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カテゴリー「ニュースより」の864件の記事

9月27日 100年違い

 日本では,今から100年前の9月27日に,初めて女性が自動車の運転免許を取得したらしい。

 9月27日は女性ドライバーの日とされている。

 サウジアラビアでは,26日に国王が女性の自動車の運転を認めるよう法改正する指示を出したようだ。

 女性の地位向上に力を入れるようになった背景は何だろう。

 原油価格の低迷が今後数年続けば,財政状況が大変なことになるのがわかっているらしい。その危機感の影響だろうか。

 勇気ある女性の訴えが功を奏したのだろうか。

 小学6年生も学ぶ友好国に,とてつもない差別があったことを,このニュースで初めて知った人も多いだろう。

 第一次世界大戦中に,社会進出にともなって女性の地位が向上した国は多い。

 その後,100年を経て,行政のトップに女性が選ばれる日がいよいよ来るのだろうか。

 ある番組のインタビューの最後で,「インシャラー」と口にしたその発音がなぜか耳に残っている。

 野党の再編がわずかな期間で急速に進みそうである。

 「風」だけを読んで「人気者」にあやかろうとする怪しげな人たちがうようよしているのも気になるが,

 「何でもあり」の方がむしろ,国民の政治への関心が高まるかもしれない。

 もし違う人が「インシャラー」と言ったら,どんな反応が集まっただろう。

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9月26日 災害への備え

 9月26日は,台風に襲われる回数が多い日だと言われている。

 痛ましい事故の記憶もある1日だが,日本は東日本大震災などを経て,

 災害に強い国に大きく変わりつつあると思われる。

 災害への強さは,物理的な備えだけではなく,精神的なつながりの度合いによっても測定できよう。

 「明日は我が身」という言葉を,ただ唱えているだけでも意味はない。

 今日,できる「備え」は何だったか。

 教育現場も,ときどき「豪雨」や「台風」に見舞われる。

 感情が嵐のように高ぶり,生徒と生徒が傷つけ合う事態に陥ることがある。

 こういう場合にものを言うのは,日頃からの「備え」である。

 気持ちでは救う対象である子どもが,いつの間にか人を救う立場になっていることがある。 

 子どもにいつも救われている感覚をもっている教師に油断はないか。

 子どもをいつも救っている自覚のある教師に油断はないか。

 生徒と教師の関係でも,「お互い様」という感覚が大事である。

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幼稚園児の喧嘩

 今,アメリカと北朝鮮のトップがしているのは,幼稚園児のような喧嘩であるという指摘がある。

 幼稚園児のような喧嘩ではあるが,喧嘩であることは間違いない。

 それも,国の威信をかけた喧嘩である。

 幼稚園児の実際の喧嘩が,「言い合い」「ののしり合い」で終わることはないだろう。

 物理的な力と力のぶつかり合いがあって,何らかの決着がついて終わる。

 延々と悪口の言い合いをしていてくれるだけなら,周囲に実害は及ばない。

 相手の挑発行為を「史上最悪」と読んだ側も,「史上初」の形式で見解を公開した。

 最終的な勝利がどちらに転ぶか,多くの人たちが同じ答えを信じているが,

 歴史をふり返れば,最初の勝利は後で滅んだ方にもたらされることが多い。

 昔とは違って,「最初の勝利」と「最後の勝利」の距離が縮まっている可能性が高いことを忘れずにいたい。

 喧嘩の仲裁ができるのは誰だろう。

 対岸の火事として眺めていられる国が仲裁役としてふさわしいのだろうか。

 安倍首相がアメリカとの関係について語っている「完全に」とか「100%」という言葉には,正直言って違和感がある。
 
 一枚岩であることを強調する関係が崩れ始めるときを,敵側は決して見逃さないだろう。

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9月21日 国際平和デーと国連総会での既視感

 国際連盟で演説を終えた松岡洋右が議場から去る様子を,授業では動画で生徒に見せていた。

 トランプ大統領の演説が始まる前(始まってから?)に,北朝鮮の国連大使が議場を出て行った様子が報道された。

 国際的な機関に背を向けた国に待っているものは何だろう。

 トランプ大統領の演説には,「おまけ」がついていた。

 北朝鮮の拉致問題にふれてくれたことを,日本側はとても歓迎しているようだ。

 「ロケットマン」と揶揄された側が,次に起こす行動は何だろう。
 
 私が読んだ新聞はどれも扱いが小さかった(1面ではふれていないものもあった)が,「完全な破壊」という言葉が見出しに使われていたのは日本経済新聞である。ヨーロッパの国々が対話に動き出すとの記事もあった。

