カテゴリー「ニュースより」の24件の記事

涙の抗議は本当に効果的だったのか?

 模擬授業の研修命令を出されるなどした私立学校の教師が裁判で戦っている様子がTV番組で特集され,おおむね「学校の塾化」「企業論理による教師の切り捨て」を批判するような内容に仕上がっていることがわかりました。

 予想が当たらないことを願ってTVを見続けていると,残念なことに「涙の抗議」がクライマックスに持ってこられていました。

 教師にとって最も情けないのが「同情を買う」行為ではないかと思っていたのですが・・・。

 その追い打ちになっていたのが,大学教授の「学校の果たす教育的機能というのは,学力向上だけではない・・・」というコメントでした。

 さらに,「教え子」の方が「金八先生のようだった」というコメントを出したあたりは,ほとんど「やらせ」のような印象がありました。
 ちなみに,「金八先生」に教科の指導力があったかどうかは,番組を視聴している限りでは全く判断がつきません。

 シナリオがほとんど予想と合ってしまうと,どうしても「真実なのかどうか」という疑いの目になってしまいます。

 「授業は下手でも生徒の気持ちが分かる先生」が求められるのは,「授業は上手くても生徒の気持ちを理解しようとしない先生」ばかりがいる環境であり,「授業が上手で生徒の気持ちがよく分かる先生」の中では,仕事がやりにくいことは確かでしょう。

 裁判の争点は,「本当に授業力・指導力に課題があったのか」というところに必ずかかってくるでしょう。

 そこではどのような判断が下されるのかに興味があります。

 裁判所の判断次第では,立場が危うくなる人が増える恐れがあるからです。

 「授業を担当させず,研修=指導力向上のために模擬授業を継続させた学校側の判断は不適切だとはいえない,ただし,その間,メンタルケアを含めて,資質・能力の向上について適切な指導が十分に行われていなかったことは確かであり,学校側に責任が全くないとはいえない」なんていういかにも日本風な判断が目に浮かぶようですが・・・。

 番組の中で最も感動したのは,現職の教師が「進学校への移行」について反対論があったことを告白したり,「教師切り捨ての姿勢がある」と経営側を面と向かって批判されたことです。こういうことがはっきり堂々と言えるくらい指導力がある教師が求められているのでしょう。

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栄光ゼミナール流?教師教育法

 昨日の日経朝刊に,埼玉にある私立昌平高校の教諭が,研修=模擬授業の中止などを求めて裁判所に仮処分を申し立てたことが取り上げられていました。

 私立学校の場合,管理職がある教師を「指導力不足」と認定したときには,このような方法で教師に心理的な圧力を加え,退職に追い込むことができるのだ・・・というニュアンスが伝わってくる内容になっています。

 そして,この2年間で75人の教職員が退職したこと,その背景として,栄光ゼミナールの社長が昨年6月に理事長になったことが関係していると匂わせる取り上げ方もしていました。

 これだけの情報量では何も言えないのですが,公立学校でも同様の研修があるので,学校側はどのようなプログラムに基づいて,どのような評価を教師に返しながら研修をしていたのか,そのような情報を公開してくれると参考になるのかもしれません。

 子どもに「教え方がよくない」「授業がわかりにくい」「何を言いたいのかがわかならい」と判断されて,「もっといい先生に習うことはできないものか」と要望されたときに,学校ができることは何か。
  
 私立ではそのような要求が通るのに対し,公立ではなかなか難しい。

 もちろん私立学校でも,採用してから教師としての力量に問題があることがわかった場合,どのようにしたら「辞めさせることができるのか」は経営側にとっては大きな課題なのかもしれません。

 もし今回のような「延々と2ヶ月も模擬授業をさせる」ことが,学校にいることに嫌気を催させ,自分から辞めていくことをねらっているとしたら問題だと思いますが・・・。

 このような教師でも「研修」で改善がきく,というのなら,それはそれで学校のウリになるのかもしれません。

 そもそも,子どもの授業アンケートで「水準以下の教師」という結果が出たからといって,それをもとに入れ替えをはかるのはいかがなものか,という教師擁護の意見もあるでしょう。

 しかし,その教師を解雇することで,より優れた教師を採用することができるのであれば,子どもにとっても学校にとってもプラスであることは確かだという見方もできます。

 プロ野球のような,全くの実力の世界と同じ「競争」でよりよい結果が得られるという図式です。

 ただ,それが果たして教育の場で行われることがよいことなのかどうか。

 意見や考えは分かれるところでしょう。

 このような仕組みがあるから,「私立学校は教師にハズレがない」という意識が,保護者の中にはあるかもしれません。

 公立離れが進むとしたら,その原因は私立学校の場合と逆になる,ということです。

 今回のこの件で,他の私立学校でも同じような退職勧告が繰り返されているという告発が続発してくるかもしれませんが,教師にとってやりにくいのは,「子どもにいい先生と認めてもらえない」という引け目があるところでしょうか。

 「子ども第一主義」「子どものためを思うこと」をモットーにする教師にとってはたまらない「究極の選択」ですね。

 自分よりも授業力が高い教師がいる。

 自分がやめて,その教師に授業をしてもらった方が,明らかに子どもの学力も伸びるし子どもは勉強も好きになりそう。

 自分はやめるべきか,続けるべきか。

 「必死に研修して,一日も早くその教師の指導レベルに近づけるよう努力する」で,片付けられるのかどうか。


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プロレスラー・三沢選手の死は過労死?

