カテゴリー「書評」の8件の記事

「対談もの」の分類 ふり返り366日【08/6/2-3】/昭和9年の意外なブーム

 「対談もの」というジャンルの本の分類を,自分なりにしてみると以下のようになります。
 いちいち対象の本を挙げようとも思ったのですが,けなしているものもあるのでやめました。

○どちらか一方が浮き足立ってしまって興ざめなもの

○両者が知識の披露をして褒め合っているおめでたいもの

○一方が他方からさまざまなことを学びとる形式のもの

○専門家同士の真剣な議論がかみ合って読み応えがあるもの

○全くジャンルの異なる仕事をしている人同士が,新しい着想でテーマを語るもの

 対談ものというのは,「つり合いが保たれていること」が成立の条件になるのでしょうが,「知の技法や論理」はさまざまなものがありながらも,その中でも共通性というか普遍性がある技法や論理が浮き彫りになっていくような対談ものを読んでみたい気がしています。

 教育関係の本でおもしろい対談ものがあったら読んでみたいものです。
 「教祖」が活躍する「対談」もどきはあるのですが,それはただの「インタビュー+感想文」の本に過ぎません。

08/6/2 梅田望夫さんにお願いしたいこと

 齋藤孝との共著「私塾のすすめーここから創造が生まれる」(ちくま新書)のあとがき(おわりにー私塾による戦い)で、梅田望夫は日本社会の閉塞状況への危機感について、次のように述べています。

 ・・・「時代の変化」への鈍感さ、これまでの慣習や価値観を信じる「迷いのなさ」、社会構造が大きく変化することへの想像力の欠如、「未来は創造し得る」という希望の対極にある現実前提の安定志向、昨日と今日と明日は同じだと決めつける知的怠惰と無気力と諦め、・・・(中略)・・・これらの組み合わせがじつに強固な行動倫理となって多くの人々に定着し、現在の日本社会でまかり通る価値観を作り出している。
  そして、「自ら力強い言葉を紡ぎ出すことで、その現状を打破したいと考えている」とおっしゃっています。
 梅田さんにお願いしたいことは、齋藤孝をネットの世界に早く引き込んでいただきたいということです。
 そして、自らに従順でもともと学ぶ姿勢をもっている人間(かその子ども)だけでなく、反対者、異論を唱える者と議論をかわし、相手を変質させられる場に登場させていただきたい。
 とてもエネルギーを要することであり、「怒り」のエネルギーに着火するとたいへんなことになるかもしれないのはわかりますが、「閉鎖的な教育空間」の体質を打破する手段の一つとしてネット空間の活用を図りたい私にとっては、切なる願いなのです。
 ・・・・と直接ブログへコメントする図々しさがないので、自らの日記への独り言としました。ネット空間にも「つぶやき」系の閉鎖ゾーンがあるようで・・・・。

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昭和9年(1934年)がスタートのもの
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
○大阪でタクシーのメーター制が始まる。
○わが国にも健康食品が登場。アメリカのヘルスフーズを模倣したもの。
○日本野鳥の会が発足。
○全国初の観光路線バス,青森・十和田北線が開業。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

昭和9年(1934年)のブーム・流行
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○パリの女性たちの間で靴下をはかないことが流行。日本女性の素足の美しさがパリジェンヌに見直されたもの。
○日記,ダンス,懸賞付き尋ね人,外国人向けの軽井沢の別荘
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内田樹にとっての「違和感」

 「ためらいの倫理学」(角川文庫)
にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへの「性差別はどのように廃絶されるのか」の中で内田樹が書いている宮台真司への「違和感」に興味がありました。
 

私は宮台真司という人の書いたものを読んで共感したことが一度もない。どうしてなのかしらないけれど、どこかで必ず違和感のあるフレーズに出くわすのである。今日のコメントを読んで、その理由が少し分かった。
 宮台真司は「分かっている人」なのである。(211頁)
 
 宮台は「知っている」ということで自らの知的威信を基礎づけている。「知っている」ということが知的人間の基本的な語り口であるとたぶん思っている。(212頁)

