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カテゴリー「学習指導要領」の489件の記事

理想に走り,現実を軽視するか,現実を最優先し,理想を忘れるか

 労働の見直しにしろ,教育の改革にしろ,理想を求めていって,必ずぶつかるのが「現実の壁」である。

 教育の理想は,結局似たり寄ったりである。 

 現実を軽視したり,無視したりして,無理矢理に理想を通そうとすると,恐ろしい結果を招くことになる。

 1,2年間くらい,子どもを犠牲にして,やってまともな教育ができるようになったら,異動になる。

 これを繰り返していても,学校現場には犠牲者しか残らない。

 逆に,現実問題を優先しすぎると,いつの間にか理想などは忘れ去られる。

 教科書にある程度の内容を,全員でおおむね理解した,と言えるレベルに定着させたいなどという「理想」を掲げる人間に,「教育の理想」があるとは到底思えない。

 「働き方改革」についても,日本は生産性を向上させることがまだ理想のイメージになっていないようである。

 「事故を防ぐこと」「苦情を言われないこと」「失敗の責任をとらされないこと」が理想像になっている人間たちから,仕事を奪い返すことが最も重要なことだと思われる。


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「一斉授業」の展開のバリエーション

 なぜ45分とか50分の一斉授業において,一定時間,教師が話をしなければならないのか。

 それは,生徒に「学習」をさせるためである。

 生徒が「学習」に取り組むためには,頭の中を「アクティブ」な状態にしなければならない。

 生徒の頭の中が「アクティブ」な状態になるためには,「なぜこの問題を考える必要があるのか」「なぜこの問題を考える価値があるのか」を実感させないといけない。

 「そんなことは無理だ」と諦めているのは,「子どもを見捨てている」教師である。

 「一人も見捨てない」などという綺麗事を言いながら,「大勢を見捨てている」罪悪感に駆られない人間は教師ではない。

 「主体的に学ぶ」姿勢を持たせるためには,教師主導の「導入」や「展開」が必要なのである。

 「展開」の仕方は様々である。

 指導案では,「展開1」「展開2」「展開3」などと,発問や理解の深まりとともに,学習のスタイルも変化する場合がある。

 ペアで議論したり,4人1組で話し合ったりする場面もあるだろうし,1人の発言をもとに,多くの生徒が意見交換をする場面もあるだろう。

 いつの間にか,「学級自治会」みたいになることもある。

 これも「一斉授業」である。

 理解が不十分な子どもに寄ってたかって理解させようとする子どもたちに,「それでお前たちが得ができるんだ」なんて「説得」している教師が実在するとすれば,恐ろしい限りである。

 文科省は,「自分で考えればもう少しで答えが出たのに,他の子に解き方を教えられて悲しい思いをした」というケースも,「いじめ」と認定するという見解を出していることを覚えておいてほしい。

 「一斉授業」に対する理解も技能も不十分なまま,子どもたちを「放し飼い」にする教師を断罪できるのはだれだろう。

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論文作成と授業づくりの違い

 論文には,基本的な構成がある。

 結論がわからない状態で論文を書き始めることはまずないだろう。

 授業案も同様に,この時間ではこのようなことを理解させたい,という「結論」がもとになって,導入や展開を考えるのが普通である。

 導入・展開・まとめという授業の構成の中で,「まとめ」のイメージがあるから,導入の教材を工夫することができる。

 ただ,学習で大切なことは何を考えると,論文を書くことよりも,研究の過程でどのような良質の試行錯誤ができたかが重要であることは言うまでもない。

 研究のきっかけが何であったのか,実は論文を読むよりも,その話を聞いた方が,他人にとっては参考になることが多い。

 ゴールをあらかじめ提示してしまう授業が,その教科が扱う事象の興味・関心を高めるかと言えば,決してそんなことはないのではないか。

 さすがに公開授業では難しいかもしれないが,授業というのは多くの場合,「脱線」があるものだ。

 この「脱線」こそが,たとえば研究活動ならば意外な大発見に結びつき,よい業績をもたらすものになることが多いのではないか。

 教師が設定したゴールに向かってひたすら邁進させるタイプの一般的な授業が,多くの生徒にとって「つまらない」と感じられてしまうのも,生徒なりに「学習の本質」がわかっているからではないだろうか。

