ウェブページ

最近のトラックバック

本の検索・注文


  • サーチする:
    Amazon.co.jp のロゴ

カテゴリー「学校選択制」の180件の記事

教員になれない人のための教員養成課程

 教員採用試験の合格者がそれなりに多い教員養成系大学がある一方で,合格者がほとんどいない大学がある。

 合格する見込みのない大学生に,教員養成のための時間を設けることに意味はあるのか?

 こういう疑問をもつ人も,いるにはいるでしょう。

 私の答えは,「意味はある」です。

 一生の思い出に残る教育実習を体験できるかどうかが,教員養成課程の最大のポイントだと思っています。

 そして,充実した教育実習を体験できるかどうかは,現場の指導教諭と生徒たちにすべてかかっていると考えてよいでしょう。

 指導教諭(の勤務する学校)が,教育実習の指導のための綿密なプログラムをもっているかどうかが成功の鍵です。

 「何も起こらない」学校や学級では,実習になりません。

 「いつでも何かを起こせる」学校や学級は魅力的です。

 教育実習は,指導教諭から学ぶための場ではなく,子どもから何かを学ぶ場です。

 「最高の指導者」としての子どもがいる学校とは,どういうところでしょうか。

 「教員養成の専門家」が,そういうところに関心を持てるようになるのはまだまだ先のことかもしれませんが・・・。
 
 教育実習の再チャレンジができる仕組みを整えようとしてくれる事務方が出てきてくれることを望みます。

 
にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

「主幹教諭」の使い捨てが始まっている

 管理職と一般の教諭の間に,「主幹教諭」という立場がある。

 管理職のなり手がいないように,

 将来の管理職に近い立場としての「主幹教諭」のなり手もいなくなっていくだろう。

 本人の強い意思というより,管理職への「主幹教諭のなり手を増やせ」という強い要請がもとになり,管理職によって「主幹教諭」に勧められたからなった人が多いのではないか。

 なったきっかけはどうであるにせよ,「主幹教諭」に課せられる任務は決して軽いものではない。

 当然,「主幹教諭」としてのつとめを果たしていない,と断罪される人が増えていく。

 「お前は役に立たない」とまでは言われないだろうが,

 「他の学校でスキルを磨いたらどうか」などと言われて,異動させられる人が増えていくだろう。

 そして,異動先で能力が認められなければ,またすぐに次の学校に移らされる。

 単純に「行政職」としてとらえたら,「主幹教諭転がし」が,本人のためになる場合ももちろんある。

 ただ,管理職の養成方法としての「主幹教諭」育成にも,私は限界があると思っている。

 私は3年間の教育委員会での勤務を通して,現場の教師の大変さに改めて気づかされた。

 現場では,子どもだけではなく(子どもだけでも恐ろしく大変だが,以前に増して子どもとセットで大変な親も増えている),教員たちという,子どもの以上に大変な「指導」対象を抱えているのである。

 「指導」とは,問題行動を起こした教員への注意,という意味ではない。

 十分に高い能力をもった教員の能力をさらに伸ばすための働きかけも重要な「指導」である。

 まだまだ自分を磨くのに時間がかかる,そういう学校現場で,
 
 教師として不完全な自分が,他の教師の(もちろん自分よりキャリアが長い教師も含めて)「指導」を担うのは,大きな負担になるだろう。

 学校内で閉塞状況に陥った主幹教諭が異動させられることは,心理的重圧から逃れる手段として一時的な効果があるかもしれないが,それを繰り返すことで,教師として最も重要なものが得られないまま終わってしまうのではないか,と私は危惧している。

 その気持ちの表れが,標題の「使い捨て」という言葉になった。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

