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なぜ学習指導要領が「小学校寄り」になるのか?

 学習指導要領は,総則や道徳を見ればよくわかるが,小学校のものをベースに,中学校向けに援用されている。

 全教科の指導と評価を行わなければならない小学校の教員と,専門とする教科の指導と評価を行う中学校の教員の違いがある(だから免許も別々になっている)のにもかかわらず,「義務教育」という同じ枠内(進学率が高く,無償化された高校も日本では実質的には「義務教育」のようなものであるが)で学習指導要領がつくられるため,重点の置き場が異なるはずなのに,小学校向けの言葉が義務教育全体にわたって発せられる状況にある。

 これによる弊害はいたるところにある。

 巷に溢れている教育関係書の多くは小学校向けである。それなのに,書籍紹介にも「小学校向けですよ」という断り書きが一切ない本が多く,迷惑を被っている。内容がお粗末な本もあるが,もちろん中学校教師が呼んで参考になる本もある。だが,たいていは子どもたちを商品化のために利用しただけの,自己満足の産物でしかない。「個人名が書名につく」という醜悪さだけは何とかしてほしい。小学校は「個人タクシー」の営業所みたいなところである。乗り物の見た目が同じだけで,行き先はバラバラである。

 中学校では,授業でノートをとるにしても,試験のための準備をするにしても,行事を運営するにしても,自分たちがきちんと判断して動かなければ,何も前に進めない,という活動が急に多くなるから,そういう習慣のない小学校から進学した子どもたちは最初,路頭に迷うことになる。

 最近,文科省の若手の事務方に確認できたことだが,中学校の「特別活動」が年35時間で足りるわけがないことの認識は,はっきりと持っているようである。道徳の教科化など行わず,特別活動等との関連性を認めながら,特別活動の時間が35時間をはるかに上回ることができるように学習指導要領の弾力化を図ることが,文科省の仕事であるが,実際には現場の中学校がしっかりと「カリキュラム・マネジメント」している。もちろん,違法天下りのときに文科省がつくっていたマニュアルと同じように,現場も「実際の内容」ではなく「正しいとされる内容」に改変して報告しているのである。

 運動会,文化祭,部活動が大きなところだが,学校によっては,学級活動から学年で行う宿泊行事や遠足なども生徒が中心になって活動できるようにしている。

 主体的・対話的で多くの生きるための知恵が学べる活動に振り向けたい時間は,小学校と違い,中学校には山のようにあるのである。

 小学校では,担任教員だけしっかりしていれば,どうにかなる。

 もちろん行事で「練習させられる」のは子どもたちだが,たとえば毎週対外試合で実力のアップやチームの連帯感を高めるような環境は小学校にはない。

 こういう事情で,小学校では教科の授業での「主体的・対話的で深い学び」が必要になってくるため,無理矢理感の否めない「話し合い活動」を増やしたりして,ドツボにはまり,数値ですぐにばれてしまう学力不足を解消するために,たとえば学力調査のための練習問題を宿題にするなどの「家庭学習の押しつけ」が増えてくる。

 ときどき,「あんなに生き生きとしていた小学生が,どうして中学校に入っておとなしくなってしまうのか」という感想をもらす小学校教員がいるが,それは教科の特定の授業だけを見ているからである。小学校の教員は,放課後のまだ勤務時間が残っているうちでよいので,中学校の部活動を見学してみてはどうか。文化祭や運動家の準備の場面を見てみたらどうか。小学校では想像もつかないような,教科ごとの専門的な内容を自分の言葉で発表する時間の授業を見学してみたらどうか。どうして「小学校では見られなかった生き生きとした姿」を探そうとしないのかが不思議である。

 もちろん,極小規模化している中学校に活気がないのは当たり前である。少子化が進み,危険回避・安全最優先の弱気経営者の増加により,「運動会が盛り上がる」学校は,どんどん減少している。小学校の「延長」にしなからないと危惧されている「義務教育学校」に移行する学校の多くは,生徒数が大きく減少したのに,学校間の距離が長すぎたり,交通機関が確保できない地域で誕生する。こういう小中一貫校で学んだ生徒が,大きな都市部の中学校の教員になって初めてわかることはたくさんあるだろう。そして,何が望ましい教育環境なのかを痛感するに違いない。
 
 学校の統廃合が進まなければ,今後ますます,「小学校の学習指導要領を3年間延長する」だけで成り立ってしまう義務教育の学校が増えていく。

 文部科学省や大学の教育学部には,中等教育,特に中学校教育の専門家がほしい。

 日本の教育を改革するには,免許の違いにきちんと正対して,初等教育と中等教育を完全に切り離す発想が必要である。

 今後,中高一貫教育の成果が伸び,小中一貫教育の弊害が拡大すれば,文科省の「初等中等教育局」を「初等教育局」と「中等教育局」に分離する意義が増してくるはずである。

 学校の極小規模化を前提にした政策は,「学校は必要ない」という現実的な意味を持ち始めるようになるだろう。

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より