 結論よりも,まずは「導入」を工夫してみる。そうすると,子どもたちは,(教師の)思いも寄らない方向へと思考を働かせてくれて,「主体的な学び」が成立する。そんな授業を心がけていたい。


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SDGs(持続可能な開発目標)の時代の2年目に当たり

 ESD(持続可能な開発のための教育)=イーエスディーはまだ言いやすかったのですが,
 
 SDGsはちょっと日本語でイメージが持ちにくい略語になってしまいました。

 昨日の予算委員会の中でもふれられていたので,あれっ?何のことだろう?思った人が多かったかもしれません。

 SDGsは,2000年に採択された国連のMDGs(ミレニアム開発目標)が2015年に終了するのに伴い,昨年=2016年からの開発目標を定めたもので,以下の17の目標が示されています。

 17という数字も覚えるにしてはちょっと多すぎる感じですね。

 日本の立場で言えば,途上国への支援と同時に,国内でも解決・対応すべき問題に取り組むことが求められます。グローバルな視点から,どのような行動・社会貢献ができるのか,教育現場でも教えていく(考えさせていく)ことを安倍総理が名言しました。

 ちょっと重荷になりかねない雰囲気もありますが,実はすでに教育内容に含まれているものもありますし,時流に乗っているものもあり,「心に訴える」ことも容易にできるものばかりなので,通年目標・月間目標などを定めて,「行動の記録」をつくらせていくことも不可能ではありません。

目標1 貧困をなくそう
あらゆる場所のあらゆるかたちの貧困を終わらせる

目標2 飢餓をゼロに
飢餓を終わらせ、栄養を改善し、持続可能な農業をすすめる

目標3 すべての人に健康と福祉を
あらゆる年齢の全ての人の健康な生活を確保し、福祉を推進する

目標4 質の高い教育をみんなに
全ての人への衡平な質の高い教育と生涯学習の機会を提供する

目標5 ジェンダー平等を実現しよう
世界中で女性と少女が力をつけ、ジェンダー平等を実現する

目標6 安全な水とトイレを世界中に
全ての人に持続可能な水の使用と衛生設備(トイレ、下水道など)を保障する

目標7 エネルギーをみんなに そしてクリーンに
全ての人が、安くて安定的に発電してくれる、持続可能なエネルギー(太陽光、風力などの再生可能エネルギー)が使えるようにする

目標8 働きがいも 経済成長も
みんなが参加できる持続可能な経済成長を促進し、全ての人が職をもち、働きがいのある人間らしい仕事ができるようにする
           
目標9 産業と技術革新の基盤をつくろう
災害に強いインフラをつくり、みんなが参加できる持続可能な産業化を進め、新しい技術を生み出しやすくする

目標10 人や国の不平等をなくそう
国内及び国家間の格差と不平等を減少させる

目標11 住み続けられるまちづくりを
まちや人びとが住んでいるところを、だれもが受け入れられ、安全で、災害に強く、持続可能な場所にする

目標12 つくる責任 使う責任
生産と消費のパターンを持続可能なものにすることを促進する

目標13 気候変動に具体的な対策を
気候変動とその影響を軽減するための緊急対策を講じる

目標14 海の豊かさを守ろう
海と海洋資源を守り、持続可能な利用を促進する

目標15 陸の豊かさも守ろう
陸の生態系を保護し、持続可能な利用を促進し、森林の持続可能な管理、砂漠化への対処、土地の劣化、生物多様性の喪失を止める

目標16 平和と公正をすべての人に
平和的で、誰一人のけ者にされない社会と、すべての人が法律に基づいた手続きをとれるようにする。あらゆるレベルで効率的で説明責任ある能力の高い行政を実現する

目標17 パートナーシップで目標を達成しよう
目標達成のために必要な行動を強化し、持続可能な開発に向けて世界の国々が協力する


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「入試問題が変わる」という安直な発想

 「入試が変わるから学校での学習が変わる」などと安易に語っているのは,おそらく「学習の質を変える」ほどのインパクトのある試験問題をつくったことのない人たちだろう。

 採点基準を厳格に定めなければならない入学者選抜試験では,想定外の正解が出てこないような出題に限られてしまう。

 私が学校の定期考査で行っているように,生徒の答案を集めて全部読んでから,採点基準を決めるようなテストは入試では実施できない。

 私の場合は,解説の時間に生徒の意見を聞き,採点基準を改める場合すらある。そのために,返却する答案はすべてコピーをとっておき,得点が変わった場合は,該当するすべての生徒に説明するとともに,なぜどのような答えの得点が変わったか,具体例を示すプリントを配布している。
 
