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カテゴリー「書評」の82件の記事

中学校社会科の新学習指導要領案を考える―その1 地理的分野の目標(2)

 では,2月14日に公開された甘くない贈り物の分析を真面目にしていきたい。

 まずは社会の地理的分野の目標(2)の内容から。

 ポイントは太字の部分。

>地理に関わる事象の意味や意義,特色や相互の関連を,位置や分布場所人間と自然環境との相互依存関係空間的相互依存作用地域などに着目して,多面的・多角的に考察したり,地理的な課題の解決に向けて公正に選択・判断したりする力,思考・判断したことを説明したり,それらを基に議論したりする力を養う。

 地理の専門家でなければ,「空間」と「場所」と「地域」の違いを説明できない。

 文部科学省は,13歳と14歳の子どもたちに,地理学の中心的概念を習得させる教育をさせたいようだ。

 1 位置や分布(「位置と分布」にしなかったのは,何か意味があるのだろうか)

 2 場所

 3 人間と自然環境との相互依存関係

 4 空間的相互依存作用

 5 地域

 この5つは,国際地理学連合の地理教育委員会が1992年に出した「地理教育国際憲章」から引用されたものである。

 英文の「地理教育国際憲章」をIGUのホームページからダウンロードして読んだところ,いくつか気になった点があった。

 Some of the central concepts of geographical studies として挙げられているのが上の5つだが,英語では,次のように表現される。

 1 Location and distribution

 2 Place

 3 People-Environment Relationships

 4 Spatial Interaction

 5 Region

 お気づきになると思うが,日本語訳が気になるのは,

 「Relationship」が「相互依存関係」,「Spatial Interaction」が「空間的相互依存作用」になっていることである。

 中山修一さんという地理教育委員会委員の翻訳が,公式文書として扱われているので仕方がないかもしれないが,「相互依存関係」は「相互の関係のうちの主なもの」とは言えるだろうが,依存関係以外の関係もある。「影響を及ぼし合う」ことを「依存」と呼ぶのが地理の世界なのだろうか。

 「インタラクティブ」という言葉が「双方向の」とか「対話的な」いう意味で少しずつ日本語化していることもあって,「インタラクション」を相互依存作用と訳するのは適切ではないと思われる。

 学習指導要領で示す用語にするためには,地理学者に今一度,再考をしてもらった方がよいのではないか。

 公式文書では,たとえば「地域」の部分で,

>Regions are dynamic in both space and time.

 の1文が「地域は,空間的にも時間的にも躍動的なものである」と訳されているが,

 dynamicという単語は,日本語の「ダイナミック」ほど大げさなものではなく,

 日本語で「動態的」という表現が用いられていることを念頭に置いた方がよい。

 現行の学習指導要領の解説では,日本の諸地域学習について,

>それぞれの地域の特色ある事象を中核として,それを他の事象と有機的に関連付けて,地域的特色を動態的にとらえさせることとした

 と示している。

  単なる地誌的知識の習得に陥らないように,たとえば産業を中核とした考察では,

>地域に果たす産業の役割やその動向は他の事象との関連で変化するものであることなどについて考える

 学習ですでに行われている(はずである)。

 「相互依存関係」とか「相互依存作用」という言い方を使うと,誤解を招くというよりは,多面的・多角的な考察ができないおそれがあると考えられる・・・というのが,第1点目の指摘である。
 
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日本人は多文化共生に耐えられない?