[プロレス] ブログ村キーワード

 私はプロレスファンではないのですが,新聞で読んだ三沢選手の急死には,大きなショックを覚えました。

 何かのTV番組で知った三沢選手の苦労仕事への意気込み・執念は,すべての職業人が学ぶべきものであると感じ,プロレスラーとしてというよりは,一人の人間として尊敬する選手でした。三沢選手がいるからプロレスファンになったという方が多いのもうなずけます。

 満身創痍の中,無理を押して仕事を続けた三沢選手の死は,ファンのみなさんにとっても本当に悲しいものであると思います。

 プロレスラーが,よくある一つの技だけで即死に近いような致命傷を負うことはまずないと考えれば,試合開始前から状態はよくなかったのだろうことが想像できます。

 普通の企業人で言えば,過労死にあたるものだったのではないでしょうか。

 三沢選手の死は,試合中に偶然起こった事故では決してないのでしょう。

 子どもたちには,プロレスラーも技をかけられて亡くなることもある,という教訓になるかもしれませんが,実際には違うのだと思います。

 子どもがプロレスごっこをして,受身の仕方も知らない相手を倒したり,振り回したりする行為は,殺人行為です。

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激しい批判への激しい批判

 日本には,バランス感覚に優れた人が多いような気がします。

 ただ,単にバランスだけを守ろうとすると,こんなことが起こります。

 たとえば,激しい批判への激しい批判

 最近では,逮捕された草なぎ氏に対して激しい批判をした鳩山総務相が激しい批判を受けたような件。

 京都教育大への批判に対する,「悪いのは○○だ」という逆ギレ的な反応。

 教育ブログでも,自分の気に入ったブログへの批判に対して,内容が伴わない「批判返し」を繰り返していた人がいました。

 批判合戦は興味本位で眺めれば見て遊べるものですが,ある問題についての批判を,こっちは悪くない,悪いのはそっちだなどと言い合っていても,解決に結びつくことはまずあり得ないわけです。

 最も関心をもってもらいたいのは現場の「当事者」であって,「内部からの浄化」「内部主導の改善」が求められているのに,いつまでたっても「外部圧力」に変革のきっかけを頼りきっているようではいけません。

リンク: 鳩山邦夫は調子乗りすぎ? - ココログニュース

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京都教育大への抗議はどのようにしたら実るのか?

 ココログニュース「集団強姦 京教大に抗議殺到」(6月12日)を読んでの感想です。

 京都教育大の学生や卒業生の中には,今回のようなことが起きてしまったことへの憤りを強く感じている人たちが大勢いることを願いたいです。

 なぜそのような表現をするかというと,一つは,今回のことについて,被害者を中傷するような態度をとる人が少なからずいること。もう一つは,今の学生や若い卒業生たちに,「母校愛」というものが存在するのかどうか,疑問に思えることが多くあるからです。

 自分の母校である人や,あと少しで母校になる人たちが,その在学生が起こした事件を「全くの他人事に過ぎない」という目で見ている限り,必ず同じような不幸が繰り返されるような気がしてならないからです。

 今までも公にされていない事件が,数多く存在するのではないかという疑念も強く生じています。

 今回のような事件の被害者は,ことが公になることを本当は極端に嫌うはずです。

 そこが加害者の「強み」「利用しがいのあること」であり,いつも必ず今回のように「予想に反したこと」が起こることは限らないのです。

 「予想に反した」と感じているのは,加害者だけでなく,大学側も同じなのでしょう。

 大学側の対応への批判が集中しているようですが,このような抗議はどのようにしたら実るのでしょうか?
 最も有効な手立ては何でしょうか?

 文部科学省の監督権限を強化することでしょうか?

 マスコミを駆使して,徹底的に大学のイメージを低下させることでしょうか?

 私は,学生たちの自治機能の充実こそが真の問題解決にとって必要な条件だと思っています。

 だれに叱られるとか,だれの印象が悪くなるからとか,そういうことでは事件の再発が完全に防げるわけがありません。

 小中学生,高校生にも求めている,人としての「自覚」です。

 マスコミには,どんどん京都教育大の学生に取材を進めてほしいと思います。声を拾ってほしいと思います。

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リンク: 集団強姦 京教大に抗議殺到 - ココログニュース

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キムタク叩きも公然化か?

 キムタクもいよいよ公然と叩かれる対象になったのでしょうか。週刊誌の広告が気になりました。

 ネット上のニュースでも,視聴率が20%をわったとか・・・これは野球でいうと,イチローが4割をわったくらいの数字なのではないでしょうか?

 人気や期待を集めてきた人の「落ち目」には非常に敏感になり,坂を下り始めるといっせいに叩き出す,巨人に移籍した清原が結果を残せずに去っていったときも同じようでした。

 企業では,叩かれるともう浮上することができなくなってしまうような人間が増えてきたということをよく聞きますが,「一流」の人たちは,「叩かれるのも仕事のうち」という感覚をもっているのでしょう。

 叩かれるのは期待されていることの裏返しであり,このブログのように教師の「失敗」に対する指摘について,直接的に批判されることはなくても,「ああ,自分にも当てはまりそうだ」という自覚をもって平常心を保てる人は,期待に応えている自覚がある人でもあるのでしょう。

 このような期待を受ける側ではなく,期待をかける側のたとえば子どもの保護者の立場では,「がんばっている先生になんていうことを・・・」という感情がわいてしまうのも理解できないわけではありません。

 しかし,そういう「先生」が期待に反する行動をとったときに,平常心を維持していくためには,「起こりうること」「現実に起こっているかもしれないこと」に対する想像力を働かせておく必要があります。

 行政の側の人は教育について「成功して当たり前」という感覚がある一方,現場では「目標達成なんてありえない」という感覚があり,その乖離についても話題に取り上げていますが,やはり現場が「成功させる必要がない」というレベルに堕ちてしまうと教育も終わりであり,常に発破をかけ,批判をすることで期待している気持ちを伝え続けることも大事だと思われます。

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問題点の発見は手抜きの理由の誕生に ふり返り366日【08/5/12】

