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カテゴリー「ニュースより」の935件の記事

止まらないビールの需要減

 私には飲酒の習慣がない,というよりは,お酒が飲めない。

 人生の楽しみの一つを失っている,という宣告を下されたことが何回もある。

 体格を見てほとんどの人が「信じられない」と言う。「飲んだらどうなるの」と聞いてくるのがわずらわしい。

 外国人のようにわかりやすく納得させたい場合は,ウソなのだが肝臓を指さすとうなずいてくれてそれで終わりである。

 ビールの市場規模の縮小が始まったのは,1990年代後半,バブルがはじけてしばらく経った頃からである。

 ただ2000年頃までは,ビールより酒税の安い発泡酒(酒税法では,麦芽使用率が3分の2以上のものをビールという)の消費が増えており,ビール+発泡酒の消費量にはあまり変化がなかった。

 しかし2004年頃に,新ジャンル(麦芽を全く用いないもの)のビールが登場すると,ビール全体の需要はどんどん減り続けるようになった。

 メーカーは,ビール350ml当たり77円かかる酒税があるため,価格競争の意味でも発泡酒(約47円)や新ジャンル(28円)の投入によって生き残りを図ってきた。

 データを見ると,若者の飲酒習慣が大幅に低下していることが影響している。だから,業界としては,若者をいかにアルコールに近づけさせようとするかを考えているだろう。

 私が教員に採用された平成の初め頃は,とにかく「飲めないやつは人間じゃない」くらいに差別されたものだが,今では「飲まない人」の方が多くなっている。私もずい分と気が楽になった。

 飲める若者が減ったことを嘆いている50代が多いかもしれないが,健康診断をばっちり毎年やられると,気持ちもしぼんでしまう,ということにもなるだろう。

 テレビのコマーシャルでは,どれだけおいしそうに飲んでみせることができるかを競い続けている。タレントは撮影前にサウナなどに入ったりして,「のどが渇いている状態」をつくらされているのだろうか,などと余計なことを考えてしまう。このようなCMがなくなったら,さらに需要は落ちてしまうのだろうか。

 酒類全体からビールの割合は,1989年に71%だったのだが,2016年は何と31.1%にまで落ち込んだ。

 増加率が最も高いのはリキュール類で,1%くらいしかなかったのが24.5%にまで増加した。

 ワインの消費も増加傾向にある。

 「お酒と言えばビール」という世界ではなくなった。飲み会でも,「最初は全員ビールで乾杯」というと,拒否する人が出てくるから,いちいち一人一人注文を聞くことになる。

 「多様化」という流れは,どの業界でも起こっていることだろう。

 「1強」が去った後に,「成熟」がやって来る。

 政治の世界でも似たようなことが起こらないだろうか。

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五輪ボランティアの数字を見て

 「奉仕活動」というカリキュラムがあると,「奉仕」するのは「強制」になる可能性がありますね。

 何しろ,「奉仕活動」って名前の授業で,「奉仕」しないとは何事だ!と怒られてしまうので。

 昔から,そういう「報師活動」はありましたよね。

 さて,都立高校でボランティア応募の強制か?という疑いがあった件で,学校側は否定していたようですが,もしかしたら学校別の応募者数が公表され,管理職の評価に反映される,という情報でも流れたのか?と勝手に想像していたりもしました。