教育困難校を避けたい教育公務員たち

 教育困難校に勤めていると思われる教員の愚痴ブログ。

 共感を覚えるのは,同じ教員だけでなく,同じ学校に通っている心優しい生徒たちも同じだろう。

 もちろん,私のように反感を覚える者もいる。

 子どもから暴言を浴びせられ,「裏切られた」と感じている哀しき教育公務員は,

 いくつかの意味で本人が重大な「裏切り行為」をしている。

 その最も「裏切ってはならない」対象とはだれか,本人は気づいているのだろうか。

 教育困難校立て直しの切り札こそが『学び合い』だろうか。

 残念ながら,ご本尊は学校を辞めてしまっているが。

 
にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

小さな「違い」には敏感で,大きな「違い」には鈍感な人たち

 大きな「違い」には鈍感で,小さな「違い」にはとても敏感な人たちがいる。

 「違い」が大きすぎると,「比べる」という思考が停止してしまう。

 一方,小さい「違い」の方は,思考や感覚がフル回転し,「とても気になる存在」になる。

 「細かいところに気がつく」習性が,発達に多大な影響を及ぼした産業もあるだろう。

 大きい「違い」の方はスルーできてしまうことで,余計なトラブルを避けることができていたと言える面もあるだろう。

 ただ,時代は大きく変わっている。

 今までスルーしてきた大きな「違い」に目を向け,どうでもよい小さな「違い」にこだわらない性質をもつ人が増えていかないと,つぶれてしまうところはないか。

 たとえば学校現場。

 学校教育に関しては,どんなことをスルーしてきたか。

 たとえば「異常に多い1クラスの人数」。義務教育だけではなく,大学も同じである。

 「こんな状態では,教育効果は測定できない」という声をほとんど聞かないのは,

 外国とまともに比較する気がなかったからだろう。

 どんな細かいことにこだわってきたか。

 観点別学習状況の評価である。

 A(十分満足)とB(おおむね満足)の違いはどこにあるのか。

 この説明を,たとえばある単元の学習について,同じ県のすべての市の中学校教師たちが同じようにできるわけがない。

 しかし,同じようにできることが前提となって使われているのが高校入試の内申点である。

 様々な学習場面,活動場面があったはずである。

 それをAとBにきちんと分ける根拠を,すべての教師がもっているとは思えないし,

 その基準が同じであるとは思えない。

 そんな議論は完全にスルーされてきた。

 でないと,「入試に公平性がない」ことになってしまうからである。

 「できていることにする」という発想が,ここでだけ許される理由は単純であるが,

 「全員が困る」ことには目を向けない,という無責任さがさまざまな不幸を招いてきたことにそろそろ気づくべきではないか。

  
にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ 

イジメドッキリは,いじめを助長するきっかけになるか

 低俗な内容を中心としたテレビ番組が,国民の生活にどのような悪影響を及ぼしているのか,

 まともな研究をしている人はいないだろう。

 高尚な内容を扱っているはずの学校での道徳教育が,国民の生活にどのような好影響を及ぼしているのかを

 実証的に研究することも不可能である。

 テレビで低俗な内容のバラエティー番組の視聴を禁止され,道徳の学習を熱心に行っている生徒がいじめをしていることもあるだろうし,道徳の授業など聞いてもいないし参加もしていない生徒が,バラエティー番組を見て日頃の鬱憤や不満を笑い飛ばすことで解消し,結果として人には迷惑をかけない生活を送っていることもある。

 何が悪い,何が良い,と一方的に決めつけて対策を講じても,そもそもの「前提」が間違っていたら,かえってマイナスの効果が拡大する恐れもある。

 
 バラエティー番組の中でも,視聴率が稼げる内容の代表格として「ドッキリ」がある。

 視聴者側も基本的には「やらせ」=台本通りにやっているのだろうと思いながら見ている訳だが,

 それだと「刺激が足りない」「本当の切迫感がない」という理由からか,

 騙す側が本気になって演じる「ドッキリ」もある。

 芸能人の先輩が後輩に強烈なパワハラ,職場イジメを敢行する。

 騙す側は,「台本に従っている」わけだから,職務遂行に専念しているだけだと申し開きができる。

 ただ,騙される側が本当の台本を手に取ってない,という前提で公開されている番組では,

 「それらしいリアクション」が放送される。

 騙される側が,「相手は本気ではなかった」「台本通りのフィクションだった」と後で知ってほっとして何事もなく終わっていくのが「イジメドッキリ」なのだが,

 「イジメ」られて苦しんでいる人の姿を見て喜ぶ人のための演出が,

 それを見た子どもたちの心に何を育てていくのかを考えておかなければならない。

 ~イジメドッキリは,いじめを助長するきっかけになるか~

 ~子どもが学校でイジメドッキリを行った場合,いじめとして認定することはできるか~

 ~ドッキリ(一時的に相手を騙して苦痛を与え,すぐにウソだったとその場で明かして安心させること)はいじめに当たるか~

 現在,いじめの定義は「いじめ防止対策推進法」で以下のように示されている。

*****************

 児童生徒に対して、当該児童生徒が在籍する学校(※)に在籍している等当該児童生徒と一定の人的関係にある他の児童生徒が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものを含む。)であって、当該行為の対象となった児童生徒が心身の苦痛を感じているもの