 9月21日は国際平和デー。「世界の停戦と非暴力の日」に,当てつけのように行動を起こしてくるかもしれない。

 子どもたちにとっても,ニュースに関心が高まるきっかけとなった。

 不倫だの何だのというニュースより,大事な日本と世界の未来の話に耳を傾けられる大人が増えてほしい。

 子どもは大人の背中を見て育つ。

 北朝鮮の国連大使が置かれている立場に心を寄せる余裕もほしい。

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大学の教員にとっての研究と中学校の教員にとっての教育

 私が勤務している学校でも,ついに「教育実習生を午後○時以降まで残してはならない」という指示がおりてきました。

 これでもはや学校の存在意義の一つが完全に否定されたことが実感できました。

 私は何も,「ブラックに耐えられる人間を教員にしたい」と言っているわけではありません。

 単純な事務仕事を延々とやっていて,子どもを放っておいて文句ばっかり言う人間と,

 単純な事務仕事をさっさと終わらせて,より子どものためになる時間を楽しく過ごしている人間を比べて,

 どちらが教員に向いているかは言うまでもないでしょう。

 大学の教員にとっての研究とは何でしょうか。

 読書編で紹介した本の中で,鷲田清一学長は以下のような研究者像を「理想」と考えているようですが,これが「時代おくれ」というか,「今,大学では求められていない人物像」であるのが残念でなりません。

>今すぐ役に立つようなことや日常生活とはおよそ関係のないことを必死になって研究している。それも私利私欲は一切抜きにしてです。傍から見れば何の役に立つのかさっぱりわからないような研究に,どうして正月も盆もないほど必死に取り組めるんだろう,そう思わせてこそ本物です。

 私が考えている「理想」の教師像は,これよりはるかに「日常生活」べったりの仕事をする人間ですが,「私利私欲は一切抜き」とか「正月も盆もない」という点が共通しています。

 いかに教員に楽をさせてあげられるかを一生懸命に研究している大学のセンセイがいます。

 よく考えてみたら,簡単な話でした。

 自分が育てた人間が通用するのは,自分が考えたイメージに沿った学校しかないのです。

 ただ,残念ながら,そんな学校は今の日本には存在しません。

 重ねて残念ながら,そういう学校ができる土台が固められてきています。
 
 「有識者会議」の参加者の「見識」の質を証明するものは何でしょう。

 「見識」ではなくて,どれくらい「自分の見識は置いておき,会議のゴールに向けての忖度ができるか」が参加者に求められている資質・能力であるとしか思えません。

 大学の教員にとっての研究と,中学校の教員にとっての教育の接点はどこにあるのでしょう。

 空間上,交わることのない,「ねじれ」の位置にある両者を結びつける方法はあるのでしょうか。

 この結びつきをブロックするための制度がある限り,いつまでたっても学習指導要領の失敗は繰り返されるのでしょう。

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9月16日 子どもがテレビを見なくなった

 9月16日は,ハイビジョンの日とされている。9:16という比率は,昔のテレビ世代の人にとっては「横長」の印象がまだ強いかもしれない。

 いずれ,テレビ局は総倒れになっていくだろう・・・という予想は,かなり以前からあったものの,「いつかはくる大地震」と同じように,「来ないことを祈る」ことばかりで「対応策」に欠けている気がする。

 我が家で起こっている変化が,特殊なものか,一般的なものかはわからないが,テレビがついているのは,目覚ましがわりと(「めざましテレビ」を見ているわけではない),通学・出勤前の時刻をみるとき(壁掛け時計もあるのだが・・・)くらいで,夜はテレビの電源をつけなかった,という日が増えてきているようである。

 その大きな理由は,子どもがテレビを見なくなったことによる。

 勉強をしてくれているのかと思えば,決してそうではなく,大学生も小学生もユーチューブを見ている。

 この記事を書いたのは,ネットニュースで「NHK植木等ドラマに抱く残念な違和感」という記事があり,昔のテレビマン活気が今はユーチューバーにある,という読みから,植木等役をヒカキンにして,テレビに「お客」を引き寄せる効果を狙うべきだった,という考え方ができることを知ったからである。

 ヒカキンはCMに登場し,三浦選手(カズ)から「敬意」を表明されている。

 電波で受信しなくても,つまり,「放送」ではなくても,ネットでつながっていれば好きなときに好きなコンテンツが手に入る時代に,「決められた時間の枠内で決められたことしかできない」業態はいかにも不利であるような気がする。

 そして,コンテンツの質があまり問われなくなったのは,視聴率を稼ぐテレビ番組の質が低下したことも大きな原因であるような気がする。

 ユーチューバーの躍進の土台をつくったのは,テレビである,という仮説を証明できる番組を思い浮かべることができる人は,まだテレビをよく見ている人かもしれない。


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9月13日 世界法の日に考える「法の支配」

 「深い学びなど必要ない」と主張している大学のセンセイに習った人たちは,教員採用試験ではちゃんと「建前」を述べて,得点を稼ぐのだろうか。それとも,大学の「学び」を生かして,試験官に喧嘩を売るのだろうか。

