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教育者ではなくなった人間たち

 教育現場のことが全く分からない事務方に,机上の空論でいい加減な政策を立案されるのも困ったことだが,自意識過剰の教員経験者が勝手なことを言ったり書いたりしていることにも心が痛む。

 地方の小さい都市では,教員の経験者が教育長に就任するところも多いのだろう。

 ある市の教育長が,いじめ自殺の遺族に対して「お前」と呼んだという記事を見て,目を疑った。

 そして,教育長と遺族である父親の関係が,教員と教え子だったという事情を読み,なるほどと納得した。
 
 いじめで苦しむ子どもの周りにいるのは,今の法律で決められた「いじめ」など,いじめとは言えないと考えている大人や子どもたちである。

 教員時代の感覚というのは,教員をやめてからも体にしみついてとれないのだろう。

 子どもを失った親も,「子ども」にしか見えないのか,自分以外は全部「お前」なのか,それとも愛情を込めて「お前」と言ったのか,よくわからないが,小学校の教員には特に理解しておいてほしいことがある。

 子どもたちは自分だけで育てたわけではない。

 子どもを利用している教員,利用した教員,「お前たち」の自己満足と自己顕示欲の犠牲になった子どもを救っているのはだれだ?

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より