 子どもが生まれた家庭の経済格差を学力格差の原因だとしている教育学者がいるとして,その先の話。
 
 だれが,何をするべきか。

 まず,自分ができることをする。仕事中は,そのことに集中する。それしかないでしょう。

 他の人がやるべきことをさして,「それが実現しなければ私にできることはない」といって手を抜こうとする人。

 問題点の発見は,手抜きが安心してできる材料の誕生でもあるということが,注意すべきことです。

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08/5/12 週刊東洋経済の「子ども格差」

 「格差もの」のはやりが続いています。
 週刊東洋経済では、経済格差に重点をおいた教育・福祉(貧困)問題を特集しています。
 この雑誌を定期購読している公立学校の教師は少ないと思いますが、今回の特集を読めば、公立学校における教育が果たすべき役割の重さを改めて実感することができるでしょう。
 しかし多くの教師は、行政の無策に対する批判的姿勢を強めるだけかもしれません。
 さまざまな雑誌で組まれる特集を吊り広告で眺めながら、雑誌というメディアが果たすべき社会的役割は何かなとときどき考えますが、この「子ども格差」についてはどうでしょう。
 このような特集を雑誌が組んで、定期購読ではなく駅やコンビニで雑誌を買おうと思う読者層というのは、やはり「専門・管理職」や「一般ホワイトカラー」(通勤途中で目に触れる条件でもある)が大部分で、一種の優越感を与えたり、「ここまでやっている家もあるのか(家庭教師に月60万円)」とおもしろがらせるのが趣旨ではないかと勘ぐってしまいます。
 「セレブのぜいたく受験術」などほとんどの家庭には縁がない話だと思われてしまいますが、該当する読者もいるのでしょう。
 「年間350万円使った親もいるという小学校お受験の舞台裏」などは、経験した読者もいるのかもしれません。
 「ひとり親の生活保護家庭などの中学生を対象にした勉強会」など、「格差を縮める草の根の取り組み」も一部には紹介され、「格差を生み出すのが教育だとすれば、格差を埋めるのも教育だ。そして、教育や社会保障を誰もが利用できることこそが、子どもたちの未来を希望に導くのである。」と結んでいるものの、片隅の記事で見逃される可能性のある扱いになっています。
 パンク状態の児童相談所や特別支援学校、急増する虐待相談、過酷さを増す生活保護家庭への就労指導、蚊帳の外の日系人教育、授業料滞納問題、学童保育などについては、一定量の取材が行われており、各自治体の議員や国会議員が法案づくりに参考にしてほしい内容になっています。
 読めば読むほど、教育や福祉に十分なお金はかけられていないものだと実感しますが、同時に、お金をかけ出すときりがないなとも思ってしまいます。
 以前に、文部科学省の機能の大部分と厚生労働省の機能の一部、その他を含めて教育省をつくり、「子ども」の明るい未来を保障する機能を!と主張したことがありますが、もっと大胆な方策というのはないのでしょうか。
 「子どもをめぐる悲惨な状況」は、あまり子どもの目に触れさせたくない記事ですが、今後、新聞も取り上げないくらい日常茶飯事の事件・事故が頻発するような時代にはなってほくしないものです。

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京都教育大事件と茨木市教育委員会がつながるとは・・・

 マスコミによる徹底した「教育」関連叩きでは,思いもよらない情報が提供されるものです。

 まさか,事件関係者(容疑者)の父親の職業(だけでなく立場も)が明らかにされるとは・・・。

 そして,不正ではないのかもしれませんが,大分をイメージさせることを教育委員会の事務方が自分の子どもに対してやっていたこととは・・・。

 停学の理由も知っていながら,採用してあたらせていた仕事がよりにもよって学童保育の臨時指導員とは・・・。

 「京都教育大 茨木市教育委員会」による検索で記事を読むことができます。

 昔,議員の口聞きで区域外の学校にどんどん指定校変更を出していた教育委員会に不信感をもっていました(現在は選択自由化でその心配もなくなりました)が,「コネがすべて」といういやらしさ丸出しの組織はどうしたら変革できるのでしょうか。

 「変革嫌い」の人たちでも,この変革にはいい方法が見つかれば賛成していただけるのでしょうが・・・。

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「教育」の価値暴落を呼ぶ京都教育大の「教育的配慮」

[教育現場] ブログ村キーワード

 京都教育大の一件のおかげで,「教育的配慮」という言葉に対する怪しいイメージが定着してしまいました。

 子どもの中にも,「経営への配慮だろう」という見方が生まれているようです。
 そう読みかえてくれると教育現場の人間としては助かるのですが・・・。

 いずれにせよ,教員養成大学としてのイメージの悪化は計り知れないものがあるでしょう。
 今回のケースでは,はじめから警察に届け出て,公にしていても,マイナスイメージの大きさには変わりはないでしょうが・・・。

 荒れた学校では,問題行動を起こす生徒に対する「教育的配慮」のために,まじめに学びたい生徒たちにとって大切な教育環境が失われることがありました。

 「問題そのものを存在しなかったことにしたい」教師たちは,「教育的配慮」という名のもとで,問題を隠蔽するだけでなく,害を被る子どもたちを放置したがる傾向をもっています。

 いっそのこと「教育」という用語を「廃棄処分」にして,「教室」は「学習室」,「教員」も「学習指導員・生活指導員・進路指導員・部活指導員」などと呼び,「教育基本法」は「学習基本法」へ,「教育立国」から「学習立国」へ,・・・変えてみても,やはり要は携わる人間次第なのかもしれません。

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「ゆとり世代」たたき関連報道の本格化

 日経ビジネス5月4日号の「時流超流」の中に,「ゆとり世代の配属が本格化~“新5月病”発生で現場は四苦八苦?」という記事がありました。

 「ゆとり世代」たたき,あるいは「教育失政」たたきの一貫としてのニュースづくりが徐々に見られてくることでしょう。

 「なぜだめなのか」という理由を探す上で,国民的な認知度のあり,関連が深そうな「キーワード」があると,それが徐々に「固定観念」「前提となる共通認識」になっていきます。

 記事を読んでいると,「ゆとり世代」と言われる若い人たちは,新学習指導要領によって,「自ら学び,自ら考え,主体的に行動する『生きる力』」を育まれてきたはずだ・・・というイメージではなく,「ゆとりの中で甘やかされて,困難にさしかかると簡単にあきらめる世代」「変化に対応できない世代」として描かれていました。

 そもそも誤解からスタートした若者像が,現実の姿から「正解」へと変異してしまう典型的な例が今後も見られそうです。

 「変化の激しい世界に生きる力」をどう育成するかが教育の課題でしたが,ほとんど変化しなかった学校現場で生活してきたことが原因ともいえるし,そもそも学校などで「変化に対応できる人間は育成できない」として批判することも可能です。授業時数が減って,「教えられている内容が少なくなっている」というのは塾に通っていなかった人にとってはとりあえず真実であるともいえます。