 ※小学校、中学校、高等学校、中等教育学校及び特別支援学校(幼稚部を除く。)

*****************

 文科省では,算数の問題を解いている途中で,もう少しで解けそうだったのに,隣の席の子どもが解き方を教えてしまった場合でも,「いじめ」は成立すると説明している。

 それは,答えを教えられた生徒が「心身の苦痛を感じた」場合である。

 この法律では,「教師は生徒をいじめることはできない」ことも示している。

 いじめは児童生徒が行う行為だと定義しているから。

 教師から言われた言葉で傷ついても何にもならないが,

 子どもから言われた言葉で傷ついたらいじめになる。

 「いじめ防止対策推進法」ができたことによって,「いじめ」の定義は最大限に広がっている。

 「行為」には「行為しないこと」も含まれるだろう。

 学校を休んだ日に,友達が明日の授業連絡をしてくれなかった。

 これもいじめである。無視された,と子どもが訴えれば。

 学校でもしイジメドッキリを行ったら,紛れもなくいじめである。

 ドッキリの対象として選ばれた時点で,「いじめ」の対象として選ばれた,と考えなければならない。

 いじめを直接的な題材とした道徳のアクティブラーニングを行っていったときに,

 前提としておかなければならない知識がたくさんある。

 道徳の授業を推進する場合は,保護者も納得できるような基礎資料をあらかじめ提示し,家庭での議論もしっかり行った上で,学校での「話し合い」活動を展開する必要があるだろうが,そのときの「話し合い」の内容によっては「親が学校に乗り込んでくる」場合も考えられるだろう。

 「乗り込んできてくれること」を想定した指導案,その後の学校としての組織的対応の事前検討案というのも必要だろう。

 「道徳教育には,学校全体で取り組みます」と言った場合に,学校がしなければならない仕事のイメージの一つである。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ 

感情移入を武器にする教育

 「感情移入」とは,文学の世界では,自然物など「非情」の世界へ人間感情を持ち込むことを指している。

 「主観の導入」を捉える上で,とても重要な概念であるようだ。

 単なる「錯覚」に過ぎないと切り捨てるのではなく,人間にしかできない,人間の原始的機能の本質につながるものとして捉えることで,AIの進化にも影響を及ぼす武器になるかもしれない。

 

 外山滋比古先生は,アナクロニズム,地理的誤謬,感情移入を包括する概念として,

 「コンテクスチュアル・ファラシー(『場』の錯覚)」という言葉を挙げている。

 3つに共通するのは,

>第一の条件が,理解者と対象との間にコンテクストのずれが認められること

>第二の条件は,二つのコンテクスト間の理解伝達が十分に行われにくいという印象を与えることである。さらに,それを解消するにあたって,理解者側のコンテクストの主観的要素が対象のコンテクストへもち込まれる・・・これが第三の条件である

 合理性や正当性という点から疑われることも共通点である。

 「思い込み」という言葉で否定的に見られてしまう「理解」に対して,『場』の錯覚は,

 「文化」を大切にしようとする立場からは,あくまでも積極的な意義として語られている。


 「主体性」を育てようとしている教育の研究で,大切にしたい点は,

 「理解者」=生徒のコンテクストの主観的要素が,「教育内容」=対象のコンテクストへ持ち込まれるプロセスである。 

 今までの日本の授業研究の歴史では,45分とか50分の授業を通して,その様子を見学し,検証し,解明してきた積み重ねがあるはずである。

 大勢で正解にたどりつき,「みんなでがんばりました!」などという満足感を得て終わるような

 (昔,運動会の徒競走で,順位をつけないために全員手をつないでゴールする,なんてことをさせた学校があったようですが・・・)

 教育ではなく・・・・
 
 「主観的要素」を重視してあげることによって,何が育つのか。

 「主体性」を重視する方針を掲げるのであれば,「何が育つのか」をしっかりと語れる準備を整えておく必要がありそうです。

 「どうせ格差は埋まることはない」と諦めきった似非ガクシャに惑わされないように・・・。

 
 なお,感情移入の危険性について述べたこの2倍分の内容は削除いたしました。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