 制限時間が決まっているテストでは,自分の言いたいこと,考えていたことをすべて答案に書き尽くすことができない生徒もいる。そういう生徒から,レポートを提出させて,評価に加味する場合もある。

 「テストの点数絶対主義」を排除できるこうした学校現場での定期考査と,入学試験とは全く質が異なるものである。

 「知識がいらない」ような問題では,そもそも学校の授業を真面目に受ける意味もないと考えてしまう生徒が出てきてしまうから,当然,良質な知識を活用して,与えられた資料から必要な情報を取り出しながら思考し,表現させるような問題をつくることになる。

 しかし,「良質な知識」とはあくまでも教科書に取り上げられているような内容に限られてくるから,やはり教科書の内容はしっかりと理解しなければならない。

 だから,どんな対話的な授業をしようが,理解していなければ意味がないことに変わりはなく,多くの教師は教科書が網羅できるような授業を行い続けることになるだろう。

 では,「主体的・対話的で深い学び」を行うことは,不可能なのか?

 そんなことはない。全国各地から,「工夫された定期考査問題例」を集めてみて,精選した問題を公開してみたらどうか。

 「良質な問題」とはどういうものか,その定義を対話的に考えてみたらどうか。

 「この問題は,教科書を読まずに,授業も受けずに答えられてしまうからまずい」とか,

 「この問題は,結局この知識だけがあれば解けてしまうので,まずい」など,ありとあらゆる批判を集めて,「良問」をつくるコツを磨いていける場をつくってみたらどうか。

 すでに初めている自治体があれば,素晴しい。

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「聖徳太子」を「厩戸王」と呼ばせない圧力の正体

 社会科教育というジャンルがあるが,ここでご活躍のセンセイ方の中には,政治学や経済学,地理学や歴史学といった「学問」へのアンテナが高くはない方もいらっしゃるが,さすがに「聖徳太子」という呼称を続けていくのはまずいだろうと思っているはずである。

 「指導の継続性」という観点から言えば,大学や高校で「聖徳太子」と表現すればバカにされてしまうので,中学生だけではなく小学生にも「本来の呼称」を教えていくのが妥当だと考えられる。

 だから,次期指導要領の改訂案でもそうなっていた。

 しかし,「指導の継続性」という言葉を,「低いレベルをそのまま維持する」という発想でとらえる人たちの考えがパブリックコメントに寄せられ,文科省はそうした「わがまま」に従う意向であることが報じられている。

 私ははじめ,次期学習指導要領案に反対したのは,「厩戸王」ではなく,「厩戸皇子」と紹介していた教科書会社の人ではないかと思っていた。

 教科書会社としては,他社でしかも1社しか使われていなかった用語に統一されることは不本意であり,次の教科書採択への影響もあると感じたのではないかと。

 だが,文科省が,教科書会社の意見を聞いて,方針を変えるとは考えられない。

 さすがに教科書会社に天下りしている人はいないのではないかと思う。

 変更の理由が,「指導の継続性に問題」「子どもが混乱する」だけで通るわけがない。

 「指導の継続性」と言えば,今回の改訂の目玉は,高校段階へと発展的に成長していく資質能力像を描き出しているという特徴にある。

 だから,「小学校でこういう名前で呼んでいたから,中学校でもそのままでいく」という発想は次期指導要領にはないのである。

 最初に述べたように,「高校ではこう呼ぶのだから,小中学校でもそうする」というのが「指導の継続性」というより「指導の一貫性」が通っている姿である。

 ということは,「厩戸王という歴史学で一般的な呼称を教科書レベルでは使うことをやめる」という方向転換の理由は,「跳ね返すことができない圧力が加わったから」であると考えざるを得ない。

 ただ,こういういざこざがあったおかげで,「なぜ聖徳太子と呼ばれるようになったか」「なぜ厩戸王と呼ばせたくない人たちがいるのか」を考えさせるきっかけになる。

 これは「歴史との対話」はもちろん,「現代社会において,様々な主張をする団体がいること」を理解させることにもつながっていく。

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アクティブ・ラーニングを導入していない国の方が,問題解決能力調査の結果に優れている理由

