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改正教育基本法第16条の問題点

 教育基本法の第三章「教育行政」の規定が,

教育は,不当な支配に服することなく,国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである。(改正前の教育基本法第10条)

から,

教育は,不当な支配に服することなく,この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものであり,・・・

へと書き換えられている。

 第16条 2項には,

国は,全国的な教育の機会均等と教育水準の維持向上を図るため,教育に関する施策を総合的に策定し,実施しなければならない。

とあるため,現在実施中の全国学力調査は,旭川学力テスト事件のときよりも,さらに「合法」らしさが増している。

 授業を行わず,「調査」=テストによって「教育水準の維持向上が図れる」という発想の裏には,「自治体ごとに競争させて,テスト対策を頑張らせる」という意図が見えるわけだが,学校の教育課程に「調査」の日を位置付けなければならないことは,「不当」とまでは言えないかもしれないが,立派な「支配」になっていることには間違いがない。

 改めて,旭川学力テストの判決文を読むと,いいことも書いてある。下線部に注目。

>子どもの教育が、教師と子どもとの間の直接の人格的接触を通じ、子どもの性に応じて弾力的に行われなければならず、そこに教師の自由な創意と工夫の余地が要請されることは原判決の説くとおりである

>また、教基法が前述のように戦前における教育に対する過度の国家的介入、統制に対する反省から生まれたものであることに照らせば、同法一〇条が教育に対する権力的介入、特に行政権力によるそれを警戒し、これに対して抑制的態度を表明したものと解することは、それなりの合理性を有する

 あれ?と思うかもしれない。それでは「違法」なのでは?と。残念な続きがある。

>けれども、このことから、教育内容に対する行政の権力的介入が一切排除されているものであるとの結論を導き出すことは、早計である。さきにも述べたように、憲法上、国は、適切な教育政策を樹立、実施する権能を有し、国会は、国の立法機関として、教育の内容及び方法についても、法律により、直接に又は行政機関に授権して必要かつ合理的な規制を施す権限を有するのみならず、子どもの利益のため又は子どもの成長に対する社会公共の利益のためにそのような規制を施すことが要請される場合もありうるのであり、国会が教基法においてこのような権限の行使を自己限定したものと解すべき根拠はない。(以上の判決文は,裁判所のHPの判例文より引用)

 改正前の教育基本法でも,「不当な支配と言われない程度の介入はいくらでも行える」という解釈で,「国民全体への責任」としてしまうと,反対意見を言う人間がたくさん出てきてしまうためか,改正教育基本法では「法律次第でいくらでもふくらませることができる」状態にした,ということだろうか。怖い話である。

 前川喜平氏の『面従腹背』(毎日新聞出版)で紹介されていた話だった。

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  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
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