電子黒板が使い物にならないことを知っていた人たち
電子黒板や電子教科書など,学校現場で使い物にならなそうなものはたくさんある。
学校ほど,「ハイテク」が機能しない場所はない。
地方の国立大学に行くと,本当に困る。HDMIの端子がない。私立の大学なら,大丈夫か?というと,学生が使う机には携帯やパソコンを充電するためのコンセントがあるが,プロジェクターも古いし,操作性がよくない。
大学の大教室や学校の講堂のようなところならまだしも,40人しか入らない教室では,65型のテレビ1台あれば,十分である。どこのメーカーか知らないが,価格が10万円くらいだった。
タブレットを子どもに持たせるのはいいが,いつでもどこでも充電できる環境がなければ,6時間授業はもたない。
iPadでもぎりぎりになることがある。
これまで,とんでもないコストがかかるわりには,ほとんど死んでいたものはどれだけあったか。
何も知らない人は,各学校に1台電子黒板があれば,それでいい,と考えてしまったりもする。
1人しか使えないものは,結局,だれも使えずに終わることになる。
電子黒板を使った教室と,使っていない教室での学習状況にそれほど違いがないのであれば,入れる意味はない。全教室への導入という目標が立っていないのは,効果が聞こえてこないからだろう。あれば邪魔になる,という声にもきちんと耳を傾けなければならない。
私は,専門家でありながら,ICTにかかわる機器やソフトが現場にしっかりと定着し,効果がきっちりと出ることを読めなかった人を信用すべきではないと考える。というか,それがわかる専門家なら,もっと別の仕事をしているに違いない。
使えもしないのに機器ばかり導入しようとする人はいないだろうか。
学校以外のところで生徒が個人的に活用するのは自由である。動画サイト漬けになって学習に身が入らないようになるのも,すべて買い与えた人間の責任である。
そろそろ,「本物」と「本物っぽいけど,残念なもの」の区別をしっかりとすべきではないか。
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