 特筆すべきとして挙げられているのは,外国籍の方が4割近くも占めているということ。

 恥ずかしいですね。

 「私の国では,学校で英語を何年学んでも,話せるようにはならないんですよ」

 ということを世界に知らしめた感じです。

 こんな数字のおかげで,また学校の授業が「英会話教室」になってしまうおそれがあります。

 人に合わせてモノを考えて話せるようになるためには,相当な時間が必要だと思います。週4時間のペースで勉強したところで,忘れていく子はどんどん忘れてしまうでしょう。

 ただ,皆さんとにかく気をつけてほしいものです。

 来年の真夏に,一度,模擬演習をしてみて下さい。

 そういうプログラムになっているでしょうか。

 無理そうなら,すぐに辞退しましょう。

 倒れるボランティアを介抱するボランティアが大量に必要になってしまいます。

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南青山に似た環境の公立学校は,頑張った。

 児童相談所を南青山につくってほしくない。南青山のイメージが崩れる。

 こういう「住民」(本当の住民かどうかは,確かめようがない)の声を「説明会」の映像で直接耳にすることができた。

 南青山のイメージを崩そうとしているのは,だれなのか,という話でもある。

 火葬場とか葬儀場,ゴミ処理施設といったものに限らず,保育園や公園ですら,反対の対象となる。

 児童相談所の場合は,その間くらいに位置する「嫌われる施設」なのだろう。

 慌てて政府や文科省は,「道徳教育に力を入れなければ」「高校の必修・公共でしっかり教えなければ」と思い始める。

 いくら学校で本音を封じ込めたところで,当事者の「住民」となった瞬間に,今まで学んだことがチャラになる,といったことにだれも責任をとらずにすむのだから,やれることはやるという行動パターンになるだろう。

 南青山とは全く別の環境だが,同じように住民から総スカンをくらっていた学校があった。

 そこは,人口が増えすぎたので,都営住宅をつぶしてまで,学校をつくらなければならない,というところだった。

 新設された学校に集まってきたのは,異なる制服を身にまとった「追放者」たちだった。

 ここでの「追放者」とは,自分の意思で転校したわけではなく,もといた学校から「追い出された」生徒たちのことを言っている。

 当然のように学校は開校当初から荒れ続け,生活指導の事件のときに,学校の全景が空撮で新聞に載ったこともあるという。役所や教育委員会からも「絶対に荒れはおさまらない」とされたところだった。

 そんな学校でも,時間はかかったが,「ここを卒業できてよかった」と思う子どもが増えていった。

 「開かれた学校づくり」は,新しい学習指導要領で始まったものではない。大昔から学校には協力者がたくさんいた。地元の自治会からなにから,すべての人々が応援したくなる学校をつくったのは,子どもたちである。

 児童相談所の場合は,学校とは逆で,むしろ「閉ざされた施設」という性格をもつ。

 南青山の場合は,とても「適した立地」だと思うのは私だけだろうか。

 地域住民に協力を求められることはまずないだろう。

 児童相談所を抜け出した子どもに,盗みに入られたりするのが嫌だ,とでも思って反対しているのだろうか。

 街頭インタビューでは,これも住民かどうかわからないが,数が足りずに困っており,社会には必要な施設であるから,むしろ南青山に建設されることを誇りに思わなければならない,という声もあった。行政のヤラセでないことを切に願う。

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愛校心によって大切なものを失った経験から

 愛国心の何がどのように「危ないもの」かを,日本人やドイツ人ほどわかっている国民はいないはずである。

 しかし,日本政府は法律に基づいて,「愛国心を育てる」ことを学校に求めている。

 あるニュースで,「昭和の体育会」と呼ばれる大学病院をもつ大学の不適切入試の事情が紹介されていた。
 
 「卒業生の子どもなら,長時間労働に文句は言わないだろう,経営に文句は言わないだろう」という,「愛校心の利用」の具体的な例である。

 自己犠牲の精神は,現在の道徳教育でも非常に重要視される徳目の一つである。ブラック企業が栄える理由の一つである。

 愛校心や愛国心のような,組織に対して従属的になっている心情を利用しやすい立場にいる管理者たちは,従業員たちの仕事へのモチベーションを高める技能を問われることがないので,本当にお気楽ですませられる。

 「私は進んで仕事をしているんです」「もっと仕事をさせてください」とまで言われて,「もう仕事はしないでいい。早く家に帰りなさい」と言える上司はどのくらいいるだろう。

 私自身は,愛校心があるために,大切な「職」を失った人間の一人である。また,その愛校心のために命を落とすかもしれない「過労死候補者」のうちの一人である。

 こういう私が歴史を教えていると聞くと不気味に思われるかもしれないが,「御恩」と「奉公」を時間差で実施している人間である。今,ちゃんとお給料ももらっているから,現在でも「御恩」が保障されている,とも言えるが,精神的な問題で言えば,「奉公」をしている対象は「今の子どもたち」と同時に,「恩師たち」ということになる。

