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カテゴリー「中学受験」の44件の記事

暗礁に乗り上げてどうにもならなくなる高大接続問題

 センター試験は廃止することになっているが,よくよく考えてみれば,足切り用のテストなのに,それ以上の手間がかかるような無駄など,できればみんな省いてしまいたいと思っていることだろう。

 単純な知識のみで解ける問題を入試で出している大学への補助金を出さなくすればよいだけの話なのに。

 高大の接続を真面目に考えることは,文科省の再就職斡旋に象徴されるように,もともと意味のないことだと思えば,考えるのもばかばかしい。そこら中に天下っているOBたちの指示通り動く「天下り待ち」の人間には何もできないというわけである。

 賢く経済力のある親は,子どもを大学まで一貫で上げられる有名校にどんどん入学させている。

 小学校を設置したある学校では,低学力のままの子どもを進学させなければならない問題で頭を抱えているそうだが,寄付金をたくさんもらった子どもに限ってはOK,というわけにもいかないので,みんな上に上がっていくことになる。経営上は,何も困らない。

 私立大学の,いかにも「落とすため」の試験問題を見るたびに,こんな金儲けのための道具に規制をかけることくらい,たった文書1枚で=ほとんど税金コストゼロ円でできるはずなのに・・・と哀しく思う。

 1人の答案の審査に10人くらいが1時間かかわるのなら,たとえ3万円かかっても,時給3000円の仕事として納得してもらえるはずである。そういう問題を出題すればよいのだ。

 一体何の専門家である大学のセンセイが,高大接続を軌道に乗せようとしているのか?


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感情移入を武器にする教育

 「感情移入」とは,文学の世界では,自然物など「非情」の世界へ人間感情を持ち込むことを指している。

 「主観の導入」を捉える上で,とても重要な概念であるようだ。

 単なる「錯覚」に過ぎないと切り捨てるのではなく,人間にしかできない,人間の原始的機能の本質につながるものとして捉えることで,AIの進化にも影響を及ぼす武器になるかもしれない。

 

 外山滋比古先生は,アナクロニズム,地理的誤謬,感情移入を包括する概念として,

 「コンテクスチュアル・ファラシー(『場』の錯覚)」という言葉を挙げている。

 3つに共通するのは,

>第一の条件が,理解者と対象との間にコンテクストのずれが認められること

>第二の条件は,二つのコンテクスト間の理解伝達が十分に行われにくいという印象を与えることである。さらに,それを解消するにあたって,理解者側のコンテクストの主観的要素が対象のコンテクストへもち込まれる・・・これが第三の条件である

 合理性や正当性という点から疑われることも共通点である。

 「思い込み」という言葉で否定的に見られてしまう「理解」に対して,『場』の錯覚は,

 「文化」を大切にしようとする立場からは,あくまでも積極的な意義として語られている。


 「主体性」を育てようとしている教育の研究で,大切にしたい点は,

 「理解者」=生徒のコンテクストの主観的要素が,「教育内容」=対象のコンテクストへ持ち込まれるプロセスである。 

 今までの日本の授業研究の歴史では,45分とか50分の授業を通して,その様子を見学し,検証し,解明してきた積み重ねがあるはずである。

 大勢で正解にたどりつき,「みんなでがんばりました!」などという満足感を得て終わるような

 (昔,運動会の徒競走で,順位をつけないために全員手をつないでゴールする,なんてことをさせた学校があったようですが・・・)

 教育ではなく・・・・
 
 「主観的要素」を重視してあげることによって,何が育つのか。

 「主体性」を重視する方針を掲げるのであれば,「何が育つのか」をしっかりと語れる準備を整えておく必要がありそうです。

 「どうせ格差は埋まることはない」と諦めきった似非ガクシャに惑わされないように・・・。

 
 なお,感情移入の危険性について述べたこの2倍分の内容は削除いたしました。

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疑問に思う力を損なわない教育

 日本では,「質問をする」のはたいてい教師の仕事で,「質問に答える」のは子どもの役割である。

 そうでないと,教師は子どもが理解しているかどうかがわからない。

 問題と答えを与えて,子どもたちが好き勝手にまとめあげ,はい,理解できましたね,などという授業をしてしまう無責任な教師は日本では少数派だろう。

 ただ,最近は,「質問をする」能力がない教師が増えていて,手元の指導書に頼りきる,というケースが多いかもしれない。

 質問もしないで説明だけで終わる,という大学のような講義スタイルは,小中高の学習指導要領という法的なしばりをもつ「ルールブック」では認められない方法である。

 教師の「質問をする」力はどこで養われるのか?

