの近代化」とその後の世界の動きとの関係,現代とのつながりの意味も見えてこない。

 地歴科という科目があるのだから,「地歴総合」でよいのである。

 本当に「総合的に考えられる題材」に絞っていく。

 ランドパワーやシーパワーという地政学上の概念も知っておく必要がある。

 現状では,「総合」という名がついていながら,全然「総合」っぽくない。

 「総合的な学習の時間」のいい加減さが,「地理総合」「歴史総合」への印象をさらに悪くしているとも言える。

 ともかくも,まずは「分解」したものを「総合化」して社会を見ることができるように,設計をし直すのが先だろう。

 よくよく考えてみれば,そもそも「地歴科」「公民科」が分かれてしまっていること自体がグローバル化に対応できない理由の一つではないだろうか。

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いまそこに,いるべき子どもがいないことを瞬時に判断できない仕組みがアウト

 授業を抜け出して,職員室の教師の机から金品を盗もうとしていていた生徒が,たまたま外から同じ目的で侵入してきた泥棒と出くわし,顔を見られた泥棒が生徒を刺し殺してしまった・・・とする。

 授業をしていた教師は,生徒が教室を抜け出していたことに気づけなかった。

 そんなことがあり得るだろうか?

 教師はずっと黒板を向いていたのか?

 ・・・教室では,生徒たちが自由に教室内を動き回っていた。

 40人いる生徒たちの,だれがどこにいるのかを瞬時に把握することはできない。

 グラウンドで体育をしている教師も同じだろうか?

 教師が,教室内で負うべき責任とは何だろう?


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どのレベルの生徒に合わせて授業をしますか?

 私は社会科の教師だからか,「どのレベルの生徒」という質問を受けたときに,「何のレベルの話?」と聞き返さずにはいられない。

 「コミュニケーション能力のレベル?」

 「知能指数のレベル?」

 「社会科の知識レベル?」

 「思考力とか,資料活用力のレベル?」

 「親しさのレベル?」

 「実際についている役職のレベル?」

 授業では,非常に多くの問いかけが子どもに対してなされるが,その難易度は一定ではない。

 様々なレベルの子どもに向かって,様々なレベルの問いを投げかける。

 答えが言えない子どもにとって,その問いは意味がないと捉えるのは,

 「今日は,これができるようになりましょう」などと子どもに指示する下らない教育のレベルの話だろう。

 「授業中にはできるようになっても,家に帰ったらできなくなる」ようなことを学校で延々とやっていても意味はない。

 問いとその応答のやりとりを通して,コミュニーション能力を向上させていく。

 知識はどういう風に使われることで,意味を持って行くか自覚させていく。

 「思考力」とは,ただ「考える」という漠然とした頭の働きではないことに気づかせる。

 Aさんは共通点から大事なことを読み取った。Bさんは因果関係から本質に迫ってきた。

 Cさんは・・・。多くの発言がさまざまなレベルの子どもにとって,参考になっていく。

 対話を通して,それぞれのレベルの子どもに合っていく,それが「授業」である。

 今時の「教育学者」は,こんな当たり前のことを学生たちに語ることができないのだろうか?

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より