アクティブ・ラーニングの大切さを,大量の字で埋め尽くされたプレゼン画面を出しながら,一方的に説明し続ける人の神経を私は理解できない。何をすれば「任務を果たしたことになる」のかは,よくわかっていると思われるが,そもそも「任務」が発生した意味はわかっていないに違いない。
一方で,自分の話は面白い,内容が濃い,意味がある,とうぬぼれている人間もいる。調子に乗って映像を垂れ流していたりもするが,なぜ自分の顔を出すのかが理解できない。情報は一方通行なので,聞いている方が画面を隠して音声だけを聞く心境になることは伝わらない。そもそも全身から「聞く耳を持たない」オーラを発している「裸の王様」にはかけるべき言葉が見当たらない。
話の楽しさ,面白さ,分かりやすさの根源は,LIVEであることに尽きる。
授業も同じである。
どんなに授業力のない人の実践でも,LIVEだからこその「良さ」がある。
たったこれだけのことが理解できない人がいることが不思議である。
私は大学時代に藤岡信勝先生の授業を受けていたが,「ストップモーション」といって研究授業の映像をときどき止めたり巻き戻して繰り返し聞いたりして,教師の発問や板書,子どもの発言や教師とのやりとりを分析する手法を紹介していた。とても立派な研究の手法であることは認めるが,時間を相当にもてあましている人にしかできないと思った。そして,録画では残されていない「空気感」がそこにはないことが,最大の問題点だと思っていた。
そもそも子どもの発言が乏しい授業を分析するのは時間の無駄だし,いちいち子どもの発言に面白いツッコミを考えて授業を盛り上げていこうとしたら,50分では終わらなくなってしまう。
最近は,子どもが常にタブレットを持ち歩き,他の子どもたちとのやりとりを全部録音し,移動や時間も含めて全員のデータを集積して,AIによる適切な「動き方」「学び方」を子どもに指示する仕組みをつくりたい,という人まで現れているようだ。子どもがAIに支配される時代を望んでいるらしい。そのうち,試験もカンニングを奨励する時代が来るのだろう。競争相手の企業かどこかに反例を用意しておいてもらって,一瞬で潰してもらいたい仕事である。
「達人」「名人」の技を盗むことを目的として,研究授業に参加する人も多いのだろう。
本で読んだり,DVDで授業の様子を見たりしても,「よいところ」があまり見つからないからに違いない。
そして,本物を見ても気づけない人も多いはずである。
原因は簡単な話で,「達人」「名人」の目線で授業を見ていないからだ。
「達人」をいくら眺めていても,その技には気づけない。
「達人と同じ視線」を子どもに投げかけられるようにならなければ,何も前には進まない。
だから授業は後ろからではなく,前から観察するものである。
子どもを正面から撮影し続けるVTRなど売ることはできないから,LIVEの公開授業に出るしかない。
教師の意識は,面白い授業,分かりやすい授業をする,というよりも,
子どもたちが面白がっていたり,よく理解して納得できた知識をその場で活用して何かと結びつけてかえしてきてくれることを楽しむのが授業である。もちろん,この姿は子ども同士でも生まれることがあるが,冒頭のプレゼンと似たようなことをする子どもが多いのも事実である。だから授業は教師が責任をもってコントロールする必要がある。
映像の話し手には,子どもたちの「ツッコミ」は届かない。
子どもからの「ツッコミ」をただの授業妨害としてしか受け止められなかったセンセイには,LIVEでないとダメな理由は逆立ちしてもわからないのだろう。
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