疑問に思う力を損なわない教育

 日本では,「質問をする」のはたいてい教師の仕事で,「質問に答える」のは子どもの役割である。

 そうでないと,教師は子どもが理解しているかどうかがわからない。

 問題と答えを与えて,子どもたちが好き勝手にまとめあげ,はい,理解できましたね,などという授業をしてしまう無責任な教師は日本では少数派だろう。

 ただ,最近は,「質問をする」能力がない教師が増えていて,手元の指導書に頼りきる,というケースが多いかもしれない。

 質問もしないで説明だけで終わる,という大学のような講義スタイルは,小中高の学習指導要領という法的なしばりをもつ「ルールブック」では認められない方法である。

 教師の「質問をする」力はどこで養われるのか?

 私が担当している教育実習生は,毎年同じような壁に突き当たる。

 それは,生徒への「質問」(教育現場の業界用語では,「発問」という)の内容を考えることである。

 「源頼朝は,どうして京都ではなく,鎌倉に拠点を置いたのだろう」

 こういう「質問」を考える教育実習生は,あまりいない。

 「考えたこともない」という学生もいるし,

 「三方を山で囲まれているから」と答える学生もいる。

 日本には,攻めにくい地形の場所はいくらでもあるから,それは答えにはなっていない。

 この問いの答えは,簡単なようで,実は奥が深いものである。

 実習生には,自分が答えるためというより,本当に「疑問」に感じられる「質問」はどのようなものかを感じ取ってもらうために,次々に問いを投げかける。

 「鎌倉幕府が成立した」と考えられた時期に,どのようなことが起こったか?

 幕府ができたから奥州藤原氏を滅ぼすことができたのか,

 奥州藤原氏を滅ぼすことができたから幕府が成立できたのか?

 そのどちらでもないのか?
  
 年表をたどりながら,では,明治時代になって「鎌倉幕府」と呼ばれるようになったものは,

 いつの時点で成立したのだろう?と考えることに意味はあるのか?

 ・・・・・・

 「考える」とは,どういうことなのか?

 それが教育実習期間に最も「考える」課題である。
 

 自分が答えを知らない質問を生徒にするのが怖い,という気持ちもわかる。

 正解を導くことよりも,生徒が疑問に感じ,その真相を知りたいと思うような課題がなければ,

 学習が面白いとは思えないことは,学生もよくわかっている。

 学生たちは,自分が実は何もわかっていないことにまずは戸惑い,

 結局は,自分がわかったことだけを授業を扱おうとする。

 実習生自身が,こういう授業を大学まで受けてきた「成果」が,指導しなければそのまま実習の授業に反映される。

 
 外山滋比古先生は,著書『考えるとはどういうことか』(集英社インターナショナル)で,次のようなことを述べている。

 頭では地動説を受け入れていても,いまでも「日が昇る」「日が沈む」という言い方をやめようとしない・・・日常生活では天動説的な感覚を持って暮らしている・・・と。

 学校の授業でも,地球ではなくて太陽がまわり続けている。

 答えが決まっているものをせっせと「理解する」ことを主眼とし,子ども「全員」が無事に答えにたどり着かせることで多少の満足感を覚えている教育理念が,「天動説」の典型的な例である。
 

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

学校生活調査の「教師用」が配布された

 一部の教師が「事務作業が多い」と文句を言っているらしいが,

 「忙しい」から「ミスをしても仕方がない」というわけにはいかない。

 昨日,学校から「学校生活調査の結果」が配布されたが,封筒を開けてみたら,

 「教師用」の方が入っていた。

 私の子どもは「要支援対象」なのだそうだ。

 「授業がつまらない」という感想をもらしているらしい。

 この理由は親ならよくわかるが,ここではふれないでおく。

 私のような「教師」を職としている人間にとっては,「こっちの方がありがたい」と思う資料だが,

 これを見てショックを受ける保護者は多いだろう。

 取り返しのつかないケースにつながる場合も考えられる。

 小学校に問い合わせをしてみたら,「休日でいません」とのこと。

 中学校ならこの連休でだれもいないということはあり得ないが,

 ここが小学校らしいところである。

 ニュースになるほどの「価値」がある話ではないかもしれないが,

 月曜日から教育委員会も含めて大忙しとなろう。

 回収はどうやって行うのか。

 私が管理職なら,担任に一軒一軒まわって謝罪しながら回収するように指示する。

 「この程度」の不祥事はいくらでも起きるのが公立小学校というところだとあきらめるしかないのだろうか。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

「学級崩壊が見られない」学校が迎える可能性のある「本格的な学級崩壊」

 「学級崩壊」とはどのような状態なのか?

