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カテゴリー「ニュースより」の904件の記事

【特別警報】 小中学生にもできること

 毎年のように「記録的大雨」が続くようになると,「平均雨量」にも変化が見えるようになってくるでしょう。

 今年は,広範囲にかけての警戒が必要ですが,被害を避けるための情報はピンポイントで必要です。

 テレビの情報待ちではなく,気象庁が発表している内容をスマホで見ることができる小中学生は多いでしょう。

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                    (気象庁HPより)

 広島県の中部から東部にかけての河川が心配です。

 すでに避難している方も多いでしょうが,避難先が遠くにしかない方々,避難行動が困難な方々への援助が必要です。

 小中学校で学んだ防災の知識と技能を生かしましょう。

 ↓土砂災害にも警戒を!

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「根腐れ組織」を「根絶やし」にする狙いか

 特ダネは,ただ早ければよい,というものではない。

 「出すタイミング」も大事。

 「こんな組織に入るなんて,恥ずかしい」と思わせる狙いを感じる。

 将来の「人材」を根絶やしにして,思い通りに操れるようにすることが狙いなのだろうか。

 一方で,「どうして今回はバレたのだろう?」「バラされるはずがない話なのに」と呑気に考えている人がいるかもしれない。

 海外に向けて,「恥ずかしいニュース」が流れ続けている。

 いい加減にしてほしい,という国民の声を大切にしてほしい。

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不道徳の見本としての日本サッカー

 こんなタイトルで記事を書くと,サポーターから何をされるかわからない怖さもありますが,ゲームでは必死にブーイングされていた方もいらっしゃいますし,朝日新聞デジタルでも紹介されていましたから,「決勝トーナメント進出」という目的のために「規範破り」を実行した日本代表とそれを指示した代表監督への批判があることについて,ふれておきたいと思います。

 「道徳」的に言えば,アウトでしょう。

 フェアプレー・ポイントで上回っていたから勝てた日本ですが,やっていたのはフェアプレイとは言えない「ボール回し」でした。

 目的(決勝トーナメント進出)のためなら,手段を選ばない(勝利ではなく,0-1で負けること,反則を犯さないことを優先し,パスを回す)という行為です。

 JFAサッカー行動規範やFIFA(国際サッカー連盟)のフットボール行動規範に立派に?背いています。

 ・・・が,サッカーには,柔道やレスリングにあるような,「消極的なプレー」に対する罰則がありません。

 ですから,「ボール回しはルールに違反しているわけではない」という反論が予想されます。

 しかし,負けているチームが相手チームにボールを奪われないように,チンタラとディフェンスがパス回しをしている姿ほど,見苦しいものはありません。

 「パス回しだって,簡単じゃないんだぞ」という反論も予想できます。

 「お客さんを退屈させるプレーが,どうしてサッカーでは通用するのでしょうか?」と聞きたくなります。

 蹴られてもいないのに倒れて痛がるインチキプレーなど,「サッカー嫌い」になる理由にはいろいろなタイプがあるのでしょうが,私は,相手にボールを渡さないという「卑怯なプレー」を日本人は最も嫌う民族の1つだと思っていました。

 野球にも,首位打者が取れそうな仲間のために,敵チームの競争相手を全打席敬遠してしまうとか,許しがたいプレーがあります。しかし,敬遠という作戦は,相手に得点のチャンスを与えるプレーでもあり,サッカーの「ボール廻し」とは違います。

 私はサッカーのことはあまり好きではなくても,日本のチームが負けて「ざまあみろ」と言われるのは嫌です。

 プレーを見ていて,ベンチの指示への「抵抗感」をパスで示していた選手がいたことは救いです。

 でも,こういう人というのは,二度と「使われなくなる」運命にあることも知っています。
 
 私の次の試合への興味には,その選手が使われるかどうか,という点があります。

 「監督の指示に反発する」姿の方が,私にとってかなり「道徳的」なのですが。

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日本サッカーの「壁を越える力」

 セネガル戦には,大勢の日本人サポーターが駆けつけたということである。

 今大会の最大のツボは,初戦の開始早々,日本が得点を決めたことにある。

 しかし,ただラッキーなだけではなかったことが,セネガル戦で示されたと指摘する人が多い。

 2度リードされたが,どちらも追いついた日本チーム。

 試合内容としては,むしろ日本が勝っていたとセネガルのメディア関係者が語っていた。

 日本サッカーが本当に「壁を越えた」のかどうかは,ポーランド戦でわかるのだろう。

 得点がとれるパターンをしぼり,そのためのプレーをずっと狙っていたことが勝因にあるようだが,

 個人技よりもチームプレーに徹する,というスタイルが,あまり浸透しなかったのがサッカーというスポーツなのだろうか。

 私はスポーツとしてのサッカーにはほとんど興味がないから,どうしても試合後にゴミを拾う「日本人サポーターの美徳」なんていう記事に目が行ってしまう。別会場だったセネガルのサポーターも,同じようにゴミ拾いをしている姿が紹介されていた。

