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2019年11月

「総合的な学習の時間」の指導ができるように教育できるのはだれか

 教員を養成しているのは「大学」であるはず。

 小中学校での「総合的な学習の時間」,高校での「総合的な探究の時間」で,どのようなことをすればよいのかがわかるような教育が受けられるのが「大学」だと思っていたのだが,そうではないようだ。

 「大学」に入ってから「学び方」の教育を受けるところが多いようだが,「学び方」がわかっているかどうかを入試科目に入れたらどうだろうか。何だか時間の無駄を強制されているような気もする。大学教員はみんな思っていることだろう。

 教員免許を取得するのに必要な「ナントカ教育法」という単位があるが,これがどれくらい学校現場で生かされているか,だれがどのように検証できるのだろう。

 「総合的な学習(探究)の時間の指導法」を指導できる能力とは,どのようなものなのか。

 ごく一部の分野の専門性しか持っていない大学の教員に,「教科横断型の学習の目標と指導の一体化」の意味や意義がわかるだろうか?

 取得しなければならない単位が増大することで,ますます教員ばなれに拍車がかかるのだろうか。

 そもそも現場の「総合」の実態を放置したまま,限られた「充実した総合の学び」の実例をかじった程度の学生が現場に入ったところで,「ああ,こうやって楽すればいいのか」「自分の小中高でもこんな感じだったな」で終わってしまうのがオチだろう。

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教員いじめから何を見るか

 学校では,ときに「想定外」のレベルの問題が起こることがある。

 

 神戸の小学校の「教員いじめ」には,唖然とするばかりである。

 

 職員旅行などでは,はめをはずして「遊び」に夢中になってしまう教員が昔はよくいたのではないか。

 

 今ではヒマな学校の中で,弱い立場の同僚をいじめるという「遊び」が行われる。

 

 昔から私が使っている言葉で説明すれば,「公共空間」の「私共(わたくしども)」化である。

 

 小学校は昔から教室が「私共(わたくしども)空間」であり,マンションの部屋ごとに教室があるとイメージすればわかりやすい。

 

 教室の壁をなくすことで「公共空間化」する試みがなされているが,壁のないマンションの部屋に住みたいと思う人はいないだろう。

 

 教室を私物化できるから,悪ふざけをしても「何が悪いのか」と開き直れる。

 

 私は中学校の教員だから,関係者の中学校時代の様子を知りたい。

 

 小学校教員は,社会では「偏差値が低い大学を出て・・・」とバカにされる。

 

 「教員採用試験の倍率1.1倍なんて,信じられない」と危惧される。

 

 教員自身も「英語ができないから小学校の教員になった」と明かしたりする。

 

 「英語なんか,教えられるわけがない」とみんなが思っている。

 

 教育の世界に「指導力」が求められる時代は終わりを迎えた,とある大学教授が言っている。

 

 教育の世界には,もはや「信用失墜行為」はないという見方もある。

 

 すでに「信用」などないからだと。

 

 「田舎ではそんな問題は起こるわけがない」という反発もあるだろう。

 

 外野からの声に学校現場はいちいち反発しているヒマはない。

 

 おそらく教育委員会に問題を分析・解決する能力はないし,増してや文科省にそれを期待するのは酷である。

 

 明らかに誤った制度,整っていない条件のもとでも,教育は行われなければならない。

 

 指導力不足を自覚できる多くの教員たちも,辞めるわけにはいかない。

 

 今は,歴史上でも最も「管理職」が果たすべき役割が大きくなっている。

 

 その「管理職」も人材不足で試験の低倍率に悩んでいる自治体もあるが,学校現場としては事務係長や事務課長が校長を兼任するような時代を望んでいないだろう。

 

 教育の世界は,問題の解決方法を探り,見つかったとしても,解決の実現まで何年もかかる場所である。

 

 だからこそ,常に「創造」を続けなければならない。

 

 「創造」は,「新しいこと」だけとは限らない。

 

 「学校は,何をつくることができる場所か?」を考えていく場が求められている。

 

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より