 今年の新入社員は,就職活動中は景気がよくモテモテだったのが,入社時は状況が一変していました。
 急速な景気悪化によって想定外の状況になっても,どのように対処していけるかを学べれば,よい体験になるとも考えられますが,「あくまでも自分の都合中心」で生きてきた人にとってはつらい日々が待っていることでしょう。

 例年,5月から伸びる「悩み相談」の増加のペースが加速しそうだという予想がありますが,どうなるでしょうか。

 学校や役所ならばそんな心配はいらなかったのに・・・という状況も変わりつつあるわけですが・・・。

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朝の占い

星座占いなどは,なぜか,1~3位のときと,最下位のときだけ,コメントをチェックするという習慣があります。

 とりあえずいい気分で1日をスタートさせるためでしょうか?

 最下位のときもチェックするのは,今日がどん底であることを知っていれば,ちょっとした良いことがおこると,他の日にもっと良いことがおこりそうな予感がするからか・・・?

 占いを気楽に見られるのは,それが悪いときには得てして良いことがおこり,占いで良い予想のあるときには,平凡な一日で終わることが多いからでしょうか。



コネタマ参加中: つい見てしまう朝の占い。気にする? 気にしない?


 

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「酔った勢い」と「怒った勢い」 ~草なぎ容疑者~

 「酔った勢い」というのを,お酒が飲めない私は経験したことがありません。

 お酒の力というのは,「本当はやりたかったのだけど,理性の力で抑え付けていたが,理性という歯止めがなくなったためにやってしまう,とか,やるべきかどうか,ふんぎりがつかなかったのだが,やることに決めてしまった」というイメージなのでしょうか。

 かつて,「酔った勢い」で苦情の電話をかけてきたような保護者の対応をしたことはありましたが。ただ,クレームのケースでは「自分を見失う」ということではない(本当に子どものためを思うということは見失っているとしても)からちょっと違うのでしょうか。
 
 「怒った勢い」というのと似ているのでしょうか。

 本当はするべきではなかったことをしてしまった,言うべきではなかったことを言ってしまった,今回の草なぎ容疑者のケースはそっちに近いようですね。

 指導者の側でも一番怖いのが,この「怒った勢い」です。

 草なぎ容疑者にも,底知れない「怒り」が根っこにあったのではないでしょうか。

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新聞記者の教育観のどこが問題かー7

 毎日新聞の特集の方針は一貫しており,最終回も「ベテラン」の62歳大学講師,58歳53歳の小学校教諭が登場。

 「競争」=の教育観を補強するために用意したのが,小学生の分数のテスト。そして達成度の高さを「点数主義」という偏りのある教育観で斬り,「討論」や「子どもが気づく瞬間を待つ」授業をもちあげる。

 普通の親なら,そんなことが両立できなくて,なぜプロの教師と言えるのか,と思うでしょう。

 締めくくりは,「PISA1位のフィンランド」には教員評価も数値目標も一斉テストもない・・・。

 フィンランドを取り上げること自体が,「ランキング主義」「点数主義」に他ならないのに・・・。

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結果がよくても悪くても喜べない犬山市の学力調査の「不参加賛成論者」

[学力テスト] ブログ村キーワード

 ブログの記事として立てることも「いやらしい」話ではありますが,全国学力調査への犬山市の子どもたちの参加は,新聞記者の「ネタ」としては,かなり大きなインパクトをもつものでしょう。

 マスコミから注目され犬山市の子どもたちは少し気の毒に思いますが,学力調査の結果には,否が応でも関心が集まることになるでしょう。

 学力調査の内容や目的をよく理解せずに,以前の「学テ」のイメージだけで犬山市の不参加に賛成していた人たちにとっては,結果が明らかになることで自分たちの誤解が白日の下にさらされてしまうというのが最も恐れられていることです。結果がよくても悪くても,喜べない論理を自分たちでつくってしまっていたわけです。

 犬山市の教師たちが,もし結果のプレッシャーに襲われているとしたら,信念をもって不参加に賛同していたわけではないことを証明することになってしまいます。
 もしよい結果が出た後,喜んでしまったら,やはり信念がなかったことの現われになってしまう。
 これも気の毒なことです。
 
 中学校では国語と数学の教師たちがどきどきしているだけで,あるいは他教科の教師は悠然とかまえているかもしれません。
 多少気になるのは,たとえば,社会科の教師なら,「国語力が不足していることが証明されれば,社会が苦手になるのも仕方のないことだろう」・・・理科の教師なら,「計算ができないのだから,理科のこの分野の問題は解けなくて当然だろう」・・・などのように,自分が担当している教科の学習の達成度が低い原因を,国語力・数学力の低下のせいにしてしまうようなことが,おこらないとも限らない,ということです。
 
 犬山市が独自に行ってきた,少人数学級編成は,学力をつけるのにどのくらいの効力があるのか。

 結果がよければ,「ペーパーテストで子どもを評価することはよくない」という主張はどこかに投げ捨てられて,具体的な政策要求が実現するかもしれません。

 今,ふと思ったのは,犬山市の結果だけ,先に知ること(先に採点してもらうこと)はできないのか,という「問い合わせ」に対して,文科省はどのような回答を用意しているのかな,ということです。

 結果が出るのは少し先なのですが,あとマスコミの定型的な記事づくりの方法として,「昨年度とのランキング比較」というのもあるでしょう。
 20年度の調査で上位だったところも,注目されるでしょう。

 結局,マスコミ報道というのが,あまり本来の意味をもたない部分を大きく見せるというタイプのものであるのでこれも仕方のない話なのでしょう。

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新聞記者の教育観のどこが問題かー5 ふり返り366日【08/4/14】

