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2019年1月

教員になりたての人がすぐ辞める理由

 教員養成系大学は,教員になって必要なことをほとんど教えていない,と揶揄されます。

 一部の大学は,教員採用試験の予備校だと。

 何も知らない人が,わずかな教育実習の期間に学んだことをベースに,現場に入っても,戸惑うだけだと。

 これらはすべて,見当違いかもしれません。

 教員としての資質・能力は,いつ育つのか。

 優秀な教員の子ども時代をリサーチした人はいるでしょうか。

 教員というのは,他のほとんどの職業と違って,自分が子どものときにいた場所で仕事をする人,子どものときに,やがて自分がつく職業の人をずっと見ていた人である,という特徴があります。

 教員に向くか向かないか,教員になった後,続けられるかどうかは,すべて自分がどういう学校生活を送ってきたかにかかわるような気がしています。

 もちろん,教員が辞めるとき,その理由を後付けでいろいろ語るのは簡単です。

 本当のことはもしかしたら本人にもわからないかもしれない。

 ただ,「知識がない」ことが理由ではない,というのが私の考えです。

 教員養成にかかわるセンセイが,掲示物の貼り方の例を挙げていましたが,そんなものは子ども時代に学んで知っていて当然の話です。

 どういう教員に子ども時代に習ったか,子ども時代にどういう経験を学校でしたのかが,自分の教員生活に非常に大きな影響力をもっている,・・・というのは,当然の話なのではないですか。

 他者への依存型で生きてきた教員は,同じような依存を期待して自滅することがあるでしょう。

 自分が寝ていた授業の記憶しかない人に,子どもを眠らせない授業はできるのでしょうか。

 もちろん,教員には「反面教師」という機能が果たせる特殊な環境が用意されています。

 本当に頼りなさそうな担任のクラスが一致団結,まとまってしまったり。

 小学校と違って,中学校にもなると,「将来の教員モデルのサンプル」をたくさん見ることができます。

 辞める前に,自分は,お世話になった教員のうち,どのようなタイプの教員なのか,考えてみてほしいです。

 多くの人は,教員の強烈な劣化を気がかりにしていますが,教員の立場ならば,他人事ではありません。

 自分の分身が辞めていく姿を見て,何を考えるのかも大切なことでしょう。

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教育は「願ったもの勝ち」「言ったもの勝ち」ではない

 変化の激しいこの世界,数十年後がどうなるかなんて,絶対にわかりません。

 危機を煽っている人間たちは,たいてい,危機とは縁遠いシェルターの中にいる傍観者です。

 電話による高齢者への詐欺と同じとは言いませんが,見える構図は同じです。

 人間の心理をいじります。どういじったら,どんな効果があるか,なんていう嫌らしい実験が大好きな人たちのおかげで,詐欺の手口も非常に巧妙化しているそうです。

 大変なことになるぞ。仕事がなくなるぞ。だから今,こんな教育が必要なんだ,と言って「売りモノ」を提示する。

 はい,これを買って読めば,こうなる。こういう本が精神安定剤代わりになる教員はいるでしょう。

 ただ,読んでも意味がわからないか,思い通りにならない教員が普通でしょう。

 教育の場合,実際のコミュニケーションに占める「文字」や「言葉」の割合は,とても小さかったりします。

 当たり前のことをいちいち言葉で言うロボットのような教員に子どもはついてこないのです。

 硬直化した学校制度と頭の固い管理職のせいで「学校がつまらない」「子どもに愛情がわかない」なんていう人,それは,制度や他人のせいではありません。あなたの問題です・・・ってどっかのポスターにありましたね。

 繰り返しますが,数十年後の話は,だれにもわかりません。

 相手はすでにこの世にいません。数十年後まで覚えていて「あれ?おかしいな?」と思うような人もいないでしょう。

 45分ごとに楽園ごっこをしている子どもたちが,幸せになれないわけではないのです。

 45分ずっとノートに落書きをしている子どもが,優れたアーチストになる可能性もあるのです。

 こういう「願い」があらゆるものを逸脱・超越していく図式は,全く戦時中の軍部そっくりです。革命運動真っ盛りの「同志」集団そっくりです。

 「言ったモノ勝ち」です。しかも声を大きくして。ヒトラーの演説とセットで視聴してみたらいかがでしょう。

 この手の教員が近くにいると,恐らく周囲はものすごいストレスを感じるでしょう。だから飲んで憂さ晴らし,の繰り返し。

 私は子どもと教員が気の毒でなりません。

 恐らく冷静に周囲から眺めてみれば,1人を救うために他が全滅するような事態も起こりうるでしょう。

 再度大きな震災があったときなどは,目も当てられない状況になるかもしれません。

 何しろ,「一人も見捨ててはいけない」のですからね。

 ドラマとしては,その方が心を打つのでよいのかもしれません。

 空想ですましておくべきです。

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「一人も見捨てない」は罪な要求である

 「一人も見捨てない」という教師から子どもへの要求を,子どもはどう受け止めるべきなのだろうか。

 もし従わない,という選択肢をとったら,「弱い立場の人間を見捨てることは,よいことか?」などといじわるな質問をされる。「お前は道徳的に問題のある人間だ」とレッテルを貼られてしまう。だから強制されるしかない言葉となる。