 「詰め込み型の学習」とは何か。

 たとえば,百人一首をすべて暗記すること。

 これは「詰め込み型の学習」だろうか。

 授業で先生が50分しゃべり続けている。

 生徒がノートにひたすら内容をメモしている。

 これも「詰め込み型の学習」だろうか。

 私の考えはこうである。

 「学習」とは,そもそも「主体的なもの」である。

 実は,「教師が話をしている内容に耳を傾ける」こと自体が,かなり「主体的な態度」なのである。

 なぜなら,「寝ている」「話を聞かない」「自分で好きな本を読む」ことも可能だからである。

 もちろん,「自分で好きな本を読む」という行為も主体的な態度である。


 筑駒出身の企業人がどこかに書いていたが,授業を聞いている生徒は2~3割だったらしい(もちろん,聞いていないようで大事な部分は聞き分けている人はもっと多かったものと想像できるが)。

 他の生徒は,自分で別の教科の問題集を解いていたり,将棋の研究をしていたりと,「積極的に(授業とは別の)学習に取り組んでいた」のだ。

 では,授業を熱心に聞いて,メモをとる態度は,「主体的」とは言えないのか?

 もう一つ念のために付け加えておきたいことは,「主体的」に学んだところで,必ずしも知識や理解が定着したり,思考力や表現力がつくとは限らない,ということである。

 
 「学習」で大事なのは,「教材」「学習内容」の量と質である。

 豊富な教材や学習内容にふれた子どもの方が,そうではない子どもよりも優れた問題解決能力を発揮できるのは,なぜだろうか。

 日本の公立小学校では,昔から問題解決型の学習が行われてきており,

 こういう学習(アクティブ・ラーニング)を行ってきた子どもとは,中学校に進学しても,

 問題解決的学習への意欲や態度は一定の水準を保てている。

 しかし,その成果が出ているかと言われたら,疑問が残る。

 中学校で問題解決能力を発揮している子どもたちの多くは,中学受験を経験するなどして,より多くの教材にふれる機会があった子どもたちである。
 
 そもそも,問題解決能力を発揮している子どもは,「詰め込み学習」をしてきたという自覚があまりない。

 「詰め込み」されたものは,「取り出し」がしにくい。
 
 奥の方に入って出てこなくなるものがあるイメージだが,「主体的」に学ぶ子どもの中には,
 
 多くの引き出しにきちんと整理したり,大きな引き出しの中に小分けの仕切りをつくったりして,

 「取り出し」が容易になる仕組みができている子どももいる。

 
 多くの教材・学習内容を与えるだけでなく,その有機的なつながりを意識させるという「指導の工夫」がなされた「一斉学習」があるからこそ,日本の中等教育の一定水準は確保されてきたのである。

 中等教育の「初等教育化」を防ぐ意味でも,タイトルの言葉を書いたメモを職員室の掲示板にでも貼っておいていただきたい。


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「教育」が国の足を引っ張る時代

 これも歴代政権が,「教育」を軽視し続けてきたツケだろうか。

 よりによって,現政権を利用してのし上がろうとした教育関係者が,現政権を潰す爆弾を背負って野党に接近しようとしている。

 野党といっても,今の日本に長期政権が維持できる党は存在しないから,またしばらく前の「年ごとに首相がかわる」時期に戻っていくのだろうか。

 しばらくぶりに,政治が安定するかと思われていた日本だが,他人の足の引っ張る仕事を延々と続けている国会の様子を見ていると,「教育」の失敗はこうやって形になっていくものなのだとつくづく思い知らされる。

 むしろ政権側が,「教育勅語」への関心を高めるための演出として取り組んでいるプロセスの話だとしたら,したたかさも感じるが,現在の歴史教育のレベルでは,「教育勅語」への肯定的な評価を定着させるのは不可能だろう。

 「教育」で足を引っ張られ,「教育」で息の根を止められる国では,「教育」による国の未来像は描きようもない。


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都心で見つけた「避難小屋」を訪れる人たち

 営業をやめたパン屋さんに近づくと,「男性」「女性」別々の入口が用意されていた。

 中に入ると,風呂屋の暖簾がかかっている。

 ここはどこなのか?