 日本人は多文化共生に耐えられない・・・

 ある東大名誉教授の社会学者が新聞で展開していた主張である。

 ツイッターなどで,「信じられない」という反応が多く寄せられているらしい。

 「仲間を後ろから槍で突きさすような発言」という趣旨の言葉もあった。

 人口減少社会に「移民」という切り札を使うことは,不可能だ,という理解があるようだ。

 反論の理由として挙げられている,多文化共生で生きている人々が実際にいる,そういう地域がある,ということをご存じないはずはない。

 努力している人々の足を引っ張るタイプのガクシャは少なくはないだろう。

 教育の世界では,優秀な教師たちを「見下す」ための「理念」を吹聴し,「等しく貧しい学力をつける」ことに専念させようとしているセンセイとその「同志」もいる。

 「平等に貧しくなろう」

 こういう考え方にすがらないと生きていけないほど日本が落ちぶれる前に,何とかしたいと思っているのは,私だけではないと信じたい。


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悪徳商法と全く同じ手法を使う大学のセンセイ

 電通が叩かれる理由として,過労死問題とは別の心当たりがある人は少なくないだろう。

 高収入の背景には,高い成果と膨大な仕事量が求められる過酷な能力主義があることについては,納得がいくことである。

 「広告」に対しては,どこかに「だまされてはならない」という自制心が働くのが正常な受け止め方だろう。

 ネットの時代になっても,私も含め,紙(新聞や雑誌本体も含めて)の「広告」やテレビのコマーシャルのお世話になっている人が多いから,「広告」という仕事への忌避感が背景にあるとは考えないのが普通かもしれない。

 アンケートに答えたら,自分の年収に合った広告が入ってきたときに,「もう関係をもつのをやめよう」と思った会社があったが,一度答えたデータはもう消しようがないかもしれない。

 電通に社員向けの格言があったように,広告業界には,「消費者をだますためのテクニック」が当たり前のように存在する。

 ここでの「だます」の意味は,法律に触れる範囲のことではない。

 たとえば女性が化粧して「すっぴん状態」をわからないようにすることも「だます」に入ると考えていただきたい。

 本来,買うつもりがなかったもの,買う必要がなかったものを買わせるのが広告の仕事である。

 もちろん純粋に,定期的に買っていただいているのに,今月はまだだから,きらしてしまって不自由しているのではないですか,という趣旨の「広告」もあるかもしれない。

 ただ,夏の終わりに冬の着物は必要ないし,独身男性に高額な生命保険などは必要ないから,それをすすめるような「広告」は「いかにだますか」が力の見せ所といったことになっている。

 年収300万円の人が,ローンでベンツを買って乗りまわすことを,「悪いこと」だとは言わない。

 ただ,そのお金のもっと大事な使い途はないですか,と自問してもらいたくはなる。

 前置きが長くなったが,

 「モノを買わせる」「人を騙す」ための広告業界のテクニックには,
 
 「じらし(ティーザー広告)=大事な部分を隠しておく」,「不安を煽る」,「理想や夢を実現したいという欲望につけこむ」,「稀少性を訴える」,「権威を利用」などがある。

 この手法を見事にすべて利用している大学のセンセイがいる。

 どうでもいいものを公開する一方,大事なことは内緒にしている。それは,絶対にバレてはいけないことがあるからである。

 もちろん,違法性があるという趣旨の指摘をしているわけではない。

 「不安を煽る」手法を使っていることは,教育者というより宗教家としての資質の方が高いことを示している。

 宗教は,人の心の弱みにつけ込める「強さ」を持っている一方で,

 人から強い反発を受け,孤立しやすく,迫害されやすいという「弱さ」を持っている。

 教育は,人の「弱さ」を認めつつ,人の絆の「強さ」をつくる取り組みである。

 教育が宗教的に利用されると,ごく一部の人間の絆だけが強くなり,社会との絆が弱くなっていく。

 「賢い」子どもを育てるために,教育が譲ってはならない部分がどこにあるのか。

 教師としては,常に問い続けておきたい点である。

 
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告示される前から失敗することがわかっている学習指導要領改訂のねらいとは