 ゴミを拾うために雇われている人の金も,俺たちが払ってるんだ,と言って片付けずに帰ってしまう人を責める気持ちはない。

 ただ,自分が汚した場所を自分で元通りにする,それが当たり前だ,という価値観が,学校の教員にはほしい。

 自分で乱し,崩した子ども集団を放り出して帰ってしまうような教員は,本当にいらない。

 働き方改革の意味を,もう一度考えてほしい。

 一部の教員には,自分のゴミを平気で他人に拾わせるような非道が見られる。

 残念ながら,今の教育現場の働き方改革には,「他人にゴミを拾わせる」ことへの異常な情熱を感じる。

 逆である。気づいたときにはもう遅いだろうが。

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チェック段階でも間違える場合,どうしたら「正しい」結果が出せるのか

 サッカーでは「シミュレーション」という用語を使っているようだが,要するに「インチキ行為」に当たる動作で自分のチームを有利に導く「技」が認知されてしまっているスポーツでは,「ビデオ判定」を望むこともないだろう。

 広いフィールドなのに,わずかな数の審判で判定しなければならないのはつらい。

 サッカーの「シミュレーション」は,私から見れば,書店やスーパーでの万引きと同じようなものである。

 判定は判定として,試合後に「シミュレーション」や「陰でのファール」が見つかった場合は,容赦なく処分してもよいと思う。

 プロ野球では,「ビデオ判定」での「誤審」というまた変わった出来事が発生した。

 どういう対策がとれるだろう。

 ビデオの台数を増やし,たくさんの角度から検証するのか。

 フィールドの審判はすべてカメラマンにして,映像をコンピュータが判定し,その結果をフィールドのカメラマンが伝える,という仕組みができるのか。

 プロにとっては,「誤審」が明日のご飯代にかかわる重大案件になる可能性がある。

 教育の世界でも,入試における「誤り」は避けなければならない大きな課題になっているが,どんなにチェックしても,間違いは生まれてしまう。

 チェックを増やせば増やすほど,確実になる,という保証はない。

 時間や労力が余計にかかっているうちに,人気がなくなる,という危険性もある。

 「チャンスは1回しかない」という緊張感と実力は,選手だけではなく,専門家としての審判や教師たちにも求められるのは当然である。選手と同様,ご飯代をかけて守り抜くものが必要である。

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全国の「ブロック塀」問題

 尊い命がまた地震によって奪われた。

 「その命は奪われずにすんだはずだ」という声は,どんな災害でも,必ず上がってくる。

 あのブロック塀は,明らかに「高すぎ」だった。

 「目隠し」目的で継ぎ足したブロックの代わりに,もともとあった「金網」にシートをつければよかったはずだ,ということは後になって考えれば,だれでも思いつく。

 「業者の点検によれば,安全だった」のならば,「安全」の基準が間違っていたことになる。

 資格のない人間の点検など,「点検」とは呼べない。

 首都直下型地震が発生した場合,そもそも「安全」な場所などあるのだろうか。

 自分の身は,どうにかして自分で守らなければならない。

 ビルの下にいれば,ガラスが降ってくる,

 橋の上にいれば,崩落するかもしれない,

 といった「危険察知能力」は,どうやって高めることができるのか。

 「防災教育」の重要性がますます求められるようになるだろうが,カバーすべき範囲が非常に広い。

 「高い壁の近くはなるべく歩かないようにする」という判断力を,小学生にも求めるのか,どうか。

 全国には,倒壊の危険性のあるブロック塀が至る所にある。

 小学生の「町探検」のテーマにしてもよいのだろう。

 多くの自治体では,「ブロック塀調査」を進めているはずだが,学校も,「調査」を教育委員会任せにするのではなく,保護者を巻き込んで,「危険地帯探し」をすぐにでも始めた方がよい。子どもの「調査」能力を高めることで,将来の災害で救える命はたくさんあるはずである。

 「あいさつ運動」などが小学校になければ,犠牲にならずにすんだ,など,

 災害後に後悔してしまうことは,山のようにある。

 「危険」を声高に叫び続けると,何もできなくなるし,「いざというときは何とかなる」という「根拠のない自信」だけを頼りにしてはならない。できることから少しずつ,続けていくことが大切だろう。

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危機管理「術」の利用は「悪」のイメージを固定化する

 報道の仕事を小中学生が学ぶと,

 「大きな事件が小さな扱いになること」

 「小さな事件が大きな扱いになること」

 があるのがわかる。

 何をどの程度の重みで報道するかを決めるのは,各報道機関である。

 たいした事件がないときは,たいした問題でもないことを,延々とコメントでつないで時間を埋める。

 一方,大きな事件があるときは,同程度に重い事件が他にあっても,「世間の関心がより高い方」を選び,思いっきり時間を割いて報道する場合がある。ときどき,「なぜこの事件を扱う時間がこんなに短いんだ」という苦情が寄せられることがあるという。利害関係者が多い民放では,いろいろと気を遣う必要があるのだろう。日本の民放の特色は,「お金を払っている人」が視聴者ではなくスポンサー企業であること。だから「報道できない事件」もある。