 「知的威信」がどれほど大切なものかは「分かりません」が、何かを語るとき、「分かっている」「知っている」という実感がなくて語るのはなかなか難しいものであると思われます。
 共感できる部分も多い内田樹木の書いたものに私が感じた「違和感」の正体は、内田樹の書いたものが「自分はよく分かっている」ということを前提にしているような印象があったからですが、自分自身でそのことへの警鐘を鳴らしている。
 以下の部分は、基本的には賛同できる内容ですし、学校における「関心・意欲・態度の評価」に関する記事でも述べたことがありました。ただ、「分からない」ことばかりを表明しても、あまり意味がない。「学校のことは放っておいてほしい」という多くの教師から共感を得られそうなこの主張に、保護者にとっての「分かりやすい」根拠がない。
 
「私には分からない」というのが、知性の基本的な構えであると私は思っているからである。「私には分からない」「だから分かりたい」「だから調べる、考える」「なんだか分かったような気になった」「でも、なんだかますます分からなくなってきたような気もする・・・」と螺旋状態にぐるぐる回っているばかりで、どうにもあまりぱっとしないというのが知性のいちばん誠実な様態ではないかと私は思っているのである。(212頁)

 「知性」でご飯が食べられる人というのがうらやましいような気もします。

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「疲れすぎて眠れぬ夜のために」(内田樹)

 全くの余談ですが、私が最も好きな文庫本は、S文庫です。
 これは紙質と、文字の濃さによる本としての「好み」です。
 
 一方、最も嫌いなのが、K文庫です。
 K文庫は、印字がかすれているような印象がある。
 ただ、筆書との関連で言うと、中学生ころ大好きだった横溝正史のものを読む場合は、K文庫がいい。字がかすれているのが何だか、「それっぽい」。
 森村誠一も、K文庫のものでないと、偽物だという感じがする。
 変な傾向ですね。

 さて、内田樹のおもしろい本のうち、文庫本の「疲れすぎて眠れぬ夜のために」(角川文庫)にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへは、まず自分自身が「疲れすぎて眠れない」という経験が全くないので、そんな違和感と、あと二つの違和感の中で読み進めていったわりには、興味深く読めた本でした。

 「個性ということ」の中で、私の一つの違和感の原因が、おぼろげながら見えてきました。
 

・・・それまで自分の個性だと思っていたもののうちのかなりの部分が、1950年東京生まれの同時代人に共通のものだ、ということに気づかされました。
 そういう同世代の共通項を控除して、その後に残るもの、それがとりあえず「私の個性」と呼べるものなわけです。(101頁)

 私は1960年代生まれなので、やはり世代間ギャップというのが大きいのかもしれません。
 
 その具体的なギャップの中身を示さないと、記事にならないのではないか、と叱られそうですが、ではそれが何かというと、ちょっと説明が難しい。だから「違和感」なのでしょう。

 引っ越しが好きだとか、読み返す予定のない本は捨てるとか、家出のススメとか、はっきりこれは違うな、というのはいくらでも出てくるのですが。もっと根本的な部分にかかわる何か。
 人間関係で、我慢はしない、我慢すると、人間としての生命力を消耗してしまう、だから弁護士や精神科医はふけこむのが早いだろう・・・。不愉快な人間関係には我慢しない道を学生にすすめる・・・・。
 かなり違うのですね。
 すっきりしないまま、今年も終わってしまいそうです。

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「シュガー社員」誕生の水際防止ガイドライン

 田北百樹子著・『「シュガー社員」から会社を守れ!』(PHPビジネス新書) にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへの書評(日経ビジネス12月8日号)を読んでのコメントです(恐縮ですが、本体はまだ手にとっていません)。

 「自分に甘いわがまま社員」=「シュガー社員」・・・向上心も責任感もなく、仕事は半人前でミスだらけ、繁忙期でも平気で休暇をとり、上司からの残業指示は平然と拒否、ミスを叱られると泣き出す、プライドが高いのに実力が伴わず、その矛盾がすぐに表情に出る・・・こんな社員への防衛策は、採用段階で見抜くことである・・・

 教育委員会にいたころ、「こんな教師を採用した教育委員会が責任をとったらどうだ」という苦情を耳にしたことをふと思い出しました。

 企業の採用段階では、履歴書や職務経歴書に添付する写真の服装をチェック、面接時で答えにくい質問をして、不快そうな顔をするかどうかをチェックするとよいそうですが、・・・つまり水際防止策ということですね。