 学習指導要領の改訂は,およそ10年サイクルで行われる。

 10年は長そうに見える期間だが,改訂のスケジュールを考えると,10年が最短のサイクルである。

 新学習指導要領実施→実施状況の調査→中教審の審議→指導要領作成→教科書作成→教科書検定→教科書採択

 間もなく告示される次の学習指導要領は,中教審ワーキンググループの議論やそのまとめがHPに掲載されており,ほぼその全貌がわかっている。

 「アクティブ・ラーニング」がキーワードになっているが,要は小中学校でがんばってきた授業改革を,制度上は義務教育ではない,高校にも拡大していくことがねらいである。

 一言で表現してしまえば,日本では実質的にほぼ義務教育化している高校の教育改革がねらいだということである。

 歴史などは,私立大学入試の穴埋め問題を見ただけで,本当に意味のない勉強を強いている高校の課題が明白である。

 高校の授業がこんな状態なのは,大学入試に備えるためだ,という言い逃れがあるため,大学入試を変える,というのがセットの条件になった。

 大学入試が変わるのだから,高校の授業も変わらなければならないのだと。

 小学校や中学校レベルの「話し合い活動」をすれば,許してやる。もちろん,力がつくかどうかは知らないけど。

 というストーリーだが,この流れのばからしさは,塾関係者が(受験を控えた中高の教員も)一番良くわかっている。

 そもそも「大学入試を変える」ことなど,そう簡単にはできない。

 問題作成を経験したことがある人など,ごく一部かもしれないが,その分析や対策をしてきた塾関係者はよくわかっていると思われる。

 どんな問題を出すにしろ,できる生徒はできるし,できない生徒はできない,というのが「常識」である。

 そして,「思考力・判断力・表現力」を測るための問題で,採点に客観性や信頼性が担保できるものなどは,学校の定期考査ですら難しいことも「常識」である。

 合否の判定材料になる大学入試などで,答えがいくつもあるような問題を出題することなどはできない。

 採点方法やその結果で大もめにもめるような入試では,入試業務だけで1年が終わってしまう。

 つまり,告示される前から,高校の授業が確実に失敗することがわかっている学習指導要領の恩恵を最も受けるのはどこかと言えば・・・・学習指導要領に縛られずに教えられる塾・予備校などの教育産業である。

 ある教育産業のHPに,各学校に対する生徒や保護者による多面的な評価が掲載されている。

 私の学校の場合は,各項目について高い評価を得ているが,「学習」についての評価が低い。理由は,「受験に役に立たないことをしているから」。

 おっしゃる通りである。ただ,これから告示される学習指導要領の趣旨にぴったりの教育を100年以上続けている。

 中学校も高校も,どことの比較かはわからないが,通塾率が高くなるというデータも紹介されている。

 別に,塾に通う生徒が多いことを「失敗」だと言いたいわけではない。

 最も簡単に予想できることは,高校での「授業崩壊」「学級崩壊」が増加することである。
  
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大学のセンセイに,公立学校の管理職を経験させてあげる機会を!

 読書編で紹介したアクティブ・ラーニングの評価に関する本の内容は,ひどすぎるというレベルを超えていた。

 小中高の教員の言葉が紹介されているが,それは「実践報告」ではなく,「信仰の表明」にすぎない。

 各教科の特質などには何の興味もない著者が,どこにでも通用すると勘違いし,ところかまわず垂れ流している持論が並べられているだけである。

 そもそも,アクティブ・ラーニングを行わない限り,その評価はできないはずである。

 最も肝腎な「深い学び」をあきらめているわけだから,せいぜい「アクティブ・プレーイング」があるにすぎない。

 今,昭和22年~30年頃の教育改革の議論を読んでいるが,今とほとんど変わらない話が繰り広げられている。

 教育の世界では,70年間,ほとんど進歩らしい進歩はないと見なしてよいだろう。

 今よりはるかに「国際理解」も可能だっただろうし,教師自身がしっかり学ばなければ教育できないカリキュラムが編成されていたように思う。

 教育に関する議論の劣化は,どうしてここまで進んでしまったのだろうか。

 授業の中だけの子どもの姿を誇大にとらえて,研究した気になっている人たちが劣化を伴いながら再生産されてきただけにすぎないようだ。

 教育を研究している大学のセンセイは,一度はどこかの公立学校の管理職をつとめることを義務にしたらどうだろうか。

 理念を好きなだけ具現化できる環境を用意してあげることが,ろくでもない理念を拡散させているという問題に気づく最後の手段ではないだろうか。

 理論で学校は変わるのか,それとも人柄で決まるのかも,試してみていただきたい。

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「飛び込み授業」は金槌が海に飛び込むほど危険

 数学と生活指導の共通点を学ばせてくれる本に出会った。

 数学が苦手な子どもと,生活指導が苦手な教師は,同じ落とし穴にはまっている,といった話などが綴られている。その本の著者が生きている国の文化にありがちの,やたらと自信過剰な書きっぷりには辟易とさせられるものの,科学的根拠が背景にあるとなっては,読み捨てて終わるわけにはいかない。