 今,大事な会見を,「どさくさに紛れて実施した」と見られている人たちがいる。印象がとても悪い。

 「注目してほしくない理由があるのではないか」と勘ぐられてしまう。

 危機管理の専門家は,もし「注目してほしくない理由」がある場合,

 「どちらのダメージがより小さくてすむか」を考えて,対策を講じるのだろう。

 「あいつら,怪しいぞ」と疑われたくなければ,会見の時期をずらすかもしれない。

 しかし,すでに,「完全に怪しい」と思われてしまっている場合は,

 堂々と「どさくさに紛れる」道を選択してしまうかもしれない。

 危機管理「術」がまるでない大学も問題だが,

 危機管理「術」を「悪用」していると見られる大学も問題である。

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「カオナシ」の反抗と犯行

 健気に生きようとする子どもや人を助けるために勇敢な行動を起こした人が殺される。

 ニュースでは毎日のように痛ましい事件が報道されているが,新幹線殺傷事件については,それが20歳を過ぎた「少年」の犯行であることに「ひっかかり」を感じた人も多いのではないか。

 無表情,というよりは,何か「達成感」すら覚えているように見える犯人への「違和感」の原因がどこにあるかも,だいたい想像がついているだろう。

 TV画面を見ていて最初に「つながった」のが『千と千尋の神隠し』に登場する「カオナシ」である。

 「少年」の顔を見て,私は「中学生か?」と思った。まだ幼い。それは発達障害が原因ではない。

 「少年」が手にしたかったのは,何だったのか。

 「絶望」の先にあるものが,なぜ「無差別殺傷」だったのか。

 世の中には,まだ反抗できていない「少年」たちがたくさんいるはずである。

 亡くなった方を本当の意味で供養するためにも,その「声」に耳を傾けなければならない。

 「排除」傾向が強まる社会になれば,事件が増え,さらに「排除」が進み,やがては市民の「武装」すら必要になってしまう。

 くだらない教育改革や学校改革,授業改革よりも,教育分野で改革すべきことはいくらでもある。

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「勲章」としてのブーイング

 大リーグで活躍する大谷選手を襲う敵地でのブーイング。

 裏返しにあるのは偉大な実績に対する「敬意」である。

 チームメイトの心情には複雑なものがあるだろう。

 「敬意」をはらんだ「敵意」と,

 どこかの大学のように「憎悪」しかない「敵意」とでは

 天と地の開きがある。

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信頼崩壊後の「経営」手法とは

 まだ5月だが,21日に行われた東京私立中学合同相談会は,大盛況だった。

 「受験」戦争はすでに始まっているのである。

 ということは,完全に社会を敵に回してしまった大学及びその附属の学校は,相当厳しい「人離れ」「減収」を織り込んでおかなければならなくなるだろう。

 大きな事件がない時期の報道は,とにかく「集中豪雨」「集中砲火」型になる。

 アメフトのニュースがなければ,財務省叩きがもっと苛烈なものになったはずだから,霞ヶ関も少し救われている。

 犯罪者や「初動の危機管理対応」を誤った組織へのバッシングは,こういう媒体があるから「下水溝」のように情報が流れ込んでくる(このブログも同じである)。

 中には,「問題を繰り返さずにすむ方法を学ぶ」きっかけにしている人がいるかもしれない。

 「危機管理学」では,ケーススタディの教材になるかもしれない。

 学生の「成功」と大学の「失敗」を分けたものは何だったのか。

 それなりの専門家の方々が,多くのコメントを寄せてくれているのでわかりやすい。

 課題は,「総スカン」をくらった方が,どうやって「立ち直る」ことができるか,ということである。

 しかし,さすが「世間の常識から最も遠い宇宙」で過ごす大学という教育機関である。

 質問に逆ギレしてしまうような人材しかいない,大学の「事務方」の悲惨さは,実は全教育機関を覆う問題かもしれないのである。

 「対岸の火事」ではない。

 「時間」こそが特効薬,なんて言っていられる時代でもない。

 同じような選手への教育をしてきたスポーツ界でも,

 「あそこまでのことは起こりえなかった」はずだった。

 しかし,「起こってしまった」。

 こういう大問題は,いつどこで起こってもおかしくはない。

 これから選べる人にとっては「選ばない」という選択肢がとれるが,

 在校生たち,卒業生たちにとって縁を切ることは難しい。

 今こそ,出身者や在学生,教員たちによる「信頼回復」のための情報発信が必要である。

 「行動に気をつけろ」なんていう「指示」を出すような大学の事務方は無視してよい。

 「お前が気をつけろよ」と逆ギレしてよいのである。

 「経営の目線で」なんて悠長なことを言っている場合ではない。

 自分の身は自分で守られなければならなくなったのである。
 
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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より