 私が担当している教育実習生は,毎年同じような壁に突き当たる。

 それは,生徒への「質問」(教育現場の業界用語では,「発問」という)の内容を考えることである。

 「源頼朝は,どうして京都ではなく,鎌倉に拠点を置いたのだろう」

 こういう「質問」を考える教育実習生は,あまりいない。

 「考えたこともない」という学生もいるし,

 「三方を山で囲まれているから」と答える学生もいる。

 日本には,攻めにくい地形の場所はいくらでもあるから,それは答えにはなっていない。

 この問いの答えは,簡単なようで,実は奥が深いものである。

 実習生には,自分が答えるためというより,本当に「疑問」に感じられる「質問」はどのようなものかを感じ取ってもらうために,次々に問いを投げかける。

 「鎌倉幕府が成立した」と考えられた時期に,どのようなことが起こったか?

 幕府ができたから奥州藤原氏を滅ぼすことができたのか,

 奥州藤原氏を滅ぼすことができたから幕府が成立できたのか?

 そのどちらでもないのか?
  
 年表をたどりながら,では,明治時代になって「鎌倉幕府」と呼ばれるようになったものは,

 いつの時点で成立したのだろう?と考えることに意味はあるのか?

 ・・・・・・

 「考える」とは,どういうことなのか?

 それが教育実習期間に最も「考える」課題である。
 

 自分が答えを知らない質問を生徒にするのが怖い,という気持ちもわかる。

 正解を導くことよりも,生徒が疑問に感じ,その真相を知りたいと思うような課題がなければ,

 学習が面白いとは思えないことは,学生もよくわかっている。

 学生たちは,自分が実は何もわかっていないことにまずは戸惑い,

 結局は,自分がわかったことだけを授業を扱おうとする。

 実習生自身が,こういう授業を大学まで受けてきた「成果」が,指導しなければそのまま実習の授業に反映される。

 
 外山滋比古先生は,著書『考えるとはどういうことか』(集英社インターナショナル)で,次のようなことを述べている。

 頭では地動説を受け入れていても,いまでも「日が昇る」「日が沈む」という言い方をやめようとしない・・・日常生活では天動説的な感覚を持って暮らしている・・・と。

 学校の授業でも,地球ではなくて太陽がまわり続けている。

 答えが決まっているものをせっせと「理解する」ことを主眼とし,子ども「全員」が無事に答えにたどり着かせることで多少の満足感を覚えている教育理念が,「天動説」の典型的な例である。
 

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カンニングの習慣がつく『学び合い』

 日常的に,友達から答えを教えてもらって理解する習慣がついた子どもは,試験のときに落ち着かなくなります。

 私の学校でも,カンニングと疑われても仕方がない目の動きをする中学校1年生が,最初の定期考査で何人か「摘発」されます。

 さすがに次の定期考査ではそういう生徒は減っていきますが,どうしても「直せない」子どもがいる。

 まわりが気になって気になって仕方がない。

 もしかしたら,勉強とはいつもだれかと一緒にしゃべりながら行うこと,という習慣が染み付いてしまっているのかもしれません。

 小学校(の担任)によっては,カンニングが公認されてしまっていたところもあるらしい。

 無理もないですね。

 大学入試で「携帯電話を持ち込み可にしたらどうだろう」と提案しているセンセイの影響を受けてしまったのがいるようですから。

 さすがに会話は禁止にするとしても,問題を写真で撮影して,頭の良い人に解いてもらい,解答を送信してもらえれば,よい点が狙えてしまいます。

 要は,正解が出せる人とどれだけの人脈をもっているかが評価の分かれ道になる,ということですね。

 学校は寄生虫として生きる道を教える場所ではありません。

 『学び合い』はテストで点数が高くなることが売りのようですが,その理由がよくわかりました。

 「政治闘争」があったり,多くの人から相手にされない理由も。

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「化石」となった大学ではできないこととは?・・・ミネルバ大学の「大学らしさ」

 キャンパスはない。

 豪華な研究施設もない。
 
 スポーツチームは持たない。

 ミネルバ大学が学費を安くできる理由として挙げられていることである。

 私が注目したこの大学の「すごさ」は,

 オンラインでの授業中に,最先端のテクノロジーを生かしたシステムが学生一人一人の音声を認識して,教員のパソコン画面上で発言頻度に応じて学生を色分けされるなど仕組みがあること。

 発言不足の学生を狙い撃ちして,教師が授業の理解度を測定していく。

 実は日本の教師は,教室で全く同じことができている。

 それでも,「評価」を「記録」に残すことが難しい。

 私は以前,ある企業にほぼ同じシステムの構築はできるか?と質問したことがあるが,当時は「無理だ」と言われた。それは,やはり日本語自体の難しさに原因があるらしい。

 オンライン授業では,教師が指定したグループで議論を行うこともある。

 授業を受ける学生の側が勝手に作る「仲間」では,教師が意図したい「議論のさせ方」が実現できないので,教師がグループづくりの主導権・決定権を握るのはとても重要なことである。

 同じレベルの学生のグループや,意見が異なる学生同士で議論できるグループなどを任意につくることができる。

 単位の大半を大教室の講義で終始する授業でとるような「化石」大学では,未来のリーダーは育たない,という主張には説得力がある。

 (週刊東洋経済12月24日号の特集より)

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高校地理には人材がいない?