 詳しくはいずれ読書編で紹介したいと思うが,関連のあることとして,

 教育現場で「めったにやってはならないこと」の一つに「飛び込み授業」があることを指摘しておきたい。

 以前,科研費で動いている大学教員がよこした大学院生のひどい指導案にふれたことがあっただろうか。

 年間計画のどこに位置付いての実践なのかという発想は,一切ない。

 その単元を開発し(てしまっ)たから,どこか都合のよい時間にお願いします,といったところである。

 ダメ出しを何時間も繰り返し,ようやくたどり着いたときには,何の変哲もない授業になっていた。

 授業の場を提供したこちら側としては,ほとんど何の意味もなく終わったが,生徒たちが書いた大量の文章が,科研費でまとめられた報告書に載ることになった。せっかくよい資料が提供できたのに,いっさい分析がなされていなかった。本当に税金の無駄遣いである。

 教職大学院など,「教育実習のやり直し」をしているところでは,こういう「飛び込み授業」の必要性があるのだろうが,本来,学校が求めているものではない。

 ゼミ内のお遊びですませてくれれば,学校現場に実害がなく助かる。

 

 「飛び込み授業」でがらっと子どもの学ぶ姿勢が変わる,ということはある。

 私が小学校の先生とTTで行った授業は,おおいに盛り上がっていたが,あとで思えばただの打ち上げ花火であった。

 むしろ,顔合わせというか準備のために行った研究授業の1日前の授業の方が,よほど「研究向き」であった。

 子どもたちはよく頭を働かせて,積極的に活動し,知識や技能を身につけていった。「こっちの方が研究授業だったらよかった」とTTの先生や担任の先生も声をそろえて言っていたが,私から言わせてもらえば,「指導案がないからこそ,生きたすばらしい学習ができた」というだけの話である。

 入った学級は,とても学習意欲が高く,みんな人なつっこく,何よりも一人一人の能力が高かった。8割くらいが受験をするという。ただ,こんな学級は滅多にない。

 一般的な学級の「飛び込み授業」にどんな問題があるのか。

 今回の記事は,まずは問題提起というところで。

 
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「主体的・対話的で深い学び」に対する「浅い理解」の批判を批判する

 「主体的・対話的で深い学び」という言葉が,報道や雑誌,研究発表の場でよく使われるようになったからか,教育現場でも「身構え」が始まっている。

 今回の教育改革は,高校の教育改革を全面的に進めていくためのものなので,小中にとっては「そんなこと,ずっと前からやってますよ」といったレベルのものになっている。

 地理総合や歴史総合,公共といった新しい動きまで視野に入っている小中の先生は,まだ少数派だろう。

 それでも何でも批判しないと気がすまない人たちから,そんなレベルの話をしても,だれも相手にしてくれないという文句もちらほら聞こえてきている。

 批判というのは怖いもので,自分自身の実践レベルがわかってしまうのだ。

 「対話=話し合い」だと思っている人がいるが,それでは「深い学び」には到達できない。

 ナントカ「的」という独特な言い回しは,ナントカとはイコールではないことをまずは念頭に入れておくべきである。

 以下は,ワーキンググループから5月に出された資料からの抜粋である。

***************

 【深い学び】

 習得・活用・探究の見通しの中で、教科等の特質に応じた見方や考え方を働かせて思考・判断・表現し、学習内容の深い理解につなげる「深い学び」が実現できているか。

 【対話的な学び】
 子供同士の協働、教師や地域の人との対話、先哲の考え方を手掛かりに考えること等を通じ、自らの考えを広げ深める「対話的な学び」が実現できているか。

 【主体的な学び】
 学ぶことに興味や関心を持ち、自己のキャリア形成の方向性と関連づけながら、見通しを持って粘り強く取組み、自らの学習活動を振り返って次につなげる「主体的な学び」が実現できているか。

***************
 
 「深い学び」のキーワードは「見方・考え方」である。

 「deeper understanding」につなげられる思考が求められているのであり,教科等の特質に応じた「見方・考え方」をより重視した学習活動の展開が求められる。

 「対話的な学び」のキーワードは「協働,対話,先哲の考え方を手がかりにすること」「自らの考えを広げ深める」ことで,ここでも「考えを深める」という視点が求められている。