 ロールモデルとかコンピテンシーモデルとかを考えるレベルではないことが、企業ではおこってきているのでしょうか・・・。
 さすがに学校ではそこまでひどくは・・・と思いきや、「シュガー社員を怒らせると・・・・」の部分を読むと、また記憶によみがえってくるものが・・・。

 

シュガー社員の怒りを増長させるような処罰を安易に与えると、パワーハラスメントや労働時間の超過などを盾にして、逆に会社を攻撃してくる恐れがあると注意を呼びかける。

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「街場の教育論」より その5 落とされる原因

 第9講「反キャリア教育論」で紹介されている話ですが、ある大手出版社の面接試験では、「会って5秒」で合格者は決まる・・・この人といっしょに仕事して、楽しいと思えるかどうかで判定・・・ということです。
 投げやりな質問が続き、短めに面接が終わった人ほど合格者に近いという理由が納得できる話ですね。
 長く続く話の中で、不合格者に「面接試験の時間における満足感」を与えてあげる仕事が、面接官には課せられているようです。
 
 続いて、人気が高い内田樹のゼミ面接での「落とし方」はなるほどと思われるものでした。
 ここでは述べませんが、要は「気分良く学ぶ雰囲気を壊しそうな人はダメ」というもの。
 このあたりが「教育論」という題で売っていることとの違和感の大きな原因なのでしょうか?

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「大人のいない国」より その4 匿名のネット言論=呪い?

 内田樹は、ネット上で発信している大部分の人が匿名の書き手である理由について、「書かれたテクストが書き手に利得をもたらす可能性が低いから」という「合理的な考え方」で説明しようとします。
 しかし、そのテクストは「知的に無価値」だとしても、何の利益にもならないことをこれほど懸命にやることはないから、何らかの「利益」は手に入れているはずだ・・・
 その一つは博愛的マインドで「」の言葉を発信していること。
 もう一つは全く逆の立場で「」の言葉を発信していること。
 そして「」は「批判」とは別物である、ということを示唆しています。

 「批判」は発信者の身体を差し出さない限り機能しない(「呪い」は発信者の身体を隠蔽することでより効率的に機能する)・・・、固有名と生身の身体をもった個人が「自分の言葉の責任を引き受ける」と誓言するからである・・・と言明していますから、ネット上での一般の人の言論にはほとんど「批判」は存在しないことになります。

 匿名ブログがこのように単純に評価されていいのか、という疑問と、一見、「」か「」か見分けがつかないものもあるだろうという疑問が思いつきます。

 以下は、言説の信頼性に関する記述です。
 

・・・、言説の信頼性はもっぱら発信者がこれまでいくつかの重要な論件について高い頻度で適切な判断を下してきたという「通算成績」に担保されている。私たちが他人の発言に説得されるのは、言説の「単品」としてのコンテンツの整合性を尊ぶからではない。そうではなくて、これまでの長い年月を通じて、その人が積み重ねてきた言動から推論できる判断の「適切さ」である。(74頁)
 
 私のこのブログの場合は、記事が間もなく900になりますが、これまで「不適切さ」を重ねてきたのであれば、その評価を覆すのは困難というより、不可能に近い業になりますね。

 「」と言えば、ネットへの書き込みが原因で人(子ども)が自ら命を絶つ、そんな社会になってしまいました。
 内田樹は、「現代は陰陽師たちが活躍していた平安時代よりも「呪い」がはるかに実効的に機能している時代」だと表現しています。
 ただ、「」の一方的な攻撃を受けているのは、個人もそうですが、日本の場合、反論される可能性のない「」でしょうね。

 この章では、「言論の自由」がテーマなのですが、「」と「」の区別はそんなに簡単なものだろうか?という部分でひっかかっているため、その点にふれることができませんでした。

 *「」・・・人々がその「かけがえのなさ」に気づかず、蔑しているものに注意を促し、その隠されていた価値を再認識させる言葉の働き。(71頁)
 
 *「」・・・人々がたいせつに思っているもの、敬慕しているもの、価値ありと信じているものを「貶下」することをめざしている言葉の働き。「不当に利益を占有している」他者が、その不当に占有しているもの(健康、家族、財力、権勢、名誉、才能など)を失うことを強く念じること。(73頁)

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「強い日本への発想」(日下公人・竹村健一・渡部昇一著/致知出版社)

