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「自由の檻」の中で「情報の繭」に閉じこもる大学のセンセイたち

 大学という狭い世界での「政治」を語れる人はいても,それは「世の中」とはほとんど無縁の話である。

 意見の異なる人々との情報交換を拒絶することが自分にとって「得」である,という感覚はよく理解できるが,「それではダメだ」という「世の中」の常識も知っておいてほしい。

 自分の子分たちや,自分と同じようなものを目指している人ばかりとコミュニケーションしている人間を,「自由の檻の中にいる」として批判できる「有識者」が近くにいてほしいものである。

 『#リパブリック』(勁草書房)の書評で橋本努教授が述べている。

自分の好みに合わせて情報環境を作る「情報の繭(コクーン)」社会は,危険である。

 自分とは異なる意見に耳を傾けたり,討議したいと願う「市民」を日本の教育は作ってこなかった。

 だから,「村」の人間たちがますます「村」の中に閉じこもっていく,という現象が目立っている。

 「檻の中での学び合い」をやめさせる一番よい方法は何だろうか?

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より