 「主体的な学び」で私が最も重要なキーワードとして考えているのは「振り返り」と「次につなげる」である。「キャリア形成」「見通し」「粘り強く」も重要なキーワードである。

 指導計画上,ただ教科書の配列に従って授業が進む,ということではなく,「このこととつながっている~を次に行おう」「ここで身につけた~を次につなげていこう」とする主体的な態度が子どもに求められる。

 場合によっては,カリキュラム編成を見直すことも必要になるだろう。それは,子どもの主体性がよりよく発揮できるようにするための配慮である。

 小学校の教師はうらやましい。独自のカリキュラムマネジメントを発揮することができる。

 学校の教育課程編成に,一人一人の教師がより積極的にかかわっていくことが求められていくだろう。

 後ろ向きの教師のせいで置いてきぼりにされ,ただひたすらドリルをやらされてしまうような子どもが増えないようにしたいものである。


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「子どもが主役」という言い方

 教育関係者が「子どもが主役」という言い方をするとき,2つの点を留意しておきたい。

 1つは,「実際には子どもは脇役である」ことが常態化していること。

 「あいさつをしよう」という目標を掲げる学校では,「あいさつができていない」現状があるのだ。

 わざわざ教育現場で「子どもが主役である」という言い方をするあたりは,とても怪しい。


 もう1つは,「子どもは何かの役を演じているのか」という疑問。

 「主役」ではあっても,教師が書いた台本を読んでいるだけの「操り人形」になっていないか。

 学校という所は,教師と子どもが,「何かを演じるところ」なのか?

 
 道徳の時間に,お互いに心にもないことを言い合い,褒め合っている気持ち悪い光景は見たくない。


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「よき市民を育成する」「よき主権者を育成する」という発想の誤り

 よき市民・・・たとえば「選挙に出かける」・・・であることからの退却(投票率の低下など)が,

 民主主義の危機の原因であるのではなく,

 むしろ民主主義の危機がもたらした結果である・・・・・。

 こういう解釈ができることは,現実の「政治」の問題を見れば,簡単に理解できることである。

 市民は,民主主義から自ら退却するのではなく,

 「押し出される」ようにして離れている・・・・

 その「押し出す」力とは,具体的にどのようなものか?

>よりよき民主主義を得るためによりよき市民が必要である,などと提案するのではなく,むしろ,よりよき市民となるためにはよりよき民主主義を必要とする,と提案したい。(ガート・ビースタの翻訳本『民主主義を学習する』(勁草書房)より)

 シティズンシップ教育や道徳教育のあり方が,民主主義から将来の市民たちを「押し出す」ものになってしまわないように,訳者のみなさんには「よき市民」としての役割を果たしていただきたいです。


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「日本の教育界ではビースタがブーム」という乖離度

 ガート・ビースタという教育学者を知っている「日本の教育界」の人はどのくらいいるのだろうか。

 学者の世界の「翻訳文化」は明治以来,変わっていない。

 大切なのは,「日本で紹介する価値のある学術書」を選別する眼力なのだろうが,

 ビースタという教育学者に関しては,中央に関与していない人たちにとっては「当たり」なのだろう。

 逆に言うと,

>政府とは選挙という多数決原理の結果であり,典型的な集約的モデルである。だから政府による教育内容の決定は,何が最善かを議論した結果ではなく,特定の利益を代表している。このような特定主義的な決定を超えて,多様な教育要求に基づきながら熟議を生みだし,教育内容を民主主義的に決定していくことが民主的教育の課題である

 と主張している学者は,政府から見れば注目されない方が望ましい。

 『よい教育とは何か』(白澤社)というタイトルは,原著を直訳すれば『測定時代のよい教育』となる。

 エビデンスを示すための『測定』結果が,教育の世界ではどれだけ一面的であるかは,はるか昔から日本では承認され続けてきたことだった。
 
 それを世界ではわざわざ批判的に扱わざるを得ないほど,『測定時代』に突入しているわけである。

 その『測定世界』に日本が入ろうとしている。

 中央の人が喜ぶような本は,翻訳が非常に読みにくい。

 本当に心から賛同している人が訳す本は読みやすい。

 専門書ではあるが,短時間に読めて内容が理解できたのは,訳者のおかげである。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より