 高校では,どうやら「地理総合」が必修になりそうなのだが,学校現場では,

 「地理総合」を高度な専門性と高い意欲をもって教えられそうな教師が少ないことが危惧されている。

 地理学科を卒業して教師になっている人が少ないことが大問題であると・・・。

 本当にそうなのか?

 私は地理学ではなく日本史が専門だったが,教職の単位をとるために,地理関係の講義もたくさん受けた。

 骨は折れたが英語でアメリカの人文地理を学んだときには,一挙両得の気分になったことを覚えている。

 地震研究所の先生方による講義も受けていたから,自然地理もそれなりに理解できた。

 もちろん歴史関係の単位もたくさんとったが,私の場合,卒論のテーマになるような内容は,高校の教科書などには1行も触れられていないものであり,大学での専攻がそのまま高校や中学校での教育に使えるかというと,そういうわけではない。

 地理学科を卒業すると,それだけで高校の地理が教えられる,という論理は,単純には理解できない。

 歴史学科を卒業しても,それだけで高校の歴史を教えられるとは言えないはずだからである。

 弁護士さんが裁判関係の模擬授業を学校現場でやってみると,授業は教育実習生よりも下手くそだということが起きる。それはなぜか。

 授業は,自分が知っていることを子どもに伝えればすむような話のものではないからである。

 教師に求められる教科の専門性というのは,簡単に言うと,教科書に掲げられているタイトルの内容を,教科書本文は見ずに,いくつかの参考図書から整理して自分なりに説明できるような力があるということである。

 もっと言えば,教師の仕事とは,教科書の内容の解説をすることではなく,教科書の本文には書かれていない「おもしろい内容」を,生徒がいくつかの資料を使って調べたり考えたりしながら,「やはり教科書に書かれている内容は重要なのだな」と気づかせることができるように導いてあげることである。

 何を専門にしてこようが,大事なのは,その人が「おもしろい素材」を探し出し,「考えるきっかけ」をつかむ習慣を身につけているかどうかである。

 だから,地理総合だろうが,歴史総合だろうが,(私は個人的には「地歴総合」という学び方をさせたいものだが)教科書ベースではないもので,どれだけおもしろい授業が構成できるかが大切なのである。

 地理の人たちの心配を聞いていると,その地理の人たちがとても心配になるような話になっている,ということである。
 

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茂木健一郎さんによる「小学校算数に対する苦言」

 あるサイトで,茂木健一郎さんのツイートが紹介されていた。

 なぜか小学校教育の世界には,「算数科」とか「国語科」といった教科別の「ご専門」がいらっしゃる。

 「算数科」の「ご専門」が小学校教師をつくると,どういうことになるか。

 3+2=5は正解だが,2+3=5と書くと不正解になる。

 2.4+6.6=9は正解だが,2.4+6.6=9.0と書くと不正解になる。

 こうした小学校算数の奇習というか悪しき慣例が打破できないのはなぜだろうか。

 「数学者」ではない小学校の教師が,どこかで「算数教育の専門家」に化けて生息してしまっているからだろう。

 奇妙な正解を子どもに押しつける行為は,「子どもの精神に対する虐待」であり,許されない行為だと茂木さんは主張されているようだ。

 全く同感である。

 優秀な子どもたちは小学校算数など全く相手にする必要もなく,受験算数をひたすら学んで頭脳を磨いているのだろうが,公立中学校に進学してくる子どもたちの中には,本当に算数ができない子が多い。

 いったい何が原因でここまで算数の習熟度が低い子どもができてしまうのかも謎である。

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生徒が「授業がつまらない」という本音を言えない高校の進学率の高さ