 愛校心とは,犠牲を伴う心であることは明らかである。

 「愛校心をもつものを優先的に合格させたい」という意図をもつ管理者側と,実際に愛校心をもっている側は,時間的にすれ違いの関係にある。

 国を愛する心を持っている者が,国を愛しているかどうかわからない人たちに利用されることで,国はいい方向に導かれていくとは限らないという簡単な話が,よく理解していただける事例だと思う。

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当たりすぎる占い師の助言が鍵か

 最近は占いがブームになることはないのかもしれないが,

 政界や芸能界,経済界でも占い師の言葉を先の方針への参考にしている人がいるという。

 継続的な信用?というか信仰?が続くには,それなりの理由が考えられる。

 占い師には,四柱推命などの「基本技」がある。

 例えば,ある皇族の方は,2年間ほど「天中殺」の時期にあたる。

 だから,占い師が近くにいたら,絶対にこの時期の結婚は避けるはずである。

 「3年後がいい」とは,「天中殺」明けである,というのが根拠である。

 方角のことも信じている人は少ないかもしれないが,

 悪い方角に引っ越した人は,大きな病気を経験したり,事業に失敗したり,離婚したりと,悪いことが続いたりする。

 それが悪い時期とかぶっていたら,「助言者はいなかったのか?」と「知っている人」からすれば,逆に不可解になったりする。

 トランプ占いなど,偶然性で決まるものではなく,データによってだれが見ても同じになるような占いだから,信じやすい人が多いかもしれない。

 京都の人で,比叡山がなぜあの場所にあるのか,言えない人はいないのではないか?と思ってしまうが,実際にはどうだろう?

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平成最後の年賀状

 年賀状の(当初)発行枚数は毎年減少している。

 2017年 26億枚
 2016年 31億枚
 2015年 32億枚
 2014年 33億枚
 2013年 34億枚
 2012年 36億枚
 2011年 37億枚
 2010年 38億枚
 2009年 39億枚
 2008年 41億枚

 毎年1億枚のペースで減ってきたが,今年の減少率は非常に大きなものになった。

 それでも国民1人あたり20枚分と聞くと,全く出していない人は驚くかもしれない。

 今売り出している年賀状の発行枚数は,24億枚だそうだ。

 平成最後のお年玉賞品には,元号が変わるタイミングで2回目の抽選が実施されるという。

 しばらく年賀状から遠ざかっていた人も,節目となる2019年か2020年には戻ってくるのだろうか。

 今年の郵便局のコマーシャルでは,定年を迎えた主人公の男性に,思い出の部下などから年賀状が届くという設定のストーリーが使われている。

 私の場合,年賀状を用意する時期につらい思いをし出したのはいつ頃からだろうか。

 毎年,名簿から,「他界」によって印刷から除外する人が増えてきている。

 一方で,ご遺族に年賀状をお作り続けている方もいる。

 過去をふり返る年賀状より,前を見る励みになる年賀状にしたいものである。


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元横綱の離婚と復縁までの時間

 元横綱のH氏は「何を考えているのかよくわからない人」というイメージをテレビは伝えているが,一貫した部分があることでも知られている。

 メディアは離婚の理由を掘り下げようとしているが,職を失った夫と事業家である妻が別れる理由を「元横綱」「元親方」の「メンツ」「プライド」という視点から考えれば,答えは自明ではないだろうか。

 「相撲」の世界は古い日本の体質の塊のようなところである。

 それはつまり,元横綱が新たな収入の道を確保した後は,「再入学」というか新しい学校への入学が待っているという意味になる。

 この想像は,事業家である「元女将さん」が「元横綱」の意思をしっかりと尊重し,自分がしばらくは「悪者」になってしまうことにも耐えられる精神力をお持ちであることが前提となっている。