 奥から現れた女性は,週2回ここにいらっしゃる「管理人」であった。

 いろいろなものを見せていただいた。
 
 廃業したパン屋さんが使っていた,種類ごとのパンの値札。

 端数を見て,見学に訪れた生徒は,すぐに「これ,消費税が3%だったころのものだ!」と気づいた。

 他にも,廃業した旅館から運ばれた徳利やお猪口。

 「ケロリン」の桶。

 そして,奥には風呂屋の下駄箱。

 なぜか,奥の部屋には黒板があったが,何でも不登校の子どもがここで勉強することも可能なのだそうだ。

 もとは神社がたっていたこの場所は,地域の人々の特別なコミュニティー空間にする構想があったとのこと。

 「ものを捨てることが大切」という人の気持ちもわかるが,

 私は完全に「ものを捨てられない人」の代表であり,「ものをとっておいてくれている人」が大好きである。

 ここには,九州出身の小説家の方も訪れたそうで,出版された文庫本が置いてあった。

 何が人を引付けるのだろう。

 神社の跡地ということもあり,パワースポットの一種になっているのではないか。

 再び訪れずにはいられない,そういう場所である。

 ちなみに,昼食は,その近くの大正3年創業のお店でいただいた。

 地域を歩くのは,本当に面白い。

 前の記事で紹介した消防士さんも,「ブラタモリ」が大好きだそうだ。


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火災調査官のお仕事

 今日は,身近な地域の調査を実施した地域の消防署を訪問し,さまざまなインタビューをさせていただきながら,「防災」に関する学習の在り方を検討してみた。

 生徒が調査を通して感じた疑問の中に,「実際の火災,特に,消火が困難そうな場所での火災を想定した消火活動のシミュレーションを実施しているか」というものがあった。

 火災調査を専門とした方のお話では,やはり現地を歩いて実際の消火栓の位置を確認することが大事だということだった。

 車を利用して巡回するのではなく,「歩く速度で見ないと,見えないものがある」とのこと。

 身近な地域の調査を実施するときに,紹介したいエピソードの一つである。

 火災調査では,火災を起こしてしまった方からその場の状況などを聞き取って,A4用紙にして,厚さ1cm弱くらいの書類に残しているそうだ。

 個人情報保護の観点から,中を見せていただくことはできなかったが,昭和40年代の記録が入った封筒を持ってきてくれた。現在ではマイクロフィルムにおさめられているというが,こういう資料は,実際に作った人の息づかいが伝わってきそうな現物があることが重要であるような気がする。

 何でもデジタルデータ化することを推奨する人もいるだろうが,データが飛んだらそれで終わりだし,何よりも大切な何かが伝わってこなくなる。

 私たち教師が子どもに伝えようとしているものは,デジタルデータでも伝わるコンテンツだけではないのだと改めて実感することができた。

 よく話に耳を傾け,自分の目でじっくり観察するが,100%これが原因だということは決して分からないという姿勢で臨むという火災調査。

 人はウソをつくこともある。

 それが証明されるような物的証拠になるものも見えることがあるのだろう。

 次の火災を防ぐために,公開できることはできるだけ公開したいが,個人情報保護も大切。

 こうしたジレンマを抱えるのは教育現場も同じである。

 聞き取りをしている間にも,「車両火災」が発生し,ポンプ車(一般に消防車と呼んでいるもの)が出動した。

 情報が入ってから1分以内の出動だった。

 延焼がなく,火災調査官の方が退席されることはなかったが,こういう「現場感覚」は学校も似たようなところがあると感じた。

 教育実習中に,実習生にはかかわれない生活指導や進路指導の場面が突然訪れることがある。

 私はこういうとき,実習生にとってはかけがえのないチャンスだと思い,その場にいさせて指導の実際を見てもらった。

 私たち教師にとっての「火災調査」は,すべて子どもが聞き取り対象となる。

 どういう姿勢で子どもから話を聞くのか,研修で学べる場はない。

 なぜAさんとBさんで私(教師)の態度が異なるのか,その理由は10枚とか20枚の書類に目を通してもらった上に,AさんやBさんの話の受け止め方の違いがわからないと理解できない。

 「調査」がどれだけ大切なのか,火災予防も,積極的な意味での生活指導も,同じようなものなのだという意識をお土産にいただいた1日だった。

 
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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より