 一生懸命に「生徒に興味を持ってもらおう」と思って教材開発をしたのに,

 「これ,大学受験に役立ちますか?」という不信感をもった教科主任の一言でボツに。

 場合によっては,生徒のダメ出しでボツに。

 こういう経験をしている高校教師は何%くらいいるのだろう。

 もちろん大学への進学実績を気にしなければならない高校の話である。

 偏差値の高い大学への進学者がほとんどいない高校の教師は,本当に楽だと聞いたことがある。

 これはもちろん相対的な話。模試の偏差値(校内の結果)が「教師の評価」に直結するような高校では本当にストレスもたまるだろう。

 進学率の高い高校でも,ある面から言えばストレスがかかりにくい。

 きっと,「授業がつまらない」という感想を「わざわざ」出す高校生はいないだろう。

 「それが当たり前だから」という感覚をもって学習し,「偏差値の高い大学」に進学してきたコドモタチが,

 大学でどれだけ「学び」に力を入れることができるかは,大学教師でなくても想像がつく。

 東大の教員に危機意識が芽生えている理由もわかりやすい。

 地方の公立高校では,センター試験対策に沿った授業をするのが当たり前で,

 これはセンター試験の問題を見ればわかることだが,そういう授業が「おもしろい」わけがない。


 文科省の積もり積もった高校教育への不信感によって,とうとう「今までにない高校いじめ」の

 学習指導要領が生まれようとしている。

 センター試験廃止でなく,試験問題の見直しでよかったのだが,

 そこは「改革らしさ」を全面に出したかったのだろう。

 
 受験のモチベーションを柱にして「人気」を支えようとしている高校の授業を変えさせるのは,

 「受験問題」の質に尽きるわけだが,大人数から一部を選抜する「問題」に,

 これこれこういう授業をしていないと,うちの入試問題は解けない,というメッセージを出すのは難しい。

 何しろ,教員採用試験の面接官の話を聞いても,

 「違いを見つけるのが難しい。面接官によって全く評価が異なる場合も多い」という悩みがあるという。

 1人の選抜に複数の人間で時間をかけられる場合でも,「違いが分かりにくい評価方法」では

 「評価の透明性や妥当性」が出せない。

 
 筆記の場合,東京大学の二次試験のように,採点基準を公開しないとなると,

 「何が正解かわからないまま,選抜が行われる」という状況になる。


 理想を追い求めると,かえって理想像とは真逆の結果に陥るおそれもある。

 偏差値の高い公立高校にいる生徒のように,「割り切れる」人だけが,得をするしかないのだろうか。

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「どうせ子どもは教師の話を聞いても理解できないし学ぶ意欲は高まらない」という子ども観が生み出す凶育

 「子どもたちの能力を信じる」などと言っているくせに,

 「どうせ子どもは教師の話を聞いても理解できない」と見下している人たちがいる。

 こういう子ども観が生み出す凶育は,戦前から何度か周期的に現われ,そして沈没していった。

 子どもを信じない大人が実践する凶育は,決して長続きしないものである。

 荒れた学校や学級が立ち直っていく過程を知っている人が,決して捨てない信条がある。
 
 それは,「子どもは本気で語る大人の話をしっかり聞ける存在である」ということ。

 残念ながら,世の中には本気で騙る大人がいる。

 教育現場から尻尾を巻いて逃げていった人間たちが,

 教師を混乱に陥れようとしている状況に待ったをかけられるのは現場の教師に他ならない。

 子どもたちが本気・本音で語り合える場面を,どういう機会に与えていこうとするか。

 授業研究でしか実績をあげられないタイプの人には,一生かかってもわからないだろう。

 子どもを守れるのは,現場の教師である。


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【データから考える教育-3】 家庭学習で悩む母親

 小学校1~3年生の子どもがいる共働き家庭の母親1000人への

 インターネット調査(公文教育研究所,2015年8月)の結果,

 家庭学習について「とても悩んでいる」「少し悩んでいる」と答えた人は53%だった。

 家庭学習がうまくいっていないと思う状況とは,

 「だらだらとし,行動にすぐ移さない」が最も多い53%。

 「いちいち指図しないと動かない」が36%。

 「いつも子どもを怒ってしまう」が29%。

 (日本経済新聞2016年1月4日の記事より)

 *********************

 学年が上がると,もっと割合が高くなるのではないか。

 「もうあきらめている」「家で勉強する必要はないと思う」

 といったネグレクト系も少なくないだろう。

 
 「家庭学習」の大部分は学校の宿題だろうが,

 中学受験の塾に通わせている親にとっては,

 ここに「塾の宿題,課題」が加わる。

 子どもたちは,『女工哀史』も霞んで見えるほどの「長時間・学習労働」に励んでいる。

 
 私が願いたいのは,「家庭学習」はあくまでも「自主的」「主体的」な学習にしてほしい。

 それも,「読書感想文」のような,「獄中作文」ではなく,もっと独創的な何かに取り組ませたい。

 100くらいあるメニューの中から選ぶという方法より,

 「授業でこれこれを学んだから,そこに関連のありそうな何々を探す」といった,

 「その場でのひらめき」をあとで(その日のうちに)形に変えられるようなものにしてほしい。

 こういう「家庭学習研究会」のようなものはないだろうか。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より