 ちょうど,毎日新聞の「先生:競争の現場から」も,17日に管理職がテーマになっていました。

 東京都の管理職選考の倍率が1.4倍。
 「校長や教育長による推薦枠」まで登場している始末です。

 記事ではこの大問題を,「競争の現場」という視点から描いているために,「目標をクリアするため,ただ走らされる」という副校長のコメントを載せたりして,あたかも「行政の動きについていけない」教師の現状に原因があるかのように思わせようとしていますが,管理職の力量不足の問題がどのような構造のもとに生まれてきたかを掘り下げてしまうと,読者が減ってしまうという「数値目標」に縛られた新聞社の事情もよく理解することができます。

 「管理職をめざそうとする教員が減っている

 ことの最も大きな背景は,「管理職をめざす年齢層の教員がとても少ないこと」にあります。

 そのために考え出したのが「A選考」という仕組みでしたが,そもそも働きが異なるため選考も別立てだった指導主事と管理職をごちゃまぜにしてしまったのが,状況を悪化させる原因になってしまいました。

 このような背景や教育管理職任用制度の課題に全くふれずに,管理職の休職者数だけをあげて「管理職はたいへんな仕事だからなり手がいないのだ」という印象を強めようとするような記事を載せるのが新聞というメディアの特色です。

 「紙面が足りない」ことが言い訳ですか?

 「子どもとふれあう時間がない」といって,子どもが学校にいるのに机に向かって仕事をしている教師とイメージが重なってしまいます。

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08/4/14 望ましい教育管理職の任用制度とは?

 すずめ@先生からコメントをいただきました。
 
 >管理職の人材については,私自身は大変恵まれており,行動力,指導力ともに抜群の校長と,細かく指導してくれる教頭にめぐまれております。書類作成などに関しても,過去3人の教頭にイヤというほど仕込まれ,やっと最近は「適当に出しとけ」と言ってもらえるようになりました。
 ただ,周りを見ると,どうしてこの人が??と思われる人は数多く,その下で働く人たちは大変だろうなと思います。
 管理職の人材登用の選考の基準,または選考方法(あるいは選考に当たる人)が,どうにも間違っているのではないかと私には思われてなりません。委員会から見ても,事務処理能力の不足している教員を教頭に登用してはなりませんし,指導力のない教頭を校長に採用するのは,現場を混乱させるだけだとよく分かっていると思うのですが,なぜそんな選考がなされるのでしょうね。

 ご存じのように、東京都は教育管理職の任用制度を平成12年度から変更し、指導主事、行政、企業、現場の主幹などのジョブローテーションを行い、高いマネジメント能力をもった教育管理職をつくりつつあります。

 ただ、対象となる年代の教員数が少ないことや、「わざわざたいへんな思いをしてからさらにその後、たいへんな職につこうとは思わない」という教員を増やしてしまったため、この任用制度が見直されていることは以前にも述べました。
 はじめから「優秀な副校長」として採用するのではなく、研修や実務をさせながらその資質を磨き、これでOKとなったら任用する、そういうシステム自体はよいのですが、年齢別の人数があまりにもアンバランスで、養成が間に合わない、これが東京都の悩みです。もっと前に実行したかったということを、遅れて実施してしまっているだけ、そして見事に失敗している、という印象があります。
 私見では、あまり若すぎて学年主任、教務主任、生活指導主任、研究大会での発表者としての経験がない教師がいきなり行政にはいっても、逆に教えられる立場になってしまうので、いくら管理職から受験しろと言われても、断るのが良識ある教師像だと考えています。そもそもリーダーシップをとれるような資質がないと、管理職はつとまりません事務員のような副校長ならまだしも、「校長にはさせられない」と判断されている副校長も少なくない。ですから、「校長は無理だ」と本人が悟ったり校長から指導を受けて納得したりした場合は、降格させてあげることが本人のためになります。
 他県との違いかもしれませんが、教師は「副校長の下で働いている」という認識はほとんど持っていないと思います。「副校長は自分の上司にあたる」ということを知らないのではないかと思わせる教員もいます。
 中学校の場合、学校内で「リーダー」にふさわしいのは学年主任であり、それがよくわかっていないのが現行の「主幹制度」の最大の欠陥です。
 なお、私が採用したい管理職試験の方法は、保護者3人、教員3人、企業の管理職3人、行政から3人くらい選んだ試験官の前で、「目指す学校づくり」「私がかかわった学校づくり」を語らせて、評価の合計を競うようなスタイルです。こういう試験をすると、採点の偏りを分析することによって、学校のリーダーに求められる資質があらためて浮き彫りになるかもしれません。

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新聞記者の教育観のどこが問題かー4

 口先だけの人間か,そうでないかを確かめるには,経験が豊富な人間が日ごろの職務行動をじっくり観察するという方法があります。

 このような観察では,「口先だけではなかった」人ではなく,「口先だけだった」人の方が,手抜きの仕方をよくわかっているだけに,「口先だけ」の人間を見つけやすいということもあります。

 よく「かつてはいい加減だった」と言われる管理職がいますが,こういう管理職でも「人を評価する」という立場ではとてもよい「仕事」ができるわけです。

 そんな話はおいておき,16日の記事にあった教育現場での「数値目標」についてです。

 「もっと子どもにたくさん本を読ませたい」
 「もっと子どもに挨拶をさせたい」
 「遅刻を減らしたい」
 「計算力を向上させたい」

 だれでも考える「望み」が,ただの「望み」で終わってはならない。
 
 そのためにどうするか。

 本に親しませる時間を増やしやり,本の魅力を教師が語って「読みたい」という意欲を高めたりする。
 教師自ら子どもたちにどんどん声をかける。
 子どもたちによる「朝の自主的な活動」を増やす。
 計算力を向上させる教材を開発する。

 教育現場には,様々な「成功実践」が蓄積しているわけだから,それらの導入やさらに工夫を加えた実践で,どんどん問題解決に取り組んでほしい・・そういう「声」が,ようやく「現場」に届き始めてきています。

 教師がただ「望んでいる」だけでは,「何をどの程度,どのように実現しようとしているのか」がわからず,「望んだだけ」で終わってしまうおそれがあるので,「どの程度,徹底させたいのか」「どの程度,達成することが可能なのか」など,実現された姿を具体的に想定できるものにするための一つの方法に,目標の数値化というのがあるわけです。