月刊『世相』に昨年から今年にかけて掲載されたものを、

第1章 日本の心を取り戻す
  【類まれなる品格を持つ日本人】
  【心が築いた日本の文化】
  【日本語が示す歴史と文化の厚み】

第2章 本質を究める見方・考え方
  【「いい加減」な見方と「思い込み」の過ち】
  【人間を磨くための読書術】
  【本物の学歴を身につける】
  【神学体験が育てた発想力】

第3章 日本の未来、日本の課題
  【特長ある国づくりをめざす】
  【主張の原点に国益があるか】
  【弱点を見据えた国家防衛策を練る】
の3章にまとめた本です。

 3人の近著の紹介、その主旨や内容をめぐる議論も興味を引かれます。
 鼎談本の中には、明らかに後で書き加えたような話がわざとらしく語られる場面が見られますが、この本では自然な会話の流れが感じられるので、ラジオを聴く感覚で読めるのも特長でしょう。
 博識の3人が、互いに「聞いたことのない話」を紹介し合う場面は見所の一つです。
 長い付き合いの3人が、これまで「キリスト教」という共通点があったことを話したことがなかったというのも意外なことでした。  にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ

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『欲ばり過ぎるニッポンの教育』を読んで

 苅谷剛彦と増田ユリアの対談をまとめた本ですが、齋藤孝とちがって苅谷剛彦の本の読後感がいつも悪い気がする原因が、この本でよくわかりました。まえがきやあとがきで「議論が不毛」「やめたほうがいい」という会話がなされたことが紹介されていますが、学校に対する認識のレベルがよくわかったので、読者としては決して不毛ではありませんでした。毛は生えていたが肌触りがきわめて悪い繊維といったところです。
 齋藤孝が教育学者である一方、苅谷剛彦は社会学者です。
 データにもとづいて語るわけですが、要は身も蓋もない結論になる。
 「教育の失敗」は、社会学者の立場でいうと、要するに「力のない教師にできはしないことを行政がやらせようとしたこと」「国が教育にお金をかけなかったこと」「教育力、経済力のない家庭が学校に過度の期待をしていること」が原因だそうです。
 「フィンランドの学校は、特別なことをやっているわけではない。ただ、教師は尊敬されている(力がある)。養成と研修が充実しているから。人間関係のトラブルを親は学校の責任にせず、家庭で解決しようとする。」
 で、日本は・・・?
 だからどうするという提言はいっさいない。欲ばらないであきらめろ、という「解脱観」のような印象が残ります。
 もちろん学者として優れた指摘もたくさんあり、ドッグイヤーは50個程度できています。
 著者の考えがよくわかった箇所を抜粋します。

47頁(小学校の英語教育に反対の理由) 教えられる人がいないのに何時間か入れたら、はみ出したものはどうなるんでしょう。確実にできることを犠牲にして、できないかもしれないけど入れたいものを入れようとする。どっちが重いか、はかりに掛けたときに、僕は失うものの方が重いと思う。(この論理は、総合的な学習の時間の導入についても同じ)
143頁 一定レベル以上の英語ができるようになるのは、本当に英語を必要とする人たちだけでいいという考え方もできる。
60頁 僕が教育に対して悲観的なのは、むしろ人間に対して楽観的だからかもしれない。そういう意味では、放っておいたって人間は育つよ、ってどこかで思っている。いい教育をやろうとして、どんどん悪くしているという感覚もある。
62頁 ・・・いわば引き出しの使い方のうまい人や、引き出しの数が多い人たちがやるならば、総合学習みたいな自由度の高い教育というのは成功する。でも、引き出しの少ない教師が、雑誌に書いてあるものをそのまま使ってやったら、これはうまくいくわけない。
82頁 十分なお金も、人の手当も、時間も、専門的な訓練も与えられていないのに、実に多様な問題の原因として、教育がバッシングされる。実力以上の過剰な期待をかけていることに、多くの人たちは、気づかないか、気づいていてもそのことを忘れているのか、いずれにしても、期待が裏切られるたびに、「教育の失敗」がいわれるようになる。
110頁 ・・・個別塾になればなるほど、教師の数は増えるんだから、教師の質は低くなる。 この本を読んで、元気がでる教師ってどんな教師でしょうか?

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