 「見捨てられてきた側」からすると,「一人も(自分も)見捨てられない」という状況は喜ばしいものだろうか。そういう体験をしたことがある私は,必ずしもありがたいものとは言えないと考える。いわゆる「ありがた迷惑」な状況がたくさん生まれるから。

 たとえば授業でわからないところがあると,よってたかって「教え」にくる。何しろ,できない子どもを「見捨ててはいけない」のだから。いろいろ「親切」にされて,「それでもわからない」のだが,「わからない」とは言いにくい状況になり,つい「わかった」と言ってしまう。テストのときに,ウソをついていたことがいちいちばれてしまう。

 「一人も見捨てない」という要求の問題を子どもにする教師の立場から考えてみる。 

 「子どもの扱い」が上手い教師なら,「一人も見捨てない」ことへの不満を封じ込めることが可能かもしれないが,「優秀な教師」=「子どもを騙すのが上手な教師」という評価が定着しそうでおそろしい。

 外国人の割合が高い一部の学校に限らず,「一人も見捨てない」という「強い」使命を小学生に課すのは,非常に重い要求であると言わざるを得ない。

 すぐに思い浮かべられるのは,戦時中の「玉砕」である。以前も「一人も見捨てない」という方針は「全滅」につながる危険な思想である,という趣旨のことを,震災における避難行動を例に強く訴えたが,今回は「大人の勝手な理屈への服従」という点から,益よりも害があることを述べておきたい。

 実際の授業では,「7・5・3(小中高での満足に学修を終えた児童生徒の割合)」と言われるように,決してすべての子どもが「最低限」の知識・技能すら習得できないまま,はじかれることのないエスカレーターに乗って進級していく。

 日本が「落第あり」に舵を切るのは,相当に無理があることだろう。

 不登校などによって学習ができず,学力がつかない子どもを「進級させるのが気の毒」と考える欧米と違って,「進級させないなんて可哀想」「進級させないなんて,あり得ない」と考える日本の溝は簡単には埋まるまい。

 現状としては,日本の大人は明らかに子どもを「見捨てている」のである。授業を「優秀な子どもに教えさせる」という方針は,「子どもに見捨てさせる」という責任転嫁にすぎない。学力の定着という,教師が実現できない問題をうやむやにしたまま,子どもたちにはひたすら「一人も見捨てるな」と要求するような大人が近くに居続けることは,結局は大人になれば無責任がまかり通る世の中にしてよいということを教えているようなものである。

 私有財産制の廃止など,共産主義思想として植え付けることを宣言しているというのなら,とてもわかりやすい。

 悲観的な私は,「実験」の結果を知るのは決して「楽しい」ことではないが,「過去の失敗をすべて理解した上で実践しても,なぜ失敗し続けるのか」という理由をしっかり認識してもらうことは,大事なことだろう。

 「一人も見捨てない」という「信念」は大事だが,それを「手段」として使うことが,最大の問題なのだ。

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列で並ぶこと自体が好きな?日本人

 あけましておめでとうございます。

 新年にも書きたいことがいくつもあったのですが,ネタ的に少しふさわしくないかなと考えて,結局「列」の話になりました。

 「列に並ぶ」という言葉を聞いて,思い浮かぶものを考えてもらうと,小さい子ならディズニーランド,一定の年齢を超えると有名な店の順番待ちといったところが上位に来るでしょうか。

 今年も当たり前のように,福袋を買うための長い行列ができています。

 日本以外で似たような光景が見られる国は,どのくらいあるのでしょう。

 そして,いつまで日本人は「蟻」のような習性を持ち続けるのでしょうか。

 以前も書いたことがある内容ですが,ある万博で,私は友達と一緒に列に並ばずにすいすいと展示場に入れるという経験をしました。時代が時代だからでしょうか。その友達とは,万博に協力している企業の経営者に近い人の子どもでした。障害者優先レーンを通って,2時間,3時間待ちの人たちとは別に,展示を楽しめたのです。

 人間は,一度そういう「優先権」を体験すると,「おいしさ」に慣れるというか,「つらさ」に耐えきれなくなるものでしょうか。また,「感動」というものも,失われていく傾向にあるのでしょうか。

 万博会場では,罪悪感もありましたが,展示が特に素晴しかったという印象もありませんでした。

 何かにじっと耐えて,耐えさえすれば必ず手にすることができるような経験を,多くの人は大切にしてきたと思います。

 しかし,これからは,待っているだけでどうにかなる,という社会ではなくなっていくように思います。

 それでも日本人は待つことが可能なのか。

 それとも,列に割り込むのが当然という人たちが増えるのか。

 学校現場にいて,年配の人たちが抱いている危惧は,わからないでもありません。

 だから,「道徳の教科化」という方針も,全く理解できないわけではないのです。

 しかし,少し考えるだけで,そんなことをしても未来に何の保証も得られないことはわかるはずです。

 「美徳」と「愚鈍」の差が,行動をただ美化したい人,自己満足したい人,人に強制させたい人にとっては,ほとんどゼロに近いということを忘れてはいけません。

 ただ黙ってセンセイの話を聞き,センセイが想定する答えを気に入られるように答えてきた人間が,どうなっているか,わからない人はいないでしょう。

 ただ大人しく列に並んで行儀良くしていることで,満足できる国民が作られ続けたとして,その先に待っているものは何なのでしょう?

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より