 大事なのは,目標を具体的に想定することができるかどうかということです。
 数値化はその一つの手段に過ぎません。
 「いい学校」では,「上級生のようになろう」で十分なわけです。

 多くの学校では,目標に達しないまま,あるいはさらに課題を膨らませたまま,進級・進学させてしまうという課題を抱えています。
 今までは,目標が抽象的で「具体的な姿」があいまいだったために,評価もいい加減で,指導の改善に役立つ資料すらありませんでした。

 数値目標を設定することで,内容によっては,目標の設定自体の課題も明らかになったり,実践の方法がもつ課題が明らかになったりと,「どこに問題があるのか」が明確になってくることが期待できます。

 そして,数値目標を設定して教育実践を進めていくと明らかになってくるもう一つの重要な点は,教師の「教育という仕事に対する誠実さ」です。

 自分への評価を気にして,「数字ばかり」に目がいってしまうような教師に,本当の「目標」を達成することは期待できません。実践が伴わなければ,「数字」が向上するはずがないのです。

 子どもの得点の改ざんなどは,「目標の数値化が生んだ問題」ではなく,教育者としての資質の欠如が明らかになり,その資質自体の改善(あるいは現場から去ってもらえる)という,「目標の数値化によって得られた成果」です。

 「数字で評価していると,数字で表せない部分が見えなくなってしまう

という教師のコメントが載っていましたが,これは「目標管理の仕組みがわかっていない」という宣言に他なりません。

 数値化された目標がすべてだと誤解してしまうとこういうことになります。
 目標の達成度の評価は,数字だけで出すものではありません。
 
 たとえば「読んだ本の冊数」だけではなく,「どんな本を読んだか」という「内容」がセットにならなければ,「ただ冊数だけ多ければよい」ことを目標にしていたことになってしまうからです。

 「もっと子どもにたくさん『よい』本を読ませたい」
 「もっと子どもに『心のこもった』挨拶をさせたい」

という,より「教育的」な目標が見えてきたとき,教師は何ができるか。

 目標がよくわからなくなったら,まず,「どうして本を読んでほしいと考えたのか」「どうして挨拶ができないことが課題なのか」というレベルから考え直すことも大切かもしれません。
 
 ジャーナリズムの役割として期待したいのは,「数値目標の達成・実現を図る」という名目で,「おかしな教育」「インチキ」が行われていないかどうかの発見とその公表です。 
 「弱い立場の管理職・教師の代弁者」としての記事づくりのパンチが弱いのは,もっと弱い立場になってしまった人たちから見れば,身分が手厚く保護されている教育公務員への同情を買いにくいといった点でしょうか。

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新聞記者の教育観のどこが問題かー2

 記者が40歳代後半で,受験を経験していたとしたら,

 「受験組として成績順に座らされる」経験をもっているかもしれません。

 今,杉並区では,が実施する調査が小3から中3まで毎年の調査は小4と中1の調査が小6と中3で実施されているそうですが,昔の公立中の中には,中3になると毎月のように業者テストを,しかも2社のテストを実施しているところもあったのです。

 採点も成績処理も業者がやるわけですから,教師は用紙を配るのと回収するだけ,その間はただそこにいるだけで給料をもらっていたのです。

 公立でももちろん保護者が費用を負担するこの業者テストの結果で,進学先がだいたい決まっていたわけですから,教師の進路指導はラクチンだったのです。

 そういう時代を生きてきた親世代から見れば,毎日新聞の記者(ただのライター?)が紹介しているような内容は,「ようやく学校の先生もまともに仕事をしだしたのか」と思われてしまうかもしれません。

 英語の小中一貫教育を行っている金沢市の教師は,副読本を用いた授業時数の調査で「時間数を水増しした」ことを暴露しているようですが,副読本を用いなくても成果が上げられるのであれば,その副読本を見直すか,なくすこともできるのに,結果としては自分の首を絞めていることに気が付いていないようです。

 記者はもしかしたら行政が行おうとしている調査の意味が理解できていないのかもしれません。

 とても昔風の「管理」という「言葉」の使い方が,記者という職業が実は昔風の「教師」にとても近いことを印象付けてくれています。

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新聞記者の教育観のどこが問題かー1

 14日から,毎日新聞で「先生:競争の現場から」という特集が組まれているようです。

 教育に関する新聞記事がどのような意味で「一面的」なのか,簡単にご説明します。

 まず,14日の記事のタイトルは,~「いい子」が荒れ始めた~です。

 この記者は,子どもをどのように分類しているのでしょう

 以前に私は,「普通の子」という分類をしてしまう教師の問題について述べたことがあったと思います。

 この記事のタイトルを素直に読めば,荒れている子どもは「悪い子」となるのでしょうか

 さて,~「いい子」が荒れ始めた~というのは,何をさしているのかといえば,「東京都杉並区のベテランの男性教諭」の言葉でした。

 「いい子」とは,「成績のいい子」のことでした。 

 事例として挙げられているのは,「成績上位の複数の男児」が,「消火器を道路にぶちまける」「1年生相手に鉄の棒を振り回す」・・・

 その生徒たちが,「最後はみな,有名私立中に入学していった。」・・・・

 このような記事の作られ方について,一度「有名私立中」の生徒たちに批判してもらったらいかがでしょうか?

 新聞記者も新聞記者ですが,取材に応じた杉並区の「ベテラン教諭」も,問題行動の原因を「ゆがんだ競争のため」と表現していたようですが,その根拠は何なのでしょうか?

 昔の学園ドラマでも,「成績がいい子が悪に手を染める」ことをテーマにした話が一つくらい必ず入っていたものですが,これは本当に「担任教師には原因がない」と言い切れるものなのでしょうか?

