偶然の重なりと緻密な演出~インスタレーションから受けた刺激
ネタバレを避けるために,どこのどのような美術館であるかは伏せておくことにする。
ある施設を見学する目的で,その美術館を訪れたのは昨日のこと。
特別な趣向の企画展が開かれており,私は多くのことを学ぶこととなった。
日常の中で,いかに多くの大切な変化を見落としてきたか。
施設の方に関心があった私は,せっかくの美術展示のいいところを見落としたまま,その場を去りかけていた。
空間にただならぬ「気配」を感じることはできたものの,「仕掛け」には気づかなかった。
そこへある仕掛けを管理されている方に声をかけていただき,「その瞬間」を待ち,見届けることができた。
作品が,1日,1日,変化する。2か月後,3か月後には,どうなっているのだろう。そんな期待をもって,再び美術館を訪れる人のための割引制度が用意されている。
古寺めぐりには興味があっても,美術館めぐりを趣味とした経験がない私にとって,今回の企画展はとてもよい刺激となった。
今,私はとても苦しい立場にある。
「あり得ないことが起こる」といった経験を立て続けにしている私にとって,もはや悪夢から抜け出す方法は一つしかないとあきらめかけている。出口のない迷いの感覚に,完全に疲弊している。
2005年から続けているこのブログの終着点が見えてきたようだ。
無限の可能性を子どもには期待できるのだが,大人はダメなのだ。
子どもに夢を持たせることができないとあきらめるようなことになったら,教師などやっている資格もなくなる。
まだかろうじて,子どもたちには多くの期待を寄せることができている。
しかし,大人は厳しい。
病院にたとえれば,学校は無数の子どもの死体を作り続けていることになる。
重病で苦しんでいる子どもが放置されているか,さらに虐待を受けている。
死ぬべき人間が生き存え,生きるべき人間が死んでいく。
美術館で落ちてくる桜の花びらに感じたのは,果てしない後悔の念であった。
そして今日は,優れたリーダーシップでメンバーをまとめている校長先生に招かれて,「授業づくり」の研究成果を発表することができた。参加された先生方の表情は,真剣そのものだった。
私は「中央」の人間の扱いを受けていたが,正直申し上げて私は「中央」を見限った人間である。その経緯も簡単に申し上げた。理由が具体的であるので,相当説得力は高かったようだ。
反旗を翻すか,もう少し様子を見るか。
これから起こることを,すべて偶然の産物であるかのように思わせるための緻密な演出が必要となる。
インスタレーションからもらったアイデアを生かしたい。
大人たちの多くは見過ごすことになるのだろうが,子どもたちはきっと気づいてくれるだろう。
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