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教員になりたての人がすぐ辞める理由

 教員養成系大学は,教員になって必要なことをほとんど教えていない,と揶揄されます。

 一部の大学は,教員採用試験の予備校だと。

 何も知らない人が,わずかな教育実習の期間に学んだことをベースに,現場に入っても,戸惑うだけだと。

 これらはすべて,見当違いかもしれません。

 教員としての資質・能力は,いつ育つのか。

 優秀な教員の子ども時代をリサーチした人はいるでしょうか。

 教員というのは,他のほとんどの職業と違って,自分が子どものときにいた場所で仕事をする人,子どものときに,やがて自分がつく職業の人をずっと見ていた人である,という特徴があります。

 教員に向くか向かないか,教員になった後,続けられるかどうかは,すべて自分がどういう学校生活を送ってきたかにかかわるような気がしています。

 もちろん,教員が辞めるとき,その理由を後付けでいろいろ語るのは簡単です。

 本当のことはもしかしたら本人にもわからないかもしれない。

 ただ,「知識がない」ことが理由ではない,というのが私の考えです。

 教員養成にかかわるセンセイが,掲示物の貼り方の例を挙げていましたが,そんなものは子ども時代に学んで知っていて当然の話です。

 どういう教員に子ども時代に習ったか,子ども時代にどういう経験を学校でしたのかが,自分の教員生活に非常に大きな影響力をもっている,・・・というのは,当然の話なのではないですか。

 他者への依存型で生きてきた教員は,同じような依存を期待して自滅することがあるでしょう。

 自分が寝ていた授業の記憶しかない人に,子どもを眠らせない授業はできるのでしょうか。

 もちろん,教員には「反面教師」という機能が果たせる特殊な環境が用意されています。

 本当に頼りなさそうな担任のクラスが一致団結,まとまってしまったり。

 小学校と違って,中学校にもなると,「将来の教員モデルのサンプル」をたくさん見ることができます。

 辞める前に,自分は,お世話になった教員のうち,どのようなタイプの教員なのか,考えてみてほしいです。

 多くの人は,教員の強烈な劣化を気がかりにしていますが,教員の立場ならば,他人事ではありません。

 自分の分身が辞めていく姿を見て,何を考えるのかも大切なことでしょう。

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コメント

哀れんでいただいてありがたいです。

教育の仕事で,教員が「満足する」ってどういうことでしょう。

人の生き方は,「満足する」ことが重要なのでしょうか。

私が教えている社会科という教科の特性かもしれませんが,すべての人間が「満足いくようにする」ことがどれだけ困難なことかに子どもたちが気づいていきます。

「正解」を求める人が増えている中,「満足できる」状況より「満足できない」状況が今後増え続けます。

そういう社会では恐らく人を騙すことで「満足できる」人が増えてくるでしょう。

自滅した後,いかに立て直せるかを想定した生き方が求められています。

同じようなことを考えて近しいものを感じました。僕はまだ35歳。10年間しか教員として働いていません。が、その間に何度も学級崩壊クラスを立て直し、今では学年主任、その他校務分掌でも重要なポストを担っています。
そんな今、去来するのは虚無感。
僕以上にセンスのある教員と今まで出会えなかったことが最大の不幸かもしれません。心技体の心を磨き損ねました。
虚しい。

今はこのノウハウ、思考を生かし、起業するために準備中です。年商1億を目指します。

ブログにこそこそ匿名で書いてて満足ですか?


あなたはいい!
あなたが欲しい!

年下の俺の部下にならないか?

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より