「深い学び」を語る滑稽さ
「深い学び」について語るのは恐ろしい。
語れば語るほど,「深くない」ことがバレてしまうからである。
今日,聴かなければならなかった講演では,わざわざ聴くまでもないことが繰り返し語られていただけで,90分のうち,価値があったのは事例が紹介された10分くらいだった。
この90分がまるっきり「深くない学び」になってしまった最大の理由は,今までの教育に「深み」がないことにある。
主張には,事実と論拠が必要である。同じ事実をもとに反駁してくる他者の存在も大事だ。
こんな当たり前のことすらできず,「練習」させられる大学生がいる。
講演の前に行われていた教科の協議会で,私は参会者に「重い現実」を突きつけた。
「他人事」ではないことがわかる「事実」を突きつけることが,人間を覚醒させるためには最も効果的である。
しがらみやプライド,法令遵守の精神,善意,同調性で固まった教員よりも,子どもたちの方が優れた現実を見るを持っているかもしれない。このことの自覚を抜きにして,社会科の授業などできない。
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