 「家庭崩壊」とどのような共通点と相違点があるのか?

 子どもたちの心がどんどん蝕まれていく「家庭崩壊」と異なり,

 「学級崩壊」状態の子どもはとても生き生きしている場合がある。

 恐ろしいのは,教師自身が「崩壊」していることに気づけない場合もある。

 教室に自分以外の大人がほとんど入らない,小学校という特殊な教育現場で起こりやすい「学級崩壊」は,「家庭崩壊」と同じようなニュアンスで捉えられている可能性がある。

 子どもは「子ども」らしく育っているが,大人の方が「親」や「教師」らしくない。

 親の方が家庭が崩壊していることに気づけないことが本当にあるのかと疑問に思われる方もいらっしゃるだろうが,現場の教師をしていると,「気づかないふりをしているだけでいてほしい」と願うケースに接することが多かった。

 問題行動を起こす子どもの親の中には,

 「自分もそうやって育てられて,何の不満もなく,悪いこともしなかったのに」と疑問に思う人が少なくない。

 「ちゃんとお金はあげていたのに」

 ・・・・学級や家庭はどうあるべきなのか?

 教師や親の役割とは何か?

 そこから教育の問題をとらえなおさないといけない時代である。

 あるブログで,「学級崩壊が見られない学校」の紹介がされていたが,内容を読ませていただくと,

 これからちゃんと崩壊が起こる準備を着々と進めている学校のように思えた。

 むしろ,実際には崩壊しているのかもしれない。

 授業中に,生徒が一言も私語をしない?

 生徒は「生きて」いるのだろうか?

 親が教師の前で問題を起こした子どもを殴る?

 虐待・暴力の現場を目撃した教師が果たすべき義務とは?

 法治国家以前の「教育」レベルの地域では,「学級崩壊」や「家庭崩壊」以前に,

 「人間」が崩壊していく。

 「学級崩壊」があった方が,子どもが本当の「生きる力」を身につけられる可能性があるとさえ感じてしまった。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ 

指導力不足教員が教職大学院で「生まれ変わる」ことは可能か?

 「優秀な教師」と呼ばれるようになる資質能力を向上させることが,大学や大学院に可能だろうか?

 もしこういう質問を,「優秀な教師」と考えられている人たち,たとえば人事考課でAをとっている人たちにしたら,どのような答えが返ってくるだろう。

 優秀な教師が,大学院で学び直して,さらにその資質能力を伸ばすことは可能かもしれない。

 「雑用」をやらされて,「こきつかわれる」立場をもう一度経験することで,

 理解と愛情のある「こきつかい方」ができるようになるという「教育効果」も大きいだろう。

 ただ,進む大学によっては,「学ぶこと」よりも「教えてあげること」の方が多くなってしまうかもしれない。

 そもそも「教え方」の勉強をしてこなかった大学のセンセイたちから,社会環境が異なる海外のガクシャの理論を紹介されたところで,日本の学習指導要領の枠内では実現不可能なことだったら意味がなく,むしろ「ジムカタ」に転職した方が「教育のコウジョウ」に貢献できるかもしれないわけである。

 もし,教師としての資質能力に明らかに欠ける学生や教師が,大学や大学院で学ぶことで,将来「優秀な教師」とよばれるようになる力は身につくのだろうか。

 ある大学のセンセイにこれに近い質問をしたところの答えは,

 「学生が多すぎてわからない」というものだった。

 そもそも学生自体の能力を大学のセンセイは把握できていないわけである。

 現場の教師をつとめたことがないかつとめてもすぐに辞めてしまったような大学のセンセイには,そもそも「教師としての適性があるかないか」が判断できないわけである。

 こういう大学のセンセイたちが「学習のヒョウカ」のことを教えるのだから,資質能力が高まるどころの話ではない。

 「教職大学院」がもてあまし気味になりはじめていることが,一部の学校に出された調査からうかがえる。

 始める前からわかっていることに気づけないで始めてしまうということ自体が問題なのである。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

より以前の記事一覧

2017年2月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28        
無料ブログはココログ

宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より