 他に取り上げるべきニュースに乏しい時期には,憶測しかない,全くニュースと呼ぶ価値のない情報が垂れ流しにされる。勘のよいジャーナリストなら,すでにシナリオを描いてあり,「スクープの瞬間」に用意した原稿を売り込めるような話である。

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皇族への言論弾圧

 日本文化の良さの一つに「曖昧さ」の美がある。

 「白黒つけない」という生き方は,自然の理に叶っているのだが,

 「自然」=「神のわざ」と考える宗教では,はじめから「白」や「黒」が決められているという「思考停止」状態が当たり前である。

 「白黒つけない」「曖昧」な態度というのは,「思考継続」状態を示す。

 では,「はっきりとモノを言う」という態度はダメなのか。

 もちろんそんなことはない。ただ,日本ではこれを嫌うというタイプの「思考停止」状態があり得る。

 結論を早く押しつけられることが苦手な日本人は,「お茶を濁す」技を鍛えているが,

 「誤魔化す」ことに専念する「思考停止」状態の人間もいる。

 「議論を封じる」ことが大好きな「思考停止」状態の人間も多い。

 道徳の教育をやりたいと言っている人間は,そもそも「議論」が好きな方ではないだろう。

 簡単に負けてしまうからである。

 だから議論に負けないためには,そもそも議論にもっていけないようにすることが重要と考える。

 言論を弾圧されるのは,一般市民だけではない。

 国民のためを思っての一言すら,弾圧される世の中になったらしい。

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目くらまし要員の大活躍

 ある業界・分野で起こっていることが,同時並行的に他の所でも起きている,という現象があることを知っておきたい。

 今,政治の世界では,「目くらまし要員」が大活躍である。

 「目くらまし要員」とは,大事な問題への野党の追及の時間を短くするために,どうでもよい問題の方に目を向けさせ,時間稼ぎをするための「駒」のことである。

 アメリカでは,大統領自身が「目くらまし」を炸裂させているが,さすがに同じ度胸を持っている人は,他の国には存在しない。だから「目くらまし要員」が必要になる。

 同じようなことが起きていると想定して,世の中の「ニュース」を眺めてみるのは「知的」な活動と言える。

 新聞に出ていないことを想像し,時間とお金に余裕のある人だったら,自分で取材することができる。

 こういう「主体的な学び」を学校で展開するには,どのような「目くらまし要員」が必要だろうか。

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最強のセキュリティー

 教育現場では,働き方改革の流れで紙ベースのものをコンピュータで管理できるようにデータ化する動きがある。

 だから大切な情報を紛失したり,盗まれたりする危険性も格段に高まっている。

 通知表の原本を持ち出すのはそれなりに心理的な抵抗感が働くが,USBメモリにはいった情報はポケットに入れて持ち帰りやすい。コピーも簡単にとれるから,学校に保管してあるもののコピーを持って帰ることがやりやすい。

 コンピュータを操作できない大臣が「世界」で話題になっているが,実は最強のセキュリティーは,情報通信技術を使わず,「実物」で保管することかもしれない。

 電源を失えば何もできなくなるかすべてを失う恐れのあるものに,世界は多くを託している。

 かつてのスパイ映画では実物を盗むために金庫を開けなければならなかったが,今ではUSBメモリを差せば,いくらでも盗めてしまうからつまらない。離れたところにあるコンピュータでも盗めてしまう。暗号をつくる技術が高まれば,暗号を解読する技術も高まっていく。

 セキュリティーを高くできる人間がいるなら,それを破ることができる人間もいる,ということである。

 頭の中にある情報も,自白剤で引き出されてしまうかもしれない。

 ペーパーレス化によって,責任感の欠如や仕事に向かう姿勢の真剣さが失われてはいまいか。

 もちろん,紙の情報すらろくに管理できない人たちには,その機会がふんだんにあった学校生活をやり直してほしい。

 西尾幹二著『あなたは自由か』(ちくま新書)の冒頭の話を読むと,本当に「危機管理意識」の高い人なら,機密情報の扱い方を変えるはずだと思ってしまう。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より