 教育現場で「法の支配」という言葉を使うと,すぐに「よくないこと」というイメージを連想する教師が少なくないだろう。

 社会科の公民的分野や政治経済で学んだはずの「法の支配」という概念は,

 学校現場で惰性にまかせて教師を続けていると,いつの間にか生徒たちにとっての「校則による支配」などと同じようなレベルのものに変換されてしまうに違いない。

 採用試験のときはきちんと勉強したはずだった「教育法規」だが,管理職試験を受けようとして「学び直し」をしてみると,「こんな法律もあったのか!」などと驚くこともある。

 国際社会では,「法の支配」ではなく,「国益の支配」が主流になっているような印象があるのだが,

 学校現場でも,やはり「法の支配」ではなくて,「子どもや親の利益の実現」という目的に偏ってきている気がする。

 「未履修問題」に代表される「ルールを無視した受験重視・効率重視の学習・進路指導」を是正しようとしているのが,現在の教育改革のねらいの一つである。

 しかし,「子どもや親の利益のため」という部分を票のために議員までもが実現しようとしているので,

 学校現場の感覚ではどう考えても「それはない」というタイプの政策が浮上してきている。

 借金をして将来世代に負担を押しつけながら,「今の景気が良くなりすればそれでよい」という短期的利益誘導型の政策が,ありとあらゆる分野に一律に仕掛けられてきている。

 「法の支配」が実現しているのかどうか,チェックする機能を果たすべきなのは,どこのだれだろう。

 残念ながら,それを実行する主体が自分たちの利益ばかり考えてしまうというところが,悲しいところである。

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あの子どもは自分が見捨てた? 思い上がりもいい加減にしたまえ

 学校の教員には,「友達」がいない・・・。

 どこかの学者に調査してもらいたいテーマである。

 基本的に,「一匹狼」的な生き方をしている。

 自らそれを選択している人もいるし,結果としてそうなってしまう人もいる。

 だれかに頼って生きようとしている教員は,やれ,仕事が多いとか,教材研究する時間がないとかブツブツ言っているが,実際には大事な仕事は何一つ任されず,自分勝手で見当外れの子ども理解が原因で,子どもたちともコミュニケーションがとれない。友達をつくろうにもできないタイプの人間である。

 思い込みが激しいと,「全部,俺のせいだった」と勝手に悩み,現場から逃走していく。

 「友達がつくれない」タイプの教師に,なぜ人のために尽くし続けることができる人と,尽くしきってもだめだったと勝手に判断し,辞めていく人間がいるのか。

 一人一人の子どもを信用できるかどうかの違いではないか。

 自分自身が親や教師から見捨てられた経験や実感がないくせに,教師の立場として「一人も見捨ててはならない」と誇大妄想するのは,怪しげな宗教やダメな道徳教育に嫌気がさしている人間の側からすると,胡散臭いものにしか見えないだろう。

 自分は群れていないくせに,子どもがダメなのは群れていないからだと勘違いして,

 群れていることで人はどうにか成長していくことができると誤解していることもおかしな話である。

 普通の教師から見て,「おいここ,すごい変な空気だな」と思える場があるとする。

 相手が「変な空気感」を抱いていることが読めない人間に,子どもや教師を育てることはできないだろう。

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9月9日 壁を破る日

 今日は授業公開だった学校もあったようだが,重陽の節句の9月9日は休日となった。

 東洋大学の桐生祥秀さんがついに9秒台の世界に足を踏み入れることができた。

 9.98という数字が9月9日に出るあたり,忘れられない記念日となっただろう。

 「静かな記念日」となった隣国の今後の動きはどうなるだろうか。

 「交渉は無理」と考えてしまう人たちが破るべき「壁」とは何だろう。

 内田樹は,コミュニケーション能力とは,「コミュニケーションが成立しなくなった局面を打開する力」だと言っている。

 「打開力」=「軍事力」ではないことだけは確かだろう。

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ご婚約報道を吹き飛ばす核実験?強行

 9月3日は,中国が対日戦勝記念日としている。

 (連合国の多くは,日本が降伏文書に調印した9月2日を戦勝記念日としている)

 この日,おめでたいご婚約内定報道がなされている一方で,

 核実験が強行されたとの判断により,安倍総理も自宅から官邸に急ぎ駆けつけている。

 副総理の失言も触れられずに終わりそうな情勢となっている。

 国際社会の圧力が強まることは必死で,

 後は「さらなる暴走」「最終手段」を食い止められるかが焦点となる。

 「とんでもない暴走」のおかげで,

 「ひどい暴走」が報道されなくなり,

 「暴走慣れ」していつの間にか「同じような国」になってしまうことも強く危惧している。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より