 学力向上に関して自治体などが取り組んでいることに,教師がついていけていないこと,あるいは意図的についていかない教師を紹介する趣旨の特集のようですが,おそらく記者のねらいとは別に,現場の教師の力不足を露呈していく結果になってしまうことでしょう。

 一方的に記者を責めるつもりはありません。

 そういう記事を書かないと,新聞に載せられないのでしょうから,仕方がないわけです。

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国宝との出会いの楽しみ方 ~阿修羅展~

 ココログニュースによると,上野の国立博物館で開催中の「国宝 阿修羅展」は,とても盛況のようです。できたら,空いているときに行きたいものです。

 興福寺の国宝館にあるときは正面からしか見られませんが,現在は360度から拝観可能ということで,写真集でも観たことがない角度から鑑賞できるよいチャンスです。

 公立学校の頃は修学旅行で3年に1回の割合で訪れていましたので,もう何度も拝観するチャンスがありましたが,360度OKというのは初めてです。

 自分自身の学生時代の修学旅行のときには,東大寺戒壇院の四天王像が触れる状態で拝観できたのですが,そのときの衝撃は今でも忘れません。その旅行は班別自由行動でしたので,戒壇院に入らなければならないわけではありませんでした(実際,女子の3人は入らなかった?)が,和辻哲郎の『古寺巡礼』を読んだ後だったので,どうしても自分の目で見たかったという思いをよく覚えています。

 教員になって戒壇院を訪れたときは,もうすぐ近くでは見られなくなってしまっていました。

 もちろん「手で触れる」ことを望むわけではありませんが,四天王像も「手で触れる」ことができるくらい近くでじっくり鑑賞してみたい国宝の一つ(四つ?)です。

 このような国宝を自分の目で見ることができないことも「もったいない」ことの一つですが,ただ「人気があるから見る」のではなくて,『古寺巡礼』のような文章に触れないで見るというのも,ちょっと「もったいない」ような気がしています。

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北朝鮮と「他人事」 ふり返り366日【08/3/27-2】

[教師] ブログ村キーワード

 北朝鮮の動向から目が離せないタイミングですが,『41歳からの哲学』を読み直してみると,6年前の平成15年のときも同様の騒動があり,池田晶子が「ミサイル,それがどうした―北朝鮮」という文章を書いていました。

 そこで池田晶子は,「他人事」というキーワードで対外戦争に対する若者の反応を批判していました。
 

イラク戦争の折に,ネット上で反戦の声を上げた若者たちを扱った番組を観た。・・・同じ時代に,同じ地球上で,戦争が起こっているというのに,何もできない自分に無力感を覚える。と,彼らは言っていた。・・・つまり彼らは,無力感を覚えるというまさにそのことによって,戦争を他人事だと思っているのである。自分のことではないと思っているのである。・・・何もできない自分に無力感を覚えるほどに,暇なのである。自分の人生を他人事みたいに生きているから,そういうことになるのである。(・・・は略した部分)

 このような考え方は,「他人事」ではすまされません。

 なぜ「他人事」という言葉に引き付けられたかというと,どれくらい前からかわかりませんが,学校現場を「他人事」の空気が徐々に侵食しているように思えているからです。

 あるクラスには,いじめが全くない。

 これは,非常にドライに考えてみると,すべての子どもがあらゆることに対して「他人事である」という態度をとっていれば,確かにいじめは絶対におこらないのです。

 いじめられている子どもがいて,見て見ぬふりをすればその生徒がとっているのは「他人事である」という態度ですが,いじめをしている生徒にとっては「他人事」ではないわけです。

 教師の側には,「他人事」の空気をかもし出す人間はいないでしょうか。

 教育関係者たちは,「教育の評論家になったら教育者としては終わり」という根強い嫌悪感をもっていますが,それは,学校現場にも,「評論家的教師」がいて,すぐ目の前で起こっていることに対しても,まるで「他人事」のように批評・評論するような,わかりやすく言ってしまえば,「無責任のかたまり」みたいな態度をとって反感を買っていることがあります。

 決して多くはそうではないかもしれませんが,各学校に一人,または学年に一人くらいの割合で,評論専門の教師がいるでしょう。
 「われわれ教師は無力な存在ですね」とか,「わたしたちには発言力がありませんからね」とか・・・。 

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08/3/27 歳をとるほど時間が早く流れる理由

 『41歳からの哲学』(新潮社・・・週刊新潮の連載をまとめたもの)の中で著者の池田晶子は、「歳をとるほどに時間がたつのを早く感じるのはなぜか」という問いに対して、次のような仮説を述べています。

 >子どもの時間が遅いのは、肉体が完成に向けて努力しているからで、山登りにたとえると、頂上を目指して登っている最中だからである。そして、いったん頂上に登ってしまえば、あとは下りるだけ。下りる方が登る方より早い。あるいは作るより壊す方が早い。

 こういう話を聞くと、「ただ漫然と下りる」のはやめよう、と自戒の念が持てるようになります。
 歳をとっても、学校を建て直すような経験をするときは登山と同じで、1年が経つのが異様に長く感じる(多くの教師は早く土曜日曜にならないかと月曜から考えている)ものです。いったん落ち着いてくると、ああ、もう卒業か、ということになる。後者の感想というのも悲しいものです。油断しているとまた奈落の底に落ちてゆく。
 「縦走」という道もまた生きがいを持てる生き方かもしれません。

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WBC・地獄からの生還 イチロー

 バント失敗で更新されたイチロー選手のWBC・連続無安打は,チームのムードを逆に盛り上げる結果になったのだと私は想像しています。

 イチロー選手の心情を,実力主義第一線で生きている選手たちは,痛いほど感じていたと思います。

 ただでさえ,バント失敗という「痛さ」は非常に大きなものです

 その「痛さ」に連続無安打更新が重なったイチローは,まさに地獄のどん底に落ちていく感覚を味わっていたことでしょう。

 これが,もし1点差でリードされている最終回におこっていた出来事だったら(失敗したときのダメージを考えて,そういう作戦は想定できないかもしれませんが),そして日本が負けた試合だったら,・・・。

 試合後のコメントでも,本人が「天国と地獄」という表現をしていました。

 苦しみ抜いているスーパースターの姿を間近で感じているトップ選手たちは,ヒットが生まれることを祈るような気持ちで見守っていたことでしょう。

 一塁の頭を抜けたゴロで出塁したイチローはベース上で笑みを浮かべていましたが,それは,ベンチから伝わってくるものへの「苦笑い」だったかもしれません。

 センターオーバーの当たりで,他の選手たちの「心のおもり」は吹き飛びました

 明日の韓国戦は期待できるところだと思います。

 初回先頭打者ヒットを祈っています。

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キャンパス内での殺人事件

 附属池田小事件のことにふれたばかりですが、今日は東京都文京区、東京ドームの近くにある中央大学理工学部のキャンパスで、45歳の教授が殺害されてしまいました。
 
 犯人が逃走中であるため、文京区は様々な学校が集中している地域でもあり、下校時の児童・生徒にも注意がよびかけられました。

 大学の教師が殺害された事件といえば、平成3年の7月に、イギリスの作家サルマン・ラシュディ氏の執筆した「悪魔の詩」を翻訳した筑波大学の助教授(当時44歳)が何者かによって刺殺されました。この事件の場合は、「悪魔の詩」がイスラム教に対する侮辱であるとして、当時のイランの最高指導者ホメイニ師から、執筆者や出版関係者に対して「死刑宣告」の声明が出されていたという経緯があり、記憶に残っています。

 今日の事件の原因や背景はわかっていないようですが、中央大学では、明日から通常の授業を行うそうです。
 
 学校内、キャンパス内でおこる事件というのは、それ以外の場所でおこる事件よりも、関係者にとって強い衝撃を受けることになります。

 実際に、附属池田小事件で深く心を痛め、何かのきっかけでそのときの苦しみがよみがえってくる子どももいるようです。

 そのようなことを考え、校内の安全を重視するような方策をとろうとすると、「外で起こるのならかまわないのか」という批判が上がることも想定できますが、そういうわけではもちろんなく、どのように安全・安心を維持していくか、命を守るか、ということについて、それぞれが考え合うことが必要だと思われます。

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企業城下町の受難

 ニュースによれば、愛知県豊田市の法人税が9割も減る見通しだとか・・・。

 私が訪れた街の中で最も印象的な「企業城下町」は熊本県水俣市(駅が町の中心部ではなく工場の正門前にある)でしたが、このようなニュースを聴くと、「企業城下町」という言葉の重みを改めて実感させられます。

 市では予算編成もできない状況だそうですが、こういうときに「削ることが可能な予算」というのがはっきりしてきそうですね。
 しかし、「削ることが不可能なもの」ばかりだったらどうなるのでしょう?
 自治体のあり方の根本を考えていく契機になっていくのかもしれません。

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文科省キャリアの現場研修

 教育関係者のブログでは,文科省キャリアの現場研修については袋叩き状態のようですが,私は素直に喜んでいいと思います。現場の課題を体感させ,本当に必要な改革を立案してもらうために。
 ただ,こういう研修自体が失敗に終わるケースも想定しておく必要があります。
その1 現場が組織として機能していない場合(そのことに気付くことだけが成果となってしまう)
 私は行政に3年間いたので,一部の現場教師の行政嫌いは痛いほど肌で感じてきました。
 行政マンというのは,基本的には法令や中教審答申などを守り,それを忠実に実行したり,理念の実現に向けて努力しているだけなのですが,それに批判的な人は,法令や答申を出した人にではなく,それを実施するのが仕事である行政マンに不満をぶつけます。虫が入った料理を運んでしまった店員は,客に苦情を言われれば謝らなければなりませんが,文科省キャリアは少なくとも虫ではないでしょう。
 教師も法令を守り,各学校の教育課程を着実に実施する主体であるという意味で,全く同じ「全体の奉仕者」としての公務員なのですが,「現場に立っていなければ教育者ではない」みたいな風土もあり,テレビに出たりする「教育評論家」は馬鹿にされています。文科省キャリアは「お前は教師じゃない。教育実習生の延長版程度だ」として扱われるかもしれません。
 1年しかいないことがわかっていても,初任者と同じように教えなければいけないことが山のようにあるでしょう。それを,「どうせ1年しかいないのだから」と言って教えなかったり,仕事を与えなかったりしたら,「教育の課題」は体感できません。また,キャリアの目で見た学校改革の提言を受け入れようとする懐の広さがなければ,学校がよくなるチャンスも失います。
その2 授業そのものが上手すぎる場合(後から教える教師がやりにくくなる問題)
 教育現場は初めてとはいっても,文部科学省が調査等によって把握している現場の実態は理解しているはずなので,知識としては初任者をはるかに上回るものをもっていると考えられます。
 教科としては出身が法学部とか教育学部であることを考えれば,社会科が多いでしょうか。行政経験を踏まえた人の社会科の授業というのは魅力が感じられます。
 1年目の人にあまり上手すぎる授業をされるのは,ベテラン教師にとっては痛恨の極みです。教育実習生を毎年大勢受け入れている私の経験からわかることは,若い教師の授業の力というのは,大方が「自分がどういう授業を受けてきたか」で決まります。
その3 学校全体として教育実践がうまくいきすぎている場合
 個人的な意見としては,日本の教育行政が第一に取り組むべきことは,クラスの人数を減らすことです。欧米から教育視察にくる外国人がまず驚くのは,1学級の子どもの数が多いことです。
 極小規模校の子どもの成績が特段いいわけではないことからわかるように,クラスの人数を減らせば教育の効果が上がるというわけではありません。教師の力量が高ければ,10人でも40人でも力は同じようにつけさせられるのです。ただ,その逆の場合は,被害者が40人より10人の方が少なくなります。
 40人学級で成功している学校を知ってしまうと,改革が難しくなります。
その4 「失敗」を「失敗」と言われたくない教師が多い場合
その5 「評価」アレルギーの教師が多い場合
 受け入れ学校が,「将来の日本の教育行政を担う人材」を教育するという気概を持てるかどうか。そこが成功と失敗のわかれ道でしょうか。 

参考 齋藤孝「教育力」(岩波新書) 202頁より
「会社の中で上司になった場合,部下をうまく評価してリードしていく,そのリーダーシップ自体がその人の仕事力なのだから,部下がうまく育たなければ上に立つ人間としての評価は上がらない。そういう意味では教育的なセンス・能力,教育力というものが,一般の会社でも常に要求されるわけだ。」
 
 

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